「誰にも言わない?」

「う、うん」

「真人にもだぞ」

「うん」

 伊織は再び天井を見上げて話を始める。私もクッションに座り直してしっかりと話を聞く姿勢になる。

「四月の末頃の放課後、俺は学校の外周を一人でランニングしていたんだ。俺の少し前をサッカー部の一年生が集団で走ってて、校門の近くでその中の誰かが下校途中の女子とぶつかるのが見えた。その子は転んじまったけど誰も止まらなかった」

 美月だ。一月の模試の日、美月が話した伊織との馴れ初めの話だ。伊織も覚えていたんだ。

「助けようって思った。中学までの俺なら俺は悪くないからって無視したと思う。でも詩織に優しくするのと同じくらい他の人にも優しくしようって真人のおかげで考えるようになってたから、躊躇せずに駆け寄って手を差し伸べることができた。保健室に付き添おうって思ったけどその人すごく泣きそうで足を痛そうにしてたから、肩を貸して思いつく限りの優しい言葉をかけて励まして保健室に連れて行った。消毒とかしてもらって保健室を出て、俺がランニングに戻ろうとしたとき……」

 再び伊織が間を取った。

「この先も聞きたい?」

「当たり前でしょ。こんなところで焦らさないで」

 伊織はまた照れているようで言い淀んでいる。でも私はこの先を聞くまで今いるドア付近の場所から離れるつもりがないので、もう伊織は言わないと部屋から出られない。

「誰にも言うなよ。反応するなよ。俺と話すときも話題にするなよ」

 念入りに口止めして私が了承すると、ようやく伊織は話してくれた。

「優しくしてくれてありがとう。部活頑張ってねって声をかけてくれたんだ。少しは優しい人間になれたんだって思えてすげえ嬉しかったし、家族とか友達とか部活仲間以外から応援されるのって初めてだったから、これもものすごく嬉しくて、つらい時期も乗り越えられた。あの声で色々救われたんだ」

 このとき美月は伊織のことを好きになった。

 そして伊織は美月に救われて、きっと……。

「詩織のことが少し心配だった。全然仲の良い友達がいなくてほとんど一人でいたから。小学校のときみたいに俺の友達の中に入れてやることなんてできなかったから学校でたまに話し相手になるくらいしかできなかったけど、中間テストが終わったら美月さんと詩織が仲良くしていて、安心したし嬉しかった」

 伊織がベッドから降りて立ち上がった。話はここで終わりという合図だろう。結局美月のこと好きなのかどうかはっきりとさせたい気持ちもあったけれど、この件に関しては反応しないと約束したので何も聞かなかった。

 話をしている最中の伊織の声色や話し終えた今の表情を見れば、その答えは容易に察することができた。きっと私が望む答えだ。

「そろそろ夕飯だし自分の部屋に戻って着替えとけよ」

「あ、うん」

 私も立ち上がって伊織の部屋を出ようとドアノブに手を伸ばしたところで唐突に尋ねられた。

「そういえば、学校で大悟さんと何か話してたよな? どんな話してたんだ?」

 ちょうど良い。私も気になっていたことだ。

「二学期に見たときより雰囲気変わったなって言われた。明るくなった気がするって。伊織もそう思う?」

 伊織は私の頭のてっぺんから足元まで目線を動かし、再び足元から私の顔まで目線を戻してから言った。

「そう言われてみればそんな気もするな。二学期まではあんまり笑わなかったし、楽しくなさそうだったけど、今はなんか楽しそうな感じはする」

「そう、かな。確かに二学期と比べれば楽しみなことはいっぱいあるかも」

 いじめの問題もこれ以上広がることはない状態になり心配事はない。バスケを見るのも楽しいと思えるようになったし、蘭々たちのような新しい友達もできた。

 来年のクラスも楽しみだし、何より美月と伊織がついにくっついてくれそうだし、私の恋も叶いそうなところまで来ている。

 真人君たちを応援して、たまに二人で遊びに行ったり四人で遊びに行ったりして、美月と励まし合って競い合って勉強も頑張って、楽しく過ごす未来が見えている。それはもう楽しくて仕方がないことが待っているはずだ。

 あんなことやこんなこともいつかきっと……。

「なんだよそのだらしない顔」

「おっと」

 しまった。美月みたいに妄想に更けてとんでもない顔をしてしまっていたかもしれない。

 急いで表情を元に戻して視線を伊織に戻すと、伊織は何かを言いたそうでつらそうな、悲しそうな顔をしていた。

「そっちこそ何、その顔。なんでそんなに悲しそうな顔してるの?」

「いや、別に……楽しそうで良いなって思って」

「伊織だって楽しみなことあるでしょ?」

 美月のこととか。

「ないわけじゃないけど……詩織、もう何回も聞いたかもだけどお前は真人のこと好きなんだよな?」

「うん」

 もう今更の質問だ。今更聞く意図はよく分からないけれど、否定したり誤魔化したりする意味はないので正直に答えた。

「素直で良いな」

「それがどうかしたの?」

「告る予定は?」

「……来週、バレンタインだからそこで。応援してね」

「応援しなくても結果は分かってる。お前らの気持ちは知ってるから」

「じゃあもっと嬉しそうにしてよ。大切な妹と自慢の親友が、その、お付き合いすることになるんだから」

「……大切な妹、ね。あんまり良い兄貴になれなくてごめんな」

「何言ってるの? ちゃんと優しくて良いお兄ちゃんだったよ。感謝してる」

 一階から私たちを呼ぶお母さんの声が聞こえた。美月の両親が帰り、夕飯の準備もできたようだ。

「俺は詩織のことを……いや、なんでもない。引き留めてごめん、早く着替えて降りて来いよ」

 伊織はドアを開けて部屋を出て行ってしまった。

 パタンと音を立ててドアが閉まると私は伊織の部屋に一人取り残される。

「電気点けっぱなし……」

 ドアの近くにある電灯のスイッチで部屋のライトを消そうとするとふと伊織の勉強机が目に入った。日夏さんに教育された成果なのか小中学生の頃よりもずいぶんと整理整頓がされた机の上には美月から貰ったクッキーが置いてある。

 帰り道では手に持っていなかったから鞄にしまっていたはずだが、私と話しながら荷物の整理をしているときには勉強机に近づく様子は一切なかった。

 つまりは伊織が家に帰ってから私が美月の両親に挨拶をして伊織の部屋に来るまでのわずかな時間に鞄からクッキーを取り出して机の上に置いたことになる。

 鞄の中に入れっぱなしで他の荷物とぶつかって崩れるのが嫌だった。ただそれだけのことだとしても、伊織が美月の気持ちを大事にしてくれているみたいで嬉しかった。

 悲しげに見えた伊織も真人君と同じように疲れていたのだろう。美月特製のはちみつレモン入りのクッキーを食べれば明日には元気になっているに違いない。

 翌朝、バスケ部は昨日までの疲れもあるだろうから朝練も含めて練習は休みということで珍しく伊織がまだ家にいた。家を出るところまでは一緒だったものの、もう私を守る必要はないと判断したのか自転車に乗って先に学校に行ってしまった。

 昨日の良い兄貴がどうたらとかいう話はなんだったのかと思ったが、美月と合流してすぐに私と一緒に行ってくれなかった理由は明らかになる。

「伊織君がね、昨日の夜にね、美味しかったよ、ありがとうってメッセージくれたの。また作って良い? って聞いたら楽しみにしてるって。もう私、すごく嬉しくて……」

 私と一緒に登校すると必然的に美月と合流するから、美月とのやり取りを私に見られるのが恥ずかしかったのだ。意外と初心な奴。

「……それで今度の土曜日はバスケ部休みだから一緒にエプロン買いに行くことになったんだ。詩織も桜君のこと誘ってみたら? 部活休みなら遊びに行けるんじゃない? 日曜と月曜は練習だって言ってたからここしかチャンスないよ」

「た、確かに」

 初詣のときにまた一緒に遊びに行く約束はしたものの真人君は部活で忙しかったし、そうでなくても遊びに行くような気分になれない出来事があったので一ヶ月以上約束は放置されたままだった。真人君が都合の良い日に誘って欲しいと言っていた気がするけれど私から誘っても別に良いだろう。

「お互い頑張ろうね」

「うん」

 色々なことを乗り越えた私たちの行く手を阻むものは何もない。そんな気持ちで前を向けている。天海さんや伊織に言われたことはあながち間違っていないと自覚できるくらいに、これからのことが楽しみで自然と笑顔になれている。

 いつもの通学路なのに足が軽やかで心が弾んでいる。今学校は重苦しい雰囲気に包まれていることなんて忘れてしまうくらいに、私の視界は希望で溢れている。

 
 この日も美月は一日中保健室で聞き取りをされていた。私は今日は呼び出されることはなく教室で自習と授業が半分ずつの一日を過ごした。

 真人君や伊織も話を聞かれているという情報はどこからともなく伝わってきて、さらに昨日の時点で加害者であることが確定している人は処分が決まるまで出席停止を命じられているらしいという噂まで私の耳に入ってきていた。

