それから、お昼は年下の友達と食べると花楓に伝えて、毎日屋上前の死角になる小さな空間に足を運んだ。
「天野くん」
「七瀬先輩、おまたせしました」
いつも、天野くんは私の少しあとに来て、荷物は何一つ持ってこない。お弁当は、いつも三限目と四限目の間の休み時間に食べてしまうからこの時間に食べる必要がないのだと、明らかな作り笑顔で言っていた。
「最近、お弁当小さいですね」
開けたお弁当箱をみて、心配そうに私を見た。天野くんはいつも、一度は絶対そういう顔で私と目を合わせる。そして、すっと逸らす。
「ちょっとね。今はこれで十分おなかいっぱいになるから」
ミニトマトにブロッコリー。卵焼き、薄く敷きつめた白米に梅干し。毎日同じメニュー。
「その、もう大丈夫ですか?」
「なにが?」
少し俯き気味で、私の表情を伺っていた。でも、ふっと笑顔に戻って首を振った。
「なんでもないです。今日も卵焼き、美味しそうですね」
「食べる?もし良ければ、あげるよ?」
まだ口をつけていない箸で卵焼きをつまんで、天野くんの方へ差し出す。甘い醤油の香りが鼻につく。まだ、食べることに積極的になれない。
「実は僕……」
天野くんは少し困った顔をした。少し沈黙を挟んだあと、口を開いた。
「卵アレルギーなんです。だから、卵焼き食べられなくて」
「え、ごめん。……嫌だったよね」
「いや、全然そんなことないです。僕今、そんなこと気にならないくらい幸せなので」
少し頬を染めながら、天野くんは顔を逸らすことなくそう言った。私の方に手を伸ばし、届く前にゆっくりその手を下ろした。
「そうなんだ。もしかして彼女さん?」
「えっ」
「もしそうなら、私といて大丈夫?彼女さん嫌がらない?」
天野くんに聞いて、私も他の子と一緒だと、自分が嫌になる。幸せとは、恋をすることだと。押し付けのような幸せの概念に侵食されている自分が。自分はそれに苦しさを感じて、ここに来ているのに。
「そんな顔しないでください。僕の片思いだし、今その人といい感じなんです」
「じゃあ、やっぱり」
「僕が幸せなのは七瀬先輩のおかげなので」
思わず首を傾げる。天野くんが何を言っているのか、もうよくわからなかった。
「わからなくていいですよ。ほら、自分が誰のことが好きかとか、相手が本人じゃなくても、その人ですって告白するのって照れくさいじゃないですか」
「うん、そうだね」
少し気になる所はありつつも、それ以上聞くことはできなかった。
「でも、聞いてくれませんか?僕の好きな人の、好きなところ」
「え、聞かせてくれるの?」
「はい。話したいんです」
天野くんは恥ずかしそうに少し目線をそらし、愛おしそうに笑った。そんなに堂々と誰かを愛せる天野くんが羨ましい。少し、ほんの少しだけ。羨ましい。
「名前は伏せるんですけど、僕の好きな人、一個上で、一目惚れなんです」
始まりから甘酸っぱい。青春真っ只中って感じが、聞いている私もなんだか照れくさい。
「入学式のとき、僕の胸に花、つけてくれたんです。「入学おめでとう」ってキラキラした笑顔を向けてくれて」
思わず口元が緩む。まるで少女マンガを読んでいるみたいな出会いだ。
そういえば、私も入学式の手伝いをしていたけど、その中の誰かということだろう。身近でこんなにキラキラした出会いがあったのかと思うと、聞いている側の気持ちもすごく上がる。
「そのとき、彼女の黒くてサラサラな髪に桜の花びらがついてるのに気付いたんです。そのとき、彼女の笑顔は眩しい向日葵よりも世界に色を与えてくれる桜みたいだって思いました。その日からずっと、彼女のことが忘れられなくて、見かけたらつい目で追ってしまうんです」
うんうん。その気持ち、よくわかる。私も、つい八重ちゃんのことを目で追ってしまう。玄関の扉が閉まる前に聞こえる「ただいま」のかすかに聞こえる声だけで帰ってきたことがわかるし、どこにいても八重ちゃんのことは見つけられる。幸輝のことは見つけられないけど。
「目で追っていたら、彼女の分け隔てない優しさにさらに惹かれて。電車で妊婦さんとかに自然に席を譲るし、先生の手伝いも積極的にやってる姿がすごく素敵なんです。コミュ力が低いところも可愛いし、もちろんそれを少し気にしているところも含めて。一人で中庭にいるとき、時折辛そうに、寂しそうにしているところを見るとそばにいたくなるんです。話だけでも聞いてあげて、少しでも笑顔でいてほしいって」
