「まぁ、少数ではあるけどボクのような変わり者もいるけどね。人間の文明に魅了され、交わってみたいと思ったエルフもいた。人間はエルフに比べれば十分の一にも満たない本当に僅かな一生だけれども、だからこそ激しく鮮烈に自分の一生を、生きた証を世界に刻もうとする」

ザクザクザク。

赤、黄、灰色。

色鮮やかに染まった落ち葉がまるで絨毯のように広がる森の地面を、俺たち二人は踏みしだいて進む。

「ボクたちエルフには想像ができない生き方だ。長い時があるゆえにエルフは焦ることを知らない。時が全てを解決してくれると考えている。自然と一体となり、悠久の時を経ていけばそれでいいと思う。ボクには退屈すぎて合わなかったけどね」

だから彼は故郷の森を飛び出し、人間の社会で生きる事を選択した。

魔術師となり人の町や村で暮らし、人間と共存する。

「貴方は人間の社会に馴染み過ぎていて、時折エルフであることを忘れてしまうぐらいですよ」

俺が苦笑交じりに答えると、キルシュは茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべて応じてきた。

「だよね。ボクも体だけがエルフで心は人間なんじゃないかと思う時があるよ。だけどこの森に入って長き時を生きる木々を目にすると、懐かしい感覚にとらわれるのさ」

「そういうものですか……。俺には分からない感性のようです」

人間にとって、少なくとも俺にとって森という所は、確かに恵みをもたらしてくれるが厄介で危険な場所という思いのほうが強い。

森の中には有害な植物が数多くいるし、危険な獣も多い上に魔物まで潜んでいるのだから、人類にとっては脅威が潜む場所といったほうが正しいだろう。

ティツ村の住人も森の恩恵を受けているとはいえ、立ち入ることは外周の僅かな部分のみであり奥に立ち入る者などいない。

しかし森の住人たるエルフからすればそこがどんなに危険な場所であろうとも、森は懐かしい故郷として感じられる場所なのだろう。

「この雄大な木々のように森の中で生きていくことが、やはりエルフとして正しい生き方なんじゃないかなと思う時もあるよ。まぁ、そのうち退屈に感じてしまうかもしれないけどね。ちなみにあそこの木の樹齢はどれくらいか分かる?」

キルシュが指さしたのは、森の木の中でも一際雄大で立派な幹をもつナラの木だった。

「そうですね……。五百年ぐらいですか?」

「八百年だよ。この木は八百年もの間、この地に根を降ろしひたすら生き続けてきたんだ。八百年の生ってどんなものか想像できる?」

「いいえ、とてもできませんね」

「そうだろうね。ボクも同じくらい生きてきたけど、その間とても色々なことがあったよ。初めての人との出会い、交流、そして別れ。人は愚かでいつも間違った選択をする。時にはお互いに争い憎しみ合う。限られた時間に生きているのだから当然だよね。しかしその炎のように激しい情熱的な生き方が、長い時をただただ生きていたボクの目には鮮烈に写ったよ」

「でも人間の知り合いは皆、あなたより先に逝く……。別れは辛くないのですか?」

俺の問いかけに、キルシュは腕を組み少しの間思案してから答えを口にした。

「……うーん、やっぱり辛いね。エルフ同士であれば自然に帰るだけだから、特に感慨みたいな感情は湧かなかったのだけれど、人間って僅かな間にすごく色々なことを経験するでしょ。喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、嘆き。そのどれもが鮮やかすぎて、胸に焼き付いている。それを思い出してしまうから、別れが来るととても辛い。でもそれと同じくらい愛おしさも感じるね」

「愛おしさ、ですか」

「うん。人間の友人たちとの別れの時、決まってみんな幸せそうな笑顔で逝くんだよ。そういう時、ボクは一人この世界にとり残されるような感覚にとらわれて淋しさを感じることがあるね」

「……」

キルシュは現在八百歳、エルフの中ではそこそこ高齢とはいえ後二百年ほどは寿命が残っている。

普通に生きればどうあっても俺が先に逝くわけで、さて自分がキルシュとの別れの時が来た時、自分はどういった感情になっているのだろうか。

そして彼にはどのような感情で見送られるのだろうか。

「けれどそういう時は同時に、彼、彼女らが必死になって生きて生きて生き抜いた事を感じさせてもらえるんだよ。だから別れの時とは、辛くもあり愛おしくもあるというのが答えになるね」

俺が取り留めもない事を考えていると、キルシュが歩みを止めた。

「さて、退屈になりがちな森の散歩を紛らわせてみようかとちょっと長話をしてみたけど、中々有意義な時間になったね。人間の社会にいると時間の感覚が短く感じられるようになるよ。まったくエルフらしくないと同族達に言われそうだけどねぇ」

「ハイエルフは俺たち人間と接点が少ないから、想像しにくくて何とも言えませんね。千年にも及ぶ時間があれば、長期的な視野で物事を見られるようになるのでしょうが……」

エルフという種族自体は人間と接点があり大きな町などではたまに見かけることもあるが、古代種族のハイエルフはその数自体が少ない上に滅多に故郷の森から出てこないので、俺たち人間からすると一生を通しても遭遇する機会がない者も多いくらいだ。

せいぜい数十年しか生きられない俺たち人間からすると、

「長期的な視野、かぁ。確かにそれは長所かもしれないけど、その分なんでもゆっくり考えるようになって世の中の流れから取り残されやすくもなるけどね。……さて、どうやら目的地に到着したようだよ」

彼が杖で指し示す先には、惨劇の跡が広がっていた。

落ち葉の上に倒れている数頭のイノシシの死骸。

そのどれもがライナーが俺たちに見せてくれた死骸と同じで、体に紫の斑点がいくつも浮き上がっており、はらわたが無残に食い散らかされている。

「これはまた、相当激しく食い荒らしたようだね……。産卵期を迎えたヴァンキッシュの雌は栄養補給のために獲物を探し求めるものだけど、一度にこれだけ喰らうとはちょっと異常だよ」

