停滞している。
 熱気を孕んだ夜の空気も、街灯に邪魔された星々の瞬きも、独りで過ごす変わり映えのない日常も。
 
 ずっと停滞している。

 動き出す気配もなく、そのまま消え去ってしまったとしても、きっと誰に気づかれることもないだろう。
 でも、それでよかった。
 
 午前一時。
 自宅マンションから駅に向かう道すがら、幾人かとすれ違った。
 仕事帰りの酔っ払い、騒がしげな大学生らしき若者の集団、夜の街をパトロールする制服姿の二人組の警察官。
 その誰もが、自分の存在を怪訝に思うこともなく、通り過ぎて行った。
 昼間は活気に満ちているオフィス街も、今は気配を潜めている。
 九月の、夏の残り香のような生ぬるい風が、頬を撫でた。この場にそぐわない未成年を気遣っているような、そんなお節介な風だった。
 そうしてしばらく歩き続けると、駅前に出た。
 商業施設が併設されている駅ビルは、種々の照明に彩られていた。暖色系の灯りが、目に優しい。
 終電を過ぎたこともあり、人影はまばら。
 タクシーの数も少ない。
 なにに惹かれるでもなく、ふらふらと不夜城のように佇むビルに近づく。

「うさぎくん?」

 不意に、夢見心地だった意識の中に、ぽつりとその声が落ちてきた。
「うさぎくん、だよね?」
 もう一度、今度は迷いなく、その声は確かに僕を引き留めているように感じた。
 立ち止まり、背後を見る。
 街灯の薄明かりに照らされて、人影は頼りなさげにかすかに揺れていた。
「……やっぱり」
 そこにいたのは、去年から二年続けて一緒のクラスになっている高校のクラスメイトだった。
 顔は覚えている。でも、名前は思い出せない。
「うさぎくんは、なんでこんなところに?」
 彼女は言った。うさぎ、という呼称に聞き覚えはないけれど、視線は僕に向けられていた。
 僕は答える。
「別に。ちょっと夜の散歩。君は、えっと……」

「柏木雅」

 彼女は、苦笑した。
「名前、わからなかったんでしょ? か、し、わ、ぎ、み、や、び」
「……どうも。とてもご丁寧にありがとう。僕は宇佐美。宇佐美優。うさぎじゃないよ」
「知ってる」
 クスクスと、また彼女は笑った。
 周囲の状況とは不釣り合いな無邪気さに、僕は少し困惑した。
「それで、君は……」
 一瞬、そんな無邪気な彼女をどう呼べばいいのか、迷う。
「……柏木は、なんでこんなところに?」
「それはこっちのセリフ」
 彼女は、実にもっともな切り返しを見せた。
「うさぎくんこそ、なんでこんな時間にそんな部屋着みたいな格好でこんなところに?」
「……お言葉だけど」
 僕も、彼女にもっともな返答を試みる。
「それはそっちも同じだろ? 君はどうして、こんな時間にそんなパジャマ姿でこんな場所に?」
「えへへ」
 僕の問いかけに彼女はまたも誤魔化すようにはにかんで見せる。
 説明するならば、このとき僕は部屋着である着古したTシャツにハーフパンツ、足元はサンダルというあまりに気の抜けた格好をしていた。
 そして、柏木もまた、水色でシルク製の涼しげなパジャマに、クロックスをつっかけた夢遊病者のような出で立ちでそこにいた。
 高校生の僕らが、そんな格好で深夜の街を出歩けば、嫌でも人目を惹くに違いない。けれども、僕らは好奇の眼差しを向けられたり、通報されたり、補導されたりすることもなく、二人してこの場まで足を進めていた。
「ひょっとしてさ、うさぎくんも……」
 柏木は少し迷いながら言った。
「あたしと同じだったりする?」
「同じっていうのは?」
「……もう。質問を質問で返さないーっ」
 そんな指摘をしつつ、彼女は距離を詰めてきた。
「あたしには、うさぎくんの姿がはっきり見えます」
 そう言って、じいっと僕の目を覗き込んでくる。
 人と目を合わせるのは苦手だ。
 僕は、目を逸らしながら言った。
「同じく」
 僕にも、柏木の姿が確かに見えていた。彼女の整った鼻の形や長いまつ毛までがはっきりとわかる距離で、僕らは対峙している。
「ふーむ」
 と柏木は、意味深に声を漏らした。
 そして、
「でも、他の人達には、見えてないみたいだね」
 核心をついた発言をする。
 それはまったく、僕が抱いていた結論に相違ない答えだった。

          *

「それはいわゆる、精神疾患の一種だね」
 
 三日前。
 高校の保健室で、養護教諭からかけられた言葉は辛辣かつ完膚なきまでに現実的なものだった。
「早速心療内科を紹介しましょう。君の住所はどこだったかな? とりあえず、行くとするなら近所がいいでしょ?」
「……わかりました。じゃあ先生、手頃なところを紙に書いて教えてください」
「待って待って」
 養護教諭はふうっとため息をついた。
「あっさり認めすぎじゃない? 君は捻くれ者なの? それとも一周回って素直なの?」
「先生の見解がもっともだと思ったまでです。僕も、薄々そうじゃないかと思ってました」
 そう言うと眼鏡をかけた女性の養護教諭は、困ったように頭を掻いた。詳しい年齢は知らないけれど、おそらく十も歳が離れていないであろう新任の先生は、この学校で唯一の、僕の話し相手でもあった。
 もう一度ため息をつき、先生は手元にあったコーヒーをすする。
「君も飲みなさい」
 先生と僕との間にあるテーブルには、もう一人分のコーヒーカップが置かれていた。
「いただきます」
 と言って、口に含む。勧められて飲むコーヒーは案の定、とても苦かった。
「君の話を要約するとさ」
 先生は、右手の人差し指で眼鏡のブリッジ部分を軽く押し上げ、眼鏡そのものの位置を修正する。
「……決まって真夜中になると外を徘徊したくなる。徘徊している間は、道ゆく誰の目にも留まる気配がない。声すら耳に届かない。まるで、自分の存在が夜の闇に飲まれて消えてしまったかのように……」
「どこか詩的ですね」
「でしょ?」
 先生の言ったとおり、それは突然始まった。
 真夜中の、決まって零時をすぎた頃、無性に外を出歩きたい衝動に駆られる。
 最初に夜の街を歩いたのは、一月ほど前のことだった。
 もともと服装に無頓着だった僕は、部屋着のまま適当なサンダルを履いて外に出た。
 深夜とはいえ、県庁所在地の中心部に住んでいることもあり、少し離れた場所にある繁華街にはまだそれなりに人の気配が残っていた。
 人恋しいわけではなかったし、なにより、騒がしい場所は苦手だったのだけど、なぜか僕の足はその繁華街がある方角に舵を切っていた。
 夜の街を眺めながら、そのままぼんやり歩みを進めていると、ある懸念が、次第に頭の中で大きくなっていった。
 自分は、あまりにも場違いな存在だったのだ。
 未成年の若造が、着の身着のままの格好で、深夜の盛り場を歩いている。
 即座に通報や、補導されて然るべき状況だった。
 けれど、不思議なことに、往来する誰からも、好奇の視線を向けられるようなことはなかった。
 それどころか、街の治安維持を担う警察官さえも、僕を一瞥することなく素知らぬ顔で脇を通り過ぎて行ったのだった。
 おかしいと思った。
 困惑して辺りを見回しながら歩いていると、すれ違った酔っ払いの一人と肩がぶつかった。二十歳そこそこの派手な格好をした男の酔っ払いは、その拍子に道端に倒れ込むと「痛っ!」と大袈裟に声を上げた。

