手軽に食べられるおにぎりが入ったランチバッグを持って待ち合わせ場所に向かう。その足は重いような、軽いような。自分でもよくわからない。
「ごめんね。遅くなって」
ちゃんと聞き手になれるか、話されたことに対してちゃんと返してあげられるかわからなくて、変に緊張してしまう。話される内容も、予想ではいじめだと踏んでいるけど違う可能性もあるわけで、こう話されたらこう返す、みたいなカンペを考えることもできなかった。
「いえ。全然待ってないです」
いつにも増して堅い慶汰くんは、いつもはあぐらをかいているのに今日は正座していた。
どうしよう。私も同じ座り方のがいいのかな。
定位置で、私も正座をして慶汰くんのほうを見る。目が合うと、慶汰くんの緊張も伝わってきてじわじわと手汗が滲む。
「絶対驚かせてしまうと思うので、倒れたときのために、壁に背中くっつけておいてください」
「そんなに?そんなにすごい話になるの?」
ものすごく真面目な顔で言うから、とりあえず言うことを聞いて壁に背中を預けるけど、そこまでになるって、どんなことを話されるんだろう。
「あの、もし話したくなかったら話さくていいんだよ?聞いた私がいうのも変だけど」
慶汰くんには寄り添っているみたいに声をかけるけど、本当はちゃんと会話のキャッチボールが途切れずにできるか心配で、知りたいけどまだ話してくれなくてもいいかもと、この期に及んでまだ自分勝手なことを思っている。
「話します。ゆき先輩には、いつかは絶対話さないといけないことなので」
胸がザワザワと、変な感じがした。聞いたらいけない気がした。まだ、この関係を終わらせたくないなら、聞くなと。私の中の第六感がそう言っている気がした。
「あの、僕……」
「ちょっと待って」
真剣でまっすぐな眼差しを向けくれている慶汰くんを止める気はなかったけど、気づいたときにはもう、口からストップの合図を出していた。
「どうしました?」
「ちょっと、心の準備が……」
私が悩むことじゃないのに、せっかくこうして何かを伝えようとしてくれているのに、情けない。私は一応先輩なのに、後輩の慶汰くんのほうがよっぽど頼りがいがある。
「ねぇ、もしかして今から話そうとしてること、修学旅行から帰ったときにしようとしてた話?」
ふと気になった。いや、賭けた。
もしそうなら、私から話して、その間に心の準備を整えようと思っただけ。それは約束だから。慶汰くんにとってはもう、無効の約束かもしれないけど、私の中ではまだ、あの約束は有効だから。便乗される側が先に話すのが礼儀だろう。
でも、もし違うなら。もうこの場でしっかり聞き入れる。どんな話でも受け入れることに変わりはないから。
「なんでわかったんですか?」
ビンゴ。私が話したことで受け入れる受け入れないが慶汰くんは変わるかもしれないけど、そうなったらもう、それは仕方ないことだ。ちゃんと割り切る。その準備は、あの日一方的に突き放してから着々と進めてきたから。いつ告白することになってもいいように。
「一応。もしそうなら、私から慶汰くんに話してから、慶汰くんの話を聞く。約束だから」
折角色々考えてきてくれただろうに、こんなことを言って台無しにするのはよくなかったかな。
「いいんですか?聞いちゃって」
それでも、少し前のめりになりながら、控えめではあるものの、慶汰くんは嬉しそうに口角を上げている。
「うん。約束の日は過ぎちゃったけど、その間にちゃんと準備してきたから」
「じゃあ、約束通り、僕があとに話します」
後輩だから遠慮してくれたのか、本当にそう思って私を先にしてくれたのかはわからないけど、慶汰くんは正座したまま、私の話を聞く体制になった。さっきよりも背筋をしゃんと伸ばして、柔らかい目付きに変わった。
「きっとびっくりするし、私のことがゲテモノに見えるかもしれない。そうなったら、無理して友達をつづけなくていいからね」