「群れの数が多いのかそれとも群れに大喰らいの奴がいるのか、どちらでしょうね」
「さぁてどうかなぁ……。どちらもいるというのが最悪な答えだけどね」

ヴァンキッシュは動物の内臓を特に好んで食べる性質があり、他の部位は余程腹を空かせていない時を除いてそのまま放置する。

毒液を吐きかけて、痛みで動けなくなった獲物の腸を喰らうのが連中の習性だ。

しかしヴァンキッシュの群れが一度に喰らう量は通常イノシシにして一、二頭ほど。

しかしここで殺されているイノシシは数えただけで四頭、ライナーが家にもってきた死骸を含めれば五頭になる。

恐らくこのイノシシたちは群れ全てが襲われたのだろう。

この勢いでイノシシが襲われ続けられるとやがてイノシシが森からいなくなり、次はシカや他の小動物、果ては人間すら襲いかねない。

早急に調査に来たのは正解だったようだ。

俺がキルシュに顔を向けると、彼は頷いて指示を出した。

「では頼むよ、ザイ」

「はい、キルシュ。これから探索に入ります」

この場に残されたヴァンキッシュの痕跡を探るため、魔素を体全体に行き渡らせ感覚を研ぎ澄ます。

護衛士は魔術師と契約を交わし魔力を通してもらうことで、魔術師と同じように大気に満ちる魔素を体内に取り込むことが出来るようになる。

しかし魔術師と同じように魔素を魔術に変換して奇跡を起こすことはできない。

その代わり己の全身に魔素を行き渡らせることで感覚を鋭敏にし、護衛士は自身の身体能力を大幅に向上させることができる。

これは“身体強化の法”と称される技能で、護衛士になる時最初に習得するものだ。

この能力を使用することによって、護衛士の聴覚、嗅覚、視覚は常人の五倍から十倍近くに跳ね上がる。

通常の感覚では見通してしまう僅かな環境の変化なども敏感に感じ取れるようになるのだ。

この能力を駆使すれば魔物の足取りを掴んだり、危険を予め察知することができるようになる。

身体強化した俺は、付近に漂う僅かな匂いの中からある特定のものを見つけた。

これはフェロモンと呼ばれるものだ。

生物が同族間で情報伝達などを行うために、体内で精製し匂いなどの形として外に分泌する物質を魔術師たちはフェロモンと呼んでいる。

「感じ取れました。ここから北西の茂みに向かって匂いが発生しています。道標タイプのフェロモンですね」

「ここまで漂っているということは、餌場と巣までの道のりを繋ぐ標で間違いなさそうだ。雨が降る前に動いて正解だったね」

痕跡を探す上で最大の障害が、雨などの天候による環境の変化だ。

魔物退治において何よりも重要なことは、痕跡を発見したら迅速に追跡し始末することに尽きる。

道標となっているフェロモンを追跡していくと、イノシシたちが殺されていた場所から北西の茂みの中に、僅かではあるものの四足で地面を張っている生物の足跡が発見できた。

「こちらで間違いないようです。数は……四、いや五体ですね。ここから更に北に向かっています」

「五体もいるのか。それならあれだけイノシシを食べるのも納得だよ。連中は寒い季節でも温度が一定に保たれる洞窟やほら穴などを利用して産卵することがあるからね。確実に巣穴を見つけてしとめよう」

「これだけ大喰らいな魔物が繁殖を開始したら目も当てられませんね。……匂いが濃くなってきました」

匂いはさらに強くなって北側から漂ってきている。

音を立てないように慎重に近づいていくと、森を抜けて少し開けた場所に出た。

北から南に小さな川が流れており、川の間には小石の転がる川岸がある。

「この川と匂いの流れは、ほぼ平行に北に続いています」

「ヴァンキッシュは水辺を好む水棲型の魔物だから、巣穴に選ぶのはこの辺りで間違いなさそうだね。もしかすると川の源流付近にいるのかもしれない」

川を遡っていくと、やがて前方に小さな洞窟が見えてきた。

そして洞窟の入り口には、毒々しい紫色の表皮を持つ巨大なトカゲ型の魔物が三体いる。

ヴァンキッシュだ。

連中は辺りを見回して警戒はしているものの、俺たちの接近にはまだ気づかれていないようだ。

洞窟から少し離れた場所に姿を隠すのに良さげな岩があったので、俺たちは身を屈めながら岩陰に入りヴァンキッシュたちの様子を窺う。

「この距離であれば先手を取れますね」

「うん、確実にやってしまおう。数が少ないから恐らく残り二匹は奥の洞窟に潜んでいるんだろうね。となると、気づかれずに仕留めたいところだから派手な音がする魔術は避けておくよ」

「わかりました。魔術に合わせて突っ込みます」

俺は鞘の留め金を外して、バスタードソードを柄に手をかける。

鞘の下部がパックリと開き、漆黒の刀身が露わになる。

1m以上もの剣をその度に鞘から抜いていては突然の戦闘などで遅れをとる時がある。

それを避けるため、鞘の上部にある留め金を外せば自然に刀身が抜き放てるように仕上げているのだ。

ヴァンキッシュと俺たちが身を潜めている岩の距離は凡そ10~15m。

身体強化している俺の脚力ならば一瞬で詰められる距離だ。

俺の戦闘準備が完了したのを見て、キルシュが先制の魔術を放つ。

ヴァンキッシュたちの足元に白く冷たい霧が発生したかと思うと、脚から下の部分が氷に覆われ一瞬にして凍結する。

“氷霧”と呼ばれる一定の空間の温度を急激に下げ、その場にいる対象を瞬間凍結させる霧を生み出す魔術だ。

「ジャァァァァァァァ!!」

“氷霧”による突然の襲撃に混乱したヴァンキッシュの群れは警戒の声を上げた。

身動きが取れない以上、それはただの的でしかない。

岩を飛び出した俺は、岩から見て一番近くにいたヴァンキッシュの下に一気に駆け寄る。

ズシュウゥ。

重い音と共に、その首を一刀の元に刎ねた。

ヴァンキュシュの分厚い首の皮の下には、皮下脂肪と筋肉、そして人間の背骨よりも太い骨まであるが、その全てを漆黒の刃はまるで紙を切るかのようにあっさりと両断して見せる。

この漆黒のバスタードソードはただの剣ではない。

アーティファクトと呼ばれる古代魔法帝国の遺跡から発見された遺物なのだ。

その力の一端がこの切れ味だ。

切る対象が鉄や鋼、果てはミスリルであろうと抵抗なく切り裂くことができる。
ヴァンキッシュの首がいかに分厚かろうと所詮は肉と骨。

両断することの障害にはまったくならなかった。

首を落とされたヴァンキッシュは、首から血を吹き出しながら地に倒れ伏す。

一匹目の首を落とした俺は、勢いをそのまま返す刃で倒れた個体の隣にいる二匹目のヴァンキッシュに狙いを定め、その頭蓋を剣で刺し貫く。

漆黒の剣先は易々と表皮を突き破り、その中にある頭蓋骨をも貫き、最後に脳へと達した。

ヴァンキッシュの瞳が濁り生体反応が停止した事を確認した俺は、頭蓋から剣を引き抜くと、続いて三匹目のヴァンキッシュの頭にそれを振り下ろした。

頭の天辺から顎下までを剣が真っ二つに切り裂く。

いかに魔物が強靭な生命力を持っているとはいえど生物であることに変わりはない。

頭部さえ破壊してしまえば、ほぼ確実に生命活動を停止する(極稀に頭部を破壊されても活動できる例外がいるので油断はできないが)。

三体のヴァンキッシュを全て屠ったことを確認し、感覚強化により近くに他の魔物が潜んでいないかも調べてみたが、周囲に脅威になる魔物の痕跡はなかった。

道標のフェロモンは洞窟の奥へと続いていることも同時に感じ取れた。

「お待たせしました。ヴァンキッシュの制圧完了です。現在俺の周囲50mの範囲内に脅威となる生物は存在しません」

周囲の安全を確保した後、俺はキルシュに報告した。

岩陰から姿を現した彼は、ヴァンキッシュの死体を見て感嘆の声を上げる。

「いやぁ、いつもながらの見事な業前だね。あっという間に片づけられてよかった。これなら素材も問題なく回収できそうで何よりだよ」

「身動きの取れない魔物を仕留めるだけの仕事でしたからね。自由に動き回れていたら、こうもスムーズにはいかなかったでしょう」

ヴァンキッシュの両脚はキルシュの“氷霧”によって完全に凍結しており、まったく身動きがとれない状況に陥っていた。

それに止めを刺す行為は、修行用の巻き藁を相手にするのと大差ないものだった。

「毎度思うけどまったく君という人は、人間の若者とは思えないほど落ち着き払っているよねぇ。君ぐらいの年齢だと、褒められたらもう少し調子に乗ってもおかしくないはずなんだけどねぇ」

「先生の教えのおかげですね。一時の勝利に浮かれるな、戦場で兜を脱いだら自分の首が飛ぶと思え。死にたくなければどこでも戦場と思い、常に警戒を怠らず気を張り巡らよという教えを叩きこまれましたから」

「あの大酒飲みは、こと戦闘についてだけはやたらと大真面目だったね。ボクとしてはもう少し肩の力を抜いてもらってもいいと思うんだけど」

キルシュの先代護衛士であったゴルトベルクは、俺の護衛士としての師匠であり、護衛士を引退した現在も護衛士の指導官として魔術師の協会である“叡智の塔”に留まっている。

