「恋愛ごっこ」が可愛く変身したら本当の恋愛になった!

次月の最終土曜日の週の木曜日の昼休み、先輩へ2回目の「恋愛ごっこ」の場所と時間のメールを入れた。

[土曜日午後1時に上野の国立科学博物館の入り口に集合、博物館見学後に動物園へ]

すぐに[了解]の返信が入った。

私はあれから会社の廊下で先輩とすれ違うことが何度かあった。いつもなら「先輩調子どうですか?」とか言って馴れ馴れしく声をかけるところが、先輩の顔をジッと見つめるだけで、声をかけられなくなった。それでよそよそしく早々にすれ違うようになった。

先輩もいつもならば「頑張っている?」と声をかけるところが、あれから声をかけなくなった。二人ともなぜかいつもと違う。お互いに意識するようになったから? どうしてだろう?

それで昼食時に食堂で工藤さんを見つけたので、食事の後でそっとそのことを相談してみた。

工藤さんによると、付き合い始めると二人だけで話をしているから、会社では話をしなくなるし、する必要がないという。それと目立たないように話をしなくなるということだった。

そんなものなの? 私たちはもう付き合っているの? ただ、「恋愛ごっこ」をそれもたった1回しただけなのに、もう付き合っているような二人になっている? 考えすぎかな?

◆ ◆ ◆
待ち合わせの時間の35分も前に到着した。待ち合わせ場所が遠くなると乗り換え時間などかかる時間の誤差が大きくなるので、遅れてはいけないとかなり余裕をもって出かけてきた。

まだ、先輩は着いていない。時間の余裕があるのであたりを見回ってみることにした。国立科学博物館は確認した。近くに東京国立博物館があった。それと国立西洋美術館があった。それからまだ時間があったので上野動物園まで行ってみた。入り口を確認したので戻ってきた。

国立科学博物館の前に先輩が待っているのが見えた。それで手を振ると私だと気づいてくれたようで、嬉しそうに手を振ってくれている。

今日の私は白いレースのワンピースを着ている。そしてヒールの少し高めの白い靴を履いてきた。

「ずいぶん早く着いてしまったので、このあたりを見て回っていました。ここへ来るのは初めてなので」

「この前も時間より早く着いたみたいだけど」

「私、人を待たせるのは嫌いです。もちろん待たされることも好きではありません。だって、時間は大切にしないと」

「同感だ。ところでどこを見てまわっていたの?」

「東京国立博物館と国立西洋美術館、それと後で行く動物園の入り口まで行って確かめてきました。ここからはそんなに遠くはありません」

「初めてここへ来たんだね。僕は上京した時に東京見物の一環としてここへ来た。国立科学博物館と東京国立博物館を見学したことがある。でも動物園には行っていない」

「じゃあ、動物園だけにしますか?」

「いや、上野さんも理系だろう。国立科学博物館は見ておいた方がよい。僕は1回見ているけど内容はほとんど覚えていないから、もう一度見ておきたい」

二人は入場券を買って中へ入った。はじめに日本館、次に地球館を見て回った。先輩は以前に来た時とは展示が変わっているといって丁寧に見ていた。私は特に地球館を熱心に見た。歩き疲れるとときどきベンチに腰掛けて休み休み見て回った。

3時過ぎに出てきた。喉が渇いたので、先輩は自働販売機で缶コーヒーを買ってきた。その間に私はベンチで持ってきた包みを開いて待っていた。

「途中でお腹が減ると思って、サンドイッチを作ってきました。動物園に行く前に食べて元気をつけましょう」

「ありがとう。おいしそうだ」

サンドイッチはハムとレタスのサンドと卵サンドの2種類。パンの耳はついたままで、縦長に2つに切ってある。それぞれラップに包んで食べやすいようにしている。先輩はそれを喜んで食べてくれた。

「このサンドイッチ、どれもとってもおいしいね」

「溝の口に卵サンドのおいしいお店があって、時々買って帰っています。その味を再現しようと何回か作って研究しました。今日はまずまずの出来です。おいしいと言ってもらえてよかった」

「確かに、この卵サンドはおいしい。研究熱心なんだね」

先輩が私を優しく見てくれている。その目を感じながら私は後片付けをする。ベンチの下にゴミが落ちていたので一緒に片付ける。

「誰だろう、後片付けをしない人がいるね。困ったものだ」

「そうですね。こういう人もいるのですね。私、以前はこういう人を見ると注意することもありましたけど、今はしないですね」

「どうして?」

「注意して分かる人は最初からこういうことはしないと思います。そういうことをする人に注意しても、無視されるか、反論されたり絡まれたりすることもあり得ます」

「そういう人は痛い目に合わないと分からないのかもしれないね」

「そういう人はきっと痛い目にあっても分からないと思います」

「あり得る。僕も何度も痛い目にあっているのに直せないことがある」

「どういういう痛い目か分かりませんが、先輩なら1回でも痛い目に合えばもう2度としないでしょう」

「そうでもないかもしれない。性格というか性根というものはそう簡単に変えられないと思っている。だから、気が付いたら、何でも注意してほしい。直すから、いや直そうと努力するから」

「先輩にはそういうところはないと思いますが」

「いやいやいっぱいあるんだ。まだ気がつかないだけだと思う」

「ずいぶん、謙虚なんですね」

「いつも謙虚にと思っている。謙虚だけが取り柄かもしれない」

「でも、謙虚、謙虚と自分で言うのもどうかと思いますが」

「まさに、そこなんだ。参ったな。動物園へ行ってみようか?」

二人は手を繋いで歩き出した。動物園にはすぐに着いた。まず東園を見て回る。ゴリラやゾウなどを見て回った。それからモノレールで東園駅から西園駅へ向かった。窓から不忍池が見える。

西園を見て回ると不気味な大きな鳥がいた。全く動かない。生きているのか? まるで剥製みたいだ。頭が大きくて眼が不気味だ。私は怖がった振りをして先輩に身体を寄せてみる。先輩はまんざらでもないみたい。こういうチャンスは大事にしないといけない。

名前を確かめると「ハシビロコウ」だった。

「動かないけど生きているのかしら?」

「そういえば以前テレビで見たことがある。ああして動かないで獲物が近づくのを待っていて首を伸ばして素早く狩りをする鳥だった。ただ、実物を見るのは初めてだけど、怖そうだね」

二人が見ている間、ハシビロコウは少しも動かなかった。離れておそるおそる見ていたが、動く気配がないので、あきらめてこれで帰ることにした。

「あの鳥、何を考えてあんなに静かに待っていられるのでしょうか?」

「分からない。きっと身体が大きいからエネルギーの消耗を控えて狩りをする方法を見つけたんだろうな。それにあんな大きな身体では敏捷に動いて獲物を追いかけられないだろうし」

「先輩の推理はきっと合っていると思います。自然界ではそれぞれ身の丈に合った最善の方法を探して生きているんですね」

「弱肉強食だけど強いものでも自然界で生き抜いていくのは大変だ。人間の世界でも同じだけどね」

「私は一人ですけど、先輩を始めいろいろな人に助けられて生きています。動物と人間の違いでしょうか」

「いや群れを作る動物もやはり助け合って生きている。でもね、一人で生きていくという気概は大事だと思う。上野さんがそう思っているように」

「私には一人で生きていくという気概があるというのですか?」

「ああ、そう感じている」

「あの鳥はきっと群れは作らないで、いつもは1羽で生きているのだと思います。先輩のように強い動物は群れを作らなくても生きていけるから」

「僕が強い?」

「ええ、先輩を見ているとそう思います」

「人は一人で生まれてきて、一人で死んでいく。人は孤独なものだと思っている。誰も助けてくれない。誰にも助けを求められない。そう考えることで、僕は人に頼るとかという思いがなくなった。だから、そう見えるだけだ」

「私も一人になって、人は孤独なもので、その寂しさが分かったので、人を大切にして、優しくできるようになったように思います。それにほんの僅かな繋がりであっても、人との繋がりを大切にしなければならないと思うようになりました」

「僕と考え方が似ているね」

二人は池之端口から千代田線根津駅まで話しながら歩いた。夕食を誘われた。せっかくだから大井町のおいしい食堂へ一緒に行きたかったけどあきらめた。

もう歩き疲れて足が痛くなっていたので、早く家へ帰って休みたいと先輩にお願いした。それでこのまま帰ることになった。

私は疲れてしまっていたので、電車で眠っていた。先輩は下りるときに私を揺り起こして立っているように忠告してくれた。私は立って先輩を見送って、そのまま立って梶ヶ谷で降りた。座っていたら、きっと眠ってしまって終点まで行っていたと思う。

私が家へ着いてまもなく先輩から電話が入った。

「無事、家へ着いた? 乗り過ごしたのではないかと心配だから電話を入れたけど、大丈夫? 今日はずいぶん歩いたから疲れたんだろう」

「ご心配かけました。大丈夫です。無事帰宅しました。せっかく夕食を誘ってくださったのに申し訳ありませんでした」

「次回は疲れないところにしよう」

「はい、考えてみます。楽しみにしています」

今回は靴で失敗してせっかくの食事の機会を失ってしまった。おしゃれもほどほどにして臨機応変が大切だと思った。今度はスニーカーにしよう。
次月の最終土曜日の週の木曜日の昼休みに私は『恋愛ごっこ』3回目の場所と待ち合わせ時間のメールを入れた。

