桜君は当時実業団チームの選手だったお父さんと高校の教員のお母さんのもとに生まれた。二人は同じ大学だったらしい。バスケ漬けの二人の子供である桜君も当然のようにバスケ漬けの毎日を過ごすことになった。
身長の伸びも早く、自宅にもゴールを置いて毎日遅くまで練習していたこともあり、常にその地域の同世代の選手の中でナンバーワンの選手だった。
桜君も試合で活躍できることが楽しくてバスケが大好きだったし、優しく的確な指導をしてくれるお父さんやお母さんが大好きで、桜君の夢はプロのバスケ選手になることだった。
「小学五年生くらいのときにその夢を口にしてから父さんがすごく厳しくなった。バスケで厳しくなるのは別に良かったというかどんと来いって感じだったんだけど、それ以外がつらかった」
「それ以外?」
「うん。勉強をしっかりやれとか、誰にでも優しくしろとか、言葉遣いとか姿勢とか生活態度とか表情とかも厳しくしつけられたし、ボランティア活動にも積極的に参加させられたし、委員長とかもやるように言われた。本を読め、それでいて友達とも遊べとかとにかくバスケ以外のことでもたくさん口出しされるようになって、母さんはそれに対して何も言わなくて、当時の俺は父さんや母さんのことをちょっと嫌いになっていた」
小学五年生のときに同じクラスだった桜君そのものだった。勉強も頑張っていたし、皆に優しかったし、落ち着いていて大人っぽいところとかそれでいて皆の中心で楽しく遊んでいるところとか、まさにお父さんの言いつけ通りだった。
「堅苦しくて嫌だったんだけどさ、ちゃんとできないならバスケはもうさせないって言われたから仕方なくその通りにしてて、それが中学一年生くらいまで続いた」
あのときは大変だったなぁと桜君は遠くを見るような目で懐かしんでいる。桜君の目線の高さからならどこまでも見通せそうだ。
「中一の終わりの頃、父さんがプロチームの監督になることが決まって、その初顔合わせに俺も一緒に連れて行ってもらえることになったんだ。父さんのことは微妙だったけどバスケは大好きだったし、プロ選手と会えるなんてめちゃくちゃ嬉しかった。監督の息子でバスケをやってるってことで皆可愛がってくれて握手してくれたり、持って行ったボールにサインを書いてくれたりしたんだけど一人だけ握手もサインもしてくれなかった選手がいたんだ。タイミングとか何か事情があったのかもしれないけど、そのときの俺はあの人のことは応援したくないなって思った。それからしばらくして、別のプロチームの有名選手が芸能人と不倫をしたとかで話題になってショックを受けるファンの声とかも報道された。別のスポーツだけど、引退後に犯罪行為を行って逮捕された人なんかもちょくちょく報道されることがあった。それで父さんの言っていたことが分かったんだ」
私も桜君の話でなんとなく察することができた。桜君のお父さんは桜君を立派なプロ選手にするために厳しくなったのだ。
「バスケに限った話じゃないけどさ、プロスポーツ選手はどこからお金をもらっていると思う?」
「チームの親会社とかスポンサーとか?」
「うん、じゃあなんでお金をくれるのかって言うと、広告になるからなんだよね。なんで広告になるかって言うと見てくれる人がいっぱいいるから。見てくれる人がいなかったらプロスポーツなんて自己満足でしかない。ファンに優しくなかったり、非常識な行為をする選手ばかりだったら見てくれる人はいなくなってしまう。それにいつまでも現役でいられるわけじゃなくて引退してからの人生の方が長い。だから父さんは俺にバスケの技術以外に人間性も磨くように言っていたんだって気づいた。プロは周りに良い影響を与えるような人間にならなくちゃいけないってね。母さんもそれを知っていたから何も言わなかったんだ」
なんて大人なのだろう。自分勝手で将来のことなんて何も考えずに日々その瞬間の楽しさだけのために生きているような桜高校の一部の生徒とは大違いだ。
そしてそんな人たちを見下して、自分はそういう人間とは違うと優越感に浸っていた私とも大違いだ。
