「ローズ。最近、彼女に何か変わったことはあった?」
ローズがレオンに声をかけられたのは、リヒトの座学の試験中、一人廊下で待っている時だった。
「『彼女』、とは?」
「……『海の皇女』――ロゼリア・ディランのことだ」
レオンは珍しく、少し間を置いてこたえた。
いつもは余裕たっぷりのレオンが、妙に落ち着かない様子に見えて、ローズは不思議に思って彼に尋ねた。
「レオン様は、ロゼリア様と仲がよろしいのですか?」
「…………は?」
長い沈黙の後、レオンはぽかんと口を大きく開けた。
「その、なんといいますか。レオン様は周りにたくさんの女性を侍らせても、一人の方に執着されているようには、あまり見えなかったので……。ただ、彼女に対しては少しは違う気がして」
「それは僕が君を――いや、これは……今はいい」
ローズの言葉にレオンは深いため息を吐いて、頭痛がするとでもいいたげに頭を抑えた。
「君が何を勘違いしているかはしらないけれど……。君の兄が勝手に決めたとはいえ、今回のことは彼女が失敗すれば僕も被害を被る。だからできるだけ早く、問題は解決しておきたいんだ」
レオンの言葉は、完璧主義の彼らしい言葉ではあった。
レオン・クリスタロスという人間は昔から、基本的に打てる先手はすべて打つ、という性格なのだ。
「そうですね。数日前……レオン様が幼等部に来られた次の日あたりから、元気がないように見えます。ここ数日、何かずっと思い悩んでいる様子でしたし、学校以外のことなので、何か悩まれているのかもしれません」
「ローズも僕と同意見か」
「レオン様もそう思われていたのですか?」
「まあね。どうにも訓練にも身がはいらない――という様子だったんだ。僕が彼女に会うのは基本放課後だけだけどね。リヒトのお守りで、そばで見る機会の多い君が言うなら間違いはないだろう。今日も訓練の約束をしているし、本人に聞いてみることにするよ」
「……レオン様が真正面からお尋ねに?」
「ああ」
ローズは驚きを隠せなかった。
いつものレオンなら遠回しに言葉を選ぶか、周りの人間から真実を探りそうな気がするのに。
ロゼリアに関しては、自分から自発的に動くつもりらしい。
『三人の王』。
もしかしたら前世での繋がりが、レオンにそうさせるのだろうかと考えて――ローズはその考えを、頭から打ち消した。
レオン・クリスタロスは、現実《いま》を重んじる人間だ。
だがだとしたら、レオンが『出会ったばかりの少女』を気にかける理由がなんなのか、ローズにはわからなかった。
「用は済んだし、僕はこれで失礼するよ」
リヒトが教室から出てくるより前に――レオンはそう言うと、ローズに背を向けた。
ローズはそんな彼の背中を見ながら、不思議そうな顔をして呟いた。
「いつもなら慎重なあの方が……一体、どうなさったのでしょう?」
◇
「……約束、破ってしまったわ」
学院の中の湖を前に、ロゼリアは一人、手紙を手にうなだれていた。
「何も言わずに行かなかったこと、彼は怒っているかしら」
今日は訓練をする約束をしていた。
けれど父からの手紙のことが気にかかって、ロゼリアは二人との約束をすっぽかしてしまった。
キラキラと光る湖の水面を見つめて目を細める。
自分の魔法のことでこれまでずっと悩んできたというのに、『水』に関わる場所が一番落ち着くだなんて、矛盾していると心のなかで自嘲する。
「私のために、二人とも時間を割いてくれているのに。……でもお父様のことで、とても他の人に相談なんてできないわ」
『魔法が使えないなら国に連れ戻されると言われているの。だから、魔法を使えるようにもっと協力してほしいの』
そんなこと誰かに相談したとして、相手を困らせるだけだ。
――私は、『海の皇女』なのに。こんな私じゃだめなのに。
ロゼリアがそう考えて顔をしかめていると。
「え?」
急に地面に影がさしたに気付いて、ロゼリアは顔を上げて目を瞬かせた。
空を仰げば、日を隠すほどの大きな鳥が、頭上を飛んでいたからだ。
巨大な黒鳥はロゼリアを見つけると、ゆるやかに高度をおとし近寄ってくる。
ロゼリアは慌てた。
赤い瞳に黒い翼。そんな鳥の名前なんて、一つしか浮かばない。
「ここにいたのか。『ロゼリア・ディラン』」
巨大な黒鳥――レオンはレイザールから降りると、つかつかとロゼリアのもとへと近寄った。
ロゼリアは思わず一歩後退ると、上目遣いで彼に尋ねた。
「どうして、貴方がここに」
「君が時間になっても約束の場所に来ないから、空から探させてもらった。僕との約束を破るなんて、随分といい度胸だね?」
レオンの声は語尾こそ上がっていたが、目は笑っていなかった。
「ご、ごめんなさ……」
――確実に怒らせた。
ロゼリアはそう思い、慌てて頭を下げた。
「簡単に謝るくらいなら、約束を破るのはよくないな。ところで」
レオンはロゼリアの目線の高さにかがむと、彼女の目元に指を添えた。
「どうして君はいつも、一人で隠れて泣いているんだ?」
「……っ!」
レオンの指先は、透明な雫で濡れていた。
ロゼリアは乱暴に手で顔を拭った。
「わ、私は、泣いてなんかないわっ!」
「嘘をついても無駄だよ。……ああもう、目を擦ったらダメだ。赤くなってる。ほら、こっちを向いて」
レオンはそう言うと、手巾を取り出してロゼリアの目元を拭った。
その仕草は、まるで幼い子どもにするように、どこか優しい。
「……ごめんなさい」
ロゼリアは無意識に、そう口にしていた。
レオンはその言葉を聞いて、はあと深いため息を吐いた。
「謝る前に、どうして君が泣いているのか教えてくれ。僕は別に、理由なく君を叱ったことなんてないはずだけど? 悩みがあるなら、それはそれでいいよ。でも君が僕に君のことを教えてくれないと、僕は君に何もしてやれないだろう?」
「貴方が私のためになにかしてくれるの……?」
慰めようとしてくれているのだろう、とロゼリアは思った。
だがその中で、レオンが口にした思いがけない言葉に、ロゼリアは目を瞬かせて尋ねていた。
レオンはロゼリアから視線を反らして言った。
「……君が転べば僕やギルバートも転ぶ。今の僕たちはいわば、運命共同体だからね」
あくまで試験のために心配してるのだ、というレオンの言葉に、ロゼリアはどこか納得して――それから、少しだけ胸が痛むのを感じた。
「そうよね。……私達、同じ仲間だもの」
沈んだ彼女の声を聞いて、レオンは一瞬ばつの悪そうな顔をすると、ロゼリアの隣に黙って腰を下ろした。
「それで? 君は、何を悩んでいるんだ?」
「お父様が。……お父様が、ここに来ると仰ったの」
「それの何が問題なの?」
「お父様がいらっしゃったとき、私がもしまだ魔法を使えないままなら、国に連れて帰ると仰ったの」
「……なるほどね」
レオンは表情の暗いロゼリアを見て、合点がいったという顔をした。
「それが、君が最近元気がなかった理由か」
「……」
沈黙は肯定だ。レオンはそう判断した。
「一つ、君に質問してもいいかな?」
「何?」
「君の父は、どういう人?」
レオンの問いに、ロゼリアは返答に少し迷った。
「お父様は……厳しくて、『優しい』人よ」
「『優しい』?」
ロゼリアの言葉にレオンは首を傾げた。
「魔法を使えない限り、皇族である私は後ろ指をさされる。お父様は、私のことを心配してくださっているの。私のお母様は、私が幼いときに病でなくなったの。私のことを気にかけられるのは、そのせいというのもあるかもしれないわ」
愛しているからこそ、心配してくれる。
それは理解しているけれど――ロゼリアは、父の愛情が辛かった。
『心配』される度に、『結局お前はダメなのだ』と、そう突きつけられている気がして。
胸をおさえたロゼリアを見て、レオンはふと何か思い出したような顔をした。
「もしかしたら――君の父は、僕の父上に似ているのかもしれない」
「え?」
ロゼリアは、レオンの言葉の意味がわからず首を傾げた。
「僕とリヒトの母は、幼いときに亡くなっている。父上は――叔母上も早くになくしているから、昔から僕やリヒトのことが気がかりみたいだった」
母を早くに亡くした父。
その点において、確かに二人は似ているようにロゼリアは思った。
「父上は昔から、僕に期待を向ける一方で、リヒトには期待する素振りを見せなかった。今、僕が十年もの眠っていたせいで、少し揉めているけれど……多分父上はこれ以上、リヒトに無理をさせたくないんだと僕は思う。魔法を使えないことは、今のこの世界では、王族であるなら非難の目を向けられる理由になるからね」
これ以上リヒトが傷つかなくていいように――真綿にくるんで大切に大切に……。
だが真綿といえば、こんな言葉もある。
『真綿で首を絞める』
そんな言葉が頭に浮かんで、レオンは小さく頭を振ってから、落ち着いた声でロゼリアに尋ねた。
「それで? 君はどうしたいの? 君の父の言うように、国に戻りたい? それとも、ここにいたいの?」
「私は……」
レオンがロゼリアに、そう訪ねた瞬間だった。草むらから、幼等部の生徒たちが一斉に現れた。
「今の話、どういうこと!? ロゼ、国に帰っちゃうの!?」
「どうして、みなさん、ここに……」
「ロゼが元気がなかったから、お菓子でも一緒に食べようって誘おうって……でも、そしたら、二人の話が聞こえて」
「やだよ、ロゼ。せっかく仲良くなれたのに、帰っちゃうなんて嫌だよ!」
ここにいてほしい。一緒に学院で過ごしたい。
そう口にする子どもたちを前に、ロゼリアは困惑の表情を浮かべていた。
◇◆◇
「なるほどな。……昨日、そんなことが」
翌日。
幼等部の教室で、リヒトとローズは昨日の出来事のあらましを聞いた。
「だからさ、ロゼリアのお父さんが来るまで、みんなでロゼリアのために出来ることをしようと思うんだ」
「例えば?」
「グラナトゥムにこれないよう、罠を仕掛ける、とか」
「危険なことはだめですよ。それに大国の王相手にそんなことをしたら、どんな罰がくだるかわかりません」
ローズは冷静だった。
「でも、王様がこなかったらいいんだろ!? だったら妨害すればいいじゃん!」
「それは解決策とは呼べません。そもそも、そんなことをすればロイ様にも迷惑がかかります。それに、ロゼリア様の父君でいらっしゃるディランの皇帝は、貴方方が敬愛してやまないロイ様の叔父にあたる方でしょう?」
「叔父?」
子どもたちは目を瞬かせた。
「ロゼリア様の母君は、グラナトゥムの第一王女だった方なのです。また、ディランはグラナトゥムに並ぶ大国です。貴方たたちがこの問題に手を出すのはおすすめしません」
「なんだかとたんに怖くなってきた……」
ロゼリアのために、何かできることをしよう! と意気込んでいた子どもたちは、ローズの話を聞いて肩を落とした。
「誰かを傷つける方法じゃなくても、さ。俺は彼女のことを信じてあげたり、応援したり、そういう気持ちが彼女にとって力になると思う。それにお前たちが動いて、それで罰せられるようなことがあれば、その時に一番悲しむのは、彼女だと俺も思うぞ」
ローズの言葉で落ち込んだ様子の子どもたちは、リヒトの言葉を聞いて少しだけ元気さを取り戻した。
「……わかった。そうだよな。妨害とかじゃなくても、応援することはできるもんな」
「最近頑張ってるし、ロゼリアにならきっと出来るよ!」
「うん。きっとそう!」
リヒトの言葉を聞いた子どもたちは、明るい言葉が飛び交わせる。
そんな中、幼等部の生徒の一人が、こんなことを呟いた。
「でも俺はさ、ロゼリアみいにすれ違えるのも、羨ましいなって思ったりもするよ。魔法が使える子どもは、貴族の養子に迎えられることが多くて。……そうなったら、今のお父さんやお母さんとは、縁を切るように言われることもあるって聞いたんだ。俺はロゼリアのお父さんのことはよく知らないけど、家族だからすれ違える――って、そんな感じがするから。すれ違える相手がいるって、幸せなことだとも俺は思うんだ」
その話を聞いて、ローズは自分の婚約者であるベアトリーチェが、養父に止められたわけではなかったものの、自分の意志で家を出たというのともあり、ここ最近まで実の親とまともに話していなかったという話を思い出した。
相手を思うからこそ――すれ違うこともある。
でもその思いが、本当に相手を思ってのことなら、いつかはすれ違うのではなく、目線を合わせて話が出来ればいいのにとローズは思った。
それから数日後、グラナトゥムの港にディランより巨大な船がやってきたという話が学院に届いた。
その日の正午頃、魔法学院の門前に一両の馬車がとまった。
「ついにやってきたぞ!」
『敵兵敵兵! 襲来しました!』
ロゼリアを心配して、門の近くで見張りをしていた子どもたちは、その光景を見て驚きを隠せなかった。
馬車から従者の手を借りて降りてきたのは、青い長い髪が特徴の、美しい青年だったからだ。
「…………って、めっちゃ若い!?」
予想していなかった『父親』の姿に、誰もが心の中で突っ込んだ。
「ようこそ。アジュール陛下」
「お久しぶりです。今日はロゼリアのことで、突然お仕掛けてしまい、申し訳ありません。それより、その呼び方はやめて欲しいと、以前そう伝えましたね?」
アジュールとは、青を意味する言葉だ。
『海の大海』ディランの王は、美しい青の瞳で、じっとロイを見つめた。
子持ちの国王だと知らなければ、絶世の美女とも思える外見は、人を魅了する力がある。
「……お久しぶりです。叔父上」
「はい。ロイくん」
くすりと笑うその姿は、まるで水の精霊のように美しい。
血脈を辿れば人魚の血も混ざっているとされるディランの皇族の系譜には、美しい髪と瞳を持って生まれる人間が時折生まれる。
その中でも、アジュールは先祖返りと呼ばれるほどの美貌の持ち主だ。
外見だけなら母親似で父親と比べると快活そうなロゼリアとは違い、アジュールは儚げな印象を周囲に与えるのに、彼の口から出るロイと交わす言葉は、まるでロイと同い年の青年のようでもあった。
ロイは昔から、アジュールの前になると幼い頃に戻ったような気持ちになる。
アジュールがロイを甥っ子として子供扱いするせいもあるのだが、ついアジュールの魔塔独特な雰囲気に飲まれてしまうのだ。
「あの子のことを、貴方に任せてしまって申し訳ありません。一人娘ということもあってどう接してよいか、僕もわからないところがあるのです」
「ロゼリアとは昔からよく話をしていましたし、叔父上は気になさらないでください。それにロゼリアも、最近は友人も出来たようですし、魔法の訓練も意欲的に行っています。手紙でロゼリアが魔法を使えなければ連れて帰ると仰っていましたが、その判断は時期尚早かと思います」
ロイの言葉に、アジュールは波の模様の描かれた空色の扇を手に苦笑いした。
「ありがとう。でも、ロイくん。あの子は僕のただ一人の後継者。そう思って育ててきましたが、そうやって期待をかけすぎるのも、良くなかったのではないかと最近は思っているのです。君があの子を思ってくれていることは知っています。ですが、父として、国を治める者として――線引きは必要かとも思います。あの子が僕のあとを継ぐに相応しい者かどうかは、今日判断させてもらいます」
人ならざるほど美しいその人に、反論は許さないという強い意思を感じて、ロイは言葉を飲み込んだ。
◇◆◇
「ロゼリア」
アジュールのまとう空気が、少しだけピリリとしたものに変わる。
ロゼリアの待つ訓練場についたアジュールは、後継者に対するいつもの口調で命じた。
「約束通り、お前が今使える魔法を、今日は見せてもらおう」
ロイに対する、アジュールの口調は柔らかい。
だがそれは、甥であるロイの前だからだ。皇帝としてのアジュールの口調は違う。
凄絶な美貌故に、『皇帝』としてのアジュールは、人に畏怖の念を抱かせる。
「……わかりました」
ロゼリアは深呼吸をすると、石に魔力を込めた。
『もし失敗したら』と思うと、ロゼリアは手が震えた。そのせいで、魔法が上手く使えない。
――やっぱり。やっぱり、私はダメなの? 私は変れないの……?
