翌日の学校は普段と全く様子が違っていた。三年生が今日から自由登校になるそうだけれど、話題はそれではなくて金曜日の件だ。
皆そわそわしていて、私や美月へ向けたものではないひそひそ話がそこかしこで聞こえる。退学とか取り調べとかそんな単語が飛び交っていた。
まだエプロンがないのでお母さんのものを借りてきたという美月は登校直後に教室ではなく保健室に向かった。四人の犯行が明らかになって解決に前進したとはいえ美月の傷が癒えたわけではない。
伊織と買い物に行く約束をして嬉しそうにしていてもそれはそれ、これはこれなのだ。
もっとも美月はしばらくの間は色々と話を聞かれるだろうから教室に行かなくてもあまり関係はない。私も保健室にいようとしたけれど、保健室で美月の話を聞くからと白雪先生に追い出されてしまった。
「詩織は教室に入れる?」
「まあそうですね」
「じゃあ教室に行きなさい。ここは平気な人が居座る場所じゃないから。つらくなったらいつでも来て良いよ」
そう言われて保健室を出る私と入れ替わるように二組の担任の堀先生が保健室に入って行った。
朝のホームルームに後藤さんの姿はなかった。すでに金曜日の出来事は学校中に広まっていて、教室の誰もが疑問に思うことはない。
後藤さんと仲が良く、トイレで一緒に私の悪口を言っていた前川さんも元気がない様子だ。皆どこか落ち着きがなく、今回の件に全く関係がなさそうな男子たちは何故かワクワクしているようにも見える。
「先生たち、取り調べで忙しいから授業が自習になるかもな」
どこからか聞こえた願望のような言葉は現実となって、一時間目の授業は自習となり私は先生に呼ばれて話を聞かれることになった。先生の後について行きながら二組の教室を覗き見ると空席が目立っていて、女子がほとんどいない。
保健室の隣にあるカウンセラー室にて事の顛末を話した。私の聞き取りを担当している先生は白雪先生や堀先生よりも少しだけ年上の優しそうな女性の先生で、苗字は飯島、主に三年生を担当していたと言っていた。三年生が自由登校になって授業もなくなり余裕ができたのでこの役割を任されることになったらしい。
飯島先生はメモを取りながら私の話をよく聞いてくれて時折相槌を打ったり、私に共感してくれたりして終始穏やかに聞き取りは行われた。
こういうときは全てを包み隠さず話した方が良いと思い、私は二学期の終業式で真人君に初詣に誘われたところから話をしていたため、私が嫌がらせを受けるパートに入る前、蘭々への誤解が解けたくらいまで話したところで一時間目の授業が終わってしまった。
聞き取りも休み時間となったので隣の保健室を覗いてみたが、美月は聞き取りが続いているようで会うことはできなかった。美月の証言は最重要ということで担任の堀先生、生徒指導の部長と呼ばれる先生、そして教頭先生の三人が話を聞いているということだけは白雪先生が教えてくれた。
仕方なしに保健室を出ると蘭々たちいつもの四人と二組の秋山君が目の前にいた。美月や私の様子が気になって見に来たらしい。
蘭々たちはともかく秋山君がいるのは意外で、つい見つめてしまった。
「何? 俺の顔になんかついてる?」
「あ、いや、ごめん」
「なんだよ、変なの」
ぶっきらぼうに秋山君が言う。
美月ほどではないが私も人見知りする方で、秋山君とは全くと言っていいほど関わりがなかったのでうまく話せない。
真人君の要請に応えて美月を守ろうとしてくれたり、こうやって心配して様子を見に来てくれたり悪い人ではないと思うけれど、可愛らしい見た目の割に結構強気な性格と口調なので、あまり得意なタイプではない。
「こら、カカオ。もうちょっと優しく言いな。男らしいのと態度が悪いのは違うんだから」
「……ごめん」
蘭々に叱られて素直に謝る秋山君を見ると私まで申し訳なくなる。元はと言えば私が秋山君の顔をまじまじと見てしまったのが悪い。
「あの、こちらこそごめんなさい。秋山君がいると思わなくて気になっちゃって」
「……俺、なんにもできなかったからさ、ずっともやもやしていて、どんな状況なのか気になったから様子を見に来たんだ」
「えっと、様子は私もよく分かんない。美月いっぱい話を聞かれているみたいだし。あの、二組の様子はどう?」
「普通に自習してる。女子がごっそりいないし残ってる女子はなんか暗い顔してるけど。男子もわざわざ今回のことを話題にしようとはしてないな……萩原さんは、もう教室には来ないの?」
「美月は……女子全員がいなくならないと無理だと思うって前に言ってた。だからもう美月があの教室に入ることはないと思う」
「そっか……」
それだけ言い残して教室に戻って行く秋山君の背中はひどく落ち込んでいるように見えた。
「ああ見えてカカオって責任感強いからね。何もできなかった自分に怒ってるんじゃないかな」
もう少し自分が早く行動していればここまで大きな事態にはならなかった。そんなことを思っているのだろうか。
もうすぐ次の授業が始まる時間となり蘭々たちは教室へ、私はカウンセラー室へ戻った。部屋へ入ろうとした寸前に蘭々たちの方を振り返ると、秋野さんが先行して秋山君に追いついて話をしているのが見えた。
二時間目が始まると聞き取りも再開され、私は美月が伊織に自転車の乗り方を教わる約束をしたところから話を始めた。この件について伊織の存在は不可欠なので美月と伊織の関係性も重要になるはずだ。
そして次の日から私と真人君のことが噂になり、私への嫌がらせが始まったこと、真人君や伊織、美月、蘭々、大石さん、秋野さん、小畑さんが味方になってくれたことを話した。
「佐々木蘭々……服装、頭髪、化粧の指導の常連だったけど、最近ちゃんとするようになったっていう子ね。生徒指導の先生たちがよく話してた。話の腰を折っちゃって申し訳ないんだけど、春咲さんは佐々木さんが服装とかのルールを守るようになった理由って知ってる?」
「え? いえ、分かりません」
確かに蘭々は三学期の始めくらいまで髪にインナーカラーを入れたり、化粧をしたり、スカートを心配になるくらい短くしていた。
でも今となっては校則を守った服装をするようになって大石さんたちにいじられていたのは見たことがある。私への嫌がらせが始まった時期と同じ時期からの話なので私はそれどころではなくて理由を聞けていなかった。
「まあ、校則守ってくれるのは喜ばしいことだけどね。あれだけ個性の主張が強かった子がいきなりどうしたんだって生徒指導の先生たちも心配してたんだよ。今まで校則を守れって厳しく指導していたくせに、急に校則を完璧に守られると逆に慌てちゃうなんて、つくづく教師って変な生き物だと思うよ……ああ、ごめんね。春咲さん細かいところまでいっぱい話してくれるから私も色々話したくなっちゃって。続けてください」
飯島先生はニコニコと朗らかな表情で話を聞いてくれるのでとても話しやすい。バスケ部のマネージャーだった日夏さんから話を聞いたことを話すと担任をしていると教えてくれた。
日夏さんの思い出話に移行しかけたが何とか踏みとどまって、美月が嫌がらせを受けるようになったという話に入った。
飯島先生の表情から笑みが消える。私にいくつかの質問をしながらメモを取るその姿には鬼気迫るものがあって、真剣に事実を明らかにしようとしているのだと感じられた。
私もそれに応えるように、私が見たこと、聞いたこと、感じたこと、知っていることを詳らかに述べた。
二時間目終了後の休み時間の休憩は断ってそのまま話を続けて三時間目の授業が半分くらい過ぎた時間に調理室での出来事まで話し終えた。
カウンセラー室を出て保健室を覗くと美月の聞き取りはまだ続いていた。白雪先生から昼休みにまた顔を出しなさいと言われ一組の教室に戻ると、朝よりも人が減っていた。
授業中だったので理由を聞くことができなかったがいなくなっているのが女子だけであることを考えると、きっと呼び出されて話を聞かれているのだと思う。藤田先生が言っていた通り、芋づる式に加害者が明らかになっているのだろう。
四時間目の自習が始まると飯島先生が蘭々を、別の先生が大石さんを呼びに来た。そして別の先生が他の女子生徒を次々に呼びに来る。
飯島先生や大石さんを呼びに来た先生は優しそうな表情をしていたけれど、他の女子生徒を呼びに来た先生は険しい顔をしていた。平気な顔で教室を出る蘭々と大石さんに対し、暗い顔で、中にはこの世の終わりのような顔で連れていかれる人もいる。
一組には表立って私に嫌がらせをする人はいなかったはずだけれど私の知らないところで悪事を働いていた人もいたようだ。
昼休みになり、ちょうど戻ってきた蘭々と大石さんに美月と二人で話したいと言って保健室に向かった。他に呼び出された人たちは戻ってこない。
蘭々の話によると空いている三年生の教室に集められて先生の監視の下でお昼ご飯を食べているそうだ。
保健室に入りパーテーションで仕切られた奥のスペースに行くとテーブルに突っ伏している美月が見えた。
「美月、大丈夫? 体調悪い? 保健室に行く?」
言ってから気がついたが保健室はここだ。美月からのツッコミはない。
私が声をかけてから少し間を置いて美月はゆっくりと顔を上げて私の方を見た。トロンとした目と半開きの口がなんだかセクシーに見える。
「大丈夫だよ。休憩はあったけどずっと話をしてたから疲れちゃっただけ」
「良かった……」
テーブルをはさんで向かい合って座り、お昼ご飯を食べながらお互いにどんなことを聞かれたのかを話した。
「え! 私が伊織君のこと好きなことも話したの?」
「う、うん。ちゃんと人間関係もはっきりさせた方が良いと思って」
「ま、まあそうだよね。私も詩織と桜君のこと話しちゃったしおあいこか。でもこれで先生公認の仲になっちゃう。困ったなぁ」
ニコニコくねくねしていて全然困ったようには見えない。美月は疲れているようだけれど、精神状態は正常のようなのでひと安心だ。
美月の方はとにかく細かく聞かれたらしい。いつどこで誰に何をされたか、思い出せることを全て思い出すように言われて今のような疲労状態になったとのことだ。
「テストで漢字とか英単語を思い出すより大変だったよ」
苦笑いしながら愚痴のように聞き取りのことを話していた美月だったがしばらくすると声のトーンが落ちて神妙な面持ちに変わった。
「ねえ詩織、私たちをいじめていた人たちってどうなるのかな?」
