朝の列車の座席で、私は不意に、清美に初めて出会ったのが、ちょうど七年前の今日だったとことに気づいた。出発が早かったせいか、隣に座る清美は私の肩にもたれて、うたた寝をしていた。列車が少し揺れた拍子に清美は目を覚まし、眠たげな眼を私の方に向けた。
「ねえ、智子ちゃん、もう少し寝かせてもらっていい?」
「うん、いいよ」
私の返事を聞くと、安心したように、すぐに清美は眠りの世界に戻った。
もうすぐ高三になるというのに、どこかしら無邪気な幼さが残る清美の顔を愛おしく眺めながら、私は、清美と過ごした七年の間に起きたできごとを、あれこれと思い出していた。
清美は、小学校五年生になる直前に、隣の家に引っ越してきた同級生だった。私には武という一つ年上の兄がいた。清美のお兄さんの清一君も一つ年上だった。父親同士が偶然にも同じ大学の出身で、どちらの両親もテニスを趣味にしていたこともあり、私たちは家族ぐるみの付き合いになった。そんなわけで、私たちはすぐに仲良し四人組になった。
運が良いことに、小学校では、私は清美と、兄は清一君と同じクラスになった。清美は、私とはすぐ仲良くなったのに、他のクラスメートとはうまく馴染めなかった。いや、馴染もうとしていなかった。清美は他のクラスメートとも表面上はきちんと付き合っていたが、心を開いてはいなかった。清美は、本当の友達は私だけと、決めてしまったように見えた。
しかし、それは私と兄のせいでもあった。その最もたるものが、私たちの土日の過ごし方だった。
私たちが出会ってからすぐ、土日の朝は、両親たち四人は近くの公園のテニスコートでテニスをするのが常になった。元々野球をしていた清一君は、兄が所属していた野球チームに入り、兄たち二人も土日の朝は練習に出かけていた。残された私たちは、大抵、いつも、清美に家のリビングルームで過ごしていた。
そこにはピアノが置かれていた。清美は小さい頃からピアノを習っていた。ところが清美は、レッスンは続けていたものの、発表会など、人前でピアノを弾くことを避けていた。そんなことを知らなかった私は、能天気に清美にお願いをした。
「ねえ、清美ちゃん、私、清美ちゃんのピアノ聴いてみたいな」
「ええ!下手くそだから恥ずかしいよ」
清美は、すぐには応じてくれなかった。しかし、私はどうしても清美のピアノが聴いてみたかった。
「ねえ、お願い聴かせて」
「う~ん、まあ、智子ちゃんの頼みならしかたがないか」
そういうと、清美は、てきぱきと演奏の準備を始めた。私は、リビングにあった椅子をピアノの脇に置いた。やがて、清美がピアノを弾き始めると、私の目は清美に釘付けになった。清美の目が普段とは違い、真剣さに満ちたものに変わっていた。それはとても奇麗な目だった。そして、鍵盤の上で軽やかに踊る細く長い指先の美しさは例えようがなかった。
それらが、清美の奏でる美しいメロディに彩られていたのだから、私は、もうすっかり夢の世界に引き込まれていた。だから、私は、清美が一曲弾き終わった後も、何の反応もできずにポカンとしていた。
「どうしたの、あまりに下手だから呆れて言葉も出ないの?」
「とんでもない。素敵だったよ」
私は、もっとたくさんの賛辞を贈りたかったのだが、それ以上、全く言葉にならなかった。
その後、私は何曲か清美に弾いてもらい、美の世界に深くはまり込んだ。
「少し疲れちゃったから、今日はこれでおしまいね」
清美にそう言われた時、私は、少し残念な気がした。
「うん、ありがとう」
とりあえず礼を言うと、今度は清美が聞いてきた。
「ねえ、智子ちゃん、今度は私の方からお願いがあるんだけど、いいかな?」
「何?私にできることならなんでもするよ」
「ありがとう。智子ちゃん、教科書を読むのがすごく上手でしょう。だから、今度は私のためにお話を読んでくれないかな?」
「ええ、そんなことで良いの。喜んでやるよ」
「そう、ありがとう」
嬉しそうな清美の顔を見ながら、私は、清美のためならどんなことでもしてあげようと思った。
翌日の日曜日、私は、また清美にピアノを弾いてもらい、どっぷりと夢の世界にはまった。その後、私は、清美が図書館から借りてきた紙芝居の上演会を清美の前で行った。ピアノを弾く時とは、また少し違った清美の真剣な眼差しが自分の方に向いていることに心が揺らいで頬が火照った。
そんな風にして、週末毎に、清美は私一人のためだけにピアノを弾き、私は、清美のためだけに物語を語った。
時が経つにつれて、清美が弾く曲は、クラッシックから、私の好きな流行りの歌の弾き語りへと変わっていった。
私の方は、紙芝居から、清美の好きな詩集や短編小説の朗読へと進歩し、時には「ハムレット」や「マクベス」の有名な台詞がある場面を演じさせられたこともあった。そして、最終的にたどりついたのは、清美の書いた小説の朗読だった。
清美の書いた小説は、お世辞抜きに良く書けていた。ただ、どれもが、私の好きな漫画にどことなく似ていた。そして、主人公も私をモデルにしているような気がした。清美は自分が書きたいものよりも、私が喜びそうな小説を書いているようだった。
そんな日々を過ごしてきたせいか、私は演劇に興味を持つようになった。中学、高校では演劇部に入り、将来は大学で演劇の勉強をして、演劇関係の仕事につきたいと思うようになっていた。
一方、清美は将来、小説家になりたいと言い始めた。しかし、中学でも、高校でも清美は文芸部などには入らなかった。せっかく書いた小説もどこにも発表せず、私以外には決して誰にも読ませようとはしなかった。
しかし、そこまで濃厚な二人きりの時間を過ごしてきたにも関わらず、清美の目は、私を友達としてしか見ていなかった。清美にとって私は、ほぼ、唯一無二の友達ではあったが、清美の心が「恋」という方向に揺らぐことは全くなかった。
なぜ、私が、そうまで言い切れるのかと言うと、それは、清美が恋する瞳を私以外に向けている様子を日々見続けてきたからだ。私が初めて清美に出会って恋に落ちた正にその日、清美もまた恋に落ちていた。皮肉なことに清美が恋をした相手は私の兄だった。
土日の午後、兄たちが野球の練習から帰ってくると、清一君を含む私たち四人は、よく一緒に遊んだ。コンピューターゲーム、カードゲーム、トランプなど、室内で遊ぶこともあれば、ボーリング場やゲームセンターなど、外に出かけることもあった。
しかし、それは、結果として清美を仲良し四人組の中に閉じ込めることになってしまった。私たち四人は小学校から高校まで同じ学校に通い、大学まで父たちと同じ学校に行くつもりでいた。
兄と清美は、まるで漫画みたいに、ゆっくりとだが着実に幼馴染から恋人への階段を登って行った。しかし、私と清一君は、そうはいかなかった。清一君は、私が唯一気楽に接することのできる男の子で、幼馴染としては大好きだったが、恋人同士にはなれなかった。それは、私は女の子が、いや、清美が好きだったからだ。
中学に入るとすぐ、私は清一君に告白をされた。でも、私は清一君の気持ちに応えることはできなかった。
「小さい時から一緒にい過ぎたから男性としてみられない」と私は嘘をついた。突き放したつもりだったが、清一君は折れなかった。
「じゃあ、男として見てもらえるように頑張る」と言って退かなかった。
それから、清一君は勉強も部活もそれまで以上に熱心に取り組み始めた。兄と清一君は中学入学後も野球部で野球を続けていた。ピッチャーの清一君はやがてエースで四番、更にはキャプテンにまでなった。兄は清一君とバッテリーを組みキャッチャーを務めていた。
清一君はイケメンでもあったので、当然、女の子にもてまくり、多くの女の子に告白をされたが、誰にも振り向かなかった。成績も学年のトップクラスで、推薦で近所の都立の進学校に合格した。
清一君の中学の卒業間際に、私は二度目の告白をされた。清一君の思いに応えてあげたい気持ちは、もちろんあったが、私はまったく同じ言葉を繰り返しただけだった。
「じゃあ、もっと頑張る」
清一君は、それでも退こうとしなかった。悲しいことに、私と清一君は、お互いに相手が好きなのに、決して恋人同士にはなれない、それでも諦めきれない、似た者同士だったのだ。
清美と清一君の他に、私には、あと二つ、忘れがたい出会いがあった。そのうちの一つはお姉さんさんとの出会いだった。お姉さんの本当の名前を私は知らない。私がお姉さんに出会ったのは、高校入学を前にした春休みのことだった。
私も清美も、兄たちと同じ高校に入学が決まり、両家族とも、とりあえず一区切りついたということで、私たちは春休みの間に一泊の温泉両行に出かけた。