 放課後に真人君に土曜日の件の話をするとなんだか難しい顔をしながらも了承してくれて、どこに行きたいかを後日相談することになった。何か予定があったのではと尋ねるとそういうわけではないと言うのでそれ以上は追求しなかった。

 なんとなく浮かない表情をしていてまだ疲れが残っているのではないかと思ったのでしっかり休むように言うと、真人君は「ありがとう」と言いながらいつもの真人君のようで少しだけ違う憂いを帯びた微笑みを私にくれた。

 呼び出されたり呼び出されなかったりを繰り返して迎えた金曜日の放課後、私は白雪先生から保健室へ呼び出された。

 保健室に入ると奥のスペースに通され、聞き取りが終わっても教室に入ることができずに一日を保健室で過ごした美月と並んで椅子に座った。テーブルをはさんで美月の正面に白雪先生が座って私たちと向き合う形になった。

「悪いね、放課後にいきなり呼び出して」

 白雪先生はいつになく真剣な表情だ。それだけでこれから大事な話があるのだと分かる。

「学校というのは一つの方向に動き始まれば早いものでね。月曜から昨日までの聞き取り調査の結果を踏まえて昨日の職員会議で加害生徒への処分の内容が決まったんだ。本当は生徒に詳細を話すべきではないんだけど二人には私から説明して欲しいって校長直々に言われたから、業務命令ってことで説明するよ」

 隣に座る美月が息を飲み、膝の上で拳を握るのが見えた。私もつられて手に力が入る。

「加害生徒は全員無期限の停学」

 その一言で私も美月も握っていた拳を緩める。美月の優しさは先生たちに届いたようだ。

「まあ無期限と言ってもおそらく終業式後に解除されて四月からは普通に登校するようになると思うけど、学年末テストは受けられないから留年の可能性が出る子もいるかも。三年生に加害者はいなかったみたいだけど卒業式にも出られないし、停学期間中は外出を最低限にして他の生徒と会うことがないように指導されるから、お世話になった先輩にお別れを言うこともできない。停学中に違反を犯すと即退学になる」

 白雪先生は停学による影響を淡々と説明すると、大きく息を吐きながらいつもの緩い表情に戻って椅子の背もたれに寄りかかった。優しい目で美月を見ている。

「処分の対象者は一、二年生の女子生徒三十二人。SNSに二人の悪口を書いた生徒も誰に向けたものか明らかな場合は処分対象。あなたたちのお友達の秋野心愛だっけ? あの子が特定した裏垢は学校で依頼した業者とほぼ一致していて業者よりも情報が早かったから処分の早期決定にものすごく貢献してくれたよ」

 白雪先生は背中を背もたれから離して少し前のめりになり、テーブルの上の美月の目の前に右手を置いた。その動きにつられて美月は左手を差し出すと、白雪先生は右手を美月の左手の上にそっと重ねる。

 よく見ると美月の手は少し震えていた。自分の提言で処分が変わったことで色々な感情が交錯しているのだろう。

「会議は揉めたよ。原則通り退学にすべきだという人もいたし、被害者自身が望んでいないなら退学にすべきでないっていう人もいたし、そもそも処分対象の三十二人にはこそこそ陰口を言っていただけの連中は入っていないからそれに不満を持っている人もいた。まあ学校としてはそんなに大量に退学者を出したくなかったのもあって長い話し合いの結果、美月に甘えることに決まったんだ。今まで無期限停学って実際は二週間くらいで解除されてたんだけど、今回は最低でも終業式までって決まったのは退学にすべきっていう意見との無理やり作った妥協点ってところだね」

 白雪先生は両手で美月の左手を包み込むように握った。私もテーブルの下で美月の右手を自分の両手で握った。美月の手は私の手より少しだけちっちゃくて、柔らかい。

 美月を見つめる白雪先生の眼差しが再び真剣なものになる。

「この判断が正しかったかどうかはまだ分からない。美月がもう二度と同じような思いをせずに学校生活を送ることができて、笑顔で卒業してくれたとき初めて正しかったと言えるんだ。だから私たちはそれを全力でサポートするから、なんでも相談して」

「はい」

「詩織もだよ。何自分は美月を支えるだけの存在ですみたいな顔してんの?美月のことになると自分も被害者だってこと忘れてるでしょ。メンタル強いのは良いことだけど、伊織とか真人とか心配してくれる人にはちゃんと甘えるんだよ」 

 それはもう仕方のないことだ。私の方は美月や皆の支えのおかげで割と早い段階で乗り越えてしまったし、美月が嬉しそうに、楽しそうにしているのを見れば私のメンタルは回復するし、現状は順風満帆と言える状況なので特に相談したいこともない。

 真面目な話を終えた私たちは間近に迫ったバレンタインデーの計画について話し合い、白雪先生の成功談と失敗談からのアドバイスをもらって保健室をあとにした。
 翌日は伊織と一緒に家を出た。私と真人君は駅周辺に、美月と伊織は駅とは反対側の郊外にある商業施設が集まったエリアに行くことになっていて、お母さんには本当のことを言っているがお父さんには伊織と二人で出掛かけてくると言っている。

 真人君を紹介するのは正式にお付き合いすることになってからと思っているのもあるし、今日はお休みのお父さんはこっそりついて来かねないからだ。

 一度美月の家に行って美月と合流するため庭の駐輪スペースで自転車の準備をしている伊織にどうしても言っておきたいことがあったので声をかけた。

「ねえ伊織、良いこと教えてあげる」

「何?」

「美月の好きな色はね……」

「パステルカラー全般、だろ?」

「え?」

 なんで伊織がそんなことを知っているんだ。結構前に電話で色々話したことがあったのは知っているけれどそのときは好きな色なんて話していなかったはずだ。二人が進展するのは嬉しいが私の知らないところで勝手に進まれるのはなんだか寂しい。

「なんだよその顔。俺が美月さんの好きな色を知ってるくらいでそんな悲しそうな顔すんなよ」

「む、むう。じゃあ好きな食べ物は?」

「チョコレート」

「す、好きな音楽は?」

「クラシック。テレビでオーケストラの映像を見たのがきっかけで、本当はヴァイオリンを習ってみたかったけどそこまでのお金はないから中学では吹奏楽部に入って同じ弦楽器のコントラバスをやってたんだってな」

「な……」

 そんなエピソードまで含めて知っているなんてもう私と同等レベルに仲良しじゃないか。

「嫌いな食べ物は牡蠣。小学三年生の頃あたっちゃって大変なことになったのがトラウマでそれ以来見るのも嫌になったらしい」

「何それ、私そんなの知らない」

 伊織が「フッ」と私のことを鼻で笑いながらスタンドを立てた状態の自転車のサドルにまたがった。 

 まさか美月のことで伊織にマウントを取られるなんて思ってもいなかったのでショックは大きい。

 でも、これから伊織は私が知っている美月のことなんてすぐに知って、私が知らない美月のこともたくさん知っていくのだろうと思うと感慨深くなり、とっておきの美月の情報でマウントを取り返そうという気持ちは一瞬で消え去った。

「でもなんでそんなこと知ってるの? いつの間に……」

「風美が教えてくれたんだ」

「風美って美月の弟の風美君? 小学生の? いつの間に連絡取り合うような関係になったの?」

「お前が美月さんの家に泊まったときだよ。玄関でお前らと別れた後、庭のプレハブ小屋を覗いてみたら一人で卓球の練習をしてる風美を見つけて少し話をしたんだ。あいつ四月から親元離れて遠くの学校で寮暮らししながら卓球に打ち込むんだって、すごいよな」

「そのとき連絡先交換したんだ……」

「ああ。あいつも美月さんのことすげー心配してて、姉ちゃんをお願いしますって頼まれちまったのもあって加害者捕まえるのを頑張った」

 それもあるけどそれだけじゃないと思う。私は風美君と会ったのは一度だけだが、あの賢くて察しの良さそうな雰囲気を見るに美月の気持ちには当然気づいていていじめの解決のその先のことも言っているに違いない。だから伊織に美月のことを色々教えてサポートしているのだ。

「歳も競技も違うけどあいつはマジで尊敬する。あの歳で練習に妥協がなくてさ、納得がいくまでひたすらサーブを打ち続けて、一段落したときちょっとだけ相手させてもらったんだけど空振りばっかりだったし、たまにラケットに当たってもまともに返せなかった。卓球素人の俺相手に容赦なく本気のサーブを打ってくるし、真剣なのに楽しそうだし、俺が帰るときにはめちゃくちゃ丁寧にお礼を言ってくるしなんか真人みたいだった。ああいう奴が大きい舞台に行けるんだろうなって思ったよ……卓球クラブの練習午後からだって言ってたから一声かけていこうかな」

