信様が龍神の務めに出かけて行った日のこと。
「陽子様!!私達がやりますから!!」
龍神である信様に助けられてからしばらく経った。
玲奈達に傷つけられた心身はすでに回復し動き回れるようになった。
私は少しでも彼の役に立ちたいと、ここの使用人達に混じって実家にいた頃のように働こうと意気込んだ。
すると、掃除をしている使用人の妖の子が慌てて私を止めよう駆け寄ってきた。きっと、信様の婚約者となった私に手を煩わせるわけにはいかないと思っているのだろう。
「陽子様の綺麗な手を汚すわけには…」
「いいの。少しだけでも手伝わせて?それに、助けてもらってばかりで申し訳ないわ」
妖の子は感激しながら「陽子様〜」と感謝していた。私はその様子を見て思わず可愛いと思ってしまう。
まだ信様に何もお礼をしていない。何か恩を返したい。
そして、龍神の花嫁としての務めを果たしたい気持ちでいっぱいだった。
(癒しの異能がない今の私にできることは彼の無事を祈ることと、この屋敷とここで働く妖の子達を守ること。せめてそれだけでも…)
紅葉くんとつららちゃんも心配そうに「無理はなさらないで」と言ってくれている。実家にいた頃には考えられないことだ。
追放される前は、調子が悪くても働けと怒鳴られ、少しでも失敗すれば吊し上げにされみんなから笑われていた。
今はそれがなく悲しむ事も辛いことはない。
それでも気がかりなのは、玲奈に奪われたお母様の形見の簪のことだ。
玲奈は欲しい物が手に入るとすぐに飽きてしまう癖がある。
いらなくなった着物や髪飾り等を平気で捨てていたから心配でならない。
実は、信様に求婚された時に彼が約束してくれたことがある。それは、玲奈からお母様の形見を必ず取り戻してくれるという約束。
「あれは陽子の物だ。必ず取り戻す。俺が白鷺になってた時のように。あんな愚か者が使うには烏滸がましいにも程がある」
信様が白鷺に化けていた頃と同じ目でしてくれた約束。
静かな怒りが信様の美しい瞳に宿っているのが伝わってきた。こんなに私の為に怒ってくれる人なんていなかった。
今日の朝も、出かける前に私に誓ってくれた。
「もう君を泣かせたりしない。もし、また陽子を悲しませる様な者が現れたらすぐに飛んでくるからね」
こんなに大事にされるなんて。結婚した後の和正にもそんなこと言われたことなんてなかった。
優しい言葉と彼の想い、いつも私に与えてくれる綺麗な着物や装飾品、そして、信様が見てきた自然や村や都のお話。
私の傷付いた心と身体を癒すのに十分だった。
そんなことを考えながら私は仕事の手を進める。
(信様が好きなものってなんだろう?)
掃除を終えた次の仕事は食事の支度。妖の子達が考えてくれた献立通りに料理を作っていた時にふと疑問に思ったことだ。
疲れた彼を少しでも癒してあげたいと何か元気が出るモノを思うも思いつかない。まだ彼の好物を分かっていないせいだ。
私は紅葉くんにそっと尋ねることにした。
「ご主人様の好物ですか?」
「ええ。きっと疲れて帰ってくるから何か好きなモノを一品出してあげたくて」
「そうですね〜。あの人、結構甘い物が好きですよ。お菓子とか、甘めの味付けとか。後、辛いのが少し苦手ですかね」
紅葉くんから聞いた信様の好物。甘いものが好きだなんて少し驚いてしまった。そして、可愛いとも思えてしまった。
(辛いもの苦手なんだ)
あの凛々しい姿だと想像できない。私たちの前でしか見せないおちゃめな姿。
誰かの為に何かを作ってあげたくなる気持ちなんて久しぶりだった。あの家にいた頃には考えられない感情。
ここに来るまでは命令された通りに作らされて、玲奈達の口に合わなかったら罵られ作り直された。
あの人達はいつも「玲奈ならこんなもの美味しく作れるのに。お前は本当に何もできないな。こんな不味いものをだすとは!!」と彼女を与え私を蔑んだ。
(玲奈の作ったものは全部私が代わりに作ってあげていたモノなのにね)
玲奈が作った料理は全て私が代わりに作っていた。和正達はそれをとても美味しそうに食べていた。私がいなくなった今はどうだろうか。もう知る由もないが。
そんな嫌な思い出を振り切るように私は信様のために何を作ろうか考える。
すると、調理をしていた妖の子が「陽子様。信様は卵が好きなんですよ。厚焼きのやつとか!!」と教えてくれた。新鮮な卵があることも教えてくれた。
「陽子様が作ってくれたモノならなんでも喜びますよ♪」
妖の子が言った言葉に私は信様の嬉しそうな笑顔を思い出し顔が熱くなるのを感じた。きっと真っ赤になっている。
「そ、そうかな?」
「そうですよぉ♪大好きな人が作ってくれたら誰だって嬉しいですもん♪」
私はこの屋敷に来て嫌な思いなんて一つもしたことがない。それは私を愛していると言ってくれた信様、彼を支えているつららちゃんや紅葉くん、そしてここで働きながら屋敷を守る妖の子達のおかげだろう。
私は気持ちを奮い立たせ、彼の好物である甘めの厚焼きの卵を作ろうと決めた。
私は彼が喜ぶ顔を思い浮かべる。想像ではなくこの目で見たいとさえ思えた。
少し甘めに作った卵液を混ぜながら私は愛する人の帰りを待つのだった。
森や村、そして妖達を守る使命のある信は屋敷を離れ各地を飛び回っていた。
愛する妻である陽子のそばにいたい早く彼女に会いたいという気持ちがどんどん強くなってゆく。信を苛立たせる原因だった。
だが、紅葉から「幾ら陽子様のそばに居たいからって変な態度だけはとらないように。嫌われちゃいますよ?」と釘を打たれていたお陰でなんとか平常心を保つことができていた。
(陽子に嫌われるなんて辛い。生きていけない…)
屋敷にはつらら達がいるから安心ではあるが、やはり心配は尽きない。
ようやくあの地獄のような家と家族から逃げ出すことができた陽子を再び危険に晒したくなかった。もし、今みたいに自分がいない時に何かあったらと思うと信は気が気でなかった。
ため息をつくと"かーかー"と背後から鴉の声が聞こえてきた。信は声がして方に振り向く。
声の正体は鴉の妖である譲葉だった。鴉神の使いでもある彼は信の友人の一人だ。
譲葉は嘴に何かを咥えながら信の肩にそっと乗った。
「なんだ譲葉か。何か用か?」
「ああ。ある人間がお前さんに彼を渡せとよ。まーーったく、いやな人間共だぜ。これでも俺神様の使いなのによぉ!」
「やけに機嫌が悪いな。何があった?」
「今まで会った人間で一番最悪だったぜ。態度は悪いし、変なガキには追いかけ回されるし!!それに!あの村の巫女はなんだ?!全然なっとらん!!」
「巫女…?その女の名は知ってるか?」
「確か"れいな"って周りから呼ばれてたな。俺を見た途端撃ち落とせ!気持ち悪いとか言い出して散々だわ」
譲葉の口から出た玲奈の名。
彼が手紙を受け取ったのは陽子が住んでいた村からだろう。しかも、陽子を傷つけたものからの伝言。信は譲葉から受け取った手紙を開き読み始めた。
その手紙には、いかにもあの親子の我儘であろう要求が手紙にしたためられていた。
陽子が龍神の巫女になった時は行われなかった任命式と祝い。玲奈の母親が金の無駄だからと婚姻の儀同様に妨害されたが可愛い我が子の場合は逆だ。
信は怒りを覚え手紙を強く握り紙に皺を作らせた。
そして、もう一つ要求してきたものがある。それは龍神と巫女を顔合わせする儀式だ。どうしても龍神様の顔を拝みたいという玲奈の我儘から生まれたものだというのは文面だけですぐに分かってしまった。信の苛立ちがさらに増す。
(陽子の時は何もしなかったくせに。ふざけてる…)
「おい。信。あんま怒んなよ。周りの奴らがビビってる」
小動物や妖が怒る龍神を見て怯えていた。けれど、それ程までに信は玲奈達に怒りを覚えたのだ。譲葉は察した上で彼を諫めた。
「俺の顔を見てなんになる。ろくに巫女の務めを果たしてない癖に」
「やっぱアレじゃないか?蛇神・瑪瑙の…」
「……なるほど。小賢しい奴らめ」
信は彼女らを監視してゆくうちに、何故陽子達の前に現れたのかその目的が明らかなになっていった。
玲奈達親子が陽子の前に現れ後妻になった最大の理由。それは、先祖が引き起こした惨劇が原因だった。
蛇神・瑪瑙とその家族達を我欲の為に襲い、瑪瑙を復讐の鬼へと変えたあの女の子孫。子孫達は、瑪瑙の呪いから逃れるために各地を転々としていた。
そして、呪いから逃れる為には瑪瑙の憎しみが込められたあの黒い結晶を破壊するしかないとどこかで知ったのだろう。
決勝の在処を探る事と、陽子が亡き母から継いだ巫女の名と癒しの異能を奪い取る為に近付いた。
挙げ句の果てに子孫である玲奈は、真の龍神の巫女である陽子を陥れ殺そうとした。もう救いようがないと思えてしまう。
「あの玲奈って巫女さん。随分面食いらしーぞ?もう旦那もいるってのにねぇ〜」