「ぎゃははっ! お前、なにこけてんだよー!」

 男の周囲にいた面々は、口々に彼をからかい、騒ぎ立てた。
 その中の誰一人、当の本人である男でさえも、転倒する原因となった僕に、最後まで視線を向けてくることはなかった。
「……あの、すいません」
 近づいて声かけても、彼らはなんの反応も示さずにいた。
 つまり、誰も、僕の存在に気づかなかったのだ。

          *

「うさぎくんは、いつから?」
 パジャマ姿の柏木は、隣を歩きながらそんなことを訊いてきた。
 駅前を離れ、あてもなくオフィス街に舞い戻っていた。ビルの合間から見上げる夜空には、白くて丸い月が出ている。もう周囲に、僕ら以外の人影はなかった。
「一月前だよ。柏木は?」
 尋ね返すと、柏木から和やかな気配がした。
「えー、先輩だねぇ。あたしはつい先週から。今日でちょうど1週間かな?」
「そうなんだ」
「うん」
 会話は一旦、それで終了する。
 相変わらず、向かい側から生ぬるい風がふいてきて、僕ら二人を気にかけるように通り過ぎていく。
 柏木雅は、クラスでも活発で、常に同級生の輪の中心にいるような、言うなれば、僕とは真逆の立ち位置に存在する生徒だった。
 極たまに登校しても教室や保健室を行ったり来たりして、いつも独りでいる僕とは、決定的に存在感が違う。
 そんなふうに、自分と彼女との相違点に思いを馳せていると、隣を歩く異質な存在がまたも無造作に口を開いた。
「うさぎくんは……」
「うん」
「どうしてあんまり学校にこなくなったの?」
「うーん……」
 あまりに率直すぎる質問に、僕は辟易する。
 おそらく、彼女に悪気はない。あるのは純粋な興味。無遠慮というか、他人との距離の詰め方が少々大胆なのだろう。
「……あっ、ごめんね」
 僕が返答に窮していると、意外にも柏木は自分から謝ってくれた。
「あたし、結構、思ったことすぐに口に出しちゃうんだよね。気を悪くしたなら、謝るよ。ごめん」
 僕は首を横に振る。
「いや、大丈夫だから」
「そう?」
「うん」
 なるほど、と思う。
 恐らく、彼女の周りに人が集まる理由は、自分の犯した過ちさえもすんなりと認めるその素直さにあるのだろう。
 実にシンプルな理由だ。人は、得体の知れない建前を恐れ、率直な本音に安心感を覚える。
「簡単に、言うとさ」
 その柏木の素直さに、思わず僕は呼応してしまった。
「苦手なんだよね、ああいう集団の中にいるのが。自分には合わない」
「そうなんだ? 息苦しくなっちゃったりするとか?」
「息苦しい……いや、まあそうだね。それもある。僕は……」
 少し昔話をする。
「中学まではすごい田舎の……離島にいたんだ。学校は一学年が十人にも満たない、超小規模校」
「ええ? そうなんだ?」
「うん。それで高校から親の仕事の関係もあってこっちに越してきたんだけど」
「うんうん」
「こっちみたいに人が多いと、どこに目を向けていいのかわからなくなるし、色んな声や音が耳に入り過ぎて、混乱する」
「へーっ、すごい。うさぎくん、感受性が高いんだね」
「……そんなこと言われたの初めてだよ」
 彼女は、物事を比較的ポジティブに捉えるタイプでもあるようだった。
 大半の人は、僕の性質を厄介に捉えるに違いない。
 自分でもそう思う。周囲の人々の行動や、環境の変化に敏感に反応してしまうのは、事実とても厄介極まりないことなのだ。人が大勢いる場所では、様々な刺激を不必要に五感が拾い上げて、肉体的にも精神的にも疲弊する。
 集団生活に対し、日に日に鋭敏になっていく感覚。我慢に我慢を重ねていた僕の忍耐は、高校一年の夏の終わりに、ついに消耗しきってしまった。
 
 不登校。

 一般的にそう呼ばれる状態に陥ってしまったことは、僕にとっては不幸というよりも、安息を手にしたことと同義だった。
 ここ一年の間、僕は両手で数えるほどしか学校に行けていない。母があまりに僕の将来を心配するので、形ばかりの登校を月に一度試みているだけだ。登校したとしても、ほとんどの時間を保健室で過ごしている。たまたま成績がよかったことで留年は免れることができたのだけれど、次はそうもいかないだろう。
「……そっか。それでうさぎくんはあんまり教室に来ないんだね」
 柏木は自分自身に向けているようにそう呟いた。
「うん。まあ、そういうこと」
 僕は彼女の言葉を、不思議と穏やかな気持ちで肯定した。
 正直、驚いた。
 自分の現状をすんなり話せたことにも。それを聞いた彼女から戸惑いや無用な気遣いをされなかったことにも。
 僕ら二人は、これっぽっちも互いを否定することなく、ただただ真夜中の街を歩いていた。
 しばらく黙って、足音だけを響かせていると、柏木が言った。
「どうして、あたし達はこんなふうになったんだろうね?」
「こんなふう?」
 聞き返した僕に、柏木は微笑する。
「今みたいな状態。……さしずめ、真夜中症候群って、言ったところかな」
「……真夜中、症候群」
 どこかの養護教諭に負けず劣らず、詩的な表現だと思った。
 誰の目にも留まることなく、夜の街を歩く病。
 同じ病を患うことになった僕らには、なにかしらの共通項があるのかもしれない。
 僕とは正反対に位置する、彼女との共通項ーー。
 それは一体、どんなものなのだろう?
「ねえ、うさぎくん」
 柏木が、軽くステップしながら突然僕の前に飛び出てきた。
「明日も、またこのくらいの時間に駅前に来れたりする?」
 体をかがめて、僕の顔を下から覗き込みながらそんなことを言う。
 僕は立ち止まる。
「どうして?」
「この病の秘密を探るのさ」
 胸を張って、柏木は言う。
「ひょっとしたら、病気なんかじゃなくってさ、おかしな妖怪があたし達を闇に誘っているのかも!」
「……急に話がファンタジーになってきたね」
 じゃあ僕らは、いつか揃ってその妖怪に食べられてしまったりするんだろうか?
「ともかく!」
 柏木はきっぱりと宣言した。
「明日もまた、二人で夜を探検しよう。約束だよ?」