とりあえず、一旦、前置き。
私は同じ話をされても、同じ立場だから。わかる!と共感できることのほうが多いけど、大半は男女の恋愛をする人だから、もしかしたら嫌な気分にさせてしまうかもしれない。
ゆっくり、長く長く、細く息を吐いて、慶汰くんが離れていく最悪のケースも受け入れる最後の覚悟をした。
「私、好きな人がいます。小さいころからずっと、その人のことが大好きです」
前にも話したようなことを、また話している。そう思ってる?でも、大事なことだから。もう一度。
「その人は隣の家に住んでいて、幸輝と……幼なじみと同じ頻度で、幼いころは遊んでた」
いつしか、記憶の中にたくさんある思い出は三人から二人になり、会えるほうが奇跡みたいな、そんなふうになった。
わかってるよ。仕方ないことだから。八重ちゃんは社会人で、私はまだのうのうと日々を過ごせる学生。この差は比べ物にならないくらい大きいものだって。
「その人に、夏休み明けに彼氏ができたって聞いたの。確かに、いつもよりも幸せそうな顔をしてた」
慶汰くんは少し顔を歪めたけど、それでも頷いて、静かに聞いてくれている。きっと、彼氏っていうワードが引っかかったんだろうな。
「ごめん。こういうときに結論から話すのって苦手で。よくわかんない状態じゃ聞きにくいよね」
そんなことないと言うように、そっと首を横に振ってくれる。きっともう、勘づいてる。
「私の好きな人、女の人なの。幸輝のお姉ちゃんのことが、ずっと好き。彼氏ができた今も、本当に大好き」
苦しかった。話しづらかった。でも、言葉も止まらなかった。
「伝えると、離れていっちゃいそうだから。きっと死ぬまで誰かに思いを伝えることはできない。なんとも思っていない顔をしていれば、その人とは友達でいられるから。恋人よりも濃い関係で、ずっと一緒にいることだってできる。ずっと、そう言い聞かせて生きてきた。これからもきっと、それは変わらない。それに、その人を幸せにできない私には、この思いを伝える資格がない」
だから羨ましい。正直に思いを伝えられる人が。誰かとキャッキャと恋バナをできる人が。隠さずに誰かに自分の恋愛を相談できる人が。思いを伝える資格がある人が。
きっと私が普通だったら、花楓の恋バナも苦じゃなかったかもしれない。好きな人に思いを伝えることもできたかもしれない。そうしたら、その資格は生まれつき持っていたかもしれない。幸輝の心に、一瞬たりとも傷をつけなくてよかったかもしれない。
きっと、話を聞いている慶汰くんも、ずっしりとした重みを感じている。こんな話をされてどう返せばいいのか困っているに決まっている。友達ごっこのために、花楓に正直に話さないために、私の盾として利用されていたことに腹が立っている、というのもありえなくはないことだ。
「こんなに、私のことを助けてくれているのに、話すのが遅くなってごめんなさい。慶汰くんには、フリをしてもらうときに正直に話しておくべきだったよね」
普通はきっとそうなんだろうけど、好かれたい一心で過ごしてきた二ヶ月近く、恋人のフリをしてもらうことになる全てに関係している本種を話していないなんて、誰が聞いてもありえないと口を揃えて言うだろう。
頭の中で思っているのか、口で話しているのか。震える声から、ちゃんと目の前の慶汰くんに伝わってるのかが不安になる。
慶汰くんの反応も、もうわからなかった。言葉で返してくれたのか、頷いてくれたのか、さっきの質問に対しての答えはわからないまま。
「……先輩。ゆき先輩」
声が聞こえた。場所はきっと、全然移動してないと思うのに、なんだか遠く感じる。
「なに?」
胸が痛かった。強いしゃっくりをしたときみたいに。呼吸が整わなくて、考えもまとまらなくて、息を吸うと、冷たくて揺れた空気が喉に触れて、その度に胸が痛む。