どこからか流れてきた噂を聞いて龍神に会ってみたいと思ったのだろう。どこまでも愚かな女だと信と譲葉は呆れ返った。
「そんなに会いたいなら。会ってやるさ。でも…」
「でも?」
「陽子がなんて言うか…。妹に会いに行くと言ったらきっと悲しむ」
「そうかもしれんけど、親父さんと蛇神との約束を果たすには避けては通れんぜ?」
「分かってる」
屋敷で待っている陽子の気持ちを考えると躊躇してしまう。
また妹に奪われてしまうのではないかと。
(もう悲しませないと約束したのに)
少しでもいいからあの親子の本性を知りたい。陽子に危害を加えた奴らの顔も全員覚えてやりたかった。
どんな風に断罪してやろうかと想像できる。
愛する人を傷つけた者には誰であろうと許さない。
きっと、蛇神・瑪瑙も同じ思いであの結晶の中にいるのだろう。痛いほど気持ちがわかる。
そして、これは彼女の大切な母親の形見の奪還に繋がることでもある。陽子の笑顔を守る為の糧だと信は自分に言い聞かせた。
「譲葉」
「ん?」
「龍神の巫女の一族に伝えろ。承諾したと」
「え?!いいのかよ?!!」
「いいから。俺の気が変わらないうちに」
だぁー!!本当人使いが荒い〜!!!っとぼやきながら譲葉は再び玲奈達が住む村の方へと飛び立って行った。
信は白鷺に姿を変え、心にモヤを抱えたまま陽子が待つ屋敷へと飛び立った。
早く愛する人に会いたい。手紙のことを伝え必ず戻ってくると伝えたい。
その気持ちを抱えたまま空を駆けていった。
偽りの巫女である玲奈の仮初の幸せが崩れる音がするのはもう時間の問題だろう。
日が暮れて月が出始めた頃に信様は帰ってきた。
私は急いで玄関の方に向かう。私が来たことに気付いた信様はニコッと私に微笑んでくれた。
「お帰りなさいませ。信様」
「ただいま、陽子。ごめん。遅くなってしまって」
少し疲れた様子の信様は嬉しそうに私を抱きしめた。また顔が熱くなり真っ赤になっていると感じる。
(はぁ〜癒される…)
「あ、あの、先にお風呂にしますか?お食事にしますか?」
「先にご飯にしようかな。お腹すいちゃったし」
「はい。もう用意はできてますから」
信様は名残惜しそうに私から離れ「ありがとう」と呟いた。
少しでも元気をつけてもらいたいからと作った厚焼き卵が彼の口に会うか不安になる。
でも、和正の様に嫌なことは言わない気がした。
茶の間には既に夕食が準備してある。妖の子達は嬉しそうに「陽子様と一緒に作ったんですよ♪」と信様に話しかけていた。
つららちゃんが私が作った厚焼き卵のことを信様に教えてくれた。
「陽子が作ってくれたのか?」
「そうですよぉ!お忙しいご主人様の為に丹精込めて作ったんですから!!」
(嬉しすぎる…)
目を輝かせながら厚焼き卵を見る信様。食べるのが勿体無いと訴えていたが紅葉くんが「ご主人様の好みの味付けにしてくれましたから、早くお食べになってご感想を」と諭す。
信様は私を抱きしめてくれた時の様に名残惜しそうに箸をとりそっと厚焼き卵を掴む。
「それじゃいただきます」
「はい…」
緊張する。ドキドキと心臓の鼓動がいつも以上に聞こえてくる。ゆっくりと噛み締めるように食べる姿を見て私は更に緊張してしまう。
つららちゃん達も緊張した表情で信様を見ていたけど、紅葉くんはあの人なら大丈夫だという冷静な表情だった。
私は恐る恐る味の感想を信様に聞こうとした時だった。信様はとても感激した顔でもう一つの厚焼き卵を頬張った。
「美味しい!すごく美味しいよ!」
「あ…ありがとうございます…!!」
私は彼の美味しそうに食べる姿を見て泣きそうになってしまう。つららちゃん達も「やったー!!」ととても喜んでくれた。
「もし、陽子様が一生懸命作ったものを不味いって言って投げつけたら僕が殴ってたところでした」
「紅葉…」
作ってくれたものを喜んで笑ってくれる姿なんて初めて見た。いつも不味いと言われて殴られるか、作っていない人の物として出されて存在を消されるかだった。
料理をして虚しいとしか思わなかった気持ちがここに来て全てが変わった。
彼が私を助けてくれたから変われたのだ。
全てを奪われて何も無い私に幸せな時間を与えてくれた信様に感謝しても仕切れない。
今日みたいに何を作ったり、彼の無事を願うことしかできない。でも、私が作ったものを食べて嬉しそうに笑う彼を見てから、何もなくても傍にいさせてほしいという願いが強まった。
食事を終え、紅葉くんやつららちゃん達と談笑を楽しんでいた信様が私を見て少し申し訳なさそうな表情を浮かべたのだ。
(信様?)
あまり見たことのない表情に不安になった私に信様は話しかけてきた。
「本当にありがとう。この卵焼きとても美味しかった。すごく感謝してる」
「ありがとうございます…安心しました」
心の底から感謝しているのが伝わる。嘘ではない。
でも、まだ、表情が曇っている。どうしてなのか書こうとした時だった。
「陽子。大事な話がある。ちょっと来てくれる?」
「え?はい」
居間から出て、自室で二人きりなった。変に静かで不安が募る。
大事な話とはなんだろう。胸騒ぎがしてならない。
さっきまでの明るく暖かな雰囲気はどこかへ行ってしまった。
嫌な予感がする。あの和正から離縁を言い渡された時と同じ。
何かに恐る私を見て信様はゆっくりと重い口を開いた。
「実は今日、龍神の巫女から便りが届いた」
「…っ!!」
「俺と顔を合わせる場を設けたいと。君の妹の要求らしい」
「れい…な…の…」
私から全てを奪い殺そうとした妹の名前。
記憶の中に残る玲奈の笑顔と笑い声。その笑顔は私を見下す時にしか見せない。
何処かで聞いた信様の噂を聞いて会いたいという様になったと信様は言っていた。
すると、此処にはいない筈のあの子の声が私の耳にそっと囁いてくる。
「ダメよ、お姉様。貴女は幸せになっちゃいけない女なのよ。お姉様の幸せは私のモノ。お姉様の大事なモノも全部私のもの。苦しみながら死んでちょうだいな」
玲奈の魔の手が少しずつ私に伸びてゆくそんな気がしてならなかった。
信様の存在を彼女はまだ知らない。村の伝説の中の龍神しか知らない筈だ。
だが、今の玲奈は龍神の巫女。信様に会いたがっても何らおかしくない。彼女の我儘を叶えるならなんでもするお継母様とお父様ならどんな手を尽くしてでも信様に会わせようとするだろう。
和正の様になってしまうのではないか。またあの冷たい目を私に向けられるのではないか。
彼女に会ってほしくない。もう和正の時な様にはなりたくなかった。
お願い。行かないで、傍に居て。
喉から出かかっているその言葉が引っかかったまま出てこない。これ以上信様を困らせたくないという気持ちがそうさせてしまっている。
「……」
「あくまで巫女と接触するのは儀式としてだ。用が済んだらすぐに戻る」
「そう、ですか」
「大丈夫。俺は惑わされたりしないよ。必ず陽子の元に帰ってくるから」
怯える私に信様は優しく諭してくれる。必ず私の元に戻ると言ってくれた。
「どうして…承諾したのですか?」
「……実は確かめたい事が一つある。今は詳しく言えないけど、とても大事なことなんだ。俺にとっても、陽子にとっても」
「私も?それってどうゆう…」
「帰って来たら全て話す。だから俺を信じてくれ、陽子」
力強い言葉と真剣な眼差し。そこに偽りも迷いは全くない。
今は彼を信じるしかないと私は首を縦に振った。
奪われてしまうという恐怖は拭いきれていない。彼女の元に行く目的も知りたい。
私にできることはこの屋敷と妖の子達を守る事。そして、彼の無事を祈る事だ。
「信様」
「ん?」
私は彼の胸に飛び込んだ。少し驚いた顔をしたが、すぐに愛おしそうな表情を私に向けてくれた。大事なモノを触れる様にそっと私を抱き締めた。
「必ず戻ってきてください。もう何も失いたくない。貴方も、この幸せな時間も…!!」
「約束する。必ず陽子の元に戻ってくる。それにまだ簪の約束も果たしてないしね」
また妹の声が私に囁く。
「そんな約束無駄無駄♪あの簪はもう私のモノなのよ?お姉様のその幸せも、異能も、何もかも私のモノになるのよ。強がっても無駄。抗ってもぜーんぶ無駄。早く諦めて?お姉様?」
私に纏わりつく脅威は恐怖を煽る。失う怖さが私を震えさせる。
この人だけは奪わないで。お願いだから。
すると、信様が私の頰にそっと手を添えた。暖かいその手に私は触れる。
お互い目を瞑りゆっくりを顔を近づけ唇を重ね合わせた。
これは誓いだ。誰にも心を奪われないと、心はあなただけのものだという誓い。
彼との初めて口付けを交わした忘れられない夜となった。
そっと唇を離し、見つめ合い再び抱きしめ合った。
愛する人にこんなに大事にされたことなんてなかった。和正と結婚していた時も必ず邪魔されていた。
私のしあわせを望まない玲奈が見たらなんて言うだろうか?