あの人から俺は護衛士として、戦士として生き残る術と、主である魔術師を守るための術を徹底的に叩きこまれた。

そのおかげで今のところ魔物狩りにおいて遅れをとったことは一度もなく、感謝の言葉しかない。

今後も魔術師に仕える護衛士としてそうあり続けたいと考えているのだが、どうもキルシュは俺のこの考えに不満があるようだ。

「考えと行動が硬すぎる……ということですか?」

「う~ん、まぁ端的に言えばそうなんだけど、ちょっとニュアンスが違うような気もするんだよねぇ。気楽とまではいかないけどもう少しリラックスというか、自分の周りの空気を緩ませるというか……。まぁ、とりあえず今はその話題は置いておいて、残ったヴァンキッシュの掃討の方が大事だね。この洞窟の先にいるんだよね?」

「はい、匂いは相変わらず強く洞窟の奥から匂ってきます。残りはこの奥で間違いないと思います」

「それでは一気に終わらせてしまおう。松明や“燈明”を使うと、明かりのせいで相手に感知される可能性があるからよろしくないね。気づかれないように“暗視”でいこう」

“暗視”は夜行性の動物がもつ視覚のように、夜間や暗闇の中でも視界を確保できるようになる便利な魔術だ。

キルシュの魔術が問題なく発動したことを確認して、俺たちはヴァンキッシュが潜んでいる洞窟へと足を踏み入れた。

洞窟は冷たく湿っていて、天井から滴り落ちる水のせいで、地面には浅い水たまりがそこかしこにできている。

洞窟の中を川が走っているだけあって中はかなり高い湿度で、ジメジメして不快な空気が漂っている。

なるほど両生類型の魔物ヴァンキッシュが巣穴とするのにふさわしい場所のようだ。

通路の高さは2m50cmほどで、バスタードソードを振り回すにはやや狭い空間と言える。

いつヴァンキッシュと遭遇してもいいように剣を抜き放って歩みを進めると、狭い通路から少し開けた自然洞窟の空間にでた。

天井までの高さは9mほどで、巨大な鍾乳石がいくつも天井から垂れ下がっている。

床にはでこぼことした穴がいくつもあり、穴には水が溜まっているようだが、その中に黒い岩石のような物体がいくつも沈んでいるのが確認できた。

「あれはヴァンキッシュの卵だね。やはり繁殖を開始していたか。全部破壊しないといけない……」

「危ない、キルシュ!」

俺はキルシュの体に覆いかぶさるように彼の体を掴み、地面に押し付ける。

その僅か数瞬の後、俺たちの頭上を紫色の不気味な液体が飛んでゆき、天井から垂れ下がっていた鍾乳石に命中した。

ジュッという音ともに鍾乳石の命中した部分から煙があがり、鼻をつんざくような異臭が立ち込める。

どうやら強力な酸を含む毒液のようだ。

「すいません、反応が遅くなりました。手荒なやり方になってしまい申し訳ありません」

俺たちに毒を吐きつけたモノが、洞窟の奥から姿を現した。

先ほど洞窟の入り口で仕留めた個体より、一回り以上も体の大きいヴァンキッシュが二体、俺たちの姿を前にして激しい敵対心を露わに吠え猛る。

「ジャァァァァァァァ!!」

どうやら俺が匂いを辿ってこの場所にたどり着いたように、ヴァンキッシュたちも俺たちの接近を匂いか音で感知していたらしい。

暗がりに身を潜め、俺たちが卵に気を取られている隙をついて毒液による奇襲を仕掛けてきたのだ。

やはり魔物は侮れない存在だ。

俺が先に立ち上がりキルシュを助け起こすと、彼はヴァンキッシュ二体を視野に入れながら、杖を構えた。

「いや、助かったよザイ。卵は連中にとって虎の子のようなもの。守るのに必死になるのも道理だよ。
これだけ開けた場所なら多少派手な魔術を使っても問題なさそうだね。今度はこちらから仕掛けるとしよう」

キルシュの杖の前に激しく燃え盛る炎が生みだされ、それは玉の形となってヴァンキッシュたちに襲い掛かる。

広範囲に炎をまき散らす火の玉を作り出す魔術“火球”だ。
魔術師の魔術の中で最も有名なものの一つであり、魔術師の代名詞と呼んでもいい派手な見た目と破壊力をもつ魔術である。

ヴァンキッシュのうちの一体の体に直撃したそれは、轟音と共に爆ぜ、激しい火炎を辺りにまき散らす。

隣にいたもう一体のヴァンキッシュも炎に巻き込まれ、二体とも強烈な火傷を負ったようだがまだ死んではいない。

体を焼く炎にもがき苦しみながらも、地面に体を転がし床の水たまりを利用して炎を消そうとする。

さすがに図体がでかいだけあって、かなりの耐久力があるようだ。

しかしこれだけの時間が稼げれば、俺がヴァンキッシュの側にたどり着くまで十分だった。

この洞窟の床が濡れてすべりやすく歩きにくい場所とはいえ、身体強化で全身の筋肉の動きを強化すればこの程度の悪路は俺にとって何の障害にもならない。

ようやく体の炎を消し終え態勢を立て直そうとしていたヴァンキッシュたちの体に、俺は剣を振り下ろし止めを刺した。

「……周囲に他のヴァンキッシュや魔物の存在は感知されません。これで掃討できたと思います」

二体のヴァンキッシュの死亡を確認した俺は、念のため感覚強化を用いて辺りを探ってみたが生物の気配や痕跡は感じられなかった。

「よし、これぐらいで十分でしょ。あとは卵も全て片付けておかないとね」

洞窟にいたヴァンキッシュ(死骸を調べたところ、やはり雌だった)を全て仕留めた事を確認して、キルシュは卵が生みつけられている穴すべてに“火球”を叩きこみ、卵を破壊した。

一つでも卵を残しておけば、それがやがて孵化して成体となり、周囲の自然環境を破壊する脅威になりかねないのだ。

この魔物は姿を確認したら巣穴まで追跡し、確実に排除する必要がある。

その間に俺はヴァンキッシュの解体を行っていた。

ヴァンキッシュは皮が防具や袋の素材、毒袋と呼ばれる体内で毒を生成する器官が一部の魔法薬の材料となるのだ。

しかし目玉と内臓にも有毒な成分が含まれているのだが、こちらは素材として使うことができないものなので、摘出してから火で焼き、灰にして毒性を失わせてから地面に埋める。

頭の部分も大半が素材として使用できないため切り落とし、皮のみ剥がす。

普通の刃であれば分厚い筋肉が邪魔をして皮を剥がしにくいが、アーティファクトであるこの剣であれば難なく切除することができる。

魔物の肉は大半が酷い匂いや味がするため食用に適さず、ヴァンキッシュも例外ではない。

魔物の素材にできない部位はそのまま放置すると他の魔物を呼ぶ餌になりかねないので、屋外では穴を掘って埋めるか焼き払って炭にしてしまうのがセオリーだ。

俺たちの場合は、俺が専ら魔物を解体して素材を摘出し、残りのゴミとして出た不要な部位はキルシュが魔法で焼き払うという役割分担で対処している。

内臓の付近に毒袋が二つあるので、これを取り出し解体は完了だ。

洞窟にいたヴァンキッシュは皮がほとんど焼けてしまっているため毒袋のみ摘出、洞窟の外にいるヴァンキッシュは皮にほとんどダメージがないため、皮と毒袋どちらも回収できた。

毒袋は危険物を収納する専用の袋に入れ、皮は一定の大きさに切りそろえて縄で結束し、運びやすくる。

一連の作業が全て終了した時、辺りはすっかり暗くなり山の彼方に日が沈もうとしていた。

「これだけの数を処理すると、やはり時間がかかってしまいますね」

「それだけの対価はあると思うよ。この皮はとても良質でダメージが少ない。きっと冒険者ギルドで高値で売れるはずだ。毒袋もこんなにはいらないから、一緒に卸してしまってよさそうだね」

