「おーい、起きて」
近くで聞こえるその声に、重い瞼を開く。
「おはよう。七瀬先輩」
手を振り、微笑む。そこにいる人を、私は知らなかった。半袖のワイシャツ。紺色のスラックス。黒くてサラサラな髪の毛に、茶色い透き通る瞳。綺麗な男の子が、私の名を呼んだ。
「え、あの、なんで私の名前……」
「知ってますよ。七瀬ゆき先輩」
彼はそう、立ち上がって階段を降りていく。私の疑問には答えないまま、階段をしっかり見て、一段一段確実に下っていく。
「また、会いたいです」
完全に階段を降りきったあと、彼は手を振ってどこかへ歩いていった。
やけに話し声が行き交う廊下で、彼の声はまっすぐ私に届いた。そして、彼が歩いて行った方向と同じ方へ、ぞろぞろと一年生の子が歩いていく。どうやら始業式が終わったらしく、「校長先生の話、長かったよな」とか、「表彰とか始業式にまとめてやる必要なくね?」とか、式に対する文句を話している。
いつも校長先生は、わざわざスクリーンを下ろして熱を込めて話すから、時間も押すし飽きてくる。おしりも痛いから、なんで全校集会があるたび椅子を出してくれないんだろうと、せめて座布団の持ち込みの許可を出してくれたらいいのにと、私も愚痴ばかりが頭に浮かぶ。
そろそろ私も、戻らないと。始業式のときはだいたい終わってから十五分は自由な時間になっているから、トイレに行ったふりをして戻ればきっといなかったこともバレないだろう。
思惑通り、教室から出てくる子もいれば中に入る子もいた。ほっと胸をなでおろして、平然とした顔で教室に入る。
「あ、ゆき!」
私の席に座って私の名を呼ぶ花楓は、こっちこっちと手招きをして、女子グループの中に私を呼び込んだ。
「どうしたの?」
「それはこっちのセリフだよ。始業式出てなかったじゃん」
う。バレてた。誰も探しに来なかったから、ワンチャン誰にもバレていないと思っていたのに。
「ちょっと、寝ちゃってた。皐月先生にバレてるかなぁ」
「全員いるってことにしといたから、バレてないよ」
「花楓さまぁー!ありがとう!」
パン、と手のひらがぶつかる音が、想像より大きく鳴った。コソコソ話していたから、二対三になっていたグループの、あまり話したことない三人がその音に驚いてこちらを向いた。
「なになに、何の話?」
「んー、恋バナ?」
誤魔化し方がリスキーなんだよね。
「え、どっちの?花楓?七瀬ちゃん?」
「ゆきの。なんで彼氏作らないのーって」
やっぱりこうなった。恋バナは苦手なのに。花楓の一言で、必然的に私の方に矢印が向く。
「え、七瀬ちゃん彼氏いないの?」
「可愛いのに。絶対いると思った」
「七瀬さん、モテるって聞いたけど、実際どう?」
三人から口々に疑問だったり意見だったりをぶつけられて、今日はじめて話したのによくそこまでズケズケ聞けるなと一周まわって感心してしまう。
「ゆきはモテてることに気付いてないの。彼氏もいらないんだって。誰かこの子にお似合いの子見つけてあげて」
私の代わりに、そう口を挟む。本人が望んでいないなんて思っていないのか。はたまた私が強がりでそう言っていると思って聞いていたのか。
「そうだな。幼なじみの長谷川くんとか、いいんじゃない?」
この子たちは私のことをどこまで知っているのだろう。なんで私と幸輝が幼なじみって知っているのだろう。
自分から話していないのに、相手が一方的に自分のことを知っているって、なんだかすごく怖く感じた。
「幸輝はただの幼なじみだから。それ以上でもそれ以下でもないから」
バッサリ否定すると、三人はつまらなさそうに「ふーん」と口をとがらせた。なんなんだ。
特に関わる気もないし、名前を覚えるのは苦手。でもここまで話して今更「そういえば、名前は?」なんて聞けないから、Aさん、Bさん、Cさんと右から順に名付けた。
「じゃあじゃあ、好きなタイプは?」
まだ懲りないのか。半分呆れながら、私は今まで使ってきた偽りのタイプを口にする。
「なんか、そこまでハイレベルな人を望んでるわけではなさそうなのにね」
ABCの三人は、顔を見合わせる。
余計なお世話だよ、と思った。口から出そうになったのを飲み込んで、時計を見る。十時五十五分過ぎ。これから一時間ホームルームをしたあと、お昼を挟んで実力テスト。
