嶋岡蒼菜(しまおかあおな)さん」


声が、届いた。


鳥のさえずり、揺れる木々の音、自身の息遣いしか聞こえなかった世界に、唐突に。声のした方に振り向くと、同じクラスの三代くんがいた。

制服の上に紺のパーカーを重ねている姿を見るに、寒いのが苦手なのだろうか。確かに今日は風が強く肌寒いけれど、そこまで着込むほどだとは思わなかった。ベンチに座るわたしの脇を通り、防護柵越しに町を見下ろす。

小高い丘になってるこの場所からは、町が一望できた。わたしは景色に興味がないから、人気のない、日常から離れられる場所としてここを選んでいる。


三代くんとこの場所で会うのは初めてではない。約束をしているわけでもないから、たまに会うことがある程度。大体後からやってくる三代くんはわたしの名前をフルネームで呼ぶ。

何か話をすることもなく、三代くんは缶コーヒーを一本、時間をかけて飲み干して、わたしを置いて去っていくことが多い。今日はやたらとゆっくり、コーヒーを呷っていた。


膝の上に置いた写真集のページを捲る。

雨の日のあとの水溜まり越しの世界しか撮らない酔狂な写真家の本。SNSでは無題で写真をアップしていて、コメントに返信もしない。プロフィールは何も公開されていなくて、この本にも文字はなかった。

ただただ、静かな世界が閉じ込められた本を捲るたびに、自分の知らない世界が目に飛び込んでくる。気持ちのカンフル剤は時期によって移ろうけれど、今のわたしにはこれがいちばんの拠り所となっていた。


「嶋岡蒼菜さん」
「名字か名前、どちらかでいいよ」
「蒼菜さん」


ああ、名前で呼ぶんだ。どちらでもいいけれど。というか、このやり取りも何回目かわからない。三代くんは特段変わった人ではないはずだ。教室では目立たないけれど、勉強ができて気立てがいいからか、周囲には常に人がいる。ここでひとり、遠くを眺める姿を見ていると、実はそういう日々が生き辛かったりするのだろうかと邪推してしまう。

不可侵だ。わたしは何も語らないし、三代くんも何も聞かない。


「蒼菜さん、これ見て」
「写真? 北公園の花壇だね。噴水側の、自販機の横」
「どうしてそこまでわかるんだよ」


引き気味に笑って、三代くんは同じベンチに座った。差し出された写真は間違いない、今わたしが言った場所。北公園は以前、わたしの安息地だった場所。そういえば最近は寄り付いていない。


「桔梗が植わってるんだ。前はここ、コスモスだったのに」
「へえ、今年は噴水回りがコスモスになってたよ」
「出世したんだ」


遠目にコスモスと見紛うアルペンアスパーが去年の噴水前の花壇を占めていた。わたしも週末に見に行こうか。でも人が多いかな。外に出たとしても、最近のお気に入りのこの場所を目指してしまうかもしれない。


「いい写真だね」
「ありがとう。蒼菜さんのそれは、Shiroさんの本?」
「わかる?」
「前に蒼菜さんが教えてくれたから」


そういえば、以前話したような気がする。三代くんはスマホで撮った写真を週に一枚だけ、コンビニで印刷するらしい。写真なんて結局、撮ったって見返さないからとあまりカメラを使うことのないわたしと、現像して飾っておけば目につくからという三代くんの根っこは似ているように思う。特に気に入った写真を、三代くんはたまにこうして、見せてくれる。


「Shiroさんは、コメントをしないし返信もしないけれど、写真には必ず日時を入れるって言ってたっけ」
「そう。この写真集にも、日付と時間だけは全部書いてあるの」
「見てもいい? これと、これさ、場所が書いていないからわからないけど、同じ時間帯で明るさが違うってことは、Shiroさんは同じ場所に留まっていないのかな」
「さあ……謎の多い人だからね」


