いつもより三十分早く家を出た。幸輝とばったり鉢合わせないため。八重ちゃんに、その場限りの友情ごっこを続けるためだけに天野くんを利用する形になったことを知られないため。
「七瀬先輩、おはようございます」
歩いた先の駅で天野くんと合流する。
こちらを向いて、しっぽを振っている犬みたいに嬉しそうに手を振る天野くんに心がズキっと痛んだ。
「おはよう。なんかイキイキしてるね」
「今日から僕、七瀬先輩の彼氏ですから」
手を繋ぐとか、そういうことも恋人のフリでもやるのかと少しドキドキしていたけど、そんな様子もなく天野くんは「行きましょうか」と歩きだした。
「恋人らしいこととか、そういうの考えなくていいですからね」
なんで私が少し身構えているとわかったんだろう。むしろ頼ってもらえる人になれるようにと、頭の片隅でではあるけど、考えていたくらいなのに。
「ありがとう。バレちゃうもんだね」
「まぁ、一応彼氏なんで」
得意げに笑う。彼氏という名の友達という、あまり聞かない複雑そうで簡単な、声を大にしては言えない関係なのに、天野くんはなんだか楽しそうだ。
「なにそれ」
私もつい笑ってしまった。こういう、友達以上恋人未満な関係が、ふわふわしていて心地よかった。
ごおごお音を立てている駅のホームで、反対側を走る電車を見送りながら、私の後ろに並ぶ人たちを気配で感じながら、隣に立つ天野くんと会話を続ける。
音楽が流れて、目の前に止まった始点の電車に、終点まで乗ってきた人たちが全員出てきたのを見てから乗り込んで、二人がけの席に座る。まだ出発まで五分くらいあるからか、車内はまだ空いていた。
「七瀬先輩。一つお願いがあるんですけど」
「ん?」
やけに真剣な表情で、私まで背筋がしゃんとする。恋人のフリをするにあたってのルール的な、そういう話かな。
「僕、七瀬先輩と名前で呼び合いたいです」
「え?」
天野くんはたまに、いきなり突拍子もないことを言い始める。嫌な気はしないけど、ちょっとびっくりする。
「いや、ほら。七瀬先輩の友達にも、お互い名前呼びの方が違和感なくお話できるかなって」
「天野くん、いつも私の事ばっかり。私のことを考えてくれるのはすごく嬉しいけど、天野くんは本当にそれでいいの?」
何度同じようなことを聞くのかと、そろそろ鬱陶しがられそうだけど。やはり私のために少しでも無理をしているのならここで引いてもらうのも天野くんのためだ。
「僕が呼びたいし、呼んでほしいんです。さっきのは口実ですよ」
照れる姿さえ見せずに、でも言わせないでくれと小さく呟きながら、天野くんは相変わらずの笑顔を向けてくれた。
「天野くん、私の名前呼べるの?」
冗談で聞くと、ムッとした顔をして目を合わせてくる。一瞬も逸らさない。天野くんの瞳が、私のことを捉えて逃さない。
これが八重ちゃんだったら、きっと嬉しさと緊張と、恋のときめきで目線が色んなところへ飛んでいってしまう。こんなことを思っている時点で、恋人のフリとしては一歩も踏み出せていないことになるのかな。
ちょっとした出来心ですっと視線をずらしてみたけど、恋の駆け引き的なものはこういうことじゃないような気がしてまた目線を合わせ直した。
「ちょ、七瀬先輩」
先に見つめてきた天野くんが、なぜか顔を赤くしていた。それを隠すように、顔を手で多いながら私の目元に手を近づける。
「なに、照れてるの?慶汰くん」
意外とすんなり思い出せた天野くんの名前を呼んでみると、天野くんは一瞬理解できないと言いたげな顔をしたあと、耳まで真っ赤に染めていた。
「七瀬先輩、小悪魔って言われないですか?」
「言われないよ。言われたことない」
そんな、誰彼構わず自分のことを好きになってもらいたくて、異性を見つけては上目遣いをするような、そんなことができるような人に見えるのか。天野くんには。
「私、好きな人だけに振り向いてもらえたら、それだけでもう何もいらないくらい幸せになれると思う」
小悪魔だとかなんとか、そういう話から飛躍しているかもしれないけど、そんな小賢しいことはせずに私を見てほしいと思う。だから、そういうのは関係ない。
「それは、僕もです。あわよくば付き合えたらって思うけど、どう足掻いてももう、彼女とは恋人関係にはなれないから。そうなれることが羨ましいです」
プシューっと音がして、ドアが閉まった。アナウンスが流れて、電車が動き始める。ちょこちょこ人が乗ってきていた気配は感じたけど、そこまで多くはなかった。
「慶汰くんも、私と同じなんだね」
「ちょっと違うけど。そうかもしれないです」
意味深な、少し青い空気を漂わせて、そっと目を逸らした。私たちは、少し周りを見渡して、その間はただ揺られていた。声が大きかったのかもしれない。周りの人の視線をたまに感じながら、少し声のボリュームを下げながら、届かない思いを声に乗せて発散した。
