カコン。
冷え切った冬の空に乾いた音を響いた。
斧で両断した薪が地面に落ちており、俺はそれを拾い集める。
割った薪が十分な数に達したことを確認した俺はタオルで汗を拭き家に戻ることにした。
木製のドアを開けると、軋んだ音が上がった。
どうやら蝶番に油をささないといけないようだ。朝食の後にやっておくとしよう。
俺は部屋の真ん中にある暖炉に薪を並べ、乾いた麻を塊にしたものを上に置く。
カチッカチッカチッ。
俺は火打ち石を打ち鳴らすと、飛び散った火花が麻の塊に落ち火が付いた。
薪をくべ暖かな炎が暖炉についた事を確認して、俺は右奥の部屋の扉を開き中に入る。
部屋は暗く、カーテンは閉まったままだ。
部屋の主は案の定、まだ起きていない。
窓のカーテンを勢いよく開けて朝日を部屋に取り込むが、ベットの主はまだ起き上がる気配はないようだ。
諦め悪く毛布を被りもぞもぞと動いているが、中から出てくるつもりはないらしい。
「いい加減にしてくださいキルシュ、朝ですよ。起きてください。朝食を食べないで相談を受けることになりますよ」
「う~ん、起きたくない。あと半日寝かせてぇ……」
「そんな訳にいかないでしょう。村の人は待ってはくれませんよ」
俺は容赦なく毛布を剥ぎ取った。
白金のように細く輝く髪に尖った耳、透けるような石花石膏のごとき白い肌をした一糸まとわぬエルフの華奢な体が露わになる。
主ことキルシュは、冬の朝の寒さに体を縮こまらせて震えた。
「寒! ザイ、ひどいよ。いきなり毛布を剥ぐことないでしょ」
「いつまでも起きないからです。それよりまた寝間着を着ないで寝たんですね。朝方は冷えるから着てくださいといったはずです。また風邪を引いて辛い目に合っても知りませんよ」
「裸で寝ると気持ちいいんだよ。寝間着を着て寝るのってどうもぐっすり眠れないし……。それに風邪引いた時はザイに看病してもらうからいいもんね」
「俺の仕事を無駄に増やさないでください。ただでさえ仕事の量が沢山あるのにこれ以上増やされたら貴方のお世話が滞りますよ。さ、服を着て居間で待っていてください。暖炉に火を入れてありますから居間は暖かいですよ」
俺は昨晩用意しておいたキルシュに着てもらう服をベットの上に置いた。
「やっぱりザイは気が利くよね。大好き」
「そんなことをいって身支度まで手伝わせようとしてもダメですよ。今日も通常営業の日なんですから、自分で立って早く準備してください。さっきも言いましたが村の人たちは待ってくれませんよ」
「ちぇ……。庵に来たばかりザイはすごく優しくてなんでもかんでもやってくれたのに、最近はすごく冷たいね。ボクの事、嫌いになっちゃった?」
円らな瞳で上目遣いといういつものおねだりポーズをしてくるキルシュだが、俺は素っ気なく応じてやり過ごす。
「このやり取りは何度目ですかね。俺にはもう通用しませんよ。ゴルトベルク先生からもキルシュは絶対に甘やかさないようにと厳命されていますからね。自分の事は自分でやってください。身支度できたら居間で待っていてください。いいですね?」
「はーい。ゴルトといいザイといい、どうしてボクに辛く当たるかなぁ。なんか口うるさいママみたいだよ」
「誰が貴方のママですか。そもそもあなたがいつもしっかりしてくれれば、こんなことやり取りはしなくて済むんですよ。それでは俺は朝食を作りますので居間にいてくださいね。それまで身支度ができていなかったら、朝食は抜きですよ」
「もう、わかったよ。着替えるから早く出て行って!」
「はいはい」
彼はエルフとして既に八百年以上も生きているはずなのに、どうしてこんなに子供っぽいのだろうか。
彼の五十分の一程度の時間しか生きていない俺は、いつもの朝のやり取りを終えて苦笑した。
我が主キルシュはエルフ、それも上のエルフ(ハイエルフと称される)という古代種族である。
身長は175cm体重は50kgしかなく、エルフ特有のかなりほっそりとした体つきをしている。
その容姿は恐ろしいほど美しいという形容詞が似合うほどに整っている。
森の神シルヴィアが自身に似せて生み出したとされるこの繊細優美な種族は、長命種としても知られており、一千年以上の時を生きる者もいるという。
キルシュは八百歳を優に超えているが、それ以上は数えることが面倒になったという理由で正確な年齢は分からない。
創造神同様に森を愛し慈しむ種族であるエルフたちは当然森の中で暮らすことを好むが、中には目的を見出して故郷の森を飛び出す者がいる。
キルシュもその一人だ。
彼がどのような目的をもって人の住む世界に済むようになったか、それは後で語ることにしよう。
俺はキルシュの部屋を出て居間から台所に向かった。
窯とオーブンに火を入れ、冷蔵箱からバターとチーズそれに牛乳と塊のハムを取り出した。
先日作ったグラタンの残りを使ってクロックムッシュにしよう。
冷蔵箱の上段を確認すると、氷はほとんど溶け切っていて受け皿に水が溜まっていた。
「またキルシュに氷を作ってもらわないといけないな」
冷蔵箱とは木製で造られた棚の中に亜鉛で覆われた壁で囲った食品貯蔵設備である。
都に住まう富裕な商人の家庭や、王侯貴族の館や城の台所で使われる高級な代物であり、上部の棚に金属製の皿が置かれ、そこに氷塊を置いて空気を冷やす。
空気は冷たくなると密度が濃くなり下に溜まるようになり、下部の冷気が循環した場所に食材を置くことで長期的に保管することができるのだ。
この設備は、一日に一回は受け皿の水を捨てて氷塊を補充しないといけないため、一般庶民では手の届かない奢侈品であるが、キルシュが新鮮な食材がどうしても食べたいと大枚をはたいて購入したのである。