[土曜日午後1時に上野の東京国立博物館の入り口に集合、その後国立西洋美術館へ]

すぐに[了解]の返信が入った。

◆ ◆ ◆
金曜日の朝、出勤して席について、今日の予定を確認していると、先輩からメールが入った。

[風邪をひいたので、今日は欠勤する。すまないが土曜日までに回復の自信がないので、中止にしてほしい]

すぐに返信を入れた。

[了解しました。おだいじにしてください]

チャンス到来。今日の帰りに先輩のマンションにお見舞いに行こう。私を売り込む絶好の機会だ。昼休みにその作戦を考えよう。

風邪がうつらないようにしよう。マスクをしていけば大丈夫だと思うけど、でもうつたらうつったときで、もし先輩が回復していたら、風邪をうつしてごめんと言って、きっとお見舞いに来てくれると思う。どうであれ、これは行かない手はない。

それに先輩がどんなところに住んでいるか確かめておく必要があるし、行けば女性のにおいがするかも分かる。私はそういうにおいというか雰囲気には敏感だ。

夕食に何か作ってあげよう。二子玉川で降りて材料を買って行こう。何がいいか? インスタント食品や冷凍食品を買って行って、チンでは芸がなさ過ぎる。でも男の一人暮らしだから食器や調理器具や調味料がどの程度あるかも分からない。

無難なところで、うどんはどうか、出汁付きを買えばよい。鍋とどんぶりかご飯茶碗くらいはあるだろう。それにうどんはお腹にやさしい。風邪には丁度良い。

一度行ってみて鍋や食器や調味料を確かめておけば、その次に行くときにどんな料理を作れるかの判断材料になる。

それに事前に行くからと相談すると断られる恐れがあるから、駅に着いたら、準備してきたからと言って、マンションへ無理やり押しかけるのがベストだ。住所と部屋番号を知らないから教えてもらわないといけない。私のことが気になっていれば、きっと来ても良いというと思う。それを確かめるよい機会だ。

◆ ◆ ◆
6時半過ぎに二子新地駅に着いた。先輩の携帯に電話を入れる。なかなか出ない。風邪がひどくて寝入っているのかもしれないと心配になる。やってと出てくれた。

「先輩、風邪はいかがですか?」

「朝、頭痛がして熱が38℃もあったので、医者へ行ったらインフルエンザB型と診断された。薬ももらってきたから、もう大丈夫だ。でも申し訳ないけど土曜日は中止でお願いしたい」

「もちろんOKです。ところで今、二子新地の駅を降りたところですが、お見舞いに来ました。お住まいの場所を教えて下さい」

「いいよ。うつるといけないから。大丈夫だから」

「私、インフルエンザの予防注射をしているので大丈夫です。お見舞いに行きますから、行き方を教えて下さい。夕食の準備もしてきましたので」

思っていたとおり、マンションの場所と部屋番号を教えてくれた。5分ほどで着いた。

ドアホンを鳴らす。先輩がドアを開けてくれた。私は会社帰りなので、いつものリクルートスタイルでマスクをしていた。手にレジ袋をぶら下げている。

「入って良いですか?」

良いとも言われないうちに、すぐに靴を脱いで上がった。先輩はパジャマ代わりにジャージの上下を着ていた。

先輩は二子新地駅から徒歩5分の1LDKの賃貸マンションに住んでいた。3階の301号室。玄関を入ると右側に洗面所、全自動乾燥洗濯機、それにトイレとバスタブのバスルーム、中央がリビングダイニング、キッチンには大型の冷凍冷蔵庫を置いてあり、リビングの奥に寝室がある。ベランダからは多摩川が見える。私のアパートよりかなり広い。

リビングには二畳ほどのカーペットが敷いてあり、その上に大きめの座卓を置いてある。座卓の後ろには寝転べる3人掛けのソファー、それから42インチの4Kテレビを置いている。寝室にはセミダブルの大きめのベッド、パソコンとプリンターを置いた机と本棚が置いてある。私と同じで家具は少ない方だ。

「さっぱりしたお部屋ですね。それに思っていた以上に綺麗にお掃除されていますね。先輩らしいです」

「会社の帰りにわざわざ寄ってくれたんだ。ありがとう。大丈夫だから。まあ、座って」

私は部屋を見舞わしながらソファーの端に座った。先輩は離れて反対側に座った。

「女性の痕跡はないですね。彼女のいないのは本当ですね」

「あたり前だ」

「そう思って、夕食を作ってあげようと準備してきました。病気だから消化の良いうどんにします。出汁付きの讃岐うどんと卵、それに桃を買ってきました。キッチンをお借りします。寝室で休んでいてください」

「ありがとう。お言葉に甘えることにしよう」

「一人前作ります。私は家に帰ってからにします。鍋とか食器などはどこですか?」

「キッチンの上下の棚に入っている。どんぶりもあると思う。調味料は冷蔵庫の中にあるから」

私はキッチンの棚や冷蔵庫を開いて何があるか確認した。当初の予定どおりだ。冷蔵庫の中を見る。砂糖、塩、醤油、マヨネーズ、ポン酢、ソースなど、ひとおとりの調味料はある。お米もある。棚の中には、電気釜、フライパン、鍋はある。引き出しにはスプーンやお箸などがあった。食器はというと大きめのどんぶり、ご飯茶碗、お椀、大小のお皿が数枚あった。自炊できるほどのものはそろっていた。その中から必要なものを取り出す。

「月見うどんができました。うどんがのびないうちに召し上ってください」

先輩は眠っていたみたいだった。返事がなかったが、しばらくしてこちらへ来た。

「熱を測ったら37℃だった」

座って座卓の上にうどんのどんぶりを見ている。

「いただきます」

先輩はすぐに平らげてくれた。桃も食べている。

「ありがとう。おいしかったし身体が温まった。来てくれてありがたいけど、インフルエンザがうつらないか心配している」

「予防注射を打っているから大丈夫だと思います。予防注射は毎年必ずしています。父はインフルエンザをこじらせて亡くなったので」

「そうなのか、学生時代に亡くなったとは聞いていたけど」

「肺炎で急に亡くなりました。先輩も無理しないで下さい」

「ああ、気を付けている」

「それに今回は『恋愛ごっこ』の一環です。恋仲の彼氏が病気になったら看病に行くでしょう、その練習だと思ってください」

言い方が私の気持ちと合っていなかった。

「まあ、それなら、そういうことにしよう。でも元カノは僕が病気で寝込んでも看病には来てくれなかったな。早く治してと言われただけだった」

「本当に二人は恋人同士だったのですか?」

「男女の関係にもなったから、間違いないと思っているけど」

「私なら好きな人が病気になったら万難を排して看病に行きますけど、そうでしょう、違いますか?」

こう言うべきだった。

「そういわれると僕も心配になって駆け付けると思うけど、元カノが病気になった時は行かなかった」

「どうしてですか?」

「自宅だから遠慮した」

「それは仕方がないでしょう。ご両親がいるのだから。一人暮らしだったら行っていたでしょう」

「間違いなく行っていたと思う」

私が病気になったら来てくれるかしら、きっと来てくれると思う。

「先輩が別れたいと思って別れたのは正解だったと思います」

「一事が万事だったのかもしれないね。そう言ってもらえてようやく後悔の念が薄れてきて、気が楽になった」

「先輩は人が良いというか、情が厚いですね」

そういうと先輩はほっとしているようだった。今夜はゆっくり休んでほしい。私は後片付けを終えると明日は11時ごろに看病に来ますと言って帰ってきた。
今日は土曜日だから目覚ましをかけないで寝たけれど6時には目が覚めた。今日は11時に先輩のマンションへ行くことになっている。予定どおりうまく行っている。今日もまた来ると言って帰ったけど、先輩は来ないでも良いとは言わなかった。

溝の口のスーパーによって、お昼と晩ごはんの材料を仕入れて行こう。材料の無駄がないように昼は親子丼、晩は焼き鳥丼にしよう。お味噌汁は昼と晩は同じで良いと思う。卵は昨日買ったのがある。電気釜とお米はあった。

◆ ◆ ◆
マンションのドアチャイムを鳴らす。玄関ドアが開くまでに少し時間がかかった。きっとまだ寝ていたのだと思う。少しは良くなったのかしら? でも私をじっと見ていた。

今日の私は土曜日の可愛いスタイルにしている。先輩が喜ぶことが分かっている。マスクをしているが、メガネはかけていない。白いブラウスに薄茶色のベスト、動きやすいように同じ薄茶色のスラックスを履いている。手にはレジ袋をぶら下げている。昨日と同じですぐに靴を脱いで上がって行く。

