スマートフォンのカメラで連写する音が、真横から聞こえる。
 なにごと、と、隣に目をやると、推しのみゆりの等身大パネルと一緒に自撮りをしているスペシャルスマイリーおりちゃんだった。
 いたく興奮している彼女は、いつもに増して光を放っている。気を抜いたら、大粒のラメ入りのアイシャドウを慎重に重ねた瞼の真ん中あたりが、少しだけ沈んで、わたしの目は本当にハート型になる。

 午前十時半きっかりに、おりちゃんこと、わたしの好きなひとは、待ち合わせた駅の改札に可憐に降り立った。二十分ほど前から待機していたわたしは、こちらに手を振り駆け寄ってくる圧倒的な天使を前にして、敗北者のぎこちない笑みを浮かべるしかなかった。
 おりちゃんは三匹の仔猫がプリントされたクリーム色のTシャツのうえに、不規則なフリルの切り返しが入ったキャミワンピースを身にまとい、つるんとした黒色の厚底ローファーを履いていた。
 肩には、シンプルなベロア生地のポシェットをかけていて、なんといっても、わたしの目を奪ったのは、丁寧に三つ編みされて白いリボンで結われた髪と、ブラウンレッドのルージュが彩られぷるんとした唇だった。
 あまりにどきどきして、いつも学校でさりげなく伝えているみたいに「可愛い」と口にできなかった。そんなわたしの腕をとって、おりちゃんは魅惑の唇をひらいて言ったのだった。

「すーみ、すみれの妖精みたいで可愛いね」

 わたしは、天国と一緒にシャル・ウィ・ダンスに行ったときに買ったワンピースを着てきていた。
 おりちゃんに先に褒めさせてしまったことは悔しかったけれど、わたしの顔を覗き込む彼女の可愛さは、一瞬でわたしの世界のすべてになり、「おりちゃんも妖精の女王だよ」となんとか答えるので精一杯だった。

 コラボカフェの入口のところで自撮りを続けるおりちゃんに、「みゆりより、おりちゃんのほうが身長高いんだね」と声をかける。

「すーみも、一緒に撮ろうよ」
「わーん、お邪魔していいの?」
「当たり前でしょ。すーみみたいなかわいい子と撮れたらさ、みゆりだってきっとパネルの中で喜ぶはずだよ」
「……ずるーい」
「えー、ずるいって何が?」
「……なんでもなーい」

 パネルに印刷されたみゆりを、わたしとおりちゃんで左右から抱き着くようなかたちで記念撮影をした。その場でおりちゃんがエアドロップで送信してくれたので、スリーショットを永遠の家宝にしようと決める。
 コラボカフェの店内は、かなり混み合っていた。アイドルサバイバルオーディション番組で女の子たちが着ていた制服のコスプレをした店員さんに、窓際の席に案内されて、おりちゃんと向かい合って座る。

 わたしはゆるるん、おりちゃんはみゆり。それぞれ推しているメンバーとコラボしているスイーツと紅茶のセットを注文した。
 おりちゃんはテーブルに肘をついて、身を乗り出すような体勢でにこりと笑う。わたしは、それをもろに心臓の芯に食らう。

「昨日の夜ね、すーみと行くの楽しみだなあって思ったら、あんまり眠れなかった」
「……そんなのわたしのほうがだよ」
「そう? 明日、いよいよ最終回だよ。みゆりも、ゆるるんもアイドルになれるといいなあ」
「祈るしかないですな」
「ふふ。そうですなあ」

 ずっと、どきどきしている。
もうすでに、すごく楽しい。
コラボカフェが楽しみだったからだって分かっている。分かっているけれど、もしも、おりちゃんが、わたしと今日会うことそのものが楽しみで眠れなかったんだとしたら、わたしはそっとおりちゃんに手を伸ばしてみてもいいんだろうか。

 注文したセットが運ばれてきて、ぱしゃぱしゃと写真を撮る。おりちゃんも写るような画角で撮ろうとしたら、気づいたおりちゃんが顔をくしゃりと歪めて、かわいい変顔をしてくれた。
 それがあまりに尊くて、結局、おりちゃんを写しては撮れなかった。
 これまでの番組の配信を振り返りながら、最終的に選ばれそうな女の子について、周りのひとたちに配慮しつつ、小声で話す。おりちゃんは終始身を乗り出すような体勢で話してくれて、わたしは相槌を打ちながら、彼女の長い睫毛を真剣に見つめていた。
 昼頃になるとさらに店内は混雑してきて、店前には短い列ができていた。わたしもおりちゃんも、紅茶とスイーツをすっかりお腹におさめてしまってからも、かなり居座ってしまっていたので、名残惜しかったけれど、お店を出る。

 あっという間の数時間だった。
 満ち足りた表情で歩くおりちゃんに、ちらりと目をやる。
 まだ、一緒にいたい。
 このまま解散するのは、とても寂しいし、切ない。
 気の利いた提案はできそうになかったけれど、おりちゃんを退屈させないようなお遊びのアイデアを、なんとかひねり出そうとしていたら、いつの間にか、わたしの少し先を歩いていたおりちゃんが、突然、ぴたりと足を止めた。それから、くるんとキャミワンピースの裾を揺らめかせながら、振り返る。
 仄かに、甘い匂いがした。