勿論、氷塊の補充はキルシュが担当しており、その手段は彼の職業
冷蔵箱の扉を閉め、取り出したバターとホワイトソースをボウルにあけて湯煎の準備をする。
コンロにかけた薬缶のお湯が沸くまでまだ時間があるから、その間にパンをとりだし、四枚の厚切りサイズに切り分ける。
次にチーズとハムをまな板に乗せて切りかけていると、薬缶から蒸気が吹き出し湯が沸いたことを知らせる。
薬缶の湯を鍋に注ぎ、バターが入ったボールを中に入れる。
熱で柔らかくなったバターをヘラでかき混ぜ、ふるいにかけた薄力粉を入れてさらにかき混ぜる。
牛乳を少しずつ、二度三度とわけてダマにならないよう少しずつ混ぜていく。
とろみがでたら、最後に塩とナツメグの粉末を加えてホワイトソースの完成だ。
ヘラについたホワイトソースを指に取り、舐めて味見をする。
「よし、塩気は十分だな」
あとは切り分けた食材をパンに乗せ、オーブンの余熱で焼き上げれば完成だ。
クロックムッシュが焼きあがるまでの間、少し時間があるので俺は台所の戸を開けて裏口から外に出た。
裏口から外にでると、猫の額ほどの小さな土地に俺が作った菜園がある。
そこでは玉葱や人参などの野菜の他にちょっとしたハーブも育てている。
ペパーミントがいい具合に育っているので、葉を摘んでミントティーにする事にした。
ミントの葉を洗い、ポットに入れて薬缶の湯を注ぐ。
最後にオーブンを開けると、こんがりチーズに焼け目の付いたクロックムッシュの完成だ。
皿に乗せて居間に運んでいくと、腹を空かせたキルシュがすでに食卓についてた。
「うーん、チーズの焼けたいい匂いが食欲をそそるね。クロックムッシュなんて朝から洒落てるじゃない」
「うまく出来ているといいんですが」
「ザイが作ってくれる料理はいつもおいしいから心配いらないよ」
この人は俺の料理を気に入ってくれているようなので、そこはとても助かっている。
テーブルにクロックムッシュを乗せた皿を置くと、キルシュは早速カトラリーケースからナイフとフォークを掴んだ。
「キルシュ、手は洗いましたよね?」
「もう、ほんとに口うるさいな。顔を洗った後にちゃんと洗っておいたよ」
「なら結構です。どうぞ召し上がってください」
口を尖らせるキルシュを見て確かに我ながら口うるさいと思うが、この人は油断すると自分の顔を洗う事すら忘れてしまうほどのズボラなので、ついいちいち確認してしまう。
キルシュはいそいそとクロックムッシュを切り分け、嬉しそうにクロックムッシュを大きく開けた口の中に放り込んだ。
「カリっとしたパンと中のとろけるチーズの組み合わせが堪らないねぇ。あれ、ボクばっかり見てるけどどしたの?まさかうっかり口からこぼすんじゃないかと見張ってるわけじゃ……」
「……あぁ、すいません。ぼーっとしていました。早く食べないとお客さんが来てしまいますね。急ぎます」
ガツガツとクロックムッシュを頬張る俺だったが、やはり目はキルシュの方を追ってしまう。
一挙手一投足、全てをただひたすらに見続けていたと思う時もある。
俺はこの人を愛し、惚れているのだ。
しかし俺は百年にも満たない時しか生きられない人間の護衛士、翻って彼はあと数百年は生きるであろうエルフの魔術師。
立場が違い過ぎるし、生きる時も違い過ぎる。
叶わぬ思いを抱き続けるのは辛いが、今は彼を見て、彼の世話を焼き、彼の役に立てるだけで十分幸せだ。
食事が終わりペパーミントティーをカップに注いでいると、窓の外に目をやっていたキルシュが口を開いた。
「……デボラおばさんが、そろそろ来そうだね」
彼の青白く光る瞳が“遠視”を使用している事を示している。
“遠視”とは魔力によって視野を拡大し、遥かに遠く離れた場所を見ることができるようになる魔術だ。
キルシュは自分の庵の周囲300mに魔術による”結界”を領域として展開しており、領域内に足を踏み入れた人型生物の存在を即座に感知できるようにしている。
“結界”だけでは大まかに人型生物としか判別できないため、感知した存在の映像を“遠視”によって見ることで正確な情報を得ている。
デボラおばさんとは、この近くにある人口三百人ほどの小さな村ティツの住人だ。
俺たちが住む家は、そのティツ村から歩いて十分ほど離れた「黒の森」と呼ばれる森の中に建っている。
「分かりました。支度しますね」
いつもより少し早いが、「魔術師キルシュの薬草店」営業開始だ。
古より伝わる神秘の力「魔術」を用いて、世界の平和と秩序を守る「魔術師」。
それが我が主キルシュの職業だ。
魔術師とは、世界に満ちる魔素と呼ばれる力を取り込み「魔術」という奇跡の力に変換する事ができる。
魔術は先天的な才能が影響するものであり、生まれつき資質のある者が長い修練を積んでようやく使いこなせる。
膨大な知識を蓄え、それを人類社会に還元しよりよき未来へ導くことを旨としている。
そして俺の名はザイフェルト。
魔術師と特殊な契約を取り交わし、専属の戦士である「護衛士」の職についている。
護衛士はその名のとおり魔術師の護衛を担うものであるが、日々の生活を共に送り、日常の世話なども全て担当することも多い。
魔術師と一口にいっても、その立場は多岐にわたる。
宮廷魔術師となって国家の官僚的な立場から国政を補助する道。
「叡智の塔」と呼ばれる魔術師の互助組織の中で、学究の道を志す者すなわち学者となる道。
そしてキルシュのように在野で庵を結び、人々と実際の生活で交わりながら世界に貢献する道などである。
