天使が、目の前をさっそうと通り過ぎて行った。

 昼下がりの日差しをうけて、ミモレ丈のワンピースがうす緑の光を放っている。
 きめ細かなレース、腰のあたりにはふんわりとしたリボン、祝福と名づけたくなるような、うつくしい光沢感のある生地。金色の髪が踊るようになびいていた。足元では、持ち主が歩くのに合わせて、シャンパンゴールドのバレエシューズが煌めいている。
 羽が生えていないことが不思議なくらいに、そのひとは、可愛かった。

「……いや、そうじゃなくて。……天国、だよね」

 駅前の人混みのなか、かなりの声量で独り言ちてしまう。隣にいた知らないおばさんにじろりと見られて、リズミカルな咳払いで誤魔化した。

【ゆるるんは七位くらいな気がするよ! おりちゃんの一位予想は?♡♡】

 はーと、はーと。高速で文字を打ち、やりとりの最中だった相手に返信をする。
 ちなみに、ゆるるんとは、アイドルを目指している高校生の女の子のことで、このわたくし、最近ようやくお近づきになれた女の子──おりちゃんと、メッセージアプリ上で、アイドルサバイバルオーディション番組の話で盛り上がっていたところだったのだ。
 お話を続けたい気持ちはやまやまだけど、いったん中断。ハート形の銀色ショルダーバッグにスマートフォンを押し込んで、急いで、天使のゆくえを追う。

 街にはいつも、さまざまな天使がおられる。ここでいう天使とは、羽の生えた本物の天の使いのことではなくて、ことに素敵なファッションセンスをもつ可愛い女の子たちのことである。
 今までにも、そういう子たちをじっと見つめたりふり返ったりしてしまうことはあったものの、さすがに追いかけたことはない。

 だけど、今回は、例外も例外だ。
 その相手が、同じクラスの男の子──天国由玖(あまくにゆく)だったから。

 この春、高校二年に進級するタイミングで行われたクラス替えで、天国とは同じクラスになった。それから二か月ほどが経ったけれど、天国とはこれといって接点がなく、今までまともに話したことはない。
 天国は、きどっている風でも別にないけれど、未だに特定のグループには属しておらず、教室では、たいていひとりでいる。
 教室で見ていた天国の髪は、肩にかかるくらいの長さだったし、色だって透き通るような黒色だった。だから、いまわたしが追っている天国の金色の長い髪は、ウィッグかなにかなのだろう。姿勢よく、すたすたと歩いていく彼を追いながら、思う。

 通り過ぎる一瞬、いつもとはまるっきり違う風貌でも、一目で天国だと分かったのは、彼の顔立ちがいっとう整っていて印象的であるからだった。
少なくとも、服装や髪型の違い程度で見間違えたりできないくらいには。
 クラスメイトにあとをつけられているというのに、天国は振り返る気配をみせない。駅前の小さな公園を横切って、古着屋が建ち並ぶ路地をすたすたと歩いていく。一定の距離を保ちながら、わたしは彼の後ろを半ばかけ足でついていく。
 土曜の午後だ。表通りでなくとも、ひと気はかなりある。だけど、天国の後ろ姿は凛としていて、隙がなかった。

 ふいに、天国が立ち止まる。
 彼の右手があがり、横に揺れた。ひかりの薄い路地裏でも、彼の動きにあわせてワンピースの袖はきれいに光る。彼の十メートルほど後ろで、わたしも同じく立ち止まり、天国が手を振った先を探す。相手は、すぐに見つけられた。
 向かいから、背の高いひとが歩いてくる。爽やかな柄シャツにブラウンのズボン──天使に見劣りしないお洒落な装いで、そのひとは、にっこりと笑って、天国に手を振り返した。おそらく高校生ではなさそうな、大人の男のひとだった。
 ほおっと見惚れている間に、天国と彼は合流して、親し気に会話を楽しみながら、すぐそばの建物に入っていった。彼らの姿が中に消えてしばらくたってから、その建物の前まで行く。
 古びた立て看板には、青いペンキで、シャル・ウィ・ダンス、と筆記体で描かれていた。
 硝子張りの扉越しに中をのぞくと、ワンピース姿の天国は、ハンガーに吊るされたままのブラウスを自分の身体にあてながら、連れの男のひとに、幸せそうな表情で笑いかけていた。
 その笑顔が、教室では見たことのない無防備なものだったので、盗み見してしまったことに少しの罪悪感を抱きつつ、不意打ちでときめきつつ、わたしの、ほんとうのほんとうの関心は、また別のところにあった。

 とびきりのワンピースを身にまとって、素敵な男のひとと二人きりで会って、その相手に、学校では誰にも見せないようなとびきりの笑顔を向けるということは、つまり。
 天国は、男のひとが好き、なんだろうか。 
 乱暴な式を頭のなかで成立させると、少し興奮した。身勝手なよろこびがこころの底から、湧き上がってくる。
 男のひとの手が天国の肩に触れる。天国は、彼を見上げてうれしそうに目を細める。その光景を、わたしは扉越しに眺める。
 ずっと眺めていれば、自分がたった今作り上げた式が確かなものになるような気がした。だけど、このままでは、いずれ天国にばれてしまうかもしれず、そうなることは、なんとなく避けたかった。
 名残惜しくはあるものの、もうこのあたりで、と踏ん切りをつけ、店前から去ることにする。
 ふたりから視線を外し、バッグからスマートフォンを取り出す。メッセージアプリを開いて、また駅の方へ向かう。

【一位はなななちゃんでしょ♡ でも、最推しのみゆりにはいけるとこまでいってほしいよね、というかいけ! いくしかないんだよ、みゆり!】

 おりちゃんから届いていた熱いメッセージにくすりと笑っていたら、意識はおのずと彼女とのトーク画面に戻る。
 天国が、扉からわたしの姿が切れる間際、こちらの方を見たことに、気づくことはなかった。