海岸の水溜まりを写した写真を見開きで二枚、見比べる。日付は一日違い、時間は数分差。同じ場所ではないようだった。

たとえば特異日のような晴れが全国に広がる日には、Shiroさんはどこにいるのだろう。雨を探して旅をしているのか、雨の多い場所に住んでいるのか、全てが謎に包まれた人。Shiroさんの写真や感性には惹かれるものがあるけれど、Shiroさんを知りたいと、暴きたいと思ったことは一度もないから、三代くんのような考えに行き着いたことがなかった。


「三代くんはSNSに写真上げたりしないの?」
「しないかな」
「この写真の写真を撮ったらお洒落じゃない?」
「おれはSNSはしないよ」


終わりのない隙間を埋めるためのたわいもない会話。だから、三代くんがはっきりと言い切ったとき、思わずその顔を見つめてしまった。


「Shiroさんの写真も、ブラウザから見てる。SNSのアカウントは、絶対に作らない」
「そっか。そのさ、理由って……」


聞かない方がいいとわかっているのに。不可侵、自分で立てた盾を都合のいいときだけ退かすだなんて、許されない。気の緩み、とでも言えばいいだろうか。少し会話が続いた程度で、近付くことが許されたと勘違いをしてしまう。

案の定、三代くんは、言えないと首を横に振った。

見開いたページに乗せていた写真を手に取って立ち上がり、缶コーヒーの空を持つと、ベンチを離れる。


「それじゃあ、また来週、学校で」
「あ、うん。またね」


三代くんは振り向くことなく去っていく。自分の意思でここに居るのに、何故だか取り残されたような気分になった。

写真集の続きを見る気にもなれず、スマホを手に取る。丁度受信したアラートは30分後に雨が降るという報せで、急いでリュックの奥底に写真集を仕舞う。三代くんに追いつかないように少し待ってから、その場を後にした。





週末、家でだらだらと過ごしていた昼下がり。ふと三代くんの写真に見た公園のことを思い出した。北公園。自宅から徒歩二十分ほどの大きな公園だ。グラウンド側は休日になると人が多くなるけれど、花壇や噴水は遊歩道沿いにあるから、人は流れていく。散歩がてら花を見に行くことにして、早速出かける準備を整えた。

スマホと小銭入れ。外に出るためのいちばん軽い装備。部屋着にパーカーを羽織り、外に出た。十一月の空の下、まだ寒くなりきれない季節。車通りの少ない道を選ぶと少しだけ遠回りになる。早くたどり着く必要も、早く帰る理由もない。歩調を落として、ゆっくりと歩く。


公園に着くと、グラウンドや遊具側は野球の試合や子ども連れで賑わっていた。一周1.2キロメートルと書かれた文字と白線の上に立って、遊歩道を歩く。やたらとペースの速いおじいちゃん、犬の散歩中のお姉さん、入れ替わり立ち替わり、わたしのことを追い越していく。

昔の自分なら、そこに並ばなければならないと、追いつかなければいけないと、躍起になっていただろう。でも今は、自分のペースで歩いていいと知っている。

英単語を覚えるのと同じ要領で、花の名前をいくつも覚えた。Shiroさんの写真の前は、洋楽の日本語訳、とりわけ様々な解釈を比べることにハマっていたし、その前は花の異名や花言葉をよく調べていた。


変わった趣味だと思う。趣味というか、自分のペースを保つための手段として、いくつも手札を用意していた。拠り所は大切だと、立ち戻る場所は必要だと、身をもって知っているから。


キッチンカーで購入したホットドッグと自動販売機で買ったお茶を手に、噴水を目指す。0.8キロメートル地点で雑木林の間の小道を抜けると、中央の噴水の近くに出る。お昼時を過ぎていることもあってか、疎らに人はいるけれど、場所を変えるほどではなかった。

空いているベンチに座り、風に揺れるコスモスを眺めながら遅めの昼食。ホットドッグはマスタードの量が多くて、くちびるの端がひりついた。冷たいお茶を喉に流すと少し肌寒いような気がしてくるけれど、熱いお茶を選んでいたら、それはそれで体が火照っていたと思う。そういう季節の最中だ。