「ちょっと、今日の目的は美月でしょ」

 伊織のスポーツマンの血が騒いだのか風美君との思い出を語る伊織はとても早口で楽しそうだ。美月より風美君に興味を持っていかれるのはまずい。

 でもその心配はいらなかったようで、伊織は私の文句に優しく微笑む。

「風美が言ってたんだ。うちは生活に困ってはいないけどそんなに裕福じゃなくて、一番上のお姉さんが医学部受験のために塾に通っていたこととか、自分が卓球クラブで本格的に卓球に取り組めているのは美月姉ちゃんが自分のことを色々我慢してくれたからだって。自分がヴァイオリンを習いたいのも我慢して、中学のときに塾に通うのも我慢して、高校でも吹奏楽を続けるのも我慢して、誕生日やクリスマスには必ず卓球で使う消耗品をプレゼントしてくれるし、お姉さんの受験期には毎日のように夜食を作ってあげてたんだってよ。そのおかげでお姉さんはお金のあまりかからない県立の医大に入れたから、自分は必ず卓球で世界に通用する実力を身につけて国際大会で活躍して、スポンサーとかいっぱいつくような選手になってCMとかテレビとかにも呼ばれるようになって、実力も人気もあってお金を稼げるような選手になって恩返ししたいんだってさ。ほんとにすごいよな」

 小学六年生にしてそこまで言える風美君もすごいけれど、そこまで言わせる美月もやっぱりすごい。家族に対しても優しい子であることはお母さんから聞いていたが具体的なエピソードを聞くとその解像度が上がる。

「それを聞いたらもっと美月のこと好きになったって、美月に伝えておいてよ」

「それは無理だ。風美から美月さんには内緒にしてくれって言われてるから」

「残念」

「そろそろ行くか」

 伊織はサドルにまたがったままの状態で器用にスタンドを上げて地面を蹴りながらゆっくりと移動を始めた。

 門扉を出たところで真人君が待っている。変なTシャツは着ていないようなので安心だ。

「初詣のときと同じ格好をして来いって言って正解だったな」

 かくいう私も初詣のときとほとんど変わらない格好をしている。違いは髪の編み込みと薄い化粧をしていないくらいで、せっかく買ったゆるふわコーデは私の一張羅となっているので冬の間は何度も着るつもりでいる。

 春になったらどうしようかと悩み中だ。

 伊織は私に聞こえないように真人君と内緒話をすると、美月の家に向けて自転車を漕ぎ出した。

 真人君は私たちの家の駐輪スペースに乗ってきた自転車を置いて私と一緒に近くのバス停に向けて歩き出す。二人とも同じ銀色の車体の自転車なので遠目で見たら違う自転車に見えないしお父さんに不審がられることはないだろう。

 今週は何かとイレギュラーなことが多く、真人君としっかりと話すのは月曜日以来だったけれどそのときの疲れた感じや悲しそうな表情は見られない。いつもの優しくてカッコ良くて笑顔が可愛い真人君がいた。

 くだらない会話をしたり、些細な気遣いをしてもらったり、そんなことで幸せを感じられる。


 バスを降りて向かったのは駅前の映画館。見るのは恋愛小説を原作とする実写映画で、原作を持っている美月が映画を見に行くならこれが良いと大プッシュしていたものだ。

 恋愛物の映画を男女二人で見に行くなんてまるでカップルみたいで照れくさいと思ったけれど、初詣のときに美月からもらった教えは私の中に残っていて堂々とすることを心掛けた。だってもうすぐ本当になるのだから、これはそのときの予行演習だ。

 二人分のジュースと二人で大きめのサイズのポップコーンを一つ買ってシアターに入ると映画のジャンルからしてやはりと言うべきか男女のカップルが多い。入ってくる人たちは手を繋いだり腕を組んだりしていて、座っている人たちは肩を寄せ合っている。

 周りに人はいるけれど二人だけの時間や空間というか二人だけの世界が出来上がっていて、私はまだその境地には至っておらず、まだまだなのだと思い知らされる。堂々とするつもりでいたけれどカップルの先輩たちを前に縮こまざるを得ない。

「これが本物……」

「詩織さん、どうかした?」

「ううん、座ろっか」

 座席につきしばらくすると映画の上映が始まる。こうやって映画館で映画を見るのは小学三年生か四年生ぶりのことだ。

 お父さんと伊織との三人でよくアニメの映画を見て、映画が終わったらお母さんが働いている百貨店でお母さんの仕事が終わるまで遊んで、近くの喫茶店で夕食を食べて帰ってくるというのが月に一度の楽しみだった。

 私と伊織はオムライスとパンケーキが大好きで、大きくて食べきれないパンケーキを二人で半分こにして食べていたのが懐かしい。

 その思い出の中で映画のときに私の隣の席にはお父さんがいたけれど、今は隣に真人君がいる。

 真剣に本編開始前の映像を見つめる真人君の横顔を私は見つめていた。

 映画の本編が始まった。幼馴染の高校生の男女がくだらないことで口喧嘩しながらも様々なイベントを経て仲を深め、幼馴染から恋人へと関係が変化していく前半パートは、見ていて恥ずかしくなるくらい甘酸っぱいシーンや笑えるコメディシーンもあってまさに青春そのもの。

 後半パートでは卒業に向かう風景が描かれていて、夢のために遠い地へ行くことを選んだ男の子と地元の大学に通うことに決まった女の子、二人がこれからの話をするシーンはまるで二年後の私と真人君を見ているようだった。

 隣り合って座って間に置いたそれをたまに同じタイミングで取ろうとして手が触れ合ったりするからポップコーンはマストだよ、と美月に言われて買ったポップコーンをほとんど食べる暇もないほどに私も真人君も映画に見入っていた。

 ラストシーンは男の子が旅立つ日の空港での見送り。

 必ず迎えに来るという男の子と必ず追いかけるという女の子が互いに譲らず冒頭にあったようなくだらない口喧嘩をしながらも徐々に距離を詰めていって、いつの間にか二人の言葉はいつか必ず再会するという約束に変わって、初めてのキスをしたところで物語は幕を閉じる。

 エンドロールまでしっかり見終えた私たちはシアターから出た直後に立ち尽くした。映画の感動や切なさが心に深く刻み込まれていて、没入感が消えずにいる。

「とりあえずどこかに座ろうか」

「うん、あ、あそこにベンチがある」

「これも片付けないとね」

 館内に設置されたベンチに座って大量に余ったポップコーンをつまみながら二人で映画の感想を語り合った。

 まるで自分のことのように男の子の気持ちを想像して語る真人君を見ると、やはりアメリカの大学に行こうと考えているのだと思う。そう思えるくらいに真人君の表情は真剣で深刻で何かを訴えかけるような目をしていて、「高校を卒業したらアメリカに行くの?」なんてことを聞く勇気は私にはまだなかった。
 しばらく話し込み、映画の話題が尽きかけたのにもかかわらずポップコーンの底が見えずどうしたものかと困っていたとき、少し離れた所から小学校低学年くらいの女の子と幼稚園児くらいの男の子が私たちの方を見ていることに気がついた。

 チケット売り場の列から離れた所にいるお母さんと思われる女性の右手と左手をそれぞれ握っていて、その視線は今は私が持っているポップコーンのカップに向けられている。

 食べたいのかな、むしろ余ってしまうから食べて欲しいと思いながら可愛い二人を見ているとその三人にチケットを買い終えた男性が声をかけるのが見えた。

「あ、藤田先生」

 もしゃもしゃとポップコーンを食べていた真人君が呟いた。

 あれが授業の余った時間で話していた奥さんと七歳と三歳のお子さんだ。奥さんは美人だしお子さんも二人とも可愛い。その可愛い二人のうち男の子の方が私が持つポップコーンを指差すと藤田先生と奥さんも私たちの方へ視線を向ける。

 私はとっさにポップコーンの入ったカップで顔を隠した。大きいサイズを買っておいて良かった。

「……詩織さん?」

「……なんか恥ずかしくて」

 悪いことをしているわけではないけれど、学校と関係ない場所で先生に会うのはなんだか気恥ずかしくてなるべく避けたい。

 そんな私の思いもむなしく藤田先生は二人のお子さんの手を両手に握って私たちの方に近づいてきた。奥さんの姿はいつの間にか見えなくなっている。

「こんにちは」

 真人君が立ち上がって挨拶をするともう逃げ場はないので私も立ち上がって会釈をする。

「ああ、こんにちは。二人で来たのかい?」

「はい。藤田先生はご家族で……あれ?奥さんは」

「この近くの美容室を予約していてね。もう向かったよ。待っている間に子供たちに映画を見せておくんだ……」

 先生と真人君が話をしている間に私は二人のお子さんの相手をすることにした。弟君の方は私が持つポップコーンに夢中で食べたそうにじっと見つめたり手を伸ばそうとしているがお姉ちゃんがそれを咎めている。

 でもお姉ちゃんの方も本当は食べたいと思っているのは表情から読み取れてとても可愛らしい。

 食べさせてあげたいけれど勝手に食べさせるわけにもいかないと思い、さりげなくポップコーンの入ったカップを見えづらいように隠して二人に目線を合わせて二人に話しかける。

「お名前はなんていうの?」

春喜(はるき)

「……(しおり)です」

「栞ちゃんっていうの? 私も詩織っていうの」

「そうなの? お揃いだ……」

 笑顔で栞ちゃんに話しかけると欲望と理性が争って難しい表情をしていた栞ちゃんも笑顔になってくれた。

「藤田先生、食べさせてあげても良いですか? 私たち食べきれなくて」

 私が隠しきれていないポップコーンをずっと見つめている春喜君に耐えきれなくなって藤田先生に尋ねると春喜君はもちろん栞ちゃんも輝いた目で先生を見つめる。小さい子供の純粋な目ってなんでこんなにも可愛いのだろうと思う。

