「今日、織江と遊ぶ日って言ってなかったか?」
長いあいだ、何にも焦点を合わせずに、絶え間なく変わっていく景色をぼんやりと眺めたままでいたら、聞き馴染みのある低音がすぐ後ろで聞こえた。
それで、わたしは、目に映るものの輪郭のひとつひとつを取り戻す。
振り返るのも億劫で、のけぞるようにして後ろを確認すると、長い金髪に、上品な丸襟の白いブラウスを着た可愛いひとが、むすっとした表情でわたしを見下ろしていた。耳のところで、花の形をした金色のイヤリングが光っている。
「……天国」
「急に呼び出して、何だよ」
わたしに何が起ころうと、わたしがどんな気持ちであろうと、天国は天国で、あまりにも天使なのだった。
そのことに、自分でもわけがわからないけれど、安心してしまい、わたしの都合ひとつでは変わらない天国が悔しくもあり、のけぞったまま、「何って。わたし、今から泣いてやるの」と、大きな声で答える。
天国のむすっとした表情は、視界がぼやける間際で、ぎょっとしたような間抜けなものに変わった。
引いて驚くのも、無理はない。土曜の昼過ぎに突然呼び出されたかと思えば、呼び出した相手に会った瞬間、大泣きされるのだ。彼は、不憫な天使さまなのだ。
かまわず、わたしはあふれ出る涙をそのままにする。
のけぞったまま泣いたことなんてはじめてだ。
失恋は、今回がはじめてではない。でも、おりちゃんへの恋はひとつしかないから、はじめてとも、にどめとも、比べものにはならなくて、あたらしく痛い。
「なんなんだよ、お前」
可愛いものを堂々と身にまとう天国なのに、賑わいのなかで泣くひとには抵抗があるのか、きょろきょろと周りを見渡している。
眉間にしわを寄せて頭をかいた天国が涙の層の向こうで、「……とりあえずここから移動しないか」と、困惑の滲む声音でわたしに言った。
うん、と、泣きながらなんとか返事をしたら、天国が前にまわりこんできて、わたしの腕にやさしく触れた。
「何が何だか分からないし、泣きやんでくれとは言わないけど、号泣している天使はそういない」
腕を掴まれて立たされる。
引っ張られるような状態で、天国の後ろをとぼとぼとついていった。
おりちゃんに触れられた部分を覆うように、天国の指が触れている。発熱は、いつの間にか、終わっていた。それを確認したら、また涙があふれてきた。
彼の金髪が美しく揺れるのを、間近でとらえる。泣いているからか、煌めくシャンデリアのように綺麗に見えた。
歩いている途中で、自分がどうして泣いているのか厳密には分からなくなってしまい、ほとんど惰性で泣き続けていたら、いつの間にか涙は止まっていた。
閑静な住宅街にはいり、少し歩いたところにある平凡な一軒家の前で、天国は足を止めて、わたしの腕を解放した。
何も言わずに天国が玄関へ向かうので、それに続く。天国が扉を開いて、「ただいま」と言ってようやく、そこが彼の家なのだと理解した。
天国の声のあと、玄関に近い扉の向こうから、おかえりい、と間延びした声がいくつか聞こえた。
天国は、履いていたフリルのついたメタリックシューズを、大きさも種類も違う何足かの靴の隣に丁寧に並べて、わたしを玄関に取り残したまま、声がした扉の向こうに消えていった。
天国と知らないひとの話し声が扉越しに届く。
