五〇〇年前、魔界セレネには一人の王がいた。

 黒髪に、血のように赤い瞳。
 夜の闇に、赤く染め上げた月が浮かぶようなその男は、誰よりも強い魔力を持っていた。
 破滅の王。漆黒の使者。紅の月。
 様々な名で呼ばれるその存在は、魔族が王を戴いてから、最も残忍な王であったと、人間の世界デュアルソレイユの記録には残っている。
 『征服王』と呼ばれた魔王の名はヴィンセント・グレイス。

 『征服王』は、不思議な力を持っていた。
 王が願い言葉にしたことは、あらゆることが叶うという不思議な力。
 しかしその王は、元は虫も殺せないような、心優しい子どもだった。

 ヴィンセント・グレイスが変わったのは――『魔王』になったのは、目の前で、誰より愛していた人間が目の前で殺された日。

『どうして。……どうして、ディーを……ッ!』

 一度も会いに来なかった、本当の親。
 先代の魔王によって血を流す愛しい人の体を抱いて、ヴィンセントは叫んだ。
 傷口を塞ごうとしても、彼女の言葉は効かなかった。その理由を、ヴィンセントは理解していた。
 昔森で見つけた小鳥に命を与えようとしたとき、魔法が効かなかった時と同じだ。
 ヴィンセントの魔法は、死んだ者には通じなかった。

『なぜ怒る?』

 男は――先代魔王であった彼女の実父《ちち》は、涙をこぼす彼女を見下ろして、理解出来ないとでも言うような声で言った。

『人間など、魔法も使えない下等種族。だというのに、デュアルソレイユという広大な地を、我が物顔で占領しているのは、おかしなことだと思わないか? 魔族こそ、デュアルソレイユとセレネ、二つの世界を統治すべき種族なのだ』

『どうして。同じように……同じように、生きているのに!』

 ヴィンセントは叫んだ。
 胸が痛くて、心臓は張り裂けそうなほど痛かった。
 こんな男が、自分の父親だというのか。こんな穢れた血が、自分には流れているというのか。
 そう思うと、死んでしまいたいほど胸が苦しかった。

『生きている? ……ああ。まあ、確かにそうだな。しかし生きているとは言っても、人間など、我らにとって虫にも等しい存在ではないか。虫が一匹死んだくらいで、お前は何故そう心を乱す?』
『……ッ!!』
『――なあ、我が子よ』

 愛する人の血に濡れた手で、男はヴィンセントの頬を撫でた。
 その瞬間、ヴィンセントは自分の世界が、凍ってしまったような感覚を覚えた。
 愛しい人から教えてもらった、与えられた感情が、感覚が、一瞬にして遠のいていく。
 そして壊れた世界の向こう側で、便せんとは思ってしまった。

 弱いせいで奪われるなら、弱いことが罪ならば。
 ――力を以て、蹂躙せよ。
 自分を傷つけるものがあるならば、自分を害するものがあるならば、同じことをすればいい。
 奪われる前に、自分が奪ってしまえばいい。

 かつて、ディー・クロウの死をきっかけに、ヴィンセントの心は壊れた。
 そして今度は、意識を失ったアルフェリアを見て、ヴィクトリアの中で何かが壊れた。



「『ヴィンセント・グレイス――いや、ヴィクトリア・アシュレイの名をもって命ず』」

 赤い瞳を輝かせ、ヴィクトリアは魔法を発動させる。

「『たとえ翼を持とうとも、汝《なんじ》、空を飛ぶこと能《あた》わず。翼は連なろうとも心は連ならぬ。比翼《ひよく》は連なり枷《かせ》となる』」

 ヴィクトリアが願い言葉を紡げば、2匹の翼が繋がり、制御が取れなくなった龍はバタバタと翼を動かし始める。

「わっ。うわっ。ああっ!!」

 すると、男の高い声が響いた。
 ヴィクトリアは気に留めず、パチンと指を鳴らした。

「――『堕ちろ』」
「わああああああっ!? おっ落ちる! 何が起きて……!?」

 悲鳴と共に、空を旋回していたはずの龍は、轟音とともに地面に墜落した。
 ヴィクトリアはそんな龍を、意思を宿さぬ瞳で見つめ、剣を握る手に力を込めた。

 魔族の父。人間の母。
 ヴィンセントの母は魔王の子を産み、その力に耐えきれずに亡くなった。
 そんな自分を育ててくれた、育ての親を殺した実の父を、かつてヴィンセントは殺した。
 親殺しは禁忌。
 残虐非道な魔王と言われても、否定できないことをした。
 この手は血で染まっている。
 洗っても洗っても、赤がこびりついて離れない。