「ああ、いいのかい?」

「はい、ほら二人ともおいで」

 ベンチに座り直して両隣に栞ちゃんと春喜君を座らせる。二人とも嬉しそうに私の手元にあるポップコーンを食べ始め、その楽しそうな光景に私も幸せな気分になる。私も真人君も加わってしばらく四人でポップコーンを食べ続けた。

 藤田先生の話相手を真人君に任せ、私は春喜君や栞ちゃんの可愛い姿に癒される至高の時間だった。

「パパ! 早く行こう!」

 ポップコーンの処理が終わると春喜君はベンチから飛び出してシアターへ向けて走り出す。

「あ、こら」

 私があっと思った瞬間には藤田先生が素早く動いて春喜君を抱きかかえた。真人君もさすがの反応の速さで動き出そうとしていたがお父さんには敵わなかったようだ。

「急に走り出したら危ないだろう?」

「うん、ごめんなさい」

 優しく𠮟る藤田先生と素直に謝る春喜君。いつもの姿とは違ってお父さんをしている先生は私も真人君も笑顔になってしまう微笑ましさがある。

「元気があるのは良いんだけど好奇心旺盛すぎて、手を握っていないとすぐにどこかに行ってしまうんだよ」

 春喜君と手を繋いで照れくさそうにしながらこちらに戻ってくる先生が空いた手で栞ちゃんを手招きする。

「それじゃあそろそろ映画が始まるから。ポップコーンありがとな」

 春喜君と栞ちゃんは先生と繋いでいない方の手を私に手を振ってくれる。私も自然と笑顔になって手を振り返すと、その姿を真人君に見つめられていることに気がつく。

「詩織さんって子供好きなの?」

「え? そうかな……そうかも。中学生のときに職業体験の授業で幼稚園に行ったときすごく楽しかったし。目がキラキラしてて可愛い。真人君は?」

「嫌いじゃないけど、可愛いっていうより心配な目で見ちゃうかな。ほら、さっきの春喜君みたいに小さい子って突然思いもよらない行動したりするでしょ?」

 それはそれで良いお父さんになりそうなんて考えてみたりして。

 でも確かにその通りで、小さい子は安全な室内ならまだしも屋外や人の多いところではずっと手を握っておかないと危ない。

 お互いの幼稚園の頃の思い出を語り合いながら映画館を出ると時刻は午前十一時半、お昼ご飯にしても良いし少し早い気もする時間だが相談の結果近くの書店に行くことにした。二人とも映画の原作を読みたいという意見で一致した結果だ。

 駅前の書店は私のお母さんが働いている百貨店の中にある。一フロアすべてが店舗となっているこの町最大規模の書店にはありとあらゆるジャンルの本が揃っており、映画の原作を手に入れた私たちは参考書コーナーへ足を踏み入れる。

 国数英の参考書はすでに持っているけれど理科や社会はまだ持っていない。文系の私は理科はともかく社会、特に歴史はもう少し力を入れておきたい。

 そう思って日本史の参考書を物色していると視界の端で真人君がとても真剣そうな表情で英語の参考書コーナーの前に立っているのが見えた。その手にはリスニングの問題集が握られている。

 映画の原作に加えて私は日本史の参考書と問題集を、真人君は英語のリスニングの問題集と日常英会話の教材を購入して書店を出た。将来はアメリカに行くことを見据えての物だと簡単に想像できる。

「真人君は将来アメリカに行くんだよね?」

 百貨店を出たところで私が尋ねると真人君はビクッと体を震わせて、寂しげな表情で私を見る。

「……うん、夢だからね」

「寂しくなるね」

「……今日は寂しい話はやめておこうよ。楽しいお出かけだからさ」

「そうだね、ごめん。そうしよっか」

 それもそうだ。まだ二年も先の話で今から寂しがることはない。先ほどの映画のように離れ離れになってもきちんと再会の約束をできるような関係になれば良い。

 私が真人君以外の人を好きになることなんてありえないし、真人君にも私以外の人を考えられないくらいに好きになってもらえるよう残りの二年間で頑張ればその約束もできるはずだ。

「そろそろお昼にしよう。俺、行きたいお店があるんだ。きっと詩織さんも気に入ってくれると思う」

 迷いなく歩みを進める真人君の隣を歩くと、お父さんと伊織の後ろをお母さんと並んで歩いた思い出が蘇る。

 百貨店を出て夕食のためにお気に入りの喫茶店に向かう道中は心もお腹もワクワクしていて、新しい建物ができたり、建物は同じでも入っているお店が変わったりと変化する街並みを見るのも好きだった。

 その頃とはほとんど変わってしまって、ほんの少しだけ面影が残る同じ道を歩くといつの間にか時が経ってしまったのだと実感する。

 足を止めた真人君に合わせて私も足を止める。私たちの目の前にはあの頃とは変わらない外観のお気に入りの喫茶店。

 土曜日のお昼時ということもあり店内にはお客さんが溢れていたが偶然にも私たちが座れるだけの席が空いていたようだ。

 まさかここに来ることになるとは思ってもおらず、驚きと感動で店内で足を止めてしまった私を真人君は席まで優しくエスコートしてくれた。

「ここは……」

「伊織に聞いていたんだ。駅前に行くならお昼はここにすると詩織さんが喜ぶって」

「そうなんだ。伊織が……うん、嬉しい」

 私の大切な思い出を伊織も大切に思っていてくれたであろうことも、真人君が私が喜ぶプランを考えてくれたこともたまらなく嬉しい。家族との思い出を真人君とも共有できているみたいだ。

「注文しようか。何にする?」

「私はやっぱりオムライスかな……」

「俺もそうしようかな。パンケーキも頼む? メニューの写真だとそんなに大きくは見えないけど、二人で半分にする?」

「うん。私ひとりじゃ食べきれないと思うからその方が良いかな」 

 しばらくして運ばれてくるオムライスはあの頃と変わらず、ケチャップたっぷりのチキンライスの上に半熟トロトロの卵が乗せられていて懐かしくて美味しい。見た目も匂いも味もあの頃のままだ。

「こういう卵のオムライスって初めてだ」

「私もこのお店以外では食べたことないかも。お母さんにうちでも作ってよって伊織と一緒におねだりしたこともあったけど無理って言われちゃって。それでも食べたいってわがまま言って泣いちゃって、お母さんたちのこと困らせて結局このお店に連れてきてもらったこともあったなぁ」

「そうなんだ。詩織さんと伊織が……あんまり想像できないな。俺が知らない昔の頃は結構わがまま言ったりしてたんだ」

「そうだね。今みたいに落ち着いたのは五年生になった頃からだからちょうど真人君は知らない頃だね。その前は伊織と一緒になって結構やんちゃしてたかも」

「へえ、見てみたいなその頃の詩織さんも。写真とかあったりする?」

「だ、駄目。恥ずかしすぎるから絶対駄目」

「それは残念」

「……あとで伊織にお願いして見せてもらおうとか思ってるでしょ?」

「そんなことは……ちょっとはあるけど」

「駄目、絶対」

「……分かったよ」

 分かったよと言いながら怪しく微笑む真人君を見て、私は初めて真人君を信用できないと思った。あとで伊織にはきつく言っておかないといけない。

 やがて運ばれてくる大きなパンケーキは私が子供の頃よりも少しだけ小さく見える。私が成長しただけか時の流れのせいで色々変わってしまったのか。

 でもそんなことがどうでも良いと思えるくらいに真人君とくだらない話をしながらパンケーキを分け合っている今が幸せだ。今こうして幸せを享受できているのは支えてくれた皆のおかげであり、折れなかった私自身のおかげでもある。

 寂しい話はなしにしようと決めたのに、二年後までにもっと深い関係になると決めたのに、それでもやっぱり思ってしまう。

「ずっとこうしていられたらいいのに」

「……そうだね」

 つい漏れ出てしまった呟きは真人君の耳にも入ってしまったようだ。高校生の私たちにとって進路選択による別れは必ずあるものでどうしようもない。

 それでもこんな風に思ってしまうのは今が楽しいからに他ならず、私は生まれて初めて時が経つことが恨めしいと思った。

 昼食後は二人とも初めてというゲームセンターで遊んでみたり、スポーツ用品店に入って真人君が変なTシャツを買う様を見届けたり、帰りのバスの時間まで公園を散歩してみたり、まるで本当のカップルのデートのような時間を過ごした。
 帰りのバスの中、こんなに遊んだのは小学生以来ですっかり疲れ切ってしまった私は眠気を覚えていた。

 うとうととしながらこのまま隣に座る真人君の肩に頭を預けて寝てしまおうかとも考えたが、「せっかく二人きりでお出かけなんだからいっぱいお話ししないと」と心の中の美月が言うのでなんとか話題をひねり出して会話を続けることにした。