「そんなの無駄だって言ってるでしょ?龍神様もすぐ私に見惚れるに決まってるわ。こんな粗末な口付け、龍神様の記憶から忘れさせてやるから」
記憶の中の玲奈は私を罵倒する。
信様の心臓の音が怯えている私を安心させる。私は彼に身を任せる様に胸の中でもう一度目を瞑った。
龍神・信と顔合わせができると知ってから玲奈は巫女としての務めを果たす様になった。
傷ついたものや病床に伏した者を癒していったが、相変わらず高貴な身分の者だけに施され、身分が低い者には施されず見放し苦しめていた。
"どうしても治して欲しければ金を出せ。この異能は神聖なものだから卑しい者が受けていいものではない"
それが付き人である玲奈の母親の口癖だった。どんな苦しみ手を伸ばしても平然と見下し手を払い除けた。
陽子の様に分け隔てなく異能を使うことはやはりない。
もし、あったとしても龍神の前で見せる時だけ。龍神に良い顔を見せて好かれようとしているだけだ。誰かを思いやるという気持ちなんてさらさらなかった。
(少しでも龍神様に良いところ見せなきゃ♪)
帝都や他の村に出かけていた両親や使用人達から聞いた龍神の噂と姿が描かれた絵を見てから彼に興味を持った。
夫となる和正よりも美しく凛々しい龍神の姿に玲奈の心は見事に奪われてしまった。
龍神の巫女で神社の宮司の息子の嫁であることを忘れて玲奈は龍神に会う準備をしていた。
家にはすでに沢山の着物があるが、わざわざ新しい物をまた買い寄せる。
もう沢山あるからと忠告すればどうなるか分かっているから誰も何も言わない。血の繋がった母親は咎めるどころか甘やかすばかりだ。
流石の和正も買い過ぎではないか?お金も無限ではないと玲奈に諭すも龍神に夢中になっている彼女の耳には届かない。
寧ろ、その憧れと欲が玲奈の心から和正の存在が薄れさせてゆく。それは和正本人も気付き始めていた。
「あの…玲奈…?」
「はぁ?何?私、今、準備で忙しいんだけど!!龍神様の前で恥かくわけにはいかないの!邪魔しないで!!」
「それは分かってるけど少しぐらい…」
「あーもー!!本当邪魔!!うるさい!!あっち行って!!!」
玲奈に触れようとする和正の手を彼女は乱暴に払い除ける。
玲奈の変貌ぶりに和正は怒りよりも恐怖を覚えていた。
きっと自分との間にできた子供が陽子に殺されたから自暴自棄になっているのだと考えていたが違っていた。実際は、和正よりも美しく偉大な力を持つ龍神に心を奪われ始めていたからだ。
初めの方はお腹を摩りながら「守ってあげられなくてごめんね」と涙を流し悲しんでいたが、今はお腹のこのことなんかまるっきり忘れている。悲しむそぶりを全く見せなくなった。
それに気付いた和正は言葉を失ってしまった。
玲奈に払い除けられた時に打たれた手が少し赤く染まっている。ヒリヒリする手から痛みを和らげる様に摩る。
あんなに可愛かった玲奈は今はどこにもいない。幼馴染で前の妻であった陽子を捨ててまで手に入れた花嫁は会ったこともない龍神に魅入られてしまった。
だが、和正は突きつけられた現実に向き合えなかった。玲奈がどこかでまだ自分を想ってくれていると信じているからだろう。見捨てるなんてできなかった。
「ご、ごめんよ。ほら、もう少しで婚姻の儀だろ?いろいろ話を進めたくて…」
玲奈は面倒くさそうに舌打ちをする。
「今はそれどころじゃないの!そんなに私に恥かかせたいわけ?!!」
「ち、違うよ。そうじゃなくて」
「じゃあ黙ってて!!!それ以上私の邪魔をするなら婚約破棄するから!!」
「え…」
玲奈からの口から出た"婚約破棄する"という言葉。和正は思わず動きを止めてしまう。
「こ、こん、やくはき…?」
「そうよ。だって貴方、私の邪魔はするし、まだ宮司を継ぐ気配もないし、お姉様からお腹の子を守り切ってくれなかった!!そんな人と結婚なんていやよ!!」
「だ、だって…あれは防ぎようが…」
「酷い!!!またそうやって言い訳する!!死んだあの子が可哀想だわ…!!うぅ…っ」
不甲斐ない和正を責めながら玲奈は手で顔を覆い泣いてみせる。その姿を見て和正は謝りながら抱きしめた。
和正はそんな玲奈の振る舞いに限界が来ていた。思わず本音が出てきてしまう。
「陽子ならそんな事言わないのに…」
和正のその一言に玲奈は目を見開いた。そして、彼の頰に強烈な一撃を喰らわした。
和正は腫れた頰に手を添えながら我に返り玲奈の方に目を向けた。彼の目に映った彼女は凍てつくように冷めた目をしていた。もう用済みだから消えて欲しいと目で訴えているように見える。
「れい…」
「もういい。アンタなんかもういらない。あの女の方がいいんでしょ?分かったわ。すぐにお姉様の元に連れて行ってあげる」
「待って違うんだ…!!許してくれ…その、つい…」
「だから何?アンタが私に惚れて、お姉様を裏切ってくれたお陰で異能も巫女の名もお姉様の紅珊瑚の簪も手に入れた。だから、アンタは用済み。結婚なんかしなくてもいいの。後は龍神様の顔を見て決める」
「玲奈?何を言って…」
「察しなさいよ。良かったじゃない。最期に大好きなお姉様に会えるのよ?感謝してよね?それじゃ、私忙しいから」
呆然とする和正を置いて玲奈は部屋を出る。もう、龍神の巫女の面影のない欲に堕ちた顔だった。
邪魔なモノは排除する。それが自分の旦那でも架空の子供でも躊躇なく実行する。
玲奈はれっきとした蛇神を陥れた女の末裔。彼女の血は村の伝説を汚し龍神の巫女の一族を騙し、本来異能を持つべき少女から全てを奪った。
次は龍神でさえも奪おうとしている。
そして、玲奈が告げた"最期"という言葉。その意味は玲奈の野望を果たす為には必要な別れ。そして、和正を陽子の元へ連れてゆく手段。
それは彼女の母親も行っていた悍ましい行為だった。
「お母様。お願いがあるの。あの毒を、先代の巫女、お姉様の母親を殺した毒を手に入れて欲しいの」
「……もういいの?あの男のことは。お父様が悲しむわよ?」
「いらないわ。あんなちんけな神社の宮司候補より龍神様の方が何倍も良いわ。だからいらないの。お姉様にお返ししなきゃ」
刺客達が姉である陽子を殺した証である首を持ってこなかったから本当に死んだかどうかは正直なところ分かっていない。けれど、玲奈は陽子が死んでいると無理矢理思い込ませている。
和正がまだ陽子のことを忘れていないと知ると改めて死んでいて欲しいと願った。そして、早く愛していた筈の和正を彼女の元に連れて行きたいとさえ願った。
「あの人酷いのよ。私なんかよりも陽子お姉様の方が良いなんて言うのよ。裏切って捨てたくせにね。本当最悪よ」
「まぁ…可哀想に。大丈夫よ。お母様がなんとかしてあげる」
「お母様…!!」
母親の歪んだ愛に感激した玲奈は彼女の胸に飛び込んだ。母親は慰めを込め愛おしそうに娘の頭を撫でる。
「貴女の幸せは私の幸せ。玲奈の為ならなんでもするからね。だからもう悲しまないで」
「ありがとうお母様。大好きよ」
愛する娘の為なら人を殺すことなど容易いことだ。陽子の母である真魚を殺した時と同じ動機で再び人を殺めようとしている。
全ては愛する娘の幸せを守る為、自分達の欲を満たす為、今の生活を守る為に。
だが、一つだけいまだに叶えられていないモノがある。
(早く…あの蛇神の呪いから逃げ切ること……この子に万が一のことが起きたら私は…!!)