きっとお昼もこのままここにいたら捕まるに違いない。チャイムと同時にさっきの場所に逃げるか、どこか他に穴場はないか探すか。
上の空で三人の話を聞き流しながらそんなことを考えていると、やっとホームルーム開始のチャイムが鳴った。
「はいはい、席ついてー」
担任の皐月先生が、いつものトートバッグを肩にかけて教室に入ってきた。
「じゃあまたあとでね!」
「うん」
とりあえずそう返すけど、まだこのあともあるのかと思うと軽く地獄だなと思ってしまう。せめて恋バナから離れてくれたらいいんだけど。
「夏休みが終わって、まだこんなこと考えたくないって思う人もいるだろうけど、今から進路希望調査を配ります」
笑顔が素敵な皐月先生は、まだ教師になって二年目。みんなと同じ二年生だと、春の挨拶で話していた。
「まだまだ先の話って思ってる人もいるかもしれないけど、残り半年なんてあっという間で、その半年が過ぎたらみんなもう受験生になるんだからね。二年生のうちにいっぱい青春するんだよ」
歳が近いからなのか、わかってくれている感じがした。私たち高校生の気持ちを。そして、それを踏まえて話してくれている。きっとどの先生よりも生徒の心を掴める先生だ。
前の席から一枚ずつ減って、手元に来たプリントは何度見ても気が重くなる一枚。特に進路なんてどうでもいいと、自分の恋愛のせいで半分投げやりになっている私からしたら、とりあえず今までと同じことを書いて、お母さんにサインをもらい、提出すればいいのだけど、これがまた、プチ親子喧嘩を勃発させる。
学部はどこにするの?とか、適当に書いているから当たり前に答えられないから、本当にこの学校に行きたいのかとか。
なんだか、今日はやけに嫌なことばかりが立て続けに起こる。失恋。半強制的に恋人を作らされそうになる恋バナ。親子喧嘩の原因になる進路希望調査。
思わず「はぁー」と声が混じったため息がこぼれて、教卓の方を見る。先生は気付くことなく話を続けていて、一瞬で固まった背筋はすぐにほぐれた。
「じゃあ課題回収して、終わったら昼休みまで自習の時間にします。私の話聞くより実力テストの勉強したいよね」
いらない気を利かせて、皐月先生は夏休み課題を全部回収して、教室を出ていった。教科委員に頼めばいいのに、それを何往復もして職員室前にある課題提出用の机に運んでいる。先生なのに、そこまでやってくれるのか。去年の担任の先生は、回収して持ってこいスタイルだったのに。
「先生、私も運びます」
さすがに先生一人にやってもらうのも気が引けて、立ち上がる。みんなが驚いたようにこちらを向く。視線が痛かった。『偽善者』と、軽蔑されているような気がした。
「大丈夫だよ。七瀬さんも勉強して、いい点取ってね」
そして、皐月先生は私の申し訳ないと思う気持ちを押しのけた。ただ空振りしただけの、恥ずかしい人になった。
特にノートを広げるわけでも教科書を読むわけでもなく、ぼーっと窓の外を眺めて頭を空っぽにしてチャイムがなるまでの時間を潰し、チャイムが鳴ったあと、「ありがとうございました」と全員揃って口にする挨拶を先生にしてすぐ、お弁当を片手に教室を出た。
さっきの階段を登り、今度は隠れられるように奥へと身を潜める。こんなところでご飯を食べているなんてバレたら、きっと怒られる。今頃気付いたのだけど、階段の中央にハードルのようなものを起き、それに『関係者以外立ち入り禁止』とご丁寧に記載されていた。なんで気付かなかったんだろうと疑問に思いながらも、一度入ってしまったならもういいかと移動する気もなく、長い息を吐いてくつろぐ。
「あれ、七瀬先輩」
そう、まるでおばけのように無音で階段をのぼり、私のことを知っているかのように名を呼ぶ彼はきっとここに来る常習犯なのだろう。
「どうしたんですか?ここ、今まで誰も来なかったのに」
私の予想は的中。彼は慣れているように、迷いもなく死角になる場所に腰掛けた。
「夏休み明けって、憂鬱になるものでしょう?特別誰かに会いたいとかであれば話は別だけど」
私だって八重ちゃんに会いたいって思っていたけど、それは一歩家の外に出て、少し風に当たったら叶うこと。それに歳が違うから、学校にワクワクしながら来る理由にはならない。花楓も恋バナがしたい気持ちがだだ漏れで、いつもの話題ならついていけるけど今日は正直、しんどい。長期連休が終わったことも相まって。