変わろうと思った。不真面目な人たちが苦手なのは変えられないけれど、見下すのはやめようと思う。
「今、お父さんやお母さんのことはどう思ってるの?」
「ずっと支えてくれた母さんには感謝してる。厳しくても正しいことを教えてくれた父さんのことは尊敬してる。詩織さんが俺を見て頑張ろうって思ってくれたのなら、父さんの理想に少しは近づけたのかもしれない」
照れもせず、そんなことをサラッと言える桜君のことをカッコいいと思った。私なんてお父さんのことを面倒くさいとしか思ったことがない。
桜君といると自分の人間としての器の小ささが明るみに出てしまう気がする。そうならないために少しでも桜君みたいな人間に近づきたいと思う。
「小学生のときから思ってたけど、桜君ってすごく考え方が大人だよね。お父さんの教育もあるのかもだけど、桜君自身は何か気をつけてることとかあるの?」
「大人だなんてそんな……」
桜君は少しだけ照れて私から顔を背けた。賞賛の言葉なんていくらでも浴びてきただろうに、頭を掻きながら恥ずかしそうにする姿はとても可愛らしい。
「これも父さんの教えではあるんだけどね、自分や他人を評価するときに減点法じゃなくて加点法で評価するようにしてるんだ。バスケの選手としての俺を加点法で評価すると身長が高くてジャンプ力もあってスタミナもあるしシュートも得意な選手なんだけど、減点法で評価すると、ドリブルはそこまで上手じゃなくて瞬発力が劣ってて走り出しが速くないし一対一の状況になって負けるとちょっとムキになるところがある選手なんだ。どちらも正しく俺を評価しているんだけど全然印象が違うよね」
「確かに、減点法だとあんまり良い選手には思えない」
私が自分に自信を持てないのも不真面目な人たちを見下していたのも減点法で見ているからだ。地味で人付き合いが苦手で、端っこにいて暗い私も加点法で見たら自信を持てるだろうか。
「加点法で見ると自分に自信が持てるし、周りの人のこともリスペクトできるようになるっていうか人付き合いが楽しくなるんだ」
「私は自分に自信がなくて、今日も皆の人気者の桜君と日陰者の私が一緒にお出かけなんていいのかなって思ってたし。桜君はすごいね」
「そっか、きっと詩織さんは減点法で自分を評価していたんだね。じゃあさ、俺が加点法で詩織さんを評価させてもらっても良いかな?」
優しく私の顔を覗き込む桜君。どうしてこうも彼は私の心の琴線に触れるというか、やって欲しいこと、言って欲しいことを言ってくれるのだろう。
加点法で自分を見たいとは思ったけれど加点部分が見つからなかったから、桜君がしてくれると言うのはとてもありがたい。
「周りに流されないし、すごく考えて言葉を選んでいるし、頭も良いし、校則守るし、校長先生とか年配の先生ともちゃんと会話してるし、服とか髪だけじゃなくて顔も可愛い」
桜君は意外と私のことを見てくれていたんだ。校則とか校長先生とかの話は見ていないと分からないはずだ。それに可愛いだなんて身内と服屋の店員さんと美月以外からは初めて言われて、舞い上がりそうになる。
「か、可愛いなんてそんなこと言われたことないのに……」
「詩織さんは皆の前に立って目立つタイプじゃないから皆気づかなかっただけだよ」
霧散していた私の初恋は完全に固まり直して形になった。そしてそれはもっと大きくなった。
「ありがとう。加点法最高だね。私も今度からそうやって自分や他人のこと見てみるよ」
「うん。きっと今よりも人生が楽しくなると思う」
本気になることの大切さ、減点法でなく加点法で。立った十日足らずの期間で桜君によって私の価値観は大きく変えられてしまった。今までの自分が覆されたはずなのに何故だか気分は清々しい。
私の中の全部が良い方向に傾いたかのような感覚になった。もう私には桜君しか考えられない。
この気持ちを伝えても良いのだろうか。早すぎるだろうか。コートを掴んだ手を桜君の手に握り替えても良いだろうか。