私たちが旅館に着くと、旅館側が手違いを起こしていたことがわかった。四人用の部屋が二つのはずだったのに、用意されていた部屋は六人に用位の大きな部屋と、二人用の小さな部屋になっていたのだ。相談した結果、私と清美が二人用の小さな部屋に泊まることになった。
部屋に入り、私が用を足している間に、清美は既に浴衣に着替えていた。宴会場での夕食が住んで部屋に戻ると私は清美にお誘いを受けた。
「ねえ、智子ちゃん、一緒にお風呂に行こうよ」
誘われるままに、私は清美に付いて大浴場に向かった。脱衣場に入り、ロッカーの前に行くと、清美は、するりと浴衣を脱いで裸になった。その仕草に私はすっかり見惚れてしまい、自分の手はパタリと止まったままになっていた。そんな私の様子に気づいて清美が口を尖らせた。
「何よ、智子ちゃん、私のこと、貧乳だと思ったんでしょう」
清美の胸は決して大きくはなかったが、形が良く、それゆえに初々しく、穢れのない美しさを湛えていた。まだ幼かった小学校の頃を別にすれば、清美のオールヌードを見たのは実は初めてだった。
浴室に入り、洗い場に座った後も、私の目は清美の体に惹きつけられてしまった。でも、じろじろと見られているとは思われたくなかったので、自分の体を洗いながら、ちらちらと清美の方に視線を送った。
長い髪を洗う清美の姿は、どこかで見た日本画のように美しかった。その絵は、裸体を描いていても、一抹の厭らしさも感じさせない絵だった。気づかれないようにしていたつもりだったが、魅入られていた私の警戒心は低く、とうとう清美と目が合ってしまった。
「ねえ、やっぱり貧乳だと思っているでしょう」
「ううん、ああ、いや、そんなことないよ」
思わず舌がもつれた。
「やっぱり、そうなのね」
清美は深くため息をついてから、話を続けた。
「私、智子ちゃんが羨ましいな」
清美の目が、私の胸に注がれた時、体に電流が走ったような気がした。何か美しいものに憧れるような清美の視線が、恥じらいと共に興奮を引き起こしていたのだ。
私の胸は自慢ではないが、いや自慢するどころか、むしろ疎ましかったが、中学生としては大きい方だった。普段は自分の胸に注がれる男子の視線が、ひどく忌まわしく思えたが、愛おしむような優しい清美の眼差しが向けられているのは、ひどく嬉しく思えた。
それから、清美は、もたもたしていた私より先に湯船に浸かった。檜の湯船に体を預けた清美の姿は、まるで映画のワンシーンのように私の目に映った。
私が遅れて清美の隣に並んだ時、少し肩が触れた。その瞬間、思わず清美の肩を抱き寄せてしまいそうになった。触れることにはどうにか耐えたものの、私の目は水面から透けて見える清美の胸元に吸い寄せられた。
動揺した私は、折角の温泉をろくに楽しむことなく、清美を残して早々に部屋に引き上げた。
その夜、私たちは、柔らかな色の小さな常夜灯だけを残して床に着いた。清美は、すぐに寝てしまったが、私には一向に眠気が訪れなかった。
目を閉じると、風呂場で見た清美の姿が何度も蘇ってきた。浴衣を脱ぐ仕草が、髪を洗う様子が、湯船に浸かる場面が、水面で揺らぐ胸が、私の心がかき乱した。
ふと横を向くと薄明かりの中に浮かぶ清美の寝顔がこの上なく美しく見えた。すると私の体の中から、それまでに感じたことのないドス黒い欲望が湧き上がってきた。
兄に汚される前に、清美の体を自分のものにしてしまいたいと思ったのだ。
「そんなことは許されない」、と理性が左耳に叫んでいる間に、右の耳には「そうしてしまえば、お前も恋人の仲間入りができるかもしれないよ」と悪魔が囁いていた。
清美は全く無防備で私の隣で眠っていた。清美の布団の中に潜りこんでしまいたいという思いが、体の中で激しく暴れ始めた。ついに、その気持ちを抑えきれなくなり、私は上体を起こして清美の掛布団の端に手を掛けた。布団に潜り込んだら、まず唇を奪いたいと思った。
しかし、寸での所でブレーキが掛った。蛮行に走る直前に改めて見た清美の寝顔は穢れを知らない無垢な少女の顔そのものだった。それを汚すことは神も許さない大罪に思えた。その途端、私は自分のしようとしたことの恐ろしさに、ようやく気づいた。それと共に、私は自分の汚らわしさが嫌になって、その存在を消し去りたい気分になった。
それでもなお、どうにか押さえつけ私の中の獣は、まだ清美に飛びかかろうとしていた。私は、どうにか自分の体を布団の中に戻すと、清美に背中を向けたて横になった。もう一度、清美の顔を見てしまったら、もう二度とブレーキが掛らないような気がした。私は必死に目を閉じた。しかし、しかし、とても眠れる気がしなかった。相変わらず私の瞼の裏には、美しい清美の姿が繰り返し浮かんできたからだった。朝まで耐えるしかないのかと思った。結局、私は、朝まで一睡もできなかった。
次の日は、清美の顔をまともに見ることができなかった。せっかくの旅行を台無しにしてしまった自分が情けなかった。
帰宅後、夜になっても、私は気持ちが落ち着かなかった。部屋に一人でいると、果てしなく落ち込んでしまいそうな気がした。だから、私は、少し散歩でもしてみることにした。
私は、少し町中を歩いた後、家の近所の公園に足を踏み入れた。その公園には弁天池と呼ばれる小さな池があった。その池の畔には小さな弁天堂が立っていて、近くにはベンチが一つ置かれていた。少し疲れた私は、そのベンチの端に腰を降ろした。
私は、兄にも申し訳ない思いがして、家にも帰る気になれなかった。なぜか急に、自分には、どこにも居場所がないような思いがふつふつと湧いてきて、気が付いたら泣いていた。
すると、ベンチの反対側の端から声が聞こえてきた。
「あなた、ずいぶんと辛い悩みを抱えているみたいね」
声のした方を見ると、ベンチの端に白い服を着た三十代ぐらいの女性が座っていた。一体いつからそこにいたのか、私は気配さえ感じていなかった。
「ねえ、良かったら話してみない。案外、見ず知らずの人が相手の方が気楽に話せるかもしれないわよ。自分一人の胸の中にしまっておくのは辛いでしょう。誰かに話すことによって、少しは気が休まるかもしれないわよ」
その女性は、絵画に描かれたマリア様のように澄んだ美しい目をしていた。そのせいか私は、懺悔する信徒のように、なんの躊躇いもなく、それまでの全てを包み隠さずに話してしまった。
その女性が言うように、全て話してしまうと、少しだけ気が楽になった。しかし、前の晩に自分がしようとしたことの醜さは、いつまでも私を責め続けていた。
「お姉さん、私は自分がこんなに汚らわしい人間だとは思っていませんでした」
私は、いつの間にか、その女性を「お姉さん」と呼び始めていた。
お姉さんは、私の言葉を聞いて、小さく横に首を振った。
「あなたは、汚らわしくなんてないわよ」
「いいえ、汚らわしいです。最低です」
私は、心底、そう思っていた。
「そう、じゃあ、聞くけど、あなたは彼女のお兄さん、彼を汚らわしいと思ったことがあるの?」
「もちろん、ありません」
「そうよね、恋人にはなれないけど、あなたは人間として彼が好きなんだものね」
「はい、好きです。頑張り屋な所は、尊敬もしています」
「そうでしょう。でも、彼だって、結構、あなたの体について妄想を抱いているはずよ。うん、毎晩でもおかしくないかな。もしかしたら、彼も、一向に自分のことを振り向いていてくれないあなたを、力づくでも自分のものにしたいと思ったこともあるかもしれないわね」
「まさか、彼がそんなこと思う訳がありません」
「あなた、いつまで彼が出会った時の小学生のままだと思っているの。いい、誰だって好きな人と唇を重ねたい、肌を合わせたい、そう思うのが自然なのよ。もし、あなたが彼を汚らわしいと思わないなら、あなただって汚らわしくないってことになるでしょう」
お姉さんが言うことは確かに筋が通っていた。しかし、だからと言って、自己嫌悪が完全に払拭されたわけではなかった。そんな私の気持ちを読み取ったかのようにお姉さんは優しい言葉を投げかけてくれた。
「あなたは、相手が女の子だからって、自分の気持ちを蔑んでいるみたいだけど、それは違うんじゃないかな。彼女を自分のものにしたいと思ったのも彼女を愛していたからだし、それを思いとどまれたのも彼女を愛していたからでしょう。あなたは自分の愛にもっと誇りを持つべきなんじゃないかしら」
お姉さんの言葉は心の奥底まで染み透っていった。そうだ、私は清美を愛しているのだ。清美は女の子だけれど、愛しているという気持ち自体には一点の曇りもなかった。
「ありがとう、お姉さん、なんだかすごく気分が楽になりました」
「そう、良かったわ、お役に立てて。でも、あなた、そろそろ家に帰らないと、ご両親が心配なさるわよ」
「はい、帰ります」
私は、そう言って立ち上がると、すぐに尋ねた。