「確かに。生活リズムも戻さないといけないし、勉強させられるし、楽しくはないですね」
あぐらをかき、うんうんと頷きながら私の愚痴のような一言を肯定してくれる。なんだか安心する気持ちと、なんでこんなこと話しているんだろうという初めましての年下の彼に暗い話を聞かせる罪悪感に苛まれる。
「いきなりこんな話されても困りますよね。先輩は先輩らしく、しっかりした背中見せろって感じですよね」
笑顔を浮かべる。口角の上がり方が違和感で溢れているから、きっと、醜い自分を嘲笑うような笑みになっている。
「いえ。多少弱みが見えてる方が、僕としては可愛いと思います」
ドキッとした。あまり可愛いなんて言われないから、反応に困る。男女関係なく、なんで人にこう簡単に可愛いと告げられるんだろう。
「七瀬先輩、」
「ひゃいっ!」
やばい、まるでさっきの一言で彼を意識した人みたいに、過剰な反応をしてしまった。意識していないと言えば嘘になるけど、意識するの意味が違う。これは恋愛感情とは違うから。恋する女の子みたいに、可愛いものじゃない。
「弁当、食べないんですか?」
抱えたままのお弁当箱を指さして、彼は言った。そういえば、彼は手ぶらで、スマホ一つさえ持ってきていない。現代っ子にしては珍しいと感じた。
「食べるけど、あなたは?お弁当、持ってきてないの?」
一緒に食べるつもりなんてさらさらないくせに、話題に困ってしまったからという理由だけでそんなことを聞いてしまった。墓穴を掘ったと言っても過言ではないだろう。知らない人と話すのは、同じ空間で過ごすのは、苦手分野なのに。
「あー……。僕、早弁しちゃっからもうないです」
「そうなの。ねぇ、お腹すいてない?私、こんなに食べられない」
いつもと同じ、横幅十五センチ、縦十センチほどの二段弁当。今日はあんまりお腹がすいていない。
「すみません。僕もちょっと、弁当と購買のパンまで食べちゃったのでさすがに……」
こっちが押し付けようとしているのにも関わらず、寂しそうな顔をして断った。悪いのは押し付けようとした私なのに。
「ごめんごめん。私、ちゃんと食べるから」
包みを開き、蓋をとる。寄りにもよって、今日のメインはコロッケ。ちょっと、食べる気になれない。
さっぱりしたサラダだけ胃に入れて、それを食べている間は彼もむやみに話しかけてくることがなくて。ただ、掃除もされていない少し埃っぽいことを言い訳につい涙を零したときだけ、「ここ目が痛くなるくらい埃っぽいですね」と一言、共感するように私にかけた。
「そろそろ、戻らないと」
スマホの時計を見て、重さがあまり変わらないお弁当箱をランチバッグに詰めて立ち上がる。
「せっかくのお昼休みなのに、空気悪くしてごめんね。えっと……あなたの名前は?」
この一時間、彼の名前をまだ知らないことに気付かなかった。一つ年の離れた友達のように、まるで一人でいるのとあまり変わらないみたいに、居心地が良かったから。
「天野慶汰です。一年です」
「天野くん。ありがとう」
私も名乗るべきだろうか。彼……天野くんは名乗らなくてももう、知っているみたいだけど。人と話すことが本当はあまり得意ではないから、こういうときどうするのがいいのかわからない。
「七瀬先輩、またここで会ってくれませんか?」
「うん。いいよ」
本当はもう、会わない予定だったけど。ただの先輩後輩としてなら。友達としてなら。一緒にお弁当を食べるくらいならしてもいいような気がした。
「やった」と小さく声をこぼしながら、声量に合わせたガッツポーズをしていた。
「友達として、ってことでいいんだよね?」
降りかけた階段の真ん中で振り返る。先生に見られたら職員室まで連れていかれるけど、それよりも今、知りたかった。ふと頭に浮かんだ、ほとんど確実にあるわけのないことを確認するために。
「はい。もちろん。光栄です」
穏やかに笑う天野くんにほっと胸をなでおろし、微笑み返した。急いで階段を降りきって、何事もないように折り返してさらに下る。
今まで友達はいたけど、初めてちゃんと一緒にいても苦じゃないと思える友達ができた。それがすごく嬉しかった。
