「なんで……?」

 そこにはいないはずの人がいた。

 真人君がその左手を割れた卵で汚しながら私と彼女たちの間に立った。

「真人、詩織」

 伊織が調理室の中に駆け込んでくる。

「悪い、遅くなった。無事か?」

「詩織さんは……でも萩原さんの方は間に合わなかった」

「ま、あとで謝るしかないな。でも、やっと捕まえた。もう逃がさない」

 伊織は真人君よりも前に出て彼女たちににじり寄る。真人君の影から見える彼女たちは、私一人を相手にしていたときとは打って変わって動揺の色が隠せなくなっている。

 近づく伊織に対して後ずさりし、視線をキョロキョロとさせて逃げ道を探しているようだ。

「今までのこと、全部お前らか?」

 こんなに落ち着いていながらも、怒りに満ちた伊織の声は初めて聞いた。大声で怒鳴るよりも的確に相手に恐怖心を植え付ける。

「ち、違う。私らだけじゃない。他にももっと……」

「そうだよ、他の子たちもやってるんだから私たちだけ責めないでよ」

「謝るからさ、ね、いいでしょ?」

「私ら部活あるしこういうのばれたらやばいんだって。ね、あんたたちもバスケ部なら分かるでしょ?」

 この期に及んで言い訳を重ねている彼女らを許す道理は微塵もなくなった。きっと伊織も同じ気持ちだ。

「責めてなんかないし、謝る必要もない。でも、見逃すつもりもない。お前らみたいな人間は部活なんてやる資格はない。自分たちがやったことを全部話して、知ってる限りの他の加害者も全部吐いて、それ相応の処分を受けて、二度と詩織や美月の前に顔を見せるなよ」

 いつの間にか全員調理室の端っこに追い詰められて、もう伊織に何も言い返せなくなっていた。逃げ場を失った四人は必死に打開策を探っている。そして外へと通じる出入口を見つけた。

「逃げよ、写真とか撮られてないしこいつらの証言だけじゃ証拠にならないよ」

 部活がどうこう言っていた二年生が他の三人に声をかけたときだった。四人が目指そうとした出入り口の扉の鍵が外から開けられ、扉が開き、ゆっくりと人が入ってきた。

 入ってきたのは藤田先生。四月からおそらく私たちの担任になる、今は一年三組で伊織の担任の先生だ。

 藤田先生は無言のまま調理室の中を見渡す。怯えた顔で逃げようとしている四人、静かに怒っている伊織、私の前に立って状況を見つめている真人君、真人君の後ろから覗き見ている私、投げつけられた卵がべったりとついた私の後方のガラス窓、そして扉のないロッカー。

「あれをやったのは君たちか?」

 先生はロッカーと四人を交互に見ながら尋ねた。彼女たちはじっと先生を見つめたまま動きもせず、言葉も発しない。

「はいかいいえで答えるだけだ。あのロッカーの惨状は君たちがやったのか?」

 彼女たちはまだ何も言わない。痺れを切らした先生は呆れた顔で私の方を見た。

「春咲……ああ、詩織。すまないが生徒指導室にいる先生を呼んできてくれ」

「あ、はい」

 生徒指導室には四人の先生がいて、何人連れて行けば良かったか分からなかったので全員来てもらうことにした。

 結果的にその判断は正しく、四人の女子生徒たちは口裏合わせをしたり、都合の良いように話を合わせたりしないようにそれぞれ別室に連れて行かれ、一人ひとり話を聞かれることになった。

 調理室には戻ってきた私と、藤田先生、伊織、そしてここにいないはずだった真人君が残った。

「申し訳ない、こんなに時間がかかってしまって」

 藤田先生が私たち三人に頭を下げた。

「いえ、先生が来てくれなかったら逃げられて誤魔化されていたかもしれませんし、こっちこそ俺らのこと信じてくれてありがとうございました」

「大会に行ったふりをして学校に潜んでるなんて何考えてるんだと思ったけどな。しかも二人も。冬澤《ふゆさわ》監督もよく許可したもんだ」

「監督はバスケよりこういうのに厳しいので。やることやってからじゃないと大会に連れて行ってもらえないんです」

「しかし、伊織はともかく桜はどこにいたんだ? その身体じゃ目立って仕方がないだろう」

「えっと、基本校舎の外から見張ってて、授業中や昼休みは部室で裏垢見張ってました」

「裏垢か。そのおかげでここが分かったんだもんな。スマホ回収の際にダミーを提出する生徒がいるのには気づいていたが証拠が残るような使い方をする奴がいるとは思わなかったよ」

 三人は事情を共有している様子。私だけ何も知らなくて置いてけぼりで少し寂しい。

「あ、あの伊織はともかく、なんで真人君と藤田先生もここにいるんですか?」

「君らに嫌がらせをしている生徒がいるってことは知っていたから授業がないときにはよく校舎内を巡回をしていたんだ。怪しい動きをしている奴を見つけたと思ったら伊織だった。それで事情を聞いたんだ」

 伊織はバツが悪そうに苦笑いしている。「誰にも見つからないつもりだったんだけどなぁ」なんて呟く姿は先ほどまでの怒りが消えて、いつもの優しい伊織に戻っている。

「真人君はどうして?」

「前に詩織さんにはバスケ優先で良いって言われたり、伊織にも行けって言われたけどやっぱり放っておけなくて。自分の手で詩織さんを守りたかった。一昨日は皆と一緒に大会に行くつもりだったけど、昨日考えが変わって監督に許可貰った。伊織が俺がいるって分かったら詩織さんが探しちゃうから黙っとけって言うから言えなくて……萩原さんには申し訳ないけど、詩織さんは間に合って良かったよ」