「あの、お姉さん、また会えますか?」
「どうかしらね。まあ、ここで会ったんだから、ここに来れば、また会えるかもしれないわね」
「わかりました。私、会いたくなったらここに来てみます」
「そう、まあ、そうならないことを祈っているわ」
お姉さんは、そう言って優しく笑った。
「じゃあ、失礼します」
「気を付けてね。お休みなさい」
お姉さんの言葉に送られて私は家路に着いた。
私にとって忘れがたいもう一つの出会いは、後輩の女の子、聖ちゃんとの出会いだった。聖ちゃんと出会ったのは中学二年の時だった。聖ちゃんは一つ年下の後輩として中学校の演劇部に入ってきたのだが、聖ちゃんとの出会いが大きな意味を持つようになったのは、もっとずっと後のことだった。
ことの起こりは、今から五か月ほど前の秋のことだった。
九月の文化祭で、私は初めて男役をやらされた。部長で脚本担当の鈴木先輩からは、以前から何度か男役の打診を受けていたのだが、私は断り続けてきた。女の子が好きな自分が男役をやるのは、なんだか本性を晒しているようで本能的に受け付けられなかったからだ。
しかし、その時は、さすがに断り切れる状況ではなかった。演劇部という所は、もめごとが多い場所だったが、主役を務めることになっていた唯一の男子部員が脚本のことで鈴木先輩ともめて、文化祭直前に退部してしまったのだ。
その結果、私が彼の代役を頼まれたのだ。もちろん、最初は断った。しかし、鈴木先輩が私を代役に推した理由は否定しがたいものばかりだった。まず、私は部の中で一番背が高かった。他の部員たちは皆、髪が長かったが、私は短かった。文化祭までの時間も短かったので、経験値の点でも自分が男役に最適と考えた鈴木先輩の判断は理にかなっていた。演劇部全体のことを考えると、不本意でも男役の依頼を断ることはできなかった。
しかし、皮肉なことに、私の男役は大当たりしてしまったのだ。文化祭初日の公演を見た生徒の間で、私が某女性歌劇団の男役のように素晴らしかったという評判が立ち、その情報はSNSでも拡散された。お陰で二日目の公演は立ち見が出るほどの大入り満員になってしまったのだ。
騒動はそれだけに留まらず、その後、私の下駄箱には男女を問わず何通ものラブレターが舞い込む事態に発展してしまった。そして、私は、その全てに丁寧なお断りの手紙を出すはめになった。
そんな騒ぎが下火になった十月の半ば、たまたま、私と聖ちゃんが最後に部室を出ることになった。
聖ちゃんは、文化祭の時、私の恋人の女の子を演じていた。私の男役が大当たりしたのは、中学校で二年、高校でも約半年、同じ演劇部で過ごしてきた聖ちゃんとの相性がぴったりだったのも大きな要因だった。
劇中にはキスシーンも用意されていた。しかし、実際には、私は観客席に背を向けてキスをするという演出だったので、聖ちゃんを抱きしめはしたものの、実際にキスをした訳ではなかった。
「じゃあ、鍵を掛けて帰ろうか」
私が声を掛けると、聖ちゃんは、妙に思い悩んだような顔をしていた。
「先輩、私、先輩にお話があるんです」
聖ちゃんの顔は更に悩みが深まったように見えた。
「私、先輩のことが好きなんです。先輩、私と付き合ってくれませんか?」
思いもしなかった告白に、私はひどく驚いた。聖ちゃんが、そんな風に私を見ていたなんて想像したこともなかったからだ。
私が何も言えないでいると、聖ちゃんは更に話を続けた。
「私、中学に入って初めて先輩に会った時から、ずっと先輩のことが好きだったんです。中学を卒業しても、先輩と一緒に居たかったので、この学校に来ました。中学の担任の先生には、偏差値が足りないから諦めろって言われました。でも、私は諦めきれませんでした。だから死ぬ気で勉強しました。先輩と同じ高校に行きたい、また、一緒にお芝居がしたい。その気持ちがあったから頑張れました。合格した時は、天にも上る気持ちでした」
そこまで話したところで、聖ちゃんは、一度、間を置いた。
「でも、私、本当は、こんな告白をするつもりじゃなかったんです。ずっと片思いのままで良かったんです。ただ、先輩の傍にいられれば、それだけで良かったんです。でも、私、とうとう我慢できなくなったんです」
聖ちゃんは、また、少し間を置いた。
「先輩のことが好きな男の子も、女の子もたくさんいることは良く知っています。私のことなんて振り向いてもらえないって分かっているつもりでした。でも、もうダメなんです。お芝居の稽古で何度も先輩に抱きしめられているうちに、心のブレーキが壊れてしまったんです。これはお芝居なんだ、先輩は私のことを本当に愛しているわけじゃないんだって、頭ではちゃんと分かっていたんです。でも、もうダメなんです。もし、先輩に付き合っている人がいたら、それでも、なんとかなったかもしれません、でも、先輩は誰とも付き合っていないので、もう、どうしようもありませんでした。こんな告白をしたら、先輩が困ることも分かっていました。でも、もう、限界です。先輩、私と付き合ってくれませんか?」
言い切ると聖ちゃんは私の顔を見られなくなって下を向いてしまった。
私は迷った。聖ちゃんは、芝居の稽古だと分かっていたと言っていたが、実はそうでもなかったのだ。
素人とはいえ、演劇部員である私は、役になりきろうと努力していた。芝居の稽古中、私は、聖ちゃんは私の恋人なのだ、私は本当にこの子を愛しているのだと思い込もうとしていた。
しかし、役が憑依するにつれて、本来の自分の気持ちと、演じる登場人物の気持ちの境界は次第にぼやけていった。こういう言い方はしたくなかったが、聖ちゃんは清美に次いで二番目に好きな女の子だったのだ。本来、女の子が好きな私は、登場人物の気持ちとみごとにシンクロして、稽古の度に私は、本気で聖ちゃんを抱きしめていたのだ。白状してしまうと、本番では、私は本当に聖ちゃんにキスしてしまいそうになったのだ。
目の前にいる聖ちゃんが今までよりも愛しく思えた。女の子の私のことを好きだと言ってくれたことがすごく嬉しかった。聖ちゃんの気持ちを受け入れてあげたいと本気で思った。
女の子が好きなもの同士で、お互いに好意を抱いている自分たちが付き合うのは、自然なことのようにも思えた。しかし、それでも、やはり、聖ちゃんは清美ではなかった。
黙り込んでしまった私は、聖ちゃんに答えを促された。
「先輩、気遣いは無用です。イエスかノーか、はっきり言ってください。ノーと言われる覚悟はできています」
私は、はっきりと答えるしかないと思った。
「私は聖ちゃんのことが大好きよ。それは間違いない。でも、私はやっぱり女の子だから、聖ちゃんとお付き合いはできないわ。ごめんなさい」
そう言い放った自分を、私は刺し殺したい気分になった。私は、自分が最も聞きたくない言葉を聖ちゃんに投げつけたのだ。もし、聖ちゃんがナイフを構えて私の許に向かってきたら、私はその切っ先を避けることなく受け止めて、聖ちゃんを抱きしめたまま死ねるような気がした。
聖ちゃんは顔を上げると爽やかな笑顔を私に向けた。
「先輩、はっきり言ってくれてありがとうございました。先輩のことはきっぱりと諦めます。私の言ったことはどうか忘れてください」
凛としたその姿に、私は強く惹きつけられた。お芝居ではなく、本気で聖ちゃんを抱きしめてあげたいと思った。しかし、それは余計に聖ちゃんを傷つけることになると分かって辛うじて自制した。
「先輩は、どうぞ、先にお帰り下さい。鍵は私が閉めて、職員室に返しておきますから」
「そう、悪いわね」
さり気なく言ってその場を去るのが一番だと思った。
私は聖ちゃんの言葉通りにドアを開け、部室を後にした。歩き出すとすぐに、部室の中から号泣する聖ちゃんの声が聞こえてきた。
聖ちゃんの悲しみは痛いほどに良く分かった。ドアの向こうの聖ちゃんの姿が見えるような気がした。そしてそれは、やがて訪れる未来の自分自身の姿と重なった。
当然のように、その後、私は弁天池に向かった。まるで私を待っていたかのように、ベンチにはお姉さんの姿があった。
「今晩は」
挨拶をして私はベンチに腰を降ろした。
「今晩は、あら、今日は一段と浮かない顔をしているわね。何かあったの?」
「はい、実は私、後輩の女の子を傷つけてしまったんです」
そう切り出して、私は、聖ちゃんの告白のことを全てお姉さんに話した。
「私も、後輩の子と同じように、女の子が好きで、あの子のことも大好きなんだから、付き合った方が良かったんでしょうか」
全て話し終えてから、私はお姉さんに尋ねた。
「私は、そうは思わないわ」
まず結論を言ってから、お姉さんは理由を言ってくれた。
