「天国は、今日も天使だね」
「四季もな」
これは、わたしたちのご挨拶。
天国にセーラー服を貸したあの日から、二週間ほどが経った。
いつの間にやら、わたしと天国は、高校の休み時間や、メッセージアプリ上で、有益なファッション情報の交換だけでなく、くだらない会話まで楽しむような仲になっていた。
【この土日、どちらかで踊ろうよ?】
昨晩送ったメッセージには今朝、【踊るなら今日がいい】と返信がきていた。今は、土曜の午後一時半で、わたしと天国は、隣町の駅の北出口の前で向かい合っている。
天国は、モネの睡蓮を思わせるようなシアーカットソーに、緑色のロング丈のプリーツスカートを合わせている。今日のウィッグは、ブラウンのボブだ。
一方、こちらは、赤色チェックのミディ丈ワンピースにオフホワイトのタイツを合わせ、頭にはクリーム色の毛糸のボンネットをかぶってきた。
踊るとはつまり、天国に教えてもらった古着屋へ一緒にいくということ。
来週の土曜までにどうしても最高のデート服を揃えておく必要があったわたしは、シャル・ウィ・ダンスで何か掘り出し物でも見つかれば、と、思い切って天国を誘ったのだ。
デート。
なんていい響きだろう。
しかも、その相手は、おりちゃんである。
三日前、おりちゃんに、アイドルサバイバルオーディション番組と近くのカフェがコラボしていることを教えてあげたら、彼女の方から、来週末ふたりで一緒に行きたいな、と誘ってくれたのだ。はっきり言って、三日前からずっと浮かれっぱなしだ。
天国とシャル・ウィ・ダンスに向かいながら、うっかりスキップしてしまったら、「本当に踊るつもりかよ」と、彼には呆れた顔をされた。
シャル・ウィ・ダンスの扉を開けて、天国に続いて中に入る。ひんやりとした森みたいな匂いがした。そんなに広い空間ではないけれど、服がいっぱい並んでいる。
ぱっと目についた、ベロア生地の海色ロングスカートをハンガーラックから取り出して、照明にかざしてみる。いいなと思ったけれど、七千円を超えていたので、小さな海には早々とお別れを告げて、そっと元の場所へ戻した。
天国は、千鳥柄のプリーツスカパンの値段を確認している。
「わたし、来週、おりちゃんと遊びに行くんだよ、めちゃくちゃ楽しみ」
「おりちゃんって、同じクラスの織江のこと?」
「そう! だから、スペシャルなお洋服を見つけたいの」
「織江とか。いいな」
「いいな?」
「クラス会で、いちばんお洒落だなと思ったのが、織江だったし。あ、四季のファッションセンスが最高って思ったのも本当だよ。あと、佐原も、おれのすごい好きなブランドの洋服めちゃくちゃ個性的に着こなしていてテンションあがったんだよな」
「天国的には、クラス会のファッションはおりちゃんが優勝だったってこと?」
「うん。あくまで、おれの好みだけど」
「分かる。おりちゃんは、優勝」
天国と、おりちゃんの話で盛り上がる。
彼はひそかに、おりちゃんが学校に身につけてくるヘアアクセサリにも注目していたみたいで、同じだったからテンションがあがった。
最高のデート服を探しに、シャル・ウィ・ダンスを訪れたはずが、途中で、おりちゃんに着てほしい服をそれぞれ見つけて発表しあう時間なんかもあった。
「おりちゃんとわたしはね、今、アイドルサバイバルオーディション番組に夢中なんだよ」
「なにそれ」
「アイドルになるために、女の子たちが燃えてる番組」
「熱そう。おれも見てみようかな」
「いや、たぶん、そんなに天国は興味ないと思うし、見なくていいよ。来週が最終回だし」
おりちゃんについては話したいし、自慢だってしたいのに、おりちゃんとのあいだにある唯一のものは、天国と共有したくない。自分自身の可愛げのなさに苦笑いしてしまう。
とうてい独占できないものにも、独占欲は生まれる。
二時間ほど店内を見て回り、さんざん迷って、すみれ色のシャーリングワンピースを一枚買った。
首と腰のところにある蔦のようなうすい緑色のリボンが個性的で、長袖ではあるもののシアー素材なので季節をまたいで着れそうなところも魅力のひとつ。天国も絶賛してくれて、おれが先に見つけたかった、と悔しがっていた。
高揚した気分のままシャル・ウィ・ダンスを出る。
これからどうするんだろうと思っていたら、天国のほうから「甘くて冷たいものが食いたい」とのリクエストがあったので、わたしたちは、出店でジェラートを買って、駅構内の見晴らしのいい広場でひとときを過ごすことになった。
ベンチに並んで腰かけて、ひんやりとしたジェラートをちびちびと口に運びながら、前を通り過ぎる女の子たちを観察する。
「今、通ったひとのバッグ、白い犬のぬいぐるみみたいだった。きっちりしたセットアップと合わせるセンスがすばらしいね」
「おれも、思った。あっちの柱のところで突っ立ってるひとのスカートもすごい可愛いぞ」
「うわ、本当だ。天使がおられますね」