「一旦休憩しましょう。涙拭いて、お茶飲みましょう」
泣いてたから、苦しかったんだ。なるほど。
手ぶらだからか、ハンカチもティッシュも差し出してはくれなかったけど、その提案はすごくありがたかった。ポケットに入っているハンカチで、次から次へと流れてくる涙を押さえつけた。また、泣いてしまっていた。
慶汰くんの話の場を借りているくせに、こんな大失態をしてしまって、本当に情けなくて、恥ずかしい限りだ。
何分経ったかはわからないけど、涙が止まりかけて、呼吸が完全に整う頃にはもう、きっとそれなりに時間は経過していた。
「大丈夫ですか?」
距離は変わらないまま、優しくて温かい声で言葉をかけてくれる。
嬉しさ半分、複雑さ半分。一人に伝える度にこんなふうにぐちゃぐちゃになっていたら、幸輝と交わした口約束が守れるときにはもう、それなりにいい歳のおばちゃんになっているんじゃないかな。もしかしたら、一生話せることはないかもしれない。毎回こんなふうに迷惑をかけることになるなら、その方がずっといいに決まってる。
「ごめん。まさかここまで酷くなるとは思ってなくて。止めてくれてありがとう」
「きっと、このことがゆき先輩にとって一番の重みで、一番のコンプレックスなんですよね。恋愛対象がみんなと違うってことは、相手は気にしないかもしれないけど、自分からしたら気軽に相談したりできないことだったりしますから」
どこか遠くを見つめて、そんなことを呟いていた。肩に溜まっていた荷物が、どさっと落ちたような感覚がした。軽くなった。もっと軽くしたいというように、また涙が溢れた。
「思う存分泣いてください。泣くと、楽になりますよ。僕の話はこのあとでも、明日でもいいので」
「でも、本当は今日、慶汰くんが……」
「いいんです。目を合わせて、ゆっくり時間をかけて話す口実が、また一つできたので」
むしろラッキーです、とピースサインをしていた。相変わらず目は合わないけど、きっとこれ以上、こんなに酷い泣き顔を見られたくないという私の気持ちを察してくれての行動だろう。
「……引かないの?」
「え、なんで?」
くるっとこちらを見たときのぽかんとした顔のまま、驚きが隠せていないのが、タメ口になって出ていた。
「だって、みんなと違うんだよ?」
「いいじゃないですか。それもゆき先輩の一部で、僕はそういうところも大事にしたいって思いますよ。それに、泣くほど悩んでるくせに好きな人を好きでいられる、ゆき先輩のまっすぐなところがよくわかりました」
ズズっと鼻をすする音が、賑やかさからほんの少ししか離れていない、遮断されていない空間なのにやけに大きく響いた。
「ごめん、汚くて」
ハンカチでカバーするものの、完全に消しされるわけじゃないからこの距離で聞こえないわけがない。少し頭が冷静になったら、やっと涙が止まってくれた。
「汚くないです。むしろ、綺麗だと思います」
「何言ってるの。そんなわけないでしょ」
まつ毛についた水滴を拭いながら、つい笑ってしまった。だって冗談なのに、やけに真剣な目付きで言うから。
「綺麗です。誰かを愛して流す涙は、嗚咽や鼻をすする音だって、たとえ本人は死ぬほど苦しくても、なによりも綺麗です」
まるで絵本の王子様みたいなことを言って、得意げに笑っていた。
「……ありがとう」
「はい」
「初めて話した。その相手が、慶汰くんでよかった」
私も自然と口角が上がったのがわかった。
一度誰かに話せたからと、違う人には次から簡単に話せるわけじゃないけど、一つ成長できたと、小さな一歩を踏み出せたと、自信を持って言える気がした。
キーンコーンカーンコーン……。
予鈴が鳴っているのが聞こえてしまった。慶汰くんの話は、今日はお預けになった。
「僕、ゆき先輩がどんな秘密を抱えていても、そばにいます。彼氏(仮)、本当に辞めることになるまで、辞める気ないですからね」