近くで聞こえるその声に、重い瞼を開く。
「おはよう。七瀬先輩」
手を振り、微笑む。そこにいる人を、私は知らなかった。半袖のワイシャツ。紺色のスラックス。黒くてサラサラな髪の毛に、茶色い透き通る瞳。綺麗な男の子が、私の名を呼んだ。
「え、あの、なんで私の名前……」
「知ってますよ。七瀬ゆき先輩」
彼はそう、立ち上がって階段を降りていく。私の疑問には答えないまま、階段をしっかり見て、一段一段確実に下っていく。
「また、会いたいです」
完全に階段を降りきったあと、彼は手を振ってどこかへ歩いていった。
やけに話し声が行き交う廊下で、彼の声はまっすぐ私に届いた。そして、彼が歩いて行った方向と同じ方へ、ぞろぞろと一年生の子が歩いていく。どうやら始業式が終わったらしく、「校長先生の話、長かったよな」とか、「表彰とか始業式にまとめてやる必要なくね?」とか、式に対する文句を話している。
いつも校長先生は、わざわざスクリーンを下ろして熱を込めて話すから、時間も押すし飽きてくる。おしりも痛いから、なんで全校集会があるたび椅子を出してくれないんだろうと、せめて座布団の持ち込みの許可を出してくれたらいいのにと、私も愚痴ばかりが頭に浮かぶ。
そろそろ私も、戻らないと。始業式のときはだいたい終わってから十五分は自由な時間になっているから、トイレに行ったふりをして戻ればきっといなかったこともバレないだろう。
思惑通り、教室から出てくる子もいれば中に入る子もいた。ほっと胸をなでおろして、平然とした顔で教室に入る。
「あ、ゆき!」
私の席に座って私の名を呼ぶ花楓は、こっちこっちと手招きをして、女子グループの中に私を呼び込んだ。
「どうしたの?」
「それはこっちのセリフだよ。始業式出てなかったじゃん」
う。バレてた。誰も探しに来なかったから、ワンチャン誰にもバレていないと思っていたのに。
「ちょっと、寝ちゃってた。皐月先生にバレてるかなぁ」
「全員いるってことにしといたから、バレてないよ」
「花楓さまぁー!ありがとう!」
パン、と手のひらがぶつかる音が、想像より大きく鳴った。コソコソ話していたから、二対三になっていたグループの、あまり話したことない三人がその音に驚いてこちらを向いた。
「なになに、何の話?」
「んー、恋バナ?」
誤魔化し方がリスキーなんだよね。
「え、どっちの?花楓?七瀬ちゃん?」
「ゆきの。なんで彼氏作らないのーって」
やっぱりこうなった。恋バナは苦手なのに。花楓の一言で、必然的に私の方に矢印が向く。
「え、七瀬ちゃん彼氏いないの?」
「可愛いのに。絶対いると思った」
「七瀬さん、モテるって聞いたけど、実際どう?」
三人から口々に疑問だったり意見だったりをぶつけられて、今日はじめて話したのによくそこまでズケズケ聞けるなと一周まわって感心してしまう。
「ゆきはモテてることに気付いてないの。彼氏もいらないんだって。誰かこの子にお似合いの子見つけてあげて」
私の代わりに、そう口を挟む。本人が望んでいないなんて思っていないのか。はたまた私が強がりでそう言っていると思って聞いていたのか。
「そうだな。幼なじみの長谷川くんとか、いいんじゃない?」
この子たちは私のことをどこまで知っているのだろう。なんで私と幸輝が幼なじみって知っているのだろう。
自分から話していないのに、相手が一方的に自分のことを知っているって、なんだかすごく怖く感じた。
「幸輝はただの幼なじみだから。それ以上でもそれ以下でもないから」
バッサリ否定すると、三人はつまらなさそうに「ふーん」と口をとがらせた。なんなんだ。
特に関わる気もないし、名前を覚えるのは苦手。でもここまで話して今更「そういえば、名前は?」なんて聞けないから、Aさん、Bさん、Cさんと右から順に名付けた。
「じゃあじゃあ、好きなタイプは?」
まだ懲りないのか。半分呆れながら、私は今まで使ってきた偽りのタイプを口にする。
「なんか、そこまでハイレベルな人を望んでるわけではなさそうなのにね」
ABCの三人は、顔を見合わせる。
余計なお世話だよ、と思った。口から出そうになったのを飲み込んで、時計を見る。十時五十五分過ぎ。これから一時間ホームルームをしたあと、お昼を挟んで実力テスト。