「おはようございます。調子どうですか?」

「頭痛はなくなった。朝、体温を測ったら平熱だった」

「油断しないで寝ていて下さい。父も油断していました。簡単なお昼ごはんを作ります。ごはんを炊きますので少し時間がかかります。できたら声をかけます」

そういうと、私はキッチンへ行った。先輩は寝室に戻って横になった。昨日キッチンの状況を調べておいたから、調理しやすい。結婚したらこんな感じかな? そうなるといいな。ふと思って一人で笑った。

ご飯を炊くのに時間がかかった。炊きあがったらすぐに盛り付けた。お味噌汁もできている。私もお腹が空いた。

「お昼ご飯ができました。胃に負担のかからないように親子丼とお味噌汁です。私も食べます」

私の声で目が覚めたみたいだ。やはり眠っていた。平熱と言っていたけど大丈夫かな。時計をみると12時30分だった。テレビをつけた。

座卓の上のどんぶりとご飯茶碗にそれぞれ親子丼、おわんとカップにそれぞれお味噌汁が入っている。先輩が寝室から出てきて座卓の上を見ている。

「食器が一組しかないのですね。なんとか二人分を盛り付けましたが」

「仕方ないだろう。独り身だから一組で十分だ」

「女っけがないのは良いとしても、男性って夢がないのですね」

「夢って、女子は二組持っているのか?」

「私は二組もっています。友人を招いたときに必要ですから。それに」

「それに」

「彼氏ができたら必要になると思いますので、まあ、夢ですが」

「夢ね、早く現実になるといいね」

先輩がなってくれれば手っ取り早いのに、他人ごとみたいに言う。

「あまり期待していません。冷めないうちに食べましょう」

先輩が食べ始めた。お腹が空いているとみえて、黙々と食べている。私も黙ってご飯茶碗に盛り付けた小盛りの親子丼とカップに入れたお味噌汁の味を確かめながら食べている。

親子丼は鶏肉と卵がほどよい柔らかさになっていて出汁も効いていておいしくできている。お味噌汁も具をたくさん入れてボリューム感があるように作った。味もまずまずかな。

「すごくおいしい」

「よかった。近くに親子丼のおいしい食堂があるので、それをまねて作りました」

「料理が上手だね」

「まねをしているだけです。それから、夕食に焼き鳥丼のたねを鍋に作っておきましたので、どんぶりにご飯を入れてそれを載せてチンしてください。お味噌汁もあります」

「焼き鳥丼定食だね、楽しみだな、ありがとう」

食べ終わったら、すぐに私は後片づけをする。これからまだやることがある。先輩はソファーに座ってそれを見ている。片付けが終わると先輩のところへ行った。

「着替えをしてください。汚れた下着は健康によくありません。洗濯と掃除をします。空気を入れ替えますので、窓を開けます」

先輩もそう思ったのか、寝室へいって着替えをした。上下のジャージと下着を別のものに取り換えた。私はたまっていた汚れものと一緒に洗濯機に入れた。全自動だから乾燥までしてくれるので、このままで良い。

「掃除機はありますか?」

「クローゼットにハンディ掃除器があるし、クイックルもあるけど」

「拝借します。ベッドで横になっていてください。すぐに終わります」

まず、バスルームへ入って掃除をした。掃除はしているようでそんなに汚れてはいなかった。綺麗好きは本当みたいだ。先輩はベッドに座っている。バスルームの掃除が終わったので、今度はベランダのガラス戸を開けて、部屋を掃除機で綺麗にする。

床や敷物の掃除が終わると今度は座卓やパソコン机、本棚の上を拭いて回る。大掃除のつもりで隅々まで綺麗にしたい。

テレビの台も拭く。台の下の棚にほこりがたまっていると思って、中味を取り出した。何枚もDVDが入っていた。その時に先輩があわててこっちへ飛んできた。

「そこはだめだ」

そのDVDは20枚ほどあった。ちっとカバーを見ただけでそれが何だか分かった。全部アダルトビデオだった。

「キャーいやだ」

ちょっと見ただけでもこっちが恥ずかしくなるようなものばかりだった。

「見られてしまったか。しょうがないだろう。これでも健康なおじさんだから、見たい時もあるさ」

先輩は開き直って言い訳をしている。へへッ、先輩の弱みを握ってしまった。私はそれで気持ちのゆとりができて棚の中をゆっくり拭いて、DVDをまた元のところへしまった。

「カバーを見ただけですが、内容がすごそうですね」

「見たことあるの?」

「おしゃれを教えてくれた友人のアパートへ行ったときに、見せてもらったことがあります」

「どうだった」

「恥ずかしくてよく見ていませんでした。それに肝心なところがぼやけていたし」

「よく見ていたんじゃないか。それなら貸してあげようか?」

一瞬、私はそれを聞いて驚いて先輩の顔を見た。先輩はまずいことを言ってしまったと後悔しているように見えた。これは完全な『セクハラ』だと思う。困った表情が見て取れる。でもここで先輩を困らせてはいけない。とっさに思いついた。

「貸して下さい。勉強のために」

「ええっ」

「恋愛の勉強のために見ておきたいと思いますので、貸してください」

「いいけど、どれがいい」

「どれがいいといっても、お勧めはありますか?」

「お勧めといっても好みというか、趣味があるからなあ、選ぶのは難しい」

「それなら、全部貸して下さい」

「ええっ全部?」

「全部貸して下さい。お願いします」

「そうまでいうなら全部貸そう。いろいろなタイプがあるから参考になると思う」

先輩は観念したようにそういった。私から『セクハラ』だと言われて嫌われなくて良かったと思っているのだろう。

「ありがとうございます。勉強になります」

「それじゃあ、10枚ずつ束にして紙で包んで紙の手提げバッグに入れて帰ったら良いと思う。人に見られるとまずいから」

「そうします」

私は包装紙で丁寧に包んで紙の手提げバッグに入れて帰り支度を始めた。

「DVDプレーヤーはあるの?」

「映画のDVDを借りて見ているのであります」

「これで帰ります。明日の朝、10時ごろに電話します。まだ、熱があるようだと、またお昼ご飯を作りにきます。良くなっていれば遠慮します」

「ありがとう。気を付けて帰って、インフルエンザがうっていなければいいのだけど」

「大丈夫だと思います」

私は帰ってきた。少し疲れた。先輩とはいえ独身男性の部屋に一人で行っていたのだから、やはり緊張していたのだと思う。2日間、看病に行ったけど、受け入れてもらえた。心地よい疲労と満足感で今夜はぐっすり眠れそうだ。

翌朝、10時に私は先輩に電話を入れた。体温が下がったから大丈夫だと言われたので、今日は行かないことにした。今日は借りてきたDVDでも見てゆっくりしよう。
先輩は日曜日一日ですっかりインフルエンザから回復したようだ。月曜日に出勤した時に廊下で先輩に会ったときには元気そうでそっと看病に来てもらったお礼を言われた。でも私はいつものようによそよそしく軽く会釈してすれ違った。

ビデオどうだった? なんて聞かれなくてよかった。『セクハラ』だと言ってにらみつけたかもしれない。でも先輩は絶対に聞いてこないと思っていた。私が恥ずかしがることは絶対にしてこない。そういう人だ。

それからすぐに携帯にメールが入った。

[前回は中止したけど、次回の「恋愛ごっこ」はいつがいい?]

[今週の土曜日に前回の分を同じ時間、同じ場所でどうですか?]

[了解]

◆ ◆ ◆
約束の時間の10分前に私は着いた。先輩は15分前に着いたと言っていた。今日は疲れないように軽快な服装にした。短めのピンクのスカートに白のポロシャツ、靴は白のスニーカーだ。これなら歩き疲れることもないと思う。

私は東京国立博物館では遮光器土偶などの古代の展示物と刀剣に興味があった。それで熱心に見て回った。その後、東京国立西洋美術館へ行った。ここでは著名な洋画の作品を見て回った。