『――いい目だ。俺の跡継ぎに相応しい。魔王の目だ』

 自分が初めて殺した父親《いきもの》の言葉は、永遠に魂を蝕み続ける。

『さあ、殺せ。力あるものがこの世界を統べるべきなのだ。お前は、その力を持っている』

 呪いのように、響き続ける。

 それでも、願わずにはいられなかった。
 それがたとえ、叶わない夢であったとしても。

 ――人間になりたい。
 誰かと心を通わせて。笑いあえる、普通の生活がほしい。
 『好きだ』って『愛してる』って、そう言ってほしいと言ったとき。
 返ってくる言葉が、偽りでないと思えるように。
 この人生ではきっと、それは叶わないから。

 今度生まれ変わったら、どうか。
 この願いを叶えて。
 この呪いのような声を消して。
 そうして誰かを愛することを、その喜びを。
 生きる喜びをください。

 お願い神様。
 貴方がこの世界にいるなんて、本当はどこかで信じてないけれど。
 それでも、どうか。
 どうかこの願いを。
 ――叶えて。

 赤い瞳が熱を帯びる。
 力を使えと魂が叫ぶ。

『ヴィンセント。お前が、次代の王となるのだ。王《われ》を殺す強きものにこそ――お前こそ、魔族の王に相応しい――……』
『黙れ。喋るな』

 男は死の直前まで、戯言を呟いていた。

『二度と言葉を……口にするな……っ!』

 ヴィンセントが震える声で叫べば、男は口を閉じた。

『私の父は、ディー・クロウ、ただ一人だけだ……っ!』

 そうして、初めて父《まぞく》を殺した日。
 『魔王ヴィンセント・グレイス』は、この世界に生まれた。

 何処からが雨音が響いているような気がした。自分を嘲笑うかのような子供の声が、雨音に混じって聞こえた。
 魂は何処かへと飛んでいって、身体だけがこの世界に取り残されてしまったように、身を打ち付ける冷たい雨は、ただただ音としてそこにあり、胸の痛みも何もかも、うまく感じることが出来なかった。

 虚無感だけが心を満たす。
 長く雨に打たれ、一晩夜を明かし、目を焼くような朝日の眩しさを目にして、そして、唐突に理解した。
 どんなに痛みを抱えても、必ず朝は来る。
 痛みを、苦しみを乗り越えることなんて出来なくても、時間は変わらず過ぎてゆく。
 変わる事の出来ない自分を、この世界に取り残したまま。

 足元に横たわる二つの骸を見て、ヴィンセントは声にならない声を上げた。

 ――神様。
 この慟哭が、貴方に届いているなら。
 どうして貴方は、この人の命を返してくれないの? 
 神様なんて嫌い。大嫌い。
 こんな呪いを私に与えたくせに、私が本当に欲しいものを、与えてくれない神様なんて。

『ディー』

 身を丸め、愛しい人の名を繰り返す。
 愛している。
 私に心を与えてくれた貴方を。愛というものを教えてくれた貴方を。
 誰よりも何よりも、貴方のことを愛している

 ……だから、ヴィンセントは決めた。
 自分は、魔族に人間を殺させない魔王になることを。

『新しい魔王陛下に、祝福があらんことを』

 そんな彼女の意図など知らず、先代魔王を殺した子どもに、全ての魔族が頭を垂れた。
 馬鹿馬鹿しい、と思った。
 信用ならない、と思った。
 祝福の言葉を述べるのは、ただヴィンセントの力に畏怖しているだけにすぎないことは明白だった。