「いじめの加害者は基本的に退学だって聞いたよ」
「そう、だよね……」
美月はとても優しい子だ。どんなときでも自分より他人を優先して、自分がつらいときでも他人を思いやることができる。
そして私は美月の親友だ。この学校の誰よりも美月のことを見てきたし、その言動や性格を理解しているつもりだ。美月が今こうして悲しげな表情をしている理由を私は察することができた。
きっと美月は退学にさせたくないと思っている。
そして美月にとってそれはとても言い出しにくいことだ。美月をいじめていた人は私をいじめていた人と被っている可能性があって、美月の独断で先生たちに陳情することはできないと思っているだろう。
「美月はどうなって欲しいと思ってるの?」
「私は……」
少し質問の仕方が意地悪だったかもしれない。答えを察していて、それを言いづらいことも分かっているのに自由に答えさせるのはなかなかに酷なことだ。聞き方を変えるべき。
「退学して欲しいって思ってる?」
美月は肯定も否定もしない。私に気を使っているのだろう。
「美月の好きにして良いよ。私はどっちでも良いから」
私の本心では退学にして欲しい。加害者が皆いなくなり美月が二組の教室に戻れるようになって、私が真人君と、美月が伊織と堂々と仲良くできるようになって欲しい。
でも、美月の望むようにして欲しいというのも本心だ。私は美月の優しさにいつも助けられているから、その優しさによって判断されたことであれば否定するつもりはない。
「でも、理由だけは教えて欲しい。美月が考えてること、ちゃんと知りたい」
美月は一度頷いてその思いを打ち明け始めた。
「私、いじめをしていた人たちを許すことはできない。顔も見たくないし声も聞きたくない。退学になっちゃえばいいってずっと思ってた。でもね、それが現実味を帯びてくると考えちゃったの。高校を退学になったら大変だろうなって。せっかく入学して一年近く過ごしてきて、友達もできたのに学校を辞めなくちゃいけなくなるって、人生の色んなことがめちゃくちゃになっちゃうんじゃないかって思って。さっき先生に聞いたの、退学になったらどうなるんですかって。そしたら、転学できる人もいるけど中卒の肩書きのまま生きていく人もいるって」
「でもそれは、うちの学校ではいじめの加害者は退学っていうルールでやってきてるんだから仕方のないことだし、美月が気に病むようなことじゃない」
美月は悲痛なまでに優しい。この先の人生においてその優しさで損することも得することもたくさんあるのだろうなと思う。もしかしたら損することの方が多いかもしれない。
でも、その優しさでたくさんの人を救うはずだ。そんな美月の親友であることは誇らしい。だから私は美月の全てを受け入れる。
「私もそう思う。でも、できるかどうか分からないけど、もしも私が先生たちに退学にさせないで欲しいって言ったら、処分が変わるかもしれない。私の言葉一つでたくさんの人の人生が左右されてしまうかもしれないって思ったら、何もせずにはいられない」
「美月にひどいことした人のことも助けたい?」
「助けたいというより、見殺しにできない」
「二組の教室に戻れなくなるんじゃない?」
「もういいの。四月からは詩織や桜君と一緒だから、そこで頑張る」
「伊織は加害者が皆退学になることを望んでたよ?」
「……」
「ごめん。伊織を出したのは意地悪だった……良いよ。美月の考え、ちゃんと聞かせてもらえたから私は賛成。一緒に先生に言おう。伊織もきっと分かってくれるよ」
「うん、ありがとう」
そう言って微笑む美月を見ると、優しさを擬人化したら美月になるのだろうなと思う。
先生たちは受け入れてくれるだろうか。伊織は許してくれるだろうか。美月の慈悲深さが良い方向に働いてくれることを祈るばかりだ。
なんとか白雪先生に許可をもらって保健室に残り、聞き取りに来た三人の先生に対し、いじめの加害者を退学にさせないで欲しいという思いを美月と一緒に伝えた。
私も同席しようと思ったのは大事な気持ちを伝える美月をそばで支えたいという思いと、そもそも私も被害者なので美月の独断だと思わせないためだ。
その結果、生徒指導の部長の先生からは加害者の処分決定の際には考慮するという言葉をもらえた。考慮するだけで、退学は変わらない可能性もあるけれどそれはもうどうしようもない。
「私はそんなにたくさんの人の人生を背負えません」
先生たちに向けて放たれた美月の言葉は忘れられない。
美月の聞き取りはまだ終わっていないらしく私は教室に戻されることになった。
五時間目は自習ではなく英語の授業が行われていた。本来一組の英語の担当は堀先生だが、堀先生は保健室にいるので見たことがないおじさんの先生が代わりに授業を行っている。
一応簡単に事情を説明するとおじさん先生は「うん」と一言だけ言って特に反応を示さない。
私が戻ってきた後にも誰かが呼び出されたり戻ってきたりして慌ただしく人が出入りしているため、反応の薄さにも合点がいった。
普段ならおじさん先生の髪の薄さを嘲笑いそうな男子たちも、さすがに今日は静かだ。重苦しい空気が教室中に蔓延していた。
その後も授業をこなし、帰りのホームルームになっても未だに教室に戻ってこない人もいた。さらに、担任の先生が数人の女子生徒に教室に残るように言い、その他の人はすぐに教室から出るようにと厳命してホームルームは終了した。
今聞き取りが行われている小畑さんや秋野さんを廊下で待ってると言う蘭々たちと別れ、返却されたスマホを確認すると昼頃に伊織からメッセージが届いていた。
【優勝したよ】という簡素なメッセージとともにバスケ部の集合写真も添付されている。
ユニフォームやジャージを着た大勢の大柄な男子が三列くらいに並んで、最前列の真ん中で伊織と同じジャージを着た女子四人が二人ずつトロフィーと賞状を持っている。この人たちが学年に二人までというマネージャーだ。
マネージャーがどれだけの努力をしたのかは分からないけれど、努力の結晶であるトロフィーや賞状を持たせてもらえる関係というのは少し羨ましく思う。きっと選手の支えになって感謝される存在になったのだろう。
来世でもう少し明るい性格に生まれることができたら、運動部のマネージャーになりたい。
写真の中の真人君は一番後ろの列の端っこで控えめに笑っている。あの夜の電話を経て、真人君は活躍できただろうか。私の声で真人君は元気になれただろうか。私は真人君の支えになることができただろうか。
今すぐに電話をかけて声を聞きたい衝動に駆られたけれど、試合が終わった後のスケジュールを把握していないし、忙しかったら迷惑だろうなと思い、今は簡単にメッセージを送るだけにして後で電話をすることにした。
保健室に美月の様子を見に行くとすでに聞き取りは終わっていて荷物をまとめているところだった。久しぶりに料理部に顔を出すらしいが、今日もずっと聞き取りだった上に明日も続くということでかなり疲れた表情をしている。
しかし、ちょうど私のスマホに届いた【今帰りのバスの中 多分六時半くらいに学校に着くっぽい】という伊織からのメッセージを美月にも見せるとすぐに笑顔になって「お菓子作って待ってようかな」なんて可愛く言い始めたので、心配はいらないみたいだ。
伊織のメッセージには写真が添付されていて、バスの車内で眠りにつく真人君の穏やかな寝顔が写っている。昨日の夜私と長電話したから寝不足だったのだろうかと少しの罪悪感を覚えたが、初めて見る真人君の無防備な姿につい見とれてしまって、こんなに可愛いならなんでもいいかと罪悪感はどこかに行ってしまった。
真人君が寝てしまっていて電話もメッセージもできないので私もバスケ部の凱旋を待って直接話をすることにした。料理部にくら替えするのも良いなと思ってはいるものの今日いきなり突撃する勇気はないので、美月と別れ、三学期になって初めて文芸部が活動している図書室に向かった。
文芸部の名目上の顧問となっている司書の先生は私の顔を見るなり、宝くじで一万円当てたくらいの喜びの顔になった。お母さんが一万円当てたときと同じような表情だったので喜びも同じくらいだろう。私が文芸部の活動に参加するのは社会人が突然一万円もらうくらいの衝撃があるようだ。
図書室を見渡すとおそらく文芸部だと思われる見覚えのある人が三、四人いた。顔を合わせれば挨拶くらいはする仲だが、集中して本を読んでいるときにわざわざ声をかけたりはしないので、部活に参加していても一度も会話をしないときもある。
今日も皆飲食店のカウンター席のように壁際に設置された席に座って本を読んでいるようなので声はかけずに本棚の方に向かった。
バスケ部が帰ってくるまであと三時間ほど。時間内に読み切ってしまいたい気分だったので分厚い本は無理だしそこまでページ数がない文庫本にしようか、それとも勉強でもしようか。
考えているようで考えがまとまらないまま本棚の間をふらふらと歩き参考書コーナーに足を踏み入れると、女子としてはそこそこ大きな身長と大きく目立つポニーテール、そして体の色々なところが大きい、交友関係が狭い私にとって数少ない他学年の知り合いがいた。
私の気配に気づいた彼女が振り返るとポニーテールも大きくなびき、その軌跡が美しく見える。
「お、伊織の妹ちゃん。詩織ちゃんだっけ? 久しぶりだね」
日夏さんは地元の県立医科大学の過去問題集を持ちながら私に手を振った。その大学は美月のお姉さんが通っている大学だ。
「こんにちは。あの、日夏さんって医学部目指していたんですか? やっぱりすごい」
日夏さんは再び手を振る。今度は挨拶の意味ではなく否定の意味のようだ。
「ちょ、そんなに目を輝かせて言わないで……残念ながら違うよ。大学は医大だけど学部はリハビリテーション学部。理学療法学科を目指してるの。家から通えるし、学費安いし、大きい付属の病院もあって実習の環境とか良さそうなんだよ。お金があんまりなくて医療系に興味あるならおすすめ。その分ちょっと難しいけどね」
「理学療法……学部の名前の通りリハビリ関係の資格ですよね。どうして目指そうと思ったんですか?」
「え? あー……」
日夏さんの顔が曇り、私から目をそらした。天井の方を見つめて何か嫌なことを思い出しているようだ。