天国が可愛い恰好をすることを、天国の家族は知っているのだと分かった。彼は、躊躇いなく自分の履いていた可愛い靴を玄関に並べることができるし、可愛い恰好のまま家族とお喋りができる。きっと、天国は天国のままで受け入れられている。
わたしの恋は、わたし以外のだれも、知らないのに。
一度は止まったはずの涙が、また溢れてくる。
世界にひとりきりだ、ということのむなしさが、急にこころに迫ってきて、太刀打ちできないと感じていたら、天国が戻ってきた。
「何してんの、四季。入れよ。親いるけど、気にしなくていいから」
「……おじゃま、します」
それでも、わたしは、ひとりきりだった。
泣きながら靴を脱いで、隅に寄せて並べる。天国の後ろにつづいて階段をのぼり、狭い廊下の突き当りの部屋に入った。
六畳ほどの空間に、シンプルな勉強机と本棚と、あとは藍色を基調としたシングルベッドが部屋の四隅の三角にそれぞれ配置されている。
それだけだったら可愛げのない無個性な部屋だっただろうけど、残り四分の一のスペースには、アクセサリやウィッグが置かれたドレッサーと、お洋服が所狭しに並べられたハンガーラックと全身鏡が置いてあり、その一角だけ、可愛さが凄かった。
孤独感と、それから知らぬ間に生まれた不貞腐れたような気持ちに苛まれたまま、許可をとることなく、ベッドに近づいて、ぽすんと飛び乗るようにしてシーツに顔を埋める。
「泣いていたら、何でもありなのかよ」
「……う、ん」
「うん、じゃないだろ。……まあ、別にいいけど」
天国は呆れているようだったけれど、それ以上は何も言わなかった。
部屋はしばらくのあいだ、沈黙につつまれる。
わたしはまた途中でどうして泣いているのか分からなくなり、今度は溢れる涙をすぐにシーツが吸い取ってしまうので、惰性で泣き続けることも難しく、それでも顔を伏せたまま、じっとしていた。
天国のため息がすぐそばで聞こえる。それは諦めに近い音だったけれど、どことなく優しさを孕んでいるような気がした。ごめんね、と、ここまでの愚行をシーツに顔を押し付けたまま詫びる。いいよ、と、天国は少し笑った声で、ゆるしてくれた。
後頭部に人の肌のぬくもりを感じる。ぽん、ぽん、とあやすように撫でられて、それが彼の手のひらの温度だと分かった。いやらしさの欠片も感じられない撫で方だったけれど、大いにぎこちなく、天国は、きっと今まで人の頭なんて撫でたことがないのだろうと思った。
そして、わたしは、なぜか乱雑に思い出す。
天国と駅の構内で隣に並んでジェラートを食べたこと、カラオケボックスの密室で人差し指を唇にあてたときのおりちゃんの照れたような表情、天国が特別な映画のワンシーンのような決め顔で口を開いたときのこと、おりちゃんの指先に触れられた素肌、わたしの恋に終止符を打ったおりちゃんの声。
───他校生なんだけどさ、三年ほど付き合っている彼氏いるの、わたし。
あのあと、わたしは、彼女に何て返事をしたのだろうか。何も思い出せない。だけど、きっとうまくやれていた。せめて、そう願うしかない。
いま、ゆいいつ確かなことは、わたしの頭を撫でる天国の手のひらが、あたたかいということだけだった。
あの日から、何度、思い出しただろうか。天国の声やきりっとした表情を頭に浮かべながら。
恐れるな、このおれより、おまえをときめかせないあいつらか?