キルシュはティツ村を中心としたアルテンブルク王国辺境地区の魔術師とされており、地区に済むすべての人々の相談を受ける立場にある。
具体的にどのような相談事を請け負っているのかといえば、今ちょうどティツ村からこの家へと続く道を歩いてきたデボラ女子に語ってもらうのがいいだろう。
「あら、おはようイケメンさん。今日も男前ねぇ」
「おはようございます、デボラさん。いつも褒めてくださってありがとうございます」
「あらやだ、お世辞じゃないのよ。あなたみたいなイケメン、村でも街でも中々見かけられないわ。護衛士じゃなかったら家の娘の結婚相手にお願いしたいぐらいだもの」
俺の体つきは、身長196cm体重80kgほど。
短く切りそろえているがもっさりとしてクセのある黒髪に榛色の瞳。
野外の仕事で日に焼けた浅黒い色の肌。
無駄にでかい体は筋肉がついて硬く岩のようにごつごつしており、戦いや肉体労働以外特に役立ったことはない。
どこにもエルフのキルシュのような美しい部分などないが、愛想のいいデボラ女史はきっと世辞を言ってくれたのだろう。
「キルシュに相談ですか?」
「ええ、最近膝が痛くてね……。寒くなってきてから特に酷いのよ」
なるほど、引きずるほどではないが確かに左足の動きが鈍いようだ。
「それはよろしくないですね。さ、どうぞ中へ」
玄関の扉を開けて、俺はデボラを家の中に招き入れた。
中では穏やかな笑みを浮かべて椅子に座っているキルシュが出迎える。
「やぁ、デボラさんいらっしゃい。今日も素敵だね」
「もうやだわぁ先生ったら。いつでも透き通った肌に綺麗な顔してて、あたしたち女より綺麗な男の子なんだもの。先生がそんなこといっても説得力ないわよ」
「そりゃ残念。これでも一応男の子のボクとしては、こんなエルフの貧弱で華奢な体より、がっしりとしたザイの体つきのほうが羨ましく思えるんだよね」
「あははは、そりゃそうだわ。男の子に綺麗といっても嬉しくないわよね……って先生、もう何百年も生きてるんだから、男の子っていうのは無理があるわよ」
「いいじゃない、ボクの心はいつでも夢見る十代の少年だよ」
また俺の容姿が話題に上がっているが、こんないかつい男の見た目のどこがいいのか俺にはさっぱりわからない。
とりあえず台所に向かった俺は、戸だなから乾燥させたカミツレを取り出し、ポットに入れて湯を注ぎカモミールティーを用意する。
それを居間に持っていた時、キルシュは向かいの椅子にデボラを座わらせて診断を開始していた。
「膝が痛いんだよね。さ、こっちに座って。診断を始めるね」
彼がデボラに対して右手をかざすと、その手があたたかな緑色の光に包まれる。
“透見”という、物体の中の構造を把握する魔術でキルシュの場合は体調不良の人の原因を
「う……ん、原因は大きく分けると二つあるみたいだ。一つは体の冷え。これは酷いね、手や足の先に結構な冷えを感じるんじゃないかな?」
「そうなんですよ。前から冷え性で辛かったんですけど今年は特に酷くてねぇ……。寝てる時は足がつって目が覚めるし、肩こりもひどくて……」
「それは血流が悪くなって、筋肉が収縮しているのが理由だね。体力も少し落ちてるようだから、改善には人参薬がよさそうだね。ザイ、調合頼むよ。一週間分用意して」
「分かりました」
居間から見て台所の反対にある右の部屋は、様々な薬草や薬品を収納してある調合室になっており、そこで薬の調合を行うことになっている。
俺は調合室に向かった。
護衛士は魔術師の補佐役として、徹底的に知識と教養を叩きこまれる。
薬草の種類、薬品の取り扱いから効能まで全て理解して、調合できるようにならなくてはならないのだ。
キルシュの護衛士となってから、俺はキルシュの処方する薬の調合を全て任されている。
調合室に入った俺は、キルシュの指示どおり人参薬の調合にかかった。
人参と言っても野菜の人参ではなく、薬用人参と呼ばれる木の根っこのような形をした植物を指す。
子供など熱の高い元気な人には適さないが、体力の弱っている虚弱体質の人には活力を与える薬として珍重される。
生育に二年から六年(五年以上が望ましい)かかり栽培の難しい植物であるが、キルシュはこの植物に精通しておりティツ村の人々に栽培方法を伝授している。
これに当帰、芍薬、地黄、白朮、茯苓、桂皮、黄耆、陳皮、遠志、五味子、甘草を加え、薬研ですりつぶし粉末にする。
このような薬の調合は本来魔術師や薬草師など専門的な知識をもつ者が行うもので、俺のような護衛士が行うことはほとんどない。
護衛士も調合できたほうが何かと便利だというのでキルシュから色々と習い覚えたが、彼が薬を作るのがめんどくさくて俺にやらせているのではないかと疑念を持っている。
キルシュは手先が不器用なので、このような細かい作業は俺が担当した方が良いのは確かなのだが……。
最後に薬包紙と呼ばれる紙に一回分ずつに分けた粉薬を包めば完成だ。
一週間分の粉薬を袋に入れて居間に戻ると、キルシュがデボラの診察を続けていた。
「もう一つの原因は膝の軟骨がすり減っている事だね」
「膝の軟骨……ですか?」
「体の構造とかの詳しい説明は覚えてもあんまり意味がないから、簡単な説明をするね。ボクたちの体を構成する骨はつなぎ目に関節があるんだけど、そこって日常生活でそれこそ何十、何百回と骨と骨が擦れ合っているわけね」
「はぁ……関節ねぇ」
「で、人間というのはボクたちエルフとは違って、それほど長生きするように体ができていないのね。つまり新陳代謝の限界が短くて、段々と体の細胞の再生が滞るようになっているんだよ」
「……」
また始まったか。