「……いまさらだけど、四季がいう天使って何なの? おれにも言うから、なんとなくで合わせてたけど。お前にだけ、羽とか見えてるのか?」
「本当にいまさらだね? 羽は見えてない。天使っていうのは、簡単にいえば際立った存在の可愛さのことだよ」
「概念なのか」
「うそ、ちょっとかっこつけた。可愛いお洋服を着た可愛いひとのこと」
女の子、とは言わなかった。
いまはもう、からだもこころも男である、可愛い恰好が好きなだけのひとを知っている。そして、そのひとは今わたしの隣にいて、まぎれもなく天使であられる。
「よかった。おれが考えてたのと一致してた」
「天使ウォッチング、楽しいね」
「勉強にもなる」
「あ、もうひとつ。わたしの思う天使はね、ぴんと背筋が伸びてる。本当かどうかは分からないよ、でも、この世界に存在しているのが誇らしいですわって、姿勢のよさで見せつけてくるの」
「その条件、いいな。おれの考えてた天使の定義にも追加採用させてもらうわ」
ジェラートをすくう。吹き抜ける風が頬にあたって気持ちよかった。どきどきはまったくしない。だけど、つまらない平穏ではない。
街の天使から、隣の天使に目をやる。きれいな横顔は、天使ウォッチングをひとり続行中だ。
「天国はさ、可愛い恰好、いつからしてるの?」
ふいに聞いてみたくなった。聞いてみてもいいかなと思った。
「高校に入って少し経ってから。でも、ときめいてたのは小学生のころからだな。もどかしい数年間を過ごしたわけだよ」
「最初に可愛い恰好で街を歩いたとき、怖くなかった? 周りの目とか、どう思われるかとか。……だってほら、あんまりいないじゃん、男の子で可愛いお洋服を着るひと。わたしは天国がはじめてだったから」
「でも、あの日のおれ、相当可愛かっただろ?」
「それは、もう。可愛すぎたんだけどね」
「お前は、一度もおれに、女装とは言わないよな」
そう言って、天国は横目でわたしを見て、ほんの少しだけ口角をあげた。すぐに天国の視線は逸れたけれど、微笑みはそのままだった。
わたしは、天国がゆっくりとジェラートをすくい口元までもっていくのを、なぜかじっと見つめていた。
「最初は、怖かったよ。だから、なかなか好きな恰好だってできなかった。それに、別に、いまもまったくひとの目が気にならないわけではない。そういう格好をしはじめたばかりのときは、電車で知らないやつらに笑われたことだってあるし。おまえに見つかったときも、おれ、内心、少しだけびくびくしてた」
「……あの日、そんな感じは全くしなかったけど」
「もちろん、表には出さない。びくびくした分だけ、胸をはるのがおれの美学だから」
それに、と、天国が言葉を続ける。
「ある日、大好きなブランドから出たスカートがショーウィンドウ越しに、おれにこう言った気がしたんだよ」
天国の作り物のブラウンの髪が微かになびく。
彼はゆっくりとこちらに顔を向けて、芝居の最中のようなきりっとした表情をつくった。
「恐れるな。このおれより、おまえをときめかせないあいつらか?」
不意打ちの爽やかさにこころを貫かれる。
「……その、スカートは、男の子だったの?」
「どうだろうな。知らない。でも、おれはそれで、自分の好きな恰好を自分がしたいときにしてやろうって」
「……もう一回」
「ん?」
「もう一回、言って。恐れるな、のつづき」
「はは。気に入ったの? いいよ」
天国は、一度目よりも大袈裟にきりっとした表情をつくり、顎をくいっとあげて口を開く。
「恐れるな。このおれより、おまえをときめかせないあいつらか?」
芝居くささに拍車がかかっていたから、ツボにでも入ったのだろうか。自分のことなのに、分からない。でもあまりに可笑しくて、気がついたら、腹の底から笑っていた。天国もつられたのか、くしゃりと破顔する。
笑っているうちに、なぜか視界がぼやけていく。そこからはまるで雪崩のように、目に映るすべての輪郭がほどけて、ほどけて、笑っているはずなのに、いつの間にか涙が止まらなくなった。
「は? 急になんだよ」
「わ、から、ない」
お化粧をしていたけれど構わずに目元を擦って、はは、と笑う。不明瞭な視界の先で、天国が、狼狽えているのが分かった。
ぎこちない仕草で、天国は、自分の分のジェラートをスプーンにすくい、わたしに差し出してくる。その即席の思いやりに、また笑う。遠慮なくスプーンを口に含んで味わっていたら、ようやく笑いも涙もおさまった。
それからしばらく、わたしたちはお互いに口を開くことなくジェラートを黙々と食べながら、駅構内をひとが行き来するのを見ていた。
ひとの波が落ち着いたころに、四季、と天国がわたしを呼ぶ。うん、と、隣を見ないまま、返事をした。
「はじまりはどうであれ、おれ、お前とこうしていられてよかったよ。まさか、同じ高校でそういうやつに出会えるなんて思ってなかったし」
「天国」
「うん?」
「また、セーラー服、着たくなったら言ってね。わたしが貸すから」
「どうも」
心地のよい低い声に、わたしは浅く頷いた。