 しかし真人君の方も眠気を覚えているようで返事が「うん……」とか「あぁ……」とかさらに眠気を催すものばかりで、いつしか私の意識は心地よい闇の中へと沈んでいった。

 気がつくと私は空港にいた。私のそばには伊織と美月がいる。美月が私の背中を押して一歩踏み出すと目の前に真人君が現れる。何かを話しているようだけれど聞き取れない。その言葉を聞き取るため、私に伝えるため私たちの距離は近づく。一歩ずつ、一歩ずつ近づいてもなかなかその言葉は聞き取れない。もっと近づいて映画のようについにはキスをしてしまうのではと期待できる距離まで近づいたところで真人君は急に背中を向けて走り去ってしまう。振り返ると伊織もいなくなっていて、美月と私だけがその世界に取り残された。

 その世界を突如として大きな揺れが襲う。地震かと思って外へ逃げ出そうとすると次の瞬間には私はバスの中にいた。

「あれ……? 夢?」

 どうやら揺れは地震ではなくバスが停車したときの揺れだったようで慌てて停留所の名前を確認すると降りる予定だった場所よりも四つも過ぎてしまっている。

「やばい! 真人君、起きて! 降りなきゃ」

「……ああ詩織さん。ごめん、俺がちゃんと言っておけば……え? あ、うわ、やば」

 二人で待たせてしまっている運転手さんに謝りながらバスを降りると、そこは私の家と真人君の家のちょうど真ん中くらいの場所だった。一度真人君の家から歩いて帰っているし、そこまで致命的な寝過ごしではなくて助かった。

「ごめん、寝ちゃってた」

「ううん、私もだし」

 真人君と歩く距離が長くなって嬉しい、と言うのは照れくさくて言えなかった。

「あ、伊織に連絡しないと」

 お父さん向けには伊織と一緒に出掛けていることになっているので帰るタイミングは合わせないといけない。美月と伊織は美月のエプロンを買ってお昼ご飯を食べた後、美月の中学の頃の友人が通う高校の吹奏楽部の演奏会を見に行くことになっており、その後の伊織は私がバス停に着いて連絡をするまで美月の家で待っていることになっている。

 伊織に電話をかけると色々な声も聞こえてきて伊織の声が聞き取りづらい。どこか騒がしいところにでもいるようだ。私の声も大きくなってしまって隣に真人君がいるのに恥ずかしい。

「もしもし伊織? なんか騒がしいけど、どこにいるの?」

「美月さんの家だけど。ちょっとうるさかったか? 今美月さんと風美とお姉さんと俺の四人でゲームして盛り上がってたんだ。どうした? バス停についたのか?」

「……二人で寝過ごしちゃって。降りる予定のところ過ぎちゃった。これから歩いて行くからちょっと遅くなりそう」

「あ、そう。真人も一緒なんだろ?」

「うん」

「じゃあいいや。家に着く五分前になったらまた連絡くれ。じゃあな」

「え、ちょっと……切れちゃった」

 最近の伊織ならどこにいるんだとか、あとどれくらいで家に着きそうなんだとか聞いてきそうなものなのに、簡潔に用件だけ言って電話を切ってしまった。そんなに萩原姉弟とのゲーム大会が楽しいのだろうか。

「伊織、なんだって?」

「美月の家でお姉さんと弟君と一緒にゲームで盛り上がってるみたい」

「姉弟とも仲が良いなんて良いことじゃない」

「そうなんだけど、なんか私のことが軽んじられているみたいで、こう、釈然としないというか。関係が進むのは嬉しいんだけどね」

「複雑なんだね、兄妹っていうのも。俺一人っ子だから勉強になるよ」

「一人っ子だと寂しいときとかない?」

「んーどうだろう。俺の場合、小さいときから時間があるときはバスケの練習していたから寂しいって思ったことはないかな。でも詩織さんと伊織を見てると兄弟がいる人をちょっと羨ましく思うことはあるかな」

「えー? 私たちを見て? どういうところが羨ましい?」

「一番は家でも気軽に話せる相手がいるっていうところかな。それに詩織さんたちみたいな双子もだけど、兄弟って生まれつきの関係でしょ? きっと死ぬまで関係が続くんだろうなって思うと、俺はいつか両親が死んじゃったら一人になっちゃうからさ」

「それはそうだけど」

 結婚すれば一人じゃないよなんて恥ずかしくて言えない。

「バスケの練習相手になれただろうし、弟か妹だったら色々教えてあげることもできたのかなって思うんだ」

「教えるのも好きなの?」

「うん。将来はプロになりたいけど、引退した後とかプロになれなかったときは指導者を目指そうかなって思ってるんだ」

「真人君、教えるのも上手だったしそっちも向いてると思う。プロ選手としてもだけど何十年後かに監督とかコーチになったときも応援するからね」

「何十年か……それくらい現役でいられるように頑張るよ」

「その前にまた私にも教えてくれると嬉しいな。一年生の間はもうバスケの授業ないみたいなんだけど二年生になったらまたあるし、夏休み開けたら体育祭もあるから」

「……う、うんそうだね。部活がない日ならいつでも大丈夫だよ」

 こうして二年生になったときの楽しみがまた増える。

 その後も他愛もない話を続けながら歩いた道のりは、寝過ごしてよかったと思うくらいに楽しいもので、伊織に連絡するのを忘れてしまっていた。私はもう、真人君のそばにいるだけで幸せを感じられる。

 連絡が遅れても特に怒ることもなく、むしろもう少し遅くなっても良かったぞみたいな顔をした伊織と入れ替わるように真人君と別れ、伊織と一緒に家に入った。

 笑顔で出迎えるお父さんを見るのは少し心苦しくはあったけれど、もうすぐちゃんと話すからと心の中で謝りながら伊織の部屋に向かい、お互いに今日のお出掛けの報告をしあった。

 今日あったことを楽し気に語る伊織を見るだけで美月の幸せそうな笑顔が想像できて、色々な意味で今日という日は大切な思い出となった。
 二月十四日、祝日である前々日の月曜日に美月と一緒に作ったチョコレートを出発前の伊織に渡してあげるところから一日は始まった。

「ああ、サンキュー。でも珍しいな、詩織がこんなに早起きするなんて」

 朝練でいつも早く家を出る伊織に合わせて私も今日は早起きをしていた。

「学校だと色々忙しいし」

 真人君はもちろんのこと、美月にもせっかくだから今日渡すつもりだし、蘭々や秋野さんたちの分も用意しているので本当に忙しい。

 何より伊織には美月との時間を確保してもらわなければならないので学校で伊織に構っている時間はない。家に帰ってきた後では色々あった後の余韻に浸りたいだろうと考えると今しかタイミングはない。

 私が作った中で三番目に出来が良かったチョコレートを受け取った伊織は玄関で靴を履いた後、私の顔を神妙な面持ちで見つめた。

「詩織、お前の考えを聞かせてもらいたいことがあるんだけど」

「何? 突然、真面目な顔をして」

「例えばの話だけどさ、地震とか台風とかの自然災害とか戦争とか、自分は一切悪くないのに苦しんだり悲しんでいたりする人がいるだろ?」

 本当に突然どうしたのだろう。

「そういう人たちがいるって分かっていながら、安全なところにいる人間が楽しんだり幸せになったりすることをどう思う?」

「何、その哲学というか道徳みたいな質問……」

「まあいいから、どう思う?」

「別に良いんじゃないかなって思うけど。世界中のどこにも苦しんでいる人がいない瞬間なんてないと思うし、駄目だって言ったら幸せになって良いタイミングなんてなくなっちゃうよ」

「そっか……」

「でも苦しんだり悲しんだりしている人にも届くように、自分が幸せなことアピールするのは趣味が悪いと思うかな」

「そっか……そうだよな」

「いったいどうしたの? 今までこんなこと聞いたことなかったのに……」

「いや、なんとなく聞いただけ。俺も同じ考えだよ。じゃあ俺は行くから気をつけて来いよ。行ってきます」

「うん、行ってらっしゃい」 

 変な奴、とは少し思ったけれど今日これから待っていることを考えれば無理もない。渡す側の私でもワクワクしているのに渡される側の伊織はきっととてつもなくドキドキワクワクしていないわけがなく、変なことを口走っても仕方がない。

 しばらくして、私から手作りチョコを渡されて泣いて喜ぶお父さんをうっとうしく思いながらもこんなに喜んでくれて嬉しくも思いつつ家を出た。

 途中で合流した美月は気合十分という表情をしており、側面に大きな三日月をあしらったパステルイエローのトートバッグを持っている。中には当然お世話になった人にあげるためのチョコレートと伊織への本命チョコが入っている。

「このバッグは土曜日に伊織君がプレゼントしてくれたの。私に似合いそうだからって」

 バッグと同じ色のエプロンを二人で選んで美月が買ったことは知っていたし、月曜日に美月の家でチョコを作ったときに実物を見ている。それ以外にも伊織から進んでプレゼントしていたなんて伊織の奴、美月のことが好きすぎる。