魔物の素材の販売は、冒険者ギルドという魔物狩りや困った人の依頼を引き受ける冒険者と呼ばれる人々の組合が一手に引き受けている。

キルシュは自分が世話をしているティツ村の人々からの相談や頼み事からは一切金銭の報酬は受け取らない方針なので、魔物の素材や魔法薬を冒険者ギルドに卸すことが俺たちの主な収入源となっている。

仕事柄危険な事に関わることが多い冒険者にとって、瞬時に傷や怪我を癒してくれるポーションは必須のものであり需要がなくなることはない。

貴重な防具や武器の材料となる魔物の素材も供給が不足していることが多いため、ギルドに卸すと喜ばれることがほとんどだ。

冒険者ギルド相手に取引し支援することも、地域の安寧を保護する魔術師と護衛士にとって大事な務めなのだ。

とはいえ、それは本業である冒険者たちの邪魔にならない範囲に限られる。

俺たちが彼らの仕事を全て奪うような行為をしては生計が立ち行かなくなるので、それでは意味がないのだ。

俺たちの活動は、あくまで彼らの手が及ばない範囲のみに留めなければならない。

「ザイ、今までの道中で冒険者たちのものと思われる痕跡はあった?」

「いえ、まったく感知できませんでした。ライナーさんのものと思われる痕跡を除いて、俺たちが今日歩いた道の付近では、ここ数日間における人間のものと思われる痕跡は見つけられませんでした」

キルシュの問いに俺は首を横に振った。

今回のフィールドワークを開始する際、キルシュが疑問に感じていたティツ村周辺の冒険者たちの状況を把握するため、俺はここまでの道中、何度か感覚強化によって人間の形跡がないかどうかも調べていた。

結果は今キルシュに告げたとおり、一切の痕跡を発見することが出来なかった。

「護衛士の強化した感覚で判断できる痕跡の期間は、最大で一週間程度だったよね。うーん……この物証だけで結論に至る事はできないけれど……」

「可能性としては残りますね」

「うん。でも助かったよ、ザイ。ここまで仮定の検証ができたのなら、さらに調査を続けて結論に導けばいいだけだ。この件に関しては村長にも聞いてみるとしようか」

「はい。この件に関して報告する義務もありますしね」

ヴァンキッシュの始末を終えた俺たちは、家に帰る前にティツ村に立ち寄ることにした。

今回は騒ぎになる前に解決することが出来たとはいえ、村の周りで何があったのかを村人に把握しておいてもらう必要があるからだ。

そして当然キルシュの仮定している「村周辺に冒険者が見かけられない異常」の答えがここにあるかもしれないので、論の検証目的も含まれる。

ティツ村は人口三百人ほどの村で、開拓されてから百年以上の歴史が経過している。

魔物や盗賊の襲来に備えて村の周りは全て木の柵で囲まれており、村を出入りできるのは南にある門だけである。

キルシュは村が開拓されてすぐの時期にこの地に庵を結び、村の人々と交流しているので三代から四代に渡ってほとんどの村人と顔見知りだ。

門番をしている村の若者のデットは、俺たちの顔を見るなり声を張り上げて出迎えてくれた。

「先生にザイフェルトさん!こんな夜更けにどうしたんですか?」

「村長さんに報告しておきたいことができてね、まだ通してもらえるかな?」

「何をおっしゃってるんですか! 先生たちが来られることをを拒む奴なんてこの村にいやしませんよ。さぁ、どうぞどうぞ中に入ってください」

夜間は魔物の群れや犯罪者たちが活気づく時間帯だ。
篝火を焚き常に誰かが入り口を見張り続けなければ、村や町など人間の生存圏はあっという間に闇に飲まれてしまう。

力もつ者である魔術師や護衛士は力無き人々のためにこそ力を振るうべしとの理念があるが、それは綺麗事でも何でもなく、そうしなければ生き残れないほど人類はこの世界に大してか弱い存在を示しているのだ。

門を通された俺たちは、日が沈み闇に包まれたティツ村の中に歩みを進める。

村長であるダミアンの家は、村の北西の少し小高い丘になった場所に建てられている。

これは村長が有事の際に高所からいち早く状況を把握し、判断を下す立場であることを意味している。

村を捨てて村人(特に老人や女子供)を安全な場所に脱出させるべきか、それとも男たちを中心に武器を持って抗うべきか、全ては村長の判断にかかっているのだ。

村の他の家屋より一回り大きく立派な家が村長の家である。

村人の誰ともすれ違うことなく村長の家に到着した俺たちは、木製のドアをノックした。

「やはりこんな時間だと、ほとんど外を出歩いている人はいませんね」

「かえって良かったかもしれないね。こんな姿を見られていたら何があったかと気を回す人が出てきてもおかしくないよ」

「確かにそうですね……」

俺たちはヴァンキッシュの群れを倒してからそのままの服装で村に入った。

今の姿は魔物と戦って血と埃にまみれた魔術師と戦士そのものなので、確かにこのまま村の中を歩いていたら人目を引いたことだろう。

時間がこれ以上遅くなるよりはと村に向かうことを優先したが、一度家に戻ってこざっぱりした服に着替えてくるべきだっただろうか。

そんなことを考えているとドアが空けられ、質素ながら整った衣服に身を包んだ初老の男性が顔を見せた。

ティツ村の村長ダミアンである。

「こんな夜更けにどなたですかな……おお、 先生にザイフェルトさんではないですか。そのお姿からすると何かありましたかな」

「やぁ、ダミアンさん。ちょっと伝えないといけない事があったので報告しに来たよ。とりあえずその事自体は解決させてきたから、事後報告みたいなものになるけどね」

「おお、それはそれはご苦労様です、先生にザイフェルトさん。立ち話もなんですからどうぞどうぞ、中へお入りください。あばら家ではございますがおもてなしさせていただきます。さぁ、中でお話をお聞かせください」

村長宅に招かれた俺たちは、香りのよい薪が火にくべられている暖炉がある暖かい居間に通された。

ダミアンはこの家をあばら家などと言っていたが、とんでもない。

俺たちが住んでいるキルシュの庵より、はるかに立派な造りである。

天井は高く、使い込まれたオーク製の机と椅子はツヤツヤと輝き、花瓶には花が活けられている。

彼は暖炉の上に置かれている嗅ぎ煙草のケースを手に取ると中身の煙草を見せて、

「いかがですかな?」

と勧めてきてくれたが、俺もキルシュも煙草は嗜まないので丁重に断った。

俺たちが椅子を勧められて席につくと、居間の奥(恐らくその先にはキッチンがあるのだろう)から恰幅の良いエプロン姿の初老の女性が挨拶に現れた。

「あら、先生にザイフェルトさん。こんな時間にいらっしゃるなんてお珍しいですわね」

村長の妻であるアンゼルマだ。

「夜分遅くにお邪魔しております、アンゼルマさん」

俺が挨拶すると、彼女は愛嬌のある顔に笑顔を浮かべる。

「いえいえ、とんでもない。私どもこそ村の人たち共々お世話になりっぱなしで……。あ、お茶を淹れますね」

「お構いなく」

アンゼルマがお茶の準備のために台所に戻り、ダミアンはキルシュに顔を向けた。

「さて、お待たせしましたな。それではお話をお願いできますか?」

キルシュは今朝我々にもたらされたライナーの話から、ヴァンキッシュの群れが村の付近に現れたことを推測し、森を調査した結果、そこから北にある洞窟に魔物の形成期があることをダミアンに告げた。

「なんと……。そんな村の近くの場所に魔物が繁殖しておったのですか」

「うん、ライナーさんはお手柄だったよ。もしあのまま気づかないままいたら、一か月もしないうちに卵が孵化して厄介なことになったからね」

アンゼルマが入れてくれた紅茶に口をつけるキルシュ。

魔物の成長は動物たちとは比較にならないほど早い。
生態が違うのだから当然と言えるのだが、幼体の魔物は驚くべき貪欲さをもって獲物を喰らい続け、短期間に成長を遂げるのだ。