「お母様?どうしたの?」
愛しい娘の声に恐怖と焦りに駆られた母はハッと我に帰る。
「……なんでもないわ。毒のことはお母様に任せて。貴女は龍神様に会うのだからしっかりと準備をしておきなさい。貴女を娶ってくれるかもしれないからね」
「そうね♪分かったわ♪」
「龍神様に娶られた方が何倍も価値があるんだから」
「そうよね!!でも…もし、龍神様に花嫁がとういたとしたらどうしたら…」
不安がる玲奈に母親は優しく頭を撫でる。玲奈の不安な心が少し和らぐ。
「玲奈以外の花嫁なんてありえないわ。お母様がなんとかしてあげる」
「本当?」
「だから安心して顔合わせの儀に挑みなさい。毒もちゃんと手に入れるから」
「ありがとう。お母様。大好きよ」
龍神に愛され幸せに暮らし始めていた陽子の見えないところで悪しき企みが進行してゆく。陽子が玲奈達の元にいた頃よりも欲望は増幅していた。
玲奈は先祖達と同じ道を歩み、血に染まった幸せを掴もうとしている。
龍神との結婚を望む玲奈はまだ姉の陽子が彼の花嫁だということを知らない。知ってしまった時はきっと瑪瑙と同じ手段を選ぶだろう。
だが、龍神はずっと彼女らを見ていた。陽子をずっと見守っていた白鷺の姿で。
その事など知る由もない玲奈は母親に全てを任せ、再び自身の準備の続きに再び取り掛かるのだった。
遂に顔合わせの儀が行われる日を迎えた。
玲奈に会うという不安からあまり眠れなかった。信様が私に必ず戻ってくると約束し口付けまでしてくれたのにやはり最後まで不安は拭いきれなかった。
和正の時のように玲奈の可愛さに惑わされて帰って来なかったらと怖くて眠れなかった。
大丈夫なのは分かっている。彼を心の底から信じている。
無事に私の元へ帰ってくると約束してくれたから大丈夫だと何度も何度も自分自身に言い聞かせた。
今日は玲奈に会いに行く。私は朝早く起きてつららちゃん達と一緒に出かける準備をする。
素敵な衣服に着替えた彼の綺麗な銀髪を私は櫛で梳かす。朝日に照らされる銀髪がいつも以上に輝いて見える。もしかしたら彼の髪を触れられるのがこれで最後かもしれないと思うと尚更綺麗に整えてあげなくてはと思ってしまう。
「陽子?」
「あ…あの…なんでもありません。ただ、信様の髪がとても素敵だったので遂に見惚れてしまって」
「きっと陽子が梳かしてくれたからだよ。とても心地よかった」
「ありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいですわ」
「また頼んでいいかな?」
信様は優しい笑顔で頼んでくる。断る理由なんてない。
「っ、はい。是非やらせてください」
「ありがとう。俺も陽子の髪を梳かさせてほしい。陽子の髪は夜空の様に素敵だから」
玲奈に奪われる前の和正も同じようなことを言って私の髪を撫でていた。あの時間はとても幸せだった。今でも忘れられない。
今はその時間を和正とではなく、傷付いた私を助け心の底から愛してくれている神様と過ごしている。
神様の花嫁…、正確にはまだ婚約者になるなんて夢にも思わなかった。
ずっと彼が白鷺の姿で私を見守っていたから今の私がいるのだ。その幸せが壊されてしまわないか怖くて仕方がなかった。
神聖な存在である龍神様の髪に触れていい資格が私にあるのだろうか。無力な私が彼の傍にいていいのだろうか。
「俺は陽子が傍に居てくれなきゃやだよ」
「え…?」
まるで私の心が見えている様な言葉。私は思わず櫛を動かしていた手を止めてしまう。
「陽子以外の女を花嫁に迎えるつまりはさらさらない。君以外の女を愛すこともない。それに約束したじゃないか。必ず陽子の元に帰ってくるって。だから安心してほしい」
信様のその力強い言葉に私はもう何も言えなかった。言葉を失ったのは失望したからではない、寧ろ彼を信じる気持ちが強まったからだ。
私は彼の言葉に応える様に整えられた銀髪を黒い上品な紐で結んだ。
そして、最後に紺色の上着を着せ、全ての準備を終える。遂に玲奈の元向かう準備が整ってしまった。
私は緊張した面持ちで彼と共に外へ向かう。
「あ!!ご主人様やっと来た!!」
目の前には見かけない白髪の可愛らしい女の子が信様が来たと隣にいた男の子に話しかけていた。見覚えのない筈のその子の声に聞き覚えがあった。
「え!もしかしてつららちゃんなの?!」
「そうですよぉ!人間に化けた姿です!!」
(すごく可愛い。それじゃあ…隣にいる男の子は…)
「すまない紅葉。少し待たせてしまった」
予想通りあの紅葉くんだった。狸の時の可愛さとはまた違う、人間らしい可愛らしさを醸し出していた。
(つららちゃんも紅葉くんも可愛い…)
「いえ、こちらも久しぶりにこの姿になったので少し手こずりました」
「ほーんと久しぶりだったよね〜。あーあ、この姿、陽子様の結婚式の時に披露したかったのに〜」
「我儘言うな。飽く迄で偽巫女に威厳を見せる事と、ご主人様を守る為に人間に化けたことを忘れるなよ」
「分かってるけどぉ〜気が進まないよぉ〜」
いつものつららちゃんと紅葉くんらしさが人間の姿になっても出ている。私は二人の可愛らしいやりとりを見て思わず笑ってしまう。少し気が紛れた。
すると、信様が私の両手をそっと握ってきた。とても暖かく安心してしまう感触。私はそっと彼の顔を見つめた。
「信様…」
「帰ってきたら陽子を悲しませてしまった詫びをさせてくれないか?」
「詫び…ですか?そんなのいいですわ。私は貴方が帰ってきてくれるだけで十分ですから」
「いや、是非させてくれ。もう悲しませないと約束したのに、俺はそれも守ることができなかった。だから…」
信様が懐から何かを取り出し、私の手にそっと置いた。それは、桜色の角が取れ綺麗な宝石な様な小さなすり硝子。形がとても桜の花弁に似ていてとても素敵だった。
「海の宝石というお守りだ。ちゃんとまじないもかけておいた。どんなに離れていても必ず会える様に、そして、すぐに陽子の危機に駆けつけられるように」
「ありがとうございます…!!すごく素敵です…!!」
とても素敵な桜色の硝子を大事そうに握る。
私は海というものを見たことがなかった。こんな素敵なモノがあるなんてどんな所だろうか。本や話でしか知らない海と言うものにに私は思いを寄せる。
信様は私の頰にそっと触れる。
「陽子に見せたいものが沢山あるんだ。帰ってきたら行こう。二人だけで」
「約束ですよ?」
「ああ。約束する。家の事頼んだよ」
信様は名残惜しそうに私の頰から手を離し、優しく私の右手に触れ、手の甲にそっと口付けをした。私はその行為にカッと顔を赤らめ熱くなった。
「は、はい…!!」
「それじゃ、行ってくる」
私と一緒に屋敷に残る妖の子達も「お任せください!!」「陽子様と屋敷は必ず守り抜きます!!」と言った。
恥ずかしさで内心慌てている私はしどろもどろになりながら信様を見送る。
つららちゃんは顔を隠しながらきゃーっと小さく黄色い声を出し、紅葉くんは「陽子様を困らせないでください」と信様をぼやいていた。
「い、いってらっしゃいませ…!!」
「いってきます。陽子様」