「いくらあなたたち二人が女の子同士で愛し合っていたとしても、今のあなたは、二番目に好きな子と幸せになれる気がしないの。付き合えば、遠からず、あなたには自分より好きな女の子がいることに、後輩の子は気づくはずよ。その方が、傷が深くなったんじゃないかな。『先輩は男の子が好きなんだ』と思っていた方が良かったんじゃないかしら」
「そうでしょうか」
「そうよ、そう思いなさい。出してしまった結果は、もう翻せないし、きちんと諦めさせてあげるのも、ひとつの優しさなんだから」
「はい、分かりました」
私は、少しだけ気が楽になった。お姉さんは、どうしていつも、そう言う言葉を私に与えてくれるのだろう。不思議だなと思った。
翌日、部活の初めに顧問の先生から、聖ちゃんが退部したことを聞かされた。
同じ学校に居れば、当然、その後も、聖ちゃんと顔を合わせる機会は何度もあった。その度に、聖ちゃんは優しい笑顔を向けて会釈をしてくれたが、決して、私に話し掛けてくることはなかった。
聖ちゃんはすごいと思った。一度告白をしてしまえば、もう元の先輩・後輩に戻れないことを聖ちゃんは知っていた。それを覚悟の上で、聖ちゃんは私に告白をしてくれたのだ。勇気があると思った。
そうして、悲しい結果を潔く受け入れると、私に気を使わせないように、好きな部活動からも身を引いてしまった。冷たい言葉を投げつけた私に対しても、顔を合わせれば優しい笑顔を見せてくれている。
自分にはとても真似ができないと思った。初めから結果が見えているのに、それを受け止めることができずに、清美から離れることができない自分が情けなかった。
聖ちゃんの告白からおよそ一月が過ぎた十一月の半ば、兄と清一君は第一志望の大学に推薦で合格が決まった。学部は違うが二人とも父たちが通った大学に進むことが決まった。
私たちは二家族合同で隣町にある洒落たレストランで二人の合格祝いの食事に出かけた。食事の後、飲み足りない大人たちと別れ、私たち仲良し四人組は兄の提案でカラオケボックスに入った。
女子二人はドアの近くに、男子二人は奥の方に腰を降ろした。一時間ほどして、私の歌のイントロが始まったところで清美が席を立った。
「ごめんね、ちょっとトイレ」
言い残して、清美は部屋から出て行ってしまった。一番が終り、間奏に入った所で今度は兄が席を立った。
「悪い、俺もトイレ」
そう言って兄が部屋を出たのと同時に、私は仕組まれたと気づいた。しかし、歌の途中でマイクを放り出してトイレに行くわけにもいかず、私は最後まで歌いきるしかなかった。
「ごめん、私もトイレ」
早口で言って立ち上がり、ドアノブを掴んだ。
「待ってよ、智子ちゃん」
背後から聞こえてきた清一君の言葉には少々怒りが滲んでいた。
「どうして君はいつも、僕に背中を向けて逃げようとするの?いい加減、しっかり向き合ってくれても良いんじゃないかな」
清一君の言葉が少しずつ優しさを取り戻していった。そして、私は悟った。清一君としっかり向き合うべき時が来たのだと。
私は「仲良し四人組」が崩壊するのをずっと恐れていた。清一君の告白を何度も断っておきながら、完全に突き放すようなきつい言葉を向けたことがなかった。清一君に嫌われたくはなかった。恋人にはなれないけれど、私は清一君のことが好きだった。大事な友達だった。友達に嫌われたい人なんていない。それは純粋な気持ちだった。
しかし、私には不純な思惑があったことも否定できなかった。私は清一君に嫌われることで、清美との間に亀裂が入ることを恐れていた。だから、私は清一君との関係にはっきりと決着をつけることを避けてきたのだ。
しかし、とうとう決着をつけるべき時が来たのだと、私は確信した。振り向いてくれない人を、いつまでも慕い続ける苦しみは、私が一番よく知っていた。私のことを追いかけている限り、清一君は決して幸せにはなれない。だから、決着をつけることは清一君のためでもあるのだと思うことにした。もし、私が清一君に嫌われて清美との間に隙間風が吹いたとしたら、それは私も清美のことを諦めるべき時が来たのだと受け入れるしかなかった。
私は、覚悟を決めて席に戻り、真っすぐに清一君と向き合った。
「ごめんね、清一君、私、もう逃げないよ。ちゃんと向き合うよ。しっかり話を聞くよ」
「智子ちゃん、ありがとう。じゃあ、言わせてもらうね。僕は君に認められたくて、ずっと頑張ってきた。野球部のエースにもなれたし、キャプテンにもなった。都立なのに夏の大会でベストエイトまで進めた。第一志望の大学にも推薦合格が決まった。もし、君がいなかったら、僕はここまで頑張れなかったかもしれない。自分で言うのも押しつけがましいかもしれないけれど、そろそろ君も、僕の気持ちを受け入れてくれてもいい頃じゃないかな」
普段は控えめなのに、珍しく自慢げに話をした割には清一君の顔には不安が浮かんでいた。私は、いきなり本題に入るのはとりあえず避けた。
「清一君は、本当によく頑張ったと思うわ。正直、頭が下がるよ。尊敬しているわ。昔から、ずっと良い人だと思っていたの。でも、それってイコール恋じゃないんだよね。だから私は清一君の恋人にはなれないの。ごめんなさい」
私は清一君に向かって深く頭を下げた。顔を上げると、清一君は黙ってうなだれていた。
傷ついている清一君に追い打ちをかけるようで気が引けたが、ここで留めて置いたら今までとまるで変らなくなる。私は覚悟を決めて清一君に氷のように冷たい言葉を浴びせかけた。
「さっき、清一君は私に認めてもらいたくて頑張ってきたって言ったよね。ということは、私は、もう、十分に清一君の役に立てたっていうことだよね。だから、そろそろお役御免にしてくれないかな?言葉を返すようだけど、もう、私のために頑張るのは止めてくれてもいい頃じゃないのかな?清一君が頑張っている姿を見るのは、実はすごく重苦しかったの。そろそろ私を重荷から解放してくれないかな」
傷口に塩を塗られるような言葉に、清一君の声は震えていた。
「これって、最後通告ってことかな?」
「そうね。そう思って欲しいわ」
私はきっぱりと言い切って席を立ち、泣き出しそうな清一君を一人ぼっちで置き去りにして部屋を出た。最低の女だと思った。
家に戻り、しばらくするとドアをノックする音がした。
「俺だ、ちょっといいか?」
兄の声だった。来訪は予想通りだった。ドアを開けると兄は、学習机用の椅子に座り、私はベッドに腰を降ろした。
「智子、話は聞いたよ。なあ、お前、考え直してくれないかな。俺が言うのもなんだが、あいつは良い奴だぜ」
「そんなこと、お兄ちゃんに言われなくても分かってるよ」
「だったら、なんで気持ちに応えてやらないんだ」
「子供の頃から知ってるから、男の子として見られないんだよ」
「なんだ、まだ、そんなことを言っているのか。なあ、お前が恋愛に消極的なのは、もう十分承知の上だが、お前も、もう十七だろう。そろそろ、思い切って自分の世界を広げてみるのも悪くないんじゃないか。それには、あいつは最適だと思うんだけどなあ」
兄が親友である清一君と、妹である自分の両方のことを考えてくれているのが良く分かった。できることなら、そんな兄の気持ちにも応えてあげたかった。
「お兄ちゃん、ごめん。私、やっぱりそんな気になれないよ」
「なあ、智子、あいつと一度もデートしないうちに、どうしてそんなに決めつけちゃうんだ」
答えられなかった。
「お前は、俺たち四人組の中でしか、あいつを見ていないだろう。二人になってみると、また違うものが見えてくるもんだぜ。たとえば、俺と清美だって・・・」
「お兄ちゃんののろけ話なんて聞きたくないわよ」
思わず向きになってしまった自分が嫌になった。
「そんなつもりはないけど、まあ、聞けよ。俺は清美が中学生になるのを待ってから正式に告白したんだけど、清美の奴、『武君が、そんな風に思ってくれてたなんて、まるで気が付かなかった』って言って、ものすごく驚いてたんだぜ。初めて会った時に一目惚れしてたなんて、お前にも清一にも見え見えだっただろうにな」
「へえ、そうなの」
私は、また嫌味な言い方をしてしまった。
「さっき言いかけたけど、清美と二人きりの付き合いが始まってからは、更に清美の良い所がたくさん見えてきたんだ」
「何よ、やっぱりのろけてるんじゃない」
どんどん嫌な女になってゆく自分を絞め殺したかった。
「そう言うなよ。もちろん悪い所だって見えてくるもんさ」
「清美のどこが悪いって言うのよ」
私の声は半ば怒声になっていた。
「鈍感すぎる所かな。たとえば、告白されるまで俺の気持ちに気が付かないなんて、ありえないだろう」
そうかもしれないと、少し思った。私が清美に対して友達以上の気持ちを抱いていることに、まるで気が付いていないのは鈍感であると言えなくもなかった。
そんなことを考えていると、また兄に声を掛けられた。