「アタシが受かったらいくらでも昔話してあげるから今はやめとこ。推薦の面接のこと思い出しちゃう。いや、まあ面接は割と上手くできたつもりだったんだけどなぁ、小論文か学科試験が駄目だったのか……あ、いかんいかん、落ちた試験のこと思い出してもどうにもならん」
受験を間近に控えた三年生はとてもデリケートでどこに地雷があるか分からない。私は少し失敗してしまったみたいだ。
「すみません。配慮が足りなくて……」
「いやいや、謝らなくていいよ。別に普通の質問だし、アタシが勝手に思い出しちゃっただけだから。むしろごめんね、この時期の受験生ってナイーブで面倒くさいんだ。細かいこと気にせず勉強しろよって思ってるんだけど、人生がかかってると思うとどうしても色々気にしちゃう」
「人生……」
意味合いは全く違うけれど人生がかかっているという言葉を聞くのは今日だけで二回目だ。
私たち高校生を始めとした学校に通う者にとってどこの学校に通っているかは人生を大きく左右する。
私は桜高校に通っているから美月に会えたし、真人君と再会できたし、伊織と一緒に通うことができた。そしていじめにあった。違う学校に通っていたらこうはならなかった。
この学校に通っていることは間違いなく私のこの先の人生に大きな影響を与えるはずだ。
もちろん私たちをいじめていた人たちにとってもそれは同じ。この学校にいるから経験できることはこの先の人生に影響を与える。美月はその可能性を守ろうとした。
私は大好きな美月の思いだから賛成しただけで、客観的に見てその判断が正しいのかどうかは分からない。違う学校に通った方がもしかしたら幸せかもしれないし高校を卒業しなくても成功する人はいる。
それでも自分の意志とは反して学校を去るようなことになればそれは良いことではないはず。
「人生ってなんなんでしょうね……」
「おお? なんか哲学的。急にどうした?」
「いえ、私たちのような年齢の人間にとっての学校って人生のほとんどを占めているんだなって思って。どこの学校に通うかってすごく大事なんですよね」
「そうだねー、仲良かった人とも学校別になったら疎遠になっちゃったってこともあるし、周りの人間に助けられることも邪魔されることもある……ねえ詩織ちゃん。律儀な君の兄が逐一報告してくれるから先週の金曜日までの出来事は把握しているんだけど……」
日夏さんは私をじっと見つめた。優しいけれどどこか私を試しているような目は私のことを思いやりつつも絶対に逃がさないという意思を感じる。
見つめ返すと、奥二重で左目の目尻に小さなほくろがあることに気がついた。自然と目線がそこに吸い込まれて目を離せなくなる。
「この学校は好き? 入学して良かったと思う?」
良かったとは思う。何故なら大切な人たちに出会うことができたから。
でも好きかと問われると、好きだと即答はできない。
十ヶ月過ごしてみて、授業の進度の遅さやレベルの低さ、私は守ってはいるものの服装や頭髪などに関する校則の厳しさ、人の悪口を平気で言ったり嫌がらせをするような人が大勢いるところなど、学校に対しては色々と不満を持っていたので好きになりきれない。
そもそも入学して良かったと思えるのもいじめが解決しかけていて私の心情が上向きだからかもしれない。
そんな私の思いを日夏さんは苦笑いしながら聞いてくれた。これが正直な気持ちとはいえ残念そうな顔をさせてしまったのは忍びない。
「まあ真面目で勉強が得意な人はそう思って当然だよね。アタシも中学ではそこそこ勉強できたし、校則破ってまでおしゃれがしたい人間でもなかったから一年生の一学期くらいは同じようなこと考えてたよ。ましてや詩織ちゃんと似たような経験もしてるわけだし」
「今の日夏さんはどうなんですか?」
「今は良かったと思ってるよ、心から。やっぱりバスケ部のマネージャーやれたことが一番大きいかな。何回も全国大会に連れて行ってもらって、大変なこともつらいこともあったけど皆で乗り越えて、この経験は一生の宝物だなって思う。他の高校じゃ絶対に経験できなかったから……ま、受験に失敗したら後悔するかもだけどね」
明るくおどける日夏さんにつられて私も笑みが漏れた。
日夏さんとは初対面のとき以来会えば挨拶をする程度の関係でこんなに長く会話をするのは初めてだ。それなのに人見知りしがちな私でも話しやすく感じるくらい、日夏さんには不思議な魅力と言うべきか魔力と言うべきか、そんな力がある。
だから日夏さんが受験生であることを忘れてずっと話をしていたいと思ってしまうがそうはいかない。名残惜しいけれどこれ以上は勉強の邪魔になってしまう。
「す、すみません、話を広げてしまって……勉強の邪魔でしたよね」
「ああ、いいよいいよ。休憩ついでに過去問探してただけだし。それに詩織ちゃんと喋ってるとよく分からないけど落ち着くから良いリフレッシュになる。詩織ちゃんが良ければもう少しお話ししようよ」
「そういうことなら、日夏さんが良ければお付き合いします」
「お、なんかその言い方、伊織に似てる。さすが兄妹……それじゃあ話を戻すけど、この学校に入って良かったかとかこの学校が好きかって話だったよね。アタシは、最初こそ色々あったけど、今はこの学校が好きなんだ」
そう言い切る日夏さんの表情に曇りはなく、目に迷いもない。美月が伊織のことを好きだと言うときではなく、伊織がバスケが好きだと言うときに似ている。恋焦がれて近づきたい、手に入れたいというよりもすでに自分の手の中にあって愛でているような、そこにあるのが当たり前のように思っているみたいに見える。
「部活を本気で頑張っていてエネルギーに満ちている人が多いし、校舎が綺麗で設備も良いし、先生たちも面倒見の多い人が多い。やりたいことに打ち込める環境が揃ってる」
「……なんだか真人君みたい」
「そう、この見方は真人の受け売り。真人に、あんたは不平不満とか言わないよねって言ったら教えてくれたんだ。このおかげでなんとなく好きだったこの学校がはっきりと好きだって思えるようになった。もちろん嫌なところもそりゃあったけど、何より三年間過ごして色んな思い出が詰まった大切な場所だから。詩織ちゃんもいつか好きになれると良いね」
「なれますかね……?」
「真人の影響をたっぷり受けた詩織ちゃんなら大丈夫。学校を好きになれればもっと楽しくなるし、色んなことへのモチベーションも上がる……そうしたらつらいことや悲しいこともきっと乗り越えられるから」
日夏さんの声のトーンが落ち込んだ。私たちと同じようにいじめを受けていた経験を思い出しているのだろうか。私を見つめる悲しげな瞳は過去の自分と私を重ねてみているのだろうか。
「真人と言えば……詩織ちゃんは真人のこと好き?」
「はい」
「あら、素直で可愛いこと。真人は良いよね、きっと大物になる。一年間マネージャーとして支えてあげられたことを一生自慢できるくらいの大物になる。アタシにとって一、二年生の部員は皆平等に弟みたいなもんだと思ってるけどさ、それでも真人は特別。何かすごいことをしてくれるって期待しちゃう」
「分かります。私も真人君がバスケをしている姿を見るとワクワクして、試合でもつい真人君ばっかり見ちゃいます」
「それは詩織ちゃんが真人のこと好きだからでしょ……ともかく真人のこと、これからも好きでいて、応援してくれると私も嬉しい。あいつ完璧なように見えて意外と欠点もあるからさ。試合で調子悪いと結構落ち込むところとか」
「服のセンスが心配なところとか……」
「あはは、知ってたの? 普段は制服かジャージばっかりだからあんまり気づかれてないけど初めて見たときはびっくりしたよ。詩織ちゃんとの初詣のときは伊織が絶対にお母さんに服を決めてもらえってきつく言い聞かせたんだって」
「でも、そういうところもちょっと可愛いです」
「……欠点含めて好きになっちゃったか。ほんとに詩織ちゃんは良い子だね。真人も喜ぶよ」
そう言う日夏さんは憂いを秘めたな表情をしている。そもそも真人君の話を始めてからずっと同じ表情だ。
私が「もうすぐ卒業で真人君やバスケ部の皆と会えなくなっちゃうから寂しかったりしますか?」と尋ねると、日夏さんは虚を突かれたように慌てふためいた。また地雷を踏んでしまったのかと思い後悔しかけたがそうではなかったようだ。
「え? あ、いや、その、うん、まあ……そうだね。寂しい」
やがて落ち着いた日夏さんは私を見ながら私を見ていない。何か別のことを考えているようにも、大切な思い出を脳裏に浮かべているようにも見える。
「詩織ちゃん、連絡先交換しようよ」
少しの間の沈黙の後、日夏さんは制服のポケットからスマホを取り出して言った。
「は、はい。もちろん。光栄です」
「光栄って……そんなにたいした人間じゃないよ、アタシは」
「いえ、勉強も部活もすごくて尊敬してますから」
「ま、悪い気分はしないね。君たち兄妹はアタシを持ち上げるのが上手いねぇ」
以前の部室でのやり取りを見るに、伊織には無理やり持ち上げさせていたように思えるけれど、私は心からそう思っている。そんなすごい先輩と連絡先を交換できたのはなんだか貴重な宝物を手に入れたような感覚になって、伊織に自慢してやろうと思った。
ちなみに私が上級生と連絡先を交換するのは高校に入学してから初めてのことだ。文芸部にも上級生はいるがそこまでの仲ではない。
「バスケ部以外の後輩の連絡先ゲットするの初めてだからなんか嬉しいな。卒業前に良い思い出が増えたよ。ありがとう」
「そんな……私の方こそ嬉しいです」
「お礼に受験が終わったらなんでも相談に乗ってあげる。悩み事とかあったらいつでも連絡して? 先輩風吹かせてアドバイスしちゃうから」
「なんでも、ですか?」
「うん。例えば……真人や伊織に意地悪されて泣かされたりしたらすぐに言うんだよ。どこからでも飛んできてとっちめてやるからね」
日夏さんは両手で拳を作ってシャドーボクシングを始める。結構強そうに見えて、本当にとっちめてくれそうだけれど、そういう事態にはならないだろう。
「真人君も伊織もそんなことしないですよ」
「……ふふ、例えだよ、例え。それじゃあ詩織ちゃんと話して癒されたしそろそろ受験勉強に向き合おうかな。ありがとね、付き合ってくれて」
「私の方こそ色々なお話を聞けて楽しかったです。あ、もし日夏さんが良かったらなんですけどあと……二時間半くらいでバスケ部の皆が学校に帰ってくるって伊織から連絡があったので一緒に会いに行きませんか?」