「いってきまーーす!!」
「あ、えっと、い、いってらっしゃい!!」
顔の赤らみと熱さが消えないまま三人の背中を見守る。
突然、吹いた強い風が吹いた。
「きゃ」
その風は信様が起こしたモノだろう。風が吹いたと同時に三人は消えてしまった。遂に玲奈の元に向かって行ったのだ。
私はさっきもらったおまじないがかかった硝子の桜をぎゅっと握りしめながら澄んだ空を見上げる。
私は天に向かって願う。
(どうか…信様が和正の様に玲奈に惑わされず、無事に私の元に…屋敷の皆の元に帰ってきますように…)
そしてもう一つ願いを天に呟いた。
(この幸せがいつまでも続きますように…)
手の中の硝子の桜が太陽に照らされてキラキラと美しく輝いている。天に願いが届いた証なのだと願いながら私は屋敷の中に戻ってゆくのだった。
愛する妻に見送られた信は玲奈が住む村に降り立つ。信はつららと紅葉にあるモノを見せる為だ。
其処は目的地の玲奈がある屋敷から離れた場所にある墓場。
村の様子は陽子が居た頃よりも酷いものになっていることを象徴した場所となっていた。その光景を見た紅葉とつららは思わず絶句する。
「ご主人様…これは…」
「本来、癒しの異能の施しを受けるべき者が死んでいった証と言っておこう。あの女共、位の高い者、金がある者にしか施していないと言った方が正しいか…」
紅葉達が村に降り立ち最初に見たのは墓の数だ。
陽子がまだ龍神の巫女だった頃は数個しかなかったものが、玲奈が巫女になり施しを受ける条件が追加されてから途端に増えていった。その中に玲奈達に逆らい処刑された者の墓もあるのだろう。
「こんなの酷い…酷すぎるわ…!!」
「流石、蛇神・瑪瑙を殺した女の末裔。自分達の欲のためなら、下民は犠牲にしていいと考えている」
「ご主人様。まさか、この現実を俺とつららに見せる為に此処に降り立ったのですか?」
「御名答。二人に俺が白鷺の姿で見た事実を知ってもらいたかった。偽の巫女に惑わされない様に」
紅葉は「なるほど」と納得したように呟く。つららは見たことのない玲奈に対して怒りを露わにした。
「こんな事を平気でする奴らだ。俺の大事な陽子から全てを奪った外道。そして、瑪瑙を復讐に駆り立てた末裔は俺に興味を示した」
「どうして?だって今まで顔を合わせるなんてなかったじゃない」
「俺の噂を聞いたからだろうな。婚約者がいるにも関わらず考える事は村の為ではなく自分の為に」
信のその言葉に紅葉達は何かを察する。
「俺は陽子を裏切った元旦那のようにはならない。そうなったら容赦なく俺を殺せ」
「そんな!!嫌です!!!」
「……っ、それが龍神様の願いならば聞き入れましょう」
「ちょっと紅葉!!!」
「陽子様のことを想ってのことだ。俺達はそれに従うしかないんだよ。つらら」
それ程までに陽子を愛しているのだと察した紅葉は何も言わず信の願いを聞き入れた。本心は否定したかった。だが、信の決意が痛い程伝わりこれ以上何も言えなかった。
つららが言いたい事も分かる。けれど、和正の様に裏切ってしまったことを考えたら死を選ぶだろう。
信は、玲奈達が居る屋敷がある方に目を向ける。
(もう少しで準備が整う。瑪瑙の恨みのかけらを解き放つ準備がな)
何も知らず、龍神に憧れを抱いた玲奈がまだかまだかと待っているであろう。
早く済ませて陽子の元に帰ろうと考えながら屋敷に向かうのであった。
「お待ちしておりました!!龍神様!!!」
玲奈が待つ屋敷に着いた信達は陽子の父親達に歓迎されていた。待ってましたと変な明るい声で信達を迎えていた。
だが、信は陽子を傷つけた者から受ける歓迎は不快で仕方がなかった。
不快感で苛立っているのに気付いているのはつららと紅葉だけで、屋敷の者は龍神が訪問したことへの感激で気付こうとする気配もしなかった。それが余計に信を苛立たせた。
今すぐにでも帰りたい。愛する妻である陽子の元に帰りたいと心の底から願っていた。苛立ちを隠すように信はため息を吐く。
その様子を見ていた紅葉は、苛立ちが変にダダ漏れていると分からせるように信に対し少しわざとらしく咳払いをする。
「(イライラしてるの全く隠し切れてませんけど?)ご主人様。早く席に着きましょう。巫女様をお待たせしてますから」
「(……だって仕方ないだろう)分かっている」
愛する妻を傷付けてきた者が気持ち悪く媚びてくる。大昔、復讐に駆られた蛇神を倒し、平和を取り戻した父と先代の巫女が見たら落胆する光景だろうと信は思う。村の惨状を見たら尚更だと。
きっと、屋敷で信の帰りを待つ陽子も悲しむだろうと信は心を痛めていた。
屋敷の者達にどんなに酷いことをされても陽子は信に恨み言なんて一つも言ったことなんてなかった。寧ろ、玲奈達に奪われてしまう恐怖が彼女を縛りつけている。
信の脳裏に玲奈の元に行かないでと告げた夜の出来事が過ぎる。
守ってあげたい、彼女を縛り付けているものを取り払って恐怖から逃がしてあげたい。そして、ずっと自分の側にいて欲しい。そう願った忘れられない夜。
玲奈達から取り戻さなければならないモノは沢山ある。信はどんな手を使ってでも奪い返すつもりだろう。
心配になったつららは紅葉に小声で呟いた。
「早く陽子様の大事なお母様の簪も取り戻さなきゃだよね…」
「ああ。全てはご主人様にかかってる。俺達にできることは全力でご主人様と陽子様を守り、そして、お助けすること」
「うん…そうだよね…!!私達も頑張らなきゃだよね…!!!」
玲奈に奪われた陽子の母親の形見である赤珊瑚の簪を取り戻すことも目的の一つ。
今すぐに返せと迫ることもできるが、血を流すことは陽子が望まないだろうと信は悟っていた。今はまだ相手の動きを探り、来る時に全てを奪い返すつもりだ。
周りに持て囃されながら玲奈を待つ信の姿を見て陽子の元夫である和正はどこか打ちひしがれていた。
(あれが龍神様……あんなのに勝てるわけがない…。玲奈が心当たりするのも頷ける…)
項垂れる和正を見て信は心の中で蔑む。この男が陽子の心を弄び、彼女の妹にうつつを抜かした馬鹿な男だと。
こんなに哀れで愚かな男なんて愛おしい陽子には似合わないフンっと鼻で笑った。
すると、和正が少し苦しそうに咳をした。顔色もあまり良くなかった。
近くにいた女中が駆け寄り様子を伺うが調子は良くないようだ。
(なんだ?病のようではないみたいだが…まさか…)
信は和正の様子を見て何かを察しかけた時、遂に龍神の巫女が姿を表した。
その姿は、巫女には似つかわしくない着物に身を包み、髪には陽子から奪い取った赤珊瑚の簪が刺さっていた。
玲奈の母とひばり親子達と数人の侍女を連れて玲奈は念願の龍神の前に現れた。初めて信を見た玲奈の目はとてもよく輝いていた。
「貴方が龍神様ですね…!!」
美しい龍神の姿に玲奈の心はときめかせた。思わず言葉を失ってしまう。
そんな玲奈を見て、和正は悲しげな表情を浮かべていた。もう彼女の心の中に自分はいないのだと改めて思い知らされる。
「玲奈…」
(似顔絵通り…ううん…それ以上だわ…!!和正なんかよりも何百倍も良い…!!!)