「なあ、清一と何回かデートしてやってくれないか。お前が納得しない限り、お前には指一本触れないと約束させるから。もし、約束を破ったら、俺はあいつをぶっ飛ばして絶交する。何回かデートしてみて、それでもお前の気持ちが少しも動かなかったら、俺が責任を持ってあいつに諦めさせる。お前はあいつのことが嫌いな訳じゃない、他に付き合っている奴がいるわけでもない。もし俺があいつの立場だったら、俺はお前の態度には納得がいかないよ。なあ、考えてみてくれないか」
「ごめん、無理だよ」
私にはそれしか言えなかった。
「なお、お前、どうしてそんなに頑ななんだ?お前、もう十七だろう、試しに何回か男とデートしてみるなんて、そんな難しいことじゃないだろう」
「無理だって言ってるじゃない」
ついに私は怒鳴ってしまった。
「智子、お前まさか・・・」
兄は言いかけた言葉を飲み込んでから話を逸らした。
「なあ、智子、俺と清美は夢みたいなことを話してたんだ。清美がこの家に嫁に来て、お前が清一の家に嫁に行って、隣同士でずっと一緒に暮らしていけたら天国みたいだなって」
二人の天国は私には地獄でしかなかった。
兄が出て行った後、私は弁天池に向かった。お姉さんに会いたかったからだ。弁天堂の前に着くと、お姉さんはベンチに腰を降ろしていた。
いつ見てもいる訳ではないのに、私が会いたいと思った時には、なぜかいつもお姉さんはそこにいた。
「今晩は、また会えたわね」
お姉さんは私に優しく微笑みかけた。
「今晩は」
挨拶を返して、私はベンチに腰を降ろした。そうして私は、その日の出来事を全てお姉さんに話した。
「女の子の気持ちにも、男の子の気持ちにも応えられないなんて、私ってひどい女ですよね」
そう言うと、お姉さんに少し叱られた。
「どうして、あなたはいつも自分を否定しようとするの?悪い癖よ。そういうのは、そろそろ卒業しなさい。そんなに自分をいじめることはないわ」
叱りながらも優しい言葉に癒されて、私は自分の反応の正否をお姉さんに尋ねた。
「やっぱり私は、彼とデートしてあげるべきだったんでしょうか?」
「まあ、それも一つの方法だったかもしれないわね。でも、あなたは『まだ少しは希望があるかもしれない』と彼に思わせたくなかったんじゃない?」
お姉さんの言葉は的を得ていた。まるで私の心の中を読んでいるかのようだった。
「はい、その通りです。そんなことをしてみたところで結果はわかりきっていましたから」
「それも、あなたの優しさだったんだって、いつか彼も気づく時が来ると思うわ、時間が掛かるかもしれないけど」
そんな時が本当に来るのか、私には分からなかった。まだ残る辛い気持ちを私はお姉さんに伝えた。
「『最後通告か?』って彼に聞かれた時に『そうだ』と言った時には胸が痛みました」
「『違うよ、卒業証書だよ』って言ってあげたら良かったかもね?」
お姉さんは、なんて優しい言い方をするのだろうと思った。
翌日の放課後、清美と一緒に家の前まで戻ってくると、私は、清美に話があると言われた。清美の家のリビングで向き合ってソファに座ると、私は清美に衝撃的なことを言われた。
「私、智子ちゃんのことが嫌いになっちゃった」
心臓が止まりそうな気がした。そんな私の心の内を知らない清美は、悲しげに前の晩の清一君の様子を話し出した。
「お兄ちゃん、昨夜、すごく落ち込んでたよ。『智子ちゃんに最後通告された』って。ねえ、智子ちゃん、どうしてお兄ちゃんの気持ちを受け入れてくれないの?お兄ちゃんのことが嫌いな訳ないのに」
私は決まり文句になってしまった言い訳を繰り返すしかなかった。
「何度も、言っているじゃない。『子供の頃から知ってるから、そんな風に見られない』って」
清美の顔は納得していないように見えた。
「それってさあ、普通、好きじゃない幼馴染とかに言う台詞じゃない」
清美にしては珍しい批判的な口調だった。
「お兄ちゃんが頑張る姿が重荷だったなんて、どうしてそんな酷いことが言えたの?」
想像したこともない清美の強い口調に私は言葉を失い俯いてしまった。信じられないことに、それでも清美は追撃の手を緩めてはくれなかった。初めて清美の自己主張を聞いたような気がした。
「ねえ、お兄ちゃんが可哀そうだと思わないの?お兄ちゃんは、初めて会った小学校六年生の時から、ずっと智子ちゃんのことが好きだったんだよ。告白してきた女の子なんて何人もいたけど、全部断って、智子ちゃんが振り向いてくれるのを待ってたんだよ。約七年間、智子ちゃんに認めてほしくて、あんなに頑張ってきたんだよ。ねえ、お兄ちゃんが可哀そうだと思わないの?」
私は、出会った日からずっと、清美のことだけを思い続けてきた自分を可哀そうだと思って欲しかった。そう言いたかった、もちろん言えなかった。すっかり黙り込んでしまった私の様子を見て、とうとう清美も諦めたのか、呆れたようにお決まりの台詞を口にした。
「ねえ、もう、何万回も聞いたような気がするけれど、智子ちゃん、誰か他に好きな人がいるの?」
いるよ!目の前にいるよ!私が好きなのはあなたよ!そう言いたかったが、言えなかった。しかし、今度ばかりは本当にその言葉が口から出そうになって、私はそれを必死に飲み込んだ。何万回も繰り返してきて初めてのことだった。
それが余りにも辛くて、不覚にも私は涙をこぼしてしまった。
「ごめんね。もう、この話は二度としないから」
そう言って差し出された清美のハンカチを受け取り、私は涙を拭った。
「それと、もう一つごめんね。さっきは興奮して、つい言っちゃったけど、私、智子ちゃんのこと少しも嫌いになったりしてないから」
その言葉を聞いて、止まりかけていた涙が勢いをましてしまった。
清一君と付き合えないのは、あなたが好きだからよ!
改めて、そう、言ってしまいそうな気がした。同時に私は、自分が極めて危ない橋を渡っていることに気づいた。自分の気持ちを永遠に隠しきれる自信がなくなったのだ。禁断の言葉を口にした時、私は、自分が聖ちゃんと清一君を突き落としたのと同じ谷底に突き落とされるのだ。
危険な橋を渡りきることができないことは分かりきっていた。たとえ私が、禁断の言葉を口にすることがなくても、いずれ何らかの形で、自分が谷底に落ちてゆく運命は動かしようがなかった。
その日がやがて、確実にやって来ることを、私は初めて強く思い知らされた。
そして、その日は、思いもかけない形で訪れた。
清美の家のリビングで話をした数日後、バイト先の店が機械の故障で臨時休業になったという連絡を受け、私はしかたなく家に帰った。
制服のままベッドの上にゴロンと横になり、少しうとうととしてから目を覚ますと、誰かが階段を上がってくる音が聞こえた。この時間では両親のはずはなかったが、足音は一つではないような気がした。
「武君の部屋に来るのは子供のころ以来かしらね。でも、智子ちゃんが帰ってきたらどうするの?私、武君の部屋でいちゃついてたなんて思われるの嫌なんだけど」
清美の声がドア越しに聞こえてきた。
「大丈夫だよ、あいつ今日はバイトで夜遅くまで帰ってこないから」
兄は私のバイトが中止になって、隣室にいるとは思ってもいなかったのだ。それから、隣室のドアが開いて、二人が中に入ったのが分かった。
私は、二人に気づかれてもいいから、黙って部屋を出て行こうかと思った。二人が付き合っていることなど、昔から秘密でもなんでもなかったので、二人がほんの少しだけ気まずい思いをするだけで済むことなのだから。
とは言え、それも野暮な気がしたので、私はいない振りをして過ごすことにした。しかし、それは、大きな失敗だった。
しばらくすると、突然、清美の絶叫が壁越しに聞こえてきた。
「え、嘘。本気で言っているの?」
清美がそんな大きな声を上げることなど今まで聞いたことがなかったので、私は少なからず驚いた。清美の絶叫に反応してか、続く兄の声もかなり大きくなっていた。
「俺、ずっと我慢してきたんだぜ。大学に受かったらお前に頼もうと思って頑張ってきたんだ。なあ、そろそろ良いんじゃないか?」
兄が、とうとう清美の体を求めたのだと分かってしまった。次の瞬間、私の中で兄に対する激しい嫉妬が燃え上がった。隣の部屋に乗り込んで兄の蛮行を阻止してやろうかと思った。しかし、そんなことをすれば、私と清美の関係にも亀裂が入る恐れがあった。私はとにかく少し冷静になろうと思った。
どうにか冷静さを取り戻すと、私は無意識のうちに自分に都合の良い空想を始めてしまった。
私は、清美がそういう本面に関しては極めて慎重なのをよく知っていた。だから私は、たとえ兄に求められても、清美が高校生のうちに応じることはないだろうと、ずっと思っていた。いや、応じて欲しくないと願っていただけかもしれなかった。