          *

 当初の予想以上に、柏木雅は、元気で溌剌とした女の子だった。

「こんばんは!」

 時刻は零時過ぎ。
 驚いたことに、柏木はまたもパジャマ姿で駅前に現れた。
 僕が目を丸くしていることに気づいたのか、
「だって、この格好すっごく楽なんだもん……」
 と口を尖らせる。
「うざぎくんだって、それ部屋着でしょ?」
 言われて僕は、頭を掻く。
「……うん」
 僕も同じだった。なにも考えずに夜間に一番楽な格好をして現地に来ていた。
 しかし、年頃の女の子である柏木に対しては、身勝手な偏見が働いていた。さすがにもうパジャマ姿では来ないだろうと思っていた。
「じゃあ、今日も歩きますか」
 真正面に立っていた柏木は、そう言って僕の隣に並ぶ。
「……どこに行くつもり?」
「あてもなく夜を歩くってはどうでしょう?」
 彼女の提案に僕は異論を挟まない。そもそも、目的の場所など、最初から存在しないのだった。
 のんびりとした歩調で、僕らは歩き始めた。
 歩き出してすぐ、柏木は「うーん!」と大きく伸びをした。
「あたし、思ったんだけどね」
「うん」
「いろいろ話してたら見つかるんじゃないかな?」
「なにが?」
「あたし達の共通項!」
 夜中に不謹慎なほど大きな声で彼女は叫んだ。
 きっと周囲に人がいても聞こえないであろうその声に対して、僕は冷静に返事をする。
「それならもう一つ見つけたよ」
「えっ? なに?」
「服装に頓着がない。楽な格好を好む」
「……言っときますけど、あたしはオシャレするからね? 今が真夜中だからこんななの」
 柏木は心外だと言わんばかりに、また口を尖らせた。
 僕は言葉を返す。
「……その言い方だと、まるで僕がオシャレには興味がない人間みたいだ」
「違うの?」
「否定はしない」
「ねえ」
 と柏木。
「うさぎくんの好きな食べものは?」
「なにその自己紹介しあってるみたいな質問」
「答えてよ? ひょっとして人参? うさぎだけに」
「僕のことうさぎって呼んでるのは君だけだよ?」
「じゃあなに?」
「ラーメン」
「ええっ!」
 彼女のリアクションはいちいち大袈裟だった。
 声だけでなく両手を口元に当てて、目を見開いていたりする。
「おんなじだ!」
「えっ?」
「あたしもラーメン好き! 一番好きな味は?」
「味噌だけど?」
「きゃーっ!」
 もはや、悲鳴に近い声だった。
「それも一緒だよぅ! いきなり見つかっちゃったね、共通項! すごい確率じゃない?」
「……いやいや、日本人で味噌ラーメンが好きな人間なんて掃いて捨てるほどいるに決まってる」
 そんな共通項が今の状態に繋がっているなど、まかり間違ってもあるはずがない。
「いいよね、味噌ラーメン。七味かけてバター乗せて食べてー」
「……否定はしない。でも絶対にこの謎を解くのに必要な共通項ではないと思う」
「じゃあ今度は、自分の血液型を言っていこうぜ。うさぎくん、なに型?」
「……………」
 どうやら彼女に対しての認識を改める必要がありそうだった。彼女はとても明るくて、素直で、人の話をよく聞かない。
「あたしはB型! うさぎくんは?」
「A B型」
「うわっ、二重人格!」
「それどこの血液型タイプ診断? 言っとくけど、人類は数種類のタイプで区分けできるほど単純な生きものじゃないよ」
「じゃあ次はね!」
 この意味があるのかないのかわからない問答は、その後ゆうに一時間は続いた。
 そして、あてもなく歩き続けていた僕らは、なぜだか共通の馴染みある場所を訪れていた。
「ここって……」
「学校、だね」
 柏木は答えると校門の前に小走りで駆け寄った。
 校門には、僕らの背丈程度の高さの鉄扉が設えられていた。彼女は両手をその鉄扉にかけ、
「よっ」
 と掛け声一つ。
 器用に体を持ち上げて鉄扉の上にまたがると、そのまま向こう側に飛び降りて綺麗な着地を決めてしまった。
 そして鉄扉の合間から僕を見つめつつ、
「ふっふっふっ、君はここまでこれるかな?」
 そんな挑発的なセリフを口にする。
 僕は鉄扉に近づいた。
「……自慢じゃないんだけど」
「なぁに?」
「僕は運動神経に自信がない」
「ほんとに自慢じゃないじゃん!」
 柏木のツッコミを合図に鉄扉に手をかけて体を持ち上げる。
 両足も駆使してどうにか鉄扉によじ登ると、なんとか向こう側に飛び降りることができた。あまり、綺麗な着地ではなかったけれど。
「やるじゃん」
 と柏木は言った。
「まあね」
 と僕。
 尻餅をつかなくてよかった。一応、その程度のプライドは持ち合わせていた。
 僕と柏木は、そのままあてもなくグルグルとグラウンドを周回し始めた。
「うさぎくんはさ」
「うん」
「不安になったりはしないの?」
「……それは僕らの現状に対して? それとも、僕個人の将来に対して?」
「ふふっ、両方かな」
 柏木は天気の話でもするようにあっけらかんとした口調だった。
 だから僕も、力を抜いたまま自然体で言葉を紡ぐことができた。
「……正直、将来のことについてはなにも考えていない。親には申し訳ない気持ちがあるけれど」
「そっか」
「でも、今の現状には不思議と満足してるかな。夜の間は、誰も僕に気づかない。世界から見放されたように思えるかもしれないけど、この孤独は心地がいい」
「……心外だな、あたしが一緒にいるじゃないか」
 柏木は言った。
 わかってるよ、と僕は答える。
「でも、君と出会うまでに味わった独りの時間は、僕にとってとても穏やかなものだった。間違っても寂しさなんて微塵も感じない」
「……じゃあ、あたしの存在は余計だったりする?」
「そうは言ってないよ。確かに、少し騒々しいけれど、僕はまだこの夜に浸れてる。同行者が増えただけで、夜は僕にとって不要なものを包み隠してくれる」
 それは、紛れもない僕の本心だった。
 闇と静寂。
 僕は今、この時間を好きになっていた。
 ここはきっと、真夜中の果て。
 闇は、時として光よりも優しく僕らを包む。
 静寂は、言いようのない安らぎを胸の内に運んできてくれる。
 僕は本当に、この時間が好きになっていた。

「うさぎくんは……」

 柏木が言った。先程とは打って変わって、どこか戸惑いのある口調だった。
「すごいね。そんなふうに考えることができるなんて……」
「やっぱり、柏木はこうなったことが不安なの?」
 今度は、僕が質問する番だった。
「……………」 
 彼女はすぐに言葉を返さず沈黙する。
 月明かりに照らされたグラウンドに、二人分の足音だけが無機質に響く。
 やがて柏木は、夜空を見上げながら、口を開いた。
「わからない。しいて言うなら、不安半分、安心半分ってところかな」
「そう……」
 意外だった。もっと不安の要素が大きいものと予想していたけれど、柏木は気持ちが揺れている、みたいだった。
 柏木の周りは、いつも友人達で賑わっている。騒々しさを嫌う僕とは違って、彼女はその賑わいに満たされているものとばかり思っていた。けれども、今その横顔にはなにか憂いを帯びた陰りが差していた。
「さっきうさぎくんが言った言葉」
「うん?」
「孤独が心地いいって、本当にすごいね」
「そう?」
「あたしもそう思えればいいのに、って思う」
 柏木は自嘲するように苦笑した。
「うさぎくん、今度はいつ学校にくる?」
「……どうしたの、突然」
 不意をついた質問に、僕は動揺する。
 彼女はそれでも、構わずに話を先に進めた。
「お願いがあるんだ」
「お願い? 学校で?」
 僕は立ち止まる。
 少し先まで歩いた柏木は、そこで立ち止まり、僕に振り返った。
「うん、そう」
「なんのお願い?」
 尋ねた僕に、
「学校で、あたしのことを見て欲しい」
 柏木は言った。
「君のことを?」
 思わず聞き返してから、言葉を足した。
「すでに見てるよ、今……」
「そうじゃないの」
 柏木は首を横に振る。
「見て欲しいのは、学校でのあたし」
 彼女の訴えには、どこか張り詰めた響きがあった。
 僕は返答に窮する。
「だめかな?」
「いや、でも、うーん……」
 学校での柏木の様子を見る、ということはつまり、教室に赴かなければならない、ということだった。
 確かに僕は月に一度くらいのペースで今もかろうじて登校している。けれど、ほとんどの時間は保健室で過ごしていた。たまに授業に出ることはあれど、それは単発的なことで、保健室にいる割合のほうが圧倒的に多かった。今さら教室に長時間身を投じるなど、お願いされても簡単にできることではない。
 しかし柏木は、そんな僕に手を合わせて懇願の姿勢を示してくる。
「お願い! 身勝手で不躾なのはわかってる。でも、もしできるなら、一度だけでいいから」
「……………」
 どうしてこんな話になったんだろう?
 僕らはお互いの共通項について話をしていたはずだ。
 なのに、今、僕は柏木から一方的に厄介なお願いごとをされている。
 それは断ってしかるべき依頼だ。
 ごめんと謝れば、それで済む、はずなのに。