一か月も立たずに成体になり、魔物は更なる繁殖を求めて行動を開始する。

まさに人類にとって、いや生きとし生ける他の生物に全てにとって恐るべき捕食者である。

「幸いなことに営巣地を突き止めることができて孵化する前の卵も全部処理できたから、心配はいらないと思うよ」

「まったく先生方には頭があがりませんな。お二人が居られなかったらこの村は果たして存続できたかどうか……」

「世界中のどこでも同じようなことが起きているよ……。人は魔物の影に怯えて、肩を竦めながら生きていかなければならない。ボクたちももう少し積極的に動けるといいんだけどねぇ」

「我々が冒険者のように世界中を旅したとしても、倒せる魔物の数は知れていますしね……」

魔物は世界各地に出没し、人間は常にその脅威にさらされている。

我々魔術師と護衛士は人々を守るために世界各地で戦いを続けているが、魔物の数は圧倒的でありまったく手は足りていない。

冒険者や世界中の国家に所属する軍隊など戦える人々も皆魔物に立ち向かっているが、人類の生存圏を守る戦いに徹せざるを得ないのが現状だ。

「我々が守りを止めれば、どこかの村や町が魔物の被害に遭う。かといって攻勢に転じなければいつまでも状況は変わらない……」

「魔物という存在がこの世界に姿を現してから五百年……。人類の生存圏は常に脅かされ続けている。人が安心して暮らせる場所は減り続ける一方だ。難しい問題ではあるけれど、どうしていけば良いのか考える行為を止めてはいけないね」

キルシュの言葉にあるように魔物がこの世界に跋扈するようになったのは今から五百年前、かつてこの世界を統治していた古代魔法帝国が崩壊し、世界が今のように複数の国家に分割して統治されるようになった頃からだとされている。

諸説あるが、帝国が崩壊した時に何かしらの魔術的な儀式によって、異世界から魔物が大量に呼び出されたのではないかというのが現代の魔術の中で最も有力な説になっている。

当時の生き字引であるキルシュならば真実を知っているはずだが、なぜかこの件に関して口が重く、俺も詳しくは知らされていない。

主であるキルシュが知る必要がないと判断するのであれば、俺はただ従うのみである。

「さて、ちょっと質問したいことがあるんだけどいいかな?」

「勿論です。なんでもお尋ねください」

キルシュの問いかけにダミアンは快く応じる。
「ありがとう。それでは聞くけど、ボクたちが調査してきた範囲で、実は冒険者と思われる痕跡が村の周囲で一切見つからなかったんだよね。ボクたちが把握できる範囲の痕跡はせいぜいが一週間程度の間のつけられたものに限られるけど、実はもっと前から村の周辺で活動する冒険者たちの数が減ってるんじゃないかな?」

「先生もお気づきでしたか……。実はここ一か月ほど村から出した冒険者ギルドへの依頼が受理されないケースが増えているのです」

ため息をつきながら口にするダミアンの答えは、キルシュの仮定を裏付けるものだった。

「ここ一か月、ね……。理由とかに何か心当たりはある?」

「いえさっぱり……。ここ二週間は特に酷くて、素材の採集や害獣の駆除など町に出した依頼がまったく引き受けてもらえないのですよ。先生のご相談すべきか悩んでいたところでした」

「この近辺で冒険者ギルドがある町といえば、確かディリンゲンでしたね」

俺は交易都市の事を思い出しながら町の名前を口にした。

交易都市ディリンゲンはティツ村から西に半日ほど馬車で移動した先にある大きな町で、近郊の村々と街道で繋がっている。

この村のように人口の少ない場所では、冒険者ギルドの支店が存在しないことが多い。

冒険者ギルドでは、そういった場所で発生する依頼は人口がそれなりに存在している場所の支店がが請け負うシステムをとっている。

「ええ、おっしゃるとおりディリンゲンの町の冒険者ギルドがこの村を管轄しております。ですので、このままディリンゲンのギルドに依頼できない状況が続くと非常に困るのですが、他の町の冒険者ギルドに依頼を持ち込むというのも無理な話ですし、どうしたものかと悩んでおりました」

「正直、ボクとザイがいればこの村の周辺の安全を確保するぐらいならとうにでもなるけど、それは“塔”の方針からずれるし、かかりっきりになるのはまずいよね」

「そうですね。キルシュの立場はアルテンブルク王国辺境地区担当の魔術師ですから、この村だけというわけにはいきません。しかしディリンゲン周辺の他の村も全て俺たちで管理するのは無理があります」

基本的に地域の守り手となった魔術師は、魔物の出現など有事以外の物事に積極的な干渉を行うことは好まれない。

力ある存在である魔術師が、あまり一つの場所に力を与え続けると力の均衡が崩れる場合があるためだ。

人間の世界で起きた問題は基本人間のみの力で解決すべきというのが、魔術師の組織である“叡智の塔”の姿勢だ。

例外として国家の政に携わる宮廷魔術師がおり、これは国家という人間が世界で生きていく上で必要不可欠な巨大な組織が善き方向に向かっていくため、叡智の部分から政の手助けを行う相談役のような立場である。

広範な知識と極めて慎重な行動と言動が求められる難しい立場で、優秀な宮廷魔術師を求める国家は多いが成り手は常に不足している。

「わしらに難しい話は分かりませんが、お二人のお陰で多くの村や町が守られているのは事実です。それだけで十分有難いことですわ。……ところでもうご夕食はお済で?」

まずい、この流れは……。

俺とキルシュは互いに目くばせし合い、急ぎ席から立ちあがる。

「いや、とりあえず報告を先に済ませておこうと思ったからね。もう遅いし、宿屋に立ち寄って済ませていこうか」

「そうですね。さすがにこれから準備するとなると時間がかかり過ぎますからね。そろそろ失礼しましょう」

「そんなとんでもない!せめてご夕食ぐらい食べていってくださいよ」

遅かった。

俺たちが慌てて席を立ち家を辞そうとするタイミングで、アンゼルマが台所から声をかけてきた。

コンソメの良い香りが奥から漂ってくる。

「折角先生方が来てくださったから、ポトフを沢山作ったんですよ。どうせあたしと爺さんだけじゃ大して食べられませんからね。是非食べていってくださいな」

「おお、そうしていただけると有難い。いつもわしと婆さんだけの寂しい食卓でしてな、是非ご一緒していただきたい」

根菜がたっぷり煮込まれたポトフが盛られた皿が、アンゼルマの手によって運ばれてきた。

すでに俺たちはここで村長夫婦と一緒に食事をするというのが彼女の前提になっているようで、俺とキルシュの前にも皿が置かれていく。

彼女が食卓の準備が整える合間に、ダミアンは戸棚から葡萄酒の入った瓶を取り出し、俺たちの前に置かれたグラスに中身を注ぐ。

老夫婦の手際の良さに、キルシュは苦笑した。

「……う~ん、ここまで頼まれたら嫌とは言えないよね」

「……そうですね。では御馳走になっていきましょう」

観念した俺たちは、二人して満面の笑顔を浮かべる村長夫婦のもてなしを受けるのだった。

案の定、俺たちはがっちりと村長宅に拘束され、夫婦からとんでもない量の長話を聞かされ、相談を受けるハメに陥った。

乳の出が悪い牛の話から始まり、今年の作物の収穫はどれくらい見込めるのか、最近体の節々が痛いがどうにかならないか、果てはご近所の若夫婦に子供が恵まれないが何かアドバイスできることはないかなど、話題はひっきりなしだった。

