半袖のセーラー服。赤いリボン。膝丈の紺色のスカート。
まだ暑い。夏休みなんて終わらなければいいのにと、朝の準備をしながら思った。
「あ、おはよう」
「ゆき、おはよ」
「ゆきちゃん、おはよう」
家を出て、鍵を閉める。サンライトマンションの五〇五号室に住む私と、隣の五〇六号室の長谷川姉弟は私の幼なじみだ。
「今日から新学期だね。二学期もうちのクソガキをよろしくお願いします」
幸輝の背中をバシッと叩くのは、三つ上の八重ちゃん。二十歳の、社会人。すごくすごく、遠い人。
「俺がお世話するほうだよ。ゆき、危なっかしいから」
「どういう意味よ」
朝から廊下で小さな言い合いをしながら、内心ドキドキしていた。隣に住んでいるのに、会ったのは数週間ぶりの好きな人がそこにいたから。
「じゃあ、気をつけてね。私先行くから」
そう、私に微笑んで手を振ってくれる。私も八重ちゃんに手を振り、幸輝を置いて少し先を歩く背中を追いかけるように歩いた。
追いつかない背中に手を伸ばすように。
「なぁ、宿題終わった?」
こっちの気も知らず、幸輝は呑気にそんなことを聞いてきた。きっと色恋の悩みなんてないのだろう。羨ましい。
「終わったよ。もしかして終わってないの?」
「終わってるよ。昨日徹夜で終わらせた」
「なんだ、やればできるんじゃん」
ポーン。一階まで八重ちゃんを乗せて降りたエレベーターが五階まで戻ってきた。
「八重ちゃん、元気?」
「姉ちゃん?元気だよ。最近彼氏できたみたいで、いつにも増してイキイキしてる」
嘘、彼氏?そんな、まさか。誰か嘘だと言って。私の悪夢を覚まして。
「へぇ。八重ちゃん、彼氏できたんだ」
なんとも思っていないように装って、エレベーターを降りる。振り向いたところにいた幸輝が、私のことを見て笑った。
「嫉妬すんなって。彼氏できてもいつも通りゆきの相手はしてくれるよ」
私の背中をバシバシ叩く。元気づけようとしてるのはわかるけど、私の恋事情を知らない幸輝が私の心を救えるわけない。むしろ、その励ましが私の心をえぐる。
「ゆきも姉ちゃんみたいに早く彼氏作りなよ。この前手紙くれたあの子はどうなったの?」
「一回も会ってない。イタズラだよ、きっと」
「それは残念だな」
学年もクラスも名前も知らない誰かから貰った下駄箱に入っていた私宛の手紙を、何故か捨てられずにスクールバッグのポケットに入れたまま夏を越した。
「私よりも幸輝が先に彼女作りなよ」
「はぁ?なんで俺」
「できないの?」
「違うから。作らないの。ゆきに彼氏ができたら、俺も彼女作るよ」
「じゃあ、永遠にお互い独り身だね」
特に私は、『彼氏』という存在ができる可能性はゼロ。できるわけない。私は、みんなとは違うから。
「流石にそうなったら俺はゆきのこと見捨てて相手探すから」
「うん。そうして」
きっと誰も気付いていない。知るはずもない。
私の好きな人は幸輝の幼なじみである八重ちゃんだということに。
私が生まれつき、同性愛者だということに。
違和感を覚えたのは小学生のとき。修学旅行の夜、定番の恋バナをしていた。何組の○○くんが好き!とか、○○くんがかっこいい!という話で盛り上がっている中で、私には全くその感情がないことに気付いた。○○ちゃんが可愛いとか、幸輝のお姉ちゃんの八重ちゃんが好きだと、そう思う感情がみんなが男の子を好きというのと同じだと気付いた。
「女の子が好きって、おかしいのかな?」
聞きたいけど、グッと飲み込んだ。小学生ながらに、こんなことを聞いたらみんなと距離ができるかもしれないと思った。
それからずっと、私は女の子が好きだという気持ちを隠している。みんなに合わせて生きている。みんながかっこいいと言う人をかっこいいと言い、好きなタイプも聞かれたらすぐに答えられるように定型文が決まっている。
優しくて、明るくて、困っている人を助けられる、かっこいい人。
本当は八重ちゃんみたいに、可愛くて、ふわっとしていて、包容力がある優しい女性が好き。一生口にできない思いだから、嘘で塗り固めた方が楽だと思い込むようにしている。
「じゃあ、また帰りに」
私のクラスの前で幸輝と別れ、久しぶりの自分の席に荷物を置いた。
「相変わらず仲良しだね」
おはようもないまま、私の机に手をつき、話しかけられる。松原花楓。ただの友達。どちらかというと、苦手よりのだけど。
「幼なじみだからね」
「いいなー。私も長谷川くんみたいな幼なじみ欲しいよ」
「そう?幸輝はいい人だけど、恋愛とか期待できないよ?」
それは私が女性同性愛者だからかもしれないけど。一度も恋愛感情を持ったことはないし、きっと持たれたこともないから。私とだと期待できないというのが正しいだろう。
「なんだ。じゃあ見た目がいいだけなのか」
「そうそう。ほんのちょーっとだけ他よりルックスがいいだけだよ」
散々幸輝を貶し、別にスッキリするわけでもないけど、幸輝のことを気になる人がいることに安心した。あの人もこの調子だと、普通に彼女ができないまま人生を歩んでいきそうだから。幸輝は普通に、好きな人の話をしていたときは女の子のことを話していたから、私とは違って普通に恋愛できる。パートナーを見つけるのも簡単だろう。私は、同じ気持ちを持つ人と出会える確率は周りに比べて明らかに低いのだから。
「まぁ、花楓が恋愛に困ったらもらってあげて」
「そこはゆきがもらってあげるんじゃないの?」
「幸輝は幼なじみでいいよ。私は彼氏とか、いらないから」
「そう?わかった。本当に困ったら、考える」
「花楓は困らなさそうだけどね」
私には、春なんて必要ない。春が来るわけない。甘酸っぱい青春なんて、私にはいらない。
伝えたら困らせる。引かれる。嫌われる。
誰も幸せにしない思いを伝えても、必要以上に自分が傷つくだけ。
「私、トイレ行ってくるね」
それだけ言って、一人で教室を出た。屋上へと続く階段をトントンと小さく重い足音を立てながら上り、鍵のかかったいかにも重そうな扉を背もたれにして座った。
やっと気が抜けた感覚。朝、ばったり八重ちゃんと幸輝に会って、嬉しさもあったけどやっぱり疲れた。ずっと嘘をついていて、それがバレてはいけないから。二人には、特に。
始業式が始まるチャイムが遠くで聞こえた。もう、遠のきかけた意識は戻りそうもなかった。