「……気が、向いたらね」

 気づくと、そう答えていた。
 なぜそんな無責任な返答をしてしまったのか、自分でもよくわからない。
 そんな血迷ったことを口走ってしまったのは、きっと、この不思議な真夜中のせいだろう。
 うん、きっとそうだ。
 そうに違いなかった。

          *

 そして、三日後。
 僕は、学校に赴いていた。
 昨日、一昨日と変わらず真夜中の街に足を運んでみたものの、柏木には会わなかった。
 僕が約束を果たすまで、彼女は夜の外出を控えるつもりなのか、それとも僕とは別の場所をさまよい歩くつもりなのだろうか?
 登校時間ぎりぎりに校門を通り、重たい足をため息交じりに動かして二階にある二年の教室に向かう。
 中に入ると一瞬、空気がざわつくのがわかった。
 自分に向けられたいくつもの視線を感じる。
 ちらほらと僕の名前を小声で話す者がいた。全部聞こえている。
 椅子を引く音。大袈裟な笑い声。幾人もの視線。人の気配に次ぐ気配。
 目眩がしそうになる。
 ふらふらと足が宙に浮いているような感覚で、教室の後方にある自分の席に崩れ落ちるように腰を下ろした。
 そのまま顔を上げずに、机の一点を見つめて呼吸を整える。
 ……やはり、相変わらずこの空間は苦痛だった。他人の気配が多すぎる。誰かに話しかけられているわけでもないのに、体が強張り緊張状態を保ってしまう。
 早々に立ち上がって、やっぱり保健室に逃げ込んでしまおうかと考えた、そのとき、
「うさぎくん、来てくれたんだ」
 頭の上で声がした。
 見上げると、目の前に柏木が立っていた。
「おはよう!」
 と挨拶されたので、
「……おはよう」
 と反射的に挨拶を返す。声は消え入りそうなほど小さくなってしまった。
 そして案の定、いつもクラスの中心にいる人気者の女子が、突然はぐれ者の僕に声をかけたことで、周囲の気配がまた変に色めき立つ。
「……あのさ」
「なに? うさぎくん」
「集めてる、注目」
 遠回しに「離れてくれ」と伝えるも、柏木は「だから?」というふうにとぼけた顔をした。
 力が抜ける。
 僕の心の中の人物録に、柏木雅は思った以上に自分勝手、という記載が追加された。
 僕が少しばかりムッとしていると、柏木はいたずらっ子のようににんまりと笑みを作った。
「じゃあ、今日よろしくね!」
 周囲に誤解を生みかねない内容を、誤解を生むに違いないボリュームで言い放ち、柏木は僕から離れて行った。
 どうやら彼女は、僕がすでに消耗し切っていることに微塵も気づかないようだった。
 もはや、どうにでもなれ、といった心地だった。

          *
 
 日付けが変わり、僕はいつもの駅前にやってきていた。
 予想通り、そこには昨日までいなかったパジャマ姿の柏木が待ち構えていた。
「うさぎくん、お疲れ様!」
 夜分にそぐわない溌剌とした声で、そんな呑気な挨拶をしてくる。
「……本当に疲れたよ」
 僕は正直に心境を吐露した。
 柏木は「うふふ」と面白がるように微笑んでいる。
 僕は、本当に頑張った。
 自分では処理が追いつかないほど、他者から発せられる数多の刺激に耐え抜いて、今この場に立っていた。たったの半日とはいえ、僕は献身的に彼女が提示した依頼を遂行したのだった。もっと褒めてくれてもいいくらいだった。
 柏木はそんな僕の心情を察知したのか、
「えらい、えらい」
 と取り繕うように頭を撫でてくる。
 疲れ切っている僕は、なされるがままだった。
「……で、どうだった?」
「なにが?」
「学校でのあたし」
 柏木は待ちかねたように僕を急かす。
「……歩きながらでも」
 僕がそう言うと柏木は「了解っ!」と僕の隣に並ぶ。
 僕らはまた、夜の街を歩き始めた。
 数メートル進んだところで、柏木に尋ねる。
「ところで、話の前に確認なんだけど」
「なぁに?」
「君にはさ、今、通りすがる人たちがどう見えてる?」
「ふふっ」
 柏木は嬉しそうだった。
「やっぱり、うさぎくんも?」
「……ってことは、君もなんだね」
 僕らが進む夜には、新たな変化が起きていた。
 うっすらと、透き通って見えるのだ。僕らを除く、今街にいる人々が。
「最初、びっくりしちゃった。え? 幽霊? って」
「……うん、僕もそう思った」
「でも幽霊じゃないみたいだよ? ちゃんと触れたもん」
「……君は道ゆく人に断りもなしに触れてみたの?」
「だって断りようがないじゃん。声も届かないんだから」
「……………」
 間違っているがもっともな彼女の意見に、僕は閉口する。
 しかし、よくもまあ透き通った人間に触れようなんて思えるものだ。本当に幽霊だったらどうするつもりだったんだろう?
 彼女の勇気というか無鉄砲さに、感心というか呆れていると、半透明の二人組の酔っ払いが僕らのすぐそばを大声で笑いながら通り過ぎて行った。
「まだまだ症状が進んでるんだね、真夜中症候群」
 柏木が弾む声で言った。
「このままさ、あたし達以外、人がいなくなっちゃったらどうしよう?」
「……きっと、朝には元通りだよ」
 彼女の言う真夜中症候群の症状は、朝にはすっかり消失してしまう。まるで夢から覚めるように。
「もう、夢がないなぁ」
 と柏木。
「世界中から人間が消えてあたし達二人だけが残ったらどうしようとか思わない?」
「……なんでそんなに嬉しそうなの?」
 もしもを語る彼女は、とても上機嫌だった。
 うふふと笑い、
「本当にそうならないかなぁ」
 柏木は夢見るように語った。
 学校での柏木を思い出す。
 柏木雅は、やはりクラスの中心的存在だった。女子も男子も、時間が空けばこぞって競うように彼女の近くに集まる。
 柏木はいつも笑顔だった。
 柏木はいつも明るく、向かい合う誰もに愛想よく応対していた。
 そんな柏木は、ふとしたときに、誰よりも寂しそうな表情を見せた。
「みんな、柏木のことが好きなんだね」
 歩道橋に差しかかる。僕は、階段を上がりながら柏木に語りかけた。
「柏木の周りには人が集まる。みんなに好かれてる証拠だよ」
「……うさぎくん? 本当にそう思ったの?」
 柏木は、口調に少しだけ不快感を込めたふうだった。
 歩道橋に登り終えたところで、僕は言う。
「けど、君は時折すごくやるせない顔になるときがある。なんでだろうね?」
 それを聞いて、先を歩いていた柏木が立ち止まった。
 僕もつられて立ち止まる。
 歩道橋の上に広がる夜空には、形が欠け始めた月が浮かんでいた。
「……うさぎくんは、あたしのどんなところが人に好かれてると思う?」
 振り向いて、質問してくる柏木。
「性格じゃない? 君は裏表がなくとても素直だ」
 その答えを聞くと、柏木は月明かりの下で悲しそうに笑って、ため息をついた。
「……うさぎくん」
「うん?」
「案外、見る目ないね」
 柏木は力なく言い放った。
 僕も一つため息をつく。
 学校での柏木雅を観察することで、僕は自分の重大な過ちに気がついた。柏木は、素直なんかじゃない。こじれてる。天真爛漫に見えてものすごく繊細だ。
 僕は心を決める。
「柏木」
「……なに?」
 一呼吸置いて、