デボラはキルシュの話についていけず茫然としているが、当然キルシュはそれに気づくこともなく講釈を続けている。
「これが生物の寿命そのものに影響するわけなんだけど、デボラさんの膝の部分はちょうどその状況に陥っているわけだよ。古い部分が再生されないまま使われているから、軟骨がすり減っている分、膝関節の骨と骨のすき間が狭くなってそこが軋んでいるわけね。これが神経に触って……」
「キルシュ、そこまでですよ」
俺は怒涛のごとく膝関節症の説明を行っているキルシュを制止した。
「ん、なんだいザイ。薬はできたの?」
「はい。人参薬の調合はとっくに終わりましたよ。それよりほら、デボラさんの顔を見て下さい」
「ん? ……ああ、ごめんごめん。話を置き去りにしちゃったね。ついやっちゃうボクの悪いクセ」
デボラがぽかんと口を開けている姿を見て、キルシュは自分が専門的な話をし過ぎて彼女の事を置いてきぼりにしている事実にようやく気づいたようだ。
一般人に症例の詳しい説明をしてもついていけないしそもそも意味がないですよと伝えているのだが、この悪癖はなかなか治りそうにない。
「わかりにくい説明をしてしまったようだね。いろいろ端折って言うと、長年使ってきた膝が疲労して耐久力不足に陥っているわけ。まだ内部に炎症が起きていない初期の段階だから対処はそれほど難しくないよ。ただ、薬草だけでは対処しきれないね」
キルシュは席を立つと懐から鍵を取り出し、居間の壁際にある戸棚の前に移動すると鍵を差し込み扉を開けた。
戸棚の中をしばらく眺めて青い液体が入った瓶を手に取ったキルシュは、それをテーブルの上に置く。
「今回はこのポーションを試してみよう。膝関節の軟骨の補修に効能があるよ。とりあえずこれを今日服用してみて。併せて一週間こっちの粉薬も服用してもらうと、冷えも解消されるからとても膝が楽になるはずだよ」
魔法薬であるポーションは魔法を使える魔術師でなくては生成できず、その管理や処方も含めてすべて魔術師が行うことになっている。
護衛士である俺も例外ではない。
なぜかと言えば、ポーションは使い方を誤れば使用者にとって命取りになりかねない劇薬だからだ。
薬草は薬効成分をもつ植物のことをさすが、それだけですべての病気や怪我を癒せるわけではない。
ポーションはそれらの治療を可能にする。
当然等級が高い方が効果が高いのだが、その分体力も大きく削られる。
体力が有り余っている若者であればそれほど心配はいらないが(とはいえ特級ポーションを使えば体力自慢の十代の若者でさえ数日寝たきりになる場合がある)、幼子や老人など体力が少ない者が使用すれば体に強い負荷がかかり、命取りになる恐れすらある。
これを避けるため、軽い症状であれば病気や怪我の治療は薬草を用いた治療がメインとなり、それが及ばない重症の時のみポーションが処方される。
キルシュがデボラに処方したのは青色の三級ポーションなので、体力の負荷はほとんどかからないが効果もやや低めとなる。
それを先ほど処方した薬草で補うことで寛解を目指すのだ。
「先生いつもすみませんねぇ。うちのダンナもギックリ腰をやって一時期大変だったのに、先生のお薬で今じゃピンピンしてますよ」
「それは良かった。ただギックリはクセになることがあるから、油断は大敵だよ。首から腰までをしっかり温めるようにいっておいてね」
「はいはい、ちゃんと伝えておきますよ。あ、これ良かったら後で召し上がってくださいな。今朝のうちの鶏たちが生んだ新鮮な卵ですよ」
卵がぎっしりと詰まったバスケットをデボラから受け取って俺は礼を述べた。
「いつもありがとうございます。新鮮なうちに調理していただきますよ」
「そうしてくださいな。じゃ、あたしはそろそろ失礼しますね。ハラペコの家畜たちに餌をやりにいかなきゃいけないわ」
こうして本日第一号のお客の対応が終了した。
台所の洗い場にカップを片付けた後、俺は卵を冷蔵箱に収納する。
「キルシュ、冷蔵箱の氷が無くなっているので補充してください」
「いまのうちにやっておこうか。もうじき次のお客さんがきそうだね。」
どうやら結界の中に次の村人が入ってきた事をキルシュが感知したようだ。
庵の周辺に張られた結界は、不審者の侵入対策というよりは来訪者にすぐ対応できるようにするという意味合いが大きい。
キルシュの手が青白く輝くと、冷蔵箱の受け皿の中の水が一瞬にして凍りつき氷が出来上がる。
対象の周囲の空気を急激に冷やす“氷結”の魔法だ。
「ありがとうございます。それで、次に来る方はどなたかわかりましたか?」
「がっしりした体格に皮のチョッキを着てる人だから、恐らくライナーさんだね」
「狩人の彼が相談に訪れるのは珍しいですね。何か森に異変があったのかな……」
「どうだろうね、そこらへんはご本人に直接聞いてみるのが一番早いだろうね」
キルシュの言葉とほぼオナジタイミングで来訪者の訪れを知らせるベルの音が家の中に響き渡り、玄関の扉が開かれた。
家を訪れたのは予想通り、村の狩人のライナーだった。
白髪交じりの髪に立派な髭をたくわえ、そろそろ初老の域にさしかかっているがまだまだ体の衰えは見せない村一番の狩人だ。
「先生、いつも村の皆が世話になっとります」
「やぁいらっしゃい。貴方が来るなんて珍しいね、何があったのかな?」
「実は今朝がた猟に出たんですが、森の中でこんなものを見つけやして……」
そういってライナーが俺たちの前に差し出したのは、幾重にも厳重に袋に包まれた猪の死骸だった。
袋をあけて猪の体を見てみると、ところどころ紫の斑点のようなものが浮き出ていた。