見終わって出てきたら、もう4時半を過ぎていた。歴史や美術の教科書に載っていた本物が見られてよかった。

「これからどうしよう。この前、インフルエンザに罹った時の看病で食事を作ってもらったお礼に、夕食をご馳走したいけど、どうかな?」

「いつもお世話になっていたので、当然のことをしたまでです。お礼には及びません」

「そう言わないで、僕の気持ちが済まないから、遠慮しないで」

「そうまでおっしゃるのなら、トンカツをご馳走してください。前にお話しした大井町のとんかつ屋さんで、少し値段は高めですが、かまいませんか?」

「僕はホテルのメインダイニングでフランス料理とでも思っていたけど」

「それには及びません。それにこんな格好では入れませんから」

「それでいいのなら、そうしよう」

「とってもおいしいので、一度連れて行ってあげたいと思っていました」

二人はJR上野駅まで戻って、京浜東北線で大井町まで来た。駅を降りると東急の大井町線駅まで歩いて、商店街を道沿いに歩いた。

「ここを入ったところに、おいしい洋食屋さんがありますが、とんかつ屋さんはもう少し先です」

商店街の中ほどにその店がある。中に入ると小さめのテーブルが並んでいる。大きな店ではない。時間が早いせいか客はまばらだった。

「空いていてよかった。いつもは結構混んでいるんです」

私は先輩にメニューを渡す。ロースかつ、ヒレかつ、エビフライなど品数は多くない。

「何がお勧めかな?」

「やはりロースかつ定食でしょうか? ヒレカツ定食も良いと思います」

「じゃあ、ロースかつ定食」

「私はヒレカツ定食でもいいですか? 少し高いですけど。いままで一回しか食べたことがないので」

私はこの二つを注文した。

「この前は歩き疲れて夕食を一緒に食べられなくてごめんなさい。おしゃれし過ぎました。今回は疲れないように準備してきました。せっかくの『恋愛ごっこ』ですから」

「二人で博物館や美術館巡りも落ち着いていいね。ああいうものをみていると作者の意欲というか熱意が伝わってくる。本物を見ていると得した気持ちになるね」

「やっぱり本物は迫力がありますね。見とれてしまいます」

「次はどこにする? また、別の博物館か美術館にする?」

「今度は郊外の遊園地みたいなところはどうですか? せっかく『恋愛ごっこ』しているんですから、恋人同士が行きそうなところが良いです。考えさせてください」

トンカツが運ばれてきた。久しぶりの揚げたての分厚いトンカツだ。お腹が空いているのですぐに食べ始める。

「おいしい。こんなにおいしいトンカツは初めてだ」

「久しぶりに食べたけど、おいしいですね。やっぱり肉と衣ですね。私には再現できません」

「挑戦しているんだ」

「元々豚肉が違います。これだけは入手できないので難しいです」

「専門店だからプロだからできることもあるさ」

二人は夢中で食べた。おいしいと無言になる。

「ご馳走様、おいしかった。お腹がいっぱいになりました。ところで今度、夕食を食べにきませんか?」

私は食べている間にずっと考えていた。思い切って誘ってみようと、断られてもダメ元だからと思った。でもきっと断らないという確信はあった。初めての『恋愛ごっこ』の時に先輩は私の料理を食べてみたいと何気なく言っていた。

先輩は驚いている。私の意図を測りかねている。きっと、どういう意味で言っているんだろう? 女子が自分の部屋に招待するということがどういうことか分かっているのか? なんて考えているに決まっている。

でも私はそう考えている。この機会に誘惑してみよう。

「上野さんのお家に?」

「先輩のマンションほどではなくて、1DKのアパートですが。今日の食事のお礼がしたくなりました。何かお好きなものを作ります。遠慮なくおっしゃって下さい。だだし、ほとんどB級グルメですが」

「レパートリーが分からないから教えてくれる?」

「じゃあ、あとでメニューを送ります。それから数品選んでください」

私がさらりと夕食に招待したので、やはり私の気持ちを測りかねている。先輩はなぜ招待してくれたのか深く考えないことにしたに違いない。『恋愛ごっこ』の一環だから、素直な気持ちで招待してくれたのなら、素直な気持ちで招待を受け入れるのが礼儀だとでも思ったに違いない。結果オーライだ。

それから会計を済まして東急大井町駅に行って電車に乗った。これで二子玉川駅で乗り換えれば良い。始発駅だから楽に二人並んで座れた。

私はここで前哨戦として先輩に仕掛けてみることにした。前回は疲れすぎて思いつかなかった。今日はそんなに疲れてなくて気持ちにゆとりがある。

二人並んで座ってしばらくして私は眠った振りをして先輩の肩に寄りかかってみた。すぐに肩が緊張するのが分かった。先輩は動かずにそのままにしてくれている。しめしめ、先輩も慣れてきて緊張がほぐれてきている。女子に肩で眠られるのも悪くないと思っているに違いない。

二子玉川駅に近くなってきて、先輩が眠っているのに気が付いた。

「乗り換えですよ!」

私は先輩をゆり起こした。

「私も眠っていたみたい。乗り換えましょう。そうしないとまた大井町まで戻って行ってしまいますよ」

二人は急いでホームに降りて乗り換えた。そして電車で別れた。
翌日の日曜日の午後に私はメールで料理のリストを送った。和食、中華、洋食のメニューの中からお好みの数点を選んで下さい。和食、中華、洋食のミックスになってもかまいませんと書いた。

和食:親子丼、焼き鳥丼、鰻重、海鮮丼、散し寿司、炊き込みご飯、生姜焼き、治部煮、豚汁、すき焼き、鰆の西京焼き、出汁巻き卵、茶わん蒸し

中華:餃子、チャーハン、酢豚、エビチリ、八宝菜、中華丼、五目焼きそば、チンジャオロースイ、マーボ豆腐、ホイコーロー

洋食:オムレツ、チキンライス、カレー、ビーフシチュウ、クリームシチュウ、ボルシチ、ポークソテイ、ハンバーグ、エビフライ、クリームコロッケ

しばらくして返信があった。

[どれもおいしそうで食べたいのですが、お言葉に甘えて、以下の和食6点をお願いします。鰆の西京焼き、治部煮、出汁巻き卵、茶わん蒸し、豚汁、炊き込みご飯。品数が多くなったけど、大丈夫ですか? 材料費は僕が負担します]

[大丈夫です。材料費も大丈夫です。多めに作って冷凍して、自分用にしますから。それと日時ですが、今週の土曜日午後5時に来ていただけますか? 住所と地図はメールでお送りします]

[ありがとう。楽しみにしています]

◆ ◆ ◆
私は住所と地図を木曜日にメールで送った。先輩は地図アプリでその場所を確認したと思う。梶ヶ谷駅から徒歩4~5分のところにあるアパートの201号室だからすぐに分かる。

土曜日、私は朝早めに起きて部屋の掃除をした。バスルーム、キッチン、ダイニング、寝室を隅々まで綺麗にした。10時過ぎに買い出しに溝の口のスーパーまで行った。帰って来て簡単な昼食を食べてから、すぐに夕食の準備にとりかかった。

3時までには下ごしらえができた。4時から仕上げにかかる予定だ。その前にシャワーを浴びて着替えをする。土曜日の可愛いスタイルになる。

出来立てを食べてもらいたいと思っている。でもテーブルが大きくないので料理は何品も置けない。その都度、お皿に盛り付けて出すことにした。

準備がようやくできたところ5時丁度にドアホンが鳴った。すぐにドアを開いた。先輩が私をじっと見ている。私は花柄のブラウスに紺のスカート、白いエプロンをしている。髪は後ろに束ねて、眼鏡をかけている。料理をするときは眼鏡の方が良いと思ったからだ。

先輩は買ってきた果物とケーキの箱を渡してくれた。

「ありがとうございます。お気を遣わせてすみません。すぐにここが分かりましたか? 先輩の部屋ほどではありませんが、お入り下さい」

先輩は興味津々の面持ちで入ってきた。私の部屋は玄関を入るとすぐにダイニングキッチンがある。その横にバスルーム、反対側は寝室。ダイニングにはテーブルを置いて椅子が二脚。テーブルの上には鰆の西京焼きと出汁巻き卵のお皿を並べておいた。

「テーブルが狭いので、食べたら料理のお皿を入れ替えます。すぐに食べられるように準備してあります」

先輩がテーブルに着いた。料理をじっと見ている。

「僕と違って、やはり食器は二つずつあるんだ。さすが女子だね」

「お酒はどうしましょうか? ビールと日本酒を準備していますが」

「せっかくだから日本酒で」

「お燗しますか?」

「いや、冷でいいよ」

私は日本酒のボトルとガラスのお猪口を二つ持ってきて座った。そしてお酒を注いであげる。先輩も注いでくれる。

「乾杯、ご馳走になります」

先輩はまず出汁巻き卵を食べている。味は確かめたから大丈夫だと見ている。次に鰆の西京焼きを食べている。下味をしっかりつけておいたからおいしいはずだ。

私がお酒を注ぐと先輩もお返しに注いでくれる。お互いにお酒が進む。私はいつもよりお酒を飲むペースを速くしている。先輩はお腹が空いていたと見えて、すぐに二品を平らげてくれた。

「とってもおいしい。ご免ね、おいしいので夢中で食べてしまった」

「そう言ってもらえて作った甲斐がありました。味わって食べていただけたみたいでよかったです」

私は味を確認して食べ終えると席を立って次の料理の盛り付けにかかる。手早く治部煮を盛り付けて、茶碗蒸しを電子レンジでチンする。

「治部煮」は鴨肉や鶏肉の切身に小麦粉をまぶして、季節の野菜と一緒に出し汁で煮込んだ郷土料理だ。

「この治部煮、いつか料亭で食べたのと同じ味だ。おいしいね」

「亡くなった父が好きでしたので、よく作っていました。父は味にうるさくて好みの味になるまで何度も味見をしていました」

「思い出の料理をありがとう」

私はお酒を頻繁に注いであげるので、先輩も注ぎ返してくれる。私も料理の味を確かめながらしっかり飲んでいる。考えがあってわざとお酒のペースを速くしている。

「茶わん蒸しの味はいかがですか?」

「これも出汁が効いて、優しい味だね。おいしいね。よく味わって食べさせてもらいます」

「次は締めの炊き込みご飯と豚汁になります」

「炊き込みご飯もおいしそうだね。豚汁も楽しみだ」

先輩は夢中で炊き込みご飯を食べている。もう一杯食べたくなったといってお替りをしてくれた。おいしくできていてよかった。豚汁も具がたくさん入っていて刻んだネギがアクセントになってとてもおいしいと言ってお替りをしてくれた。

食事を終えたとき、先輩はもうお腹が一杯になったようで安心した。招待した甲斐があった。そして二合瓶の日本酒は空になっていた。二人で飲んでいたけど、間違いなく半分くらいは私が飲んだ。日本酒は後でまわると聞いている。それを期待して飲んでいた。

「お酒をずいぶん飲んだけど大丈夫?」

「大丈夫です」

予想したとおり、酔いが回ってきたみたいで、後片付けに立った私はよろけた。先輩がすぐに気が付いて、手を伸ばして身体を支えてくれた。作戦どおりだ。私は先輩に身体を預けて抱きついた。良い感じ!