 人間を下等種族と決めつける魔族が許せなかった。
 だからそんな自分の心を、理解してくれそうな相手を、カーライルを、そばに置いたつもりだった。

 ――けれど。

 幼いヴィンセントが、魔王に就任したばかりの頃。
 魔族同士での諍いはなく、誰もが幼過ぎる魔王の、圧倒的とも言える力に服従するしかなかった。

 カーライルの他にも、魔王の幼馴染として息子をさしだそうとしたものはいたが、誰もがヴィンセントの作った罠にはまり、怪我を負っては引き下がった。

 子どもたちは所詮、ヴィンセントを殺すための布石でしかなかった。
 その中で、唯一ヴィンセントに危害を加えず、罠にかからなかったカーライルがヴィンセントの唯一の側近となり、二人は殆ど行動を共にするようになった。

 ある日カーライルは父親から呼び出され、数日間不在にした。
 籠いっぱいのお菓子を抱えて戻った彼は、いつものように優しい笑みを浮かべて、ヴィンセントに菓子を差し出した。

『お菓子?』
『はい。甘い甘いお菓子が手に入ったんです』

 カーライルはそう言うと、お菓子を包みから取り出してヴィンセントの口に押し込んだ。 
 ヴィンセントは、彼から与えられたお菓子を、疑うことなく咀嚼した。カーライルは、そんなヴィンセントを見て口元を緩めた。

『ルーデウスとの用事はもういいの?』
『はい。全部終わりました』
 いつものように、カーライルはにこにこと笑いながら問いに答えた。

 ヴィンセントは、もう彼が自分から離れていかないのかと安堵して、新しい菓子に手を伸ばした。
 幸せな気持ちだった。――彼の、言葉の続きを聞くまでは。

『あの男は、もうこの世にはいません』
『え……?』

『私なら、貴方も油断している。父に貴方を殺せと言われたものですから、父を殺すことにしたんです』

 カーライルはそう言うと、ヴィンセントに与える際、指についた菓子の砂糖をぺろりと舐めた。
 父親を殺したというのに、まるで何事もなかったように。

『カーライル……どうして……っ』
 震える声で彼の名を呼べば、カーライルはヴィンセントを抱きしめた。
 
『――動かないでください。私は貴方を傷つけたくはありません』
 その瞬間、背後から悲鳴が聞こえた。

『この方は、お前たちが触れていい方じゃない』

 むせ返るような花の香りに混じって、鉄錆のような匂いがした。
 ヴィンセントは彼の力をその時初めて知った。張り巡らされた蜘蛛の糸は、一歩でも動けば身を切り裂くことが出来る。

 魔族の世界は実力主義だ。魔王には、最も強い魔族がなる。
 魔王城といえど平和ではない。魔王の座を狙い、多くのものがヴィンセントの命を狙う。
 カーライルの糸からは血が滴り落ちる。
 血に濡れた手でヴィンセントの頬に触れ、まるで何事もなかったように、嬉しそうに彼は微笑んだ。

『ああでも、よかった。これで貴方の敵は一人居なくなった。ヴィンセント。この世界は貴方にとってまた少し、綺麗になったと思いませんか?』

 ぴちゃん、と水音が聞こえたような気がした。
 血に濡れたその手は、ぞっとするほど冷たく感じた。

 カーライルは、ヴィンセントには優しくても、他の誰にも優しくなかった。
 そしてカーライルは、人間が死んでも、全く心を動かすことはなかった。

 魔族にとって、人間はいい玩具に過ぎなかった。
 人の命など虫以下だ。
 それでも、彼らが傷つけた相手は、簡単に殺した相手は、大切な誰かだったに違いない。
 ヴィンセントは魔族による人間の被害報告を見るたびに、いつもそう思った。
 同じように傷付く。同じように悲しむ。人間と魔族の血を引く自分にはそれがわかるのに、どうして魔族はそれを理解し得ないのか。