その時だった。
隠れていた子どもたちが立ち上がり、大きな声で叫んだ。
「頑張れ~~!!!」
「え……? なんで、みんなが……」
ロゼリアは魔法を使う手を止めて、声の方を振り返った。
「……ロイくん。今日はここに子どもをいれないで欲しかったのですが」
突然の乱入者に、アジュールはロイに咎めるような視線を向けた。
「すいません。彼らがどうしてもというので」
「……」
「実は先日学院でとある催しをしたのですが、その際に一つ、彼らの願いを聞くと約束していまして。それの彼らが、どうしても彼女を応援したいと願うものですから」
グラナトゥムの国王が一度だけ与えた権利。
それを娘のために使おうとするなんて――アジュールは、娘にそれほど親しい存在が出来たことが驚きだった。
『友人』になり得る年頃の子どもたちから、ある時期から距離を取ろうとした娘が。
「彼らはロゼリアの友人なのですか? 少し年が離れているように思いますが……」
「……」
クラスの編成が実技の試験の結果のせいで決まったことは、ロイはアジュールには言えなかった。
実力主義の魔法学院。
入学時の正当な評価とはいえ、ロゼリアの学院での評価をアジュールに話すことは憚られた。
ロイとアジュールが二人が話をしている間、ギルバートはこっそりロゼリアに近付くと、いつもの調子で話しかけた。
「よっ。元気か?」
「きゃっ」
意表をつかれたロゼリアは、思わず声を上げた。
「ど、どうして貴方がここに」
突然の乱入者。
だが張り詰めていた緊張が、ギルバートがそばにいるというだけでとけたことにロゼリアは気が付いた。
手の震えも、いつの間にかおさまっていた。
「君がなかなか魔法を使えないみたいだから、見に来たんだ」
「……戻って。このままだと、お父様が貴方をお怒りになるわ」
ロゼリアは、ギルバートにそう告げることしかできなかった。
自分のせいで、彼にまで迷惑をかけるわけにはいかない――しかしロゼリアの思いなどおかまいなしで、ギルバートはロゼリアに尋ねた。
「ところで、ロゼリア。君はいつから、魔法がうまく使えなくなったんだ?」
「……どうして今、そんなことを聞くの?」
「何事も、原因があるから結果がある」
少し疲れたように尋ねたロゼリアに、ギルバートは落ち着いた声で言いきった。
「私が使えなくなったのは、『海の皇女じゃないなら、私に価値なんてない』そう言われてからよ」
「それで? 君はその言葉を、『正しい』と思ったのか?」
ロゼリアは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「……わからない。私は、誰かの笑う顔が好きだった。それだけで、幸せだった。でもそうやって、私がなにか行動するたびに、それは施しであったり利用できると彼らはいったの。私は……私は、ただ」
誰かに自分が持つ水を、あげたいと思っていただけだった。
空から降る雨が、全てのものに恩恵をもたらすように。
だがそれを傲慢だと、利用価値があるとか誰かに評価されたときに、ロゼリアはどうすれはいいかわからなくなってしまったのだ。
自分のすべてを、否定されたような気がして。
「じゃあ君は『彼ら』も、そんな人間だと思っているのか?」
「それは……」
ロゼリアは返事に詰まった。
「君には彼らが、君に利益を求める人間のように見えるのか?」
「……もしかしたらいつかは、彼らもそうなるかもしれないわ」
父を前にしている今だからこそ、ロゼリアはそう思った。
学院の中は、外の世界とは違う。
魔法の才能があっても、王族と平民には大きな壁がある。
この学院は、この場所は、夢のような場所だ。誰もが平等なんて理想に過ぎない。
力を示さなければ、存在を認められない世界があることを、ロゼリアは知っている。
――……でも。
「本当はその答えは、もう出てるんだろう?」
自分のことを心配そうに、でもどこか期待して見守る幼等部の生徒たちを見て、ロゼリアは唇を噛んだ。
たとえ可能性が低いとしても、これからも彼らに変わらぬ瞳を向けてほしいと、そう思う自分の心こそが、答えなのだと知っている。
「君は今、檻の中に居る。君は――鳥はずっと、檻の中に居た。そしてずっと焦がれていた。自分も、みんなと同じように青い空をかけたい。悠然と広がるあの青を、共に飛び回りたい」
ディランの後継者として、ロゼリアは周囲に期待されて育った。けれど本当は、『普通の少女』でいたいと思うことは何度もあった。
『普通の少女』のように、友人を作って、笑い合えることを願っていた。
「その願いは、空へと届く。だから君は、君の心のままに飛べばいいんだ」
ギルバートの言葉は優しく響く。
ロゼリアはその声を聞いて、自分の胸の中に、風が吹き抜けたような感覚があった。
――信じても、願ってもいいのだろうか?
でもその思いを否定する昔の記憶が蘇って、彼女は目を閉じた。
「自分を否定するな」
ギルバートはそう言うと、ロゼリアの頭を優しく撫でた。
「君がもし、近くに居る者だけに水を与えることで否定されて苦しんだなら、もっと広い世界を知ればいい。でも君の想いを受けとめてくれる誰かに、君の心や魔法が、支えになるようなそんな誰かに出会うためには、君は世界を知らなくちゃいけない。今の君は、井戸の中にいるようなものだ。世界を知らない君は、とじられた井戸《せかい》の中で、自分の作り出した水に溺れている。そんなの、勿体無いと思わないか?」
――勿体ない、だなんて。
そんな考え方を、ロゼリアは初めて聞いた気がした。
「井戸の蓋は俺が壊してやる。俺も、君も。この力は、一人で抱えるべきものじゃない。自分のためだけのものじゃない」
十年間眠っていた少年が口にする言葉の筈なのに、ロゼリアはギルバートの言葉が、もう何十年、何百年も生きてきた人間の言葉のようにも思えた。
「大丈夫。君なら出来る。今はその感覚を、少し忘れてしまっているだけだ。だって君は、その名に相応しい魂をその体に宿している。そのことは君が誇るべきことで、君を否定するものじゃない。『君は今のままでいい』なんて言葉は、きっと今の君は、求めてはいないんだろう?」
それはロゼリアが、『海の皇女』として生きることを諦める言葉だ。
「だから俺は、君に言おう。自分を誇れ。君の弱さ、優しさを。それこそが君の強さだと、かつての君はちゃんとわかっていたはずだ。だって君は紛れもなく――『海の皇女』なんだから」
ギルバートはそう言うと、パチンと指を鳴らした。
すると同時に、二人を水が取り囲んだ。
空の色をうつす水はキラキラと輝き、紙で作られた海の生き物たちは、楽しそうに空を泳いでいた。
ロゼリアは目を見開いた。
――自分はこの光景を、知っている。いいえ、違う。私は、ずっと知っていた。知っていたのに、失った。
小さな紙の魚たちは、水で作られた空を泳ぐ。
それは幼い頃のロゼリアが、使っていた魔法とよく似ていた。
『水晶宮の魔法』
ただ彼の魔法は、幼い頃彼女が操っていたそれよりは、生き物たちの動きが随分とぎこちない。
それはギルバートが自分と違って、海の中の魚の動きを、詳しくは知らないためだと彼女は思った。
魔法が使えなくなり、部屋の前に閉じこもる前――ロゼリアは、海が大好きだった。
『青の大海』ディランの皇女として生まれ育ったロゼリアにとって、海の中の生き物たちは、ずっと彼女の誇りだった。
『海の皇女』と呼ばれることも、未来を期待されることも、何もかもが自分にとって誇らしいものの筈だった。
だから、知ってほしいと願った。
自分が愛する愛しい世界。そんなものを、誰かと共有したいと思った。
でも、その心は踏みにじられた。
自分の心をわかってくれる人なんて、この世界には一人もいない。
『あの日』からずっと――そう思って生きてきた。
「君が『君』でいたいなら、信じる相手を間違えるな」
「――私は……」
『みんなは喜んでくれるかしら』
昔のロゼリアは、貴族の子供たちを招待してお茶会を開くこともあった。
彼女の暮らす宮殿は龍宮と呼ばれており、かつて『海の皇女』が暮らした場所だとされていた。
『三人の王』の一人、『海の皇女』ロゼリア・ディラン。
数多くの功績を残したその女性は、海を、そして海の生き物を愛していた。
龍宮の中心部にはガラス細工や宝石で作られた講堂があり、その壁にはこの海に生きるあまたの生き物が、回遊する姿が写し取られている。
触れればひやりと冷たいその場所が、ロゼリアはお気に入りだった。
『明日は何かあるのか?』
『大切なお友達だもの。みんなにも私の見てもらいたいの。楽しみだわ』
『そうか。――いい一日になるといいな』
『ありがとう。ロイ!』
『友人たち』を招く前の日に、ロゼリアはロイとそんな話をして笑っていた。
きっと素敵な一日になる。
そう期待して、ロゼリアは『彼ら』を招いた。
『この場所には、秘密があるの!』
ロゼリアはそう言って、魔法を発動させた。
講堂は水で満たされる。
『海の皇女』ロゼリア・ディラン。
ディランの歴史上唯一の女性でありながら、王として国を導いた女性は、生涯誰とも結ばれることなく、一生を終えたと言われている。
彼女が愛したのは誰だったのか――その説は様々あるが、異国の王であったという話も残っている。
その『海の皇女』が最も愛したという魔法――そしてその名を継ぐ自分が、この世界で一番愛する魔法を。
知ってほしいと願わなければ、喜んでほしいと思わなければ――今のように魔法が使えなくなることなんて、なかったのかもしれない。
『な、なんだ?! これ』
『まさかこれ……水晶宮の魔法!?』
『大丈夫。水の中でも息が出来る魔法も一緒にかけているから』
美しいこの国の景色。
大切だから、大切な友達だと思っていから。見てほしかった。知ってほしかった。
美しいこの景色を、自分が愛するものを。
けれどロゼリアのその思いは、彼らに届きはしなかった。
『突然魔法を使うなんて、何を考えているんだか』
『自分が使える魔法を、見せびらかしたかったのよ』
『そんなこと、言ったら駄目よ』
『水晶宮の魔法』を披露した後で、ロゼリアは偶然『友人達《かれら》』の話を聞いてしまった。
その声は、まるで愚かな道化を嘲笑うかのようだった。
『遠い異国の舶来の品も、あの子に頼めばなんだって手に入るんだから』
『最初から何でも持っている、皇女様が羨ましいわ』
『ええそうよ。海の皇女でなかったら』
『友達になりなさいとお父様が仰らなければ』
『友達になんてならなかった』
その言葉を聞いてしまった時、ロゼリアは自分の心にヒビが入る音を聞いた気がした。
器は、心は、ひび割れて溢れてしまう。
それからだった。ロゼリアが、魔力の制御が上手く出来なくなったのは。
『――ロゼリア様? どうかなさいましたか?』
けれどロゼリアは、何も知らない周囲の人間たちに、彼らのことを告げ口する気にはなれなかった。
そうしてしまえば、自分という存在を、自分が否定するような気がした。
自分の意に反する者たちを、ロゼリアは罰することは望んでは居なかった。
ただ悲しかった。胸が痛くてたまらなかった。
水魔法。
息をするかのように使えていたはずのものが、腕いっぱいに抱えていた宝物が、手のひらからすり抜けていくのをロゼリアは感じた。
『一時的なものでしょう。大丈夫。ロゼリア様のお年頃であれば、よくあることですよ』
『しかし……』
大国の跡継ぎとして期待されていた『海の皇女』の名を継いだ人間が、今更魔法が使えないなどあってはならない。
周りの大人たちの視線は、憐れむようにも、蔑んでいるようにも彼女には見えた。
胸を押さえる。目を瞑る。忘れてしまえと思うのに、自分を否定する言葉は消えてはくれない。
『国の宝』から『出来損ないのお姫様』。
やがてロゼリア自身に関わることを周りの大人たちはためらうようになり、『友人』たちの訪れもなくなった。
期待して、厳しく接していた父は、自分に無理をさせないように気をつかっているようにロゼリアには見えた。
そんな中、唯一自分に態度を変えなかったのは、ロイ・グラナトゥムだけだった。
彼だけは信じていい。彼だけは分ってくれる。
そう思って、ロゼリアはロイと二人で時を過ごした。
しかしあるとき、ロイはロゼリアにこう尋ねた。
『ロゼリア。お前は、前世のことを覚えているか?』
『え……?』
『すまない。妙なことを聞いた』
その時、ロゼリアは気付いてしまった。
天才だと呼ばれるロイの力が、前世に起因するものだと言うことを。
彼には昔の記憶があることを。だから誰に否定されても、揺るがぬ自分で居られるのだと。
そう思ったとき、やはり自分の心を理解してくれる人なんて居ないのだと思った。
――彼は、私とは違うのだ。私とは違って、自分が自分でいい記憶《りゆう》を手にしている。
『三人の王』の転生者。
そのはずなのに、『同じ』じゃない。彼に私の気持ちなんてわからない。私の魔法は壊れてしまった。この心は壊れている。そんな自分が、魔法を使えるはずなんてない。
暗い部屋で、一人で過ごす日々が続いた。
そんな自分を見かねてか、父に無理やり入れられた学院で、沢山の人の目の前でロゼリアは魔法を失敗した。
実技での結果のせいで幼等部に入られて、そこでロゼリアはリヒトと出会った。
どんなに頑張っても魔法を使うことができない彼は、今の自分と同じだと思った。
誰からも期待されない、同じ『出来損ない』なのだと。
だがそう思うことに、彼の実の兄は怒りを示した。
強い否定の言葉を、直接向けられることは久しぶりのような気がした。
そして一人泣いていたそんなときに、ロゼリアはギルバートと出会った。
『子どもは、遊びながら学ぶものなんだぞ』
陽だまりのような笑顔は、不思議と『誰か』に似ている気がして心地よかった。
空を翔る鳥。
魔力を持つ者と、そうでない者との間にある大きな壁。
その壁を超えた古代魔法の紙の鳥は、平和の象徴である純白の鳥のように今のロゼリアには思えた。
ロゼリアは、水中を泳ぐ魚たちを見上げた。
『海の皇女。約束通り、君にこの魔法を渡そう。誰よりも海を愛する君にこそ、この魔法は相応しい』
「……っ!」
その時、知らない声が頭に響いて、ロゼリアは思わず目を瞑った。
記憶の中で、『誰か』が笑う。
白い鳥を空へと飛ばす。金色の髪を揺らして。
それは紙の鳥。『彼』が作り出した、平和と幸福の象徴。
――これは祈りだ。これは、『彼』の祈りだ。
そんな言葉が、ロゼリアの頭に浮かぶ。
『協力してくれ。大陸の王。海の皇女!』
その声は、確かに自分の中に響いているはずなのに、強く胸を打つはずなのに、すぐに朧気になって消えてしまう。
『彼』を思い出そうとすると、まるで魔法にかかったかのように、靄がかかって思い出せない。
でも、これだけはわかる――ロゼリアは、何故かそう思えた。
――これは記憶だ。きっと、遠い昔の。優しい貴方との、大好きだった貴方との、懐かしい思い出だ。
「私、私は……」
――ああそうだ。今も昔も変わらない。私はただ、みんなが笑えるそんな世界を作りたいと願っていたの。誰かにその感情を否定されても、それが私だったの。それこそが、『海の皇女』だったの。
『彼』の声を聞いたせいだろうか。
今のロゼリアは、不思議とそう思えた。
「さあ、『海の皇女』。今度は俺に、君の魔法を見せてくれ!」
ギルバートは『彼』によく似た笑みを浮かべて、高らかに言った。
ギルバートが魔法を解いたその瞬間、ロゼリアの視界には、青い空が目に写った。
ロゼリアは大きく息を吸い込んで、それから紙に触れて魔力を込めた。
失敗する姿なんて、もう頭の中には浮かばなかった。
――私なら、出来る。だって私は、『海の皇女』なのだから!