一瞬の出来事だったから、先輩はどうしてよいか分からずに戸惑ったみたい。でも気を取り直して私をゆっくり椅子に座らせた。

「大丈夫かい。後片付けは僕がしよう。余っている料理は冷蔵庫に入れておくから」

私は「すみません」といって頷いた。予定どおりとは言え、こんなに急にアルコールが回るとは思わなかった。いままでこんなに日本酒を飲んだことがなかったので、酔いの回る時間と程度の予測ができていなかった。

ふらふらして意識がもうろうとしてきた。これから予定どおりの行動ができるか怪しくなってきた。あまり、お酒を飲むのではなかったと後悔した。でもこれでよかったのかもしれない。酔った勢いというのがある。勢いが大切だ。でも眠くなってきた。

「大丈夫? こんなところで寝ていたらいけないよ! 一生懸命、僕のために料理を作ってくれて疲れたんだね。それでお酒を飲んだから酔いが早くまわってしまったんだ。きっと」

その声で一瞬気が付いた。私はテーブルに顔をつけていつの間にか眠っていた。

「眠りたい」

先輩は私をベッドに寝かせるほかはないと思ったようだ。私は先輩に抱きかかえられた。そう思ったら先輩がよろけた。私はとっさに先輩にしがみついた。朦朧となってはいたが、これがチャンスとしっかり抱きついたのは覚えている。

先輩は驚いたかもしれない。それが無意識にか意図的にかと考えたと思う。先輩が私を寝室まで運んでベッドに降ろして横たえようとした時、私はさっき落ちないように抱きついたようにまた強く抱きついた。

このとき「大好き」と言えばよかったのかもしれない。私は朦朧としていてそこまで思いつかなかった。いや思いついたとしてもきっと言えなかったと思う。

先輩は一瞬動きを止めた。これはやはり意図的か? 誘っているのかな?と思ったに違いない。

「さあ、ゆっくり眠って」

先輩は私をなだめるようにそう言って、しがみついている手をゆっくりほどいて、寝かしつけて布団をかけてくれた。私はなすがままになっていた。そうすること以外何もできなかったし、してはいけないと思った。

「ごちそうになったね。ありがとう。おいしかった。おやすみ。帰るよ。明日電話するからね」

そう言って、先輩はその場を離れた。ひょっとして、こういう展開もあるかもしれないと、私は玄関脇の棚の上に部屋の鍵を二つ置いておいた。このまま鍵をかけないで帰ると不用心なので、予想したとおり、先輩はその一つで鍵をかけて持ち帰った。

◆ ◆ ◆
日曜日の朝、6時に目が覚めた。頭が少し痛いし胃のあたりに不快感がある。目覚めも悪かった。

先輩はキッチンのシンクおいてあった食べ終わった食器をきれいに洗って、洗い籠に入れておいてくれた。

余った料理はそれぞれお皿にとってラップして冷蔵庫にしまってくれた。余っていた豚汁はどんぶりに移して冷蔵庫にしまってあった。

先輩が二人で食べようと買ってきてくれたケーキも冷蔵庫に入っていた。先輩に悪いことをした。そして玄関脇の棚の鍵は一つになっていた。

日曜日の朝9時過ぎになって先輩から電話が入った。

「おはよう、昨日はご馳走になってありがとう。酔って眠ってしまっていたけど、調子はどう?」

「ごめんなさい。ご招待したのに酔ってしまって、後片付けまでしていただいて。朝、目が覚めたら、ベッドで寝ていたので、驚いて跳び起きました。食事が終わってからの記憶がほとんどありません。ちょっと頭が痛いです。こういうのを二日酔いというのですか? 酔って失礼はありませんでしたか?」

「いやいや、眠いと言って静かに眠っていたけど。それから鍵が二つあったので、そのうちの一つで鍵をかけて、持って帰って来た。月曜にでも返すから」

先輩は私に抱きつかれたとは言わなかった。仮に私が意図的に抱きついたとしたら私の気持ちを無視したことになるし、無意識に抱きついたとしたら私がお酒に酔って醜態をみせたことになる。いずれにしてもなかったことにするのが一番と思ったのだろう。気配りのできる人だ。

「いえ、しばらく持っていてください。先輩にまた来ていただくこともあるかもしれませんので」

「分かった」

「失礼します」

先輩に鍵を渡すことには成功した。持っていてほしいから、恋人には部屋の鍵を渡すというから、そうしたかっただけだ。先輩はどうとったかは分からないけど、好意を示されたので、それに応えて持っていてくれることになったのだと思う。

ただ、今回の「酔ったふりした誘惑作戦」は失敗だった。先輩は酔った私を自分のものにしてしまおうなどとは思わなかったに違いない。もし私が望んでいるとしても、こんな酔っている状態で自分のものにしたところで後悔するに違いないと思っただろうし、私も酔った勢いで誘惑したことを後悔すると思ったのだろう。

私の考えが間違っていた。あんなに良い先輩にこんなことは二度としないでおこう。

でも酔って誘ってみたのに先輩が何もしなかったことには少し失望した。そんなに私って魅力がないのかしら? どうしたら、もっと私のことを気にかけてくれるようになるか考えてみよう。

それで先輩の気を引く方法を思いついた。とっても簡単だった。会社のほかの人からも綺麗で可愛いと思われることだ。先輩はうかうかしていられなくなると思う。
月曜日、会社の廊下の向こうから先輩が歩いてくる。私の方をじっと見ている。近づくと私だと分かったみたい。私はいつもと同じリクルートスタイルだけど、おしゃれしてイメージチェンジをしている。

まず、眼鏡をかけていない。『ごっこ』の時のようにコンタクトに変えている。髪はカットしてショートにしている。上着の下はフリルのついた淡いピンクのブラウスに変えている。靴は黒のハイヒールを履いている。メイクアップも工夫して派手さがなく清楚な感じに仕上げた。「恋愛ごっこ」の時とはまた別の大人の綺麗さ可愛さを工夫してみた。

日曜日の午後に思い立って表参道のヘアサロンに行ってきた。工藤さんに前から小顔で顔立ちがはっきりしているから髪をショートにした方が良いと勧められていた。会社でイメージチェンジをするなら髪形を変えるのが一番だと、思い切ってショートカットにしてもらった。言われたとおり自分でも驚くほど似合っていた。

先輩がじっと見ているので、すれ違いざまにいつもと違ってニコッと微笑んであげた。驚いているのが見て取れた。会社にいる時の以前の私とはまったく違うイメージチェンジをしていたからだ。

先輩には綺麗に可愛く変身するのは『恋愛ごっこ』の時だけで、会社ではいつものとおりにしていると言っていたけど、これからはこうすることにした。先輩にだけ綺麗で可愛い私を見せてあげていたから、きっとこの変身はどういう心境の変化かと気になってしかたがないと思う。

昼食時に食堂へ行く途中で広報部の山本さんと廊下ですれ違った。山本さんは私だと気が付いて驚いてじっと見ていた。すれ違いざまに先輩にしたのと同じようにニコッと微笑んであげた。山本さんはとっても驚いていた。きっと先輩に私のイメチェンのことを話すと思う。

◆ ◆ ◆
突然、私が綺麗で可愛く変身して通勤するようになって2週間がたった。次のデートの約束はまだしていない。あれ以来、先輩と廊下ですれ違うと、以前のよそよそしさとは違って、目を合わせてニコッとする。

先輩はどういう意味だろうか、ほかの人にもニコッとしているのだろうかと心配しているに違いない。ひょっとして綺麗に変身した私に誰かが交際を申し込むかもしれないと心配していることもあり得る。

それを試す丁度良いチャンスが訪れた。水曜日の夜、9時過ぎに先輩に電話を入れた。

「先輩、ご相談があります」

「何か困ったことでもできたのか?」

「あのー、総務課の荒木さんから食事に誘われたんですが、どうすればよいかと思って迷っています」

「ええっ、食事に誘われた!」

電話口からも驚いてうろたえている感じが分かった。予想したとおりの反応だった。ちょっと間があって、先輩は平静を装って話してくる。

「荒木君と言えば、確か有名国立大学出身で、総務課でも超エリートだぞ」

「そうです。すごくかっこいい人です。廊下で呼び止められて、今度一度夕食でも一緒にしないか、あとで連絡するからとそっと小声で言われました。まだ連絡はありませんが」

「へー、それでどうするつもりなんだ」

「どうしてよいか分からないから相談しているんです」

「受けてみたらどうかな。『恋愛ごっこ』もしているから、なんとかなるだろう」

「すごく緊張しています。荒木さんはすごくかっこいいから、声をかけられるなんて思ってもみなかったので」

「確かに前に上野さんが惚れたと言っていた新谷君よりかなり良いとは思う。ただし、彼女がいるかどうかは分からないし、同じようにほかの誰かとも食事をしているかもしれないが、それは分からない」

「そうですね」

「何事も経験だから、気楽に受けてみればいいじゃないか? 恋愛において一番大切なことは、自分の気持ちに正直になることだと思うけど、どうなの?」

いいの? 先輩、荒木さんと付き合っても。それは本心なの?