斑点のある部分は火傷を負ったように皮膚が爛れている。
そしてその腹の部分は何か獰猛な生物に襲われたのか、無残に内臓が食い散らかされていた。
「越冬中のヤツを狙いに行ったんですが、こんな死骸をいくつも見つけやしてね。以前、確か先生がこう言うおかしな死に方をした獣を見かけたら、素手で触れないようにとおっしゃっていたので、皮手袋で回収してきやした」
「うん、正解だよ。これに直接触れると同じように爛れるからね。絶対に素手で触っちゃだめだなんだ。よく覚えていてくれたね」
「先生の言いつけはしっかり聞くようにしとりますから」
危険物となっている猪の死骸を正しく取り扱いできたことをキルシュから褒められて、ライナーはよくできたと親に認められた子供のように照れくさそうに破顔した。
それもそのはずだ。
キルシュがこの地に庵を結んでから百年以上が経過している。
ライナーの両親に、祖父母、相曽祖母に至るまでが何かあればキルシュに相談し、教えに従って生きてきた。
つまりキルシュはティツ村の村人全員の師であり親でもあるような存在なのだ。
「死骸を持ってきてくれて助かったよ。この痕跡からすれば、猪たちを襲った魔物がなんであるか一目瞭然だね」
「ヴァンキッシュですね」
ヴァンキッシュとは体長2mにも達する巨大なトカゲ型の魔物だ。
紫色の毒々しい見た目どおり、触れたものの皮膚を焼く強力な毒を吐きかけてくる。
魔物とは人間や動物など通常の生命とは異なる特殊な生物である。
魔素を取り込み特殊な進化を遂げた種であるという説が有力視されているが、まだ実証はされていない。
謎が多い生命であるが、全ての種にはっきりしていることがある。
それは人間や動物を捕食する存在であり、発見次第討伐しなければならない脅威であるということだ。
放置しておけば生態系が破壊され、人間も動物も植物も全てが生きていけない環境に変えられてしまう。
「そう。しかもこのヴァンキッシュの中に産卵期に入った雌がいるようだね。猪が何体も喰われているなら確実だよ。このまま気づかずに放置していたら繁殖されて厄介なことになっていたところだよ。お手柄だね、ライナーさん」
「先生の教えのおかげでさぁ。何か異変があれば、軽く見ないでまずは痕跡を調べること。そして深入りはしないで判明した事を正確に伝えること。これを守っただけです」
「それがちゃんとできる事が大したことなんだよ。しかしそうなると、闇雲に森を探しても見つけるのは難しいし、そもそも産卵場所を見つけないと問題の解決には至らないね」
「産卵場所、ですかい?」
現在の事態がまだよく理解できていないライナーのために、キルシュはヴァンキッシュの生態について説明する。
「ヴァンキッシュは群れで生活する魔物でね。付近に巣にしている場所があるはずなんだ。そこを叩く必要があるわけ。ザイ、地図もってきて」
「はい」
俺は居間の片隅に筒状に丸めてある羊皮紙の地図を手に取り、テーブルの上に広げた。
ティツ村を中心にしたザールラント地方の地図だ。
キルシュが村から北西にある森を指さした。
「ライナーさんがこの死骸を見つけたのは、この森?」
「へぇ、よくお分かりで」
「このあたりは森はドングリが実るナラの木が多いからね。それを餌にする小動物やイノシシなどをはヴァンキッシュたちにとってご馳走になる。その付近で暗くジメジメしていて、水が多い場所が候補地なんだけど……」
「ふむ、その条件だと川の付近か洞窟が候補になりますなぁ。確か森から北に向かった山の付近にいくつか洞窟があって、その付近には川があったはずですよ」
森の北側には山々が連なっている。
その付近に洞窟があることは初耳だったが、ライナーの言う通りそこが産卵場所の可能性が高そうだ。
キルシュも同じ考えだったようで、
「うん、そこがあやしいね。よし、午後になったら早速調査にいってみようか。繁殖地は早めに叩いて置きたいからね」
「現地まで案内しますよ、先生」
「いや、ライナーさんは家に戻っておいて。調査はボクとザイでやっておくよ」
断られて些か残念そうな顔をするライナーだったが、魔物が出現するかもしれない場所に、狩人とはいえ戦闘訓練を受けていない一般人が立ち入ることは危険すぎる。
それではよろしく頼みますとライナーが頭を下げて帰ると、ドアが閉まったことを確認してからキルシュが俺に顔を向けて口を開いた。
「ねぇ、ザイ。村のこんな近くに魔物が現れるなんておかしいと思わない?」
「はい。俺が貴方と契約してこの村に来てから一年、その間にこれほどの距離で魔物が出現したことはありません」
魔物は人類すべての脅威であり、魔術師と護衛士にとっても当然討伐すべき対象だ。
しかし魔物を討伐する仕事は何も魔術師と護衛士だけが担うものではない。
「この村の周辺にも、採集や魔物討伐など依頼を受けた冒険者が来ているはずですね」
「付近に冒険者がウロウロしていれば、魔物たちも警戒して無暗に近づくことはない。とんでもない大物がきたというならば話は別だけど、それならボクやザイが接近を感知できるはずだよ」
「そもそもそのような魔物が現れれば、周囲の環境にも影響がでますしね」
魔物の中でも特に強大な存在は「災害種」と呼ばれ、体に含む魔素の濃度が濃すぎることから周囲の自然環境に影響を及ぼすことがある。
例えば作物の実りが極端に悪くなったり、人や家畜などの動物が疫病にかかりやすくなる、なおりにくくなる、精神が不安定になるなどだ。
文字通り世界に「災害」をもたらす存在のため、このような魔物の発生が確認された場合は国を挙げて討伐されるのがセオリーだ。