一度も触れ合わない。一瞬たりとも、慶汰くんには触れたことがない。服さえも、ぶつかることなかった。
触れるなって言われたわけじゃない。ただ、なんとなく。お互い触れ合わなかっただけ。
「そろそろ行きますか」
慶汰くんは立ち上がって、心配するように私を見下ろした。私に手を伸ばして、なにかを思い出したように、私の手が触れる前に引き戻した。
慶汰くん。そう、言葉に出して声に出したつもりだったけど、振り向いてくれなかった。私の声が小さくて聞こえなかったのかな。この近距離で聞こえないなら、慶汰くんが考えごとをしていて上の空なのか、私の声のボリュームに問題があるのかの二択。
もう一度ありがとうを伝えたくて、今日はごめんねと伝えたくて。慶汰くんの肩に手を伸ばした。トントンと肩を叩いて、それだけ伝えるつもりだった。
私の手の先は、明らかに触れている距離なのに、何にも触れていないのと同じ感覚だった。
肩へ触れるはずだった手は、慶汰くんの肩を貫通して、背中に刺さっていた。
気付いていないのか、慶汰くんが前に進むにつれ、私の手は慶汰くんの背中から抜けて、何も無かったような特に何も変わらない背中が前を歩いていた。
「……え?」
自分の手を何度も見返したけど、なんともない。ただ、一瞬息を飲んだ。まさかと思いながらも、この出来事を納得いくように説明するのは難しい。だって、一瞬頭に浮かんだことはありえないと、既に選択肢から外されているから。
私が来ていないことに気づいたのか、慶汰くんは階段下から私のことを手を振って呼んでいる。
そんな、まさか。そんなことあるはずない。
きっと、目の錯覚。絶対そうに決まっている。
「ごめん、考え事してた」
とりあえずそれだけを絞り出して、早歩きで教室に戻った。本当にギリギリで、教室に片足を一歩踏み入れたのと同時にチャイムが鳴った。
必死に頭に言い聞かせながら、授業を受けた。
天野慶汰くんはおばけなわけがない、と。
「ごめんね。遅くなって」
ちゃんと聞き手になれるか、話されたことに対してちゃんと返してあげられるかわからなくて、変に緊張してしまう。話される内容も、予想ではいじめだと踏んでいるけど違う可能性もあるわけで、こう話されたらこう返す、みたいなカンペを考えることもできなかった。
「いえ。全然待ってないです」
いつにも増して堅い慶汰くんは、いつもはあぐらをかいているのに今日は正座していた。
どうしよう。私も同じ座り方のがいいのかな。
定位置で、私も正座をして慶汰くんのほうを見る。目が合うと、慶汰くんの緊張も伝わってきてじわじわと手汗が滲む。
「絶対驚かせてしまうと思うので、倒れたときのために、壁に背中くっつけておいてください」
「そんなに?そんなにすごい話になるの?」
ものすごく真面目な顔で言うから、とりあえず言うことを聞いて壁に背中を預けるけど、そこまでになるって、どんなことを話されるんだろう。
「あの、もし話したくなかったら話さくていいんだよ?聞いた私がいうのも変だけど」
慶汰くんには寄り添っているみたいに声をかけるけど、本当はちゃんと会話のキャッチボールが途切れずにできるか心配で、知りたいけどまだ話してくれなくてもいいかもと、この期に及んでまだ自分勝手なことを思っている。
「話します。ゆき先輩には、いつかは絶対話さないといけないことなので」
胸がザワザワと、変な感じがした。聞いたらいけない気がした。まだ、この関係を終わらせたくないなら、聞くなと。私の中の第六感がそう言っている気がした。
「あの、僕……」
「ちょっと待って」
真剣でまっすぐな眼差しを向けくれている慶汰くんを止める気はなかったけど、気づいたときにはもう、口からストップの合図を出していた。
「どうしました?」
「ちょっと、心の準備が……」