それはしんじつ、いつの間にか、お守りにちかいものに変わっていて、だけど、そのお守りのような彼の言葉はいま、わたしが今まで自分のこころに築いてきた防壁を容赦なく脆くさせた。
天国に頭を撫でられたまま、わたしはそっと息を吸う。
「……天国」
「ん」
「……ワンピースを着ている天国をはじめて見たとき、追いかけていった先で、天国が知らない男のひとに可愛く笑いかけたとき、わたし、わたしね、あ、仲間だ、って思ったの」
「うん」
「恋についての話を、みんなする、じゃん。みんなじゃないかも、しれないけど。……わたしは、それにいつも混じれない。みんな、いちばんはじめに、好きな男の子いる? って聞くから。聞かなくても、それが前提だって分かるから。……わたしは、男の子が好きじゃ、ない。怖いとか気持ち悪いとかそういうんじゃなくて、ただ、好きじゃないの、好きにならないの。だから、いつもいちばんはじめに、みんなの恋の話から、はじき、だされる」
天国の手が止まる。でも、触れたままでいてほしかった。いま、ほんとうにひとりきりにされたら、このシングルベッドがわたしの墓になる、とすら思った。
天国は、わたしの頭に手を置いたまま、「うん」とひとつだけ相槌を打っただけだった。
「……いつか、わたしの、お姫様が、わたしの前にあらわれてくれるのかな。その子も、女の子が好きで、だからわたしのことを好きになってくれるなんて、それは、もちろん、分からない。でもさ、天国」
天国に、というより、天国の体温に向けて伝えているような感覚だった。
「好きなひとが、おなじように、わたしを、好きになってくれたら、うれしい。どきどきしてることに気づいてくれて、わたしにどきどきしてくれて」
「うん」
「可愛い恰好、……最強にね、可愛いお洋服を着て、ふたりで手をつないで街を歩くの。友達じゃないの。恋人として、いつか。それが、わたしの憧れ」
言いたいことを言い切った。
生まれてはじめて、わたしは、自分の気持ちを外の世界へ、声として出した。本当は、天国みたいに、きりっとした表情で言えたらよかったのだろうけど、シーツに顔を埋めてなんとか言い切るので精一杯だった。
今からでも遅くないか、と思い、そっと顔をあげる。
おりちゃんと別れて、天国が来てくれてからわたしは泣いてばかりだから、きっとひどい顔をしているに違いないけれど、渾身の決め顔をしてやりたかった。
だけど、その前に天国が、わたしをじっと見ながら、「どうだろうな」と言うので、出鼻をくじかれる。ただ、そこで終わりではなく、彼はベッドに頬杖をつき、口角をあげて瞬いた。
「恋愛のことは、おれには分からない。したこともないしな。でも、四季は、いまおれの前に確かにいて、それと同じように、お前の未来のお姫様だって、きっとこの星のどこかにいるんだって思うよ。最強に可愛い恰好をしてさ、背筋を伸ばして歩いてる。おれは、いつか、四季とそのだれかが手をつないで歩いてるところに居合わせて、すれ違ったら、ここにふたりの天使が、って思いながら、うっかり振り返ってやる」
彼の言葉は、すとんとわたしのこころの底に落ちてきて、あっという間にからだを満たした。
うん、と何テンポも遅れて深く頷いたら、今度は髪を雑に撫でられ、ぐしゃぐしゃにされる。
何を思ったのか、それからすぐに天国は立ち上がり、ハンガーラックのところまで行き、布らしきものを手にしてまた戻ってきた。
「これは、おれを勇気づけたスカート」
「……恐れるなさん?」
「はは、うん、正解。お前もはいてみろよ、似合うと思う」
そう言って、手渡されたのは、左右にレトロなリボンがいくつかあしらわれている深緑のギンガムチェックのフレアスカートだった。
わたしはそれを受け取って、生地の感触を指で確かめた。もう何度も着られていることが、色褪せ具合からは見て取れたけれど、肌触りはすべすべで、天国によってとても大切にされていることが分かった。
あとこれも合わせると最強だから、と天国が一枚のブラウスをまたハンガーラックから持ってきて渡してくる。わたしはそれを受け取って、シーツのなかを試着室にして、着替えた。
天国は、着替え直したわたしをじーっと見てから、満足そうにうなずいて、「可愛い」と言った。
「……わたしが今日、着ているワンピースも試してみる?」
「お前がいいなら」
「足りないくらいだよ」
「じゃあ、譲ってくれよ」