「いいねぇ。バスも綺麗に乗ってきたか抜き打ちチェックしてやるか。汚かったらどうしてやろうかな……」
少し悪い顔をしてにやける日夏さんはとても楽しそうで、本当にバスケ部が大好きだったのだと思わせる。そういう存在があることを羨ましく思い、改めて来世では運動部のマネージャーをやることを決意した。
時間になったら知らせると約束をして私も日夏さんが使っている席から離れた席で自習をすることにした。
自分以上に頑張っている人を見るだけでやる気や集中力は自然と出るもので、伊織から【あと五分くらいで着く】という連絡が来るまではあっという間だった。
日夏さんに声をかけ、昇降口に向かう前に調理室に寄って美月と合流した。その手の中には蝶々結びのパステルイエローのリボンで可愛くラッピングされた透明な袋に入ったクッキーがある。
それを私に見られて照れ臭そうに微笑む美月はとても可愛くて、心底伊織が羨ましい。
美月と日夏さんは初対面のため、美月の人見知りが発動しかけていたが日夏さんの持ち前の話しやすさや日夏さんが伊織から美月のことも多少は聞いていたこともあって、二人は昇降口を出るまでにすっかり打ち解けていた。伊織のことでずいぶんと話が盛り上がったようだ。
私たちは日夏さんの指示で昇降口と校門の間の中途半端な位置で待つこととなった。私たちが配置につくとすぐに大型のバスが校門から学校の敷地内に入ってくる。
前の方の席に座って窓からこちらに手を振っている女子は一学年二人までという女子マネージャーだろう。同時に後ろの席の男子たちがこちらに気づいて慌ただしく動き出したのが見えた。
「あいつら、アタシがいないからって油断してたなー」
そう呟く日夏さんはやはり楽しそうだ。
バスは私たちの目の前に横付けされた。冷静に周りを見てみるとこの場所はバスケ部の体育館まで一直線で最短の位置。日夏さんはバスで帰ってくる経験を何度もしているからここにバスが停まることを知っていたのだ。些細なことではあるけれど日夏さんへの憧れは強くなる。
バスの扉が開き、お揃いのジャージを着た四十人弱のバスケ部員が降りてくる。荷物を運び出し、バスの運転手さんへお礼の挨拶をして、バスが学校を出て行くと監督を取り囲みミーティングが始まった。
男子バスケ部の監督は学校の教員ではないため話をしたことはない。身長は伊織と同じくらいだが強面で体格もがっちりしているため迫力があって、年齢は五十代とのことだが実際に自分がプレーをして技術や戦術の指導をすることもあるらしい。
一見怖そうに見えるが部員の恋愛に寛容どころか推奨したり、伊織や真人君が大会に遅れて合流することを許したりと、非常に失礼ながら見かけによらない人だという印象を持っている。
そう思う理由はそれだけではなくて、監督は動画配信サイトでもうすぐ登録者十万人に迫っているチャンネルを抱える動画投稿者という顔も持っているからだ。動画の内容はやはりバスケのことで、初心者向けにルールなどの解説をする動画や中高生向けに練習法やテクニックの紹介をしている。
桜高校の卒業生という若くてカッコいい大学生くらいの人たちが代わり替わり動画に出演して実演しているため、バスケに興味がある人だけでなく女性ファンも多いらしい。
また、桜高校のバスケ部専用の体育館内にある監督室で撮影をした際に、壁際の棚に大量のファンシーなぬいぐるみが並べてあることが判明し、ギャップ萌えで人気が上昇した。
かくいう私もしっかりチャンネル登録をして動画を楽しみにしていたりする。バスケのことを知れば知るほど試合の見方が変わって真人君がどれだけすごいことをしているのか分かるようになる。
それに卒業生が動画に出るということはいつか真人君や伊織も出るかもしれないと思うとさらに楽しみで仕方がない。
そんな監督の話が終わると監督は体育館の方へ歩き出し、部員たちはいつの間にか私たちのそばから離れていた日夏さんの周りに集まった。
バスの運転手さんへの挨拶をするときよりも、監督の話を聞いているときよりも背筋がピンと伸びて綺麗な姿勢に見えるのは気のせいだろう。
背の高いバスケ部員に囲まれているので日夏さんの姿は見えづらくなってしまったけれど、バスケ部員は皆笑顔で笑い声も聞こえる。一際背の高い真人君と女子マネージャーを除くと最も背の低い伊織はすぐに見つけることができて、二人とも他の人と違わず笑顔だ。
バスケ部員たちの隙間から日夏さんを見ていると、日夏さんは真人君のそばに近寄り、真人君をしゃがませると持っていた鞄からスプレーのようなものを取り出して真人君の髪の毛に吹きかけた。それと同時にバスケ部員から再び大きな笑い声が上がる。真人君は恥ずかしそうにスプレーをかけられた部分の髪を手で整えている。
「……寝癖直しかな?」
「伊織から連絡来たとき真人君が寝てる写真が送られてきたからそうだと思う」
その後も日夏さんは、落ちかけているズボンを直させたり、半開きになっているジャージのファスナーを上げさせたり、ほどけたシューズの紐を結ばせたり、一人ずつバスケ部員の身だしなみを整えて回っていた。
「すごいね、注意されてる人もなんだか嬉しそう。あ、伊織君は……何も注意されずにスルーされた。さすが……」
日夏さんは一、二年生の部員のことを弟みたいなものだと言っていた。ということは自分は姉のつもりなのだろうけれど、たくさんの部員に厳しくも優しく世話を焼く姿を見ているとそれよりももっと似合う肩書きがあると思った。
「……お母さんみたい」
「……確かに」
私が呟いて、美月が同調したときだった。
「おいおいおい、それは光には絶対言うなよ。しばかれるぞ」
私たちの真後ろから焦ったような、怯えたような声が聞こえた。
驚いて振り返るとそこにはバスケ部のお揃いのジャージを着た真人君に匹敵するくらい背が高くて、人目を引くような顔の男子生徒が立っていた。いや、顔は真人君の方が数段カッコいい。
私はこの人を知っている。冬休みにバスケ部の試合をネットで観戦していたときに真人君と並んで活躍していた人で、試合に敗れたときにチームで一番大泣きしていた人だったから強く印象に残っている。
男子バスケ部の前キャプテンで日夏さんの彼氏の天海さんだ。
私は知っているけれど美月は知らないはずだし、万が一人違いだった場合困るので「天海さんですよね? 三年生の」と確認すると天海さんは「え? ああ、そうだけど」と答えながら私の顔をまじまじと見つめた。
「君は確か、伊織の妹の……」
「詩織です」
「ああ、そうそう詩織ね。そうか、それなら俺のこと知っていてもおかしくないか。それにしても……」
天海さんはさらにじっと私を見つめる。色々な角度から私を見つめてそれはもう凝視としか言いようがない。
「あの、何か私についてたりしますか?」
「うーん。いや、なんか前に見たときと印象が違うような気がしてな。二学期のいつだったかに廊下で伊織と話をしているところを見たことがあるんだけど、あのときはもっとこう……失礼な言い方だけど暗い印象だったからさ。こんなに明るい感じだったっけ?」
「前髪分けて目を出してるからだと思います……」
「いや、それもあるけどそれだけじゃない。全体的な雰囲気が変わった感じがする。うん、絶対にそうだ」
「雰囲気……美月、私なんか変わったかな?」
「えっと……言われてみれば確かに明るくなった気はする、かな。でも、うーん、はっきりとこう変わったってはなかなか分かんない」
天海さんの方に視線を戻すと、天海さんは口を半開きにして失礼ながら間抜けそうな顔をしていた。
「まあ、俺もなんとなくそう思っただけだし。でも、明るい方が真人も嬉しいと思うぞ」
適当なことを言っている気がするけれど、あの日夏さんが好きになった人で日夏さんのことを自力で救った人だ。きっと何か真意があるに違いない。
でもそれを聞く前に日夏さんの元に集まっていたバスケ部員の輪が解散して皆体育館の方に移動を始めてしまったため、何も聞くことができなかった。
「ちょっと大悟、アタシの可愛い後輩ちゃんたちにちょっかいかけてないでしょうね。大丈夫? 詩織ちゃん、美月ちゃん。怖いお兄さんに変な事されてない?」
私たちのもとに戻ってきた日夏さんが私と美月を抱き寄せて天海さんから引き離し、心配そうに声をかけてくれた。
「な、何もしてねーよ。ちょっと明るくなったなって言っただけで、真人のこともあるから俺なりに考えてだな……」
「大悟」
その一声で天海さんは口をつぐんだ。日夏さんは右の人差し指を立てて自分の唇に当て、天海さんに話をしないように指示をしているようだ。
「あの、真人君のことって……」
「うん? 真人が詩織ちゃんこと好きすぎてやばいよねって話。バスケ部一同、詩織ちゃんのこと応援してるからね」
日夏さんは私をもう一度私を抱き寄せて頭を優しく撫でる。
天海さんも真面目な表情に戻る。
「俺って結構バスケ上手くて色んな大学から誘われて選び放題だったんだけど、そんな俺から見ても真人はすごい選手なんだ。真人はきっと俺では届かないところまで行ける。ずっと真人のこと応援してやってくれよ」
「も、もちろんそのつもりです」
「それじゃ、アタシたちは帰るね。真人と伊織も荷物片づけたらすぐに来るからちょっとだけ待ってあげて」
日夏さんは私と美月に軽く手を振って天海さんと一緒に校門に向かって歩き出した。
歩きながら二人は手を繋ぐ。アイコンタクトもなしに、照れる様子もなしに、まるで当たり前のこと、帰るときのルーティーンであるかのように自然と手を重ねて歩いている。その姿は私と美月には衝撃的なもので、二人の関係に憧れてしまう。
「いいなぁ、ああいうの」
「うん、すごい自然な感じ」
「詩織は桜君と手、繋いだことあるんだよね?」
「う、うん、まあ。でも手袋してたしすごく緊張した。あんなに自然になんて絶対無理」
「私も、やばい。手を繋ぐ想像しただけで恥ずかしくてどうにかなりそう」
「美月はまずそのクッキー渡さないと。手を握るよりは簡単でしょ?」
「そ、そうだね。まずは一歩ずつ、だね」
日夏さんと天海さんの会話を聞いたのはほんの一瞬だ。でもその一瞬と先ほどの自然に手を繋いだ光景を見ただけで二人がどれほど仲睦まじい関係なのかが分かってしまい、私も美月もドキドキして熱くなって変なテンションになってしまいそうになる。
「詩織、深呼吸しよう」
「う、うん」