これがあるから俺たちは報告を終えた後すぐに立ち去ろうとしたのだが、村長夫婦の方が役者が上だったようだ。

話題が一つ終わる度に俺たちは席を立って話を終わらせようとするが、そうはさせじと村長夫婦はどちらかが話を持ち掛けてくる。

それでも何とか話を切り上げ(尚も二人は話したがっていたが)、俺たちはデミアン宅を辞し帰路につけたのは、報告に訪れてから三時間以上経過した後の事だった。

「お疲れ様でした、お二人とも随分お疲れのようですね」

村の門にさしかかったところで門番のデットが声をかけてくれた。

顔に疲労の色が出ているということは、相当疲弊させられたようだ。

正直、俺としてはヴァンキッシュ退治よりも村長夫妻との会話のほうが疲れた気がする。

「色々と話があったからね。君こそ遅くまでご苦労様だよ。明け方まで見張るのかい?」

「はい、今日は俺が寝ずの番です」

「そりゃ大変だ。ボクたちは帰って休むとするよ。見張り頑張ってね」

「ありがとうございます、頑張ります」

本当は夜間の見張りなどは二人以上で担当するのが望ましいのだが、ティツ村のような小さな集落では見張りに立てる者の人数も限られる。

一人で夜から明け方まで門を見張り続けるのは精神的にも肉体的にもかなりの労苦だが、テッドはキルシュの励ましを元気に応じた。

彼のような良い若者には、村のために今後とも頑張ってもらいたいところだ。

「流石に疲れましたね……」

テッドに見送られた後、庵までの道を歩く俺がため息交じりに発した言葉にキルシュがうんうんと頷く。

「いやぁ油断してたよ……。最近村長の家に行ってなかったから、あの二人が話題と相談事を沢山用意して待ち構えていることを完全に失念していたね」

「他の村人たちと違って、あのご夫婦は中々に強かですからね。キルシュとじっくり話せるタイミングと見てとるや、ここぞとばかりに相談事の山を持ち掛けてきましたね。まぁ、そんな人だからこそ村長という大変な立場をやっていられるとも言えるわけですが……」
辺境地域の開拓村を維持するというのは、想像を絶するほどの困難が伴う。

魔物の脅威だけではなく、盗賊など同じ人間同士でも敵対関係になる者たちからも村人を守りぬかなくてはならない。

そのためには常日頃から近隣の村や町との繋がりを深め、薪や薬草などの特産品を生産して交易することが欠かせないのだ。

それによって得た富をその地方の領主に税という形で納めることで保護下に入り、有事の際は軍を派遣してもらうことで最低限の防衛力が得られる。

勿論それだけで十分ではなく、村の治安を維持するための自警団の組織やもめごとの仲裁など村人同士の緊密な連携がとれるよう常日頃からやるべきことが山ほどあるのだ。

地域の守り手であるキルシュに恩を感じながらも、時には便利に使うだけの強かさもまた村長という立場につく者には必須なのだと理解できる。

村から出て数分後、ようやくキルシュの庵が見えてきた。

「流石に今日は疲れたね。お風呂に入って今日はもう休もうか」

「分かりました。風呂の準備に取り掛かります。キルシュは先に戻って着替えていてください。準備ができたら呼びにいきます」

「うん、疲れているところ悪いけど頼むよ。荷物のほうは僕が運んでおくね」

「ありがとうございます」

キルシュの庵の側には、煙突を備えた小さな木造の小屋が一件建っている。

キルシュにヴァンキッシュから剝ぎ取った素材などを纏めた荷物を渡し、俺はその小屋へと向かう。

ここはサウナと呼ばれる蒸気浴風呂の施設である。

アルテンブルク王国の辺境地区は冬が長く寒さが厳しい気候である。

この気候に合わせて心身の疲労を取り去り、健康を維持するために使われるのが蒸気を浴びるサウナだ。

食料を日持ちさせるため肉や魚を燻製にするための部屋が、蒸気浴を楽しむための施設に変わっていったのが起源で、この地方ではすでに千年近く昔から存在していたそうだ。

大昔は中で木材を燃料に煙を焚き中を燻して使っていたそうだが、流石にそれでは室内に煙を充満させるのに何時間もかかってしまう。

現在は木造の小屋に金属製のストーブを用意して煙は煙突で外に出しながら火を焚き、ストーブの中で熱した石に水をかけて蒸気を発生させる形式が主流となっている。

この小屋はキルシュの世話になっている礼としてティツ村の大工たちが建ててくれたもので、キルシュのお気に入りの建物だ。

彼はサウナを気に入り、毎日欠かさず沐浴している。

ある時、サウナがあるからこの地方に長く居続けているのだとキルシュは語っていたが、これは偽らざる本音かもしれない。

俺もキルシュの護衛士をしてからこのサウナを知ることになったが、彼と同じくすっかりこの施設を気に入り日々の沐浴が習慣になっている。

大量の湯を沸かして入る風呂は手間と金がかかるので、王侯貴族や商人など一部の富裕層の利用に限られ、一般庶民は水浴びや湯桶に貯めた湯で体を拭くのがせいぜいだ。

しかしこのサウナがあれば一度に多くの人が蒸気浴を楽しむことができるため、とても経済的に効率よく体を清潔に保つことに繋がる。

この小屋は二人で使用するため小さな作りだが、ティツ村には十人単位で利用できる公衆浴場的なサウナも用意されている。

衛生は人間の健康を増進する上で欠かせないことであり、キルシュはサウナの使用を知り合いの魔術師たちにも積極的に推進しているそうだ。

俺がサウナのストーブに薪をくべ十分に中の石が温まったころ、腰にタオルを巻いて裸になったキルシュが小屋に姿を現した。

「やぁ、お待たせ。シャワーのお湯を温めておいたから、ザイも服を脱いで浴びておいでよ」

「ありがとうございます。それではロウリュをお願いしていいですか?」

「うん、やっとくよ」

ロウリュとはサウナストーブで温められた石に水をかけて発生させる蒸気のこと、また蒸気を発生させることも示す。

この蒸気に体が触れることで発汗が促されるのだ。

キルシュのロウリュを頼んだ俺は一度庵に戻り、鎧や服を脱いで下着姿になってから小屋に向かった。

この小屋にはシャワー室も用意されている。

サウナの前にはシャワーを浴びて体を綺麗にしてから入るのがルールであり、シャワーは欠かせない。

本来シャワーを温めるには専用の加熱設備が必要となるため、一般庶民は水で我慢しないといけないが(ティツ村もそうである)、この庵ではキルシュが貯水タンクに“加熱”の魔術をかけて適度な温度に温めてくれるため、蛇口をひねるだけで温水のシャワーを楽しむことができるのだ。

温水のシャワーを浴びて体の埃を落とす時、自分がとても恵まれた環境にいることを実感する。

シャワーを浴びた俺がタオルを腰に巻いてサウナに入ると、中は蒸気が充満していた。

ヨモギの爽やかな香りと小屋に使われている木材からでる良い香りが合わさり、えもいえぬ芳香がサウナに立ち込めている。

俺たちのサウナでは蒸気を発生させるために使う水に、毎年春に収穫するヨモギから精製した精油入りのアロマ水を用いている。

ヨモギの香りには鎮静効果があり、血行促進、発汗作用などの効能があるため、風呂ととても相性が良いのだ。

中は薄暗く、最低限の明度に調整された“照明”の魔術による光球が照らすのみ。

サウナはリラックスして楽しむ静かな社交場という意味合いもあるので、明るすぎる照明は邪魔になるのだ。

「お待たせしました。ロウリュ代わりますね」

「うん、よろしく」

俺は木製の柄杓をキルシュから受け取り、ストーブで熱せられた石に水をかける。
じゅわっという音と共に新しい蒸気が生まれ、サウナ内の温度と湿度が上がった。

キルシュと俺は木のベンチに座り、蒸気浴を楽しむ。

「お疲れ様、今日もいろいろあったねぇ」

「はい、魔物がこんな村の近くに出るのは珍しいですね。今回は早期に対応できたのであの程度の規模で済みましたが、今後の事を考えると付近の警戒も視野に入れたほうがよいのかもしれません」

