――だから、忘れていた。もう三ヵ月も前に、何気ない会話の中で軽く交わした約束なんて。
あたしはとっくに、忘れていた、のに。
気づけば、あたしは足を止めていた。
肩にかけたボストンバッグが、急にぐんと重さを増した気がした。
顔を上げると、川を照らしながら、夕陽がその向こうに沈もうとしていた。眩しさがしだいににじんで、夜の色が混じりはじめる。
それを待っていたはずなのに、なぜか、夜が近づくその色を見た途端、焦りが湧いた。
――じゃあ、明日な。
一時間ほど前に聞いた彼の声が、耳の奥によみがえる。同時に、漫画の話をしていたときの彼の楽しそうな笑顔や声も、いっきに流れ込んできた。
――明日貸すな。
あたしは忘れていた、三ヵ月も前の約束。あたしが読みたいと言っていた、その漫画。
彼は、覚えていてくれた。
そのことに、うれしいのか苦しいのかよくわからない感情が胸を突いて、ただ、瞼の裏が熱く痛む。
受け取りたい、と思った。彼からその漫画を借りて、読んで、また感想を語り合いたい。
そんな時間を積み重ねたところでなんの意味もないと、あたしは気づいたはずなのに。
それでも、あたしはそれが狂おしいほど好きなのも、どうしようもなく、本当だった。彼が楽しそうに笑って、あたしに自分の好きなものの話をしてくれる、その時間が。
ボストンバッグの肩紐がずるりとすべって、鈍い音を立てて地面に落ちた。
準備なら、できている。新聞紙も段ボールも、ペットボトルに詰めた灯油もマッチも、ぜんぶここに入っている。これを持って、あとはあの家へ向かうだけ。どうしたって手に入らないあたしの欲しいものを、手に入れるために。覚悟も決めた。
迷いなんてない、はずだったのに。
急に迷子になってしまったような気分で、あたしは立ちつくしていた。
足が動かない。あの家へ行きたいのに。
「……どうしよ」
途方に暮れた呟きが、ぽつんとこぼれたときだった。
ふいに、ポケットの中でスマホが震え出した。
どくん、と心臓が跳ねる。なぜかその瞬間、彼の顔が浮かんで。
急いでスマホを引っ張り出し、画面を見る。そこに表示されていた《お母さん》の文字にいっきに脱力すると同時に、そういえば彼はあたしの番号なんて知らないことを、おくれて思い出した。
なんだか力が抜けてその場に座り込みながら、あたしは電話に出ると、
「なに、お母さん」
『あっ、ちょっとあんた、今どこにいるの?』
聞こえてきたのは、思いがけず緊迫感を含んだ鋭い声だった。その声に、脱力した身体にはっと緊張が戻る。
まさか、今からあたしがしようとしていることがバレたのか。
咄嗟にそんな考えがよぎって、スマホを握る手に力を込めたとき、
『大変なの。先生の家が火事だって!』
「……え」
『ほら、あんたが仲良い、あの先生。県道沿いの白い家だって、前にあんたが教えてくれてたでしょ。あの家が、火事なんだって、今!』
興奮気味にまくし立てる母の声の向こうから、かすかに消防車のサイレンが聞こえてきた。
呆然としたまま電話を切ると、サイレンの音はこの場にも聞こえることに気づいた。
音のする方向へ目をやる。ここからでは彼の家は見えない。けれど夕焼けを押しのけ夜の気配が濃くなっている空に、黒い煙が立ちのぼっているのが見える。そしてその方向は――彼の家がある、場所だ。
混乱がいっきに押し寄せてきて、視界が歪む。
彼の家が火事?