「美月」

「うん?」

「これからも末永くよろしくね」

「うん、こちらこそ……えへへ」

 今日はきっと今までの人生の中で最も幸せな一日になる。

 そんな幸せな予感がする日であっても美月が学校に着いてから向かう行き先は保健室だ。昨日、加害者が停学となったため試しに一年二組の教室に入ってみたものの、美月は吐き気や眩暈といった拒否反応を起こしてしまった。

 あの空間や空気自体が美月にとっては無理なものなのだろう。教室が変わる数学や音楽、体育の授業だけは頑張ると美月は言ったがそれ以外はずっと保健室のパーテーションで区切られた奥のスペースで過ごすことになった。

 朝は蘭々たち四人と友チョコ交換会の後に朝のホームルームが始まるギリギリの時間までチョコパーティをしようとしていたら白雪先生に早く教室に行けと叱られたので、蘭々が先生にもチョコをあげると、先生も巻き込んでチョコパーティが始まってしまい、結局教室に入ったのはホームルーム開始の三十秒前だった。

 そんな余裕がない状況でも男子がなんだかそわそわしていたり、色めき立つ女子がいたりという校舎全体の雰囲気は感じ取ることができた。

 一時間目の授業が終わると私は一年三組の教室に向かう。

 美月は伊織と昼休みに会う約束をしているようだが「昼休みの前に他の子と付き合うなんてことにならないよね」と心配していたので、万が一にもそんな事態にならないように監視するためだ。事と次第によっては邪魔に入らなければならない。

 四組の側の廊下では真人君が女子に囲まれていた。

 真人君とは放課後、しかもバスケ部の練習が終わった後に校舎の端っこにある離れ桜の下で会う約束をしている。部活の前ではなく後にしたのはそのまま途中まで一緒に帰りたかったから。

 その場で食べてもらって感想も聞きたいし、もしかしたら家まで送ってくれるかもしれないし、あわよくばそのままお父さんとお母さんに紹介してしまうところまで計画している。

 さっさと両親に紹介して逃げ道を塞ぐ。いつの間にか私も弟子にされていたのでせっかくだからと美里師匠こと白雪先生に教えてもらった男の子を逃がさないテクニックだ。

 真人君は本命チョコは受け取らないと言っていたから今取り囲んでいる子たちは皆泣くことになる。罪な男だ、なんて思いながら三組の教室を後ろの出入り口から顔だけ出しながら覗いて伊織を探すと、教室の後方の窓際で二人の女子生徒と二対一で楽しそうに会話をする姿を見つけた。

 そして今まさに一人の女子生徒から伊織に可愛くラッピングされた小さな袋が手渡されようとしている。

 教室の中とはいえ、皆自分たちのことに集中していて伊織たちの方を見ていない。そんな中で友達に付き添ってもらいながらチョコを渡して告白するつもりだ。

 まずい。二対一だと逃げ場がなくてなし崩し的にOKしてしまうかもしれない。出入り口から顔だけ出すために壁を掴んでいる私の手にも力が入る。

 今、伊織が袋を受け取った。私にはほとんど見せたことがないような優しい表情で、おそらくお礼を言っている。その後も楽しそうに会話を続けているのを見ているとなんだかムカついてくる。

 美月というものがありながらあんなに楽しそうにしやがって、と、さらに手に力が込められていく。

「あの、春咲さん、だよね? 伊織の妹の」

「むー」

「春咲さん?」

「ひゃっ⁉」

 当然後ろから誰かに肩を突っつかれて変な声をあげてしまった。振り返るとそこにいたのは背の高い男子生徒。話したことはないが見たことはある、確か伊織と同じクラスでバスケ部のなんとか君だったはず。

 珍しいものを見るような目で私を見ている。

「ごめん、驚かせて。後ろ姿が不審だったからつい。伊織に用事? 呼んでこようか?」 

 後ろ姿が不審、というのは少しだけ心に突き刺さったが呼んできてくれるという申し出はありがたい。美月以外の女の子と仲良くしているなんて妨害する気でいたけれど荒事は避けたかった。

「いいの? それならお願いします」

 バスケ部の彼が女子生徒と楽しそうに会話をする伊織に声をかけると彼以外の三人の視線が私に集まった。するとすぐに女子生徒二人は伊織に軽く手を振りながら離れていき、伊織は私の方へと歩み寄る。

「詩織がこっちの教室に来るなんて珍しいな。どうかしたか?」

「今の女の子たち何? チョコもらってたよね?」

 少し脅しっぽく、精一杯低い声で尋ねてやった。

「なんだよ、そんな怖い顔すんなよ」

「誤魔化さないでちゃんと質問に答えて。もしかして告白されたりしたんじゃないの?」

「馬鹿言うな。さっきの二人はバスケ部の一年生のマネージャーだ。部員皆にチョコを配って回ってるんだよ」

「ほんとにー? 休み時間じゃなくて部活のとき配った方が楽じゃない? 怪しいなー?」

「そんなの俺は知らねえよ。そういう伝統らしいから」

 特に動揺している様子もないし嘘をついているようには見えない。部活のマネージャーからの義理チョコということで納得しておこう。でも釘は刺しておく。

「昼休みまでに本命チョコもらって告白とかされてもお付き合いとかしちゃだめだよ」

「……今は彼女を作る気はないよ」

 美月以外は、と言わないあたり伊織も可愛いところがある。

「昼休み、美月のところに行くんでしょ?」

「……ああ」

 本当はドキドキしてテンションが上がっているくせに落ち着いたふりなんかして、素直じゃないと思いつつも美月の前では素直になってくれるだろうと信じて私は自分の教室に戻った。
 昼休み、伊織との約束の時間までは美月と保健室でお昼ご飯を食べる予定だったがトイレに行っていて遅れてしまった。

「あ」

「お」

 急いで保健室に入ろうと扉に手をかけようとした瞬間、扉は勝手に開き保健室から退室しようとする人と目が合った。美月と同じクラスでサッカー部の秋山君だ。手には美月が作ったチョコレートのお世話になった人用のものが握られている。

「それ、美月のだね」

 私がそう言うと秋山君は保健室の扉を静かに閉めて私の正面でうつむきながら立ち止まった。

 秋山君を始め、真人君から声をかけられて美月を守ろうと動いてくれた運動部の男子たちの分も美月はチョコレートを準備していたので、秋山君が持っていても不思議ではない。

 でも、伊織と昼休みに約束しておきながら秋山君のことを昼休みに呼び出すようなことを美月がするとは思えない。秋山君が今保健室に来たのは別の用事があってのことだろうか。

「どうしたの? 下向いて、体調悪かったとか……」

「いや、そういうわけじゃなくて。学年末のテスト範囲とか詳しい日程とか出ただろ? あとは提出物の連絡とか授業で使ったプリントとか、そういうのを萩原さんに渡しに来たんだ」

「そういえば昨日蘭々が言ってた。秋山君がその役割をするって自分から名乗り出たって。これも蘭々が言ってたんだけど、秋山君って責任感が強いよね」

「そういうんじゃないよ……春咲さんは萩原さんと仲が良いよな?」

「もちろん」

「じゃあ萩原さんの好きな人とか誰か知ってる?」

「え?」

 それは予想外のタイミングで予想外のところから飛んできた。突然のことで面食らってしまい少しの間、言葉を失ってしまった。

「大きいバッグからこのチョコを取り出すとき見えたんだ。これと同じようなチョコがいくつか入ってる中に少し大きくて少し華やかに包装されてるやつが一個だけ入ってる。それに最近すごく楽しそうっていうか、こう、こ、恋してるオーラが出てるっていうか。誰に渡すつもりなのか知ってたら教えて欲しい」

「えっと、知ってるけどどうしてそんなこと聞くの?」

 答えは察している。でもそれは叶わない思いだから、なるべく詳しく話を聞いて傷つけないようにしてあげたいと思った。秋山君はあまり得意なタイプではなかったけれど美月を守ろうとしてくれた優しい人には違いないからだ。

「分かるだろ?」

「でも、聞きたい」

 秋山君は照れくさそうに「しょうがないな」と呟き、思いを打ち明け始めた。

「俺サッカー部でさ、四月の末くらいに学校の周りをランニングしてたんだ。そこで下校中の一人の女子とぶつかって転ばせちゃったんだ。集団で走ってたから気づくのが遅くなって避けきれなかった。ほんとに軽くだけ謝りはしてそのままスルーしちゃったけど、見たことある顔だったなって思ったし、やっぱり気になって戻ってみたらもういなくなってた。次の日教室で顔を見たら萩原さんだって確信した」

 美月と伊織の馴れ初めだ。それがあったから今の美月がある。

「怪我とかしてなかったか確認してちゃんと謝りたかったけど、萩原さんは俺の顔を見ても何も反応しなかったから多分ぶつかったのが俺だって気づいてないっぽくて、俺も勇気が出なくて声をかけられなかった。でも……」

 すらすらと過去を語る秋山君の言葉が詰まる。「誰にも言うなよ」と念推されたので頷いた。

「謝りたくて、毎日ちょこちょこ見てたら気づいたんだ。萩原さんって、あんまり人と積極的に話さないし、目立たないタイプだけどすごく優しくて、その、可愛いなって。いつの間にかすごく気になるようになった。まあ謝りたい気持ちと仲良くしたい気持ちがごちゃごちゃになって結局声をかけられなかったんだけど……他に好きな奴がいるからもうフラれたようなもんだけど、どういう奴が好きなのか知りたいんだ」