コスモスの写真を撮ろうとして、やめた。かわりに噴水の飛沫の写真を収める。水に映る世界。Shiroさんは、ファインダー越しに、水溜まり越しに、瞳越しに、いくつもの世界を反射して、どんな景色を見ているのだろう。写真を撮る人の気持ちって、どんなだろう。


つまらない静止画は家に帰り着いてから見返すともっと味気なく思えて、撮った写真は削除した。課題を終わらせて、お風呂、夜ご飯と日々のルーティンをこなしたら、布団に潜り込んでShiroさんの投稿をチェックする。

相変わらず、無題。木の根が丸く渦巻いた穴に溜まった水、そこに月が写っていた。水溜まりを探して旅をする、写真に撮って、SNSに載せて、本になって、また旅を重ねる。Shiroさんの生き方が羨ましかった。こんな風に考えたことは今までなかったのに、三代くんの影響だろうか。真新しい視点は、不安と期待を一緒くたにして連れてくる。





週明けの月曜日、登校すると朝から教室の真ん中には人が集まっていた。何やら盛り上がっている様子で、友人に話を聞くと学校の近くのカラオケ店でイベントがあるらしい。わたし達にも声がかかって、友人二人は二つ返事で参加を了承していた。わたしも自然とそのメンバーに加えられそうになったところで、制止する。


「ごめん、わたしは行かない」
「ええ? なんで? 蒼菜暇でしょ?」
「たまには来なよー」


そうは言われても、参加したいと思えなかった。放課後のこういう遊びの誘いには基本乗らない。どこまでもマイペースだとか、ノリが悪いと言われても、曲げようとは思わなかった。友人たちもそれに慣れているから、食い下がることなく、じゃあ蒼菜は不参加でと主要メンバーに伝えてくれる。

軽口のつもりだったのかもしれない。わたしもそれに特には反応しなかったし。だけれど、一瞬空気を悪くしたことが小さな棘のように足元に落ちて、踏まないように、拾い集めた。カラオケの詳細を話す輪から抜けて、教室を出ていく。


学校の中の安息地は多くない。裏庭の桜の木の下。南校舎の三階にある資材室。図書室の奥。人気のない場所ならどこでもいい。続々と教室に向かう人の波に逆らって、人のいない場所を目指す。先を行く人に追いつけなくてもいい。後から来た人に追い越されてもいい。そう、自分にかける言葉は呪いのようで、資材室を目指して駆け出していた。


鍵の壊れた資材室は粗大ゴミの置き場所となっている。壊れたジャンク品ばかり。その中にいると、不思議と心が安らぐ。生地の裂けたソファに飛び込むと、埃が舞う。陽の光を反射してきらきらと輝くそれは美しかった。


始業まで20分。朝のホームルームには最悪出席しなくても、荷物を置いて出ているしクラスメイトと顔を合わせているから平気だろう。授業が始まる前にはここを出て、いつも通りに振る舞わないといけない。

これはいけない、と警笛のように頭が告げていた。普通からはみ出てしまう。これ以上は、人並みに、人波に、逆らってはいけない。


「嶋岡蒼菜さん」


コンコンとドアをノックして、呼びかけた声の主が資材室に入ってくる。蹲るわたしを見つけると、三代くんはソファに近付いてきた。

近くに置いてあった背もたれの折れた椅子に座り、わたしのことをじっと見つめる。


「嶋岡蒼菜さん」
「みょうじ、か、なま、え」
「……平気?」


お守りとして持ち歩いている頓服を飲んだのはいつぶりだろうか。不安と、緊張を解いてくれる薬。まだ動悸が治まらず、呼吸をすることで精一杯だった。空の薬のシートが床に転がっていて、三代くんがそれを拾い上げる。