今まで目を合わせなかったのに、チラッと私を見た。私がなにか話す前に、みるみる顔が赤くなり、「すみません、惚気けました」とまた目を逸らした。
「いいね。天野くんが好きな人なら、きっとすごく素敵な子なんだよね」
「はい。そうなんです。彼女みたいな素敵な人、きっとどこを探してももう、見つけられないです」
照れながらも幸せそうに笑う天野くんには幸せになってもらいたい。好きな人が私じゃなくてよかった。
「実るといいな」
つい、本音が口からこぼれた。
「はい」
天野くんは嬉しそうに笑ってくれた。
「私もね、好きな人がいた」
「えっ……」
天野くんの顔が曇った。そりゃあそうだ。好きな人との恋を実ることを望んでいるのに、いきなりこんな幸先の悪い話をされたんだから。
「まだ好き。すごく好き。振られたわけじゃないからかな、諦められなくて。その人は年上なんだけど、私のこと妹みたいに可愛がってくれてたの」
「そう、なんですか……」
この場の空気が重い。でも、話してくれたから、私も話さないとフェアじゃないと思った。
それに、天野くんになら話してもいいような気がした。深く詮索されないだろうと、性格を見ていてわかった。
「私にはあの人に告白できないから。そうわかってたのに、いざ恋人ができたって聞くと辛くて。だから初めてあったときについ泣いちゃって。ごめんね」
今でも泣いてしまいそうだけど、さすがにもう、気を遣わせられない。
「全然大丈夫です。なので、思いっきり泣いてください。七瀬先輩のことだから、誰にも話せなくて、まだ泣いてないですよね」
そう、そっと私から顔を逸らした。私を隠すように目の前に座って背を向けた。誰もこんなところに来ないのにと、笑ってしまった。笑うと鼻がツンとして、次々と涙がこぼれた。
拭っても拭っても止まらなくて、目が痛かった。鏡を見なくても真っ赤なのがわかるほど、ヒリヒリして、恋の痛みと目の痛みに涙が流れた。
「天野くんは、なんでこんなに私に優しくしてくれるの?」
やっと涙が引いた。昼休みが終わるチャイムが、結構前に聞こえた。授業開始のチャイムも、そのすぐあとに鳴っていた。
「それは……。七瀬先輩は大事な先輩で、大事な友達だからです」
なに、それ。なんでそんなに、いい子なんだろう。きっと私が普通にみんなと同じ恋をする人だったら、きっと好きになってしまう。ときめきもなにも感じなくて、ただ嬉しいだけの今とは全然違う感情が生まれていたに違いない。
「ごめんね。もう授業始まってるのに、引き止めちゃって」
「大丈夫です。授業だるかったんで、ラッキーです」
声色が明るくて、それが私の罪悪感を優しく拭ってくれた。
「すっきりしましたか?」
涙が完全に止まり、しゃくり上げるのもなくなってきたのを聞き取ったのか、ちょうどそのタイミングで私の方を振り返る。
「うん。天野くんが友達で、本当によかった」
まだ完全にすっきりしたわけじゃないけど、ただ苦しいだけのさっきまでより少しだけ、心のぽっかりと空いた大きな穴が埋まったように感じた。
「そう言ってもらえて、嬉しいです」
そっとまた隣に座った天野くんは、全然恋愛に関係ない話をしてくれた。つい笑ってしまうような話を、五限目が終わるまで、ずっと。美味しくておすすめしたくてたまらない飲食店の話をされたときは、今日のお礼に奢るから一緒に行こうと誘った。でも、何かと葛藤するような難しい表情をして、「ごめんなさい」と、断る側なのに断られた人みたいな顔をしていた。さすがに好きな人がいるのにほかの女と一緒にご飯は嫌だよな、と私も反省した。
「じゃあ、また明日ここで」
五限目が終わるチャイムが鳴った。話にキリがついたあと、天野くんはどこか名残惜しそうにそう言った。
「うん。本当にありがとね」
先に階段を降りていった天野くんを見送り、私も立ち上がった。ふと、自分が不真面目な人に近づいていることに気付いて、気をつけないとと気を引き締めた。なにより、始業式も授業もサボったなんて、ましてや後輩を巻き込んだなんて八重ちゃんに知られたら。きっと嫌われると思った。
それだけは嫌だ。八重ちゃんに嫌われたら私、生きていけない。それを避けるためにも、頑張らないと。気持ちを悟られないように。妹のままでいられるように。