玲奈が現れた途端に漂ってきた甘ったるい香水の香りに紅葉は目眩を覚える。思わず顔を歪めてしまった紅葉だが、身に付けていた雑面のお陰で気づかれずに済んだものの、紅葉にとっては苦痛な時間が始まってしまったことに頭を抱えた。
つららは心配そうに横目で見るも駆け寄れずヤキモキしていた。
そんなことなど知る由もない玲奈はうっとりとした表情で信を見つめていた。
彼女の表情が目障りとしか思えなかった信は早く顔合わせの儀を進めろと溜め息混じりに指示した。
信の顔色を伺っていた陽子の父親は、不機嫌な様子を見せる彼を見て慌てて顔合わせの儀を進め始めた。
「ごめんなさい。龍神様のあまりの美しさに見惚れてしまいまして…」
「そうか。お前の感想なんかどうでもいい。早く名を申せ」
「あ…そ、そうですわね!!えっと…、私の名は玲奈。悪しき大蛇からこの村を守ってくれた龍神様から授かった癒しの異能を受け継いだ巫女でございます」
「……その割には貴様に気品を感じないが。それより、ちゃんと俺の親父の言いつけ通り分け隔てなく異能を施しているのだろうな?」
陽子の父親は一瞬ギクリとした様子を見せ、少し焦ったように突然ですと返してきた。説得力にかける返事でまた信のため息をする数を増やさせた。
その様子を見ていた玲奈の母親が悪びれもなく反論する。
「龍神様。この異能はとても神秘なモノ。それを下民共に施すのはどうかと思いますが」
「何故、龍神の巫女の血筋でもなんでもない貴様が決めつける。これは先代の龍神と巫女が交わした約束。部外者の貴様が口を出していいわけがなかろう。それに何故龍神の巫女の血筋でもないこの女が巫女となっているのだ。」
「っ…、で、ですが、私はこの子の母親。その権利は十分あると思いますが…!!確かに娘は巫女の一族の血は引いておりませんが、その素質は十分に…」
「もういい。黙れ」
「でも…!!!」
「神殺しの一族が何を言うか」
小さくボソリと呟いた信の一言に玲奈の母親は青ざめる。
龍神は神であるが故に何もかも知り尽くしている。先祖が起こした悪事も、愛する娘の為に自らが起こした悪事も何もかも。
何も知らない玲奈はただただ困惑するが必死に笑顔を絶やさず信を見つめ続けていた。
「玲奈と言ったな。確か、貴様の前に巫女であった少女がいたな」
「前の巫女……ああ!!まさかお姉様のことですかぁ?なんで急にあの人の話を…」
「貴様の姉だと聞いていたが」
今までにこやかだった玲奈の顔が悲しみの表情に切り替わる。目に涙を浮かべ辛そうな彼女に和正は駆け寄ろうとするが、また苦しそうに咳き込んでしまいその場を離れることができなかった。
涙で目を潤ませた玲奈は、助けを求めるように陽子のことを話し始めた。
「お姉様とは血の繋がりはないのですが…彼女が本来なら私が継ぐはずだった癒しの異能と巫女の名を先代の巫女の娘というだけで受け継いでしまった偽の巫女」
「ふーん。で?」
「彼女は異能を悪用し私達や村の方を苦しめ続けていました。お父様達と一緒にお姉様から異能を取り戻すことはできたのですが……」
玲奈は涙を流しながらお腹をそっと摩った。信は玲奈のその仕草に嫌悪感を覚え吐き気を催した。
「そのせいで、私と夫の愛する子供を毒で殺すという凶行に走らせてしまった…!!私のせいで愛する我が子を産んであげることができなかった…私は…!!」
涙を流し、姉と我が子を憐れむ玲奈の姿にひばり達女中は涙していた。和正と父親と母親も心痛な面持ちだった。
だが、信と紅葉とつらら達だけはとても白けていた。彼女が話していたことは全て嘘だと知っていたからだ。
チッと舌打ちをした信は立ち上がり玲奈を見下ろした。
「貴様の姉のせいで腹の子供が死んだと言いたいのか?」
「ええ……でも、私はこの子の分まで生き、巫女の務めを全うしたいと思っております」
「へぇ。その割には水子の魂が貴様の周りに漂っていないが?」
「え?」
「欲に塗れたその頭に教えてやろう」
信は苦笑いをしながら語り始めた。
「日の目を見ることのなかった水子の魂は、母親が死ぬまで取り憑く。愛する母親の幸せと守護の為に必ずな。だが、貴様にはそれがない」
「え、え?」
「それ以前に、貴様の腹に胎児がいた痕跡もない。貴様、本当に子を宿していたのか?それとも、貴様の姉から男を奪う為についた嘘ではないか?」
全てを知っているような信の言葉に玲奈は顔面蒼白で言葉を失っていた。陽子の父親が慌てて「何を出鱈目なことを!!」と憤慨していたが信は相手にしなかった。
信はずっと見ていた。白鷺に姿を変え、彼等の愚行を見続けていたのだ。
玲奈の妊娠が虚言だということも、和正が玲奈の可愛らしさに魅入られ陽子を捨てたことも、何もかも奪われ奴隷同然の扱いを受け家族や使用人達から虐待されていたことも全て。
そして、傷つけられても懸命に生きる愛する陽子の姿も。
「嘘じゃないです…!!本当に私のお腹の中に赤ちゃんがいて…!!!」
「神である俺を嘘つき扱いするつもりか」
「そ、そんなつもりじゃ…!!」
全て見透かされていることに玲奈はたじろぐ。信が向ける凍てつくような冷たい目線に声が震えた。
「なら、亡くなった我が子の為にしっかりと巫女の務めを全うするんだな。うつつを抜かず夫だけを愛せ」
「龍神様、待ってください…!!私は…!!」
「戯言は終わった。こちらも暇でないのでな。それと、軽はずみの気持ちで顔合わせの儀なんて二度とするな。以上」
「そんな…お願いです!!聞いてください…!!この顔合わせの儀行ったのは貴方様に巫女として認めてもらうことでもありますが…!!」
玲奈の口から出た巫女として認めてもらうという言葉。信の脳裏に蘇るのはここに来る前に見た村人達が傷つき怯えている姿と玲奈達の勝手な偏見のせいで死んだ者達の墓。
こんな人間を龍神の巫女として認めるなんて当然できるはずがなかった。
自分の腕に絡みつく玲奈の手を強く払いのける。だが、玲奈は諦めずに再び信の腕にしがみついた。
「離せ」
「嫌です!!神と巫女は一生離れられない存在。なら、私達は結ばれるべきだと思うのです!!」
「はぁ?貴様何を言っている」
「だから、その、私は貴方様の花嫁になりたくて…!!!貴方の力になりたいのです!!!私達が力を合わせればこの村をもっと良いものにできると思うのです!!お願いします!!私を選んでください!!」
信の美貌に魅入られた玲奈の顔。顔合わせの儀の本当の目的は彼への求婚だったのだ。
村の掟では、龍神の巫女が結ばれていいのは村の神社の宮司のみだとされているがそれさえも破ろうとしているのだ。
必死になって龍神に求婚をする玲奈の姿を見て和正は愕然としていた。完全に彼女の中に自分はいないのだと確信してしまったのだ。
調子が悪いのと相まって気が滅入ってしまった。
信は、呆れたようにため息を吐き、目を潤わせながら上目遣いで求婚してくる玲奈に現実を突きつけた。
「残念だが貴様を娶ることはない」
「え…!!どうして…」
「もう俺には愛する妻がいるのでな。彼女を裏切るようなことはしたくないのだ。諦めろ」
(う、嘘よ!!そんなの聞いてない!!もう龍神様に花嫁がいたなんて…!!)