「過呼吸?」
「う、ん……」
「いつ飲んだ?」
「いま、さっき」


過呼吸の兆しがあってから飲むのでは遅いことはわかっている。期待しているのは即効性ではなくて、そもそもそういう効果の薬ではないし、プラシーボ効果的な、写真集と同じカンフル剤の役割だ。三代くんは焦る様子もなく、わたしの軽い発作を見ても平然としていた。


自分で呼吸を落ち着けて、しびれた末端の感覚を取り戻すころ、予鈴が鳴り響く。もう授業には間に合わない。もう少し休んだら、保健室に行くのが妥当かもしれない。そうしたら、三代くんはどうしようかと迷っていると、古い教材を触っていた彼が、嶋岡さんさ、と切り出す。

今日は嶋岡さん呼びのようだ。学校だからだろうか。


「こういうこと、よくあるの?」
「たまに。わたしね、だめなんだ。全然、みんなとちがう」
「何が?」


卑屈になりかけているって自分で気付いた。ネガティブな思考は沼のようで、抜け出そうとするほど、どつぼにはまる。

何が? と三代くんが聞き返したのは、わたしの脈絡のない自虐のことだとわかっているのに、ひとたび口から零れ落ちた言葉は連綿と途切れない。


「中学生のころ、学校に行っていなかったの。ううん、少しだけ、ちがって。家にも居づらくて、学校には来ていたけど、教室には行けなくて。そうやって、三年間、過ごしてた」


家と学校の往復で、課題や部活、人間関係に悩んでいたら、自分の時間なんてどこにもない。毎日泥のように眠って、朝を遠ざけようとした。

頭で理解すること、感覚で動いてみること、気持ちを言葉にすること、他人を思いやること。全部、努力と我慢と無理をしてようやく人並みに追いつける。周りが当たり前にできていることを、頑張らないとできない。

気持ちを強く持っていれば、身体を壊すことはないと思っていた。心の不調は身体に顕著に現れることを、あの日までは信じていなかった。

教室を移動する最後尾にいて、足が床に縫い付けられたように動かなかった。縫うだなんて生半可な比喩では足りない。自分の意思では動かすことができなくて、そのうちに、呼吸が苦しくなった。手足が硬直して目眩がして、気が付いたら保健室のベッドの上。念の為に詳しく検査をして、適応障害の診断がついた。カウンセリングと服薬を続けて、ようやく心身が落ち着いたのは、高校受験の目前だった。


幸い、出席日数は足りていて、課題も提出していたから最低限の評価は得られていた。勉強だけは、置いていかれないように独学と教員を目指す兄に見てもらって、何とか高校に合格。

安息地や自分を守るための装備をたくさん備えて、入学した。校内でもそういう場所を見つけて、何とか、これまでを過ごしてきた。

それでも時々自分ではコントロールのしようがない波に飲まれる。暴れず、もがかず、じっと過ぎ去るのを待つのが吉の波。

普通のレールから外れて、不登校を経験して、いつかは元のレールに戻らなければいけないことも理解していた。高校生になったら、大学生になったら、社会人になったら。それが後になるほど、自分を追い詰めるような気がして、わたしはとても、とても無理をして、ここにいる。


「たくさんの努力と、無理をして、いま、生きているの。こんなこと、誰も知らなくていい。知られたくない、でも、みしろくん」


どうしてだろう。三代くんには、知っていてほしいと思ってしまった。三代くんの事情をわたしは知らない。たまにあの丘に来る意味を、写真をプリントアウトする習慣を、SNSはしないと言った理由を、今ここにわたしを追いかけてきてくれた心のうちを、わたしは本当に何一つ知らないけれど、でももしそこにわたしの過去と似通ったものがあるのだとしたら。三代くんを知りたい、わたしを知ってほしい。そう思った。


「いつかはどこかで、自分の力で立ち上がらないといけないんだよな。嶋岡さんはえらいよ。……すごいよ」


真っ直ぐな双眸はからかいや失念、誇張、奇異なものを見る目をしていなかった。瞳は雄弁に物を語るから、見つめることは、これも少し勇気がいることで。そういう不安をひとつ、取り払ってくれた。