「――飛び立て!!!」
ロゼリアの声と同時に、空に一斉に、真っ白な紙の鳥が飛び立っていく。
「とんだ……!」
「すごい。すごーい! いっぱい、いっぱい!!」
美しいその光景に、子どもたちが声を上げる。
「でき……た……?」
ロゼリアは、空を見上げて目を大きく見開いた。
――よかった。できた。出来たんだ……。
だがその瞬間、安堵感と一緒に張り詰めていた気が緩んで、どっと疲労感がロゼリアを襲った。
うまく立つことができずよろめいた彼女の体を、背後にいた大きな手が支えた。
「……大丈夫?」
声の主が誰か気付いて、ロゼリアは思わず顔を上げた。
『賢王』レオン――自分を気遣うような彼の瞳に、ロゼリアは目を瞬かせ、それから顔を隠して視線をとそらした。
「――だ、大丈夫。ありがとう。気が抜けただけ」
心臓の鼓動の音がうるさい。
ギルバートだと安心出来るのに、レオンだとどうして自分の心はこうも騒ぐのか――彼に触れられている場所から、体に熱が広がっているように思えて、ロゼリアは緊張した。
「ロゼリア」
レオンから表情を隠すように、少し距離を取って背を向けたロゼリアを、アジュールは静かに呼んだ。
ディランの皇族の印である青の瞳には、ロゼリアは今も昔も、優しい色が灯っているように思えた。
ロゼリアは父が、自分とロイとでは口調を変えていることを知っている。
不器用な人なのだと、そう思う。
精霊病と呼ばれる病で、愛する人を失って。ただ一人の娘である、後継者が魔法を使えなくなったことで――どれだけ父が悩んだか、ロゼリアにはわからない。
部屋に引きこもっていた自分を突然学校に行かせたり、行動は読めないところもあるけれど、それはすべて自分を思っての行動のように、今のロゼリアには思えた。
「お父様。心配して来てくださったのに、申し訳ありません。確かに私の魔法は、不完全です。私じゃない人が復元したこの魔法だけが、今の私が扱える、ただ一つの魔法です」
『古代魔法』の一つとされる『紙の鳥』。
基本的に魔力が低くとも扱えるとされる古代魔法は、その魔法を復元した人間が褒められたとしても、使えるだけの人間が誇れるものではない。
「昔のように魔法を使うことは、今の私には出来ません。――でも。ここで、やりたいことが出来ました。この場所で同じ時を過ごし、学びたい仲間が出来ました。だからまだ、国には帰りません。……私は」
ロゼリアは、まっすぐに父を見つめて言った。
「私は、ここにいたい。ここでもう一度、頑張りたいと思うのです。だから……もう少しだけ私のことを、諦めないで待っていてください」
「……そうか」
長い沈黙の後、アジュールは静かに頷いた。
「それでは、頑張りなさい。ロゼリア」
ロゼリアはその日初めて、自分に向けられた父の笑顔を見たような気がした。
後継者に対してではない――娘の成長を喜ぶような彼の笑みに、ロゼリアは胸が締め付けられるのを感じた。
「はい。お父様」
青色の瞳は弧を描く。血の繋がりのある二人の笑みは、どこか似ている。
アジュールはロゼリアに背を向けると、静かにその場を後にした。
アジュールの後を追うように、ロイも場を離れる。
「ロゼリア!」
「ロゼ〜!!!」
アジュールがいなくなった瞬間、ロゼリアの周りには幼等部の生徒たちがどっと押し寄せた。
よかった、よかったと口にすつ彼らに抱きつかれ、頭を撫でられてもみくちゃにされ、ロゼリアは少し慌てたあとに、困ったように息を吐いて、子どもらしく笑った。
◇
「しかし、一つ疑問なのですが」
「なんでしょうか。叔父上」
それから少しして、ロイと共に歩いていたアジュールは、とあることに気付いてぴたりと足を止めてロイに尋ねた。
「彼はどうして、『水晶宮の魔法』が使えるのでしょう?」
ディランに古くから伝わる古い魔法。
それは魔法陣の刻まれた複数の対象物を、水の中で同時に動かす魔法だ。
直接水晶に魔法陣を刻んでいるため、使おうと思えば他の人間も使えるだろうが――その魔法陣は、本来公開されていない。
そしてその魔法を使うには高度な魔力操作と魔力量が必要なため、扱えたのは『海の皇女』のみとされる。
そもそもその魔法が使えたからこそ、ロゼリアの名は世界に轟いたのだ。
『ハロウィンパーティー』なんて馬鹿げた企画をギルバートが持ってきたときから、ロイはずっと気になっていたことがあった。
それはギルバートが、『彼』と関わりのある人物ではないか、ということだ。
『先見の神子』――ギルバートの行動や能力・言葉は、ロイには記憶の『彼』と似ているように思えた。
『水晶宮の魔法』
その魔法を作ったのが誰なのかを、ロイは知っている。制作者なら、『彼』なら、使えてもおかしくはない。
いや、もし彼でなくても――『先見の神子』であるなら、自分と同じように『彼』を知る人間ならば……。
ロイの中の、『彼』の時代の記憶は曖昧だ。
そして『先見の神子』にまつわる記憶もまた、ロイはうまく思い出すことが出来なかった。
「……そのことについては、自分もまだわかりません」
アジュールの問いに、ロイはそう返すことしか出来なかった。
◇◆◇
「『ありがとう。凄く、上手だね』」
アカリのいない部屋で、ローズは一人呟く。
「駄目ですね。これでは、やはり違和感が……。『普通』に喋ろうと思っても、つい癖でこちらが出るあたり、私は完全な騎士というのには程遠いのかもしれません」
公爵令嬢として生きてきた自分が、騎士言葉《おとこことば》で話をすれば、どうしても自分の中に違和感が生まれる。
ローズは最近、それを強く感じていた。
「女の子は――『王子様』に、やはり憧れるものなのでしょうか」
学園に来て、アカリの護衛だというのに他の生徒たちから好意を向けられて、ローズはその瞳の中に宿る『期待』に気が付いた。
心優しい王子様。
自分に望まれるのがそれならば、『そうあろう』と思っても、なかなかうまく行かない。
だがそもそも、この姿でいられるのも、ローズはあと少しの時間しかないように思えた。
学院から国に戻れば、すぐに自分の結婚式だ。
それまでに、ベアトリーチェにとって『相応しい自分』にもならないといけないような気がして、ローズは頭をおさえた。
王子様のような騎士。
貴族の妻として恥ずかしくない淑女。
それは、正反対の生き方だ。
「『私』は、周りに私が求められる、『私』は……」
寝台に寝っ転がって天井を見上げ、小さな声で呟く。
自分で選んだものは殆どない、家族が選んだ美しい家具の並ぶ部屋を思い浮かべて、ローズは静かに瞳を閉じた。
「契約が可能な生き物は、下級、中級、上級、最上級に分かれています。現在、最上級とされる生き物は、この世に二つしか存在しません。さて、ではその二つとは何でしょうか? では、そこの貴方」
「ふぃ、フィンゴットとレイザールです」
教壇に立つ教師に視線を向けられ、リヒトは一度びくりと体を跳ねさせてから、おずおずと答えた。
「その通り。『最も高貴』とされるのは、光の天龍『フィンゴット』、闇の黒鳥『レイザール』です」
黒いドレスの、まるで物語に出てくる魔女のような格好をした教師は、リヒトの答えを聞いて頷くと本を開いた。
「契約を結ぶことの出来る生き物は、主人となる貴方方の魔法への適性が強く影響します。水属に適性を持つなら水の生き物、風属性であれば飛行種との契約は、通常よりも容易となります。逆に地属性に適性が強い場合、まれに飛行種との契約が難しくなるという事例も報告されています」
地属性の適性がある人間が、飛行種との契約が結べない――それは、ベアトリーチェが良い例だ。
リヒトはそう思いながら、本に描かれたページの、ただ一つの生き物を見つめていた。
「この授業では、世界に存在する様々な生き物について学び、より強いと判断される個体と契約を結んだ者に、実技における高評価を与えます」
◇
「いいなあ! リヒトは十五歳を超えてるから、もうその講義取れるんだ!」
『世界の生き物とその契約』
リヒトが教室で教科書を読んでいると、幼等部の生徒が声を弾ませて教科書を覗き込んできた。
その声を皮切りに、子どもたちがリヒトの周りに集まる。リヒトは笑って、教科書を彼らに手渡した。
子どもたちは目をきらきらと輝かせ、食い入るように教科書に描かれた生き物たちを見つめていた。
「この講義、お前たちはまだ取れないんだったか?」
「リヒト様。契約獣との契約は、十五歳以上が推奨されています」
護衛のためリヒトの側にいたローズは、そっとリヒトに告げた。
「……ああ。そうか」
魔力が「固定される」年齢で契約を結ぶ。
とすれば、学院側が年齢を制限するのは理に適っている。
「いいよなあ。ドラゴン! 憧れる。グラナトゥムにはいくつか騎士団があるけど、龍騎士団はやっぱり一番かっこいいもんなあ。レグアルガもかっこいいし……」
「わかる! 確かに! ドラゴンって、それだけでもうドキドキする!」
「でもやっぱり、一番契約したいのは――……」
子どもたちは、目線を合わせてにっと笑った。
「『フィンゴット』だよな!」
子どもたちの明るい声は重なる。うんうんと、誰もが一様に頷いていた。
「レグアルガも伝説級で上級だけど、フィンゴットとレイザールが別格って言われてるし。もうレイザールは契約されちゃってるから、狙うなら、フィンゴットしかないじゃん!」
現在、レグアルガはロイと、レイザールはレオンと契約を結んでいる。
「でも、なんでそもそも『別格』なわけ?」
「そのことについては僕がお答えよう」
首を傾げる子どもたちを前に、読書家らしい少年が、丸みを帯びた眼鏡をくいっと持ち上げて答えた。
「フィンゴットとレイザールは、一定期間を経て卵に戻る生き物とされている。そしてその性質を持つこの二つの生き物は、光と闇の、世界の始まりの生き物とも言われており、最古の生物として広く知られているんだ。また、この二つの生き物はかつてとある国の王と契約を結んだ際、人の姿をとって国を導いたという話もあり、これは『聖獣奇譚』として記録に残っている。そして学院には、そのフィンゴットの卵がある。『石の卵』と呼ばれるものだけど、グラナトゥムの魔法学院に世界中から王侯貴族が入学したがるのもこれが理由の一つで、最も高貴とされる生き物に認められれば、自分の価値の証明になると考えれているからだと聞いたことがある」
『王を選ぶ生き物』
フィンゴットとレイザールが、『最も高貴』とされるのは、そういう理由もあるのだ。
「お貴族様のことは俺にはよくわかんないけど……。でもいいよな~~! フィンゴット! 世界で一匹しかいない白い龍なんて、契約できたら最高じゃん!」
「でも学院に卵があるのに、これまで誰も目覚めさせられなかったってなると……やっぱり難しいのかなあ」
「三人の王が『フィンゴットの卵』を学院におさめたという記録は残っている。ただ学院に『卵』はあるけど、フィンゴットは千年以上ずっと目覚めていないっていうのも事実だね。そのせいで、もしかしたら存在自体架空なんじゃないかっていう人間もいるくらいだ」
眼鏡の少年の言葉に、他の子どもたちはうーんと唸ってから尋ねた。
「確かフィンゴットの前の契約者は、三人の王の一人なんだっけ?」
「え? それってレイザールだろ? だから三人の王の――『賢王』レオンと契約してたからこそ。レオン王子と契約したのも納得っていうか、元主だろ」
異例中の異例。
『賢王』レオンの生まれ変わりだからこそ、年齢や魔力量が条件を満たしていなくても契約を結べた――だがこの言葉に、少年は左手を口元に添えて苦笑いした。
「正確に言うと少し違う。『賢王』レオンは、レイザールと契約していたっていう説と、フィンゴットと契約していたという説あって、どちらが正しいのか、どちらも正しいのかわかっていないんだ」
「そうなのか!? でも、どっちもだったら正直やばいよな。最も強い力を持つ生き物を両方従えるなんて、本人が世界最強じゃんか」
太古の力。
始まりの力。
ローズも、レオンがレイザールの力を借りているところを見たことはある。
レオンがその力を使いこなせているかというと、今のローズには分からない。
ただその生き物と契約を結んでいるということが、世界でどういう評価を受けるのかは、ローズだって知っている。
『三人の王』
この世界で知らない者がいないその存在の転生者とされるレオンは、今の彼がどうであれ、子どもにとっては憧れの存在なのだ。
ましてや、すでに『最も高貴とされる生物』と契約を結んでいるなら尚更。
「でも、本当にレオン王子がフィンゴットと契約を結ぶ可能性はあるよな。だってここには、フィンゴットの卵だって言われている、『石の卵』があるんだから!」
『フィンゴットと契約を結びたい』
そう言っていたはずの少年は、瞳を輝かせて、その弟であるリヒトの前で声を弾ませた。
「お~~。人がいっぱい集まってる」
昼休み。
幼等部の生徒たちは、学院にある『石の卵』を見に行くことにした。
『石の卵』は、学院の東側にある『春の丘』と呼ばれる場所近くに存在する。
美術品を飾るような台座の上に、まるで置物のように置かれた一見何の変哲もない石をみるために、人が集まっているのは異様な光景だった。
「『見に行こうぜ』って言ったけど、柵があるしここまでしか近付けないんだよなあ……」
しかも近くで見ようにも、『石の卵』の周りには柵が設けられており、近付けなくなっているのだ。
「前来たときはここまでではなかったんだけど……。講義が始まったのもあって、見に来ている人間が増えているのかもしれない」
「なるほどなあ。やっぱ一度は! って思うもんなあ。勇者の伝説の剣みたいな」
「わかる! 俺が近付くとさあ、石の卵がひび割れて、中から現れたフィンゴットが、俺に頭を垂れる……とか。ロマンでしかない」
「わかる~~!」
少年達は声を弾ませて頷く。
「でもさ俺、よく分からないんだけど……。そもそもなんで卵が『石』なんだ? 石みたいに固い、とかじゃなくて、これって実際石なんだろ?」
「普通に考えたら、外敵から身を守るため――かな。フィンゴットとレイザールの卵は、石の内側にあるって言われている。因みにこの石について、以前削ろうとした人がいたみたいなんだけど、血のような赤い石粉がでて、凶行にでた人がその後事故にあったのもあって、今は人を近寄らせないようにしているらしい」
「怖っ! なんだよそれ、呪いみたいじゃん!」
その反応は最もだった。
それでまるで、触れてはならない呪いの卵だ。
「でもまあ、こういう話は……人を近寄らせないために作られた怪談という可能性も高いと思うけどね。何しろ『最も高貴』とされる生き物の卵だ。不用意に近づくのは、命が惜しければやめておけという警告かもしれない。ただ――卵の中に卵、は本当だと思う。レオン王子のレイザールも、石と卵の殻が回収されているからね。まあ、『主を待ち続けて千年、卵は石になった』なんて話もあるけど」
「……おいおい。その話が本当なら、どんなに頑張っても無理じゃんか」
レオンは『賢王』レオンの転生者とされている。
そんな彼と同等の素質だなんて、『やっぱり無理なのかなあ』と肩を落とした子どもを前に、本を抱えた気弱そうな少年が小さく手を上げて意見を述べた。
「僕は大体こういうのって、大抵手順が必要だと思うんだ」
「……『手順』? どういうことだ?」
言葉の意味が分からず、少年たちは首を傾げた。
「だって、『宝探しの話』っていうのはさ、暗号を解いてっていうのが普通でしょ? 冒険して、試練を乗り越えた者だけが宝を手にできる――っていうさ。僕は、フィンゴットも同じだと思うんだ」
「宝って言えばそうかもしれないけど……でもあの卵のどこに、『暗号』とやらがあるんだよ?」
「……それは」
本を抱えた少年は、言葉を詰まらせた。
『石の卵』はよく磨かれた赤鉄鉱《ヘマタイト》のような、つるりとした石肌を晒している。
「冒険小説の読み過ぎなんだよ。お前、普段運動なんてしないくせに」
「なんだよ。夢見たっていいじゃんかっ!」
「まあ、夢を見るタダだからな」
「なんだと……!」
「まあまあ、二人とも。こんなとこで喧嘩なんて駄目だよ」
喧嘩が起きそうになった、まさにその時。
「どけどけ! 俺様に道を譲れっ!」
荒々しい声とともにどたどたという足音が響き、乱暴に押しのけられて人が転ぶ音とともに、悲鳴のような声が上がった。
「何!?」「押さないで、いたい!」「きゃあっ」「何なの!? 一体!」
ローズがちらりと視線を送ると、身長の低い小太りのいばりくさった態度の男が、意地の悪そうな両脇の男二人に人を押しのけてさせて道を作っていた。
「あ……ああ、わわ……っ!」
人の波に押され、リヒトは自分の方に倒れてくる少女を庇おうとして、そのまま後方へと倒れ込んだ。
「えっ」
情けない声と同時、リヒトが倒した柵の音が響く。
少女の頭を庇うように抱きとめていたリヒトは、自分の顔スレスレで交差する鉄の柵に思わず息を呑んだ。
「……っ!」
少し間違えば危ないところだった。
「ご、ごめんなさい! リヒト様!」
「だ、大丈夫だ……それより、怪我はないか?」
少女に声をかけて笑いかけるも、リヒトは手をわずかに震えさせていた。
『正直怖かった』と言える状況ではない。
ローズは静かにその光景を眺め、男たちを避けるように開けられた道にわざと足を踏み入れ、男の前に立った。
「貴様、早くそこをどけ! 俺様を誰だと思っている!」
「失礼しました。そうですね……。一体どちら様でしょうか?」
ローズは振り返ると、まるで最初からそこにいたかのように不敵な笑みを浮かべて、男に尋ねた。
「えっ? ……ろ、ローズ様!?」
長い黒髪に、赤い瞳。
花紋章の刻まれた聖剣を手にした女性など、この世界に一人しかいない。
男は目を大きく見開いて頭を下げた。
「た、大変失礼しました。ローズ様だと分かっていればこんな真似しませんでした! ろ、ローズ様のことは、以前よりお慕いしておりました。是非この機会にお見知りおきを……っ!」
無礼を働きながらも、男はローズの手に自分の手を伸ばした。
まるで舞踏会で手に口付けて、男が女に挨拶するかのように身を屈める。
しかし男の唇が手に触れようとしたところで、ローズは低い声で呟いた。
「――随分と、荒っぽい真似をなさるのですね」
ローズは男を、冷ややかな目で見下ろしていた。
今のローズは騎士というよりは、『水晶の王国の金剛石』と呼ばれる『公爵令嬢』のようだった。
ドレスや手袋《グローブ》を身に纏う淑女のような声で、ローズは悲しげに呟いた。
「……残念です」