そもそも桜君が誘ってくれたのだから桜君は私のことを多少は好きなはずなので手を握るくらいは大丈夫だろう。そう思ってコートから手を離した瞬間、私たちの参拝の順番になってしまった。
身長の伸びも早く、自宅にもゴールを置いて毎日遅くまで練習していたこともあり、常にその地域の同世代の選手の中でナンバーワンの選手だった。
桜君も試合で活躍できることが楽しくてバスケが大好きだったし、優しく的確な指導をしてくれるお父さんやお母さんが大好きで、桜君の夢はプロのバスケ選手になることだった。
「小学五年生くらいのときにその夢を口にしてから父さんがすごく厳しくなった。バスケで厳しくなるのは別に良かったというかどんと来いって感じだったんだけど、それ以外がつらかった」
「それ以外?」
「うん。勉強をしっかりやれとか、誰にでも優しくしろとか、言葉遣いとか姿勢とか生活態度とか表情とかも厳しくしつけられたし、ボランティア活動にも積極的に参加させられたし、委員長とかもやるように言われた。本を読め、それでいて友達とも遊べとかとにかくバスケ以外のことでもたくさん口出しされるようになって、母さんはそれに対して何も言わなくて、当時の俺は父さんや母さんのことをちょっと嫌いになっていた」
小学五年生のときに同じクラスだった桜君そのものだった。勉強も頑張っていたし、皆に優しかったし、落ち着いていて大人っぽいところとかそれでいて皆の中心で楽しく遊んでいるところとか、まさにお父さんの言いつけ通りだった。
「堅苦しくて嫌だったんだけどさ、ちゃんとできないならバスケはもうさせないって言われたから仕方なくその通りにしてて、それが中学一年生くらいまで続いた」
あのときは大変だったなぁと桜君は遠くを見るような目で懐かしんでいる。桜君の目線の高さからならどこまでも見通せそうだ。
「中一の終わりの頃、父さんがプロチームの監督になることが決まって、その初顔合わせに俺も一緒に連れて行ってもらえることになったんだ。父さんのことは微妙だったけどバスケは大好きだったし、プロ選手と会えるなんてめちゃくちゃ嬉しかった。監督の息子でバスケをやってるってことで皆可愛がってくれて握手してくれたり、持って行ったボールにサインを書いてくれたりしたんだけど一人だけ握手もサインもしてくれなかった選手がいたんだ。タイミングとか何か事情があったのかもしれないけど、そのときの俺はあの人のことは応援したくないなって思った。それからしばらくして、別のプロチームの有名選手が芸能人と不倫をしたとかで話題になってショックを受けるファンの声とかも報道された。別のスポーツだけど、引退後に犯罪行為を行って逮捕された人なんかもちょくちょく報道されることがあった。それで父さんの言っていたことが分かったんだ」
私も桜君の話でなんとなく察することができた。桜君のお父さんは桜君を立派なプロ選手にするために厳しくなったのだ。
「バスケに限った話じゃないけどさ、プロスポーツ選手はどこからお金をもらっていると思う?」
「チームの親会社とかスポンサーとか?」
「うん、じゃあなんでお金をくれるのかって言うと、広告になるからなんだよね。なんで広告になるかって言うと見てくれる人がいっぱいいるから。見てくれる人がいなかったらプロスポーツなんて自己満足でしかない。ファンに優しくなかったり、非常識な行為をする選手ばかりだったら見てくれる人はいなくなってしまう。それにいつまでも現役でいられるわけじゃなくて引退してからの人生の方が長い。だから父さんは俺にバスケの技術以外に人間性も磨くように言っていたんだって気づいた。プロは周りに良い影響を与えるような人間にならなくちゃいけないってね。母さんもそれを知っていたから何も言わなかったんだ」
なんて大人なのだろう。自分勝手で将来のことなんて何も考えずに日々その瞬間の楽しさだけのために生きているような桜高校の一部の生徒とは大違いだ。
そしてそんな人たちを見下して、自分はそういう人間とは違うと優越感に浸っていた私とも大違いだ。
変わろうと思った。不真面目な人たちが苦手なのは変えられないけれど、見下すのはやめようと思う。