私が悩むことじゃないのに、せっかくこうして何かを伝えようとしてくれているのに、情けない。私は一応先輩なのに、後輩の慶汰くんのほうがよっぽど頼りがいがある。
「ねぇ、もしかして今から話そうとしてること、修学旅行から帰ったときにしようとしてた話?」
ふと気になった。いや、賭けた。
もしそうなら、私から話して、その間に心の準備を整えようと思っただけ。それは約束だから。慶汰くんにとってはもう、無効の約束かもしれないけど、私の中ではまだ、あの約束は有効だから。便乗される側が先に話すのが礼儀だろう。
でも、もし違うなら。もうこの場でしっかり聞き入れる。どんな話でも受け入れることに変わりはないから。
「なんでわかったんですか?」
ビンゴ。私が話したことで受け入れる受け入れないが慶汰くんは変わるかもしれないけど、そうなったらもう、それは仕方ないことだ。ちゃんと割り切る。その準備は、あの日一方的に突き放してから着々と進めてきたから。いつ告白することになってもいいように。
「一応。もしそうなら、私から慶汰くんに話してから、慶汰くんの話を聞く。約束だから」
折角色々考えてきてくれただろうに、こんなことを言って台無しにするのはよくなかったかな。
「いいんですか?聞いちゃって」
それでも、少し前のめりになりながら、控えめではあるものの、慶汰くんは嬉しそうに口角を上げている。
「うん。約束の日は過ぎちゃったけど、その間にちゃんと準備してきたから」
「じゃあ、約束通り、僕があとに話します」
後輩だから遠慮してくれたのか、本当にそう思って私を先にしてくれたのかはわからないけど、慶汰くんは正座したまま、私の話を聞く体制になった。さっきよりも背筋をしゃんと伸ばして、柔らかい目付きに変わった。
「きっとびっくりするし、私のことがゲテモノに見えるかもしれない。そうなったら、無理して友達をつづけなくていいからね」
とりあえず、一旦、前置き。
私は同じ話をされても、同じ立場だから。わかる!と共感できることのほうが多いけど、大半は男女の恋愛をする人だから、もしかしたら嫌な気分にさせてしまうかもしれない。
ゆっくり、長く長く、細く息を吐いて、慶汰くんが離れていく最悪のケースも受け入れる最後の覚悟をした。
「私、好きな人がいます。小さいころからずっと、その人のことが大好きです」
前にも話したようなことを、また話している。そう思ってる?でも、大事なことだから。もう一度。
「その人は隣の家に住んでいて、幸輝と……幼なじみと同じ頻度で、幼いころは遊んでた」
いつしか、記憶の中にたくさんある思い出は三人から二人になり、会えるほうが奇跡みたいな、そんなふうになった。
わかってるよ。仕方ないことだから。八重ちゃんは社会人で、私はまだのうのうと日々を過ごせる学生。この差は比べ物にならないくらい大きいものだって。
「その人に、夏休み明けに彼氏ができたって聞いたの。確かに、いつもよりも幸せそうな顔をしてた」
慶汰くんは少し顔を歪めたけど、それでも頷いて、静かに聞いてくれている。きっと、彼氏っていうワードが引っかかったんだろうな。
「ごめん。こういうときに結論から話すのって苦手で。よくわかんない状態じゃ聞きにくいよね」
そんなことないと言うように、そっと首を横に振ってくれる。きっともう、勘づいてる。
「私の好きな人、女の人なの。幸輝のお姉ちゃんのことが、ずっと好き。彼氏ができた今も、本当に大好き」
苦しかった。話しづらかった。でも、言葉も止まらなかった。
「伝えると、離れていっちゃいそうだから。きっと死ぬまで誰かに思いを伝えることはできない。なんとも思っていない顔をしていれば、その人とは友達でいられるから。恋人よりも濃い関係で、ずっと一緒にいることだってできる。ずっと、そう言い聞かせて生きてきた。これからもきっと、それは変わらない。それに、その人を幸せにできない私には、この思いを伝える資格がない」