深呼吸をして心を落ち着かせながら私たちも自然と手を繋いだ。
美月と手を繋ぐと落ち着く。きっと美月も同じことを考えているだろう。美月とならすでにこんなに自然に手を繋ぐことができるのに。
いつかは真人君ともこんな風に手を繋げる日がくるのだろうか。そんなことを考えながら真人君と伊織が戻ってくるのを待った。
ほどなくして真人君と伊織が戻ってくる。
美月が伊織に色々なお礼ということでクッキーを手渡して微笑ましいやり取りをしているのを横目に私は真人君と向き合った。微妙に寝癖が残っているのを気にして髪の毛をいじくっている様子が可愛らしい。
本当は日夏さんみたいに真人君をしゃがませて櫛でとかしてあげるのが良いのだろうけれど、バスケ部員を始めとして部活帰りの人たちが結構周りにいる状況なのでそこまでする勇気は出ず、櫛と手鏡を貸してあげることしかできなかった。
美月は恋愛事になると肝が据わっていてすごいと思う。
「詩織さん、ありがとう」
寝癖を完全に整え終えた真人君が櫛と手鏡を差し出しながら言った。
「お疲れ様。伊織から聞いたよ、バスの中で寝てたって。昨日私と長電話しちゃったからやっぱり寝不足だったかな? ごめんね」
「そんなことないよ。詩織さんからパワーもらったからいつも以上に力を出せて活躍できたから感謝してる。でも力を使い果たしちゃったかも」
「じゃあ今度は長話せずに帰ろ。明日も学校だからちゃんと休まなきゃ」
本当はもっと話がしたい。
試合でどれくらいシュートを決めたのかとか、日夏さんと天海さんが部活にいたときの様子とか、昨日の夜に着ていたTシャツをどこで買ったのかとか、他にどんなシャツを持っているのかとか、進路をどう考えているのかとか聞きたいことは山ほどある。
でも今も少し眠たそうにしている真人君を見ていると早く家に帰して休んで欲しいと思わずにはいられなかった。
美月たちの様子を見てみると、伊織の手には美月の作ったクッキーがあって無事渡せたことが確認できた。二人とも真剣な表情をしていたので話している内容に聞き耳を立ててみるといじめの加害者への処遇についての話をしているようだった。
「美月さんがそうしたいって思って、詩織も納得しているなら俺は構わない」
そんな伊織の声が聞こえて私は安心することができて、美月が笑顔でいてくれることを何よりも嬉しく思う。
いつもの分かれ道で美月と別れ、私の家を目指して歩く。隣を歩く真人君は宿泊用の荷物が入った大きめの鞄を背負いいつも部活で使っている鞄をかごに入れた自転車を押している。
二月の夜七時前だと空はもう真っ暗で、危ないからと伊織に美月を送っていくように言ったところ私のことは真人君が送ってくれることになった。
美月との分かれ道から私の家まではたいした距離もないし疲れている真人君にそこまでしてもらうのは悪い気もしたけれど、せっかくの気遣いを無碍にするのはもっと悪い気がした。
街灯のおかげで道はそこまで暗くはないけれど、真人君の自転車の小さなライトが照らす道はいつもより安心して歩くことができた。真人君はやはり疲れているのか口数が少ない。というより私の家の場所とか必要なこと以外言葉を発しない。
でも私はこういうのも良いなと思った。変に気を遣わず自然体で沈黙も苦にならない、そんな関係になりつつあるような気がして、真人君と一緒にいるだけで心地良い。ただ隣を歩いてくれているだけで私の思いは強くなる。
小学五年生の頃から憧れていて、自分とは関わりのない遠い世界に行ってしまったと思っていた彼が、すぐそばの少し手を伸ばせば掴めるくらいの場所にいる。
彼のおかげで私の世界は広がって、色々な人と関わるようになって、自分のやるべきことが見つかって、彼は私のことを好きだと言ってくれて、彼は私を守ってくれた。
なんでも完璧でカッコいい彼にも意外と抜けてるところがあって、それがたまらなく愛おしくて、ふと寂しさを感じたときには彼の声を聞きたくなって、声を聞くと心が温かくなっていくのが分かって、私はたまらなく彼のことが好きだ。
バレンタインの日に気持ちを伝えると決めたのは自分なのに、もどかしく感じるくらい気持ちは溢れそうになる。
寒さを忘れるくらいに熱い気持ちで歩いた帰り道はあっという間で家の前に着いてしまった。
門扉のところで家に背を向けて真人君にお礼を言った。
「送ってくれてありがとう。ここ、私の家だから……」
「こちらこそ、詩織さんと一緒に歩けて良かった。それに学校に着いたとき出迎えてくれて本当に嬉しかったよ。伊織の奴、詩織さんに連絡してるなんて教えてくれなかったから」
私たちの間にしばし沈黙が流れた。また明日とか言ってすぐ後ろの家に入ればいいのに、自転車にまたがって自分の家に向かえばいいのに、私たちはただ見つめ合ったまま動かない。
私は溢れる気持ちを抑えようと必死で、真人君も何か言いたげな目で私を見ている。
「真人君、来週の水曜日の放課後、少しだけ時間もらえる? 伝えたいことがあるの」
別に今言ったって構わないのに私は意外と頑固な人間のようだ。
真人君は頷いて、うつむいて、顔を上げながら答えた。
「うん。俺も詩織さんに言わなきゃならないことがあるから、そこで伝えるね」
表情が悲しそうに見えるくらい真人君は疲れているみたいで、声も弱々しい。
「それじゃあまた明日。気をつけて帰ってね」
真人君は弱々しく手を振って帰って行った。少し心配ではあるけれどこれから休んで明日になればきっと元気な真人君に戻っているだろうし、きっと大丈夫だろう。
それよりも真人君も言いたいことがあるということは、バレンタインの日はお互いに告白し合うことになるのだと思うとドキドキしてワクワクして顔がにやけてしまって仕方がない。
駐車場にはお父さんの車があり、もうすでに帰っているようなのでこんなにやけ顔を見られたら余計な詮索をされてしまう。
私はしばらく深呼吸をしたりぼーっと空を見上げたりして心が落ち着くのを待った。今日も月は綺麗に輝いている。きっと真人君も同じ月を見ている。私たちは同じ世界にいて、この時間を共有している。
私が家に入ってから思ったよりも早く伊織は帰ってきた。あの分かれ道から美月の家まで歩いて、それからこの暗さの中で自転車をどれだけ早く漕いできたのだろうかと心配になったが、どうやら美月の両親に自転車ごと車で送ってもらったらしい。
私たちの両親と美月の両親が玄関でお互い頭を下げたり、私たちの両親が家の中に招こうとするが夕食の準備がしてあるということで美月の両親が遠慮したり、大人たちのやり取りがされていたので私は挨拶だけはして大人の話には加わらず、伊織の部屋で伊織と話をすることにした。
美月のクッキーのこととか、帰り道どんな話をしたのかとか、加害者を退学にしたくないという美月の思いを本当はどう思っているのかとか、聞きたいことは山ほどある。
「クッキー美味しかった?」
「まだ食べてないよ」
「帰り道何話したの?」
「今日ずっと話を聞かれて大変だったこととか、泊まりのとき男子ってどんな話するのかとか」
「やっぱり美月も気になってたんだ」
「お前も気になってたのか?」
「うん、真人君に聞いたりした」
私は自分の部屋から持ってきたクッションをお尻にひき、出入り口のドア付近に座って着替えや荷物の整理をする伊織と会話をしている。小学四年生の頃まではよくこうして話をしていたのを思い出して、なんとなく懐かしくてまたやってみた。
あの頃の伊織はベッドに座って私と正面に向き合って良く笑いながら話をしてくれた。中学生の頃の伊織は着替えるから出て行けとか忙しいから後でとか私を邪険に扱っていたけれど、今の伊織は私の方を見ずとも出て行けとか言わないし聞いたことには答えてくれる。
「女子はどういう話をするんだ?」
「別に男子と変わらないよ。まあ、私はエッチな話はしたことないけど」
「俺だって……ないよ」
「何その間。ほんとはしてるんでしょ。日夏さんとかおっぱいおっきいもんね」
「ば、馬鹿言うな。部活の先輩のしかもキャプテンの彼女をそんな目で見ねえよ」
「ほんとかなぁ」
「ほんとだよ。あの人は俺らにとってそういうんじゃなくて、なんていうか……お母さんみたいな、あ、これ俺が言ってたって絶対言うなよ。しばかれるから」
伊織の本気で焦っている様子を見るに冗談ではなさそうだ。学校で天海さんも言っていたし、きっと誰かしばかれた経験があるのだろう。
もとより言うつもりはないけれどせっかくのチャンスだ。交渉に使わせてもらうことにしよう。
「じゃあ、私の質問に正直に答えてくれたら言わないであげる」
「さっきから結構答えてた気がするけど……まあいいや、何?」
着替えも荷物の整理も終えた伊織はベッドに腰かけて私と正面に向き合う。
「久しぶりだな」
「何が?」
「いや、なんでもない。質問は何?」
なんとなくすっとぼけてみたけれど、伊織も昔のことを覚えていたことが分かって少し嬉しかった。最近の伊織は気が利くし、優しいし、大事な思い出をちゃんと覚えているし、美月にふさわしい。
「美月の話を聞いてどう思った? 加害者を退学にしたくないって話」
一応学校でチラッと聞こえていたけれど私が聞きたいのは美月への言葉ではなくて伊織の本心だ。本心で納得していなかったら美月のためにも伊織のためにも私が説得するしかない。
伊織はベッドに腰かけたまま後ろに倒れこみ、反動で足が高く上がった。やがて伊織の足は床に戻ってくる。ハーフパンツから見えるふくらはぎはそれほど太くは見えないのに筋肉はしっかりとついていて、まるでスポーツ選手のようでもう小学生のときとは違うということを私に実感させる。
冬でもハーフパンツが好きなのは小学生の頃から変わっていない。
ベッドに寝っ転がったまま伊織は天井に向けて答えた。
「優しいなって思った。自分をいじめた人の人生を心配するなんて俺にはできない。詩織と仲良くしてくれるくらいだから優しい人だとは思っていたけど、それ以上に心配になるくらい優しい人なんだなって思った」
「失礼な……でも私はそういう美月が大好き。伊織は?」
「俺さ、優しくなりたかったんだ」
さすがに美月のことが好きかどうかは答えてくれなかった。
でも、伊織が自ら語った話の続きはその答えを確信させるものだった。そして、高校に入ってからの伊織の変化を物語っていた。
「去年の高校入試で詩織が第一志望の高校に落ちたと知ったとき、泣いてただろ?