既に妻を娶っていたという事実に狼狽える困惑する玲奈のことなど構うことなく信は帰路に着く準備を始める。
腕を振り払われた玲奈は、息苦しそうにその場でしゃがみ込んだ。顔を赤らめハッハッと苦しそうだったがが信は気に留めることはない。
早くここから離れたかった。この苛立った気持ちを愛する妻の顔を見て癒したかった。
一刻も早く陽子の元に帰りたい。その気持ちが限界まで来ていたのだ。
「帰るぞ。紅葉、つらら。妻が待ってる」
「はい」
「は〜い」
「ま…待ってください…龍神様…」
母親とひばりに介抱されながらも玲奈は信に手を伸ばす。信は呆れたように彼女の方に振り向き汚物を見るような目で睨みつけた。
「くどい」
「ひっ…!!」
今まで聞いたことない程の低く冷たい怒りが籠った声と言葉。完全に拒絶された玲奈はあまりの恐ろしさに短く悲鳴を上げてしまっていた。
これ以上彼に迫れば殺されてしまうと直感した。
信は怯える玲奈に背を向け部屋を後にする。とても無駄な時間だったと深く溜息をついた。
嗚咽を上げながら泣き続ける玲奈を慰める母親達の姿を想像しただけで吐き気を催してしまった。
きっと、陽子がこの屋敷にいた時もこんな調子だったのだろう。玲奈の嘘泣きを信じて、無実の罪を着せられた陽子に虐待を繰り返していた。
そして、この顔合わせの儀の時も玲奈の髪に刺さっていた赤珊瑚の簪を容赦なく奪い取った。
けれど今回は奪うことができなかった。
既に別の女のモノになっていた美しい龍神を玲奈は手に入れられなかったのだ。その証が彼女の泣き声だろう。
信達は玲奈の泣き声を背にようやく陽子が待つ屋敷へと帰ってゆくのだった。
信様達を見送ってからしばらく経った。もう日が暮れようとしている。
今日一日何も手に付かなかった。変にそわそわしっぱなしで妖の子達を心配をかけてしまった。
信様が玲奈の元へ向かう前夜に彼は約束してくれた。絶対に彼女に惑わされたりしない。必ず私の元に帰ってくると。
とても強く安心させてくれる言葉をかけてくれた信さまはその証として私にそっと口付けをしてくれた。
私はその時の感触を何度も思い出しては唇に触れてしまう。
早く彼に会いたい。その気持ちばかり募る一日。
少しでもその気持ちを和らげようと、家事をするもどこか上の空。
実家にいた頃には感じることのなかった感情に私は戸惑っていた。
いつ帰って来るか分からなかったけれど、信様の大好物で美味しいと言ってくれた甘い卵焼きを作ることにした。
もしかしたら玲奈達が出した料理の方が美味かったと言われてしまうかもしれないと不安になる。でも、あの人は。
(そんなこと言う人ではないわ)
そう考えてしまう。
私は、信様から貰った海の宝石の磨り硝子の桜を懐から取り出し見つめる。彼が去り際に言っていた約束を思い出す。
『陽子に見せたいものが沢山あるんだ。帰ってきたら行こう。二人だけで』
二人だけのお出かけなんて初めてだ。和正とは何度かあったが、玲奈とお継母様達からの妨害と巫女の務めが忙しかったのもあって数えられる程度だ。
とても楽しみだし、なんだか少しドキドキする。
けど、信様が和正の様に彼女に魅入られてしまったらその約束は叶わなくなる。
玲奈に魅入られた後の和正は人が変わったように私に冷たく当たるようになった。
お母様を亡くして泣いていた幼かった私を優しく慰めてくれた幼馴染はもういない。残ったのは暴言と暴力も厭わない冷たい男だけ。
もし、信様が彼と同じ様な道を歩んでしまったらあの凍てつく様に冷たい目を私に向けられるのかと思うと怖かった。
(信様に限ってそんな…でも分からない。和正がそうだったから…)
紅葉くんとつららちゃんも一緒だから大丈夫。あの子達なら引き止めてくれる気がする。だから大丈夫だと不安がる自分に無理やり言い聞かせる。
信様の言葉と私への口付けも後押ししてくれている。
今は彼等が帰ってくるのを待っていよう。
まだ上の空気味の私は卵焼きを作り始める。焦がしてしまわない様にちゃんとしなければ。
はぁっと小さくため息を吐きながら卵を割ろうとした時だった。
「陽子様!!ご主人様達が帰って来ました!!」
「え…」
卵を割ろうとする手を止め、私は慌てて玄関の方へ向かう。
こんなにそわそわする気持ちで廊下を渡るなんて初めてだ。
早く彼に会いたい。愛する旦那様に会いたいという気持ちが先走る。
玄関に着き、勢いよく玄関の戸を開けた途端、強い風が私に打ち付ける。目を瞑り、手で風邪を遮るとふと私の名を呼ぶ優しい声が耳に入ってきた。
「陽子」
私はゆっくりと目を開け、手を下げると、目の前を見ると声の正体が目の前にいた。
ずっと、ずっと、会いたくて仕方がなかった人。
長い銀髪を靡かさせた龍神様は約束通り私の元に帰って来たのだ。
「信様…!!!」
私は下駄も何も履かずに彼の元へ駆けよる。涙が溢れているのに拭うこともせず彼の胸に飛び込んだ。
抱きついてきた私を信様は力強く抱きしめてくれた。
「ただいま。陽子」
「おかえりなさい…!!」
「ちゃんと約束通り陽子の元に帰ってきただろう?」
「はい……はい…!!」
そっと信様の背中を抱きしめる腕の力を込める。本当に彼は私の元に帰ってきたのだと実感した。
そして、あの夜と同じ様に口付けを交わした。少し離れ約束通り帰ってきた彼の顔に触れる。
本当に帰ってきてくれた。もうあの時の悪魔は繰り返すことはないのだろう。
すると、つららちゃんが「ただいま!!陽子様!!」と元気な声を私に届けてくれた。
「おかえりなさい。つららちゃん、紅葉くん」
「ただいまです。陽子様」
「陽子。お腹が空いた。夕食にしよう」
「え…?食べてこなかったのですか?」
「ああ。陽子のあの甘い卵焼きがまた食べたくてな。それにあんな豪華なものはあまり好かん。それに…」
「それに?」
信様は私の頭を撫でた。愛おしいものを大事に触れるようにとても優しく微笑みながら。
「陽子がいない食事なんて何にも美味しく感じない。どんなに高価なものを出されても同じだ。陽子と同じ時間を探すから良いのだ」
「信様…」
私は顔を赤る。本当にこの人は心の底から私が好きなのだと何度も教えてくれる。私を手放さない為ならなんでもするのだろう。安易に想像できてしまう。
私は信様の言葉に応えるように、彼の手をぎゅっと握った。
さぁ、さっきの続きをしないと。信様が喜ぶ美味しい卵焼きを作ってあげなければ。
私は、誰かに心の底から愛されるという幸せに浸りながら愛する旦那様の帰りを喜んだのであった。
信が帰り、静まり返った屋敷。
母親の自室で泣き続ける玲奈は今だに現実を受け入れられていなかった。
龍神に選ばれなかった悔しさと、彼に愛してくれなかった悲しさで泣き縋る玲奈の頭を母親は慰めるようにそっと撫でる。
「うっ…こんなのひどいわ…!!酷すぎるわ…!!私の方が花嫁に相応しい筈なのに…!!」
「可哀想な私の可愛い玲奈。貴女の言う通り、龍神の花嫁に相応しいのは巫女である貴女なのに」
「本当よぉ…!!なのに龍神様は得体の知れない女を娶るなんてぇ…!!」
見たことのない龍神の花嫁になった女に玲奈は怒りをぶつける。本当は自分がなる筈だった。村のこんな掟がなければすぐに会いに行ったのにと。
完全に和正のことなど眼中にない玲奈は、あの美しく凛々しい龍神が欲しくて仕方がなかった。
悲しみに暮れる愛する娘に見兼ねた母親は「少し待ってね」と優しく玲奈を引き剥がした後、立ち上がり鏡台の方へ向かった。
泣き足りない玲奈は涙を拭いながら母親が戻ってくるのを待つ。
母親は鏡台の引き出しからある物を取り出した。持ち出したそれは小さな赤い桐箱。母親は大事そうに箱を持ちながら玲奈の元へ帰ってくる。
「お母様、それは何…?」
「貴女の幸せを取り戻す為の道具よ」
赤い桐箱を開けると中には、折り紙で折られた黒い蝶が入っていた。小さな折り紙の蝶なのだがどこか禍々しい雰囲気を醸し出している。触れるのも躊躇してしまうほどだ。
「ご先祖様を助けてくださった"術師"の方から貰った物。もし、子孫達に何かあったらコレを使いなさいとね」
「こんな蝶々を使ってどうやって…」
「まぁ、見てなさい」
すると、母親は帯に挟まっていた手拭いを取り出しそれを開く。開くと中には長い銀髪が一本収められていた。
「これって龍神様の…」
「龍神様が座っていた所に偶々落ちていたのを拾ったの。やはり神様は私達を見限ってなんかなかったのよ」
手拭いの中の銀髪を箱の中の蝶の上に落とすと銀髪は蝶の中に入り込んでゆく。
すると、紙の黒蝶は命を与えられ母親の手に止まる。
「さぁ、黒蝶よ。私の可愛い娘を泣かせたこの髪の主人の花嫁を見つけ出してきなさい。そして、ここに連れて来るのです」
命令を聞いた黒蝶は手を離れ、窓から外へ飛び出して行った。玲奈はその様子を不思議そうな顔で見守った。
「本当にこれで見つかるの?」
「大丈夫よ。術師様の力は偉大だったと私の母から聞いているわ。必ず私達の願いを叶えてくれる筈よ。だからもう泣くのはおよし。貴女は笑っているのが一番似合うわ」