「えっ」
魔王を倒してその名を広く知らしめたローズの女性的な声に、男は頬を赤らめてから顔を上げ――侮蔑の目に気付いて体を震わせた。
「私を思ってくださる方の中に、こんなにも身勝手な方がいらしたなんて」
「最低」「身の程知らず」ローズの言葉と同時、男を責めるような声が周囲から上がる。
「も……申し訳ございませんでしたああああ!」
「お、お待ち下さいっ!」
「我々を置いていかないでくださいっ!」
男はぷるぷる震えると踵を返してその場を去った。
情けない謝罪をしながら全力で走る男の背を、取り巻きたちが追いかける。
「逃げてやんの。かっこわる~~!」
「ローズ様、かっこいい!」
「流石剣神様です!!」
「いえ、私は何も……」
軽く文句を言ったつもりが、何故か尊敬のまなざしを向けられローズが困っていると。
「何を騒いでいる」
よく知る声が聞こえて、ローズは振り返った。
「騒がしいと思えば……。もめ事の中心には、いつも俺のよく知る人物がいるようだ」
「…………」
「全く、こんなところで何をしているんだ。相変わらず、そそっかしいな。君は」
だがロイは、ローズには軽く視線を向けただけで、柵を倒して尻餅をついていたリヒトの前で足を止めると、ふっと笑ってリヒトに手を差し出した。
「……五月蠅い。いろいろあったんだよ」
リヒトは、大国の王であるロイの手を、当然のように取った。――まるで、親しい友人でもあるかのように。
その光景を見ていた周囲の人間たちが少しざわつくのを、ローズは静かに観察していた。
『賢王』レオンの弟でありながら、幼等部行きになった出来損ないの王子――その事実は変わらなくても、ロイがリヒトを認めているとすれば、話は変わってくる。
周囲から一目を置かれているベアトリーチェがユーリを認めることで、ユーリが高く評価されているように。
それにロイはこれまでも、才能がありながら評価されずに埋もれていた人間を、何人も世界に羽ばたかせている。
人の才能を見抜くことが出来る大国の王。それが、ロイの世界での評価だ。
だからこそ、ロイと人前で仲が良さそうに演じることが出来れば、周囲はその人間に興味を持つ。
――まあ、リヒト様はそんなことは微塵も考えてはいらっしゃらないでしょうが……。
相変わらず、少し間の抜けた素のリヒトを見て、ローズは苦笑いした。
どう考えても、リヒトは無意識だ。
だが、ロイはどうだろうか? そう思ってローズが二人を見つめていると、ロイが王らしい微笑みを浮かべて、ゆっくりとした口調でローズに尋ねた。
「ローズ嬢。俺に、何か言いたいことでも?」
「……いいえ」
問いでありながら発言を許さない笑みに、ローズは静かに首を振った。
◇◆◇
「よし! これで準備は完璧だ!」
その夜。
自作の『発明品』を袋に詰め背中に抱えたリヒトは、忍び足で寮を抜け出すと、星空を仰いだ。
高鳴る胸に手を当てる。
ああ、これから俺の冒険が始まるのだ――と、思ったところで。
「――何が『よし』、なのです?」
「ひわっ!?」
リヒトは背後から聞こえた声に、びくりと体を跳ねさせた。
暗闇からの声というのもあって、驚きのあまり地面に両手両足をついて倒れ込む。
冒険に期待して高鳴っていたはずの胸が、驚きと恐怖で、音が聞こえてきそうな程高鳴っている。
こんなはずじゃなかったのに! どうしてこうなった――リヒトは自分の滑稽さに微かに痛む胸を押さえながら、勢いよく背後を振り返り、声の主に向かって叫んだ。
「ろ、ローズ!? なんでお前がここにいるんだよ!?」
「んぐっ!?」
しかしその声は、すぐにその相手によって塞がれた。
「――お静かに。あまり声を上げると、抜け出したのがバレますよ」
ローズはリヒトの後ろに回り込むと、後ろから手を回して手巾でリヒトの口を塞いだ。
――仮にも、自国の王子に対してなんてことをするんだ!
リヒトは心の中で叫んだが、声にすることは出来なかった。
「……静かにしてくださいますね?」
まるで暗殺者が刺殺対象に最後にかける温情のような、冷ややかなのにどこか優しげな声にリヒトがこくこくと頷くと、ローズは静かにリヒトから手を離した。
「ぷはっ」
リヒトは軽く目眩がした。今日も今日とて幼馴染の行動が読めない。
「ろ、ローズ……。こんなところで何しているんだ……?」
呼吸を整え、震える声でリヒトが尋ねれば、ローズは不機嫌そうに答えた。
「その言葉、そっくりそのままお返しします。消灯時間は過ぎているのに、何故このようなところへ?」
ローズはリヒトの前に一歩足を踏み出した。
今度は正面から距離を詰められ、リヒトは慌てて手を前に突き出した。
「……お……俺に近づくなっ!」
「はい?」
リヒトに目に見えない壁のようなものを作られたように感じて、ローズは少し眉を上げた。
リヒトは、こほんと一つ咳払いした。
「ろ、ローズ。いくらお前と俺が幼馴染とはいえ、婚約者のいる人間がこんな時間に男と二人きりというのはだな……」
まるで娘を持つ親の説教をするリヒトに、ローズはカチンと来た。
そもそもリヒトが寮を抜け出さなければ自分も追ってこなかったのに、何を言っているかと癪に障る。
「何を仰るかと思えばそんなことですか。話をそらすにはずいぶん稚拙なお言葉ですね。ではおたずねしますが、婚約しているときでさえ私に何もなされなかった貴方が、今更私に何を出来るというのです?」
「……」
ローズの問いに、リヒトは答えることは出来なかった。
「危害を加えようにも、貴方は私に何もできないと思いますが」
「……」
力の差は歴然だ。
リヒトを封じ込めることなんて、ローズにとっては赤子の手をひねるようなもの。
「あくまで私は護衛です。この国にいる理由も、今貴方のそばにいる理由も」
「……わかってる」
リヒトはローズから顔を背けて小さくそう漏らした。
何故か胸が苦しくて、リヒトはローズには見えないように胸を押さえた。
◇
「……それで。こんな時間に規則を破り部屋を抜け出してまで、リヒト様は一体何をなさりたかったのですか?」
「俺は……フィンゴットを目覚めさせたいと思っている」
リヒトの言葉に、ローズは目を瞬かせた。
「ですが、リヒト様。本日すでにフィンゴットの卵に近寄られた際、何も起きなかったではないですか? それはフィンゴットが、あの場にいた全ての人間を、主人《あるじ》と認めなかったからではないのですか?」
「そのことなんだが、俺はあの卵は、多分偽物だと思ってる」
「……『偽物』?」
「ああ」
リヒトは頷いた。
「どうして、そう思われるのですか?」
「傷があったんだ」
「傷……?」
――それと卵が偽物だということと、なんの関係があるのだろう?
ローズには、リヒトの言葉の意味がわからなかった。
「まああの怪談話でもそうなんだが――……もしあの石が、本当に『卵を守るために』存在するというのなら、そうそう簡単に傷つくとは考えられない。それにあの光沢や血の逸話からして、材質について思い浮かぶものが一つあるんだが、その石はこうも呼ばれているはすだ。――『身代わりの石』と」
「『身代わりの石』……」
ローズはリヒトの言葉を繰り返した。
水晶の王国。
かつてその国の王妃になるために勉強してきたローズは、鉱石について学ぶ機会もあった。
だが鉱石についての知識と、石の卵についての情報を結びつけて考えてはいなかった。
言われてみれば、もしあの石の卵が外敵から身を守るためだとして――それがもし同じ鉱石から成っているとすれば、硬度としては弱いのかもしれない。
「ああ。そして面白いことに、逆にあの台座は、とても硬度の高い石で作られていたんだ」
「それでは重要なのは、石の卵ではなく台座のほう……ということですか?」
「ああ。俺はそう思う。だからこれから、またあそこに行きたいんだが……」
一刻も早く向かいたい。
目を輝かせるリヒトを見て、ローズは頷いた。
「かしこまりました」
◇
空には満天の星が輝いていた。
暗い道を進むことは心許ないようにローズは思ったが、リヒトは昼間のうちに準備をしていたらしい。石の卵までの道には、リヒトの発明品である特殊な眼鏡をつけたときに光って見えるよう、地面に印がつけられていた。
「……光ってる?」
『石の卵』の場所に辿り着いたローズは驚いた。
夜に見る『石の卵』の台座は、月の光を浴びて、まるで発光するかのように輝いて見えたのだ。
「来てくれ。ローズ」
リヒトはローズを手招きすると、突然台座を見上げるように寝っ転がった。
「リヒト様、一体何をなさって……?」
ローズは顔を顰めた。
「いいから、ローズも同じようにしてみてくれ。この文字が読めるか?」
ローズはリヒトの言葉に従い、地面に寝っ転がって台座を見上げた。
すると、立って見ていたときとは異なり、光る文字が浮かび上がって見えた。
――でも。
「すいません。読めません」
だがその言葉の意味が、ローズには分からなかった。
少なくとも、広く知られている言語ではない。それはまるで、古代魔法の本に出てくる文字のようだった。
「ここにはこう書いてある」
リヒトは難なくその文字を読み解いた。
「『龍は約束の木の下で眠る』」
「約束の木?」
言葉を繰り返すローズを見て、リヒトは苦笑いした。
「……ああ。でも俺には、この意味がよくわからないんだ。おそらく本物の卵がある場所と関わりがあると思うんだが……」
「それならば、夢見草のことでしょう」
「え?」
当然のように言ったローズに、リヒトはぽかんと口を開けた。
「『優しい王様』の約束の木です」
「『優しい王様』……?」
「もしかして、リヒト様はご存知ではないのですか?」
「俺はあまり、お伽噺なんかは聞かせてもらわなかったから……そのたぐいの話はわからないんだ」
リヒトの母親は幼い頃に死んでいるし、彼の周りには、絵本を読み聞かせてくれるような人間はいなかった。
そしてリヒト自身が、望んで自分から読もうともしなかった。
リヒトの知識は欠落している。
「かくいう私も、お兄様から聞いた話ですが――」
同い年のリヒトとローズの違う点は、それぞれの兄の下の兄弟への接し方だ。
「昔とある国にいた一人の王が、魔法で自分の人形を増やして、国民に配りました。ですが実はこの人形の動力は王様自身で、国民が人形を使いすぎたせいで、王様は死んでしまったらしいのです。その時に、王を敬愛していた彼の臣下たちは、もし生まれ変わり出会えたならば、もう一度王に仕えようと約束したそうです。そして、王様の体を埋葬したその上に一本の木が生えたことから、その木は『約束の木』と呼ばれたのだと聞いています」
埋葬した墓の上に植物が生える。その話を聞いて、どこか屍花に似たものをリヒトは感じた。
誰かの叶わなかった願いを果たすために、咲くという花のように。
「……夢見草が……?」
リヒトはふむと頷いた。
偶然にも夢見草は、学院の『春の丘』と呼ばれる場所に咲いている。
◇◆◇
「ここか」
「はい。おそらくは……」
二人はそれから、『石の卵』の近くの『春の丘』と呼ばれる場所へと向かった。
『夢見草』
リヒトは木を見上げた。
その木はかつて、この世界から一度消えたという逸話の残る木だ。
人が夢を見るのは、この木が夢を見るからだとも言われている。
現在世界各地にあるこの木の根は地中で全て繋がっており、木は過去の記憶を保持し続け、その根の上を生きる人間に、過去の記憶を見せるという。
夢か幻か。
そして薄紅色のこの花は、歴史上の『変化点』で、その花を散らすとされる。
英雄の誕生。
偉大なる指導者の死。
まるで喜びや哀れみから涙を流すかのように、木は花を散らした。
樹木神話とも結び付けられた木は人々に尊ばれ、『斎《いつ》き木』と今も呼ばれることがある。
グラナトゥムの学院の夢見草は、学院の設立当初からあるらしく、神木のような巨木だった。
木の下には解説の文が書かれた石が置かれており、石には、五つの木が彫り込まれていた。
「……あった」
リヒトは、再び石を下から見上げた。
「ここには、こう書いてある。――『斎き木に清き花の水をかけよ』」
「『清き花の水』? とは?」
ローズは首を傾げた。
確実に普通使わない知識だ。
「一つ思い当たるものがある。『五色の水』と呼ばれるものだ。欝金香《うっこんこう》などを用いて水に色を付けたもので、このことから花水とも呼ばれていたらしい。古い文献によると、樹木信仰のある地域では、かつて夢見草に五色の水をかけるという祭りもあっていたらしい。……少し待っていてくれ」
リヒトはそう言うと、ガサゴソと抱えていた袋の中から、奇妙な道具を取り出した。
それは植物の花弁が並べられたケースと、硝子製の細長い筒状の物体だった。
「それはなんですか?」
「まあ、見ていてくれ」
リヒトは筒状の入れ物の中に花を入れると、水を注いで封をした。
すると、一瞬で花の色が抜け、色が水の中に溶け出した。
「これは……?」
「『花の染料』って綺麗かなと思って、昔作ったんだ。ほら、紫水晶が酔った酒の神が水晶に葡萄酒をかけたことで紫に染まった、みたいな感じでさ。花の色に染まる石って、きれいかなと思って。水晶に色を混ぜて、フローライトみたいな感じとかも綺麗だろうし……」
リヒトが話しているのは、紫水晶にまつわる逸話だ。
リヒトの興味は昔から偏っているし、芸術の才能があるかといえば皆無だと思っていたが、国の特産物に付加価値を与えられるような研究もしていたのかと少しだけローズは感心した。
産出量の減っているターコイズという青い石の代替品として、ハウライトという白い石を青く染めるという方法をローズは本で読んだことがあったが、リヒトの言葉からすると、白い石を青く染めるだけでなく、リヒトの魔法では透明なものに色をつけることも可能らしい。
「あっ。でもこれ、花以外でも色が抜けたことがあるから、あんまり指とかは入れないでくれ」
硝子に顔を近付けて観察していたローズに、リヒトは慌てて言った。
「リヒト様? それは危険ではないのですか……? 以前も申し上げましたが、使い方を間違って危ないものを作るのは、お願いですからおやめください」
非難するようなローズの言葉に、リヒトは黙って視線を逸らした。
「さて、これでどうなるか……?」
ローズから厳しい目を向けられながら五つの花の水を作ったリヒトは、それを順々に石の中に彫られた木へとかけた。
そして、五つ全ての木に水をかけた瞬間。
突然石の中心に穴が開き、色のついた水を全て吸い込んだかと思うと、突然足元が揺れてリヒトは思わず地面に膝をついた。
「な、何が……!?」
普段体を鍛えていないリヒトでは、立つこともままならない。
「リヒト様、おつかまりください!」
「へっ? おわ……っ!」
そんな中、ローズはリヒトのもとに駆け寄ると、リヒトを抱きかかえたまま地面を強く蹴った。
風魔法を発動させる。
二人の体はふわりと宙に浮き、ローズは震源から少し距離を取った。
「これは……」
数十秒後。
揺れがようやくおさまったところで、ローズは土煙の向こうに広がった光景に息をのんだ。
なんと隆起した地面から、地下へと続く階段が現れていたのだ。
この先に何が待っているのか――そう思うと、ローズは少しだけ血が騒ぐのを感じた。
しかしそのせいで、ローズはとあることを失念していた。
「ローズ……」
「はい?」
「お、下ろしてくれ……」
ローズに抱っこされたリヒトは、顔は手で覆っていた。
彼の耳は真っ赤だった。
――そういえば、リヒト様を抱えていたんだった。
「…………申し訳ございません。軽かったので忘れていました」
魔法で重さを感じないようにしていたためすっかり忘れていた。
ローズの謝罪を聞いて、リヒトはがっくり肩を落とした。
「それじゃあ、中を探索するか」
「お待ち下さい」
地下の階段に足を踏み入れようとしたリヒトを、ローズは遮って指輪に触れた。
すると半透明の膜が、球形の壁となって二人を包み込んだ。
「こういう古い遺跡などには、人の体に害があるものも溜まっていると、お祖父様に聞いたことがあります。リヒト様。私の防壁の中からは出ないでください」
「わかった」
魔法の使えないリヒトは、ローズの注意を聞いて頷いた。
「思っていたより、随分長いな」
「そうですね。……あっ。リヒト様、道が開けるようです」
二人が石の階段を暫く進むと、円柱状の空間が現れた。
二人は、その光景に驚きが隠せなかった。
天井からは、まるで海底に出来る水の影のように、ゆらゆらと水面に揺れる月の光が射し込んでいたからだ。
「……湖の底が、ここと繋がっていると言うことでしょうか?」
これまで歩いた距離や位置から、ローズはそう推測した。
白と、微かな灰色の混ざったような青い光が射し込むその空間は、どこまでも静かで――きっと一人だけで訪れてしまったら、心細く感じただろうとローズは思った。
感傷に浸るローズと違い、リヒトは空間に設置された照明道具に興味を示した。
「ローズ、見てくれ。これ面白いぞ!」
静寂が似合う空間に、リヒトの弾んだ声が響く。
ローズは、はあと溜め息をついたあとにリヒトに尋ねた。
「何が面白いのですか?」
「この照明、魔力を込めると光が灯るみたいなんだ」
それは、一般的に流通している『ランプ』とは、少し異なっていた。
「おそらく、これは魔力の火だ。魔力で色が変わるんだ。ローズ、少し魔力を込めてみてくれ」
リヒトに促され、ローズは白い炎を燃やす照明へと触れた。
その瞬間、ごおっと高く火が燃えあがったかと思うと、火は虹色の丹色を変えた。
虹色の火は、火を囲むガラスのような入れ物で光を増幅させる。
静かな古い遺跡の中で、まるでそこだけが、宴の席のように明るく照らされる。
「なんかこれあれだな……。異世界の『みらあぼうる』ってやつみたいだな」
「……」
せっかくの冒険気分が台無しだ。
ローズはぼそりと呟いたリヒトの腕を掴むと、無理矢理照明に触れさせた。
「リヒト様、魔力を込めてください」
「え? でもせっかくローズがつけたのに……」
「いいですから。はやく」
「お、おう……」
リヒトは再び魔力を込めた。すると火は、元の白い色の静かな光に戻った。
円柱状の空間に続く階段は石ではなく、古びた木や紐で作られれていた。
簡素な吊り橋だ。
きっと大雨でも降ろうものなら、一瞬で流れるに違いない。
「これ、かなり古いよな……。一体いつのものだろう?」
「一〇〇〇年くらいは経っているのかもしれません。もしここがフィンゴットの遺跡だとするなら――フィンゴットは、その頃から書物から記載が消えるはずですから」
一〇〇〇年!