わけがわからなかった。だって、
――あたしは、〝まだ〟燃やしていない。
だけど県道沿いの白い家、それはたしかに彼の家だ。あたしたちの家がわりと近いことがわかり、いっしょに帰ることになった日、彼が教えてくれた。それがうれしくて、あたしは意味もなく母にも教えていた。
気づけば、あたしは勢いよく立ち上がって地面を蹴っていた。
胸を埋めているのは、混乱と困惑と、息が詰まりそうなほどの焦燥だった。
行ってどうするのかなんてわからなかった。あたしがなにをしたいのかも。ただ、足は止まらなかった。
あたしはとっくに、忘れていた、のに。
気づけば、あたしは足を止めていた。
肩にかけたボストンバッグが、急にぐんと重さを増した気がした。
顔を上げると、川を照らしながら、夕陽がその向こうに沈もうとしていた。眩しさがしだいににじんで、夜の色が混じりはじめる。
それを待っていたはずなのに、なぜか、夜が近づくその色を見た途端、焦りが湧いた。
――じゃあ、明日な。
一時間ほど前に聞いた彼の声が、耳の奥によみがえる。同時に、漫画の話をしていたときの彼の楽しそうな笑顔や声も、いっきに流れ込んできた。
――明日貸すな。
あたしは忘れていた、三ヵ月も前の約束。あたしが読みたいと言っていた、その漫画。
彼は、覚えていてくれた。
そのことに、うれしいのか苦しいのかよくわからない感情が胸を突いて、ただ、瞼の裏が熱く痛む。
受け取りたい、と思った。彼からその漫画を借りて、読んで、また感想を語り合いたい。
そんな時間を積み重ねたところでなんの意味もないと、あたしは気づいたはずなのに。
それでも、あたしはそれが狂おしいほど好きなのも、どうしようもなく、本当だった。彼が楽しそうに笑って、あたしに自分の好きなものの話をしてくれる、その時間が。
ボストンバッグの肩紐がずるりとすべって、鈍い音を立てて地面に落ちた。
準備なら、できている。新聞紙も段ボールも、ペットボトルに詰めた灯油もマッチも、ぜんぶここに入っている。これを持って、あとはあの家へ向かうだけ。どうしたって手に入らないあたしの欲しいものを、手に入れるために。覚悟も決めた。
迷いなんてない、はずだったのに。
急に迷子になってしまったような気分で、あたしは立ちつくしていた。
足が動かない。あの家へ行きたいのに。
「……どうしよ」
途方に暮れた呟きが、ぽつんとこぼれたときだった。
ふいに、ポケットの中でスマホが震え出した。
どくん、と心臓が跳ねる。なぜかその瞬間、彼の顔が浮かんで。
急いでスマホを引っ張り出し、画面を見る。そこに表示されていた《お母さん》の文字にいっきに脱力すると同時に、そういえば彼はあたしの番号なんて知らないことを、おくれて思い出した。
なんだか力が抜けてその場に座り込みながら、あたしは電話に出ると、
「なに、お母さん」
『あっ、ちょっとあんた、今どこにいるの?』
聞こえてきたのは、思いがけず緊迫感を含んだ鋭い声だった。その声に、脱力した身体にはっと緊張が戻る。
まさか、今からあたしがしようとしていることがバレたのか。
咄嗟にそんな考えがよぎって、スマホを握る手に力を込めたとき、
『大変なの。先生の家が火事だって!』
「……え」
『ほら、あんたが仲良い、あの先生。県道沿いの白い家だって、前にあんたが教えてくれてたでしょ。あの家が、火事なんだって、今!』
興奮気味にまくし立てる母の声の向こうから、かすかに消防車のサイレンが聞こえてきた。
呆然としたまま電話を切ると、サイレンの音はこの場にも聞こえることに気づいた。
音のする方向へ目をやる。ここからでは彼の家は見えない。けれど夕焼けを押しのけ夜の気配が濃くなっている空に、黒い煙が立ちのぼっているのが見える。そしてその方向は――彼の家がある、場所だ。
混乱がいっきに押し寄せてきて、視界が歪む。
彼の家が火事?
わけがわからなかった。だって、
――あたしは、〝まだ〟燃やしていない。
だけど県道沿いの白い家、それはたしかに彼の家だ。あたしたちの家がわりと近いことがわかり、いっしょに帰ることになった日、彼が教えてくれた。それがうれしくて、あたしは意味もなく母にも教えていた。
気づけば、あたしは勢いよく立ち上がって地面を蹴っていた。
胸を埋めているのは、混乱と困惑と、息が詰まりそうなほどの焦燥だった。
行ってどうするのかなんてわからなかった。あたしがなにをしたいのかも。ただ、足は止まらなかった。