小学校高学年からすっかりおとなしくなって感情を露わにすることなんてほとんどなかった詩織が、初めて見るくらい大泣きしてた」
忘れるわけがない。
リビングのパソコンで、受験した高校のホームページの合格発表のページをお母さんとお父さんと一緒に見て、自分の受験番号がないことを確認して、それまでの努力がすべて無駄になったような気がして、応援してくれたお母さんとお父さんに申し訳なくて、力を発揮できなかった自分が情けなくて、お母さんの胸の中で、二人の慰めの言葉も耳に入らないくらい大泣きした。
真人君や美月と出会えたから今となっては結果的に良かったと思っているけれど、この悔しさを忘れたことは一度もない。
「俺はそのときに何も声かけられなくて、泣いてる詩織を見るのがつらかった。あんな詩織を見たのは初めてでどうしたらいいか分からなくて、この部屋で気づいていないふりをしてた」
「見てたんだ、あのとき」
「ああ、それで詩織がもう泣かないように優しくしてやろうかなって思ったんだ」
「何それ、同情?」
「最初はそうだったかも。でも中学を卒業した後の春休みにバスケ部の練習に参加することになって、真人と再会したら変わった。まだ中学生のくせに即スタメンレベルの実力があって、それに驕ることなく練習で一切手を抜かないどころか家でも練習してるって言うし、普段はめちゃくちゃ良い奴でマネージャーの手伝いとか積極的にやってて、本当にすごい奴だった。それで真人みたいになりたいと思ったんだ」
「真人君みたいって?」
「真人くらいバスケが上手くなって、詩織だけじゃなくて誰にでも優しくできて、皆を助けられるような人間になりたいって思ったんだ。ほんとは身長も真人くらいになりたいけどそれはもうどうしようもないかな」
「確かに、伊織は中学の頃より頑張ってる感じするし、優しくなった感じはしてたよ」
伊織は未だにベッドに仰向けに寝っ転がって天井を見つめているため表情は見えないけれど、私の言葉に照れくさそうに笑ったのは分かった。
立ち上がって顔を覗き込むこともできるけれど伊織がこんなに自分のことを語ってくれるのは珍しいことで、機嫌を損ねたくないのでやめておいた。私も同じことはされたくない。
「一ヶ月以上俺なりに頑張った。朝練は俺か大悟さんと日夏先輩が一番早かった。今思えば部活ではなかなか二人きりになれないから二人にとって大事な時間だったのかもしれないけど、そんなことには気づかないで大悟さんにドリブル教えてもらったり日夏さんに用具の整理とか掃除の仕方をかなり詳しく教えてもらったりしたんだ」
「ドリブルか、真人君言ってたよ。伊織はドリブルが上手いんだって」
「まあ大悟さんに鍛えてもらったから、今はな。入学当初はたいしたことなかった。ドリブル以外も全部だけど」
「そうなの?」
「俺みたいな一般入部生と真人みたいな特待生とかスポーツ推薦の人を比べると力の差は歴然って言うか、俺は練習についていく体力すらギリギリだった。中学の頃は俺がチームで一番上手かったのに全然通用しなかった。四月と五月の連休前に、連休中は合宿があって一日中練習したり試合をしたりするって聞いて正直不安で、この時期一般入部生の中には辞める奴もいるって聞いてたから、俺もそうしようかなって少し思ってた」
「知らなかった。伊織がバスケ辞めたいなんて思うことあるんだ」
「そのときはそれくらいつらかったんだよ」
「じゃあなんで今こうして続けてるの?」
これまで私の質問にテンポ良く答えてくれていた伊織はここで大きく間を取った。てっきりバスケが好きだからとか即答するものだと思っていたので不思議に思い、つい立ち上がって伊織の顔を覗き込んでしまった。
伊織は首を少しだけ動かして私を目を合わせ、いつもの伊織からは考えられないくらい小さく弱々しい声で私に言った。
「誰にも言わない?」
「う、うん」
「真人にもだぞ」
「うん」
伊織は再び天井を見上げて話を始める。私もクッションに座り直してしっかりと話を聞く姿勢になる。
「四月の末頃の放課後、俺は学校の外周を一人でランニングしていたんだ。俺の少し前をサッカー部の一年生が集団で走ってて、校門の近くでその中の誰かが下校途中の女子とぶつかるのが見えた。その子は転んじまったけど誰も止まらなかった」
美月だ。一月の模試の日、美月が話した伊織との馴れ初めの話だ。伊織も覚えていたんだ。
「助けようって思った。中学までの俺なら俺は悪くないからって無視したと思う。でも詩織に優しくするのと同じくらい他の人にも優しくしようって真人のおかげで考えるようになってたから、躊躇せずに駆け寄って手を差し伸べることができた。保健室に付き添おうって思ったけどその人すごく泣きそうで足を痛そうにしてたから、肩を貸して思いつく限りの優しい言葉をかけて励まして保健室に連れて行った。消毒とかしてもらって保健室を出て、俺がランニングに戻ろうとしたとき……」
再び伊織が間を取った。
「この先も聞きたい?」
「当たり前でしょ。こんなところで焦らさないで」
伊織はまた照れているようで言い淀んでいる。でも私はこの先を聞くまで今いるドア付近の場所から離れるつもりがないので、もう伊織は言わないと部屋から出られない。
「誰にも言うなよ。反応するなよ。俺と話すときも話題にするなよ」
念入りに口止めして私が了承すると、ようやく伊織は話してくれた。
「優しくしてくれてありがとう。部活頑張ってねって声をかけてくれたんだ。少しは優しい人間になれたんだって思えてすげえ嬉しかったし、家族とか友達とか部活仲間以外から応援されるのって初めてだったから、これもものすごく嬉しくて、つらい時期も乗り越えられた。あの声で色々救われたんだ」
このとき美月は伊織のことを好きになった。
そして伊織は美月に救われて、きっと……。
「詩織のことが少し心配だった。全然仲の良い友達がいなくてほとんど一人でいたから。小学校のときみたいに俺の友達の中に入れてやることなんてできなかったから学校でたまに話し相手になるくらいしかできなかったけど、中間テストが終わったら美月さんと詩織が仲良くしていて、安心したし嬉しかった」
伊織がベッドから降りて立ち上がった。話はここで終わりという合図だろう。結局美月のこと好きなのかどうかはっきりとさせたい気持ちもあったけれど、この件に関しては反応しないと約束したので何も聞かなかった。
話をしている最中の伊織の声色や話し終えた今の表情を見れば、その答えは容易に察することができた。きっと私が望む答えだ。
「そろそろ夕飯だし自分の部屋に戻って着替えとけよ」
「あ、うん」
私も立ち上がって伊織の部屋を出ようとドアノブに手を伸ばしたところで唐突に尋ねられた。
「そういえば、学校で大悟さんと何か話してたよな? どんな話してたんだ?」
ちょうど良い。私も気になっていたことだ。
「二学期に見たときより雰囲気変わったなって言われた。明るくなった気がするって。伊織もそう思う?」
伊織は私の頭のてっぺんから足元まで目線を動かし、再び足元から私の顔まで目線を戻してから言った。
「そう言われてみればそんな気もするな。二学期まではあんまり笑わなかったし、楽しくなさそうだったけど、今はなんか楽しそうな感じはする」
「そう、かな。確かに二学期と比べれば楽しみなことはいっぱいあるかも」
いじめの問題もこれ以上広がることはない状態になり心配事はない。バスケを見るのも楽しいと思えるようになったし、蘭々たちのような新しい友達もできた。
来年のクラスも楽しみだし、何より美月と伊織がついにくっついてくれそうだし、私の恋も叶いそうなところまで来ている。
真人君たちを応援して、たまに二人で遊びに行ったり四人で遊びに行ったりして、美月と励まし合って競い合って勉強も頑張って、楽しく過ごす未来が見えている。それはもう楽しくて仕方がないことが待っているはずだ。
あんなことやこんなこともいつかきっと……。
「なんだよそのだらしない顔」
「おっと」
しまった。美月みたいに妄想に更けてとんでもない顔をしてしまっていたかもしれない。
急いで表情を元に戻して視線を伊織に戻すと、伊織は何かを言いたそうでつらそうな、悲しそうな顔をしていた。
「そっちこそ何、その顔。なんでそんなに悲しそうな顔してるの?」
「いや、別に……楽しそうで良いなって思って」
「伊織だって楽しみなことあるでしょ?」
美月のこととか。
「ないわけじゃないけど……詩織、もう何回も聞いたかもだけどお前は真人のこと好きなんだよな?」
「うん」
もう今更の質問だ。今更聞く意図はよく分からないけれど、否定したり誤魔化したりする意味はないので正直に答えた。
「素直で良いな」
「それがどうかしたの?」
「告る予定は?」
「……来週、バレンタインだからそこで。応援してね」
「応援しなくても結果は分かってる。お前らの気持ちは知ってるから」
「じゃあもっと嬉しそうにしてよ。大切な妹と自慢の親友が、その、お付き合いすることになるんだから」
「……大切な妹、ね。あんまり良い兄貴になれなくてごめんな」
「何言ってるの? ちゃんと優しくて良いお兄ちゃんだったよ。感謝してる」
一階から私たちを呼ぶお母さんの声が聞こえた。美月の両親が帰り、夕飯の準備もできたようだ。
「俺は詩織のことを……いや、なんでもない。引き留めてごめん、早く着替えて降りて来いよ」