ローズの言葉を聞いて、リヒトはふるふる震えながら足を踏み出した。
先ほどの石の階段とは異なり、板の安定性はかなり低い。リヒトは、自分の体が悲鳴上げる声を聞いた。
まっすぐに体勢を保つだけでも、かなりの体力が削られるのがわかる。
「わ、わ、わっ」
ぐらぐらと足場が揺れる。
特に表情の変わらないローズとは違い、リヒトの表情《かお》は強ばっていた。
「リヒト様」
耐久性の問題も考え、先に広い足場まで進んでいたローズは、明らかに自分より歩みが遅いリヒトを見つめて言った。
「体幹が少しぶれているように思います。研究も結構ですが、体も多少は鍛えておいた方が良いのではないのですか」
「今冷静にそれを言うな……」
漸くローズのいた場所に辿り着いたリヒトは、若干顔色が悪かった。
そんなリヒトに、ローズはにこりと微笑んだ。
「リヒト様がお望みなら、ここから出たら、私が稽古をつけて差し上げます。大丈夫。出来るだけ怪我はなさらないよう努力します」
「俺が怪我をする前提なのか……」
リヒトはふうと息を吐いて、自分が渡ってきた道を振り返った。
最下層まで、どの程度距離があるか分からないことも、リヒトにとって恐ろしかった。
一枚一枚板を踏みしめる度に、まるで自分の墜落を待つかのように、闇がこちらを見つめているようにさえ感じられる。
――足を踏み外したら、確実に死んでしまうだろう。
そう思い、ぶるりと体を震わせるリヒトとは異なり、ローズは至って冷静だった。
「リヒト様は少しお疲れのようですし、ここらで休憩しましょう。どうぞ」
当然のように温かいお茶を差し出され、リヒトは「わけがわからない」という顔をした。
「なんでそんなに冷静なんだ……。ローズは怖くないのか?」
「はい」
「なんで怖くないんだ……?」
「何故、と仰いましても。私は風魔法を使っているので、足場が崩れても落ちないかと思います」
「……」
冷静なローズの返答に、リヒトは頭を押さえた。
こんな場所で、わざわざお湯を沸かしてお茶を入れるのは、どう考えても能力差が理由だけではないような気がする。
「リヒト様。サンドイッチは卵とハムどちらがよろしいですか? それとも、いちごのフルーツサンドをご所望ですか?」
「待て。今どこから出した?」
ぽいぽいと異空間からものを取り出すローズを見て、リヒトは疑問に思ったことを尋ねた。
「どこって指輪から――……。指輪の収納機能です」
ローズはきょとんとした顔をして答えた。
リヒトからローズが預かっている指輪には、ローズが壊した指輪と同じ収納機能がある。指輪の中に保全したものは、時間型っても状態は変わらないのだ。しかも、何を収納しても、指輪以上の重さにはならない。
「ローズ。俺が持ってる荷物についてどう思う?」
リヒトは『冒険』のために、自分が作った魔法道具を袋に詰めて持っていた。
「……そうですね。私の指輪に収納しておきましょう」
ローズはそう言うと、リヒトの荷物を指輪の中に閉まった。
「大分下に降りたつもりだが、まだ先は長そうだな。……しかし一番下まで降りたとして、帰りはどうなるんだろう。また歩いて戻るのか?」
かれこれ二時間以上、二人は階段を降りていた。
「それこそフィンゴットが見つかったら、帰りは背中に乗せてもらえば良いのではないですか?」
「なるほど。いいな、それ」
ローズの言葉に、リヒトはははっと笑う。
普段机に向かってばかりのリヒトだから、ローズはてっきりリヒトはすぐに音を上げると思っていたが、リヒトは疲れたとかもう無理だとか、弱音を吐くそぶりは一切見せなかった。
「……リヒト様。一つお尋ねしても宜しいですか?」
だから、ローズはリヒトに尋ねた。
「リヒト様はどうして、フィンゴットにそこまで固執なさるのですか?」
きっとこの先に待っているのが『フィンゴット』でなければ、リヒトはここまで真剣にはならない。ローズにはそう思えた。
「……兄上が、レイザールと契約してるから」
リヒトの答えを聞いて、ローズはきゅっと唇を噛んだ。
そんなローズに気付いてか無意識か、リヒトは困ったような顔をして笑った。
「まあ、それもあるんだけど……。でもさ、他にも理由があるんだ」
「他に理由……?」
「兄上が倒れる前、俺兄上に、レイザールに触らせてもらったことがあるんだ。その時に、空からクリスタロスを見たことがあって」
リヒトはそう言うと、遠い昔のことを思い出すかのように天井を見上げた。
「レイザール、兄上に本当に懐いていてさ。なんとなく、その光景を見たときに、『いいなあ』って思ったんだ。それで――俺は、こうも思ったんだ」
リヒトは自分の手を胸に押し当てた。
「主人を待って石になった、なんて。そんな生き物の主人になれたら、それはどんなに幸せなことだろうって。絶対に裏切らない、そんな忠誠を、契約を交わせたら、どれだけ心強いだろうって……」
美しい白銀の天龍。
誰もが憧れる、もしそんな存在が、自分の味方になってくれるとしたら。
ろくな魔法を使えない自分でも、少しは自信を持てる気がして――……。
「……リヒト様」
「まあでも子どものときのことだし、兄上も、今の兄上より少し優しかった気がするし……。もしかしたら俺の願いから生まれた存在しない記憶かもしれないって、そう思うこともあるんだけどな。でもさ、やっぱり――青空を駆ける銀色のドラゴンなんて、実際この目で見ることが出来たなら、どれだけ綺麗なんだろうって……。想像したら、わくわくしないか?」
過去を思い少しだけ影を帯びる。
そんな表情《かお》をしていたリヒトは、心配そうに自分を見つめるローズに、明るい笑みを返した。
◇◆◇
「見てください! リヒト様、面白いものを見つけました!」
階段を下に下るにつれて、ローズのテンションは右肩上がりだった。
「ここを押すと壁から矢が出てきました!」
ローズはそう言うと、壁に設けられたボタンを押した。
突然現れた矢は、リヒトの目に届くすんでのところでローズの氷によって無力化される。
「この板を踏むと足下から氷結します!」
ローズが板を踏んだ瞬間、リヒトの足下は突然ピキッという音を立てたかと思うと凍り始めた。だがその氷は、ローズが出現させた炎によって溶けていく。
「続いてこのロープを引くとおそらく……」
「引かなくていい! 引かなくていいから! 何でお前はわざと罠に引っかかろうとするんだよ!」
「そこに……罠があるから?」
ローズは至極真面目な声で言った。
「理由になってない!」
リヒトは悲痛な声を上げた。魂からの言葉だった。
「はあ……」
広い足場に辿り着き、リヒトは頭を抱えた。
「ローズ……」
「はい」
地を這うように沈んだ声のリヒトに対し、ローズの声は弾んでいた。
まるで快晴の中、これからお気に入りのドレスを着てピクニックに行く少女のようだった。
「少し楽しんでるだろう」
「そ、そんなことはありません。リヒト様が行きたいとおっしゃるので、私は護衛を務めているだけです」
「……そういえば、昔はよく冒険譚を聞かせられたな」
リヒトの言葉に、ローズはギクリとして視線を逸らした。
冷静になると、いつもなら絶対に言わない言葉や行動を、リヒトに向けていたことに気付く。
それはどれも、『貴族の令嬢』としては、絶対に相応しくない行動だった。
「『剣聖』の孫娘なら、血は争えない――か」
先ほどまでとは違う、少しあきれたような、でも温かな声音。
子どもっぽい自分のことをリヒトが笑ったような気がして、ローズはなんだか照れくさくなってしまった。
「な……なんですか! 私に公爵令嬢らしくないと、文句でも仰りたいのですか? 私がお祖父様のお話をちゃんと聞いていなかったら、リヒト様は今頃天に召されていたかもしれないんですからね!」
「おいおい。不吉なことを言うなよ」
リヒトは思わずつっこんだ。
地下で、二人っきりで。少し間違えたら死んでしまうかも知れないような冒険の最中だというのに、照れたような、拗ねたような幼馴染に、不思議と心が和らぐのをリヒトは感じた。
「別に、からかってるとか、馬鹿にしてるとかそう言うんじゃないんだ。ただ俺のせいでこんな場所に付き合わせてしまったから……。でもローズが楽しいなら、よかったなって思って」
控えめに笑うリヒトを見て、ローズは思わず胸を押さえた。
なんだが心が落ち着かない。
「……さっさと先に進みますよ。遅れないでくださいね。リヒト様」
ローズはそう言うと、またリヒトより先に道を進んだ。
それからも、罠に対しローズが処理をするということが続いた。そしてリヒトは、度々自分たちを襲う罠に対し、ある仮説を立てた。
「ローズ。質問なんだが、今まで何属性の罠がでてきたか覚えてるか?」
リヒトはローズに尋ねた。
「火に水に氷、土の礫《つぶて》も飛んできました。全て無効化しましたが……。何か気になられることでも?」
ローズの答えを聞いて、リヒトは目を細めた。
「もしかして……全ての属性を持っていないと、通れない仕組みなのか……?」
ロイが用意した、『ハロウィン』の巨大迷路は、結果として全ての属性を持っていなければ最奥に辿り着くことは出来なかった。
リヒトにはこの場所が、それに似ているように思えた。
『王を選ぶ』
それはこの地下遺跡を突破するためには、全ての属性が必要、ということ絵お意味していたのかもしれない。
しかしローズが規格外なだけで、全属性に適性を持ち、且つ使える人間は歴史上でもそう存在しない。
つまり本来、この関門を突破するには、たくさんの人間の協力が必要となるのだとしたら――確かにその仕組みそのものが、『王』にしか突破できないようにもリヒトには思えた。
「でもまだ木属性の攻撃は来ていません。楽しみですね! リヒト様」
ローズは満面の笑みだった。
心なしか、リヒトはローズの肌がつやつや輝いて見えた。
「俺は全然楽しみじゃない!」
――この戦闘狂が!
リヒトは心の中で叫んだ。あの祖父にしてこの孫ありである。
二人がそんな話をしていると、階段を構成していた蔓が、突然にゅるりとリヒトの足に絡みついた。
「へ」
リヒトが情けない声を上げた瞬間――壁が壊れる音がして、土煙と共に毒々しい色をした花が現れた。
それは巨大な花の怪物だった。
リヒトの体は一瞬で蔦で拘束され、体は空中に吊り上げられる。
ぐわん、と蔓が大きく横にふれたかと思うと、壁が急接近してリヒトは悲鳴を上げた。
「ああああああっ!」
危うく壁で体を削られそうになり、リヒトは全力で壁を走った。
――やばいやばいやばいやばい! これ、完全に捕食する前の下ごしらえじゃないか!
花の怪物は、リヒトがダメージを負っていないことを、まるで疑問に思っているかのように体を揺らした。
『うーん……。おかしいなあ。せっかくお料理したつもりだったのに。まあいっか!