「うん。ヴァンキッシュ程度なら、それなりのランクの冒険者がうろついているだけで警戒して、人里には接近してこないはずだよ」
魔物も自然界の動物と同じように、危機を感知する能力を持ち合わせている個体がほとんどだ(稀にそういった感覚を持ち合わせていない本能のみで動く個体もいるが)。
小さな群れを形成して繁殖を行うヴァンキッシュならば、自分たちの脅威となる冒険者がうろついている場所などに姿を現すはずはないのだが……。
「この村の付近もしくは周辺の冒険者、どちらかに異常が起きているのかもしれないね。とまれ、いくらここで思案を重ねても机上の空論の域をでないね。ここはフィールドワークに出て、検証してみようじゃないか」
「わかりました。準備を開始します」
ティツ村周辺における魔物の痕跡を元に魔物の存在の有無の検証及び討伐を行うため、俺たちはヴァンキッシュの討伐準備を開始した。
家の右奥の納戸は、俺が用いる武具を修める武器庫とそれらのメンテナンスを行う工房を兼ねている。
俺が選んだ防具はなめした動物の皮をベスト状に仕立て、裏地に金属片をリベッドで打ち付け強度を高めたブリガンダインだ。
金属鎧は防御力に秀でるが屋外での探索に不向きなため、今回はチェインメイルは着用しない。
ブリガンダインは丈夫で軽く(あくまで板金鎧などに比べて、だが)、高い耐久性と修復しやすいメンテナンス性がウリの防具である。
ティツ村にも鍛冶師はいるが金属鎧や剣などの武具の専門ではなく鍬や鋤、鋏などの農具を専門としているため、専門的な鍛冶師のメンテナンスが定期的に必要となる武具は使いづらい。
手入れがしやすく、かつ丈夫なブリガンダインは俺の現在の環境にとても適した防具と言えるのだ。
騎士のように目立つ必要はないので、色は黒に染め上げてある。
それを身に付けると、壁に立てかけてある武器に目をやる。
今回は複数体のヴァンキッシュと戦闘になる可能性が高いため、近接と遠隔両方の武器を用意しておいたほうが良いだろう。
弓は取り回しがしやすい、丈が短く屈曲した型の短弓コンポジットボウにした。
ロングボウのほうが射程が長く威力も圧倒的なのだが、今回の想定されている戦場は視界の悪い森や洞窟だ。
取り回しがよく速射性の高いコンポジットボウのほうが適性が高いと判断した。
複数の敵を同時に相手する時にも便利な武器なので、俺はロングボウよりこちらの弓を使用することが多い。
動物の腱、木、骨、角など複合素材を貼り合わせて作る弓なのでコストが高くつくのが難点だが、それに見合うだけの価値がある武器だ。
そして相棒と言える俺のメインの武器は壁に立てかけてある両手、片手両用の大剣バスタードソードだ。
斬ることも突くこともできる万能タイプの剣で、重武装の相手には片手による刺突で、軽装の敵は両手で持ちパワーで薙ぎ払う。
取扱いにそれなりの筋力と修練を要するが、それに見合うだけの価値がある武器だ。
このバスタードソードは刀身に柄、はては鞘にいたるまでが全て漆黒に染まっているがこれは別に俺の趣味というわけではない。
最後にハンガーにかけてあるマントを羽織ろうとしたとき、扉の外からキルシュが呼びかけてきた。
「ザイ、準備はいい?」
「はい、お待たせしました」
装備を整えて納戸から居間に出ると、キルシュも装備を終えていた。
若草色のローブにマントという軽装だが、布地には金糸による見事な刺繍が施されておりキルシュの色白の肌によく合っている。
そして右手には、彼の身長並みの長さがある木製の杖が握られている。
この世界の中心にあるという伝説の世界樹ユグドラシルより与えられた枝の一本から創られたそれは、魔法文字と呼ばれる金色のルーンがびっしりと刻まれている。
アーティファクトと呼ばれる魔法の遺物である。
魔法は魔術の域をはるかに越えた奇跡を発現する魔の法則であり、現代の魔術師では再現することのできない強大な力を秘めている。
それが証拠にこの杖はすでに千年を超えて存在しているが、傷一つなく籠められた力の減退も一切ないという。
現代の魔術師の技術では、魔を帯びた品を作るだけでも大変な労力が必要な上に、その力は百年を待たずして失われてしまう。
今から千年以上も昔にこの世界に栄えていた古代魔法帝国アヴェルラーク。
その最高峰に位置した“魔法使い”に創られた遺物だけがアーティファクトと呼ばれるのだが、最近の冒険者たちの間では、遺跡から発掘された魔法の品全てがアーティファクトと呼称されるようだ。
ドラウプニルと呼ばれるこの杖に果たしてどのような力が秘められているのか、その全貌は不明だ。
それはまだキルシュから教えてもらっていないことだが、彼が俺に教える必要がないと判断していることをわざわざ訪ねるつもりはないし、知る必要性も感じない。
分かっていることは彼の装備はどれもアーティファクトであり、ローブ一つとって金属鎧並み(もしくはそれ以上)の防御力を誇る
キルシュは俺の装備をまじまじと見つめて、感想を口にした。
「その姿を見るといつも思うけど、完全武装した時って全身黒づくめになるよねザイ」
「ゴルトベルク先生から戦士が戦場で目立つ必要はない。確実に敵を倒すことだけを考えろと言われていましたからね。屋外で身を隠すときにも役立ちますから、先生が選ぶ色はいつも黒系統でした」
俺の装備の大半は先生から譲り受けたものだ。
農村出身で冒険者上がりの護衛士である俺には、装備を整える金しかなかったため実用的であればデザインや衣装などはどうでもよいと特に気にもしてこなかった。
「ボクはその色好きだよ。ザイにとっても似合っててかっこいいからね」
え……?