「それは、やだ」
「うそだよ、貸して」
シャル・ウィ・ダンスで買ったワンピースは天国にもよく似合った。
今日会ってすぐのおりちゃんにもらった褒め言葉を思い出してしまい、まだ生々しい痛みがわたしを襲う。
だけどもう、涙は出なかった。
その後、わたしと天国は、セーラー服を彼に貸してあげた日のように、今度は天国の部屋でふたりだけのファッションショーをおこない、その流れで、わたしが天国に似合うお化粧をすこし教えてあげたりもした。
わたしは、天国に恋をすることはない。
だけど、彼は、ある日突然、天使としてわたしの前に現れ直して、今日、恋を失ったばかりのわたしに、ひかりのような言葉をくれた。そういうことは、きっと、これからの人生でも、そうそう起こらない、気がする。
天国の可愛いお洋服に身をつつんで、スカートの裾をつまみ英国貴族のお辞儀をしていたら、ベッドのそばに放置していた巾着ポシェットが音を立てる。
中を確認すると、スマートフォンにおりちゃんから一件のメッセージが届いていた。
【今日はありがとう♡♡ 楽しかった♡ またいつか遊ぼうね♡♡】
わたしが泣いたことを、彼女が知ることはない。
【ありがとう♡♡】とだけ返信して、スマートフォンの電源を落とした。
明日は、わたしとおりちゃんのお喋りの中心にあったアイドルサバイバルオーディション番組の最終回が放送される日で、それが終わればきっと、わたしとおりちゃんは自然と疎遠になる。そういうことは、なんとなく、分かる。もう一緒に遊ぶことはないと思う。
少なくとも、わたしは失恋の傷が癒えるまでは、おりちゃんと笑って言葉を交わす以上のことはできそうにない。
「天国、わたしね、今日失恋したの」
「どんまい」
「雑だなあ」
「さっき、充分、泣いているお前を慰めてやっただろ」
天国が、あたらしく袖を通したトップスについているリボンを結ぶ。彼は、恋なんかよりも、可愛いお洋服に夢中なのである。
わたしの失恋を認めてあげられるのは、今までわたしだけだった。だけど、今回は違う。はじめて他人とする恋のお喋りのきっかけが失恋だなんて悲しいけれど、悲しいだけではなく、わたしはひとりきりのまま、ひとりぼっちではなくなっていた。
「天国」
「今度は、何?」
「……わたしと、こうしていてくれて、ありがとう」
「……セーラー服、五回分な」
「十回でもいいよ」
「気前がいいですね。……あ、これもおまえに似合うと思う」
そう言って、彼がウィリアムモリスを思わせるような個性的な植物柄のスカートを、わたしに差し出してくる。
───わたし、このひとが大切だな。
咄嗟に、そう思った。
家族に対してのものではない。恋でもないし、愛は知らない。自分のなかではじめて生まれたその感情を自分自身で受け止めるのは、欠伸をするのとそう変わらず、思いのほか、容易いものだった。
わたしは、ようやく少し笑うことができて、差し出されたスカートに手を伸ばす。
だけど、なぜか彼は眉をひそめて、動きを止めた。
「待て。また泣く気か?」
この期に及んでまた泣く気などさらさらなかったので、どうして天国がそのような勘違いをしたのか分からなかったけれど、「失恋したてだから、いつまた泣き出すかは分からないよね」と合わせておく。
「どうしても泣きたいなら、今度は胸くらい貸すから、服では拭うなよ」
「ひとの胸では泣かないし」
「のけぞって駅前でわんわん泣いてたやつがよく言うよ」
天使な恰好で、手厳しく正論を返されたから、悪魔め、と矛盾めいたことを思いながら、唇を尖らせるしかなかった。
それから、わたしと天国は、窓のそばの陽だまりのなかで、天国のコレクションから、それぞれがお互いのために選び合ったとびきりの可愛いお洋服に身をつつみ、向かい合った。
同じ光のなかに、わたしと天国のふたりが入り、それぞれきりっとした表情をつくって、貴族のお辞儀を交わす。それは、冗談めいていたけれど、何かの儀式のように特別で、少しそわそわした。
「……天国ってさ」
「なんだよ」
「本当に、可愛いよね」
「当たり前だろ。あと、言っておくけど、四季も最高に可愛いから」
わたしと天国の関係が友達と呼べるようなものなのかどうかは、分からない。
「天使?」
「お前もおれも、そういうことになるよな」
だけど、友達、よりも、そう。
いまのわたしたちの間柄に名前をつけるなら、天使同盟、くらいがきっと妥当だ。
了