体育の授業が嫌で、お腹が痛いと嘘をつき、保健室に逃げていたときだった。
 全授業の中で、体育は群を抜いて苦痛だった。ペアや三人組を組まされる機会が多いのも、試合中どさくさに紛れて足を引っかけられたり、強いボールを投げつけられたり、物理的に痛い思いをすることが多いのも最悪だった。
 さいわい、体調不良を訴えれば、保健室へいくことはわりと簡単に許してもらえた。だからしだいに、体育はサボることが増えてきていた、その日。

 突然、彼があたしのいる保健室にやってきた。
 怪我をしたわけでも、具合が悪いわけでもなさそうだった。戸を開けるなり中を見渡した彼は、奥のソファに座るあたしの姿を見つけると、「お、いたいた」と呟いて、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
 下駄箱からあたしの靴が消えて、それを彼がいっしょに探してくれたあの日から。彼はちょくちょく、あたしに声をかけてくれるようになっていた。

「初瀬。これ、昨日言ってた漫画」
 あたしはてっきり、体育をサボっていることについてなにか言われるのだと思った。だからちょっと緊張して、近づいてくる彼を待っていたのだけれど、彼はそれについてはなにも触れなかった。ただにこりと笑って、右手に持っていた紙袋をあたしへ差し出すと、
「マジで面白いから。ぜひ読んでみて」
 あたしはぽかんとして、受け取った紙袋をのぞき込む。そこには、漫画本が三冊入っていた。昨日、たしかに彼と話していた漫画だった。
 昨日の昼休み、あたしが中庭のベンチでひとりお弁当を食べていたとき。そのときも、こんなふうに彼が突然やってきた。そうして当たり前のようにあたしの隣に座り、いっしょにお弁当を食べた。あたしに、他愛ない雑談を振りながら。
 その中で彼が最近ハマっている漫画について教えてくれて、あたしが興味を示すと、じゃあ今度貸すわ、と言っていた、その漫画。
 だけどあんなの、その場のノリで軽く口にしただけだと思っていた。本当に持ってきてくれるなんて、思っていなかった。

 あたしはあっけにとられて紙袋の中を眺めながら、
「……学校に、漫画、持ってきていいの」
「や、よくない。だから見つかんないようにな。体育の授業終わる前に、教室戻って隠しとけよ」
 いたずらっぽい口調で、彼はまったく教師らしからぬことを言って、また当然のようにあたしの隣に座る。
「せんせ、授業は?」
「今はなんもない。だから暇でさ、俺も次の授業までここにいよっかな。いいな、ここ、涼しくて」
 そう言った彼は、本当に、授業時間が終わるまでそこにいた。昨日と同じように、あたしの隣で、ずっと他愛ない話をしていた。
 どうしてサボっているのかとか、そんなことは一回も訊いてこなかった。ただ最近観た面白かった映画の話とか、今ハマっている漫画の話とかを、楽しそうにずっと喋っていた。

「漫画はいいぞ。なんていうか、世界が広がる。初瀬ももっと漫画読めよ」
「ふつう先生って、小説とか本読めって勧めない?」
「あー、俺、小説だめなんだよな。すぐ眠くなる。文字ばっかで目チカチカするし。漫画のほうがいいよ、絵もあって楽しいし」
「ほんと、せんせぇって先生らしからぬこと言うよね」
 その中で、『夕陽にさよなら』という漫画がとくによかった、と彼が言って、あたしは、それも読みたい、と言った。彼はうれしそうに、じゃあそれも貸す、と返したあとで、
「あ、でも今、友達に貸しちゃってるな。戻ってきたら貸すよ。ちょっと待っててな」
「そうなんだ、わかった」
「似たような漫画でもういっこオススメのやつあるから、明日はそっち持ってくる」
「え、ありがと」
 漫画を貸してもらえることより、今度とか明日とか、彼が当然のように次の機会を作ってくれることが、あたしはうれしかった。それが欲しくて、あたしは彼が面白かったと話す漫画を、ぜんぶ「読みたい」と言った。律儀な彼は、「じゃあそれも貸す」と言ってくれて、そして本当に、後日持ってきてくれた。

「これ、読んだ。面白かった。ラスト、熱かった」
「お、だろ! 熱いよなー。あれはやられる」
「黒幕も意外だったし。あたしてっきり、父親のほうだと思った」
「あー、たしかに。俺もあれは予想つかなかったな。びびったわ」
 借りた漫画を返すときに、そんなふうに感想を語り合って、そしてまた、新たな漫画を借りる。そんなやり取りが、ずっと続いた。彼は本当に漫画が好きなようで、いくら借りてもつきず、次から次にオススメの漫画を持ってきてくれた。
 彼が貸してくれる漫画は、たしかに面白いものも、正直あまりよくわからなかったものもあったけれど、彼としっかり感想を語り合えるように、ぜんぶ三回以上は読み込んだ。そうしてあたしなりの解釈だとか考察を頭の中でまとめてから、彼に返しにいった。

「初瀬おまえ、実はめっちゃ頭良いんじゃないか? そんな考え方、はじめて聞いたよ」
 深く考えれば考えるほど彼が感心してくれるのがうれしくて頑張っていたら、ある日、彼にそんなことを言われた。
 クラスで孤立してからのあたしは勉強なんて手につかなくなっていて、その頃の成績なんてひどいものだった。今まではそれをたいして憂いたこともなかったけれど、彼にそう言われた途端、あたしは恥ずかしくなった。こんな成績を彼に見られたくないと思った。
 それで、勉強も頑張るようになった。我ながら単純だった。

 頑張りはじめたことに、真っ先に気づいてくれたのも彼だった。
「最近、初瀬ぐんぐん成績上がってるな。頑張ってるんだな、いいぞ」
 彼のそんな言葉だけで、あたしはますます火がついた。勉強に割く時間が増え、漫画を読める時間が減ると、なにも言わずとも彼は察したように、漫画を貸してくれる頻度を減らした。
 だけど、あたしとの関わりは減らさないでいてくれた。漫画の感想を語り合う代わりに、勉強を見てくれたり、定期テストの結果を褒めてくれたり、そんな時間が増えた。