「カラオケ、行かない? わたし、山盛りポテト食べながら、すーみと歌いたい気分」
「え。……絶対、行く! それはもう地球が滅んでもするしかないよね」
「もう、何それ。でも、よかった。すーみ、カラオケ好きなんだ?」
「大好きだよ」

 あなたのことが、わたし、本当に。


 週末だったからか、駅前のカラオケ屋はかなり混んでいて、二十分待ってようやく、少人数用の狭いカラオケボックスの一室に空きができた。
 ドリンクサーバーでメロンソーダをなみなみに注いだグラスに口をつけながら、歌詞が表示されている画面を眺める。おりちゃんは、有名なシンガーソングライターの曲を歌っている。
 テーブルの上には、山盛りのポテト、烏龍茶が注がれたおりちゃんのグラス、おりちゃんのスマートフォン、真横には、おりちゃん。
 狭いといってもひとが四人は座れるほどの横長のイスなのに、おりちゃんはなぜかわたしにくっついて座った。

 おりちゃんが音楽に合わせて横揺れするたびに、身体が触れる。そこからわたしは発熱してとんでもなくどきどきしているけれど、おりちゃんはまったく気づかずに、可愛い声で、気持ちよさそうに歌っている。
 ちらりと勇気を出して隣に視線を向けたら、おりちゃんの唇とマイクが一瞬だけ微かにくっついた。部屋にマイクは二つあるけれど、わたしが次に歌うとき、それを使って間接キスしたい、と邪なことを考える。
 邪念を振り払うために、ポテトに手を伸ばす。隣から、おりちゃんの手も、伸びてくる。わたしたちは、ほとんど同じタイミングでポテトをかじる。
 おりちゃんが、共犯者みたいな顔で笑いかけてくれる。
 おりちゃんの真似をして、わたしも同じアーティストの曲を歌った。おりちゃんは、すぐそばでポテトをつまみながら、口ずさんでくれた。

 ふたりで交互に曲を選んで、ひとしきり歌って、山盛りだったポテトの器にも底が見えてきた頃。
 おりちゃんが、曲をいれないまま背もたれに寄りかかり、仔猫のスキンシップみたいな軽々しさで、わたしの肩に頭をのせた。

「すーみ」
「……どうしたの」
「ポテトで胃もたれしちゃったよ」
「しちゃったの?」
「うん、しちゃった。わたしのお腹、よわよわなの。でも、それをわたしはすぐに忘れるの」

 おりちゃんは、そう言って、ゆっくりと瞼を閉じた。
 わたしは少しだけ泣きたいような気持ちになりながら、彼女の旋毛を見つめた。
 思わせぶり、とは、思わない。思いたくない。
 でも、期待はしてしまう。
いま、あなたがわたしと同じ気持ちならどれだけいいだろう。これが、みんなにあなたが差し出す手のように平等なものではなく、わたしにだけ向けられる特別であったなら。

 聞いてみようかな、とはじめて思えた。
 おりちゃんは、どういうひとを好きになるのか。どういう恋をしてきたのか、あるいは、してきていないのか。好きな仕草や癖はあるのか。

 おりちゃん、女のひとを好きになったことは、ある?

 おりちゃんが、わたしの肩に頭をのせたまま、もぞりと動く。心臓は、すみれ色のワンピースの下でうるさいくらいなのに、目を閉じているおりちゃんの表情は穏やかで、わたしは、どう聞いてみればいいのか、分からない。
 おりちゃんの睫毛が震える。
 それから彼女は、ゆっくりと目を開けて、何度か瞬きをした。

 「そういえば、最近、すーみ、天国君と仲いいよね」

 声のふるえを肩で直に感じる。だけど、ときめきに変わる前に、ふるえは失墜した。
 あ、と、発声しかけて、ぎりぎりのところで飲み込んだ。膨らんでいた期待は、みるみるうちに萎んでいって、瞬きするたびにカラオケボックスの彩度が落ちていく。

「教室でも、ふたり、よく話してるよね」
「……そう?」
「すーみと天国君ってわかるなあって、うちのグループでも噂してたんだよ。あ、もちろん、いい意味ですからね」
「……はは。なんですかそれは。……てれる。でも、何も、ないんだけどね?」
「そうなの? でも、その声は確かに照れてますなあ」
「……そう、なんですなあ」
「もーう、なにその返し」

 彩度が落ちた世界でも、おりちゃんは可愛くて、可愛くて、可愛い。
 だけど、同時に、ひどい女の子だとも思った。
 触れているところは、熱いし、どきどきしている。でも、いまも、これからも、きっとこの熱やどきどきが、彼女に伝わることなんてないのだと分かった。

 わたしの恋する気持ちは、おりちゃんの世界には存在していない。

「……おりちゃんは」
「うん?」
「おりちゃんは、いま、好きなひと、いるの?」

 気丈にふるまわなければいけないと思いながらも、もうすでに、半ば自暴自棄になっていた。
 おりちゃんが、わたしの肩に頭を預けるのをやめて、体勢を戻す。至近距離で目が合って、口づけだってできそうなのに、どこまでも遠かった。近づくことは、きっと永遠にない。

「内緒だよ?」

 おりちゃんが、立てた人差し指を顔の前にもっていって、はにかむ。その指で、許可なくわたしの腕に触れて、彼女はゆっくりと口を開く。

 波が、引いていくのを、感じた。
 だけど、おりちゃんに触れられたところだけは、ずっと熱いままだった。