俺のことが好きなのではなく黒い色が好きと言っていることはわかっているが、それでも彼から好きといってもらえただけで胸がときめく。
「あれ、ザイ顔が赤いよ? もしかして風邪を引いたのかな。薬処方してあげようか」
「い、いえ、大丈夫です。なんでもありません」
自然に声が上がってしまったが、どうしようもない。
「そう? 無理すると良くないからね。本当に体調が悪いならすぐ言ってよ」
「はい、大丈夫です。さぁ、そろそろ出立しましょう」
とりあえずここは誤魔化して先に進むしかない。
護衛士として仕える立場である俺が、主である魔術師のキルシュにこの気持ちを告げるわけにはいかないのだから。
ティツ村の周辺にはナラなど広葉樹の木による森が広がっている。
そしてドングリはリスや鳥、そしてイノシシなど森に暮らす動物たちにとって栄養豊富な食料資源である。
村人たちにとっても、ナラの木は家具などに使う木材として重宝されている。
準備を終えた俺たちはヴァンキッシュに襲われたであろうイノシシの死骸が発見されたという地点を目指して、森に分け入っていた。
「この森を見ていると、ちょっと親近感が湧いてくるね」
ごつごつとして大きく広がった枝をもつナラの木を目にして、穏やかな表情を浮かべるキルシュが俺に向けていった。
「親近感、ですか?」
「ボクたちエルフは森の神から創り出された存在だからね。本来は文明よりも自然を愛するようにできている。人間が文明を築きあげていく間、ほとんどのエルフは太古の森に引きこもり外の文明と交わろうとはしなかった」
「……」
「まぁ、少数ではあるけどボクのような変わり者もいるけどね。人間の文明に魅了され、交わってみたいと思ったエルフもいた。人間はエルフに比べれば十分の一にも満たない本当に僅かな一生だけれども、だからこそ激しく鮮烈に自分の一生を、生きた証を世界に刻もうとする」
ザクザクザク。
赤、黄、灰色。
色鮮やかに染まった落ち葉がまるで絨毯のように広がる森の地面を、俺たち二人は踏みしだいて進む。
「ボクたちエルフには想像ができない生き方だ。長い時があるゆえにエルフは焦ることを知らない。時が全てを解決してくれると考えている。自然と一体となり、悠久の時を経ていけばそれでいいと思う。ボクには退屈すぎて合わなかったけどね」
だから彼は故郷の森を飛び出し、人間の社会で生きる事を選択した。
魔術師となり人の町や村で暮らし、人間と共存する。
「貴方は人間の社会に馴染み過ぎていて、時折エルフであることを忘れてしまうぐらいですよ」
俺が苦笑交じりに答えると、キルシュは茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべて応じてきた。
「だよね。ボクも体だけがエルフで心は人間なんじゃないかと思う時があるよ。だけどこの森に入って長き時を生きる木々を目にすると、懐かしい感覚にとらわれるのさ」
「そういうものですか……。俺には分からない感性のようです」
人間にとって、少なくとも俺にとって森という所は、確かに恵みをもたらしてくれるが厄介で危険な場所という思いのほうが強い。
森の中には有害な植物が数多くいるし、危険な獣も多い上に魔物まで潜んでいるのだから、人類にとっては脅威が潜む場所といったほうが正しいだろう。
ティツ村の住人も森の恩恵を受けているとはいえ、立ち入ることは外周の僅かな部分のみであり奥に立ち入る者などいない。
しかし森の住人たるエルフからすればそこがどんなに危険な場所であろうとも、森は懐かしい故郷として感じられる場所なのだろう。
「この雄大な木々のように森の中で生きていくことが、やはりエルフとして正しい生き方なんじゃないかなと思う時もあるよ。まぁ、そのうち退屈に感じてしまうかもしれないけどね。ちなみにあそこの木の樹齢はどれくらいか分かる?」
キルシュが指さしたのは、森の木の中でも一際雄大で立派な幹をもつナラの木だった。
「そうですね……。五百年ぐらいですか?」
「八百年だよ。この木は八百年もの間、この地に根を降ろしひたすら生き続けてきたんだ。八百年の生ってどんなものか想像できる?」
「いいえ、とてもできませんね」
「そうだろうね。ボクも同じくらい生きてきたけど、その間とても色々なことがあったよ。初めての人との出会い、交流、そして別れ。人は愚かでいつも間違った選択をする。時にはお互いに争い憎しみ合う。限られた時間に生きているのだから当然だよね。しかしその炎のように激しい情熱的な生き方が、長い時をただただ生きていたボクの目には鮮烈に写ったよ」
「でも人間の知り合いは皆、あなたより先に逝く……。別れは辛くないのですか?」
俺の問いかけに、キルシュは腕を組み少しの間思案してから答えを口にした。
「……うーん、やっぱり辛いね。エルフ同士であれば自然に帰るだけだから、特に感慨みたいな感情は湧かなかったのだけれど、人間って僅かな間にすごく色々なことを経験するでしょ。喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、嘆き。そのどれもが鮮やかすぎて、胸に焼き付いている。それを思い出してしまうから、別れが来るととても辛い。でもそれと同じくらい愛おしさも感じるね」
「愛おしさ、ですか」
「うん。人間の友人たちとの別れの時、決まってみんな幸せそうな笑顔で逝くんだよ。そういう時、ボクは一人この世界にとり残されるような感覚にとらわれて淋しさを感じることがあるね」
「……」
キルシュは現在八百歳、エルフの中ではそこそこ高齢とはいえ後二百年ほどは寿命が残っている。
普通に生きればどうあっても俺が先に逝くわけで、さて自分がキルシュとの別れの時が来た時、自分はどういった感情になっているのだろうか。
そして彼にはどのような感情で見送られるのだろうか。
「けれどそういう時は同時に、彼、彼女らが必死になって生きて生きて生き抜いた事を感じさせてもらえるんだよ。だから別れの時とは、辛くもあり愛おしくもあるというのが答えになるね」
俺が取り留めもない事を考えていると、キルシュが歩みを止めた。
「さて、退屈になりがちな森の散歩を紛らわせてみようかとちょっと長話をしてみたけど、中々有意義な時間になったね。人間の社会にいると時間の感覚が短く感じられるようになるよ。まったくエルフらしくないと同族達に言われそうだけどねぇ」
「ハイエルフは俺たち人間と接点が少ないから、想像しにくくて何とも言えませんね。千年にも及ぶ時間があれば、長期的な視野で物事を見られるようになるのでしょうが……」
エルフという種族自体は人間と接点があり大きな町などではたまに見かけることもあるが、古代種族のハイエルフはその数自体が少ない上に滅多に故郷の森から出てこないので、俺たち人間からすると一生を通しても遭遇する機会がない者も多いくらいだ。