「明日になれば自然と分かると思う」

「……両想いってことか」

 秋山君は漏らすようにその言葉を発した。唇を噛みしめてつらそうにしている表情を見るのは私もつらい。

「まあ、ちゃんと謝ることはできて、逆にありがとうなんて感謝されちゃったしもういいや。もやもやも晴れて、きっぱり諦められそうだよ。ありがとう、明日を楽しみにしてる」

 自嘲気味に笑いながらその場を去ろうとする秋山君の背中はとても寂しそうに見えた。

 今までの私ならこんなことはしなかったはずだけれど、自然と口が動き、秋山君を呼び止めていた。

「私、秋山君のこと得意じゃないなって思ってた」

「追い打ちはやめてくれよ」

「ごめん、そういうつもりじゃなくて……その、でも今は仲良くなれそうって思う。私なんかに言われても嬉しくないかもだけど」

「どうして?」

「秋山君も言ってたし私が言えるようなことじゃないんだけど、美月ってあまり目立つタイプじゃないでしょ? あんなに可愛くて優しくて良い子だからモテモテでもおかしくないって思うのに実際はそんなことなくて。だから美月の可愛さに気づいた秋山君は同志だなって思うから」

「なんだそれ」

 振り返った秋山君は仕方ないものを見るような目で私を見ている。

「お前、萩原さんのこと好きすぎるだろ」

「そうだよ。だから美月のことが好きな秋山君と仲良くなれそうかなって思う」

「春咲ってそういうタイプだったんだ、ちょっと意外。でもそう思ってくれるならちょうど良かった。俺さ、四月から特進クラスに行くことにしたんだ。同じクラスになるから仲良くしてくれよ」

 それは初耳だ。特進クラスに進む人は一月に模試を受けることになっていたけれど確か秋山君はいなかったはず。

「先生にお願いしたらオッケーもらえたんだ。いつも一位か二位の春咲は興味ないかもしれないけど俺、学年で十位くらいなんだぜ。真人とは勉強のライバル的な感じなんだ」

「そうなんだ。でもどうして? あ、まさか美月と同じクラスになりたくて……?」

「それも一割いや二割くらいあったけど八割は違うよ。将来のことを考えたらちゃんと勉強しないとなって思ったから。うちのサッカー部は強豪だからサッカーで大学に進んだり、たまにプロになる人もいるけど俺はそういうのとは程遠い実力しかないからな。サッカーは好きだけど現実を見たら勉強をするしかないって思った」

 それには少し共感できた。私は秀でた才能を持っていないし、夢中になれるようなこともない。だから勉強を頑張るしかないと思ってそれなりに頑張ってきた。

 でも勉強しかない私と秋山君は少し事情が違うとも思う。

「部活はどうするの?」

「……まだ決めてないけど、今の気持ちは辞める八割、続ける二割ってところかな。体も一番小さくて細いし、このまま続けても楽しくないかもなって思ってる」

「伊織も部の中で一番体が小さいしベンチ入りもできてないけど、すごく頑張ってるよ。ほぼ毎日一番早く朝練に出てるし、部活が終わって帰ってからもランニングとか筋トレとかしたり」

 せっかく夢中になれるものがあるのに手放そうとしている秋山君を見て、反射的に伊織のことを言ってしまった。

「伊織が……わざわざそんなことを言うってことはそういうことなのか」

 秋山君は何かに納得したような表情を見せてから再び私に背を向けて歩き出す。

「続けるが三割くらいになったよ。ありがとう。じゃあ、四月からはよろしく」

 少しずつ遠くなっていく秋山君の背中は、やっぱり少し寂しそうに見えた。
「カカオって美月のこと好きだったんだ」

 秋山君が見えなくなった途端に保健室のそばの曲がり角から顔を出したのは蘭々だ。手にはクラス全員分はありそうなプリントの束を持っている。

「蘭々……そういえば日直だから職員室に呼ばれてたね」

「教室に戻ろうとしたら詩織とカカオが話してるのが見えて珍しいって思ってつい立ち聞きしちゃった。ごめん」

「私もごめんねー」

 蘭々の後ろから秋野さんも顔を出した。

「職員室で偶然会ったんだ。それよりカカオが部活やめようと思ってるってほんと? その辺だけ声が小さくてうまく聞き取れなかったんだけど」

「うん。今のところ辞める七割続ける三割くらいらしいよ」

 それを聞いた蘭々はひどく落ち込んだようにうつむき、持っていたプリントの束が蘭々の手からするりと落ちて廊下にぶちまけられた。

「もーどうしたのー? 蘭々」

「付き合い長いって言ってたけど、蘭々がそんなに落ち込むくらいのことなの?」

 秋野さんと一緒にプリントを拾いながら蘭々に尋ねると、蘭々は私たちから受け取ったプリントを胸の辺りで抱きしめながら目を細めて優しく微笑む。

 何かを懐かしむようなその仕草は、今やすっかり清楚な美人となった蘭々の容姿にぴったり似合って、私も秋野さんもつい見とれてしまう。

「小学一年生の頃からプロのサッカー選手になりたいって言ってたんだ。その頃から体は皆より小さかったけど小学校の間は学校で一番上手かった。でも中学生になったらかなり体格で不利になってきて努力だけじゃどうしようもなくなってた。高校でもそう」

「詳しいね」

「私、小学校までは男子に混ざってサッカーやってて,中学でもサッカー部に友達多かったからね」

「えー? 初耳―どうして教えてくれなかったのー?」

「だって中学に入ってからは全然やってないからなんか恥ずいじゃん」

 思い返してみれば、蘭々はおしゃれ大好きで体育だるいと思ってそうみたいなイメージに反して運動神経が良かった。偶然ではなく小学生時代に培われたものだったのか。

「私のことはいいの。カカオは小学生のときの私の憧れの選手だったからさ、中学でも高校でも内緒で応援してたから、辞めちゃうのはなんか寂しい」

 秋山君は十年近く目指していた夢を諦めようとしている。体格という努力では乗り越え難い壁を前に、立ち向かうことを辞めようとしている。

 秋山君が今、どんな感情を抱いているのか私には分からなかった。本気で努力してきたことを諦めなければならないときの気持ちは私が未だ抱いたことがない感情だ。

「ま、あいつ切り替えも立ち直りも早いから大丈夫だよ。部活やめても勉強で新しい目標見つけるだろうし、また別の人を好きになるよ、きっと」

 蘭々もサッカーを諦めたのだろうか。それとももっと興味を惹かれることができたのだろうか。

 当時学校で一番上手かった秋山君を憧れの選手というくらいには本気で取り組んでいたはずだから、ピアノも吹奏楽も諦める以前にたいして本気でやっておらず、なんとなく辞めた私とは違うのだろうと思う。

「ごめん、真面目な話はなしにしよっか」

 しみじみと語っていた蘭々が表情をパッと明るくした。

 その通りだ。夢とか将来とか大事なことだけど今日のこの日に辛気臭い話題は似合わない。

 今日は皆でドキドキする日だ。

「んーじゃあ最後に真面目な話を一つだけして良いー? 私がさっき職員室にいた理由なんだけどー」

 右手の人差し指を唇に当て、小首をかしげながら秋野さんが言った。

「確かにそれは気になる。担任と学年主任の先生と話してたよね」

「えっとねー私も四月から春咲さんと同じクラスになることになりましたー。あ、これから詩織って呼んでも良いかなー? 同じクラスになるんだしー。萩原さんも美月って呼ぼーっと」

「それは構わないけど、いったいどうして……?」

 先生に言えばまだ変えられるのは秋山君で確認済みだが、秋野さんは蘭々や大石さん、小畑さんと同じく専門・就職コースを希望していたはずだ。それをいきなり特進コースに変えたとなると何か大きな心境の変化があったに違いない。

 秋野さんは私の問いに「んー」と考えながら私の背中側に回って私に抱き着いてきた。ほんのりチョコの香りがして、朝のチョコパーティの他にも休み時間に他の人とチョコを食べていたのが想像できる。

「ちょ、心愛何やってんの、ずるい」

 私と秋野さんの正面にいる蘭々が焦ったように的外れなことを言っている。

「三学期になって詩織や美月と仲良くなったでしょー。二人を見てたら私も頑張んないとなーって思ったのー」

「確かに心愛はうちら四人の中だとダントツに頭良いもんね。まじでうちらと同じコースで良いのって思ってたもん」

「え? そうだったの?」

「あーひどーい。頭悪そうだと思ってたでしょー? これでも学年五位から下にはなったことないんだからねー」

 秋野さんは私の頬を人差し指で突っつきながら自分の頬を膨らませる。そのもちもちしたほっぺを突っついたら面白そうだと思って私も人差し指で突っつき返すと、反撃されるとは思ってもいなかったであろう秋野さんは目を丸くして口からプッと小さく息を漏らした。