「一人になるのが、怖い?」

 放った言葉に、柏木はかすかに震えたような気がした。
「……うさぎくん」
「なに?」
「前言撤回。うさぎくんやっぱり、人を見る目があるよ」
「……それはどうも」
 柏木はじっと僕の顔を見ると、黙って前に向き直り、歩みを再開させた。
 僕はそのまま、柏木の数歩後ろを歩く。
 学校での柏木は、ひと時たりとも独りになりたくないというように、必死で周囲の人間と関わりを持とうとしていた。少なくとも、僕にはそう見えた。
「あたしね」
 柏木は、こちらを顧みずに言葉を紡ぐ。
「小さな頃から、ママに人に好かれる人間になりなさいって、言われ続けてきたんだ」
 僕は口を挟まず、彼女の独白に耳を傾ける。
「……たくさんの人に好かれれば、いつでも誰かがそばにいる。寂しくないよ、って」
 歩道橋を、下り始める。
 形の欠けた月が、無愛想に僕たちの様子を眺めていた。
「あたし、昔は人見知りの寂しがり屋でね。小学校に入学したての頃は、一人で通うこともできなかった。いつもママに付き添われてた」
「……………」
「でも、ママがね、そう言ったの。人に好かれて、たくさん友達を作りなさいって。だから誰にでも親切に仲良くできるように頑張ったんだ。頑張り続けた……今も」
 そう言うと柏木は、黙って足だけを前に進めた。
 あとを追う僕も、言葉は返さなかった。
 歩道橋を渡り終えると、見慣れたオフィス街を進んで行く。
 半透明の人影も見当たらない。
 僕らはまた、真夜中の果てにたどり着いた。
「うさぎくん」
 突然、柏木が言った。
「不思議なんだよ。一人が怖くて、みんなと仲良くなろうと思ってたのに、周りに誰かがいても、無性に寂しくなるときがあるんだよ」
 ねえ、うさぎくん、と柏木は立ち止まり、こちらを顧みずにもう一度僕を呼ぶ。
「君は平気なの? 独りぼっちで、寂しくないの?」

 ねえ、うさぎくん。
 
 その呼びかけは、僕の体の奥の深いところまで反響する。
 僕は、柏木の隣に並ぶ。
 柏木は俯きがちで僕を見ない。
 柏木は、誰からも好かれる自分を必死に創り上げてきた。
 数多の個性が入り乱れる人間社会において、誰からも好かれる、なんてことは一部の天才しかなし得ない至難の業だ。
 凡人で不器用な柏木は、自分の個性を殺し、数えきれないほどの建前を張り巡らせ、常に周りに人を集めることに専念した。
 独りになるのが、怖いから。
 けれどその行為は、自分という存在を限りなく摩耗させる。人々に囲まれることにより得られる満足感に反して、本当の自分を押し殺すことで虚しさと寂しさは次第に募っていく。
 僕は、様々な刺激から逃れるために、他者の群れから距離を置いた。
 正直に言うと、人付き合いそのものがあまり得意ではない。
 相手がなにを考え、自分になにを望んでいるのかを推しはかることは、精神を疲弊させる。対象が増えれば増えるほど、疲労感は雪だるま式に増えていく。
 だから、僕は独りでいることを選んだ。
 柏木と僕は、本当に正反対に位置する存在なのだろう。
「平気だから、今こうしているんだよ」
 僕はそう言った。
「柏木はどうしたいの? 君が本当に望んでいるものはなに?」
「わからないよ……」
 消え入りそうな声で柏木は言った。
「わからない……」
 と、もう一度、弱々しく。
 隣に立つ柏木は、込み上げるなにかにじっと耐えているようだった。
 いつも元気で溌剌としている柏木が、僕の目にはやけに小さく心細そうに映った。
「柏木……」
 気の利いた言葉なんて、なにも思いつかなかった。
 それでも、話しかけることができたのは、今が真夜中だったお陰だろう。
「君は明るくて、誰に対しても友好的で素直な性格の女の子……だと、思ってた」
 柏木の肩が、かすかに揺れる。
「でも」
 そんなこと構わずに、僕は続けた。
「真夜中に会う君は、少し図々しくて自分勝手でウジウジしてて……正直すっごく、すっごく、すっごく、めんどくさいやつだと思う」
 柏木が顔を上げてこちらを見る。
 目が、合う。
「……そこまで言う?」
「でも嫌いじゃないよ」
 こんなことを言えるのは、本当に今が真夜中であるせいだ。
 柏木が目を見開く。
 数秒、時間が止まる。
 やがて、柏木は、

「あははははは!」

 弾けたように笑い始めた。
「あははは! おっかしいー! うさぎくん、なにそれ?」
 柏木はまだ笑う。
 仕舞いにはお腹に手を当てて苦しそうに声を漏らしていた。
「ふふっ、あーほんとにもう! なにを言うかと思ったら……」
 おかしー、と柏木は、ようやく落ち着きを取り戻し始めたようだった。
「……うさぎくん」
「なに?」
「君っておもしろいね。普通、親身になってなぐさめない? あんな言い方する?」
「……これでも、僕は親身になって君に向き合ったつもりだよ」
 僕はぶっきらぼうに言った。
 あれが飾ることのない本心なのだから仕方がない。
 
 ばんっ!

 と柏木は、突然僕の背中を叩いた。
「痛っ!」
「やっぱり、君はすごいよ」
 ヒリヒリする背中をさすりながら、僕は隣の柏木を見る。
 街明かりと月明かりに照らされたその顔は、びっくりするぐらいに綺麗だった。

          *

 それから僕と柏木は、毎日一緒に真夜中の街を歩いた。
 目的地なんて決めずに、意味なんか求めずに。
 いろんな話をした。
 柏木はアメリカに渡ることが夢だった。
「グランドキャニオンとか、イエローストーンとかさ。壮大な場所に行ってみたいんだよね。自分の存在が嫌っていうくらいちっぽけになる場所に」
「場所は壮大かもしれないけど現実的な目標だね。パスポートを準備してお金さえ貯めれば叶えられるよ、きっと」
 柏木は僕にも夢を訊いてきた。
 取り立てて大きな夢がなかった僕は、目下の希望を口にした。
「……静かな場所に行きたい。できれば人間がいない場所がいい。そこでひっそりと暮らしていきたい」
「山奥で自給自足の生活?」
「どちらかというと海の近くがいいし、僕に今のところそんなサバイバル能力はないよ」
「どこかにありそうな場所だけど現実的ではないね。なんだかんだで、うさぎくんは人里を離れることはできそうにないなぁ」
「ごもっとも」
 取り止めもない話もたくさんした。
 柏木はイギリスの有名なヘビメタバンドの大ファンだった。
 騒がし過ぎて僕には聴けそうにないな、と言うと、彼女はつまらなそうに舌を鳴らした。
 柏木は、サッカーやバレーボールなどのチームスポーツが好きだった。けれど、大学進学を見据えて、部活には入っていないらしい。
「なにか就きたい仕事があるの?」
 尋ねると、柏木は苦笑した。
「わかんなくなっちゃった。前は大勢の人と関われる仕事を探してたんだけど、この夜の世界に迷い込んで、うさぎくんと出逢ったら、本当に自分がなりたいものがなんなのか、今はさっぱりわからないよ」
「……僕のせいにしないで欲しいな」
「へへっ、それは無理だよ」
 そんなやり取りを交わす日々が続いていた。
 やがて十月になり、季節は秋に移り変わっていた。
 相変わらず僕は高校には登校せず、自分の部屋と柏木と歩く夜の街を行ったり来たりする生活を送っていた。
 そんなある夜、柏木は別れ際に意味深に僕の顔を眺めてきた。
「……どうしたのさ?」
「いやあ、うさぎくんとの付き合いも、もうすぐ一ヶ月になるなぁ、って思って」
「そうだね……」
 一ヶ月で、街に吹く風はだいぶ秋の涼しさをまとうようになってきた。
 柏木が着るパジャマも、シルクから綿に生地が変わっていた。今日はさらに、その上に薄手のカーディガンを羽織っている。
 僕らは無言で集合と別れの場である駅前に立ち尽くした。
 最近は言葉を交わさずに、ただただ沈黙を共有するだけの時間が増えている気がする。
 けれどその沈黙は、決して気まずいものではない。
 人と目を合わせることは苦手なはずなのに、なぜだか柏木の瞳だけは、まっすぐに見つめ返すことができるようになっていた。
 彼女は愉快そうに、なにか迷いから吹っ切れたような表情をしていた。
「うさぎくん」
 と、柏木に呼ばれる。
「あたしは、君みたいになりたいな」
「……えっ?」
 その意外な宣言に、世界がわずかに揺れた気がした。
「それはどういうこと?」
「そのうちわかるよ」
 柏木はそう言って、片手を開いて胸の高さまで上げる。
「じゃあね」
 バイバイ、と柏木は告げた。
 翌日の深夜、柏木はいつもの駅前に現れなかった。
 次の日も、その次の日も現れなかった。