 ヴィンセントは、『魔族』が理解出来なかった。

 そんなある日、ヴィンセントはデュアルソレイユで一人の子供と出会った。

『人間と魔族の血を引く混血児のくせに!!』

 人間の大人たちに迫害され、子どもらに虐められていたその子どもは、まるで獣のような身なりをしていた。

『おいで』

 そんな子どもに、ヴィンセントは手を差し出した。

『人間も魔族もだいっきらいだ! 俺は誰も信じない。俺を拾ってくれたじいちゃん以外、誰も……!』

 ヴィンセントは知っていた。子どもが独りであること。彼を拾い育てた老人は、彼を庇って怪我を負わされ、その傷が原因で命を落としていた。

『来るんだ』

 一人きりになった身寄りのない子ども。
 自分と同じ混血の子ども。黒と赤。自分にどこか似た色を持つ子供。
 それでいて――自分の能力《ちから》の通じない、最愛の人と同じ力を持った子ども。

『君を今日から、私の息子として育てることにした。今日から君は、レイモンド・ディー・クロウだ』

 そんな子どもに、ヴィンセントは育ての親と同じ名前を与え、育てた。

 混血の子どもは実に優秀だった。
 彼の遊び相手となった金色狼の子どもは、優秀かつ何故かヴィンセントに懐いた。

『ルーファスとレイモンドは、優秀な子たちだ』

 子どもだったはずの二人は、いつの間にかカーライルの指揮のもと、ヴィンセントの手足となっていた。

『大丈夫。ヴィンセント。貴方が直接手を下す必要はない。彼らになら、任せても怪我を負うことすらない』
『任せた。ルーファス』
『はい。全ては陛下のお望みのままに』

 金色の髪は血に濡れて、その名のとおりに赤く染まる。優しい笑顔はそのままに、彼は任務を遂行した。
 ヴィンセントの願う、人間と魔族の共存のために。

『レイモンドの話では、貴方に命じられて人を殺したと、そう言ってデュアルソレイユの民を殺しているものがいるそうです』

 しかしヴィンセントの思惑に反して、何故かヴィンセントが魔族に人間を殺させているという噂が、デュアルソレイユには蔓延しつつあった。
 そしてセレネでも、人間を殺せばヴィンセントが喜ぶという話が広まっていた。

 ヴィンセントには理解が出来なかった。
 嘘を流布させ、魔王に責任を押し付け、一体誰に利益があるというのか。
 しかし、これだけはわかった。

 ――殺せ。

『どうしますか?』

 ――殺さなければ。

『ヴィンセント』
 かつての自分と同じように、人間の誰かが傷つく前に。

『人にあだなす魔族は、全て殺せ』
 それだけが、やるべきことだと。


 それは、粛清と言う名の殺戮だった。
 魔族も人間も嫌いだといっていた子どもは、ある日ヴィンセントにこう尋ねた。

『また、魔族を殺すのか』
『……』
『本当に、それでいいのか?』
『いいも何も、こうすることしかできない。レイモンド。命令だ。私の言うことを聞きなさい』

 軽くあしらおうとすれば、ヴィンセントはレイモンドに壁に追い込まれた。
 レイモンドに強く握られた手が、ヴィンセントは少しだけ痛かった。

『俺が勝てたら』
『……何?』
『……俺が勝てたら、アンタは戦いをやめるのか』

 レイモンドの問いの意味が、ヴィンセントには理解出来なかった。
 ただ彼が勝負を望んでいるようだったので、ヴィンセントは受けることにした。
 レイモンドの能力は無効化だ。
 ヴィンセントがどんなに知識を駆使して魔法を放っても、レイモンドはその魔法を知らずとも無効化できる。
 レイモンドを倒すには、彼を戦闘で上回るしかない。
 レイモンドの剣は、ヴィンセントの姿を捉える。

 しかし、そもそもレイモンドに戦う術を教えたのはヴィンセントだ。
 五〇〇年前、レイモンドは純粋な実力で、ヴィンセントに届かなかった。

『ぐ……っ!』

 左手を切りつけて、相手の剣を落とす。レイモンドの喉元に剣を突きつけ、ヴィンセントは氷のような声で、『子ども』に敗北を告げた。

『私の勝ちだ。……所詮誰も、私には届かない』

 諦めたかのようにヴィンセントが呟けば、血の流れる左手で、レイモンドはヴィンセントの腕を掴んだ。

『なんのつもりだ? 離しなさい。レイモンド。魔王相手に――いや親を相手に、こんなことが許されると?』
『……いい加減もうそうやって、俺を相手に父親面するな。俺は……アンタのことを親だなんて、一度も思ったことはない』