だから羨ましい。正直に思いを伝えられる人が。誰かとキャッキャと恋バナをできる人が。隠さずに誰かに自分の恋愛を相談できる人が。思いを伝える資格がある人が。
きっと私が普通だったら、花楓の恋バナも苦じゃなかったかもしれない。好きな人に思いを伝えることもできたかもしれない。そうしたら、その資格は生まれつき持っていたかもしれない。幸輝の心に、一瞬たりとも傷をつけなくてよかったかもしれない。
きっと、話を聞いている慶汰くんも、ずっしりとした重みを感じている。こんな話をされてどう返せばいいのか困っているに決まっている。友達ごっこのために、花楓に正直に話さないために、私の盾として利用されていたことに腹が立っている、というのもありえなくはないことだ。
「こんなに、私のことを助けてくれているのに、話すのが遅くなってごめんなさい。慶汰くんには、フリをしてもらうときに正直に話しておくべきだったよね」
普通はきっとそうなんだろうけど、好かれたい一心で過ごしてきた二ヶ月近く、恋人のフリをしてもらうことになる全てに関係している本種を話していないなんて、誰が聞いてもありえないと口を揃えて言うだろう。
頭の中で思っているのか、口で話しているのか。震える声から、ちゃんと目の前の慶汰くんに伝わってるのかが不安になる。
慶汰くんの反応も、もうわからなかった。言葉で返してくれたのか、頷いてくれたのか、さっきの質問に対しての答えはわからないまま。
「……先輩。ゆき先輩」
声が聞こえた。場所はきっと、全然移動してないと思うのに、なんだか遠く感じる。
「なに?」
胸が痛かった。強いしゃっくりをしたときみたいに。呼吸が整わなくて、考えもまとまらなくて、息を吸うと、冷たくて揺れた空気が喉に触れて、その度に胸が痛む。
「一旦休憩しましょう。涙拭いて、お茶飲みましょう」
泣いてたから、苦しかったんだ。なるほど。
手ぶらだからか、ハンカチもティッシュも差し出してはくれなかったけど、その提案はすごくありがたかった。ポケットに入っているハンカチで、次から次へと流れてくる涙を押さえつけた。また、泣いてしまっていた。
慶汰くんの話の場を借りているくせに、こんな大失態をしてしまって、本当に情けなくて、恥ずかしい限りだ。
何分経ったかはわからないけど、涙が止まりかけて、呼吸が完全に整う頃にはもう、きっとそれなりに時間は経過していた。
「大丈夫ですか?」
距離は変わらないまま、優しくて温かい声で言葉をかけてくれる。
嬉しさ半分、複雑さ半分。一人に伝える度にこんなふうにぐちゃぐちゃになっていたら、幸輝と交わした口約束が守れるときにはもう、それなりにいい歳のおばちゃんになっているんじゃないかな。もしかしたら、一生話せることはないかもしれない。毎回こんなふうに迷惑をかけることになるなら、その方がずっといいに決まってる。
「ごめん。まさかここまで酷くなるとは思ってなくて。止めてくれてありがとう」
「きっと、このことがゆき先輩にとって一番の重みで、一番のコンプレックスなんですよね。恋愛対象がみんなと違うってことは、相手は気にしないかもしれないけど、自分からしたら気軽に相談したりできないことだったりしますから」
どこか遠くを見つめて、そんなことを呟いていた。肩に溜まっていた荷物が、どさっと落ちたような感覚がした。軽くなった。もっと軽くしたいというように、また涙が溢れた。
「思う存分泣いてください。泣くと、楽になりますよ。僕の話はこのあとでも、明日でもいいので」
「でも、本当は今日、慶汰くんが……」
「いいんです。目を合わせて、ゆっくり時間をかけて話す口実が、また一つできたので」
むしろラッキーです、とピースサインをしていた。相変わらず目は合わないけど、きっとこれ以上、こんなに酷い泣き顔を見られたくないという私の気持ちを察してくれての行動だろう。