 柏木雅は、僕の前から姿を消した。

          *

 柏木が姿を消して十日が過ぎる頃。
 僕は血迷った行動に出てしまった。なんと三日も続けて休まずに高校に登校し続けたのだ。しかも、放課後まで毎日教室に残るという暴挙にも出た。
 柏木のいない教室は、繁華街で一番賑やかな飲食店を失ったかのように、どこかひっそりとしていた。
「ねぇ、やっぱり雅から返事ないの?」
 休み時間、机に突っ伏して周囲のざわめきに耐えていると、そんな女子の会話が耳に届いた。
「……既読にもならない。千尋も?」
「うん、ほんとにどうしちゃったのかな?」
 どうやら、柏木はスマホで周囲と連絡を取ることすら絶っているようだった。
 彼女が欠席している理由を、知っている者は誰一人いない。
 もう十日以上も学校にきていないようだった。
 おそらく当初は、今よりも強い衝撃に、クラスの面々は打ち据えられていたに違いない。
 徐々にその衝撃は薄まってきているのもしれないが、未だに動揺しているクラスメイトは多数いるようだった。
 かくいう僕も、その一人、なのだろう。
 登校を続けて四日目の昼休み、僕は人の気配から逃れ、校舎裏の非常階段に避難していた。階段の登り口に腰かけて、じっと地面に目を向ける。
 不思議だった。
 あれだけ独りを好んでいた自分が、夜の同行者を失ったくらいで、なぜストレスの嵐に身を投じるような真似をしてしまうのだろう?
 それほどまでに、僕にとって柏木雅の存在は大きくなってしまったのだろうか?
 真夜中の街から消えた柏木。
 ひょっとしたら、日中の学校には姿を現すのではないかと、そんなわずかな可能性にまで縋ってしまう自分が、滑稽で仕方がなかった。
 柏木は今、どうしているんだろう?
 学校に通い始めて当たり前のことに気づく。
 深夜まで出歩いたのちに、朝になれば高校に向かうーー。
 肉体的にも精神的にも疲労が蓄積する厳しい状況だった。
 ひょっとすると、柏木は体調を崩して長らく家で休むことを余儀なくされているのかもしれない。
 あるいは、
「……………」
 不意に、僕たちを夜に誘った怪物が、柏木を頭から丸ごと飲み込んでしまう、そんな幼稚なイメージが脳裏によぎる。
 なら、僕もいずれ、真夜中の妖怪だか怪物だかに頭からごくりと飲み込まれてしまうのではないだろうか?
 その先で、再び柏木と出逢うことができるのだろうか?
 そんなまとまりのない妄想に脳内が支配されていると、突然目の前に一人の男子が現れた。
「……ここにいたのか」
 その男子の名前を、僕は知らない。ただ、柏木と話していたことがあったな、とぼんやりとそれだけを考えた。
「宇佐美、ちょっと訊きたいんだけど」
 無造作に彼は言った。
「お前、雅になにかした?」
「……はっ?」
 あまりに素っ頓狂な問いかけに、僕は二の句を告げることができなかった。
 彼はどこか不機嫌にも見える。
「いや、すまねえ。ただあいつが休み始めたと思ったら、今まで学校にこなかったお前が来てるんだもん。これってたまたま?」
「……………」
 名も知らぬ彼は、なかなかに鋭い推理を披露した。
 確かにタイミング的に関連性を見出す者もいるかもしれない。
 おそらく、彼は少なからず柏木に好意を持っているのだろう。そして、クラスのはぐれ者の僕に、クラスの中心に位置する彼女が話しかける場面も見ていたに違いない。なぜかそんな気がした。
「……………」
「黙ってないでなにか答えろよ。お前があいつになにかしたんじゃねーか? だからあいつ、怖くて学校にこれねーんじゃねーか? 俺以外にも同じ考えのやついるんだけど」
「……なにかって」
 心に冷たい亀裂が走る。
 一体、彼はなんて言いがかりをつける気だろう?
 僕は訊いた。
「……僕が柏木になにをしたって?」
「ストーカー、とか」
「……………」
 本当に、滑稽だった。
 馬鹿みたいだ。
 僕も、彼らも、彼女らも。
 柏木ひとりいなくなったくらいで、どこまでも理性を失ってしまう。
 正常な判断ができなくなる。

「勝手に決めつけないでよ」
 
 自分でもびっくりするぐらい冷めた声が出た。
 一瞬、目の前の彼が怯んだような気がした。
「いや、悪かったよ。言い過ぎた……」
「違う、そうじゃない」
 そんなんじゃない。僕は僕自身をストーカーと決めつけられたことに苛立っているわけではなかった。
「……柏木のこと、君たちが勝手に決めつけないでくれって、言ってるんだよ。柏木が学校を休んじゃおかしいの? 柏木が誰とも連絡を取らないのがおかしいの?」
「はぁ?」
 目の前の彼に、殺気が宿る。
 それでも、僕は構わずに続けた。
「……君が、柏木のなにを知って、どう理解してるっていうの? 彼女が僕に嫌がらせを受けて休んでる? 頭の中で都合のいい解釈を作ることができれば、安心するし楽だよね? 君たちはそうやってなにもかも勝手に決めつけてればいいよ」
 言葉は不思議と、津波のように次から次に押し寄せてくる。
「柏木の顔、ちゃんと見たことがある? 君たちと一緒にいるとき、彼女がなにを考えていたのか、心の底から理解しようとしたことはある? まずはそこからなんじゃない? 僕は、今必死になって彼女のことを考えてる」
「……なんだよそれ」
 次の瞬間、僕の体は地面に吹っ飛んだ。
 左頬に今まで感じたことのない強い衝撃を感じた。
 鈍く重い痛みが込み上げてくる。
 誰かに殴られたのは、生まれて初めてのことだった。
 地面に寝転がって「痛たたっ……」とうめいていると、倒れた体より高い場所から声がした。

「気持ち悪いんだよ、引きこもり」

 足音がして、人の気配が去っていく。
 僕は彼を挑発してしまったのだろうか?
 柏木がいなくなったことで、八つ当たりをしてしまったのは僕も同じなのかもしれない。
「……これは、その報いか……」
 そう呟いて体を起こそうとすると、
「うわ、どうしたのよ!」
 また誰かの声がした。
 顔を上げると、そこには保健室の養護教諭の姿があった。