「ティツ村はボクらが面倒見るから見ればそれほど心配いらないだろうけど、他の村や町はそうもいかないからね。そろそろそこら辺のことも考えないといけない時期なのかもしれないね」

キルシュが魔術師の組合“叡智の塔”より守護者として任命されている担当地域はアルテンブルク王国辺境地区だが、この地域だけで大小の村が二十以上町も五つ存在する。

「今度ディリンゲンの町の冒険者ギルドに立ち寄って、この地域の活動についてギルドマスターと話し合うのが一番現実的かなぁ。魔術師が冒険者ギルドの活動に口入するのはルール違反かなと思って干渉しないでいたのだけれど、どうにも最近、村の周辺における冒険者の活動が少ない事が気になっていてね」

「確かに。最近この近辺で活動している冒険者の姿を見かけませんね。少し前までは、多くの冒険者が依頼を受けて活動している姿が見られたのですが……」

冒険者ギルドに所属する冒険者とは、ギルドにもたらされる様々な依頼を請け負うフリーランスの自由人たちの事だ。

依頼の内容は多岐に渡り、植物の採集や魔物退治、果ては下水道の清掃などという仕事までが持ち込まれ、報酬と条件が見合えば受理される。
以前は彼らの姿はティツ村周辺でもよく見かけていたのだが、ここ一か月ほど彼らの姿を見ていなかった事を俺は思い出した。

「ディリンゲンの町の冒険者ギルドで何かあった……と見るべきでしょうか?」

「その可能性が高いとボクはみているよ」

キルシュはベンチから立ち上がり、ヴィヒタと呼ばれる白樺の若枝を束ねたものを手に取ると、それで自分の体を叩き始める。

これは体の発汗を促し血流を良くすることで疲労の回復を早める効果が期待できるものだ。

白樺には減菌作用があるので、体を清潔に保つ効果も望める。

「使い鴉を“叡智の塔”に送って情報収集してみるよ。もしかすると塔の方で何か情報が上がっているかもしれない」

魔術師たちは使い鴉と呼ばれる使い魔(ファミリアとも呼ばれる)を使役し、魔術師間で連絡を取り合い、本部である“叡智の塔”にも定期的に連絡を送る事で自分たちが知り得た世界各地の情報を共有している。

「それではその連絡を待ってから行動、ですね」

「そうだね。どんな情報が上がってくるのやら……。さて、ボクは先に上がるね。シャワーのお湯を温めて直しておくから、好きなタイミングで上がるといいよ」

「ありがとうございます。……それとお願いですから、風呂上がりに裸のままでいないでくださいねキルシュ。風邪を引いたら大変ですから」

「もう、ほんとにうるさいなザイは。そんなのボクの勝手でしょ」

「いいえ。風邪を引いた貴方の面倒を診ることにことになるのは俺ですから、迷惑がかかるので止めてください。そもそも風邪を引いた魔術師なんて様になりませんからね。自分の健康も維持できない魔術師なんて、誰も信用できないでしょう?」

「はいはい、わかった、わかりましたよ。シャワーを浴びたらバスローブ着ればいいんでしょ、着れば」

いつものように俺の忠告を話半分で聞き流してキルシュはサウナを出ていき、俺はストーブにかけられた石に再び水をかける。

蒸気が室内に充満し温度と蒸気が高まるが、俺の心はそれ以上に熱く昂っていた。

キルシュの裸を見て、激しく欲情していた自分が分かる。

果たして俺はいつまで彼の側で、この気持ちを抱え続けることができるのだろうか。

蒸気が立ち込めるサウナの中で、俺はいつまでも悶々と悩み続けるのだった。
それから三日が過ぎた。

その間キルシュは訪れる村人の相談に乗り、俺は薬を処方したり薬草の採取そして家事の担当と変わりのない日々を送っていた。

そして四日目の朝が過ぎ昼になろうとしていた時、動きがあった。

カタカタカタカタ。

居間のサイドテーブルに置かれた魔道通信機“ファクシミリ”。

様々な金属製のパーツによって組み立てられた魔道機の振り子に振動が走ると、鍼の先からインクが流れ記録用に置かれている羊皮紙に次々と文字が記されていく。

“ファクシミリ”とは、魔素を文字に変換した信号に変え機器についている魔石で送信し、対となる機器の魔石が受信、送られてきた信号を文字に変換して紙に記載させる魔道具のことである。

魔道具は古代魔法帝国時代に造られた魔石と呼ばれる魔素を結晶した石を動力とする道具の総称であり、魔力が扱えない人間でも使用することができるのが大きな特徴だ。

キルシュは通信機が受信した文書に目を通しそれを読み終えると、羊皮紙にナイフを入れて文章が記された部分を切り取り俺に渡してきた。

「やれやれ漸く待ちわびていた情報が流れてきたよ。送信先はディリンゲンの冒険者ギルドからだね」

「それは珍しいですね。俺が貴方の護衛士になってから初めての事のように思いますよ、冒険者ギルドから連絡がくるなんて」

「その通りだよ。ゴルトベルクがいた頃だって滅多にボクにはお声がかかることはなかったからね。よほどの事態が起きているのだと思うよ」

古代魔法帝国は今の魔道技術とは比較にならない“魔法”と呼ばれる奇跡の業によって繁栄した国家だが、魔法が使えない一般人も魔道具によって大いなる恩恵を受けていた。

この“ファクシミリ”一つとっても、はるか遠方の地にいるもの同士がほぼ同じタイミングで情報を共有できるというとんでもない連絡手段であることから当時の繁栄ぶりが伺い知れるというものだ。

しかし魔道具を生み出す魔道技術は、その大半が古代魔法帝国が滅びると同時に失われ、五百年を経った現在もそのほとんどが喪失したままである。

稀に魔法帝国時代の遺跡から発掘される魔道具は叡智の塔が回収し復元を試みているが、動力となる魔石が不足しているため世界中に行き渡るほどの数には至っていない。

魔石精製の秘術自体も帝国崩壊時に喪失してしまっているため、遺跡からの発掘以外に手に入れる手段がないのが現状なのだ。

その魔道具の中でも“ファクシミリ”は比較的多くの数が遺跡から発掘されており、少ない魔素の消費で起動できるという利点もあることで、世界各国の王家や世界規模な組織である冒険者ギルドの各支部に緊急用の連絡手段として動力源である魔石と共に叡智の塔から貸与されている。

世界の守り手である魔術師たちの助力が必要と思われるような緊急事態の際、それらの組織と叡智の塔や各地にいる魔術師たちが互いに連絡を取れるよう協定を結んでいるのだ。

キルシュから手渡された羊皮紙の文章を俺は読み上げた。

「至急相談したい案件あり。当支部にご足労願いたし。ディリンゲン冒険者ギルドマスター“ディーゼル”……ですか」

「ディリンゲンの冒険者ギルドと所属冒険者たちに関して何かしら情報が上がっていないか本部に使い鴉で問い合わせてみたら、何かあれば連絡がいくように伝えておくという返答だったんだよ。それで少し待っていたんだけど、恐らくボクら魔術師の本部である“塔”から冒険者ギルドに直接連絡がいったお陰で向こうも頼みやすくなったんだと思うね」

人々から魔物の討伐を請け負う冒険者ギルドと世界の守り手として人類を見守り導く叡智の塔は、同じ世界の脅威である魔物と戦う組織同士ということで、表向き協力関係にある。

しかし独立不羈を旨とする冒険者たちの組織である冒険者ギルドは、国家を含めた他組織からの影響や介入を好まない。

他組織に貸しを作ることを嫌い協力要請を渋る傾向があり、極力自分たちだけで問題を解決しようとすることが多いのだ。

それゆえに各地の魔術師と冒険者ギルドは疎遠な関係であることも珍しくない。

「ボク個人としては貸しなんて作るつもりなんてないんだけれど、どうにもあちらさんは他組織の助力を好まないんだよね。まぁ、あまり手助けされるとこちら側の意見も無視できなくなるという理屈は政が苦手なボクでも分かるんだけどねぇ」