「今、お父さんやお母さんのことはどう思ってるの?」
「ずっと支えてくれた母さんには感謝してる。厳しくても正しいことを教えてくれた父さんのことは尊敬してる。詩織さんが俺を見て頑張ろうって思ってくれたのなら、父さんの理想に少しは近づけたのかもしれない」
照れもせず、そんなことをサラッと言える桜君のことをカッコいいと思った。私なんてお父さんのことを面倒くさいとしか思ったことがない。
桜君といると自分の人間としての器の小ささが明るみに出てしまう気がする。そうならないために少しでも桜君みたいな人間に近づきたいと思う。
「小学生のときから思ってたけど、桜君ってすごく考え方が大人だよね。お父さんの教育もあるのかもだけど、桜君自身は何か気をつけてることとかあるの?」
「大人だなんてそんな……」
桜君は少しだけ照れて私から顔を背けた。賞賛の言葉なんていくらでも浴びてきただろうに、頭を掻きながら恥ずかしそうにする姿はとても可愛らしい。
「これも父さんの教えではあるんだけどね、自分や他人を評価するときに減点法じゃなくて加点法で評価するようにしてるんだ。バスケの選手としての俺を加点法で評価すると身長が高くてジャンプ力もあってスタミナもあるしシュートも得意な選手なんだけど、減点法で評価すると、ドリブルはそこまで上手じゃなくて瞬発力が劣ってて走り出しが速くないし一対一の状況になって負けるとちょっとムキになるところがある選手なんだ。どちらも正しく俺を評価しているんだけど全然印象が違うよね」
「確かに、減点法だとあんまり良い選手には思えない」
私が自分に自信を持てないのも不真面目な人たちを見下していたのも減点法で見ているからだ。地味で人付き合いが苦手で、端っこにいて暗い私も加点法で見たら自信を持てるだろうか。
「加点法で見ると自分に自信が持てるし、周りの人のこともリスペクトできるようになるっていうか人付き合いが楽しくなるんだ」
「私は自分に自信がなくて、今日も皆の人気者の桜君と日陰者の私が一緒にお出かけなんていいのかなって思ってたし。桜君はすごいね」
「そっか、きっと詩織さんは減点法で自分を評価していたんだね。じゃあさ、俺が加点法で詩織さんを評価させてもらっても良いかな?」
優しく私の顔を覗き込む桜君。どうしてこうも彼は私の心の琴線に触れるというか、やって欲しいこと、言って欲しいことを言ってくれるのだろう。
加点法で自分を見たいとは思ったけれど加点部分が見つからなかったから、桜君がしてくれると言うのはとてもありがたい。
「周りに流されないし、すごく考えて言葉を選んでいるし、頭も良いし、校則守るし、校長先生とか年配の先生ともちゃんと会話してるし、服とか髪だけじゃなくて顔も可愛い」
桜君は意外と私のことを見てくれていたんだ。校則とか校長先生とかの話は見ていないと分からないはずだ。それに可愛いだなんて身内と服屋の店員さんと美月以外からは初めて言われて、舞い上がりそうになる。
「か、可愛いなんてそんなこと言われたことないのに……」
「詩織さんは皆の前に立って目立つタイプじゃないから皆気づかなかっただけだよ」
霧散していた私の初恋は完全に固まり直して形になった。そしてそれはもっと大きくなった。
「ありがとう。加点法最高だね。私も今度からそうやって自分や他人のこと見てみるよ」
「うん。きっと今よりも人生が楽しくなると思う」
本気になることの大切さ、減点法でなく加点法で。立った十日足らずの期間で桜君によって私の価値観は大きく変えられてしまった。今までの自分が覆されたはずなのに何故だか気分は清々しい。
私の中の全部が良い方向に傾いたかのような感覚になった。もう私には桜君しか考えられない。
この気持ちを伝えても良いのだろうか。早すぎるだろうか。コートを掴んだ手を桜君の手に握り替えても良いだろうか。
そもそも桜君が誘ってくれたのだから桜君は私のことを多少は好きなはずなので手を握るくらいは大丈夫だろう。そう思ってコートから手を離した瞬間、私たちの参拝の順番になってしまった。