          *

「痛ててっ……」
「我慢しなさい、唇切れてるんだから」
 先生はそう言って、アルコールに浸した綿球をピンセットで持って、僕の口元を消毒する。
「腫れは多分徐々に引いてくると思うけど……」
 立ち上がった先生は、続いて保健室内にある小さな冷蔵庫の前に向かう。そこから手のひらサイズの保冷剤を取り出すと、タオルで巻いて僕に渡してくれた。
「冷やすのが一番かな。それにしても、君は本当に変わった子だね」
 先生は立ったまま、近くの水道に向かう。その脇にはコーヒーメーカーが置かれていた。
 程なくすると、目の前のテーブルにカップに淹れられたコーヒーが並んだ。
「……どうも」
 礼を言って、一口啜る。
 コーヒーは、やっぱりとても苦かった。
 もらった保冷剤を患部に当てると、痛みと熱が徐々にどこかに分散していくように感じた。
 先生はテーブルを挟んで僕の対面に座る。
「たまたまわたしが通りかかってよかったでしょ? で、まだ真夜中のあれは続いてる?」
 はい、と僕は答える。
 そっか、と先生。
「でも、君はいろいろと変わったみたいだね」
「えっ……」
 言われて、自分でも驚く。
 僕が変わった?
 それは、どういう……。
「明確には言えないけど、今の君はなにかに迷ってる。前のどこか達観して冷めてる君とはえらい違いだよ。先生、少し安心した」
「……安心、ですか?」
「そう、安心」
 頷くと、先生は一口コーヒーを飲む。
「君の年齢で、あそこまでなにかを諦めてる感じは珍しいからね」
「……………」
 僕は、なにを諦めていたのだろう。
 仮に諦めていたとして、それはそんなに悪いことなのだろうか?
 僕にはわからなかった。
 先生は、なにかを察したように笑う。
「君の生き方は間違ってないと思うよ。自分には自分のあった場所がある。それでも、自分にとって不都合な場所とも完全に距離を置くのは難しい。結局、折り合いをつけながら生きていかなきゃいけないんだよね。だから、迷うのは間違いじゃない」
「……とても、抽象的な物言いですね」
「わかりにくい?」
「いえ、なんとなくわかります」
 僕は、柏木を探して、自分にとって苦痛とも思える場所に再び足を踏み入れた。穏やかな真夜中の空間を抜け出して。
 生きるということは、そんな安らぎと苦痛とを螺旋のように繰り返すことだと思う。
 自分のために、あるいは誰かのために。
 そんな日々を送ることに、他ならないのかもしれない。
 それは多分、柏木にとってもそうなんだろう。
 僕は頬に当てていた保冷剤をどかし、コーヒーをもう一口飲む。
 痛みと苦味が、血の味に混ざって、喉を通り過ぎて行くのを感じた。

          *

 その夜、僕はいつも通り駅前にやって来ていた。
 そこに、柏木の姿はない。
 涼やかな風が、顔のすぐ横を通り過ぎた。
 街で見る人影は、半透明を通り越して、かろうじて人の輪郭がわかるほどに透明度を増していた。
 ひょっとすると、柏木も、いつの間にか透明な存在になって僕の前から姿を消したのかもしれない。
 夜は、再び僕を独りにした。
 孤独は言いようのない心地よさを運んでくるはずなのに、今は以前とは違った感情が胸の奥に去来する。
 寂しかった。
 初めて独りが寂しいと思えた。
 僕は愕然とする。
 自分はこうまで変わってしまったのかと。
 あれほど周りから人を遠ざけていたはずなのに、今の僕は以前とは違う。
 会いたかった。
 どうしようもなく、会いたかった。
 一人の、女の子に。
「……………」
 僕は願う。
 もう一度会いたい、と。
 彼女に。
 柏木、雅にーー。
 
 と、

「うさぎくん」

 それは突然聞こえた。
 幻聴かと思った。
 聞き慣れた、鈴が鳴るように軽やかな声。

「……柏木」

 振り返ると、そこに柏木雅はいた。
「久しぶり」
 半透明にもなっていなかった。
 見慣れたパジャマにカーディガンを羽織った格好。
 柏木は笑っていた。
 月明かりと街灯に照らされて、変わらない笑顔が、そこにあった。
「……………」
「……………」
「……どうしたの?」
「それはこっちのセリフだよ」
 柏木は、呆れるくらいきょとんとした顔になる。
「今まで」
 僕は、噛み締めるように言った。
「今までどうしてたんだよ?」
 すると柏木は、困ったように頭を掻いた。
「ちょっとね、君の真似をしてみたんだよ」
「えっ?」
「学校休んで、ひきこもってみた」
「……………」
 僕は、開いた口が塞がらなかった。
 そう言えば、彼女は言っていた。

『あたしは、君みたいになりたいな』

 ……まったく、恐れ入る。あれは言葉通りの意味だったのだ。
 柏木はまだまだ微笑むのを止めない。
「でも、それは今日で一旦おしまい」
「……どうして?」
 僕は尋ねた。
 柏木は、当然のように答える。
「君に、会いたくなったから」
「……………」
 まったく、本当に恐れ入る。たちまちに心が満たされていくのを感じた。
 柏木は、右手にエコバッグをぶら下げていた。
 そのエコバッグをひょいと僕の目の前に持ち上げると、
「……じゃあ行こ、ラーメン食べに!」
「ラーメン?」
「うさぎくんと食べようと思って用意したの、カップだけど」
「その袋の中身?」
「うん、水筒にお湯も用意してるよ!」
 弾む声で柏木は言った。
「……深夜にラーメンか」
 独り言のように僕は呟く。
「あれ? ひょっとしてカロリー気にしてる?」
「まさか」
 僕は即座に否定する
 そして一言付け足した。
「最高だよ」
 僕らは歩き始めた。
 柏木は隣並ぶと、待ちかねた様子である疑問をぶつけてくる。
「で、その顔の怪我はどうしたの?」
 僕は笑った。
「君のことを大切に思ってる男の子からのプレゼントだよ」
「……へー、じゃあそれ、あたしはいらないからうさぎくんがそのままもらっといてよ」
「……もう食らってるよ」
 ふふふっ、と柏木。
「うさぎくんはやり返したりしたの?」
「当たり前。三倍にして返したよ」
「わー、おっとこらしい」
「大丈夫かな? 彼、今頃病院のベッドの上でうなされてなきゃいいけど」
「きゃ、ワイルドな上に優しさも兼ね備えてるんだね」
 柏木はそう言うと、手にしていたエコバッグを僕の尻にぶつけてきた。
「痛っ」
「嘘、下手だね」
「なにが?」
「ごめんね」
 もう一度、エコバッグが僕の足に軽くぶつかる。
「今度は、あたしがそいつをギッタギタにしてやるから」
「なにそのジャイアニズム」
 僕たちはまたケラケラと笑い合った。
「充分だよ」
 僕が言うと、柏木は一度だけ深く頷いた。
 そのまま黙って、小一時間歩き続けると、僕らの通う学校に着いた。
 以前きたときと同様に、順番に校門にある背丈ほどの高さの鉄扉を乗り越える。今回もあまり綺麗に着地できなった。
 グラウンドの真ん中を歩きながら柏木に尋ねる。
「……で、どこで食べるつもり?」
 すると柏木は、不敵に笑った。
「一度やってみたかったことがあるんだよね」
 そう言って、ズンズン先を進む彼女について行く。
 柏木は、校舎一階の一年の教室の前に来ると、エコバッグの中から、あるものを取り出した。
 金槌だった。
「えっ?」
 なにそれ? と言う間もなく、柏木は窓の施錠部付近に金槌をぶつける。窓の一部分は呆気なく音を立てて割れ、柏木は割れた窓の隙間から手早く施錠を解いた。
「……よし」
「いやいやいやいや……」
 目の前で繰り広げられた犯罪行為に僕はそれ以上の言葉を失ってしまう。
「大丈夫」
 と、柏木は言いながら窓を開けた。
「弁償代金は用意してるから」
 そういうと、柏木はパジャマのポケットから一万円札を取り出して見せた。
「こんなことをするのは、後にも先にもこの一回だけだよ」
 そう言うと「よいしょ」と声を上げて窓を乗り越え教室内に侵入する。
 ここで中に入ったら完全に共犯だと思いつつ、今さら逃げ出すわけにもいかないので僕も彼女の後に続いた。
 一万円札は凶器となった金槌を重しにして教壇の上に置いておいた。加えて、柏木は黒板に『ごめんなさい、のっぴきならない事情がありました。これで弁償します。犯人より』とチョークで犯行声明兼謝罪文を掲載した。
 明日の朝、きっと校内は大騒ぎになることだろう。騒がしいことを好まない僕は、それを理由に明日の登校を諦めることにする。
 柏木は教室を出ると、少しも臆することなく廊下を進んで行く。
 夜の学校は不気味なほど静まり返っていた。
 二種類の足音だけが廊下を反響する。
 非常灯とスマホのライトを頼りに、僕らは階段を昇り、目的の場所に辿り着いた。
 そこは、屋上だった。