 彼の顔が自分へと近付く。
 何をされるか理解できず、ヴィンセントは思わずレイモンドの頬を叩いていた。

『だとしても、王に対して不敬が過ぎる。王として命ずる。――レイモンド。私の前に、しばらく顔を見せるな』
『……』

 レイモンドは、ヴィンセントの言葉に従いその場を離れた。その背を見て、何故か胸がヴィンセントは苦しくなった。

『父親面するな、か……』
 きりきりと痛む胸に手を当てる。

『はは……この私が……動揺している……なんて』

 『アンタのことを親だなんて、一度も思ったことはない』――その言葉に、レイモンドとの距離を感じた。
 ヴィンセントは泣きたかった。でも泣けなかった。泣いたとしてももう、昔のように自分を優しくあやしてくれる愛しい人がこの世界にはいないという事実だけが、彼女の心に暗い影を落とした。

『ディー……』

 レイモンドに謹慎を申し渡して少し経った頃。
 人間を殺すよう魔族を扇動した魔王ヴィンセント・グレイスを殺すために、勇者がリラ・ノアールに近づいていることをカーライルに告げられた。

『勇者が、貴方を殺しにここに向かっているそうです。どうしますか? ヴィンセント』

 ルーファスやカーライル、レイモンドと協力すれば、勇者を倒すことは可能かもしれなかった。
 けれどもう――そこまでして生きる気力が、その時のヴィンセントには残ってはいなかった。 

『魔王は勇者に殺される。そういう運命だ』

『ヴィン……ッ』
『もう、しゃべるな』

 言葉にすれば現実になる。
 そう理解しながら、ヴィンセントはカーライルの口を封じて小さく笑った。

『戦いが終わるまで、何者も立ち入りは許さない』

 全てを終わらせてしまいたかった。
 無意味な自分の生涯を。
 そうしたら。――……そうしたら。

『ディー。……もうすぐ私は、貴方に逢えるだろうか……?』

 名前を呼ぶ優しい声。
 ディー・クロウの声はいつまでも、心の中に響いている。

 そして魔王ヴィンセント・グレイスはたった一人、勇者と戦うことを選んだ。

『……どうして、同じように生きているのに、争い合わなきゃいけないんだ』

 ヴィンセントの言葉に、勇者は静かに言った。

『人は強大な力を恐れ、そして安寧を求める生き物なのです』

 聖剣で切られた場所がずくりと傷む。
 勇者は、剣士というより聖職者のような男だった。

『う……っ!』
『痛みに歪むその顔。……いいですね。『魔王陛下』貴方はとても美しい。他の魔族たちが、貴方にこだわるのもよくわかる』

『何を言って……』

 ヴィンセントは、勇者の言葉が理解出来なかった。
 所詮、人の心を操る力の持つ自分の周りに集まるものなんて、なんの価値もありはしない――その時のヴィンセントの心を満たしていたのは、抱えようのない虚無感だけだった。

『貴方のそういうところ、私も好ましく思います』
『……!?』

 勇者は魔王に口付けた。
 彼の行動理由が理解が出来ず、ヴィンセントは目を見開いた。
 その瞬間、どくん、と胸が大きくはねた。
 頭の奥が痺れるような感覚。手が震えて、ヴィンセントは剣を落とした。

『ごほっ』

 ヴィンセントは大きく咳き込んだ。地面に、赤い血が広がる。
 ヴィンセントは目を瞬かせた。肺が焼けるようにあつかった。

『すいません。私という存在は、人にとっては薬となっても、どうやら魔族にとっては毒らしくて』

 勇者の声は、血を吐く生き物を前にしているには、あまりに冷静だった。

『私の体そのものが、貴方方に対する武器なのです』

 勇者は、身動きの取れないヴィンセントの剣に、そっと指を押し当てた。

『まあ私も、貴方の剣に貫かれたら死んでしまうんですが……今の貴方に、そんな余裕はありませんよね?』

 ぷくりと滲む血を見て楽しげに笑う男は、勇者と呼ぶにはあまりに狂っていた。

『貴方の人となりは理解しました。貴方がもし魔王でなかったら、貴方という人は、私好みだったかもしれない。力を持ちながら、その力で、誰かを傷つけることを望まない貴方は、とても高潔で美しい。しかし貴方は、自分を活かす術を知らない。貴方は誰も信じていないから、貴方は今も、一人で戦わねばならなくなってしまった』