「……引かないの?」
「え、なんで?」
くるっとこちらを見たときのぽかんとした顔のまま、驚きが隠せていないのが、タメ口になって出ていた。
「だって、みんなと違うんだよ?」
「いいじゃないですか。それもゆき先輩の一部で、僕はそういうところも大事にしたいって思いますよ。それに、泣くほど悩んでるくせに好きな人を好きでいられる、ゆき先輩のまっすぐなところがよくわかりました」
ズズっと鼻をすする音が、賑やかさからほんの少ししか離れていない、遮断されていない空間なのにやけに大きく響いた。
「ごめん、汚くて」
ハンカチでカバーするものの、完全に消しされるわけじゃないからこの距離で聞こえないわけがない。少し頭が冷静になったら、やっと涙が止まってくれた。
「汚くないです。むしろ、綺麗だと思います」
「何言ってるの。そんなわけないでしょ」
まつ毛についた水滴を拭いながら、つい笑ってしまった。だって冗談なのに、やけに真剣な目付きで言うから。
「綺麗です。誰かを愛して流す涙は、嗚咽や鼻をすする音だって、たとえ本人は死ぬほど苦しくても、なによりも綺麗です」
まるで絵本の王子様みたいなことを言って、得意げに笑っていた。
「……ありがとう」
「はい」
「初めて話した。その相手が、慶汰くんでよかった」
私も自然と口角が上がったのがわかった。
一度誰かに話せたからと、違う人には次から簡単に話せるわけじゃないけど、一つ成長できたと、小さな一歩を踏み出せたと、自信を持って言える気がした。
キーンコーンカーンコーン……。
予鈴が鳴っているのが聞こえてしまった。慶汰くんの話は、今日はお預けになった。
「僕、ゆき先輩がどんな秘密を抱えていても、そばにいます。彼氏(仮)、本当に辞めることになるまで、辞める気ないですからね」
一度も触れ合わない。一瞬たりとも、慶汰くんには触れたことがない。服さえも、ぶつかることなかった。
触れるなって言われたわけじゃない。ただ、なんとなく。お互い触れ合わなかっただけ。
「そろそろ行きますか」
慶汰くんは立ち上がって、心配するように私を見下ろした。私に手を伸ばして、なにかを思い出したように、私の手が触れる前に引き戻した。
慶汰くん。そう、言葉に出して声に出したつもりだったけど、振り向いてくれなかった。私の声が小さくて聞こえなかったのかな。この近距離で聞こえないなら、慶汰くんが考えごとをしていて上の空なのか、私の声のボリュームに問題があるのかの二択。
もう一度ありがとうを伝えたくて、今日はごめんねと伝えたくて。慶汰くんの肩に手を伸ばした。トントンと肩を叩いて、それだけ伝えるつもりだった。
私の手の先は、明らかに触れている距離なのに、何にも触れていないのと同じ感覚だった。
肩へ触れるはずだった手は、慶汰くんの肩を貫通して、背中に刺さっていた。
気付いていないのか、慶汰くんが前に進むにつれ、私の手は慶汰くんの背中から抜けて、何も無かったような特に何も変わらない背中が前を歩いていた。
「……え?」
自分の手を何度も見返したけど、なんともない。ただ、一瞬息を飲んだ。まさかと思いながらも、この出来事を納得いくように説明するのは難しい。だって、一瞬頭に浮かんだことはありえないと、既に選択肢から外されているから。
私が来ていないことに気づいたのか、慶汰くんは階段下から私のことを手を振って呼んでいる。
そんな、まさか。そんなことあるはずない。
きっと、目の錯覚。絶対そうに決まっている。
「ごめん、考え事してた」
とりあえずそれだけを絞り出して、早歩きで教室に戻った。本当にギリギリで、教室に片足を一歩踏み入れたのと同時にチャイムが鳴った。
必死に頭に言い聞かせながら、授業を受けた。
天野慶汰くんはおばけなわけがない、と。