「よく考えてみます。夜分、相談にのっていただいてありがとうございました」

先輩は私がなぜ相談の電話をかけてきたのか考えてくれたのだろうか? 『恋愛ごっこ』をしているから先輩に遠慮してかと思った?

先輩は私にその話は断れとは言ってくれなかった。先輩のことだから、私のことを思って、私の意志を尊重してくれたのだと思う。でも本当はどうなの? 私のことどう思っているの? はっきりしてほしい。知りたいのは先輩の本心です。

◆ ◆ ◆
木曜日の晩の同じころにまた先輩に電話を入れた。先輩はすぐに出てくれた。

「どうした?」

「荒木さんからお誘いの電話が入りました。それで今週の土曜日に渋谷でデートすることになりました」

「そうか、それはよかった。頑張って」

「結果はご報告します」

「分かった。なら話を聞くよ。『恋愛ごっこ』の指導者だから責任がある」

「お願いします。じゃあ」
荒木さんと木曜日に土曜日のデートの約束をしてから、私は迷っていた。はじめは素敵な人から誘われてとっても嬉しかった。でもそうはお答えしたもののあまり気が進まない。

先輩はあの時に言ってくれた。『何事も経験だから、気楽に受けてみればいいじゃないか? 恋愛において一番大切なことは、自分の気持ちに正直になることだと思うけど、どうなの?』

木曜の晩に先輩に電話でデートすることを話してから、一晩中眠れなかった。それで結論が出た。金曜日の昼休みに荒木さんに電話を入れて、思っている人がいるので、申し訳ないけど、デートをやめにしたいと話した。荒木さんは無理に誘って申し訳なかったと受け入れてくれた。

それから日曜日の夜まで、先輩とのことをどうすればよいのか、ずっと考えていた。あっという間に夜になってしまった。ようやく私は自分の気持ちをはっきり言ってしまおうと決心した。夜9時過ぎになって、先輩に電話を入れた。

「どうなった? 心配していたよ」

「夜遅く申し訳ありません。明日の月曜日、仕事が終わってから、ご相談したいことがあります。どこか静かなところで話を聞いて下さい。お願いします」

「分かった。話を聞こう。それなら新橋駅近くに『四季』という和食店があるので予約しておこう。個室ではないけど、囲いがあって声が漏れず人目もそんなに気にならないから。7時にそこで。場所が分からなかったら電話を入れて」

「分かりました。7時に『四季』ですね。お願いします」

何の相談だろう。先輩はそう思ったに違いない。

◆ ◆ ◆
月曜日は朝からあれこれ考えて仕事が手に付かなかった。どう言ったらよいか? 断られたらどうしよう。きっと泣いてしまうだろう。すごく時間が進むのが遅く感じられた。もうあれこれ考えていてもしかたがない。なるようにしかならない。後悔しないように話してみよう。先輩は何というだろうか?

6時過ぎに会社を出て出口から離れたところで先輩が出てくるのを待っている。6時半になったところで、先輩が出てきた。いつもなら飛んでいくところだけど、気づかれないように、あとについて行く。新橋の『四季』へ向かうが、付いて行けば間違いないし、待たせることもない。

先輩が店に入った。ちょっとの間をおいて私も店へ入った。先輩はすぐに私に気が付いた。振り向いた先輩の顔が緊張しているのが分かった。私も緊張している。

二人は店員さんに案内されて席に着いた。掘りごたつの席で通路側だけが開いていて、前後は高い間仕切りがしてあって、声が漏れないようになっている。

先輩が飲みものを聞いてくるので何でも良いと言うとサワーを二つとつまみになるような料理を3品ほど注文してくれた。その間、私は黙っている。

飲み物が来るまで二人は話そうとしない。サワーが運ばれてきた。とりあえず乾杯したが、お互いに無言だ。私はすごく緊張している。でも先輩も緊張しているのが分かった。

「相談って何?」

少し間をおいて私は先輩の目を見ながら落ち着いてゆっくりと言った。

「もう『恋愛ごっこ』を終わりにしたいのですが?」

先輩はそれを聞いて目を見開いて、すぐに私の話をさえぎって言ってくれた。

「じゃあ『恋愛ごっこ』は終わりにして、僕と本当の恋愛をしてくれないか?」

こう言って先輩はようやく一息ついたのが分かった。

私はそれを聞いてとても驚いて先輩の顔をじっと見た。言ってもらえたんだ。どう言おうかずっと考えて悩んでいた時間はなんだったのだろう。

良かった。嬉しさがこみあげてくる。私はきっとこれまで先輩に見せたことのないような笑顔で言ったと思う。

「はい、喜んでお受けします」

「そうか、ありがとう。自分に素直になってよかった」

「本当は私も先輩と本当の恋愛をしたいと言おうと思っていたんです。それで今までずっと悩んでいました。断られたらどうしようと思って。もう安心しました」

「良かった。荒木君と交際したいから『恋愛ごっこ』を終わりにしたいというのではないかと心配していたんだ」

「実は荒木さんとは一度は電話でデートのお約束したんですが、前日になって思っている人がいるのでデートをお受けできませんとお断りの電話を入れました。そして土曜日と日曜日に先輩にどう言おうかとずっと考えていました」

「二人の思いは同じだったということか?」

「そうみたいです」

「これからはちゃんと付き合おう」

「ありがとうございます。とっても嬉しいです。でもこれまではちゃんと付き合っていなかったのですか?」

「いや、『ごっこ』だから制約があるだろう」

「どんな制約ですか?」

「どんなって、キスするとか、抱き締めるとかは『ごっこ』には入っていないから」

「そうだったのですか? これからは制約なしでお願いします」

「ああ、分かった」

ここで本当なら、私を抱き締めてキスしてほしかった。でも通路には人が通る。残念ながらあきらめざるを得ない。でも手くらい握ってほしかった。先輩は私の答で満足してしまっている。先輩らしい。まあ、良しとしようか?

「それから、私のこと上野さんじゃなくて、沙知と名前で呼んでくれませんか? でもさっちゃんは止めてください。童謡にありますが、いやなんです」

「呼び捨てはどうかと思うので、沙知さんでどうかな? 僕のことも先輩と言わずに勉さんとか呼んでくれないか? 僕も童謡にあるような勉君はやめてほしい」

「分かりました。でも先輩の方が言いやすいので、これまでどおりに言ってしまうと思います。会社では今までどおりで、休日はできるだけ名前で言うことでも良いですか?」

「ああ、それでもいいよ」

それからはすっかりいつものように楽しい会話が続いた。夕食になるようなものも頼んで食べた。先輩は調子にのって私が聞かれたら困るなと思っていたことを聞いてきた。

「ところであの貸してあげたDVD見た?」

私は恥ずかしくて顔が赤くなっていたと思う。顔がほてった。先輩は私の様子からやはりまずいことを聞いたかなと思ったみたい。これは『セクハラ』だと思う。

「ええ、見ています。勉強になります。もう少し貸しておいて下さい」

「あげるよ、ゆっくり見たらいい」

「先輩、いえ勉さん、聞いていいですか? カバーだけを見ても、いろいろ変わったタイプのものがあるようですが、ああいう趣味があるのですか?」

これは『逆セクハラ』だけど、お返しに聞いてみた。

「いや、そういう訳でもない。興味本位でいろいろなものが見たかっただけだから」

興味本位で買ったからしかたがないというけど、そういうことに興味があるということを間接的に言っているのと同じだと思う。先輩は全部貸すのはまずかった、差しさわりのないものを選んで貸すのだったと思っているに違いない。