せいぜい数十年しか生きられない俺たち人間からすると、
「長期的な視野、かぁ。確かにそれは長所かもしれないけど、その分なんでもゆっくり考えるようになって世の中の流れから取り残されやすくもなるけどね。……さて、どうやら目的地に到着したようだよ」
彼が杖で指し示す先には、惨劇の跡が広がっていた。
落ち葉の上に倒れている数頭のイノシシの死骸。
そのどれもがライナーが俺たちに見せてくれた死骸と同じで、体に紫の斑点がいくつも浮き上がっており、はらわたが無残に食い散らかされている。
「これはまた、相当激しく食い荒らしたようだね……。産卵期を迎えたヴァンキッシュの雌は栄養補給のために獲物を探し求めるものだけど、一度にこれだけ喰らうとはちょっと異常だよ」
「群れの数が多いのかそれとも群れに大喰らいの奴がいるのか、どちらでしょうね」
「さぁてどうかなぁ……。どちらもいるというのが最悪な答えだけどね」
ヴァンキッシュは動物の内臓を特に好んで食べる性質があり、他の部位は余程腹を空かせていない時を除いてそのまま放置する。
毒液を吐きかけて、痛みで動けなくなった獲物の腸を喰らうのが連中の習性だ。
しかしヴァンキッシュの群れが一度に喰らう量は通常イノシシにして一、二頭ほど。
しかしここで殺されているイノシシは数えただけで四頭、ライナーが家にもってきた死骸を含めれば五頭になる。
恐らくこのイノシシたちは群れ全てが襲われたのだろう。
この勢いでイノシシが襲われ続けられるとやがてイノシシが森からいなくなり、次はシカや他の小動物、果ては人間すら襲いかねない。
早急に調査に来たのは正解だったようだ。
俺がキルシュに顔を向けると、彼は頷いて指示を出した。
「では頼むよ、ザイ」
「はい、キルシュ。これから探索に入ります」
この場に残されたヴァンキッシュの痕跡を探るため、魔素を体全体に行き渡らせ感覚を研ぎ澄ます。
護衛士は魔術師と契約を交わし魔力を通してもらうことで、魔術師と同じように大気に満ちる魔素を体内に取り込むことが出来るようになる。
しかし魔術師と同じように魔素を魔術に変換して奇跡を起こすことはできない。
その代わり己の全身に魔素を行き渡らせることで感覚を鋭敏にし、護衛士は自身の身体能力を大幅に向上させることができる。
これは“身体強化の法”と称される技能で、護衛士になる時最初に習得するものだ。
この能力を使用することによって、護衛士の聴覚、嗅覚、視覚は常人の五倍から十倍近くに跳ね上がる。
通常の感覚では見通してしまう僅かな環境の変化なども敏感に感じ取れるようになるのだ。
この能力を駆使すれば魔物の足取りを掴んだり、危険を予め察知することができるようになる。
身体強化した俺は、付近に漂う僅かな匂いの中からある特定のものを見つけた。
これはフェロモンと呼ばれるものだ。
生物が同族間で情報伝達などを行うために、体内で精製し匂いなどの形として外に分泌する物質を魔術師たちはフェロモンと呼んでいる。
「感じ取れました。ここから北西の茂みに向かって匂いが発生しています。道標タイプのフェロモンですね」
「ここまで漂っているということは、餌場と巣までの道のりを繋ぐ標で間違いなさそうだ。雨が降る前に動いて正解だったね」
痕跡を探す上で最大の障害が、雨などの天候による環境の変化だ。
魔物退治において何よりも重要なことは、痕跡を発見したら迅速に追跡し始末することに尽きる。
道標となっているフェロモンを追跡していくと、イノシシたちが殺されていた場所から北西の茂みの中に、僅かではあるものの四足で地面を張っている生物の足跡が発見できた。
「こちらで間違いないようです。数は……四、いや五体ですね。ここから更に北に向かっています」
「五体もいるのか。それならあれだけイノシシを食べるのも納得だよ。連中は寒い季節でも温度が一定に保たれる洞窟やほら穴などを利用して産卵することがあるからね。確実に巣穴を見つけてしとめよう」
「これだけ大喰らいな魔物が繁殖を開始したら目も当てられませんね。……匂いが濃くなってきました」
匂いはさらに強くなって北側から漂ってきている。
音を立てないように慎重に近づいていくと、森を抜けて少し開けた場所に出た。
北から南に小さな川が流れており、川の間には小石の転がる川岸がある。
「この川と匂いの流れは、ほぼ平行に北に続いています」
「ヴァンキッシュは水辺を好む水棲型の魔物だから、巣穴に選ぶのはこの辺りで間違いなさそうだね。もしかすると川の源流付近にいるのかもしれない」
川を遡っていくと、やがて前方に小さな洞窟が見えてきた。
そして洞窟の入り口には、毒々しい紫色の表皮を持つ巨大なトカゲ型の魔物が三体いる。
ヴァンキッシュだ。
連中は辺りを見回して警戒はしているものの、俺たちの接近にはまだ気づかれていないようだ。
洞窟から少し離れた場所に姿を隠すのに良さげな岩があったので、俺たちは身を屈めながら岩陰に入りヴァンキッシュたちの様子を窺う。
「この距離であれば先手を取れますね」
「うん、確実にやってしまおう。数が少ないから恐らく残り二匹は奥の洞窟に潜んでいるんだろうね。となると、気づかれずに仕留めたいところだから派手な音がする魔術は避けておくよ」
「わかりました。魔術に合わせて突っ込みます」
俺は鞘の留め金を外して、バスタードソードを柄に手をかける。
鞘の下部がパックリと開き、漆黒の刀身が露わになる。
1m以上もの剣をその度に鞘から抜いていては突然の戦闘などで遅れをとる時がある。
それを避けるため、鞘の上部にある留め金を外せば自然に刀身が抜き放てるように仕上げているのだ。
ヴァンキッシュと俺たちが身を潜めている岩の距離は凡そ10~15m。
身体強化している俺の脚力ならば一瞬で詰められる距離だ。
俺の戦闘準備が完了したのを見て、キルシュが先制の魔術を放つ。
ヴァンキッシュたちの足元に白く冷たい霧が発生したかと思うと、脚から下の部分が氷に覆われ一瞬にして凍結する。
“氷霧”と呼ばれる一定の空間の温度を急激に下げ、その場にいる対象を瞬間凍結させる霧を生み出す魔術だ。
「ジャァァァァァァァ!!」
“氷霧”による突然の襲撃に混乱したヴァンキッシュの群れは警戒の声を上げた。
身動きが取れない以上、それはただの的でしかない。
岩を飛び出した俺は、岩から見て一番近くにいたヴァンキッシュの下に一気に駆け寄る。
ズシュウゥ。
重い音と共に、その首を一刀の元に刎ねた。
ヴァンキュシュの分厚い首の皮の下には、皮下脂肪と筋肉、そして人間の背骨よりも太い骨まであるが、その全てを漆黒の刃はまるで紙を切るかのようにあっさりと両断して見せる。
この漆黒のバスタードソードはただの剣ではない。
アーティファクトと呼ばれる古代魔法帝国の遺跡から発見された遺物なのだ。
その力の一端がこの切れ味だ。
切る対象が鉄や鋼、果てはミスリルであろうと抵抗なく切り裂くことができる。