きっとお昼もこのままここにいたら捕まるに違いない。チャイムと同時にさっきの場所に逃げるか、どこか他に穴場はないか探すか。
上の空で三人の話を聞き流しながらそんなことを考えていると、やっとホームルーム開始のチャイムが鳴った。
「はいはい、席ついてー」
担任の皐月先生が、いつものトートバッグを肩にかけて教室に入ってきた。
「じゃあまたあとでね!」
「うん」
とりあえずそう返すけど、まだこのあともあるのかと思うと軽く地獄だなと思ってしまう。せめて恋バナから離れてくれたらいいんだけど。
「夏休みが終わって、まだこんなこと考えたくないって思う人もいるだろうけど、今から進路希望調査を配ります」
笑顔が素敵な皐月先生は、まだ教師になって二年目。みんなと同じ二年生だと、春の挨拶で話していた。
「まだまだ先の話って思ってる人もいるかもしれないけど、残り半年なんてあっという間で、その半年が過ぎたらみんなもう受験生になるんだからね。二年生のうちにいっぱい青春するんだよ」
歳が近いからなのか、わかってくれている感じがした。私たち高校生の気持ちを。そして、それを踏まえて話してくれている。きっとどの先生よりも生徒の心を掴める先生だ。
前の席から一枚ずつ減って、手元に来たプリントは何度見ても気が重くなる一枚。特に進路なんてどうでもいいと、自分の恋愛のせいで半分投げやりになっている私からしたら、とりあえず今までと同じことを書いて、お母さんにサインをもらい、提出すればいいのだけど、これがまた、プチ親子喧嘩を勃発させる。
学部はどこにするの?とか、適当に書いているから当たり前に答えられないから、本当にこの学校に行きたいのかとか。
なんだか、今日はやけに嫌なことばかりが立て続けに起こる。失恋。半強制的に恋人を作らされそうになる恋バナ。親子喧嘩の原因になる進路希望調査。
思わず「はぁー」と声が混じったため息がこぼれて、教卓の方を見る。先生は気付くことなく話を続けていて、一瞬で固まった背筋はすぐにほぐれた。
「じゃあ課題回収して、終わったら昼休みまで自習の時間にします。私の話聞くより実力テストの勉強したいよね」
いらない気を利かせて、皐月先生は夏休み課題を全部回収して、教室を出ていった。教科委員に頼めばいいのに、それを何往復もして職員室前にある課題提出用の机に運んでいる。先生なのに、そこまでやってくれるのか。去年の担任の先生は、回収して持ってこいスタイルだったのに。
「先生、私も運びます」
さすがに先生一人にやってもらうのも気が引けて、立ち上がる。みんなが驚いたようにこちらを向く。視線が痛かった。『偽善者』と、軽蔑されているような気がした。
「大丈夫だよ。七瀬さんも勉強して、いい点取ってね」
そして、皐月先生は私の申し訳ないと思う気持ちを押しのけた。ただ空振りしただけの、恥ずかしい人になった。
特にノートを広げるわけでも教科書を読むわけでもなく、ぼーっと窓の外を眺めて頭を空っぽにしてチャイムがなるまでの時間を潰し、チャイムが鳴ったあと、「ありがとうございました」と全員揃って口にする挨拶を先生にしてすぐ、お弁当を片手に教室を出た。
さっきの階段を登り、今度は隠れられるように奥へと身を潜める。こんなところでご飯を食べているなんてバレたら、きっと怒られる。今頃気付いたのだけど、階段の中央にハードルのようなものを起き、それに『関係者以外立ち入り禁止』とご丁寧に記載されていた。なんで気付かなかったんだろうと疑問に思いながらも、一度入ってしまったならもういいかと移動する気もなく、長い息を吐いてくつろぐ。
「あれ、七瀬先輩」
そう、まるでおばけのように無音で階段をのぼり、私のことを知っているかのように名を呼ぶ彼はきっとここに来る常習犯なのだろう。
「どうしたんですか?ここ、今まで誰も来なかったのに」
私の予想は的中。彼は慣れているように、迷いもなく死角になる場所に腰掛けた。
「夏休み明けって、憂鬱になるものでしょう?特別誰かに会いたいとかであれば話は別だけど」
私だって八重ちゃんに会いたいって思っていたけど、それは一歩家の外に出て、少し風に当たったら叶うこと。それに歳が違うから、学校にワクワクしながら来る理由にはならない。花楓も恋バナがしたい気持ちがだだ漏れで、いつもの話題ならついていけるけど今日は正直、しんどい。長期連休が終わったことも相まって。