「ゆき先輩なら、きっと大丈夫ですよ」
「ありがとう。慶汰くん」
何を根拠に、何に対してそう言ってくれたのかはわからなかったけど、ただ受け入れる方を選んだ。わからないほうが、幸せな気がしたから。
「ゆき先輩、全然照れたりしないですね」
「そうね。ポーカーフェイスがもう、身についてるからかもしれないね」
八重ちゃんの一言一句に変に照れたりしないように、ただの幼なじみのお姉ちゃんとしてしか見ていないと、自分に言い聞かせるために。想っていることがバレないように。
貫き通したポーカーフェイスが、ときめく心も痛む心も、全部なくしてくれたらよかったのに。
「じゃあ僕の前ではぜひ、思う存分照れてください」
「やだよ、恥ずかしいもん」
それに、名前を呼ばれることに対して照れることがよくわからない。当たり前に呼ぶもので、関係の変化とか、そういうものに左右されるわけじゃないのに。
「恋人らしく見せるためにも、大事ですよ」
「名前だけだけどね。その関係」
でも正直、ありがたかった。知られたくないけど、八重ちゃんといざ恋愛の話になったとき、天野くんのことを名前を伏せて話せばいいのだから。そしたら、私はみんなと同じ。関係性は『友達』でも、それに『恋人』という名をつけたようなもの。そう考えると、楽になる。
友達以上恋人未満で止まったまま上がることも下がることもないであろう私たちだからこそ成り立つある意味特別な関係。
「紹介するとかされるとか無理ですけど、全然僕のこと例の友達に話していいですからね」
正門をくぐり、いつもより早いからか朝練をしている人しか目立たない昇降口までの道を歩く。
「ありがとう。天野くんも、何かあったら私の名前だしてくれていいからね。その、一応、彼女として」
「慶汰でしょ?ゆき先輩」
そう、私を覗き込む天野くんの顔は火照っていた。その顔に、つい小さく吹き出してしまった。
「そうでしたね。慶汰くん」
「何笑ってんですか」
「慣れてないんだろうなーって」
楽器の音。仲間に合図を送る声。それだけが響く静かな学校に、私と慶汰くんの笑い声が校舎にぶつかって吸収される。
「じゃあ、またお昼に」
「うん。また」
手を振り、二年生のフロアで慶汰くんと別れた。相変わらず音を全く立てずに階段を登っていく慶汰くん。なんだか、私の周りにいる人とは違うような気がした。慶汰くんとの関係性とか、そういうものじゃなくて。なんとなく、感覚的に、何か違う気がした。
「ゆき先輩!」
慶汰くんは、登った階段の踊り場で私の名を呼んだ。
「だいっ」
一瞬、そう言って口を閉じた。目線が定まっていない。どうしたんだろう。
「大丈夫です!ゆき先輩には僕がいますから」
じゃあ!と折り返しの向こう側へと、逃げるように消えていった。存在感は割とあるくせに、歩くと無音だなんて、本当、不思議な子。
「よし、頑張ろう」
慶汰くんの言葉に背中を押されて、軽く気合いが入る。
まだ誰もいない教室へ、「おはよう」と挨拶をしながら入室し、席について窓の外を見る。
野球部がバットを振って練習に励んでいた。
サッカー部がボールを追いかけて走っていた。
教室には、続々と人が集まってきていて、運動部の朝練が終わることにはもう、静かな教室はなくなっていた。
昨日のドラマの話、今朝の占いの話、放課後遊びに行こうと持ちかける人。
「ゆき、おはよう。昨日大丈夫だった?」
花楓が私の机に手を着いて、そう聞いた。
「あー、うん。寝不足だったみたい」
あなたの言葉がダメだったんだよ。なんて、言えないから。適当なことを言って誤魔化した。
「そっか。まぁ、無理しないで好きな人にでも癒してもらいなよ」
「……そうだね」
こんなときまでそれかと、ため息が出そうになる。こういう話を強要しないところ以外は、いい所ばかりなのに。
「ほら、やっぱりいるんじゃん!」
花楓の目は輝いていた。きっと私の目がもう笑えていないことも、光を宿すことさえできないこともきっと気付いていない。
「あはは……」
私はもう、文字に書いたような笑い声を絞り出すことしかできなかった。もうやめてしまおうかと、その考えが頭をよぎった。
「花楓、そろそろホームルーム始まるよ」
「ほんとだ。じゃあまた来るから!聞かせてよ!」
人差し指でびしっと私のことを指さして、自分の席へと戻っていく。
もう叫んでしまいそうだった。それが昨日体調不良で帰った人にする態度かって。誰もが好きな人のことを語りたいわけじゃないんだって。
「おはようございます。今日は来月の修学旅行の班決めをするから、誰と組むか話し合っておいてください」
皐月先生は張りのある声で私にとっては最悪なニュースを生徒の耳に入れたあと、このあとの授業の準備を始めた。
修学旅行。確実に花楓と同じ班になる。他に友達がいないから、避けられない。
必死に溜め込んだため息が、溢れるように外へ出ていった。