伊織はドアを開けて部屋を出て行ってしまった。
パタンと音を立ててドアが閉まると私は伊織の部屋に一人取り残される。
「電気点けっぱなし……」
ドアの近くにある電灯のスイッチで部屋のライトを消そうとするとふと伊織の勉強机が目に入った。日夏さんに教育された成果なのか小中学生の頃よりもずいぶんと整理整頓がされた机の上には美月から貰ったクッキーが置いてある。
帰り道では手に持っていなかったから鞄にしまっていたはずだが、私と話しながら荷物の整理をしているときには勉強机に近づく様子は一切なかった。
つまりは伊織が家に帰ってから私が美月の両親に挨拶をして伊織の部屋に来るまでのわずかな時間に鞄からクッキーを取り出して机の上に置いたことになる。
鞄の中に入れっぱなしで他の荷物とぶつかって崩れるのが嫌だった。ただそれだけのことだとしても、伊織が美月の気持ちを大事にしてくれているみたいで嬉しかった。
悲しげに見えた伊織も真人君と同じように疲れていたのだろう。美月特製のはちみつレモン入りのクッキーを食べれば明日には元気になっているに違いない。
翌朝、バスケ部は昨日までの疲れもあるだろうから朝練も含めて練習は休みということで珍しく伊織がまだ家にいた。家を出るところまでは一緒だったものの、もう私を守る必要はないと判断したのか自転車に乗って先に学校に行ってしまった。
昨日の良い兄貴がどうたらとかいう話はなんだったのかと思ったが、美月と合流してすぐに私と一緒に行ってくれなかった理由は明らかになる。
「伊織君がね、昨日の夜にね、美味しかったよ、ありがとうってメッセージくれたの。また作って良い? って聞いたら楽しみにしてるって。もう私、すごく嬉しくて……」
私と一緒に登校すると必然的に美月と合流するから、美月とのやり取りを私に見られるのが恥ずかしかったのだ。意外と初心な奴。
「……それで今度の土曜日はバスケ部休みだから一緒にエプロン買いに行くことになったんだ。詩織も桜君のこと誘ってみたら? 部活休みなら遊びに行けるんじゃない? 日曜と月曜は練習だって言ってたからここしかチャンスないよ」
「た、確かに」
初詣のときにまた一緒に遊びに行く約束はしたものの真人君は部活で忙しかったし、そうでなくても遊びに行くような気分になれない出来事があったので一ヶ月以上約束は放置されたままだった。真人君が都合の良い日に誘って欲しいと言っていた気がするけれど私から誘っても別に良いだろう。
「お互い頑張ろうね」
「うん」
色々なことを乗り越えた私たちの行く手を阻むものは何もない。そんな気持ちで前を向けている。天海さんや伊織に言われたことはあながち間違っていないと自覚できるくらいに、これからのことが楽しみで自然と笑顔になれている。
いつもの通学路なのに足が軽やかで心が弾んでいる。今学校は重苦しい雰囲気に包まれていることなんて忘れてしまうくらいに、私の視界は希望で溢れている。
この日も美月は一日中保健室で聞き取りをされていた。私は今日は呼び出されることはなく教室で自習と授業が半分ずつの一日を過ごした。
真人君や伊織も話を聞かれているという情報はどこからともなく伝わってきて、さらに昨日の時点で加害者であることが確定している人は処分が決まるまで出席停止を命じられているらしいという噂まで私の耳に入ってきていた。
放課後に真人君に土曜日の件の話をするとなんだか難しい顔をしながらも了承してくれて、どこに行きたいかを後日相談することになった。何か予定があったのではと尋ねるとそういうわけではないと言うのでそれ以上は追求しなかった。
なんとなく浮かない表情をしていてまだ疲れが残っているのではないかと思ったのでしっかり休むように言うと、真人君は「ありがとう」と言いながらいつもの真人君のようで少しだけ違う憂いを帯びた微笑みを私にくれた。
呼び出されたり呼び出されなかったりを繰り返して迎えた金曜日の放課後、私は白雪先生から保健室へ呼び出された。
保健室に入ると奥のスペースに通され、聞き取りが終わっても教室に入ることができずに一日を保健室で過ごした美月と並んで椅子に座った。テーブルをはさんで美月の正面に白雪先生が座って私たちと向き合う形になった。
「悪いね、放課後にいきなり呼び出して」
白雪先生はいつになく真剣な表情だ。それだけでこれから大事な話があるのだと分かる。
「学校というのは一つの方向に動き始まれば早いものでね。月曜から昨日までの聞き取り調査の結果を踏まえて昨日の職員会議で加害生徒への処分の内容が決まったんだ。本当は生徒に詳細を話すべきではないんだけど二人には私から説明して欲しいって校長直々に言われたから、業務命令ってことで説明するよ」
隣に座る美月が息を飲み、膝の上で拳を握るのが見えた。私もつられて手に力が入る。
「加害生徒は全員無期限の停学」
その一言で私も美月も握っていた拳を緩める。美月の優しさは先生たちに届いたようだ。
「まあ無期限と言ってもおそらく終業式後に解除されて四月からは普通に登校するようになると思うけど、学年末テストは受けられないから留年の可能性が出る子もいるかも。三年生に加害者はいなかったみたいだけど卒業式にも出られないし、停学期間中は外出を最低限にして他の生徒と会うことがないように指導されるから、お世話になった先輩にお別れを言うこともできない。停学中に違反を犯すと即退学になる」
白雪先生は停学による影響を淡々と説明すると、大きく息を吐きながらいつもの緩い表情に戻って椅子の背もたれに寄りかかった。優しい目で美月を見ている。
「処分の対象者は一、二年生の女子生徒三十二人。SNSに二人の悪口を書いた生徒も誰に向けたものか明らかな場合は処分対象。あなたたちのお友達の秋野心愛だっけ? あの子が特定した裏垢は学校で依頼した業者とほぼ一致していて業者よりも情報が早かったから処分の早期決定にものすごく貢献してくれたよ」
白雪先生は背中を背もたれから離して少し前のめりになり、テーブルの上の美月の目の前に右手を置いた。その動きにつられて美月は左手を差し出すと、白雪先生は右手を美月の左手の上にそっと重ねる。
よく見ると美月の手は少し震えていた。自分の提言で処分が変わったことで色々な感情が交錯しているのだろう。
「会議は揉めたよ。原則通り退学にすべきだという人もいたし、被害者自身が望んでいないなら退学にすべきでないっていう人もいたし、そもそも処分対象の三十二人にはこそこそ陰口を言っていただけの連中は入っていないからそれに不満を持っている人もいた。まあ学校としてはそんなに大量に退学者を出したくなかったのもあって長い話し合いの結果、美月に甘えることに決まったんだ。今まで無期限停学って実際は二週間くらいで解除されてたんだけど、今回は最低でも終業式までって決まったのは退学にすべきっていう意見との無理やり作った妥協点ってところだね」
白雪先生は両手で美月の左手を包み込むように握った。私もテーブルの下で美月の右手を自分の両手で握った。美月の手は私の手より少しだけちっちゃくて、柔らかい。
美月を見つめる白雪先生の眼差しが再び真剣なものになる。
「この判断が正しかったかどうかはまだ分からない。美月がもう二度と同じような思いをせずに学校生活を送ることができて、笑顔で卒業してくれたとき初めて正しかったと言えるんだ。だから私たちはそれを全力でサポートするから、なんでも相談して」
「はい」
「詩織もだよ。何自分は美月を支えるだけの存在ですみたいな顔してんの?美月のことになると自分も被害者だってこと忘れてるでしょ。メンタル強いのは良いことだけど、伊織とか真人とか心配してくれる人にはちゃんと甘えるんだよ」
それはもう仕方のないことだ。私の方は美月や皆の支えのおかげで割と早い段階で乗り越えてしまったし、美月が嬉しそうに、楽しそうにしているのを見れば私のメンタルは回復するし、現状は順風満帆と言える状況なので特に相談したいこともない。
真面目な話を終えた私たちは間近に迫ったバレンタインデーの計画について話し合い、白雪先生の成功談と失敗談からのアドバイスをもらって保健室をあとにした。
翌日は伊織と一緒に家を出た。私と真人君は駅周辺に、美月と伊織は駅とは反対側の郊外にある商業施設が集まったエリアに行くことになっていて、お母さんには本当のことを言っているがお父さんには伊織と二人で出掛かけてくると言っている。
真人君を紹介するのは正式にお付き合いすることになってからと思っているのもあるし、今日はお休みのお父さんはこっそりついて来かねないからだ。
一度美月の家に行って美月と合流するため庭の駐輪スペースで自転車の準備をしている伊織にどうしても言っておきたいことがあったので声をかけた。
「ねえ伊織、良いこと教えてあげる」
「何?」
「美月の好きな色はね……」
「パステルカラー全般、だろ?」
「え?」
なんで伊織がそんなことを知っているんだ。結構前に電話で色々話したことがあったのは知っているけれどそのときは好きな色なんて話していなかったはずだ。二人が進展するのは嬉しいが私の知らないところで勝手に進まれるのはなんだか寂しい。
「なんだよその顔。俺が美月さんの好きな色を知ってるくらいでそんな悲しそうな顔すんなよ」
「む、むう。じゃあ好きな食べ物は?」