 美月とは励まし合ったりするために手を繋ぐことはあったけれど、こういうスキンシップはしたことがなかったので新鮮で楽しい。

 笑顔で頬を突っつき合う私たちを蘭々が物欲しそうな目で見つめていることに気がついた。

「私も混ぜろ」

 そうやって三人で頬を突っつき合ってはしゃいでいるとガラッという大きな音を立てて保健室の扉が開いた。白雪先生が冷たい目で私たちを見つめている。

「保健室の前で騒いでる奴がいるなと思ったらあんたたちか。詩織が遅いから約束の時間まで少ししかないよ。どうすんの?」

「あ、すみません。すぐ行きます。ごめんね、蘭々……心愛。美月と約束してるから」

「そうだったね。伊織君が来る前の最後の作戦会議。頑張ってね」

「じゃあねー」

 二人と別れて白雪先生と一緒に保健室に入る。時計を見ると伊織が来る予定の時間まであと十二分しかない。急いでお昼ご飯を食べなければ。

「それにしても詩織があんな風に友達とはしゃぐとは思わなかったよ。まるで本物の女子高生みたいだった」

「え、私は正真正銘の女子高生ですよ。何言ってるんですか?」

「はは、ごめんごめん。詩織ってうちの生徒にしては妙に落ち着きがあったからさ。初めて会ったときと比べると結構変わったよね。良い意味で」

「時々言われます。明るくなったって」

「良いことだ。さ、お昼食べようか」

 最後の作戦会議には美月の師匠である白雪先生も参加する。と言ってももう結果は決まっているようなものなので、ウキウキしている美月をおかずにお昼ご飯を食べるだけの会だ。

 美月が語る伊織との思い出や付き合ったらしたいことの話はもう何度も聞いているが、何度聞いても聞き飽きない。それを語るときの美月の表情がとても楽しそうだからだろう。

 約束の時間ちょうどに伊織は保健室に訪れた。私が同席していてはさすがの伊織も恥ずかしいだろうということで私は伊織と入れ替わるように保健室を出ることになっている。すれ違いざまに見た伊織は緊張しているのか硬い表情をしていた。

 この後は移動教室などで忙しいため放課後まで美月には会う時間はない。私はこれから待っている自分の告白を忘れるくらいに二人の今後にワクワクしながら午後の授業を過ごした。
 放課後、私は図書室へ向かった。バスケ部の練習が終わるまで読書か自習をするつもりだし、美月の結果報告もここで受けることになっている。桜高校の図書室はいつも利用者が少ないので多少は会話をしても許される雰囲気がある。

「詩織」

 壁際のカウンター席のような机で以前真人君と見た映画の原作小説を読もうとしていた私に声をかけたのは美月ではなく、蘭々だった。若干の憂いを帯びながらもさわやかさを感じさせる表情をしていて、やっぱり絵になるなと思う。

 蘭々は私の隣の席に腰をおろして「ふー」と大きく息を吐いた。そのまま私の顔を見ることなく正面を向いたまま話し始めるので、私も正面を向いたまま蘭々の顔は見ないようにして話を聞いた。

「フラれてきたよ。これで本当に最後」

「うん」

「真人君には好きな人がいて、私とは付き合えないって」

「うん」

「本命チョコは受け取らない主義だって噂は聞いてたけど、どうしてもってお願いしたら受け取ってもらえた。本命を受け取ってもらえなかった人たちと比べたら特別に思ってくれてるってことだよね」

「うん」

「でも一番特別に思ってるのは詩織。真人君が好きになったのが詩織で良かった。他の人だったら嫉妬しちゃうし、諦めきれなかった」 

「うん」

 謙遜も慰めもこの場には不要だ。謙遜は蘭々に失礼だし、慰めは蘭々に必要ない。蘭々の声にはしっかりとした芯があって、物理的にだけではなく心もすでに前を向いているのが分かる。

「約束、忘れないでね」

「うん」

 真人君とお付き合いすることになったら誰よりも先に蘭々に報告する。約束をして以来、片時も忘れたことはない。それがたくさん助けてくれていた蘭々への恩返し。

 蘭々が体の向きを変えた気配がしたので私も蘭々の方を向くと正面から向き合うことになった。この件に関してはもうお終わりという合図だろう。蘭々の表情には憂いはなく、さわやかな印象の清楚な美人が目の前にいるだけだ。

「美月はまだ来てないの?」

「うん、白雪先生としゃべってるんじゃないかな。あの二人仲良しだから」

「ちょっと嫉妬してる?」

「そんなことないよ」

「怪しいなー?」

 確かに白雪先生は学校の中で美月ともっとも近くで長い時間を過ごしている人だから羨ましくはある。でもちょっと仲良く話をして私のところに来るのが遅くなるくらいのことで嫉妬なんかしない。

 放課後という約束をしているだけで、時間は決めていなかったし、そのうち私のところに来てくれるはずだし。

「そんなことより、蘭々に聞きたいことがあったんだ。良いかな?」

「うん、何?」

「蘭々って少し前から髪とか服装とかきっちりするようになったよね。昔は髪染めてたり、スカートも危ないくらい短かったりしたのに。先生たちも何があったのか気になってるみたいだし、私も気になるんだけど……何か理由とかあるの?」

「あーそれね。ちなみに詩織はどっちが好き?」

 蘭々は少し照れくさそうに笑いながら尋ねた。

「私はどっちの蘭々も綺麗だなって思ってたけど、どちらかと言うと今の方が好き。私の主観だけど、一緒にいて安心する」

「そっか、それなら私は間違ってなかったね」

「どういうこと?」

「理由はいくつかあるんだけどね、一つは真人君と詩織が初詣に行ったことがはっきりしたとき、真人君は真面目な子の方が好きなのかなって思ったから。もう一つは詩織と話すようになって学校のルールを守らない自分が恥ずかしくなったから。ちゃんとルールを守ってても詩織はこんなに可愛いのにって思ったら、ルールを破ってる自分が嫌になったんだよね。最初はなんか恥ずかしかったし結局真人君にはフラれちゃったけど、詩織が今の私の方が好きって言ってくれたからこんな風にして良かったって思う」

「蘭々は髪も染めてない、メイクもしてない今の自分をどう思うの? 好き?」

「んー悪くないって思うよ。でもやっぱり私はメイクとかにすごい興味あるからやって良いって言われたらやりたい。ていうか休みの日はしてる。ねえ詩織、私の夢聞いてくれる?」

「夢? うん、教えて欲しい」

真海(まりん)たちには言ったことあるんだけど、私、将来は女優とかアイドルのメイクさんになりたかったんだ。そのために専門学校に行こうと思ってる」

「へえ、おしゃれな蘭々に似合ってると思う。あれ? でもなりたかったって……?」

「今はちょっと迷ってるんだよね。メイク系なのは変わらないけど、都会に出て芸能人みたいなキラキラした世界で活躍する人を輝かせるか、それとも地元に残って詩織みたいなあんまりおしゃれに興味ないけど磨けばもっと光りそうな原石を輝かせるか。どっちが良いかなって」

「私、光るかなぁ……でもメイク系は決まってるんだ。羨ましい。私は何がやりたいか決まってないから」

「詩織は勉強できるんだから良い大学入ったら選択肢いっぱいあるんじゃない? なんでもできるよ」

「できるって言っても全国平均のほんの少し上くらいだし、そこまでなんでもってことは……でもそうだね、決まってないからこそなんでも目指せるように勉強頑張らないとね」

「私も勉強ちゃんとやらないとなー。今まで心愛に教えてもらって何とか赤点回避してきたけど進度も内容も変わっちゃうからやばいかも」

「蘭々なら大丈夫だよ」

「いやいや、詩織は私の頭の悪さを舐めてるでしょ?」

「蘭々は勉強は苦手かもだけど、頭は悪くないと思うよ。偉そうなこと言っちゃうけど、思いやりもあるしちゃんと考えて行動してるし、なんて言うか人間としてちゃんとしてる。だからしっかり勉強すれば必ず成績も伸びるよ。一年生のうちは私も手伝えるし」

「詩織」

 蘭々は両手で私の両手を握った。目は潤んでいるけれど悲しみのせいではなさそうだ。

「詩織に褒められるとめちゃくちゃやる気出てきた。早速帰ったら学年末テストの勉強始める。分かんないところは今度聞くからね?」

「うん、まかせて」

「それと、クラス別々になっても仲良くしてね?」

「もちろん」

「真人君とイチャイチャするのに忙しくて私のこと忘れたりしたら駄目だよ?」

「……もちろん」

「気になる間だけど……まあいいや。今日は帰るね、報告、楽しみにしてる。ばいばい」

「うん、ばいばい」

 図書室の出入り口に向かって歩きながらこちらを振り返り、手を振る蘭々の姿はやっぱり絵になる。

 意外と控えめに振られた手も、はにかんだ顔も、歩くたびに揺れる髪もすべてが魅力的で、もしも芸能人のメイクさんになったら下手な芸能人よりも美人だと話題になりそうなほどだ。

 そんな蘭々でさえフラれてしまうのが真人君だと思うと、真人君の気持ちをすでに聞いているはずなのに緊張してしまう。早く美月に惚気話を聞かせてもらうと同時に、励ましてもらいたい。