 聖剣は真っ直ぐに、魔王の心臓を貫く。

『私は神託を受けた勇者として、貴方の力を封じる。一人の悪役を仕立てるだけで、世界に幸福は訪れる――この世界に、貴方は要らない。だから』
『……ッ!』

『死んでください。魔王陛下』

 貫かれた剣から、力が抜けていくのを感じる。
 魔力を奪う聖なる剣。
 命が吸い取られる。ルーファスとカーライルの声のあと、ヴィンセントは誰かが自分を呼んだような気がした。
 けれど、何も聞こえない。
 もう、何も。視界は白く霞んで――そうしてぷちんと意識は途切れた。

『ヴィンセント!』
『陛下!!』

 そしてヴィクトリアとして生まれ、幼馴染の二人と楽しい時を過ごしても、その悲痛な叫び声が、ずっと頭から離れてはくれなかった。

 まるで罰でもあるかのように、彼らの叫び声が、ずっとヴィクトリアの中には響いていた。
 だから、本当は最初からわかっていた。
 生まれ変わっても、何も変えることなんて出来ない。この魂の、運命は変えられない。
 結局自分は、悪役にしかなれないのだ。

 古龍を殺した。だったらあと何人殺そうが、何匹殺そうが変わらない。 
 この手は、血に染まっている。



 ヴィクトリアは静かに、古龍を見つめ言葉を唱えた。

「『その行い、その命をもって』」

 ――償え。
 ヴィクトリアは古龍に向かい、剣を振りおろそうとした。
 しかしその時、アルフェリアを抱いたエイルが、大きな声で叫んだ。

「やめるんだ。ヴィクトリア!!! 僕たちの幼馴染は……ヴィクトリアは、簡単に人を殺せるような子じゃないだろう!?」

 その言葉に、ヴィクトリアはピタリと手を止めた。

「えい……る……?」
「君は……君は人を、生き物が傷つくのも、傷つけるのも嫌いなはずだ。そうだろう? ヴィクトリア!!!」

 ヴィクトリアは混乱した。
 こんな姿を見てもなお、彼は私を、幼馴染だと言ってくれるのだろうか。
 心を持つ同じ人間だと、認めてくれるのだろうか。
 エイルの言葉に、ヴィクトリアの瞳が揺れる。

「エイル……アルフェリア……」

 ヴィンセントであるとき、ずっと、人間になりたいと願っていた。
 人間になって、誰かのことを信じたかった。信じてほしかった。自分の、本当の思いを。
 
(私、本当は。本当はずっと――……)

 誰も、傷つけたくなんかなかった。でもそんな願いは、『魔王』である限り叶わない。

「私……それでも、私は……っ」

 剣を握る手が震える。
 今も昔も、目の前の相手の命を奪うことは容易い。
 たとえ、自分が望まなくとも。
 そして本当は誰も傷付けたくはなくても、守りたいものを守るためには、大事な者を傷付ける敵は葬らなければ、また同じことが起こってしまう。

 力あるものが、決断をくださねばならない。
 たとえそのせいで、誰に誹られようと、誰かに嫌われようと。

『大丈夫。泣かないで。君が眠るまで、そばに居るから』

 優しい声を覚えている。優しい手を、温もりを覚えている。

 幼い頃の、陽だまりのような記憶。愛した人は、自分のために亡くなった。
 そして知ったのだ。
 奪われた命は、もう二度と、返ることはないことを。

「いいんだ。ヴィクトリア。君は、それでいい。君は戦わなくても……」

 エイルが、そうヴィクトリアに声をかけた時。 
 突如として嘲笑う男の声が響いて、戦意を喪失したヴィクトリアに、古龍はその爪を向けた。

「ハハッ! 隙だらけだ!」