「チョコレート」
「す、好きな音楽は?」
「クラシック。テレビでオーケストラの映像を見たのがきっかけで、本当はヴァイオリンを習ってみたかったけどそこまでのお金はないから中学では吹奏楽部に入って同じ弦楽器のコントラバスをやってたんだってな」
「な……」
そんなエピソードまで含めて知っているなんてもう私と同等レベルに仲良しじゃないか。
「嫌いな食べ物は牡蠣。小学三年生の頃あたっちゃって大変なことになったのがトラウマでそれ以来見るのも嫌になったらしい」
「何それ、私そんなの知らない」
伊織が「フッ」と私のことを鼻で笑いながらスタンドを立てた状態の自転車のサドルにまたがった。
まさか美月のことで伊織にマウントを取られるなんて思ってもいなかったのでショックは大きい。
でも、これから伊織は私が知っている美月のことなんてすぐに知って、私が知らない美月のこともたくさん知っていくのだろうと思うと感慨深くなり、とっておきの美月の情報でマウントを取り返そうという気持ちは一瞬で消え去った。
「でもなんでそんなこと知ってるの? いつの間に……」
「風美が教えてくれたんだ」
「風美って美月の弟の風美君? 小学生の? いつの間に連絡取り合うような関係になったの?」
「お前が美月さんの家に泊まったときだよ。玄関でお前らと別れた後、庭のプレハブ小屋を覗いてみたら一人で卓球の練習をしてる風美を見つけて少し話をしたんだ。あいつ四月から親元離れて遠くの学校で寮暮らししながら卓球に打ち込むんだって、すごいよな」
「そのとき連絡先交換したんだ……」
「ああ。あいつも美月さんのことすげー心配してて、姉ちゃんをお願いしますって頼まれちまったのもあって加害者捕まえるのを頑張った」
それもあるけどそれだけじゃないと思う。私は風美君と会ったのは一度だけだが、あの賢くて察しの良さそうな雰囲気を見るに美月の気持ちには当然気づいていていじめの解決のその先のことも言っているに違いない。だから伊織に美月のことを色々教えてサポートしているのだ。
「歳も競技も違うけどあいつはマジで尊敬する。あの歳で練習に妥協がなくてさ、納得がいくまでひたすらサーブを打ち続けて、一段落したときちょっとだけ相手させてもらったんだけど空振りばっかりだったし、たまにラケットに当たってもまともに返せなかった。卓球素人の俺相手に容赦なく本気のサーブを打ってくるし、真剣なのに楽しそうだし、俺が帰るときにはめちゃくちゃ丁寧にお礼を言ってくるしなんか真人みたいだった。ああいう奴が大きい舞台に行けるんだろうなって思ったよ……卓球クラブの練習午後からだって言ってたから一声かけていこうかな」
「ちょっと、今日の目的は美月でしょ」
伊織のスポーツマンの血が騒いだのか風美君との思い出を語る伊織はとても早口で楽しそうだ。美月より風美君に興味を持っていかれるのはまずい。
でもその心配はいらなかったようで、伊織は私の文句に優しく微笑む。
「風美が言ってたんだ。うちは生活に困ってはいないけどそんなに裕福じゃなくて、一番上のお姉さんが医学部受験のために塾に通っていたこととか、自分が卓球クラブで本格的に卓球に取り組めているのは美月姉ちゃんが自分のことを色々我慢してくれたからだって。自分がヴァイオリンを習いたいのも我慢して、中学のときに塾に通うのも我慢して、高校でも吹奏楽を続けるのも我慢して、誕生日やクリスマスには必ず卓球で使う消耗品をプレゼントしてくれるし、お姉さんの受験期には毎日のように夜食を作ってあげてたんだってよ。そのおかげでお姉さんはお金のあまりかからない県立の医大に入れたから、自分は必ず卓球で世界に通用する実力を身につけて国際大会で活躍して、スポンサーとかいっぱいつくような選手になってCMとかテレビとかにも呼ばれるようになって、実力も人気もあってお金を稼げるような選手になって恩返ししたいんだってさ。ほんとにすごいよな」
小学六年生にしてそこまで言える風美君もすごいけれど、そこまで言わせる美月もやっぱりすごい。家族に対しても優しい子であることはお母さんから聞いていたが具体的なエピソードを聞くとその解像度が上がる。
「それを聞いたらもっと美月のこと好きになったって、美月に伝えておいてよ」
「それは無理だ。風美から美月さんには内緒にしてくれって言われてるから」
「残念」
「そろそろ行くか」
伊織はサドルにまたがったままの状態で器用にスタンドを上げて地面を蹴りながらゆっくりと移動を始めた。
門扉を出たところで真人君が待っている。変なTシャツは着ていないようなので安心だ。
「初詣のときと同じ格好をして来いって言って正解だったな」
かくいう私も初詣のときとほとんど変わらない格好をしている。違いは髪の編み込みと薄い化粧をしていないくらいで、せっかく買ったゆるふわコーデは私の一張羅となっているので冬の間は何度も着るつもりでいる。
春になったらどうしようかと悩み中だ。
伊織は私に聞こえないように真人君と内緒話をすると、美月の家に向けて自転車を漕ぎ出した。
真人君は私たちの家の駐輪スペースに乗ってきた自転車を置いて私と一緒に近くのバス停に向けて歩き出す。二人とも同じ銀色の車体の自転車なので遠目で見たら違う自転車に見えないしお父さんに不審がられることはないだろう。
今週は何かとイレギュラーなことが多く、真人君としっかりと話すのは月曜日以来だったけれどそのときの疲れた感じや悲しそうな表情は見られない。いつもの優しくてカッコ良くて笑顔が可愛い真人君がいた。
くだらない会話をしたり、些細な気遣いをしてもらったり、そんなことで幸せを感じられる。
バスを降りて向かったのは駅前の映画館。見るのは恋愛小説を原作とする実写映画で、原作を持っている美月が映画を見に行くならこれが良いと大プッシュしていたものだ。
恋愛物の映画を男女二人で見に行くなんてまるでカップルみたいで照れくさいと思ったけれど、初詣のときに美月からもらった教えは私の中に残っていて堂々とすることを心掛けた。だってもうすぐ本当になるのだから、これはそのときの予行演習だ。
二人分のジュースと二人で大きめのサイズのポップコーンを一つ買ってシアターに入ると映画のジャンルからしてやはりと言うべきか男女のカップルが多い。入ってくる人たちは手を繋いだり腕を組んだりしていて、座っている人たちは肩を寄せ合っている。
周りに人はいるけれど二人だけの時間や空間というか二人だけの世界が出来上がっていて、私はまだその境地には至っておらず、まだまだなのだと思い知らされる。堂々とするつもりでいたけれどカップルの先輩たちを前に縮こまざるを得ない。
「これが本物……」
「詩織さん、どうかした?」
「ううん、座ろっか」
座席につきしばらくすると映画の上映が始まる。こうやって映画館で映画を見るのは小学三年生か四年生ぶりのことだ。
お父さんと伊織との三人でよくアニメの映画を見て、映画が終わったらお母さんが働いている百貨店でお母さんの仕事が終わるまで遊んで、近くの喫茶店で夕食を食べて帰ってくるというのが月に一度の楽しみだった。
私と伊織はオムライスとパンケーキが大好きで、大きくて食べきれないパンケーキを二人で半分こにして食べていたのが懐かしい。
その思い出の中で映画のときに私の隣の席にはお父さんがいたけれど、今は隣に真人君がいる。
真剣に本編開始前の映像を見つめる真人君の横顔を私は見つめていた。
映画の本編が始まった。幼馴染の高校生の男女がくだらないことで口喧嘩しながらも様々なイベントを経て仲を深め、幼馴染から恋人へと関係が変化していく前半パートは、見ていて恥ずかしくなるくらい甘酸っぱいシーンや笑えるコメディシーンもあってまさに青春そのもの。
後半パートでは卒業に向かう風景が描かれていて、夢のために遠い地へ行くことを選んだ男の子と地元の大学に通うことに決まった女の子、二人がこれからの話をするシーンはまるで二年後の私と真人君を見ているようだった。
隣り合って座って間に置いたそれをたまに同じタイミングで取ろうとして手が触れ合ったりするからポップコーンはマストだよ、と美月に言われて買ったポップコーンをほとんど食べる暇もないほどに私も真人君も映画に見入っていた。
ラストシーンは男の子が旅立つ日の空港での見送り。
必ず迎えに来るという男の子と必ず追いかけるという女の子が互いに譲らず冒頭にあったようなくだらない口喧嘩をしながらも徐々に距離を詰めていって、いつの間にか二人の言葉はいつか必ず再会するという約束に変わって、初めてのキスをしたところで物語は幕を閉じる。
エンドロールまでしっかり見終えた私たちはシアターから出た直後に立ち尽くした。映画の感動や切なさが心に深く刻み込まれていて、没入感が消えずにいる。
「とりあえずどこかに座ろうか」
「うん、あ、あそこにベンチがある」
「これも片付けないとね」
館内に設置されたベンチに座って大量に余ったポップコーンをつまみながら二人で映画の感想を語り合った。
まるで自分のことのように男の子の気持ちを想像して語る真人君を見ると、やはりアメリカの大学に行こうと考えているのだと思う。そう思えるくらいに真人君の表情は真剣で深刻で何かを訴えかけるような目をしていて、「高校を卒業したらアメリカに行くの?」なんてことを聞く勇気は私にはまだなかった。