「顔が赤くなっていますよ」

「沙知さんも」

「僕が悪かった。もうこの話はやめよう。もともとああいうものはこっそり一人で見るものだから」

「そうしましょう」

「今日はまだ月曜日だからそろそろ帰ろうか? 今日の会計は僕に払わせてほしい。僕の方から沙知さんに気持ちを伝えたかったのだから」

「いえ、私が相談を持ち掛けたので、私に払わせて下さい」

「じゃあ、お互いに気の済むように割り勘にしようか?」

「そうしてください。これからも」

「分かった。そうしよう」

二人は店を出て、地下鉄の駅へ向かう。私が先輩に身体を寄せると肩をしっかり抱いて歩いてくれた。先輩の気持ちが伝わってくる。良い感じだ。もう『恋愛ごっこ』は終わった。制約もないと言ってくれた。会社の誰かに見られるかもしれないけど、もうかまわない。その方が好都合だ。思い出の晩になった。
火曜日、先輩と廊下ですれ違った。私はイメチェンしたリクルートスタイルだ。すれ違いざまにニコッと微笑む。先輩も笑みを返してくれる。幸せな気分になる。その日の夜に私から電話した。

「昨晩はありがとうございました。ところで次のデートの予定を決めたいのですが、よろしいですか?」

「望むところだけど」

「恋人同志なら月一回はないですよね」

「そうだね。毎日会社で会えるけど、毎週でも外で会って話がしたい」

「それじゃあ、今週の土曜日に鎌倉へ行くのはどうですか?」

「いいね」

「時間と集合場所ですが、早めでよければ、午前8時に溝の口駅のJR方面の出口でどうですか?」

「了解した。楽しみだね」

「お天気になればもっと良いけど」

「雨なら、場所の変更もありで」

「分かりました」

◆ ◆ ◆
土曜日は快晴の上天気になった。少し暑くなりそうだ。私は約束の時間に軽快なスタイルで着いた。

白っぽいスカートにこの前と同じ白いスニーカーを履いて、白い半袖のポロシャツ、ピンクのリュックサックを背負って、ピンクのハットをかぶっている。

先輩はカッターシャツにコットンパンツ、歩きやすいようにスニーカーにしている。二人は気が合うというか、ほぼ同じスタイルになっている。

「お弁当におにぎりを作ってきました。お昼に食べてください」

「いつもありがとう」

二人はJRの溝の口から川崎へ出て、横須賀線に乗り換えて、北鎌倉で降りた。晴天の土曜日だから電車は混んでいたので、話はできなかったが、私は先輩に身体を寄せることができて、幸せな気持ちでいっぱいだった。

北鎌倉から歩いて途中のお寺などに寄りながら鎌倉の鶴岡八幡宮へ向かった。明月院でアジサイを見た。丁度見ごろだった。鶴岡八幡宮でお参りをしてから境内でお弁当のおにぎりを食べた。

先輩に大きめのおにぎり3個、私は小さ目のおにぎり3個を分けて包んでおいた。おにぎりの具は鮭と昆布とおかかにした。水筒を取り出して、カップにお茶を注いであげた。

横に座っている先輩が私のことをみている。目線を感じて顔を向けると目線を外された。

「おにぎりどうでしたか?」

「とてもおいしかった。いつも心のこもったお弁当ありがとう」

「ただのおにぎりですが、そう言われると作った甲斐があります」

私は水筒と包装紙をリュックにしまった。二人はまた手を繋いで歩き始めた。そして参道の回りの店を見て回る。

「何か記念になるものでもプレゼントさせてくれないか?」

「必要ないです。その代わり記念に一緒の写真を撮ってください」

途中、先輩が私の写真を撮ってくれたが、二人一緒の写真は撮っていなかった。そばにいた人に頼んで、鶴岡八幡宮を背景に二人の写真を撮ってもらった。

私のスマホでも撮ってもらった。私はとっても嬉しかったのでその写真を先輩に見せた。先輩が私の肩をしっかり抱いてくれている写真だ。私が笑って写っている。大切な記念の写真だ。

「これからどこへ行きたい?」

「まだ、時間がありますから、由比ガ浜へ行ってみたいけど」

「ここから歩くと30~40分かかるから、鎌倉駅から江ノ電で由比ガ浜へ行こう。そこから歩いて海岸へ行けば良いみたいだ」

「そうしましょう」

由比ガ浜へ着いた。海の匂いがする。波はほとんどない。二人で手を繋いで海を眺めている。私は海に入ってみたくなって、スニーカーを脱いで波打際まで行った。先輩はそれを写真に撮ってくれた。

ここでも一緒に写真を撮りたいと言って、近くの人に頼んで江の島を背景にして撮ってもらった。私は素足で先輩はスニーカーを履いている写真だ。

先輩はそろそろ帰ろうと言って、足が濡れて砂がついている私を座らせて、ハンカチで足を拭いてスニーカーを履かせてくれた。そうしてくれたことがとても嬉しかった。

帰りは由比ガ浜から江ノ電に乗って藤沢へ抜けて、川崎から溝の口へ戻ってきた。川崎から溝の口までは座席に隣り合わせで座ることができた。

座るとすぐに私は先輩の肩に寄りかかって眠った。疲れた。先輩は寝過ごすといけないので起きていると言っていた。

溝の口に着いたので、私を起こしてくれた。

「これからどうする。食事をしようか?」

「ちょっと疲れたので、焼き肉を食べて元気をつけませんか? 安くておいしいところがあります。店はあまり綺麗ではありませんが、今日はこんな格好ですし、においも洗濯すればとれますから」

「そうしよう。案内してくれる」

駅前から歩いて5分くらいのところに古いビルがあり、その二階に焼肉屋がある。私はいつも食べている肉をそれぞれ二人前とごはんを注文してあげた。それとビールも頼んだ。喉が渇いたので二人で飲みたかった。でも飲み過ぎには注意しよう。

「ここは焼き肉が食べたくなった時にときどき一人で来ています。値段の割においしいです」

「良いお店を知っているね」

「女子が一人焼肉って、おかしいですか?」

「いやいや、女子も肉食系が多くなったと、ちまたでは言われている」

「それどういう意味ですか?」

「別に深い意味はないけどね」

ビールと肉が配膳された。カルビとロースが二人前ずつ。まず、ビールで乾杯する。冷たいビールがおいしい。私は肉を焼き始める。焼き上がると二人で食べ始める。おいしい。タレも良い味だ。ごはんと一緒に食べる。

焼き肉がおいしいので二人は夢中で食べる。私は先輩のコップが空くとビールを注いであげる。それから肉も焼いてあげる。もちろん焼き上がった肉は食べている。二人とも無言だ。

ようやく食べ終わった。やはり二人ともお腹が空いていた。ようやくお腹が落ち着いたところで、私はスマホの写真を見ている。

「楽しかったね」

「思い出の写真です。今日を精一杯生きた証になります」

「大げさじゃないか? また、行こうよ」

「大げさではありません。だって、明日、私が生きている保証なんてありませんから」

「生きているさ」

「本当にそう言えるんですか? 父は一晩で亡くなりました」

「そうだったのか?」

「先輩も明日はいなくなっていることもありえます。帰りに事故にあったりして」

「縁起でもない。僕は沙知さんのためにも今は死ねないし死なないから」

「誰も明日のことなんか分からないと思います」

「確かに、前にも言ったと思うけど、神様だけが知っていればよいことを僕は知ろうと思わない。ただ、今を精一杯生きていくだけだ。それに沙知さんのために事故にも合わないようにしてね」

「だから、私も一日一日を大切にして生きていきたいのです」

「ごめんね、不用意なことを言ってしまった。二人で毎日を大切にしていこう」

「そうおしゃっていただいて嬉しいです。この写真は二人が仲良く生きていた証になる思い出の写真です」

勘定は割り勘にしてもらった。先輩は意外に安いので驚いていた。二人は駅のホームで別れた。今日もまた楽しい良い一日だった。
『恋愛ごっこ』が終わってから、期待していたけど、先輩はずっと私をマンションに誘ってくれなかった。私も先輩をアパートに誘わなかった。部屋に誘えばどうなるか二人には分かっていた。

「今度の土曜日に多摩川で花火大会があるけど、部屋に来て一緒に見ないか? 部屋から花火が見えて綺麗だから、それにらくちんだぞ」

「本当に部屋から花火が見えるんですか?」

「入室してから花火大会があって初めてベランダから見えるのに気が付いた」

「一緒に花火を見てみたいので行きます」

「それなら、6時に来てくれる。飲み物と食べ物を用意しておくから」

せっかく先輩が部屋に誘ってくれた。行かない手はないし、この機会を絶対に断ってはいけない。私は先輩とならもうどうなっても良い、いや早くどうかなりたいと思っている。迷わずにそれを受け入れた。

◆ ◆ ◆
土曜日、私は朝から落ち着かない。今日は浴衣を着て行くときめている。花火大会見物ときたら浴衣にきまっている。でも可愛い浴衣はあるが、父に買ってもらってから何回も着ていない。うまく帯が締められるか心配だ。

それで朝から浴衣の帯を締める練習をする。まず、ネットで帯の締め方を検索する。一人で締める方法があるし、結び方も色々見つかった。浴衣で締める練習をすると浴衣に皺ができると困るので、まず部屋着で練習する。