口の中に入るときに血が滴るくらいが美味しいけど、お腹に入れば何でも一緒だよねっ!』
リヒトには、そんな花の声が聞こえた気がした。
「おいおい嘘だろっ!?」
今度は壁ではなく、花は自分の口の方にリヒトの体を移動させた。
身動きのとれなくなったリヒトは、自分の体の下でぱかりと花が口を開いたのを見た。
ギザギザの鋭い歯先にはぐつぐつと、あらゆるものを溶かしてしまいそうな液体が沸騰しながらリヒトを待っていた。
「……っ!」
驚きと恐怖で声が出ない。
リヒトが死を覚悟して、ぎゅっと目を瞑った瞬間。
鋭い風が吹いたか年うと、空間を揺らすような、けたたましい怪物の声が響いた。
そして自分を縛っていた蔦が緩んだかと思うと、いつもより少しだけ焦りのこもった少女の声が、リヒトの頭上から降ってきた。
「大丈夫ですか? リヒト様」
「ろ、ローズ……?」
リヒトが名を呼べば、ローズはほっと安堵したような表情《かお》をした。
「良かった。呼吸なども問題はないようですね。申し訳ございません。流石にあの一瞬では、防壁の魔法をリヒト様の周りに維持させるのが難しくて。代わりに、出来るだけ早くリヒト様を保護出来るように、全力で怪物を潰しました」
リヒトを抱えたまま、軽やかに階段の手すり部分に着地したローズはにこりと笑う。
「……」
ただ、花と茎部分――一瞬で頭と胴体を切り離された花の怪物の残骸を見て、リヒトは少しゾクッとした。
自分を守ってくれる目の前の人間は、もしかしたら怒らせてはならない類いの人種なのかもしれない。
「でも、なかなか面倒ですね。先はまだ長いようですし、リヒト様は進むのが遅いし罠に引っかかってしまいますし……」
「罠については、九割以上はローズが踏んでる気がするんだが?」
「それは私が前を歩いているからです。それに先ほども申し上げましたが、私は自分の身は自分で守れるので、特に危険は感じません。この試練を突破するに当たり、私の一番の悩みはリヒト様、貴方です」
「……すまない」
ローズの腕に抱えられたまま、リヒトは自分の不甲斐なさを謝罪した。
この状態では何を言っても、リヒトの言葉に価値はない。
「そうです。いいことを思いつきました!」
気落ちしていたリヒトとは違い、彼を抱えたローズは名案を思いついたとばかりに明るい声を上げた。
「いっそのこと、一気に降りてしまえばよいのです!」
「…………は?」
リヒトは、意味がわからず口をあんぐり開けた。
「それじゃあリヒト様、行きますよ。舌を噛まないようにしてくださいね?」
ローズはそう言うと、リヒトを抱えたまま一度紐に体重を乗せ、空洞となっていた中心へと飛び出した。
「へ?」
足元に深淵が広がる。
「リヒト様。これから落ちるので口を閉じてください」
「あ……あ、ああああああああああああああああああっ!?」
二人の体は円柱状の空間の中心部を一気に落ちる。
リヒトの悲鳴を聞きつけて、壁から花の怪物が出現し、罠が発動しては二人目がけて飛んでくる。
半透明の防壁の向こう側で、ローズは次々に罠を無効化すると、怪物たちを屠っていった。
ゼロ距離で次々に花火が爆発する光景に、リヒトは本気で叫んだ。
「死ぬ! 死ぬ死ぬ死ぬっ!」
「大丈夫。私が居るので死にません」
ローズは心からの笑みを浮かべた。
リヒトは精神的な死を覚悟した。
落下するにつれて、速度は加速する。
その影響を受けてか、ローズの作った半透明の壁の向こう側で、木と紐で作られた古い階段が、ローズの作り出す風に巻き込まれて地下へと音を立てて落ちてゆくのがリヒトには見えた。
「ローズ! せめて速度!! 速度を落としてくれっ!」
「……仕方がないですね」
ローズは溜め息をつくと、少しだけ速度を落とした。
「地面! ローズ、もう地面が見えてきたからっ!」
「そんなことは言われなくてもわかっています」
耳元で叫ばれてローズは不機嫌そうに目を細めると、落下地点へと手を向けた。
すると粘性を持った水で出来た球体が地面に出現し、二人をを受け止めるかのように柔らかく沈み込んだ。
二人を守る防壁の球が、ぽよんと数度その上で跳ね――衝撃が無事吸収されたのを確認してから、ローズは物体を消して、静かに地面へと着地した。
「無事底についたようです。リヒト様、ここからはご自分で歩いてください」
今度は『降ろしてくれ』と言われる前に、ローズはリヒトを地面に降ろした。
だがリヒトの顔色は真っ青で、地面に足をつけたリヒトは、ふらふらと数度歩いてから、がくんと膝をついて倒れた。
ローズのやることなすこと、全てリヒトにとって心臓に悪かった。
「花に食べられそうになったので一年、今の落下で三年は寿命が縮まった気がする……」
「全く、リヒト様は怖がりですね」
滝のように冷や汗を流すリヒトを見て、やれやれといった様子でローズは息を吐いた。
「どうやらここで行き止まりのようです。リヒト様、とりあえずこの空間に、防壁をはりたいと思います。地面が安全かどうかは分からないので、私からは離れないようにしてください」
「……わかった」
ふらつく足でなんとか立ち上がり、リヒトは頷いた。
その声音が少しだけ不満そうに聞こえて、ローズはリヒトに尋ねた。
「リヒト様。何かご不満でも?」
「ふ、不満ってわけじゃ……ない、けど……」
歯切れの悪いリヒトに、ローズは詰め寄った。
「文句があるなら、はっきり仰ってください。言葉を濁されるのは、私は嫌いです」
「……不満ってわけじゃないんだ。その……ただこういうのは、普通男の俺がやるべきことなのになって思って……」
「それは、クリスタロスの考え方でしょう」
ローズは腕を組んで、はっきりと言い切った。
「グラナトゥムには、女性騎士も普通にいます。彼女たちの前でその発言をすれば、リヒト様は針のむしろかもしれませんね」
「……悪かった」
国によって異なる価値観。
それをローズに指摘されて、リヒトは静かに謝罪した。
だが同時にその時、とある疑問がリヒトの中に浮かんだ。
ローズの言うように、考え方も何もかも、クリスタロスはグラナトゥムに劣る。
国の規模だけじゃない。
グラナトゥムは様々な面で、クリスタロスの先を歩んでいるように今のリヒトには思えた。
そもそも千年前――大国である二つの国にクリスタロスが名を連ねたことが、不自然だと思えるほどに。
グラナトゥムに来て、リヒトは『講義』を通して、これまで興味がなかった分野も学んでいた。
その際当時の歴史を学んでから、リヒトはずっと不思議だったのだ。
何故『大陸の王』と『海の皇女』は、『賢王』を三人目に迎え入れたのか。
もしクリスタロスという国としての価値ではなく、『賢王』レオンに価値を見いだしたからこそ、大国の王たちはその手を取ったというのなら。
「『賢王』レオンは、一体どんな人だったんだろう……?」
大国の二人の王を、惹きつけるほどの才能や人柄。
国よりも価値がある。
それだけの人間だと、二人に思わせることが出来た人間なんて――リヒトには想像もつかなかった。
◇
「リヒト様。気になるものを見つけました。こちらにいらしてください」
リヒトが考え事をしている中、先に行き止まりの壁を調べていたローズはリヒトを呼んだ。
少し掠れてはいるものの、壁には色とりどりの絵が描かれていた。
「……古い絵だな。それにしても、赤が多い……?」
赤い髪に瞳。
壁に描かれた絵には、まるでロイ・グラナトゥムのような色合いをした人間が複数描かれていた。
「確かに、赤い髪に赤い瞳の人物が沢山描かれていますよね。それと同じ色で、地面が塗られているようにも見えます。地面が赤く描かれているのは、赤の大陸だからでしょうか……?」
だがその『赤』が少し違う色のようにも見えて、リヒトは1度目を擦ってから、壁画に顔を近付けた。
「ローズ。この赤なんだが、少し色が違うように見えないか?」
「確かに。よく見ると、少し違う気もします」
リヒトの言葉を聞いて、ローズはもう一度絵をよく観察し――とあることを思い出した。
「……これって」
「何か思い当たることがあるのか?」
「リヒト様は――『古都の赤』をご存知ですか?」
「『古都の赤』?」
リヒトは首を傾げた。
解読の際の知識はクリスタロスの宝石の細工の件もあって知っていたが、滅んだ都の絵画については、リヒトはよく知らなかった。
以前よりも魔法以外に興味を示すようになったといっても、ローズとリヒトでは、そもそも知識の質が違う。
リヒトの知識は基本、人と話すときに役には立たないものだ。
逆にローズは、社交の役に立ちそうな知識について、次期王妃として学んできた。
「滅んだ都で発掘された絵に、美しい赤色がふんだんに使われていたことからそう呼ばれていたのですが――実は最近の研究によって、その色は元は黄色だったということがわかったのです。だからもしかしたら、この絵の赤の一部は、赤ではなく黄色――金色を表わそうとした可能性があるのではと思って」
フィンゴットらしき絵のとなりには、赤い髪と目の青年らしき人物が描かれていた。
「でも、もしそうだとして……。この絵がフィンゴットとどういう関わりがあるかはわからないな……」
「そうですね」
金色に赤い瞳。もしくは赤い髪に、金色の瞳。
それが意味するところはなんだろうか?
今の二人にはわからなかった。
「とりあえず、この絵は保留するとして……。確か石に書かれていたのは、『龍は約束の樹の下で眠る』、でしたよね? リヒト様、この文字は解読出来ますか?」
赤髪隻眼の青年の近くには、夢見草も描かれていた。
ローズがリヒトを呼んだのは、元々はこちらが理由だった。
「そうだな。フィンゴットを目覚めさせるのを、第一に考えて行動しよう」
リヒトは、掠れた文字の解読のために目を細めた。
「ええと……ここに書かれているのは……。『あかりを灯し、龍に朝を告げよ』?」
「……」
「……」
ローズとリヒトは、無言で顔を見合わせた。
明かりといえば、思い当たるフシがありすぎる。
「……ローズが手順を抜くからこんなことに」
どう考えても、あの照明のことである。
リヒトの呟きに、気を損ねたローズはチクリと棘のある言葉を吐いた。
リヒトのために自分は全力を出したつもりだったのに、それを責められるとはローズは心外だった。
「私がいなければ、物理的に短時間で地面に着地していたのはどなたでしたでしょうか……?」
「うぐっ」
ローズはちらりとリヒトを見た。
リヒトが少しダメージを負っているのを見て、ローズは満足した。
「……まあ少々面倒ですが、これからでも不可能ではありません。危険な生き物が巣くっている可能性もありますし、リヒト様を抱えてまた上から火を灯すのは少し骨が折れそうですが」
「お荷物で悪かったな」
「そこまでは言っておりません」
二人の口喧嘩は続く。
言い争いになり、最終的にはリヒトが折れた。リヒトは昔から、ローズに喧嘩で勝てたことがない。
「……はあ。もういい。俺が悪かった。だけどもう一度同じことはしなくていい。これなら、俺がどうにかできる」
リヒトはそう言うと、胸元から紙の束を取り出して、サラサラとそこに魔法陣を描いた。
白い紙は次々に、鳥へと姿を変えていく。
「紙の鳥よ。全ての明かりに火を灯せ!」
リヒトの声と同時、紙の鳥は月の光を差し込む天井に向かって飛び上がった。
鳥たちは次々に火を灯してゆく。
そしてその姿が見えなくなり暫くして――おそらく全ての照明に明かりをつけ終わった頃、月の光を零す天井から糸のようなものが伸びたかと思うと、光の糸は壁に設けられた照明の光を繋いで、五芒星を描きながら地底へと降りてきた。
光の糸は、最後に二人の立つ地面に巨大な魔法陣を描いた。
複雑な文様だ。
二人は息を呑んだ。
そして足元で、カチリという歯車が噛み合うような音がしたかと思うと、床の中心がボゴッという音とともに動いた。
土埃が舞う。
それと同時に、床の中心から大きな白い卵のようなものが現れた。
「……やっと、見つけた。これこそが――……」
純白の光沢を放つそれは、無垢という言葉を体現しているかのようだった。
リヒトはごくりとつばを飲みこむと、口の端を上げて笑った。
「俺たちが探していた、本物の『卵』だ」
石の表面には、魔法陣で用いる文字に似たものが記されている。
けれどローズの知識では、全てを解読することはできない。
目を細めるローズを前に、リヒトは卵に手を翳した。
解読ならリヒトの得意分野だ。
リヒトは息を大きく吸い込んで、それから刻まれた文字を読み上げた。
「『空を映す蒼き瞳、たゆたう雲の白き翼。長き眠りに付きし朋友。天を支配する至高の龍よ。盟約と、光の名のもと、今ここに目覚めよ。我が友。我が翼、汝が名は――光の天龍フィンゴット!』」
その瞬間。
石に刻まれた文字が光り輝き――石に覆われた卵の内側で、何かが脈動する音を二人は聞いた。
パキリと石が割れる音がして、中から青い卵が現れる。
澄んだ空のような青い色。
それでいてその光沢は、虹のようにも二人には見えた。
石の中心には美しい白銀の生き物が、まるでカプセルの中に収まるように体を縮めて鎮座していた。
――フィンゴットが、伝説とまで言われていた生き物が、今目の前にいる。
「リヒト様、お下がりください」
ローズは、瞬きを忘れて卵を見つめていたリヒトの前に立った。
その瞬間、卵の上部が音を立て罅が入ったかと思うと、フィンゴットが翼を広げ。青色の卵の欠片が二人めがけて勢いよく飛んできた。
ローズは手を翳し、自分とリヒトの周りに新しい防壁を作った。
「もう、大丈夫……でしょうか?」
風圧と、防壁に卵の殻がぶつかる激しい音が消えてから、ローズは恐る恐るリヒトに尋ねた。
いくらローズといっても、契約を結んでいないドラゴンを警戒しないわけがない。
ましてや今彼女の側には、自分の身を自分で守ることが出来ないリヒトがいるのだ。
「音もしなくなったし、たぶん大丈夫なんじゃないか?」
「それではこれから、卵の方に近付いてみましょう」
二人は目線を合わせ頷くと、そろりそろりとフィンゴットのもとへと近付いた。
足下に散らばった卵の欠片は、まるで割れたガラスのようにとがっていた。
鋭利な輝きを放つそれを避けながら二人が中心部に辿り着くと、そこには白銀のドラゴンが横たわっていた。
「ぴぃ……」
しかし中から出てきた生き物は――二人の予想とは異なり、ひどく弱っているように見えた。
「……どうして」
その光景を見て、ローズは思わずそう漏らしていた。
「もしかして俺が目覚めさせたからなのか? そのせいで、こんな……?」
リヒトが慌てたように言う。
ローズは静かに目を細めた。
よく考えたら卵から生まれる生き物が、目覚めたときから元気に動き回るということ自体、認識が誤っていたのかもしれない――ローズはそうも思ったが、同時にフィンゴットの弱り方は、異常なことのようにも思えた。
「わかりません。ただ、一つ思い出したことがあります。……以前、レオン様がレイザールの力を引き出していた時に、かなりの魔力をレイザールに捧げていました」
レイザールとフィンゴットは、基本的に対の存在として語られる。
「もしかしたら……。レイザールとフィンゴットを本当の意味で目覚めさせるには、強い魔力が必要なのかもしれません」
『王を選ぶ生き物』
そう呼ばれる本当の理由をローズが口に気がして、リヒトはピタリと動きを止めた。
「じゃあ、このままでじゃ……」
「……死んでしまう、かもしれません」
「ぴぃ……」
フィンゴットは二人が近くに寄っても、微動だにしなかった。
それどころか、瞼を持ち上げることすら難しい様子だった。
「ローズ。……頼みたいことがある」
その姿を見て――リヒトはぐっと拳を握りしめた後、ローズに言った。
「お前の魔力を、フィンゴットに与えてやってくれ」
「……よろしいのですか?」
ローズはリヒトに尋ねた。
ローズが魔力与えれば、きっとフィンゴットはローズを主と認めるだろう。
だがそうなれば、フィンゴットと契約するためにここまでやってきたリヒトの思いを、全て否定することになる。
そう思うと、ローズは動けなかった。
「そうしなきゃ、こいつは死んでしまうんだろう?」
フィンゴットを得れば、リヒトは周囲に認められる機会を得る。
ローズにも、それは分かっていた。
ここまでたどり着けたのはリヒトの知識があってこそだ。リヒトが魔法が使えなくても研究を続けていたからこそ、フィンゴットを見つけることが出来たのだ。
ローズ一人では卵を見つけることも、卵の殻を破ることも出来なかった。
全ての人間に与えられたヒントを元にフィンゴットを目覚めさせたことは、確かにリヒトの功績なのに。
そしてだからこそ――もしフィンゴットと契約を結べなければ、周りの人間はリヒトのことを、『フィンゴットを使役できなかった出来損ない』と見るに違いなかった。
『王を選ぶ生き物』
結局リヒト・クリスタロスは、『フィンゴットの主』には相応しくない存在だったと。
「……」
リヒトはそっと、フィンゴットの体に触れた。
光の天龍。
兄の契約獣であるレイザールに並ぶ、この世で『最も高貴』とされる生き物。
フィンゴットの命を救うだけの魔力が、今のリヒトにはなかった。
リヒトは、今にも息絶えそうなその生き物の翼を優しく撫でた。
精一杯、魔力を与えようと力を込める。
けれど何も起こらない。リヒトは静かに目を瞑った。
――自分に、この生き物は救えない。
それだけは、変わらない現実だ。
『最も高貴』と呼ばれるその生き物たちは、『王を選ぶ』生き物ともされていた。
その言葉を信じて、その生き物を探した。
謎を解いて、目覚めさせることは出来たとしても、魔力の弱い自分では、生かすことも叶わない。
ならば、選ぶべき道はただ一つ。
「俺のせいでこいつが死ぬようなことがあれば、きっと俺は一生、自分を許せない。――だから」
「ピィ……」
フィンゴットは、消え入りそうな声で鳴く。
「だから……ローズ」
懇願するリヒトの手は小さく震える。
「こいつを、助けてやってくれ」
それでも――リヒトは自分の感情を口にせずに、ローズに笑いかけた。
その笑顔を見て、ローズは唇を引き結んだ。
「……わかりました」
ローズはそう言うと、躊躇いなく自分の肌に剣を押し当てた。
まさかの行動に、リヒトはぎょっとして声を上げた。
「お、おい!? ローズ、一体何をして」
「血を与えるほうが確実ですし。それに、怪我なら自分ですぐ治せるので」
自分と異なる種族の治癒魔法は、人間にするより難しいのだ。
だから別の種族の場合、血を与えるほうが魔力の授与は容易とされる。
公爵令嬢の癖に男気があり過ぎる。ローズはおおざっぱだった。
『女が体に傷を作るなよ』というリヒトの心配は、口にする前に本人に否定されてリヒトは沈黙した。
「だからといって体を簡単に傷つけるな。……治るとはいえ、痛みはあるだろう」
「これくらい、別に平気です」
ローズは自分の手を切りつけて、血を絞るように拳に力を込めた。
その血は、フィンゴットの口へと注がれる。
その瞬間。
「ピィ! ピィィィイ!」
死にかけていたように見えたフィンゴットが、突然元気よく声を上げた。
「うわっ!!」
「リヒト様!」
そしてフィンゴットは、ローズとリヒトを嘴で掴んで自身の背中に乗せると、大きく翼を羽ばたかせた。
「って、おいおい嘘だろっ!?」
大きな風が起こる。
ぐん、と体が上空に持ち上げられるのがわかって、リヒトは光る紐を伸ばすと、フィンゴットの体にくくりつけた。
「掴まれ、ローズ!」
「……っ!!!」
ローズはリヒトから伸ばされた手を掴んだ。
リヒトはローズの体を引き寄せると、ローズにも自分が作り出した紐を握らせた。
ローズの急降下よりも速く、フィンゴットは翔けあがる。
フィンゴットは勢いそのままに、地下空間に月の光を落としていた天井を突き破り、湖の中を進む。
「……くっ!」
水が勢いよく、自分たちの方へと押し寄せてくる。
ローズは慌てて、自分とリヒトを囲む防壁を張った。防壁の外に、強い水圧が加わるのをローズは感じた。
だが、フィンゴットの勢いは止まらない。
上へ、上へ、上へ。
まるで空を目指すかのように、龍は水の中を突き進む。
「ピイイイイイイイイ!!!」
朝焼けの空に輝く白銀。
湖を抜けたフィンゴットは空高く舞い上がると、翼を開き強い輝きを放った。
ローズとリヒトは、あまりのまばゆさに目を瞑った。
世界の始まりを告げるようなそんな光に、寮の学生たちは何事かと窓をあげて空を眺めた。
その姿を、ちょうど学院に残っていたロイは、バルコニーに出て見上げていた。
徐々に和らいだ光の先に、白銀の天龍の背に乗る金色の髪が揺れるのをロイは見た。その姿を見て、ロイは胸を押さえた。
――この光景を懐かしいと、そう思うのはどうしてだろう?