「確かに。生活リズムも戻さないといけないし、勉強させられるし、楽しくはないですね」
あぐらをかき、うんうんと頷きながら私の愚痴のような一言を肯定してくれる。なんだか安心する気持ちと、なんでこんなこと話しているんだろうという初めましての年下の彼に暗い話を聞かせる罪悪感に苛まれる。
「いきなりこんな話されても困りますよね。先輩は先輩らしく、しっかりした背中見せろって感じですよね」
笑顔を浮かべる。口角の上がり方が違和感で溢れているから、きっと、醜い自分を嘲笑うような笑みになっている。
「いえ。多少弱みが見えてる方が、僕としては可愛いと思います」
ドキッとした。あまり可愛いなんて言われないから、反応に困る。男女関係なく、なんで人にこう簡単に可愛いと告げられるんだろう。
「七瀬先輩、」
「ひゃいっ!」
やばい、まるでさっきの一言で彼を意識した人みたいに、過剰な反応をしてしまった。意識していないと言えば嘘になるけど、意識するの意味が違う。これは恋愛感情とは違うから。恋する女の子みたいに、可愛いものじゃない。
「弁当、食べないんですか?」
抱えたままのお弁当箱を指さして、彼は言った。そういえば、彼は手ぶらで、スマホ一つさえ持ってきていない。現代っ子にしては珍しいと感じた。
「食べるけど、あなたは?お弁当、持ってきてないの?」
一緒に食べるつもりなんてさらさらないくせに、話題に困ってしまったからという理由だけでそんなことを聞いてしまった。墓穴を掘ったと言っても過言ではないだろう。知らない人と話すのは、同じ空間で過ごすのは、苦手分野なのに。
「あー……。僕、早弁しちゃっからもうないです」
「そうなの。ねぇ、お腹すいてない?私、こんなに食べられない」
いつもと同じ、横幅十五センチ、縦十センチほどの二段弁当。今日はあんまりお腹がすいていない。
「すみません。僕もちょっと、弁当と購買のパンまで食べちゃったのでさすがに……」
こっちが押し付けようとしているのにも関わらず、寂しそうな顔をして断った。悪いのは押し付けようとした私なのに。
「ごめんごめん。私、ちゃんと食べるから」
包みを開き、蓋をとる。寄りにもよって、今日のメインはコロッケ。ちょっと、食べる気になれない。
さっぱりしたサラダだけ胃に入れて、それを食べている間は彼もむやみに話しかけてくることがなくて。ただ、掃除もされていない少し埃っぽいことを言い訳につい涙を零したときだけ、「ここ目が痛くなるくらい埃っぽいですね」と一言、共感するように私にかけた。
「そろそろ、戻らないと」
スマホの時計を見て、重さがあまり変わらないお弁当箱をランチバッグに詰めて立ち上がる。
「せっかくのお昼休みなのに、空気悪くしてごめんね。えっと……あなたの名前は?」
この一時間、彼の名前をまだ知らないことに気付かなかった。一つ年の離れた友達のように、まるで一人でいるのとあまり変わらないみたいに、居心地が良かったから。
「天野慶汰です。一年です」
「天野くん。ありがとう」
私も名乗るべきだろうか。彼……天野くんは名乗らなくてももう、知っているみたいだけど。人と話すことが本当はあまり得意ではないから、こういうときどうするのがいいのかわからない。
「七瀬先輩、またここで会ってくれませんか?」
「うん。いいよ」
本当はもう、会わない予定だったけど。ただの先輩後輩としてなら。友達としてなら。一緒にお弁当を食べるくらいならしてもいいような気がした。
「やった」と小さく声をこぼしながら、声量に合わせたガッツポーズをしていた。
「友達として、ってことでいいんだよね?」
降りかけた階段の真ん中で振り返る。先生に見られたら職員室まで連れていかれるけど、それよりも今、知りたかった。ふと頭に浮かんだ、ほとんど確実にあるわけのないことを確認するために。
「はい。もちろん。光栄です」
穏やかに笑う天野くんにほっと胸をなでおろし、微笑み返した。急いで階段を降りきって、何事もないように折り返してさらに下る。
今まで友達はいたけど、初めてちゃんと一緒にいても苦じゃないと思える友達ができた。それがすごく嬉しかった。