いずれにしても、二人がこのまま、兄の部屋で行為に及ぶことはないだろうとタカをくくっていた。少なくとも、それなりの所に場所を移すだろうと思っていた。
隣室で騒動が起こっている気配はなかったので、兄のもくろみは清美にかわされて、少々気まずい沈黙が続いているという推理を立てて安心したころだった。
私は、この世で最も聞きたくないものを耳にしてしまった。壁越しに兄に愛されている清美の声が聞こえてきたのだ。
壁越しとは言え、私は、兄と清美の初体験に間近に接してしまったのだ。清美はとうとう、身も心も兄のものになってしまった。そう思った途端、体中に針を刺されたな気がした。
しかし、同時に清美の声に興奮している自分が、漫画などに登場する禍々しい魔獣のようにおぞましく思えた。私はその魔獣を、原型を留めないくらいに切り刻んでやりたい気分だった。
耳を塞いでも無駄だった。清美の声は容赦なく壁を素通りして、私の耳に突き刺さっていった。私は、音を立てないように自分のカバンからスマホを取り出すと、イヤホンを耳に差して最大音量で音楽をかけた。
それでも、曲の間には、清美の声はナイフのように私の心をえぐった。まるで地獄の業火に焼かれているような苦しみに私は必死に耐えた。一秒がまるで一時間ぐらいに感じられた。
二人が部屋を出たのを確認してから、私は家を出た。足は当然のように弁天池に向かった。
私の期待通り、お姉さんがベンチの端に座っているのが見えた。私はいつものようにお姉さんとは反対側のベンチの端に腰を降ろして挨拶をした。
「こんにちは」
そう言ったきり、私は次の言葉をつなぐことができなかった。お姉さんの顔を見て気持ちが緩んだのか、一気に涙が溢れてきた。どうすることもできなかった。あっと言う間に私は顔を覆って号泣していた。
すると、私は自分の肩を抱いてくれたお姉さんの温もりを感じた。今まで、何度も話は聞いてもらったが、お姉さんが私との間をつめて私に触れたのは初めてだった。
「泣きなさい。何も言わないでいいから、好きなだけ泣きなさい」
お姉さんの優しい言葉は、更に涙の速度を加速させた。いったいどれだけ泣いていたのか、私には見当もつかなかった。でも、お姉さんは、全く何も言わないまま、私が泣き止むまで、ずっと私の肩を抱いていてくれた。
「すみませんでした」
涙が枯れ果てるまで泣いてからそう言うと、お姉さんが私の肩から手を離した。
「良いのよ、気にしないで」
お姉さんはどこまでも優しかった。だから、私もあったことを全て話した。
「そう、それは辛かったわね」
いつもとは違って、お姉さんまで泣きそうな声でそう言ったので、私は迷うことなく弱音を吐いてしまった。
「お姉さん、私、もう限界です。これ以上、とても耐えきれません。私、これからは二人の顔を見る度に、二人が愛し合っている様子を想像してしまうような気がするんです。毎日、そんなことを想いながら暮らすのは、もう、嫌です」
「そうかもしれないわね」
「兄と清美は、もうずっと前から結婚する意志を固めているんです。私は、清美の花嫁姿も兄との間にできた子供の姿も見たくないんです。私は、好きな人たちの幸せを祝福してあげることもできないひどい人間なんです。もう、死んでしまいたいくらいです」
「だめよ、死ぬなんて言っては」
そこだけは戒めるような口調だった。
「すみませんでした。死ぬなんて、もう、言いません。でも、どこか遠くへ行ってしまいたい気分なんです。二人の顔を見なくてすむように」
私がそう言うと、お姉さんは少し考え込んだような顔をしてから口を開いた。
「ねえ、留学でもしてみたら。あなた、海外に頼れる親戚とかいないの?」
言われて初めて、そんな方法もあったのだと、気づいた。同時に私は母の弟である叔父さんのことを思い出し、そのことをお姉さんに伝えた。
「叔父がロサンゼルスに住んでいます。実は叔父さんは、同性婚が認められた後、パートナーだった男性と結婚して、とても大きな家に住んでいるそうです」
「じゃあ、その叔父さんを頼って向こうの高校に転校できないかしら?」
「どうでしょう」
私には考えたこともなかったことだったので、それ以上答えようがなかった。
「あなたは、日本にいるよりも向こうに行った方が暮らしやすいかもしれないわね」
「そうですね、そうかもしれません」
「それに、あなたは、いつか演劇関係の仕事に付きたいんでしょう。ハリウッドを目指してみるのも良いんじゃないかしら」
演劇関係の勉強をして、将来はその関係の仕事をしたいと思っていたことは紛れもない事実だったので、少々唐突でも悪くない話だった。お姉さんの提案はまるで魔法のように思えた。
「お姉さん、ありがとうございます。私、真剣に考えてみます」
「あら、そう。まあ、何にしても、あなたが少し前向きになれて良かったわ」
お姉さんは満面の笑みを浮かべていた。
その夜、私は早速、叔父にメールを送った。全ての事情を包み隠さずに伝えた。翌朝には早くも叔父からの返事が届いた。喜んで歓迎するとのことだった。叔父の結婚相手も、私を迎えることには大賛成で、うまく気が合えば、将来は養女として迎えても良いのではと、少々気の早い冗談めいた話まで伝えてくれた。
お姉さんのアイデアを聞き、叔父の快諾を得た直後は、私は少し浮かれ気味になった。しかし、すぐにそんな気分はしぼみ始めた。アメリカに行くのは単なる逃げでしかないような気がしたてきたのだ。
そして、現実も見え始めた。アメリカに行くということは、単なる逃避でできることではなかった。英語も話せない自分が、誰一人友達もいない異文化の国で生きてゆくのは別な意味で、現状よりも辛い日々になるはずだった。
だが、考えているうちに少しずつ気持ちが変わり始めた。私が日本を去るのは、四人組の他に三人のためになることでもあった。
もし、私の秘密を兄と清美が知ることになれば、清美が困惑し、悩むことは目に見えていた。兄との仲にも影響することは間違いなかった。二人が別れてしまうという最悪の事態に発展する可能性もないとは言えなかった。兄にしても、私が傍に居る限り、常に私のことを気にしないではいられないはずだった。清一君も、あの後は、以前と同じように接してくれてはいたが、いまだに誰とも付き合ってはいなかったし、私のことに関して完全に気持ちの整理がついたのかどうかは分からなかった。
考えているうちに、私は、ふと、聖ちゃんのことを思い出した。聖ちゃんは、叶わなかった私への思いにきちんと蓋をして、私の前から去った。凛としたその姿は、決して逃亡者のそれではなかった。
それに、演劇関係の仕事につくことを目指して勉強をしたいという思いは決して嘘ではなかった。清美への思いを断ち切り、みんなの幸せを願い、異国の地で夢を追いかけ、自分らしく生きてゆくことは、決して逃げではないのだと思えるようになった。
三日間考えて、私は心を決めた。アメリカに行こうと。そして、もう、二度と日本には帰るまいと。
決心がついた日の夜、私は、夕食の終わりに、その話を持ち出した。予想通り、両親は大反対だった。アメリカの大学を出て、二十五歳まで頑張ってもダメだったら必ず日本に帰ってくると言い始めた頃から、母も私の意見に理解を示し始めた。最も意外だったのは、兄が私の希望を強く後押ししてくれたことだった。
結局、その場では父の承諾は得られなかったが、母のとりなしで、とりあえず話は、プラスの方向で打ち切られた。
その後、そろそろ寝ようかと思った頃、私の部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「俺だ、ちょっといいか?」
兄の声だった。
私はドアを開け、兄を部屋に入れた。兄は私の机の前の椅子に腰を降ろし、私は自分のベッドの上に座った。
「お前、演劇部員のくせに芝居が下手だな。とても女優にはなれないな」
兄はぶっきらぼうに話し始めた。
「どうしてよ?」
私は不機嫌な顔で答えた。
「嘘が下手だからさ。お前が演劇関係の勉強をしたがっていたのは知っているが、このタイミングで、突然アメリカの高校に転校だなんて、どう考えてもお前らしくない。お前、どうして途中から母さんが賛成に回ったのか分かってないだろう。気がついたんだよ、お前の嘘に。母親だからな」
「偉そうに言わないでよ。私、嘘なんかついてないわよ」
更に不機嫌な顔になった私に構わず兄は続けた。
「いや、お前はもっとひどい嘘をついている。二十五歳まで頑張ってダメなら日本に戻ると言ったけど、お前は、もう日本に戻ってくる気は無いんだろう」
どうしてそこまで兄に読み切られていたのか、私には見当がつかなかった。
「悪かったな、気づいてやれなくて。浮かれていた俺は、ずっとお前にとってひどい兄貴だったんだな」