前で結んで後ろへ回す。何回か締めると要領が分かってきてできるようになった。ほっとした。これで浴衣姿を先輩に見せてあげられる。

今日持っていくものを考える。ひょっとしてお泊りになるかもしれない。そういうふうになったらいいなと思うけど不安だ。あとで借りてきたDVDを見ておこう。

そうなると、朝帰りになるから、浴衣で帰るとまるでお泊りしてきたみたいだから、恥ずかしい。念のため着替えを用意していこう。

あれもきっと必要だと思うけど、私が用意していくのもおかしいし、もちろん手持ちもない。先輩は気の付く人だから、準備はしてくれているだろう。その時はそのときだ。なるようになる。そうなる覚悟は誘われた時からできている。

先輩は飲み物と食べ物は用意しておくと言っていた。でも何か持っていこう。おいしくて気に入っているナッツの買い置きがあった。先輩も気に入るはずだから持って行こう。
 
準備ができた。遅い昼ご飯を食べながら、DVDを見ておく。まえにも1回見てこれが2回目になる。何回見ても恥ずかしい。一人だから見ていられる。先輩と一緒だったら恥ずかしくて見ていられないと思う。気持ちの整理のためにしっかり見ておいた。緊張して見ていたせいか少し疲れた。

眠っていた。気が付いたら4時少し前だった。行く準備をする。シャワーを浴びてお化粧をする。それから浴衣を着る。帯を締める練習をしてあったが、実際の浴衣となると、うまくいかない。3回目でようやく気に入った締め方になった。ホッとした。

◆ ◆ ◆
電車に乗ったら、浴衣姿の女の子が大勢いた。それにもう花火会場へ向かう時間なので、とても混んでいた。二子新地では大勢の人が降りたので助かった。

6時少し前に先輩のマンションに着いた。私がここに来るのは、先輩がインフルエンザで寝込んだ時以来だ。6時丁度に部屋のドアホンを鳴らす。

先輩はドアを開けるとピンク地に赤い花模様の浴衣に真っ赤な帯を締めた私を見つけた。じっと私を見ている。気に入ってもらえたみたい。

赤い鼻緒の下駄を脱いで玄関を入る。そのまま窓際まで歩いて行って外を見てみる。

「花火の準備がしてあるのが見えますね。本当にここは特等席ですね。楽しみです」

「今のうちに飲んだり食べたりしないか? オードブルもあるし、暗くなる7時過ぎにならないと始まらないから時間がある」

「準備するのをお手伝いします。おいしいナッツがあったので持ってきました」

「お酒は何にする? ビール、赤ワイン、缶チュウハイ、ジンジャエール、ジュース、何でも用意してあるけど」

「赤ワインはどうですか? ここなら酔っ払っても心配いりませんから」

「いいね」

部屋は前に来た時よりすっきりしている。それに良いにおいがする。きっと大掃除をしてくれたみたいだ。窓も綺麗に拭いてある。室温も涼しくて快適だ。勧められてソファーに座る。

二人で赤ワインを飲みながら、オードブルを食べる。私の持ってきたナッツがおいしいのか食べてくれている。日没が近いけど、外はまだ30℃以上はあると思う。来るときにかなり暑くて汗をかいた。でも室内は冷房が効いていて汗も乾いた。

二人はソファーに座って、外が少しずつ暗くなっていくのを見ている。私のグラスのワインが少なくなると注いでくれる。

「この赤ワインおいしいですね。少し酔いが回ってきたみたい」

そう言って、先輩の肩により掛かってみた。

「僕も気持ちよくなってきた」

お互いに寄りかかる。お腹が膨れてアルコールが入ったので、少し眠くなってきた。

いつのまにか二人はもたれ合って眠ってしまったみたいだ。「ドーン」という大きな音で目が覚めた。もう外はすっかり暗くなっている。先輩も目を覚ましたところだった。

「花火が始まったみたい」

「ベランダへ出ようか?」

ガラス戸を開けてベランダに出ると、ムッとした暑さだった。でも時々川風が吹いてきて不快というほどではない。

どんどん花火が上がっている。始めは二人で立ってみていたが、部屋の端に腰を下ろして花火を見ることにした。背中は部屋の冷房で涼しい。

「とってもきれい。聞いていたとおり、ここは特等席ですね」

「部屋の明かりを落としたほうが見やすいかもしれない」

先輩が部屋の明かりを落とした。私は花火を見ながら先輩の手を握ってみる。そして肩に頭を寄せてみる。先輩は私の肩に手を廻して抱いてくれた。すぐに身体を預けてみる。良い感じだ。

私は花火より気持ちがそっちの方に向いている。でもこうして身体を寄せ合っているとなぜか幸せな満ち足りた気持ちになってくる。

私は花火を楽しんでいる。大好きな先輩とこんな良い場所で一緒に見られるなんて最高だ。私は先輩の腰に手を回している。先輩はまんざらでもなさそう。しめしめ。

花火が終わった。長いようであっという間だった。終わってからもしばらく二人は動こうとはしなかった。このままずっとこうしていたかった。

どちらからでもなく、自然にキスをした。先輩は私を抱き締めてくれた。待ってましたとばかり力一杯抱きついていく。

「今日は泊ってほしい」

耳元で囁かれた。すぐに頷く。先輩は立ち上がって私の手を引いて寝室へ向かう。そして二人はベッドに倒れ込んだ。私はどうしてよいか分からず先輩の腕をつかんでいた。先輩が浴衣に手をかけてくるので緊張してドキドキする。心配になって私は先輩の耳元で囁いた。

「優しくしてください」

「ああ、優しくする。心配しないで」

それを聞いて力一杯しがみついた。私はこうして先輩のものになった。

◆ ◆ ◆
この部屋は3階だから、明かりを消していても街灯のあかりが入ってきて、薄明るい。冷房は良く効いている。

私は布団の中から先輩に話しかける。顔が見えないけど、恥ずかしいので布団にもぐりこんで顔を出さない。

「少し眠ってもいいですか」

「だめ、もう一度可愛がってあげたいから」

「もうこれ以上は無理です。まだ痛みがあって、ごめんなさい」

「分かった。でも少し話をしないか? そのままでいいから」

「はい」

「大丈夫だった」

「ええ、でも思っていたよりも痛かったです」

「沙知さんを早く自分のものにしたくて力が入った。ごめんね、もっと優しくするんだった」

「いいえ、優しかったし、とても嬉しかった。それからもう沙知と呼び捨てにしてください」

「分かった。そうさせてもらうよ」

「私、こうなると思って、ビデオを見て、予習してきたんですが、やはり緊張してしまって、それに予想以上に痛かったので」

「痛がっていたのは分かっていたけど、途中でやめるわけにはいかなかった。ごめんね」

「うまくできましたか、よく分からなくて」

「ああ、うまくできたから」

「よかった」

「そのビデオは『処女喪失』ってやつかな?」

「そうです。何回か見てきました。でもやはり実際は違いますね」

「ビデオを貸してあげてよかったのか、悪かったのか?」

「見ておいてよかったです。心の準備というか、覚悟はできましたから」

「まあ、結果オーライということかな?」

「慣れてきたら、別のビデオのようなこともしてください」

「ああ、沙知の望みどおりになんでもしてあげる」

「ギュと抱き締めて寝てくれますか?」

「もちろん、いいけど」

「抱き締められたままで眠らせて下さい。あのあとにこうしてもらうのが夢だったんです」

「分かった。いい夢が見られるように、沙知、大好きだ」

先輩は布団の中に入って来て抱き締めてくれる。抱き締められた私も力一杯抱きついた。良い感じ。そのまま静かに動かずにいると、いつのまにか二人は眠ってしまった。

◆ ◆ ◆
夏の夜明けは早い。4時ごろには明るくなってくる。目を覚ますと先輩の腕の中にいた。私は丸まって背中を向けて寝ていて、それを先輩が後ろから抱きかかえてくれている。抱いて寝てもらった。幸せな気持ちでいっぱいになる。

夜中にまどろみながら何度も抱き合ったり離れたりしていたような気がする。この形が一番落ち着くみたいだ。そのうちにまた眠ってしまった。

先輩が動いたのでまた目が覚めた。もうすっかり明るくなっている。このままでは恥ずかしいので、先輩が目をさまさないうちにベッドから抜け出してバスルームへ着替えを持って入った。

先輩は私がバスルームを出たときのドアの音で目を覚ましたみたい。私を見つけてじっと見ている。私はTシャツとミニスカートに着替えていた。

「おはよう」

「おはようございます。昨日の残りで朝食と昼食を作りますから食べて下さい。朝食を食べてから帰ります」

「休みだからゆっくりしていけばいいのに」

「帰ってお洗濯やお掃除をしなければなりませんから。今度の土曜日には私の家へ泊まりに来てください。夕食を作りますから。中華はどうですか?」

「もちろん喜んで」

「紙袋を貸してください。浴衣を畳んで持って帰りますから」

「その浴衣、とっても似合っていたね。それにとっても色っぽい」

「父が大学へ入学したときに作ってくれました」

「着替えも準備して来てくれたんだね」

「花火の浴衣で朝帰りするわけにはいきませんから、女の身だしなみです」

「ありがとう」

朝食の後片付けをしてから、私は幸せで胸をいっぱいにして帰ってきた。