「天野くん」
「七瀬先輩、おまたせしました」
いつも、天野くんは私の少しあとに来て、荷物は何一つ持ってこない。お弁当は、いつも三限目と四限目の間の休み時間に食べてしまうからこの時間に食べる必要がないのだと、明らかな作り笑顔で言っていた。
「最近、お弁当小さいですね」
開けたお弁当箱をみて、心配そうに私を見た。天野くんはいつも、一度は絶対そういう顔で私と目を合わせる。そして、すっと逸らす。
「ちょっとね。今はこれで十分おなかいっぱいになるから」
ミニトマトにブロッコリー。卵焼き、薄く敷きつめた白米に梅干し。毎日同じメニュー。
「その、もう大丈夫ですか?」
「なにが?」
少し俯き気味で、私の表情を伺っていた。でも、ふっと笑顔に戻って首を振った。
「なんでもないです。今日も卵焼き、美味しそうですね」
「食べる?もし良ければ、あげるよ?」
まだ口をつけていない箸で卵焼きをつまんで、天野くんの方へ差し出す。甘い醤油の香りが鼻につく。まだ、食べることに積極的になれない。
「実は僕……」
天野くんは少し困った顔をした。少し沈黙を挟んだあと、口を開いた。
「卵アレルギーなんです。だから、卵焼き食べられなくて」
「え、ごめん。……嫌だったよね」
「いや、全然そんなことないです。僕今、そんなこと気にならないくらい幸せなので」
少し頬を染めながら、天野くんは顔を逸らすことなくそう言った。私の方に手を伸ばし、届く前にゆっくりその手を下ろした。
「そうなんだ。もしかして彼女さん?」
「えっ」
「もしそうなら、私といて大丈夫?彼女さん嫌がらない?」
天野くんに聞いて、私も他の子と一緒だと、自分が嫌になる。幸せとは、恋をすることだと。押し付けのような幸せの概念に侵食されている自分が。自分はそれに苦しさを感じて、ここに来ているのに。
「そんな顔しないでください。僕の片思いだし、今その人といい感じなんです」
「じゃあ、やっぱり」
「僕が幸せなのは七瀬先輩のおかげなので」
思わず首を傾げる。天野くんが何を言っているのか、もうよくわからなかった。
「わからなくていいですよ。ほら、自分が誰のことが好きかとか、相手が本人じゃなくても、その人ですって告白するのって照れくさいじゃないですか」
「うん、そうだね」
少し気になる所はありつつも、それ以上聞くことはできなかった。
「でも、聞いてくれませんか?僕の好きな人の、好きなところ」
「え、聞かせてくれるの?」
「はい。話したいんです」
天野くんは恥ずかしそうに少し目線をそらし、愛おしそうに笑った。そんなに堂々と誰かを愛せる天野くんが羨ましい。少し、ほんの少しだけ。羨ましい。
「名前は伏せるんですけど、僕の好きな人、一個上で、一目惚れなんです」
始まりから甘酸っぱい。青春真っ只中って感じが、聞いている私もなんだか照れくさい。
「入学式のとき、僕の胸に花、つけてくれたんです。「入学おめでとう」ってキラキラした笑顔を向けてくれて」
思わず口元が緩む。まるで少女マンガを読んでいるみたいな出会いだ。
そういえば、私も入学式の手伝いをしていたけど、その中の誰かということだろう。身近でこんなにキラキラした出会いがあったのかと思うと、聞いている側の気持ちもすごく上がる。
「そのとき、彼女の黒くてサラサラな髪に桜の花びらがついてるのに気付いたんです。そのとき、彼女の笑顔は眩しい向日葵よりも世界に色を与えてくれる桜みたいだって思いました。その日からずっと、彼女のことが忘れられなくて、見かけたらつい目で追ってしまうんです」
うんうん。その気持ち、よくわかる。私も、つい八重ちゃんのことを目で追ってしまう。玄関の扉が閉まる前に聞こえる「ただいま」のかすかに聞こえる声だけで帰ってきたことがわかるし、どこにいても八重ちゃんのことは見つけられる。幸輝のことは見つけられないけど。
「目で追っていたら、彼女の分け隔てない優しさにさらに惹かれて。電車で妊婦さんとかに自然に席を譲るし、先生の手伝いも積極的にやってる姿がすごく素敵なんです。コミュ力が低いところも可愛いし、もちろんそれを少し気にしているところも含めて。一人で中庭にいるとき、時折辛そうに、寂しそうにしているところを見るとそばにいたくなるんです。話だけでも聞いてあげて、少しでも笑顔でいてほしいって」