「何をわけわからないこと言っているの」
もはや、私は平静を装うことが難しくなっていた。
「すまなかった。お前は、ずっと清美のことが好きだったんだな」
「当り前じゃない、親友なんだから」
「智子、そういう意味じゃないよ」
絞り出したように言った兄の言葉に、まとっていた鎧が全て剥がれ落ちた。
「違うよ、私は、私は・・・」
否定すればするほど、流れ出した涙が兄の言葉を肯定するばかりだった。
三学期が終ったらアメリカ行くと決まった後も、相変わらずあれこれと悩むことは多かった。しかし、それらは以前ほど切実なものではなかった。清美がすっかり兄のものとなってしまってからは、もう、それ以上落ちる場所はなかった。アメリカ行きの日取りも決まると、それが卒業式の日程のように思えてきて、私はそこまでの日数を数え始めていた。
アメリカ行きが決まってから、私は、そのことをお姉さんに報告しようと、何度も弁天池を訪れていたが、留学のアドバイスをくれて以来、お姉さんはまるで姿を現さなくなった。
年が明けて、春。三月の第一土曜日に、兄と清一君の卒業式があった。そして、日曜日を挟んで月曜日から、私たちの三学期の期末試験が始まった。
朝、いつものように時間通りに門前で待ち合わせをして、私たちは駅に向かった。
「ああ、そうだ」
途中、急に思い出したように、清美が自分のカバンの中を探った。
「はい、これ、お兄ちゃんからの手紙」
私は清美から封筒を手渡された。
「お兄ちゃん昨日、急に旅に出るって言ってどっか行っちゃったの。今時、自分探しの旅なんて流行らないのにね」
「今日の試験が終わってから、ゆっくり読むね」
私は受け取った封筒を自分のカバンの中に収めた。転校してしまう私には、もう期末試験はそれほど重要ではなかったが、何が書かれているにしても、とりあえず試験前に読むのは止めておこうと思ったからだ。
帰宅してから、私は自分の部屋の勉強机の上に、清一君からの手紙を広げた。清一君らしい奇麗な字で書かれた手書きの手紙だった。
智子ちゃんへ
ちょっと旅に出ることにしました。出発を見送ってあげられなくてごめんなさい。
あの日、僕は君から最後通告を突きつけられたと思いましたが、昨日の卒業式の途中に考えが変わりました。
僕は、君から、子供っぽい四人組の卒業証書を渡されたんだと、今は思っています。
君が色々なものを捨てて、アメリカで頑張る道を選んだように、僕は君がいなくても、日本で頑張れる男になりたいと思います。
君の夢が叶うことを遠くから祈っています。いつまでもお元気で。さようなら。
清一より
追伸 もしかしたら、僕たちは似た者同士だったのかもしれませんね。
追伸を読んだ時、あるいは清一君も、私の清美への気持ちに気づいたのかもしれないと思った。そして、私は、もう一つやり残していることがあることに気がついた。それは、清美を四人組から卒業させてあげることだった。
翌日、私はすぐに行動に出た。清美とクラスメートの仲を取り持つ計画を立てたのだ。幸いなことに私たちが通う高校では二年と三年の間ではクラス替えがなかったので好都合だった。クラス内でしっかりと根回しをした後、放課後、私は清美をファミレスに誘い、話を切り出した。
「ねえ、清美ちゃん。試験の最終日にクラスの女の子数名で、カラオケに行くことになったから清美ちゃんも来てよ」
「ええ、嫌だ、私」
清美の反応は予想通りだった。
「うん、たぶん、清美ちゃんはそう言うと思った」
「じゃあ、何で誘ったの」
清美は少しいぶかし気な顔をした。
「うちのクラスの子たち、みんな良い子だよ。本当は、みんな清美ちゃんと友達になりたいって思ってたんだよ」
「そうかしら、私にはそうは見えなかったけど」
「それはね、みんな私が、ああ私とお兄ちゃんが悪かったの。今だけじゃないよ、小学校の頃から、私たちが清美ちゃんを独占しちゃったから、みんな清美ちゃんに近づきにくくなっちゃっただけなのよ」
「そうかな、そんな風には思えないけど」
「ううん、清美ちゃんが気づいていないだけよ。ねえ、聞いて。私たちが逆のことをさせておいていうのもなんだけど、清美ちゃんも、そろそろ、もっと自分の世界を広げるべき時だと思うんだ」
「世界を広げるってどういうこと」
「まず、手始めに、クラスの子と、もっと仲良くなって欲しいの」
「別に、私、みんなと仲が悪いわけじゃないと思うけど」
「そうね。でも、みんなに心を開いてはいないよね」
清美は一瞬黙り込んだ。
「清美ちゃんには、クラスの他の子たちとも、私と同じように接して欲しいの」
「ええ、そんなの無理だよ」
「うん、もちろん最初からは無理かもしれない。でも、努力して欲しいの。清美ちゃんさえその気になれば、きっといい友達になれるよ」
「どうして、そんな努力してまで、他の子と友達にならなきゃいけないの?私は、智子ちゃんがいれば、それで十分だよ」
「そうね、そう思わせちゃった私がいけないのよね」
私は、そこで一度言葉を切ってから、後を続けた。
「ねえ、清美ちゃん。よく聞いて。お兄ちゃんたちは、もう卒業しちゃった。私は、もうすぐ転校しちゃう。もう、学校では、誰も清美ちゃんの傍にはいてあげられないの。でもね、逆に考えれば、清美ちゃんはやっと私たちから解放されるんだよ。私たちに縛られずに、やっと清美ちゃんらしく生きていけるってことなんだよ」
「そう、言われてもなあ」
「ねえ、清美ちゃんは、将来小説家になりたいんだよね。だったらもっと、色々な人と付き合うべきじゃないかな。世の中には色々な考えの人がいることが分からなければ、小説の世界も広がらないよ。あと、私以外の人にも清美ちゃんの小説を読んでもらうべきじゃないかな。人はそれぞれ考え方が違うんだから、色々な人から感想を聞くべきだよ。もちろん、批判されることもあるだろうけど、いつまでも、それを恐れてたらダメだと思うんだ。私だって自分の演技を批判されて落ち込んだこともあるよ。でも、それも成長するうえで良い経験になったの。たぶんクラスの中にも清美ちゃんの小説を読みたいって思ってくれる人もいると思うの。あと、そうね、小説の投稿サイトに作品を発表してみるのも良いんじゃないかしら」
「智子ちゃん、そんなにたくさんのこと簡単に言わないでよ」
「ああ、ごめんね。でもね、私、清美ちゃんには自分の世界を広げて欲しいの、少しずつでいいから、頑張ってみてくれないかな。とりあえず、クラスの子たちと、もう少し親しくしてみようよ」
「わかったわ。智子ちゃんがそこまで言うなら、ちょっと頑張ってみるわ」
「ありがとう」
予定通り、試験の最終日、私たちはカラオケに出かけた。まず、クラスメート全員が清美の声の美しさと歌の旨さに感嘆の声を上げた。早速、軽音楽部の明子からは、次のライブにゲスト出演して欲しいというお誘いが掛った。清美はとりあえずは断ってはいたが、とても嬉しそうな顔をしていた。
その後のファミレスでのガールズトークも期待を遥かに上回る結果になった。清美が小説を書いていると知ると、みんなが興味を持って読みたいと言ってくれた。その様子は決して社交辞令ではなく、清美も上機嫌だった。更には漫画研究部の幸子が、清美が好きなマイナーなアニメのファンであることが分かり話が盛り上がった。そんなわけで、清美の卒業計画第一弾は大成功を収めた。
その後も、ことは私の期待を大きく裏切らない範囲で進んだ。試験後の学校生活は授業らしい授業が殆どなく、クラス単位での体験活動的ななどが多く、生徒同士が話し合う機会も多くなった。元々引っ込み思案の清美だから、少しずつではあったが、着実にクラスメートたちと馴染んでいっていた。
そして、驚いたことに、清美は自分の小説を投稿サイトで発表した。清美の小説は中々好評で、数々の感想が寄せられていた。そうして、感想をくれた内の一人とは、互いの作品を良い所だけではなく、問題点まで語り合い、今後の作品の構想について意見交換をするようにまでなっていた。
私は、清美が私に言われたのを機に、自分の意志で自分の世界を広げ始めたのに気づいた。私は、それが嬉しかった。しかし、その反面、清美が私と別れる準備を始めたような気がして少し寂しかった。
ところが残念なことに、清美とかなり仲良くなりかけていた幸子が、お父さんの都合で急に大阪に転校することになってしまったのは大きな痛手だった。二学年の修了式まで、あと一週間という時期の突然の出来事だった。
そして、迎えた修了式の当日、意外な出来事が起こった。サプライズで、私と幸子のお別れ会が企画されていたのだ。担任の山田先生が音楽の先生だったので会場は音楽室に設けられていた。私と幸子は音楽室の後方に新郎新婦のように並んで座らされた。テーブル状に並べられた机の上にはお菓子や飲み物が置かれていた。