「過去のことなんてさ、そのとき傍にいた人間じゃなかったら、本人が話して聞かせてくれるまで何も知らないままだ。話せないこと、話さなくていいこと、嶋岡さんの中にもたくさんあると思う。おれを選んでくれて、ありがとう。話してくれて、ありがとう」
「ありがとうは、わたしが言うことだよ。ごめんね、本当に、その通りだと思う。自分の中に抱えておくべきことなのに、話してしまって、ごめんなさ……」
「いやだから、そうじゃないって。否定して、遮って悪いけど、おれ結構嬉しかったんだよ。話してくれて。その嬉しさを減らすなよ」


よくわからない部分に怒って、三代くんはわたしに向き直った。椅子を寄せて、距離が少しだけ近くなる。


「嶋岡さんが話してくれたから、おれも話さなきゃって思ったわけじゃなくて。話してくれたから話したいって思ったんだってことを前置きさせてほしい」
「……うん、きかせて」
「おれも、不登校だったんだよ。中一で学校に行けなくなって。三年の途中で戻ったけど、嶋岡さんの言葉を借りるのなら、おれも無理をしていた。努力もして、普通の学生になろうとした」


驚きはしなかった。漠然と、ただの勘としてだけれど、そんな気はしていたから。同じ轍を踏んだ者同士、何か通じ合うのだろうか。弛みない努力をして、三代くんもここにいるのだ。そう思うと、何故だか手を取ってぎゅっと握り締めたくなった。すごいよ、えらいよって、伝えたくなって、けれどまだ三代くんの話は続く。


「SNSをしないって言ったのは、まあ、不登校になった理由の大きいところなんだ。動画投稿サイトに友だち何人かと動画を上げていて、SNSのアカウントも共有して作っていたんだけど、ちょっとしたことで喧嘩になったときにふざけて本名と顔写真を載せられたことがあって。大きなトラブルにはならなかったけど、しばらくネタっぽく扱われたりとかして、学校にもバレて、なんつうか、人の目が怖くなったんだよな。ネットからリアルにバレるのも怖いけど、リアルからネットの活動が見つかって、それがすごく、恐ろしかった」


おれのは自分で撒いた種だけど、と今度は三代くんが自虐的な物言いをする。叱咤しようにも、こういうときにかける言葉を持っていない。大変だったね、のような簡単な言葉は投げたくなかった。


「三代くん」


スカートを握り締める。この後に紡ぐのは、三代くんへかける言葉だ。けれど、わたしはきっとこれを口にしたら、泣いてしまう。堰き止めていたものを、自分で、解放した。


「わたしたち、がんばったよ。頑張ってるよ」


わたしの過去を、他の誰かに話すことはない。今日のように、誰かに話したいと思えて、相手も受け取る準備ができているとわかったときに、いつかどこかで伝える日は来るのかもしれないけれど、過去ありきの自分で生きるつもりはない。

でも今日、三代くんに話ができてよかった。三代くんの話を聞けてよかった。頑張って生きていることを知ってもらいたかった。

所詮他人の人生だ。たったの数分で三代くんの過去を全て理解したわけではないし、言葉の外にあるものはまだ見えていない。秘したまま、この先ずっと伝えられることのない事実もいくつかはあるだろう。わたしもそうだ。人間関係の悩みがあったこと、部活内での出来事、小さなそれが募っての結果だったと、伝わっていてもいなくても、どちらでもいい。話せないことがあってもいい。ただ、わたしたちはとても無理をして、生きてきたんだ。生きているんだ、今も。


