職員室の戸を開けるとき、あたしは少しだけ緊張した。三ヵ月前から毎日のように、もう数えきれないぐらい訪れた場所なのに。
 今日が最後だからだろうか。べつに感傷なんて湧かないと思っていたけれど、いざ彼の姿を見つけて歩み寄ろうとしたら、なんだか少し胸が詰まった。

 彼のほうはもちろん、そんなあたしの感傷なんて知らず、いつもと同じ様子で自分の席にいる。すらりとした背中を丸めて、机の引き出しをごそごそ漁っている。
「――三上せんせぇ」
 そんな彼の背中に声をかけると、彼はすぐに顔を上げ、こちらを見た。
「おー、初瀬」
 いつもと同じ、くしゃりとした笑顔で応え、引き出しを閉める。そうして当たり前のように、身体ごとあたしのほうに向き直った。
 彼はいつも、そうだった。なにか作業していても必ずそれを中断して、あたしのほうを見てくれた。

「なにしてたの? なんか探しもの?」
「ああ、うん」
 知っているくせに白々しく訊ねれば、彼は少し困ったような笑顔で、
「ちょっとなあ。たいしたものじゃないんだけど」
「なに? いっしょに探してあげよーか」
「いや、ほんとたいしたものじゃないから」
 だいぶ探したのだろうか。彼の指先は、少し黒く汚れている。そのことに、今更ながらちりっとした罪悪感が湧く。きっと彼が今探しているのは、昨日あたしが盗んで、燃やしてしまったものだから。
「大丈夫、財布とかじゃないし。またあとでゆっくり探してみるよ」
「……そ」
 明るく笑う彼から目を逸らし、あたしは彼の席の隣、英語の先生の机に、持ってきたプリントを置く。するとすぐに、「なんだ初瀬」とからかうような声が横から飛んできた。
「宿題忘れてたのか」
「違うし。これ、明日提出のプリント。今日のうちに終わったから持ってきただけ」
 たぶん、あたしは明日学校に来られないだろうから。どうせ明日になれば、宿題のプリントなんてどうでもよくなっているだろうけれど。それでも今日までは、あくまでも優等生であろうとしている自分が、なんだか滑稽だった。
「そうか。そうだよなあ、初瀬は宿題忘れたりしないか」
 あたしの言葉を聞いて、彼はひとり満足げに頷く。眼鏡の奥の細い目が、ますます細くなる。
「真面目でえらいもんなあ、初瀬は」
 あたしはなにも返さず、黙って彼の前に立った。
「せんせぇ」ずいと両手を差し出せば、彼はぽかんとした顔でこちらを見上げる。その顔は、他の先生たちとはぜんぜん違う若々しさがあって、女子生徒たちからはひそかに人気が高い。彼は知らないみたいだし、あたしだってそんなこと、ぜったいに教えてあげないけど。
「あたし、このまえの期末、数学百点だった」
「ああ、知ってるぞ。職員室でも話題になったよ。あれ平均低かったのに、さすがだなあ、初瀬は」
 よくやったよくやった、ともう開いているのかよくわからないぐらい目を細めて、彼はあたしに笑いかける。目尻には細かい皺もたくさん刻まれていて、これがあたしに作ることができる、彼のいちばんうれしそうな笑顔だった。
「だから」
「ん?」
「ご褒美ちょーだい」
「わかったわかった」
 彼は慣れたように頷いて、デスクのいちばん上の引き出しを開ける。そうして、そこから駄菓子屋さんに売っているような、大きないちご味の飴を取り出すと、
「内緒だぞ」
 いたずらっぽい笑顔で差し出されたそれを、口の中に放る。そのまま力いっぱい噛みしめれば、がりっ、と思いのほか大きな音がした。彼がちょっと驚いたようにこちらを見る。
「なんだおまえ、噛みくだいちゃう派か」
「まーね」
 適当に頷いて、あたしは英語教師と反対隣のデスクの椅子に座る。かわいそうなこの席の主は、頭のおかしなモンスターペアレントに精神をやられて現在休職中のため、ここ最近、職員室で彼と話すときのあたしの特等席になっている。

「初瀬」
 ふいに真剣な声で名前を呼ばれ、どくん、と心臓が鳴った。
 彼のほうを見ると、また身体ごとあたしへ向き直った彼が、急に先生じみた顔をして、
「最近どうだ」
「……どうって」
「ほら、なんだ、学校生活とか」
 あたしはがりがりと飴を噛み砕きながら、くるりと椅子を回して外を見た。
 夕陽がグラウンドを赤く照らしている。野球部が球を打つ乾いた音と、歓声だか怒鳴り声だかよくわからない喧噪が、あたしと彼の他に誰もいない職員室にはよく響く。
 もう少ししたら、夜がやってくる。
 昨日見た橙色の炎が映えるであろう、真っ暗な夜が。