「それではこれから、二人のお別れ会を始めます」
司会役の高橋さんの言葉で会が始まった。
「まずは、写真部の水野君が作ってくれた思い出ビデオの上映です」
高橋さんの紹介の言葉と共に黒板の前にスクリーンが降りてきて、ビデオプロジェクターが起動した。
それから、水野君が卒業アルバムにも使えるようにと撮った写真がBGMと共に映し出されて行った。私と幸子が写っている写真がメインになっていた。
学年初めのクラスでの自己紹介から始まり、遠足、体育祭、文化祭、修学旅行など、懐かしい思い出がいっぱいだった。
それが終るととりあえず歓談の時間になった。その間、私と幸子は次々とやって来るクラスメートとのお別れの挨拶や写真撮影に追われた。
そうして、最後に私たちはクラス全員からのメッセージが書かれた色紙をもらい、クラスのみんなにお礼とお別れの言葉を贈った。
それで終わりかと思ったがそうではなかった。
「それでは、最後に旅立つ二人に歌のプレゼントです」
高橋さんにそう言われて気づくと、いつの間にか、ピアノの前にはマイクが用意されていた。私は担任の山田先生がお別れに合う歌を歌ってくれるのだろうと思った。しかし、私の予想は信じられないような形で裏切られた。ピアノの前に座ったのは清美だった。
清美は、マイクを自分が歌いやすいように調節すると、口を開いた。
「皆さん、今まで、クラスのことにあまり協力的でなかった私の提案に賛同してくれてどうもありがとうございました。一週間という短い準備期間でこんなに素晴らしい会が開けるとは思ってもいませんでした。協力してくれた皆さん、参加してくれた皆さんには本当に感謝しています」
清美が、この会の発起人だったなんて、とても信じられなかった。少し前の清美からはとても想像できないことだった。しかも、準備を始めたのが一週間前ということは、清美は私のためだけでなく、幸子のことを思って、この会を思いついたということを意味していた。
そして、その後に続く清美の言葉には、ただ、唖然とするしかなかった。
「実は、私には隠れた趣味があります。それは自分で歌を作ることです。でも、私は、今まで誰にも自分の歌を聴いてもらったことがありません。今日、初めて皆さんに聞いてもらうことにしました。一週間前に幸子ちゃんが転校すると聞いてから作った歌を今日は皆に聞いて欲しいと思います。タイトルは『友へ』です」
歌の紹介が終ると、清美はイントロを奏で始めた。美しいメロディのスローバラードだった。清美の透き通った声は、私の心の隅々にまで広がっていった。
一週間前に作ったというのだから、私のためだけに作ったのではないというのは明白だった。その歌は私のためだけに書いた清美の小説とはまるで別物だった。歌詞の中には私との思い出につながるものは一切なかった。送る側と送られる側、どちらも感情移入ができる素晴らしい歌詞だった。更に言うと、その歌詞はクラスのメンバーだけではなく、広く世間一般の人が共感できるものになっていた。
そして私は気づいた。私にさえ隠していたシンガーソングライターという顔を、クラス全員に見せた清美は、自分自身を広く世間に開いたのだと。きっかけを作ったのは私だったかもしれないが、清美は自分自身の意志でそれを成し遂げたのだと
清美が歌い終わった時、クラスの女の子の多くが泣いていた。拍手さえできない程の沈黙を破るように高橋さんが言った。
「先生、私、この歌を来年の卒業式で歌いたい」
「私も」
「私も」
何人かの声がそれに続いた。
「そうね、卒業式の式歌にはピッタリね。私から、他の担任の先生方に呼び掛けてみるわ。そうなったら、伴奏は清美ちゃんに決定ね」
山田先生の声も涙ぐんでいた。
「だったら俺、指揮をやる」
野球部の加藤君が、突然、指揮者に立候補した。
「馬鹿野郎、素人に任せられるか。指揮をするのはこの俺だ」
吹奏楽部の木村君が割って入った所で一斉に笑いが起こった。
見ると、清美も笑っていた。それは、七年間一緒に過ごしてきて一番の笑顔に見えた。
アメリカになんて行きたくない。私は強く思った。シンガーソングライターという顔を見せ、これからどんどん自分の世界を広げて、もっともっと輝いてゆく清美をずっと傍で見ていたいと思った。それができるのなら、どんな苦しみにでも耐えていけるような気がした。
しかし、それは私が選ぶべき道ではないと、すぐに気づいた。四人組から卒業できていなかったのは私の方だった。
公園の桜が満開を迎え、いよいよ私の出発の日が近づいてき頃になると、私は、毎日、弁天池に足を運んだ。どうしても、お姉さんにお礼とお別れが言いたかったからだ。しかし、お姉さんには、ずっと会えないまま日々が過ぎてゆくばかりだった。
出発の前日、とうとう私は、お昼ごろから、ずっとベンチに腰を降ろしてお姉さんを待ち続けた。しかし、午後三時を過ぎてもお姉さんは現れなかった。それでも諦めきれずにベンチに座っていると、偶然兄が通りかかった。
「あれ、こんな所で何をしているんだ。弁天様に願い事でもしたのか?」
兄は言いながら私の隣に腰を降ろした。
「ああ、違うよ、ただこの場所が好きなだけ。お兄ちゃんこそ、どうしたの?何か願い事でもあったの」
「まあ、無くはないけど、願ったところで叶わないからな」
兄は、ため息交じりにそう言うと空を見上げた。
「何なの、その叶わない願い事って?」
「漫画みたいにさ、ほんの少しの間だけ、俺とお前の体が入れ替われば良いのにって、思ったのさ」
兄は少し照れたように笑った。
「そんなことして、どうなるっていうの」
私が馬鹿にしたように言うと、兄の表情が真剣なものに変わった。
「そうしたら、お前があいつと、最初で最後の思い出が作れるじゃないか」
決して叶うことのない兄の優しい思いが、私の胸を少し締め付けた時だった。
「君、それ、本気で言っているの?」
二人して声のした方を見ると、硬い表情をしたお姉さんがそこに立っていた。
兄はお姉さんの質問に答える代わりに私に問いかけてきた。
「おい、この人はお前の知り合いか?」
「お姉さんは、私の相談相手だったの。私たち四人のことも全部ご存じなの」
兄は改めてお姉さんの顔をしっかりと見るとまず、頭を下げた。
「初めまして、こいつの兄です。妹が色々お世話になったようで、どうもありがとうございました」
お姉さんは、相変わらず硬い表情を崩していなかった。
「どういたしまして」
そう言った後、お姉さんは先ほどの質問の答えを改めて兄に求めた。
「ところで君、さっきの私の質問にまだ答えてくれていないわね。もし妹さんと体が入れ替わったとして、君は自分の恋人を他人に貸すような真似ができるの?」
兄は、極めて真剣な表情でお姉さんの問いに答えた。
「妹は他人じゃありません。それに妹は俺と同じように、いや、もしかしたら俺以上に、あいつのことをずっと愛していたんです。口が裂けても、あいつには話しませんが、もし話せば、あいつだって喜んで受け入れてくれると思います。誰もが皆、正しいことだと思ってはくれないでしょうが、俺は悪いことだとは思いません」
「どうやら本気みたいね」
「本気です」
兄はきっぱりと言い切った。
「じゃあ、君の願い事を叶えてあげるわ」
そう言うとお姉さんは私たちのすぐ前まで近づき、私の頭の上に右手を、そして兄の頭の上に左手を置いた。
すると一瞬、目の前が真っ暗になった。次の瞬間、私は、視線の角度が少し変わっていることに気づいた。
「え!」
驚いた声が上がった方を見ると、そこに呆気にとられた自分の顔が見えた。私は、お姉さんの言葉通り、兄と自分の体が入れ替わったのだと気づいた。お姉さんは兄の体の中にいる私に向かって語り掛けてきた。
「難しいことは考えずに、お兄さんからのプレゼントは素直に受け取りなさい。まあ、タイムリミットは日が沈むまでかしらね。じゃあね、智子ちゃん、向こうに行っても元気でね。さようなら」
お姉さんは、言い終えると弁天堂の裏手へと歩いて行き、そのまま消えてしまった。
「あいつの所に連絡を入れておいた、家の前で待ってるってさ」
お姉さんが消えてからしばらくして、私の体の中の兄がそう言った。
「じゃあ、俺は図書館で暇をつぶしているから」
言い終えて立ち上がった私の体の中の兄に、私は声を掛けた。
「ねえ、お兄ちゃん、本当に・・・」
「早く行けよ、時間がもったいないぞ」
私の言葉は兄に遮られた。
その後、私は兄の部屋で、一生分、清美を愛した。
最後に清美がぽつりと言った。
「ねえ、今日はどうしたの?なんだか女の子の体を隅々まで知っているみたいだったよ」
ダメだ、泣いてしまうと思った。
次の瞬間は、私は図書館で泣いていた。