「ハグしていいなら、もう、三代くんを力いっぱい抱きしめて、がんばったー! って伝えたいのに」
「いいよ、ハグする?」
「ううん、それは一応、異性ですから」


履き違えてはいけない。いつか大切な想いになる可能性があるのだとしても、ううん、そうなのだとしたら尚更、慎重に触れたい。


「じゃあ、今はこれで」
「え、なに?」
「今日をがんばるための、パワー」


おまじないのように、三代くんはわたしの手を取って両手で包み込む。あたたかい。目に見えない力が確かにあるような気がして、交代で三代くんの手を握った。





12月の空の下、丘の上。リュックに忍ばせていたダウンを制服の上に着て、ベンチに座る。最近、安息地がひとつ増えた。小さな温室のある公園を三代くんが教えてくれた。人の良いおばあさんが管理をしていて、何度か足を運ぶうちに顔を覚えられた。今日もそこに行くか迷って、しばらくこの丘に来ていなかったことを思い出し、行き先を変えた。

膝の上にはShiroさんの写真集。今日は風が強い日だから、ページは捲らない。表紙の水溜まりに映る靴はShiroさんのものだろうか。この靴で、Shiroさんは今日、どこを歩いているのだろう。

そんなことを考えてしまうのは、三代くんの視点を引き継いだからではない。わたしが、Shiroさんの行方に興味が出たのだ。


「嶋岡蒼菜さん」


声が、届いた。

鳥のさえずりはない。吹き荒ぶ風の音が声をかき消してしまう前に、パッと後ろを振り向く。

缶コーヒーを片手にわたしの座るベンチを通り過ぎ、三代くんは柵越しに町を一望した。それからわたしの隣に座り、コーヒーを呷る。


「みょ」
「蒼菜さん」
「早いって」


最初に呼びかけるとき、未だに三代くんはフルネームを呼ぶ。名字か名前、のやり取りもずいぶんと短く遮られるようになった。


「Shiroさんの写真、段々水溜まりから視点が上向きになっていってる気がするんだけど、蒼菜さんはどう思う?」
「ああ、水溜まり越しの景色以外にも挑戦してみようかなって言ってたよ」
「……まってまって、え、何かコメントしてた?」


三代くんの焦る様がなんだかおかしくて、声を出して笑っていると、蒼菜さん! と強い口調で呼ばれる。尚も笑いが堪えられず、くちびるを震わせながら、写真集の最後のページに挟んでいた物を手渡す。


「何これ……おれに、じゃないよな。嶋岡蒼菜さまって書いてある」
「ファンレター、送ってみたの。そうしたら返事が届いたよ。Shiroさん、キャンパーなんだって。だから行動範囲が広いのかな。名前は違うけど、動画投稿もしてるって書いてた」


SNSの返事が来ないからといって目を通していないとは限らない。手段が違っても同じことだろうと、思い切って手紙を送った。

生きるために安息地が必要なこと、Shiroさんの写真はその一部を担ってくれていることを綴り、自分の遍歴を少しだけ砕いて伝えた。

驚いたのは、Shiroさんにも不登校の経験があるということだ。SNSで発言をしないから知らなくて当然なのだけれど、手紙には、綺麗に整った字でたくさんの言葉が綴られていた。本当は、たくさんの言葉を持っている人なのだと思う。それでも無言の投稿、言葉のない写真を載せ続けることは、Shiroさんなりの信念や譲れないものがあるのだろうか。次に手紙を送ることがあれば、その旨を聞いてみたい。


「おれもShiroさんにファンレター送ろうかな。写真見てもらいたい」
「あ、わたし一枚同封して送った」
「えっ、どれ」
「ほら、水溜まりに虹が写っていたときの」
「嘘だ……その道のプロ、よりによってShiroさんに水溜まりの写真はないだろ!」
「綺麗に撮れてるって言ってたよ。でも、なんだっけ、スマホで撮ってるなら設定の……」
「どれ! なに!」


食い気味にスマホを取り出す三代くんに、手紙を開いてカメラの調節を教える。機種の仕様上、三代くんの設定にはなく、わたしの端末では調節ができる内容だったことを恨めしそうにされた。


無理をして、努力していた日々が少しずつ、肩の力を抜いても大丈夫になっていく。

そうやって、生きていく。




【いくつも世界を飛び越えて。】