「お母様…!!!」
観劇のあまり、玲奈は勢いよく母親に抱きつく。そんな玲奈を見て母親は愛おしそうに頭を撫でた。大丈夫、貴女の欲しい物は私が手に入れてあげると優しく微笑みながら。
だが、彼女らはまだ知らない。
龍神の花嫁の正体も、蛇神の恨みの力も、大事なモノを奪われた時の龍神の怒りも。
玲奈の願いが叶えられることだけしか見ていなかった。龍神と結婚し、未来永劫贅沢暮らしができるとしか。
龍神の巫女とは思えない行動ばかり起こす彼女等は仮初の幸せの中を生き続ける。
外へ飛び出して行った黒蝶は龍神の住処を探す。
そして、龍神の花嫁となった陽子に魔の手を伸ばそうとしているのであった。
信様が玲奈と接触してから少し経った頃。
つららちゃんや紅葉くん、他のあやかしの子達に支えられたお陰で私は身も心も回復する事ができた。
けれど、まだ心のどこかでまた裏切られてしまうのではないかという恐怖が湧いてくる時がある。
でも、怯えるそんな私に信様はいつも傍に寄り添ってくれた。
「陽子。何かあったらすぐに飛んでくるからね」
「ふふ。ありがとうございます。その言葉だけで充分嬉しいですわ」
実家にいる頃には考えられなかった幸せで穏やかな日々。こんなに誰かに大事にされるなんて久しぶりだった。
お母様が亡くなりお継母様と再婚して玲奈が私の妹になってからお父様は私に関心を無くした。玲奈に溺愛し、私のことは家計を支えるただの道具としか見ていなかった。正式に龍神の巫女の名と癒しの異能を継いだ後も、和正と結婚してからもそれは変わることはなかった。
血の繋がらない玲奈の我儘は何でも聞くのに、実子である私には叱責し手が出る時もあった。
玲奈が引き起こした悪事も全て私のせいにし躊躇うことなく殴られたが、嘘泣きをしている玲奈には彼女の頭を可哀想にと呟きながら撫でていた。
玲奈の様に着物なんて新しい物を買って貰ったこともない。婚姻の儀もお継母様と一緒になって「玲奈の為の金を使うな」等と反対されてしまいあげる事ができなかった。
(あの頃からおかしかった。それでも和正のそばに居られれば良かった。でも、そのせいでお母様の簪を奪われてしまった…)
もう今の私には裏切った和正にも家族にも未練も何もなかったが、やはり気がかりなのは、お母様の形見の簪のことはもちろん、玲奈がしっかりと龍神の巫女としての務めを果たしているのか、まだいろいろ思うところがあるがその二つだけが気になって仕方がなかった。
そして、一番の悩みは本当に私なんかが龍神様の花嫁になってもいいのかということだ。
「確かに承諾したけど、癒しの異能を失った私が本当に信様の花嫁になっていいのかしら…」
「大丈夫ですって!!ご主人様は、巫女だとか異能持ちとか関係なく陽子様自身を愛してくれているのですよ。だって…前者だったらアタシ達きっと陽子様に会えなかった…」
「だから自信を持ってください陽子様。大丈夫。ご主人様は貴女を身勝手な理由で手放す様な神様じゃない」
「つららちゃん…紅葉くん…」
龍神である信様を心から尊敬し支えているつららちゃん達。
つららちゃんと紅葉くんも私の様に住処を追われ傷ついていたところを信様に助けられていた。他のあやかし達も同じ様な境遇の子が多いらしい。
(少しでもいいから異能が残っていたら…)
もし、私があやかし達の守り手である彼の手助けが少しでもできたらと考えるが足手纏いになってしまわないか不安になってしまう。
本当に私は龍神の花嫁として務まるのか、その不安が日に日に膨らんでいった。
そして、遂に約束のお出かけの日を迎えた。ようやく果たされる素敵な約束。
信様が帰ってきたら見せたいモノがあると話してくれた。一体どんなモノだろうと想像していた。
つららちゃんや紅葉くん、他のあやかし達はとても張り切りながら準備をしてくれていた。
あの衣桁にかけられていた花柄の着物に腕を通す。姿見に映る私を見てつららちゃんは息を呑んでいた。
「美し過ぎます…陽子様…」
「そ、そうかな?なんか恥ずかしい…」
こんなに立派な着物を着たのは久し振りなせいかどこか恥ずかしくて長く見ていられない。
髪も綺麗に櫛で梳かしてもらい、一本の三つ編みに結ってくれた。肩にかかった三つ編みとそっと撫でる。
(こんなに御洒落をしたのなんていつぶりだろう)
信様もここの屋敷に支えるあやかし達も、私をとても大事にしてくれる。けれど、慣れないせいか今まで玲奈が手に入れていた物を私が身に付けていることに戸惑ってしまう。
この着物が私に似合っているかどうかよく分からなかった。
準備を終えて信様の元に向かおうとした時、丁度彼が部屋にやって来てくれた。
「陽子。待たせてすまな…」
「あ、信様。こちらこそ遅くなってしまって…あれ?どうしました?」
着飾った私を見て言葉を失った信様はボソッと「綺麗だ」と呟いていた。無意識からくる言葉だろう。
呆気に取られている信様に紅葉くんが慌てて話しかけた。
「あ、陽子様。ご心配なさらず。あの人大丈夫ですから。ちょっと、ご主人様!しっかり」
「……へ?あ、あぁ、ごめん。陽子があまりにも素敵で美しかったもんだから…」
紅葉くんに話しかけられてようやく我に帰った信様は顔を赤らめながらあたふたしていた。相変わらず可愛い人だなって思ってしまった。
信様だってとても素敵だ。龍神の証である銀髪が太陽に照らされて初めて見た時より美しく見えた。
「(気を取り直して…)それじゃ行こうか」
「はい」
私は差し出された信様の手を握り玄関へ向かう。
「少し出かけてくる。そんな遅くはならんと思うから」
「分かりました。いってらっしゃいませ」
「ご主人様〜!陽子様〜!!いってらっしゃい!!ごゆっくり〜!!!」
「フフ。いってきます。みんな」
使用人のあやかし達に「いってらっしゃいませ」と暖かく見送られながら出発した。
私は歩きながらこれから見せてくれるであろうものがどんなものなのか信様に質問してみた。とても素敵なものだと思うがやはり気になってしまう。
「あの…信様。見せたいものってなんですか?」
「すぐに分かるよ。ずっと陽子に見せたかった秘密の場所なんだ。きっと気に入ってくれる」
(秘密の場所…どんなところかしら?)
「ごめん。ちょっといいかな?」
「え?きゃ」
突然抱き抱えられて思わず小さく悲鳴を上げてしまった。顔が熱くなってくる。
(私を助けてくれた時もこんな感じだったのかな?)
信様の顔が近くて恥ずかしい。直視できない。絶対顔が真っ赤になっている。
恥ずかしさを隠す為に私は慌てて信様の肩に手を回した。
「行くよ。しっかりつかまってて」
「は、はい!」
勢いよく私を抱き抱えた信様は空へ飛び立つ。
私は怖くなってぎゅっと目を瞑ってしまった。
空へ飛び立つなんて想像もしていなかったが、よくよく考えたら龍神は空は浮上するなんて容易いことだ。
(こ、怖い…!!)
すごく怖かった。でも…。
「大丈夫。怖がらなくていい。僕がそばにいる」
いつも私に囁いてくれる優しい声。
耳に囁かれた信様の声で少し恐怖心が和らぐ。とても信用できる声と言葉に私は信様に身を任せた。
つい、信様につかまる腕に力がこもってしまう。
冷たい朝の風が私達に吹き当たる。
「陽子。目を開けてみて」
「ん…」
言われた通りそっと目を開けると、視界に広がっているのは言葉に言い表せない美し過ぎる光景だった。
「すごい…」
地上では見ることのできない空から見る外の世界。村に居た頃には考えられなかったものばかりだった。
朝の澄んだ青空と太陽、綺麗な緑色聳えた山や木木、穏やかに流れる川、そして、宝石みたいな海面に映る太陽の輝かしい光。
久々に見た海がこんなにも美しかったなんて。
「ありがとうございます。とても素敵です」
「よかった。この素晴らしい自然をどうしても陽子に見せてあげたかった。きっと気に入ってくれるって」
この人に会わなければ見られなかった。この人の言葉を信じて良かったと心の底から思った。
龍神の巫女になった者は一生村から出ることはできない。だから外の世界を知ることを許されなかった。
けれど、こんなに素晴らしい光景を見て巫女でなくなったことを少しだけ感謝した。
「こんなに綺麗な光景は初めて。次は夕焼けも見てみたいです」
「僕も陽子とこうしてまた空が見たい。夕焼けも夜空も」
「私も信様と一緒がいいです。こんなに素敵な空を貴方と見ていたいです」
「ありがとう。陽子。同じ気持ちだね」
お互い恥ずかしげに話したのが少しおかしくて思わず笑ってしまった。
「よし。次は、秘密の場所だ。まだ誰にも教えていない、春にしか現れない素晴らしい所だよ」
「どんな所ですか?」
「僕と陽子の婚姻の儀を行うのに最適な場所さ。もう一度目を瞑って」
次はどんな所に連れて行ってくれるのだろうとドキドキしながら私は再度目を瞑る。きっと、この光景を同じくらい素敵な場所なんだろうと想像してしまう。
こんな風に誰かの側に居て楽しいと思ったことは久しぶりでとても幸せだった。
心地良い春の風が吹く。まるで私達を今から向かう場所へと誘っている様な気がした。