「……べつにどうも。平々凡々な毎日だけど」
「なんか困ったこととかもないのか」
「そうだね。最近は数学の成績が頭打ちになってきたことぐらいかな」
 言うと、彼は短く声を立てて笑った。
「そりゃまあ、百点より上にはいきようがないからなあ」
「そうなんだよね。それがちょっと、最近つまんない」
「おお、言ってくれるなあ」
 あきれたような、けれどどこかうれしさをにじませた声で彼は笑って、
「まあ、それぐらいの悩みしかないならなによりだよ」
「うん」
「山本たちは」
 言いかけて、彼は思い直したように言葉を切った。
 一瞬だけ硬い沈黙が流れたけれど、すぐに彼はそれを散らすように、
「そういえば、初瀬に渡すものがあるんだった」
 え、と思わず声を立ててしまったあたしに、彼は机の上のクリアファイルから一枚のプリントを取り出す。そうして笑顔でそれをあたしに差し出しながら、
「北宮高校の数学の入試問題。だいぶ難しいけど、初瀬ならけっこうやれると思うぞ。挑戦してみないか」
「……北宮高校」
「初瀬、北宮目指すって言ってたろ」
 あたしは渡されたプリントに目を落とした。数学の問題のくせに、ずらずらと長ったるい文章ばかりが並んでいる。どちらかというと現代文のプリントみたいだ。

「――せんせぇは」
「ん?」
「あたしが北宮に合格したら、うれしい?」
 そりゃうれしいよ、とあっさり返された言葉には、なんの嘘も見えなかった。
「自分の教え子が北宮に受かるなんて、教師としちゃ誇らしいだろ」
「ふーん。そういうもんなんだ」
「でも本気で、初瀬なら充分可能性あると思うぞ。三ヵ月でここまで成績伸ばした生徒、おまえがはじめてだよ。他の先生たちもよく言ってるぞ。初瀬は本当に頑張ってるって」
 後半のどうでもいい情報は聞き流して、受け取ったプリントをふたつに折りたたむ。そうして、「ありがと」といちおうお礼を言ってから、
「解いてきたら、せんせぇ、採点してくれる?」
「おお、もちろん」
 前向きな返事に、彼の声があからさまに弾む。うれしそうに、細い目をよりいっそう細める。
 その笑顔を見ると、また一瞬、胸の奥が軋むように痛んだ。

 あたしがこれを解いてきたら、きっと彼は、心の底から喜んでくれるのだろう。もし全問正解なんてしてみせたら、また目が消えちゃうぐらいのしわくちゃの笑顔になって、全力であたしを褒めてくれるんだ。よくやった、頑張ったな、初瀬はすごいな――、なんて。
 明日のそんな彼に、会いたいと思った。思ってしまった。
 そんなもの、必死に求めても虚しいだけだって、もう知っているのに。
 どれだけ頑張って、彼にとっての自慢の生徒になったところで。あたしの欲しいものなんて、ぜったいに、手に入らないのだから。

「せんせぇ」
「うん」
(たける)くん、元気?」
「え? ああ、そりゃもう」
 彼は不意を突かれたようにまばたきをしてから、ふっと表情をゆるめると、
「元気すぎるぐらい。このまえついに家の壁に穴開けられたよ。まいった」
 なんて、みじんもまいった色をにじませない調子で軽く愚痴っていた。
 三上先生の奥さんが美人なのだと他の先生たちが話題にしていたとき、「いやーでも怒るとめっちゃ怖くて、尻に敷かれっぱなしですよ」なんて早口に言い返していたときの彼と、まったく同じ表情だった。

 あたしは黙って立ち上がると、鞄を肩にかける。すっと短く息を吸う。
「せんせぇ」
「うん」
「また明日」
 おう、と応える声を背中に聞きながら、歩き出そうとしたとき。
「――あ、そうだ初瀬」
 思い出したように彼が言葉を続けたので、あたしは足を止めた。
 振り向くと、彼は内緒話をするみたいにちょっと声を落として、
「前に約束してた漫画、明日貸すな」
「……漫画?」
「ほら、前に初瀬が読みたいって言ってたけど、俺が友達に貸しちゃってたから貸せなかったやつ。戻ってきたら貸すって約束してたろ。昨日戻ってきたから、明日持ってくる。ごめんな、今日は持ってくんの忘れてた」
 ああ、とあたしは相槌を打ったけれど、すぐには思い出せなかった。
 そんな約束したっけ、とあわててあたしが記憶を探っているあいだに、彼は右手を顔の横に上げて、
「じゃあ、明日な」
 なんの曇りもないやわらかな笑顔で、当たり前のようにそう言った。