今まで目を合わせなかったのに、チラッと私を見た。私がなにか話す前に、みるみる顔が赤くなり、「すみません、惚気けました」とまた目を逸らした。
「いいね。天野くんが好きな人なら、きっとすごく素敵な子なんだよね」
「はい。そうなんです。彼女みたいな素敵な人、きっとどこを探してももう、見つけられないです」
照れながらも幸せそうに笑う天野くんには幸せになってもらいたい。好きな人が私じゃなくてよかった。
「実るといいな」
つい、本音が口からこぼれた。
「はい」
天野くんは嬉しそうに笑ってくれた。
「私もね、好きな人がいた」
「えっ……」
天野くんの顔が曇った。そりゃあそうだ。好きな人との恋を実ることを望んでいるのに、いきなりこんな幸先の悪い話をされたんだから。
「まだ好き。すごく好き。振られたわけじゃないからかな、諦められなくて。その人は年上なんだけど、私のこと妹みたいに可愛がってくれてたの」
「そう、なんですか……」
この場の空気が重い。でも、話してくれたから、私も話さないとフェアじゃないと思った。
それに、天野くんになら話してもいいような気がした。深く詮索されないだろうと、性格を見ていてわかった。
「私にはあの人に告白できないから。そうわかってたのに、いざ恋人ができたって聞くと辛くて。だから初めてあったときについ泣いちゃって。ごめんね」
今でも泣いてしまいそうだけど、さすがにもう、気を遣わせられない。
「全然大丈夫です。なので、思いっきり泣いてください。七瀬先輩のことだから、誰にも話せなくて、まだ泣いてないですよね」
そう、そっと私から顔を逸らした。私を隠すように目の前に座って背を向けた。誰もこんなところに来ないのにと、笑ってしまった。笑うと鼻がツンとして、次々と涙がこぼれた。
拭っても拭っても止まらなくて、目が痛かった。鏡を見なくても真っ赤なのがわかるほど、ヒリヒリして、恋の痛みと目の痛みに涙が流れた。
「天野くんは、なんでこんなに私に優しくしてくれるの?」
やっと涙が引いた。昼休みが終わるチャイムが、結構前に聞こえた。授業開始のチャイムも、そのすぐあとに鳴っていた。
「それは……。七瀬先輩は大事な先輩で、大事な友達だからです」
なに、それ。なんでそんなに、いい子なんだろう。きっと私が普通にみんなと同じ恋をする人だったら、きっと好きになってしまう。ときめきもなにも感じなくて、ただ嬉しいだけの今とは全然違う感情が生まれていたに違いない。
「ごめんね。もう授業始まってるのに、引き止めちゃって」
「大丈夫です。授業だるかったんで、ラッキーです」
声色が明るくて、それが私の罪悪感を優しく拭ってくれた。
「すっきりしましたか?」
涙が完全に止まり、しゃくり上げるのもなくなってきたのを聞き取ったのか、ちょうどそのタイミングで私の方を振り返る。
「うん。天野くんが友達で、本当によかった」
まだ完全にすっきりしたわけじゃないけど、ただ苦しいだけのさっきまでより少しだけ、心のぽっかりと空いた大きな穴が埋まったように感じた。
「そう言ってもらえて、嬉しいです」
そっとまた隣に座った天野くんは、全然恋愛に関係ない話をしてくれた。つい笑ってしまうような話を、五限目が終わるまで、ずっと。美味しくておすすめしたくてたまらない飲食店の話をされたときは、今日のお礼に奢るから一緒に行こうと誘った。でも、何かと葛藤するような難しい表情をして、「ごめんなさい」と、断る側なのに断られた人みたいな顔をしていた。さすがに好きな人がいるのにほかの女と一緒にご飯は嫌だよな、と私も反省した。
「じゃあ、また明日ここで」
五限目が終わるチャイムが鳴った。話にキリがついたあと、天野くんはどこか名残惜しそうにそう言った。
「うん。本当にありがとね」
先に階段を降りていった天野くんを見送り、私も立ち上がった。ふと、自分が不真面目な人に近づいていることに気付いて、気をつけないとと気を引き締めた。なにより、始業式も授業もサボったなんて、ましてや後輩を巻き込んだなんて八重ちゃんに知られたら。きっと嫌われると思った。
それだけは嫌だ。八重ちゃんに嫌われたら私、生きていけない。それを避けるためにも、頑張らないと。気持ちを悟られないように。妹のままでいられるように。