「そうだったんだ……ありがとう、助けてくれて」

「どういたしまして。約束したからね、守るって」

 そうやって優しく微笑む真人君に対してつい気持ちが漏れ出しそうになってしまうけれど、もうちょっと待ちなさいと自分の心を抑えつける。

 今日は開会式と練習だけとはいえ大事な大会に遅れてまで私を守ろうとしてくれて、ピンチに駆け付けてきてくれて、それがさも当たり前のことのように振る舞って、私はもう何度目か分からないくらいまた真人君のことが好きになる。

 一人で恋愛に更けている私を置いてけぼりにして三人は卵が投げ込まれていたロッカーを見ていた。

 ロッカーと呼んでいるが実際は板で区切られただけの棚のため扉なんてついておらず【美月】と書かれたシールが貼ってある区画に大量の卵が投げ入れられていて殻も卵黄も卵白もぐちゃぐちゃになって、綺麗に畳んである茶色のエプロンを汚していた。もう少し早く来ていればと後悔してももう遅い。

「もっと早く来てればな……」

 伊織も同じ気持ちのようで落ち込んでいるように見える。

「さ、ここは後で先生たちで掃除するから部屋から出ようか。君たちからも詳しく話を聞かないといけないからな」

 証拠としてこの場は少しだけそのままにしたいとのことで私たち三人は藤田先生と一緒に空き教室へと移動することとなった。

「先生、話をするなら五組の秋野さんも呼んでくれませんか?」

 移動途中に伊織が突然言った。何故秋野さんだけなのだろうか、皆呼べばいいのに。

「ん? まあ後で話は聞くつもりだったけど、どうしてだ?」

「スマホが回収されているはずの時間に呟いている人がいるのに気づいたり、さっきの二年生の裏垢とか他にも色んな人の裏垢特定してくれたのが秋野さんなんです。そっち方面の話は俺らより詳しいと思うので」

「なるほど……それならなおさら後にした方が良いな。ゆっくり話を聞きたい」

 少し意外だった。秋野さんは蘭々たち四人組の中で一番ふわふわしているというか掴みどころがない感じだったので、裏垢を特定するような特技があるなんて思いもしなかった。

「これから先、どうなるんですか?」

 先ほどの四人や他に明らかになるであろう加害者の処分、それが決まるまでの取り調べや、私や美月への聞き取りなど知りたいことはたくさんあった。

 どんな流れで、どれくらいの時間がかかって最終的に決着がつくのか、それによって私や美月のこれからの学校生活も変わってくる。

 藤田先生はうーんと唸りながら歩き続け、理科準備室というプレートがかけられた小さめの部屋に入り、私たちも入って椅子に座るように指示をした。

 理科に関する書籍や実験器具などが雑多に置かれた部屋の中から椅子を見つけ出して四人で部屋の中央辺りに集まった。

「さて、さっきの質問だけど」

 藤田先生がそう切り出して今後のことが説明された。

 処分については職員会議を経て決定されるがいじめの加害者となればほぼ確実に退学となること。関係者が多そうなので調査にはかなりの時間を要しそうであること。

 私や美月、伊織たちへの聞き取りも何回も行われるだろうということ。この件の全てに決着がつくのがいつになるかは想像もつかないこと。

「加害者は全員明らかになるんでしょうか?」

 美月にあんな仕打ちをしておいて平気で学校生活を続けている人間がいるような事態にはなって欲しくない。願わくは加害者が一人残らず退学になって欲しい。

「学校でも専門の業者にお願いしてSNSのアカウントの特定を進めているからね。君たちへの誹謗中傷とかいじめに関わったことが分かるような書き込みがあれば見つかっていくだろう。それにこういう事態になるとすでに加害者として確定した人間はたいてい仲間を売るんだ。あいつもやったのに自分だけ処分を受けるのは許せないって思うんだろうな。だからさっきの四人から芋づる式に明らかになっていくはず。もちろん最初は否定するだろうから君たちの証言とか色々な証拠と照らし合わせないといけないけどな」

「漏れは出てしまいますよね?」

 伊織が尋ねる。

「そうだな。一人残らず全員明らかにするのは難しいかもしれない」

「詩織や美月さんは、自分をいじめた人間がこの学校のどこかにいるかもしれないと思ってこれからの学校生活を過ごさなきゃならないってことですよね?」

「……そうなってしまうかもな」

「そんなのおかしい。なんで被害者が我慢しないといけないんですか……あ、すみません、先生が悪いわけじゃないのに」

「優しいな伊織は」

 加害者を全員明らかにして欲しいのは私も同じ意見だけれど、それが現実的には難しいことも分かっている。いじめの加害者が原則退学処分である以上、完全に黒でなければ処分対象にはならず、グレーまでは無罪放免になってしまうかもしれない。

 それでも前にバスケ部のマネージャーだった日夏さんが言っていたように、本来裁かれるべきところを偶然見逃された人たちはきっと肩身の狭い思いをしながら学校生活を送っていくのだろうと思うと、それならそれで良いかなと妥協しようと思う。

 とりあえず誰が見ても明らかな加害者には退学してもらえば後はどうでも良くて、そんなことよりも伊織が私や美月のために憤慨してくれていることが嬉しい。

 その後は今までの出来事を藤田先生に説明して五時間目の授業が終わりを告げるチャイムと同時に私たちの話も終了した。

「今日はここまでにしよう。また話を聞くこともあると思うから、そのときはよろしくな。伊織と桜は気をつけて行って来いよ」

「はい、ありがとうございました」

 理科準備室を出ると藤田先生は職員室に戻って行った。真人君と伊織はもう学校を出るというのでその前に保健室に寄って行くようにお願いをして私は美月のいる保健室に戻った。二人は部室に置いてある荷物を取ってから来るとのことだ。