「フィンゴットが、目覚めた……?」
◇◆◇
「流石剣神様ですわ! まさか、フィンゴットの主になられるなんて!」
「天の御遣い。フィンゴットに相応しいのは、この世界でローズ様以外に有り得ません!』
ローズがフィンゴットと契約を結んだという噂は、すぐさま学院中に広まった。
フィンゴットはローズによく懐き、まるで幼子が親に甘えるかのように、すり寄る様子も見せた。
その姿を見た人間たちは、誰もがローズを褒め称え、そして契約を結ぶことの出来なかったリヒトのことを、嘲笑う者も居た。
「こんなことろにいたのね。リヒトくん」
「……先生」
ローズが人に囲まれた隙を突いて、リヒトは一人暗がりで蹲っていた。
少しじめっとした、人の声の聞こえない場所は、安心出来るような気がしたのに――エミリーに見つかってしまい、リヒトは彼女から目を反らすようにしたを向いた。
「どうしてこんなところに一人で?」
「……少し、一人になりたくて」
「リヒトくんは一人が好きなの?」
自分などにかまわずに、はやくどこかへ行って欲しい。
そう思っていたのに、エミリーから返ってきた言葉に、リヒトは思わず口を開いた。
「昔から――よく、一人で過ごしていたんです。それに……俺が弱いのは、出来ないのはいつものことだから。こういう俺だから、これまでだってローズがいないと何も出来なかったし。ローズは俺と違って優秀で、ローズがすごいって、そう言われるのは昔からで。俺のこういう評価も、昔から何度もあったことだし。父上だって、期待しているのは俺じゃなくてローズや兄上で。こんなことなんて、慣れっこだし。……だから、先生。俺のことはかまわないでいから、もう――……」
一度口を開いてしまったら、言葉にするつもりのなかった言葉が、リヒトは溢れてとまらなかった。
「リヒトくん」
涙がこぼれそうになるのを必死にこらえていると、エミリーに抱きしめられて、リヒトは目を大きく見開いた。
「え、エミリー先生……?」
驚きのあまり涙が引っ込む。
柔らかな感触。優しい温もり。
それはどこか、リヒトが幼い頃から思い描いていた母の姿と重なる。
けれど震える声でリヒトが彼女を呼べば、エミリーは静かにリヒトから離れた。
「どうしてそんなことを言うの? 貴方は……ずっと一人で生きてきたというの?」
エミリーの言葉に、リヒトは何も言うことが出来なかった。
ただただ胸が苦しくて、口の中にはじわりと血の味が滲んだ。
出来ることを積み上げること。
それを喜んで前に進むこと。
たとえそれは小さなことでも、毎日積み上げれば、それは大きな力になる。
それは知識だけでなく、人の心も同じように。
リヒトにだって、それは分かっている。
けれどリヒトが一番欲しい言葉を、本当に欲しい相手は与えてはくれない。
『君には才能がある』
ロイはそう言ったが、結局、自分が選ばれたのは初等部だった。
『たまには役に立つのですね』
『でも……友人を、助けてくださってありがとうございました』
その言葉が欲しくて、もう一度彼女に笑ってほしくて。
だというのに彼女は、この世界は――結局自分望んではくれないようにもリヒトはには思えた。
『悪用されそうな魔法は作らないでください。この方は貴方を騙して危ない魔法を作らせるに違いありません。本当に貴方は昔から、どうしていつもそう人とずれたことばかり。ガラクタを作るのは構いませんが、犯罪を生むようなものは作らないでください』
『使い方を間違っては危ない魔法を作るのはおやめください。貴方が魔法の研究のために一人で他の国に行くなんて、絶対に許しません。貴方はこの国から出てはいけない』
何が駄目なのかが分からない。
何が正解か分からない。
自分の行動は、結局誰かにとって迷惑でしかないのだろうか。
自分の存在は、やはり望まれないものなのか。
リヒトに母の記憶は殆どない。
魔法を使うために必要だとされる親の無償の愛情というものを、リヒトは殆ど知らない。
ただ自分を撫でる優しい手は、ある日突然失われた。その喪失の瞬間だけは、今も強く彼の記憶に刻まれている。
『母上。母上を埋めないで!』
どうして母を、土の中に埋めてしまうのか理解出来なかった。
『埋めないで』という小さな頃の自分の言葉は、今になってみれば、あまりにも愚かな子供のわめき声だ。
『私はずっと貴方ではなく、この国を愛しておりました。国を良くするためにも私は王妃となりたかった。幼い頃から共に過ごしておりましたので、多少なりとも貴方にも親愛の情は抱いておりました。共にこの国を慈しむことを楽しみに思っておりましたが、もう叶わないとなりますと、今は少しばかり残念に思われます』
本当は、ずっとどこかで思っていた。
彼女は自分をのことを、想っていてくれると。
母親がくれるという無償の愛情のように、彼女だけは自分を裏切らないと、子どものように信じていた。
しかし、今になって思う。
自分はずっと彼女と対等でいることを、心の何処かで諦めていたのではないかと。
それはきっと、誤りであったと。
「あ……」
「――貴方は誰にも、魔法を与えてもらえなかったの?」
エミリーは、悲しげな表情《かお》をしてリヒトに尋ねた。
ただその言葉に、リヒトは見えない壁のようなものを感じた。
エミリー・クラークは教師であって、母ではない。リヒトはその時、彼女に境界線を引かれたような気がした。
「貴方はすごいわ。きっとこの国で成果を残すことが出来たなら、誰もが貴方を認める。いいえ。本当は――貴方はもう、それだけの実力がある。それだけのものを持ちながら、貴方が魔法を使えないとしたら、それは」
「違う!!」
エミリーが何を言いたいのかを理解して、リヒトは声を上げて言葉を否定した。
知っている。わかっている。
――魔法は、心から生まれる。
その言葉の、反対の意味くらい。
強い魔法が使えないのも、大切な人たちを落胆させてしまうのも。
原因は、全部。
「全部、俺が悪いんです」
なぜ自分が魔法を使えないのか。
どんなに努力を重ねても、強い力を得られないのは。
「俺が……俺が、弱いから」
誰からも王に望まれた第一王子。世界で一番強かった王子様。
『賢王』の名を継ぐ兄が眠りにつき、代わりに転がり込んできた次期国王という立場。
兄の婚約者となるべき少女は、兄にこそ相応しい力を持っていた。
彼女の側に立てるよう、どんなに努力を重ねても――彼女はいつだって、自分の予想の上を行ってしまう。
幼い頃初めて、自分から読んだ絵本。
兎と亀の物語。
自分があまり絵本は読まなかった理由は、読んでくれる相手がいなかっただけではなかったことを、リヒトは思い出した。
寓話では、亀が勝利する。
けれど休むことのない兎に、亀が勝つことは出来るのだろうか?
自分が兄たちに敵う日は、地位に見合う、彼らの側に立つに相応しい力を手に入れることは……。
『諦めなさい。リヒト』
今日もまた、頭の中で誰かの声が響く。
認めて欲しい人が、自分を認めてくれる日は、未来永劫訪れない。
「リヒトくん。貴方が幼等部に入れられた、その理由がわかりますか?」
「……俺が駄目、だから?」
「違います。そうではありません」
エミリーは静かに首を横に振った。
「――貴方には、魔法を使うために決定的に足らないものがある。それは貴方が、貴方自身を認めていないということです」
「……っ!」
足らないものはわかっている。けれどそれを埋める術《すべ》が、リヒトにはわからなかった。
誰からも認められない自分を、実の親や幼馴染からも認めてもらえない自分を、どうして認めることが出来るだろうか。
自分はそんなに強くない。
そしてそんな自分が、リヒトは昔から大嫌いだった。
自分が出来ない背いで、沢山の人が悲しい顔をする。そんな顔、見たくない。みんなには笑っていてほしいのに、その顔をさせているのは、いつだって自分なのだ。
そう、だから。
いつだって――いつだって自分が、一番悪い。
「どうか自分を好きになってあげて。貴方は、この世界に一人しかいないんだから」
自分を責めるリヒトに手を伸ばし、エミリーは彼の目元に光る雫をそっと拭った。
「貴方が貴方を認めてあげなかったら、貴方を一番知る人は、ずっと貴方を嫌いなままなんですよ」
◇◆◇
「力を持つ生き物は、主には力を持つ生き物を望む」
学院の理事長室で、外の景色を眺めていたロイは静かにそう呟いた。
座り心地の良さそうな、上質な手触りの椅子。そこに一人座っていたのは、騎士の服を纏う一人の少女。
「流石『剣神』殿、というべきか?」
「からかわないでください」
ローズは、ロイを見上げて眉間に皺を作った。
「封印を説いたのはリヒト様です。私は、足らない魔力を補っただけで」
「とはいっても、あの懐きよう。フィンゴットはどうやら、君の方を主に選んだらしいな」
「…………」
ローズは、ロイのその言葉を聞いて下を向いた。
フィンゴットは、リヒトではなくローズに頭を垂れた。その姿を思い出して。
「――私は」
「ん?」
「私は……やはり、間違えていたんでしょうか」
ローズのその声は、ロイには後悔しているようにも聞こえた。
「というと?」
「リヒト様は、まだ出会ったばかりだというのに、幼等部の教師に心を許していらっしゃる」
ロイはその時、誰からも賞賛される――『剣神』と名高い少女が、まるでどこにでもいる年下の、普通の一人の少女のように見えた。
「まあ……。君と彼は同じ年頃なわけだし、そこまで気にする必要は無いと思うが」
「でもリヒト様は……これまであんなふうに、人に心を許す方ではなかったのに」
「ああ、なるほど。でもいや、それは……」
ロイは、ローズがいわんとすることを察して苦笑いした。
「君が気になるのはわかる。だが、君のそれは杞憂だ。彼女のことは、君が気にかけるべきことじゃない。それにもし――君が、その役目もすべて果たそうとするなら、君は本当に、彼の保護者になってしまうぞ?」
「?」
ローズは、ロイが言いたいことが分らず首を傾げた。
「それに、たった一人に認められるという関係は、依存しやすくなるものだからな。彼には、君以外も必要だ」
そうしてロイは、ふっと笑った。
「関係性は分散されてこそ、正常に保たれる」
「分散……?」
「ああ、そうだ。だから君が彼のためになにかしたいと思うなら、君がやるべきことは、彼が君だけでなく、皆に認められる機会を与えてやることだ」
「――認められる、機会?」
「何。君には君の出来ることがある。それをやればいいだけだ」
「出来る……こと……?」
「君に一つ、いいことを教えてやろう」
ロイはそう言うと、不敵な笑みを浮かべた。
「この学院の入学試験が、全く配点が同じで、二つに分かれている理由は何故だと思う?」
「――え?」
「『今のままでは彼』では、彼の兄と同じようには、最終試験を突破することは叶わないかもしれない。しかし君なら、それを覆すことは可能だ」
「……」
「ローズ嬢。君の実力なら、この学校に入ることくらい簡単だろう?」
かつて三人の王によって作られた、魔力を持つ者が通う魔法学院。
騎士として、王族の護衛としてローズはグラナトゥムに来たものの、本来ローズ自身も、学院に通う資格はある。
「君の実力は、俺との戦いで誰もが知っている。入学試験。君なら誰もが、実技は首位と認めるだろう。勿論それだけでも入学に値する。しかし『公平』を、君は求めるだろう? ならば俺は、君に試練を与えよう。君ならば問題はないはずだ」
ロイはそう言うと、ローズに試験用紙を差し出した。
◇
「やはり、『水晶の王国の金剛石』の名は伊達ではないな」
ローズの解答用紙を眺めていたロイは、採点された解答用紙を見て笑った。
回答されているところは全て満点。けれどその解答用紙には、一つだけ空欄があった。
「――知識は、彼の次席か」
学院に入学するためには知識と実技能力、二つの能力が求められる。
その理由は、一つは生まれた環境により、才能はあっても知識では差がでてしまうためだ。
故に平民からこの魔法学院に通う者は、知識が浅くても入学を許可される。
そして二つ目は、知識と実技両方を、学院が『才能』として認めているためだ。
たとえ実技の能力が低くとも、知識が優れている人間を、学院は評価してきた。
何故ならそれは紛れもない努力の証だと、努力も才能の一つだと、学院創立時から考えられてきたからだ。
ローズが空白で提出した箇所は知識ではなく、自らの意見を問う箇所だった。
そしてロイは、その箇所にだけは、どんなことを書いても満点を与えるようにしていた。
魔法の才能はあっても知識のないものを招き入れるための、いわばサービス問題だというのに、答えに迷った挙句空欄で出すあたりが、彼女らしいとロイは思った。
【古代魔法の、複製禁止魔法を貴方はどう思うか。自由に書きなさい。】
ローズ自身、悩んだ末に何も書くことが出来なかったのだろう。ロイはそう思った。
権力を欲する者、力や財を望む者たちは、魔法を使える者の地位を高めるために複製禁止魔法を迎合すると回答した。
しかし身分の低い者、平民の出ながら才能を認められた者たちは、それを拒むと回答した。
「しかし、やはり今回の答えで一番面白かったのは彼だな」
「どうしてですか?」
シャルルの問いに、ロイはリヒトの回答を思い出してくすりと笑った。
【私は古代魔法を、古き時代の一人の人間が、あらゆる者が魔法を使えるように考案したものと考えている。故に紙の鳥の魔法は魔力の人間でも扱うことが出来るのだ。
もし複製を禁じ、魔法を一部の人間が冨を為すために占有するようになれば、より格差は広まることだろう。古代魔法に置いて特異なこの魔法は、古代魔法の中で唯一異質なものであると私が考えている理由である。私はこの魔法のみが、魔法をつくりだした者とは別の人間により考案されたものではないかと考えている。そしてこの魔法が、最後の魔法として書き記されていることから、古代魔法が今失われたしまった理由と、何かしらの関係があると考えている。】
「一人だけ研究者目線で本来こちらが求めたと答えとずれていたからな」
水を纏ったローズの剣は、剣の纏う炎そのもの打ち消した。