「しかしこの文面からすると、ディリンゲンの冒険者ギルドはそうも言っていられない状況に陥っているようですね」

「うん。喜ぶべきことではないけれど、素直に救援要請してくれるなら有難い。ここは問題解決を手伝って地域の治安を取り戻すとしよう。ザイ、ディリンゲンの町行き乗合馬車が出るのは今日だっけ?」

「はい、そうですね。今日の昼過ぎ……確か十四時あたりに乗合馬車が出るはずです」

俺は居間に置かれた大きな柱時計に目をやりながらキルシュの問いに答えた。

ディリンゲンの町は、テッツ村から東の街道を馬車で移動して三時間ほどの距離にある。

東の街道は比較的安全が確保されている道であり、商人たちに交易路として使われている。

ティツ村からディリンゲンの町の区間には定期的に双方を行き交う乗合馬車が運行されており、十四時にでる馬車に乗れれば日が沈む前に町に着くことができるだろう。

「いいね。じゃあ、その乗合場所に乗ろう。ザイ、準備を整えてくれるかい?」
「分かりました。昼食は馬車で食べられるようサンドイッチにしますね」

「それはいいね。それじゃ、後で」

居間から台所に移動した俺はサンドイッチの調理を始めた。

昨日の夕食にメインディッシュとして用意したローストビーフがかなり余っているので、これを使おう。

塊肉を薄くスライスし同じように玉ねぎも薄切りに、クレソンがあったので辛味としてこれも加える。

味付けのソースは昨日のローストビーフで使ったグレイビーソースをそのまま使う。

最後に今朝の相談者が差し入れてくれた焼きたてのブロートヒェンを半分に切って、具を挟む。

これをバスケットに詰めて昼食の支度は完了だ。

その後、ブリガンダイン、コンポジットボウ、グレートソードといういつもの戦支度を終えて俺が納戸から出てくると、こちらも支度を終えたキルシュが俺を待っていた。

「今回は少し遠出になるだろうから、荷物は少し多めにもったほうがいいよね」

「はい、今回は依頼の内容によっては数日間野営することを想定して荷物を選別しました」

冒険者ギルドのマスターが、本来は手を借りたくない魔術師に救援要請を出すほどの状況だ。

相当に厄介な案件が発生していると想定すべきだろう。

魔物が出没するような危険な場所に、数日間はこもる必要があるかもしれない。

護衛士を目指すためのキャリアとしてかつて冒険者であった経験を活かし、俺は今回の依頼に持ち込む道具を選別し机の上に乗せた。

危険地帯に踏み込む“冒険”に出る時は参加者全員がお互いの手荷物を認識しておくことが鉄則である。

「寝具にたいまつ、ほくち箱、ロープに水袋。うん、いいね。お玉にお鍋と炊事用具が充実しているのがザイらしい」

俺が背負い袋に詰めこむ予定の荷物を見て、キルシュが感想を述べた。

「うまい食事は旅に欠かせませんからね。劣悪な環境にまずい食事で士気が上がることはあり得ません」

「まったく同意見だね。ボクの道具はこんな感じだよ」

キルシュが俺に見せたのは、インクの入った小さな壺とペンがセットになった筆記具セットに羊皮紙、ノートが一冊、それに色とりどりのポーションが入った瓶だった。

その中に一際目を引く赤い液体が詰められた瓶を見て、俺は声を上げた。

「これは中級に……上級ポーションも、ですか。それほどの脅威の可能性があるのですか?」

「万が一を想定して、ね。管理と運用はいつもどおりキミに任せるよ。必要と判断したら躊躇くなく使用してほしい」

上級ポーションは重症時、例えば手足の欠損などの再生すら可能な特殊な代物である。

当然治療時には使用者の体力を激しく消耗するため、体力のある成人男性ですら数日寝たきりになる場合があるので滅多に使用されない。

体力のない老人や赤子であれば体力が消耗しすぎて衰弱死することもある劇薬なのだ。

それほどのポーションをキルシュが持ち出す必要があると判断したことは、この依頼の脅威度は相当高いと見るべきだろう。

魔術師は魔術によって治療を行うことができるため、ポーションを持ち歩いたり自分に使用することは普段しない。

これらの魔法薬は基本的に護衛士である俺が使用することになる。

魔法薬の管理を担当する魔術師が、冒険の旅の危険度に応じてどの薬を護衛士に持たせるのかを決めるのが通例なのだ。

「分かりました。お任せください」

「よろしく頼むよ。これを使わないで済むといいんだけどねぇ……。どうも今回の案件は厄介なものが待ち受けているように“視えた”んだよね。まだそれがなんであるのか、確定した所は捉えられていないんだけど」

魔術師には“啓示”と呼ばれる未来の予知を行ったり預言を授かる特殊な魔術がある。

特定の物事に対する人知の及ばぬ情報を手に入れる事ができる便利な魔術なのだが、キルシュにとって厄介なものが“視えた”ことは、冒険者ギルドからもたらされた依頼には相当の脅威が潜んでいるという事を意味している。

しかし“啓示”の効果には難点もある。

「やれやれ……。この魔術はどうにも苦手なんだよねぇ。何かの縁を捉えたらすぐに発動するよう設定しているんだけど、漠然とした情報しか手に入らないのがなんとも、ね。まぁ、ここでこれ以上不確定な事について問答していても始まらない。とりあえずディリンゲンの町行きの馬車に乗るとしようよ」

“啓示”によってもたらされる情報はイメージ的なものが多く、具体性に欠けるものが多い。

今回の事例で言えば“上級ポーションが必要になるような何かの事態が起こる”事まではわかるのだが、それが何であるのかそして誰の身に起きるのかなどの詳しい状況はまったく分からない。

はっきりしている事はただ一つ、“啓示”で示された事象は確実に起きる。
ただそれだけである。

俺は気を引き締めて、キルシュの言葉に頷く。

「一筋縄ではいかない依頼になりますね、これは」

ティツ村の門の前には、乗合馬車が停車していた。

村に到着した俺たちを見て、馬車の御者を務めるゼンケルが手を上げた。

彼は柔和な笑みを浮かべた中年の男性だ。

「これはこれは先生にザイフェルトさん、ご無沙汰しております」

「やぁゼンケルさん、ボクたちも馬車に乗りたいんだけどいいかな?」

「勿論空いていますとも、どうぞどうぞ、お乗りください」

乗合馬車の荷台には、村で収穫された野菜や果物が木箱に入れられてぎっしりと詰まれている。

この馬車はテッツ村とディリンゲンの町を結んでいるが、人よりも物資の搬送が盛んなのだ。

ティツ村からは作物が取引の商店に運ばれ、ディリンゲンの町からは売り上げの貨幣が支払われる。

ゼンケルはティツ村の取引の代理人として、ディリンゲンの町の商人とこの村と生産者を繋げる重要な役割を担っている。

俺が二人分の運賃である銀貨十枚を支払おうとするが、ゼンケルは慌てた素振りで手を振ると受け取りを拒否した。

「いやいやとんでもない。いつもお世話になりっぱなしだというのにお金なんて受け取れませんよ」

「いや、しかし……」

「もしお二人からお金を受け取ったなんて事が知れたら、私が村にいられなくなるんですよ。さ、馬車を出しますよ。荷台で座っててくださいね」

結局、運賃を受け取ってもらえずに馬車は出発してしまった。

キルシュも肩を竦めて、

「仕方ないね」

と言ってくれたので、今回は料金を支払わずに乗せてもらうことになった。

穏やかな晴天の空の下、乗合馬車は街道を進んでいく。

周りは見渡す限りの青い草原で、魔物のような脅威になりそうな生物の姿も今は見受けられない。

「冬だというのにいい風だねぇ。春が近づいているのかな」