「うーん!」

 柏木がエコバッグを持ったまま両手を上げ、大きく伸びをする。
 空には満月を中心に、無数の星々が散らばっていた。
 地上には街明かりが疼いている。
 外界は淡い光で満ちていた。
 涼やかな夜風に、秋の匂いがした。
「あそこにしよう」
 柏木はそう言って、給水塔の壁の前に移動する。
 よいしょ、と声を漏らして、その壁を背もたれがわりにして腰を下ろした。
「問題です、なにラーメンを用意したでしょう?」
「味噌でしょ?」
「正解」
 エコバッグの中から、北海道の地名を掲げた国民的人気商品のカップ麺と一リットルサイズの魔法瓶の水筒が取り出された。
「あと、バターも七味もあるよ」
「徹底してるね」
「ふふん、どうせ食べるならおいしく食べなきゃ損ってもんでしょ?」
 僕らは各々、カップ麺の蓋を剥がす。中身の乾燥麺にフリーズドライのかやくを載せ、粉末スープをまぶし、キャラメルサイズのバターを包みから取ってさらにその上に置いた。
「よっ、と」
 柏木が、水筒に入ったお湯を、そこに注いでいく。
 立ち昇る湯気が、夜に溶けていった。
 閉じた蓋の上に割り箸を置いて出来上がりを待つ。
「スープも残さず飲んでね。ゴミはこのビニール袋に」
「なにからなにまで用意がいいね」
「でしょ?」
「それで」
「うん?」
「僕の真似をしてみてどうだった?」
 ラーメンの出来上がりまで時間がある。率直に話したい話題を振ってみた。
 柏木はまた微笑する。
「楽ちん半分、罪悪感半分ってとこかな」
「罪悪感?」
「親とか、学校の友達にね。ほら、心配してくれるから」
「でも、スマホに連絡きても返したりしなかったんでしょ?」
「うん。今回は徹底的に引きこもるって決めたから。明日学校に行ったら死ぬほど謝るよ。それで嫌われちゃったらまあ、しょうがないかな」
「……随分すっきり割り切ってるんだね」
「うさぎくんの受け売りのつもりなんだけど? 君だったらどうする?」
「僕にはそもそも友達がいない」
「あ、そっか」
「……そっかって」
「だってうさぎくん、教室にいても本当に誰ともしゃべらないんだもん」
「根暗だからね」
「そう? あたしは話してて楽しいよ、とっても」
 柏木はそう言うとスマホの画面見る。
「あっ、三分経ったよ」
 割り箸を割って、カップ麺の蓋を剥がす。溶けたバターのいい匂いがした。
「親御さんは?」
「うん? 親にはちゃんと言ったよ」
「なんて?」
「今のあたしの気持ちを尊重してって」
「そしたら?」
「わかってくれた。ママは言ってた。雅でも独りになりたいときがあるよね、って。なんか、肩の力が抜けちゃった」
 柏木はエコバッグから小瓶を取って僕に見せる。
「かける? 七味」
「もちろん」
 食べる準備は整った。僕らは二人して手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます!」
 箸ですくった湯気を立ち昇らせる麺に二、三度息を吹きかけてから、一気にすする。
「うっま!」
 と柏木が感嘆の声を上げた。
 僕は無言で同意する。
 十月の少し肌寒い夜に学校の屋上で食べる味噌ラーメンは、正直死ぬほどうまかった。
 僕らは食べるのに夢中になって、しばらく言葉を交わさなかった。
 半分ほど食べ終えたところで、スープをすする。
 味噌とバターの濃厚な味わいに余韻を残しながら息を吐く。
 月が綺麗だと思った。
 この夜が愛おしく思えた。
 それがすべてだった。
「あたしね」
 と柏木が言った。
「真夜中に、君と出逢えてよかった。独りでいることを怖がらなくなった。独りでもいいんだって、誰もいない場所で思いっきり、息を吸い込むことができるようになった。ほんのひと時でもしがらみから解放されて、すっごく救われた気がしたんだよ?」
「僕は……」
 と、今度は僕が応える番だった。
「真夜中に、君と出逢えてよかったよ。誰かと一緒にいることが少しだけ怖くなくなった。自分以外の誰かのために、困難な場所にも足を運ぶことができた。苦痛にも耐えることができた。今も独りでいることのほうが好きだけど、こんなふうに君と過ごすのも悪くない」
 うさぎくんは、と柏木。
「他の人よりも少しだけあたしのことを理解してくれてるね」
 君は、と僕。
「他の誰かより、ちょっとだけ僕を理解してくれようとしてるね」
 それで充分だった。
 柏木は学校に戻る。
 僕はまた集団を避けて静かに日々を送ろうとする。
 けれど、僕らは知っている。
 それが世界のすべてではないのだと。
 日々のほんの少しの時間でいい。こうやって静かに世界の煩わしさから解放される、あるいは、誰かといる温かさを感じることができる時間があれば、それだけで僕らはまた、前向きに明日を生きていける。
 ラーメンを食べ終えたあとも、しばらく僕らはそうやって真夜中の果てにいた。
 ここに迷い込んだのは、二つの形の違う孤独が、たまたま夜の神様の目にとまることになったから。
 少なくとも、僕はそう思うことにした。

          *

「よっ、と」
 再び校門乗り越える頃には、うっすらと東の空が茜と群青に染まり始めていた。
 部屋着姿とパジャマ姿の二人にかけられた魔法も、もうすぐ解ける時間がやってくる。
「じゃあね、うさぎくん」
 柏木が言った。
「ここからは独りでのんびり帰ることにするよ」
「奇遇だね、僕もそう思ってた」
 そう返すと、柏木が笑った。
「でもまた、真夜中に逢おうね。時々学校とかでもね」
「うん、それも思ってた」
 僕らは顔を見合わせて笑うと、お互い背を向けて別々の方向に歩き始めた。
 これからどう生きるかは、ゆっくりと自分らしく考えればいい。
 独りで過ごす安らぎも、誰かと過ごす温もりも、僕らはその両方を知っている。
 光と闇が混じり始めた空は、どこまでも優しく綺麗だった。
 もうすぐ、夜が明ける。