相手が動揺の色を見せる隙に、一気に間合いを詰めたローズは、対戦相手の少年の剣を薙ぎ払い無力化させる。
「勝者、ローズ・クロサイト!」
高らかに告げられた勝利に、勝負を見ていた観客たちは黄色い声を上げた。
「きゃああああああああああっ! ローズ様!!」
歓声が響く中、ローズは平静を保ったまま剣をおさめると、対戦相手の少年に手を差し出した。
「対戦いただき、ありがとうございました」
ローズはそう言うと、対戦相手だった少年を光魔法で包み込んだ。
試合の際転んで出来た笙さな傷が、みるみる間に消えていく。
「これでもう、痛いところはないでしょうか?」
「あ、ありがとうございます……」
気遣うようにローズが笑えば、少年は顔を真っ赤に染めた。
元々勝負は、ローズが学院に入学したことで、婚約者がローズの話ばかりをして自分に冷たくなったという逆恨みで始まったものだったが、ローズは彼に多少見せ場を作りつつ勝利を収め、無事その少年さえも誑し込んでいた。
「対戦相手にも心を配られるなんて、なんてお優しい!」
「ローズ様が学院の生徒になられたというのは本当だったのですね! 騎士団の制服もお似合いでしたが、学院の制服もお似合いです!」
「はあ……。ローズ様と同じ学生生活を送れる何て、本当に夢みたい」
男女問わずの人誑し。
魔王を倒し世界を救った憧れの『剣神』ローズ・クロサイトが、自分たちと同じ制服を身に着けているのだ。
人目を集め、噂にならないはずがない。
「なんでも実技の試験で、素晴らしい魔法を披露されたとか」
「筆記の試験ではほぼ満点だったと聞きましたわ」
「知力も魔法も優れていらっしゃるなんて、本当にローズ様は素晴らしい方ですわ!」
学院にはローズを持て囃す言葉ばかりが響く。
そんな中、ローズを警戒し、影からその姿を見つめる少女がいた。
「うう……。なんでローズさんがいきなり学生に……。護衛担当じゃなくなったみたいで一人でいるから逃げにくい」
ローズがリヒトの護衛になって、少しローズから距離を取っていたアカリは、ローズの行動の制限が解除されたことに頭を悩ませていた。
自分が元の世界に戻れることを教えてくれなかったこと。
そのことを思うと、アカリはローズと顔を合わせて上手く笑える自信がなかった。
情報を隠されて、嘘をつかれていたのだ。
そう思うと、アカリは胸が締めつけられた。
「というか、ローズさんは護衛いなくていいのかなあ……? 確かに、必要は無いかも知れないけれど……」
ローズは公爵令嬢として学院に入学した。
だがそもそも、いくら騎士団に所属しているからと言って、他国での護衛に公爵令嬢を送り出すのはどうなのか。
いや、でもそもそもローズは男嫌いの自分の護衛としてこの国に来たのだから、理にはかなっている――などとアカリは考えて頭を抱えた。
「どうしよう……。この道、これじゃ通れない」
アカリがそう呟いたとき。
隠れて見ていたそう手がいつの間にか姿を消していたことに気が付いて、アカリは目を瞬かせた。
一体どこに行ってしまったんだろう――なんて思っていると。
「アカリ」
「はえっ!? ろ……ローズさん!?」
背後から声をかけられ、アカリは思わず後退った。
「逃げないで。私のことを、無視しないでください」
ローズはそう言うと、アカリを壁に追い詰めて逃げ場を塞いだ。
――なんで私、ローズさんに壁ドンされてるんだろう!?
アカリは心の中で叫んだ。
『壁ドン』なんて、漫画で読んだときは絶対に怖いだけだと思っていたのに、ローズ相手だと心臓が痛いほど高鳴るのがアカリは自分でもわかった。
――なんでローズさんはこんなに綺麗な顔をしてるんだろう。なんで壁ドンがこんなに様になるんだろう。こんな至近距離、久々だしいろいろ耐えられない!
距離を取って離れていたぶん、ローズに対する耐性が薄れたことを自覚する。
このままではどきどきしすぎて死んでしまう。そんなアカリに、ローズは追撃した。
「……すいません。身勝手なことを言っているのは分かっています。ですが――私は、貴方に避けられるととても辛いのです」
伏し目がちな瞳から、赤い色が覗く。
強さを表すその色は、いつもなら自信に輝いているはずなのに、今は少しだけ自信なさげに見えて、アカリはドキリとした。
まるでローズが、今だけは自分だけを見つめてくれているようで。
自分を思って落ち込んでいるようで――そしてぼんやりとアカリがローズを見つめていると、ローズはそのまま、何故かアカリを抱きしめた。
「貴方は……もう私のことは、嫌いになってしまいましたか?」
吐息交じりの声で耳元で囁かれ、アカリの中で何かが壊れた。
「アカリ……?」
ローズはアカリの腰に手を回したまま、少しだけ体を離して、そっとその頬に触れた。
「あの……もしかして、風邪を引いていて上手く声が出せないのですか?」
「わわわわわわ……」
アカリは顔を真っ赤にして、壊れた人形のように口をぱくぱくさせた。
「わわ?」
ローズはこてん、と不思議そうに首を傾げた。
「わ……分かりましたから! 私から離れてください!」
本当は言いたいことは山ほどあったが、精神に効くローズの攻撃に、アカリは惨敗して折れた。
◇
「良かった。風邪は引いていないのですね」
その後、お茶をすることにした二人は、仲良くティーカップを傾けていた。
今日のお菓子はマカロンだ。
カラフルな色合いに、流行りの可愛らしい飾り付け。お菓子でありながら、まるで芸術品のようでもある。
「一体どうしてそういう発想になったのですか……?」
「体温が少し高いようだったので」
「誰の……誰のせいだと……」
ローズの返答にアカリはぷるぷる震えた。
アカリは、まさかローズに突然抱きしめられるとは思っていなかった。
前々からなんとなくはアカリも感じていたが、ローズの距離感は時折おかしいことがある。
「でもこうやって、アカリと久々にお話できるのは嬉しいです。このところ任務で、貴方と時間を過ごせていなかったので。リヒト様については今後はアルフレッドに一任することになったので、これからはアカリとも時間を過ごせます」
ローズはニコリと笑った。
「すいません。貴方のことを、ウィルに任せきりになってしまって」
ローズは静かに頭を下げた。
「……ローズさんは、私がローズさんから離れようとした理由、ちゃんと分かっているんですか?」
「え?」
「別に私は、魔法が使えないからって外されたことを怒って、ローズさんから離れてたわけじゃありません。その他に私がローズさんに対して起こる理由、ローズさんにはわかりますか?」
てっきり、ユーリとのことのせいだと思っていたローズは、アカリの問いの意味が分からず目を瞬かせた。
「えっと……その……」
ローズは視線を泳がせる。
少し考えてみたものの、ローズはアカリが望む答えを返せる自信が無かった。
「よくわからないのですが……アカリを傷つけてしまったようですいません」
ローズは静かに頭を下げた。
「……ローズさん。とりあえず謝ろうとする姿勢は、駄目彼氏の典型らしいですよ……」
「だめかれし?」
聞き慣れない言葉にローズは首を傾げた。
それは、アカリからすると異世界人で、公爵令嬢であるローズには遠い言葉だった。
「はあ……」
目線が合って、キョトンとしたローズが慌てて再び頭を下げたのを見て、アカリは深い溜め息を吐いた。
「もういいです。顔を上げてください。リヒト様の件は、私のせいと言うこともありますし。それに何よりローズさんに、そんな姿は似合いません」
アカリは本当はまだ、ローズの隠し事が許せなかった。
でも、一生懸命自分に謝ろうとしている――それだけはわかって、アカリはローズの謝罪を受け入れることにした。
◇
「アカリは……最近は、どのようなことをして過ごしていたんですか?」
ローズは久々にアカリと話すことが出来て、とても嬉しかった。
それにいつも公爵令嬢として騎士として、求められる姿を演じるローズは、アカリの前では、ただのローズ・クロサイトとして話ができるような気がした。
アカリと過ごすだけで、不思議と心が軽くなる。
お菓子の力だけじゃない。
ローズはアカリと話す中で、自然と顔をほころばせている自分に気が付いた。
今の自分にとって、アカリが大切な存在であることに――ローズは離れてから改めて自覚した。
「精霊の力を借りる訓練をしていました」
「精霊……ですか?」
だが、和やかな空気は一変。
思いも寄らぬアカリの返答に、ローズはお菓子に伸ばす手を止めた。
『精霊の愛し子』
アカリに、その力を使うことを学ぶべきだと伝えようかとも思ったが、結局なあなあにしていたことを思い出す。
「はい。勿論魔法の練習もしているんですが―魔法は上手くまだ扱えなくても、精霊達の力を借りることが出来れば、似たような現象を起こすことは可能かと思って」
アカリはそう言うと、右手を少し上げた。
「サラ、火をつけてくれる?」
アカリがそう『お願い』した瞬間。
アカリの手の上に、小さな炎が宿った。
「ウンディーネ、水で火を消して」
今度は火が、水によって消える。
「シルフ、水を乾かして」
そして最後に、風が起きて水は消えた。
「これは……」
目の前で起きた現象に、ローズは驚きを隠せなかった。
アカリから魔力は感じなかった。
だからアカリの能力が、魔法とは異なる力だということは、一目でローズにはわかった。
「もともとお菓子を作るときにしか頼んでいなかったんですけど……。この力を使えば、今はある程度のことは出来るかと思います」
アカリはニコッと笑って、皿の上にあったマカロンを一つ持ち上げた。
するとマカロンは、見えない小さな生き物が今まさに食べているかのように、小さな歯形と共に少しずつ小さくなっていく。
「そこに精霊がいるのですか? 精霊たちはなんと言っているのですか?」
「えっと……『僕たち偉いでしょ?』とか、『お菓子美味しい』って言ってます」
ローズには、精霊の姿も見えなければ声も聞こえない。
けれど少し困ったように言うアカリを見て、きっと本当なのだろうとローズは思った。
「精霊と言葉をかわせて、こんなことも出来るなんて、アカリは本当にすごいですね」
自分の助言がなくとも、アカリは一人でそのことに気付いて行動した。
ローズにはアカリが、自分が知らない間に随分成長したように思えた。
「ありがとうございます。でもこのせいで、少し周囲には引かれてしまって……。はたから見れば、何もないところで話しているように見えてしまうので。一応説明はしたのですが、『精霊の愛し子』は、あまり例がないので……」
「なるほど、そういう弊害が」
確かに、一人で虚空に向かって喋っていると思うと、少し怖いかもしれない。
ローズはそうも思ったが、学院で一人で過ごしていたアカリの言葉を、周囲の人間がまともに取り合わなかったことに気付いて少し胸が痛んだ。
「残念ですね。アカリが嘘を言うはずはないし、精霊と話せるなんて、きっと素敵なことなのに」
「……ローズさん。そういう言葉、さらっと言うのは反則です」
ローズの言葉に、アカリの顔が朱に染まる。
ローズから離れていたときは、他人から好奇の目を向けられることでしかなかった自分の行いが、ローズを通すときらきらと光を纏う。
――ローズさんに褒めてもらえるのがこんなに嬉しいなんて。やっぱり私、何をされてもローズさんのことは嫌いになれないんだな……。
ローズにかけられた言葉が心を満たす。
今のアカリには、『精霊が見える』と話したとき、苦笑いされてから遠巻きに見られたことも、どうでもよいことのように思えた。
誰になんと言われても、ローズが自分のことを信じてくれるなら、それだけで十分なのだと。
「シャルルちゃんも私も、この世界でははなり希少価値が高い存在と言うことなので、仕方ないと思います。でもこれも全部、クリスタロスを――神殿と離れたからこそ、そう思えたようになったんだと思います。クリスタロスでは、聖女として早く強い光魔法を使えるようになるようにと、そればかりを毎日言われていたので」
「……アカリ」
困ったように笑うアカリを見て、ローズは唇を噛んだ。
クリスタロスに居た時は、『光の聖女』として神殿でアカリが魔法を学ぶことがアカリにとって良いことだと思っていたが、その判断は間違いだったのではと、今のローズには思えた。
ローズは少しの沈黙の後、アカリの手を勢いよく掴んだ。
「ろ、ローズさん!?」
「アカリ。――貴方に、お願いがあります」
ローズは、まっすぐにアカリの瞳を見つめて言った。
「一度貴方を外してしまった私が、貴方に頼むのは筋違いかと思うかもしれません。でも、『卒業試験』は三人一組。どうか私と一緒に、この難題に挑んでくれませんか?」
真剣なその表情に、アカリは長い沈黙の後――静かに頷いた。
「わかりました。それが、ローズさんの願いなら」
◇◆◇
「おやおや。……流石の『王子様』も、ローズの人気には負けてしまったか? 一気に人気を取られた気持ちはどうだ? レオン」
「五月蝿いよ。ギルバート」
ローズの入学で慌ただしくなった学内で、ギルバートとレオンは二人で話をしていた。
ローズの入学前は、レオンはよく女生徒に囲まれていたが、今はそのおおよそはローズのファンとして活動している。
「くく……っ。まあ、お前はもともとこういうのはガラじゃないだろ。こうやって静かに過ごせるほうが、お前だって楽なんだからいいだろう? 甘い言葉も態度も、お前のそれは所詮処世術だろ」
レオンは、ギルバートの言葉を否定はしなかった。
「しっかしまあ、あの光景を見ていると、なんだか懐かしくなるよな。昔からあいつは、男より女にモテていた」
だが今度は、レオンは幼馴染みの言葉に首を傾げた。
「ギルバート? 君は一体、誰のことを言っているんだ? ローズは立場と魔力のおかげで、男にもてていたんじゃなかったのかな? それにあの外見に性格、実力だ。畏敬もあって、光の聖女が現れるまで、親しい友人はいなかったと聞いていたが?」
訝しむレオンに対し、ギルバートは曖昧に微笑んで、ローズを見て過去を懐かしむように目を細めた。