美月の家に迎えに行くつもりでかなり早めに出たけれど、私と美月の通学路が交わる交差点を美月の家の方に曲がるとすぐに美月に出会った。聞けば美月も早めに出て私の家に来ようとしていたらしい。どうしても私と一緒に学校に行きたかったとか。
美月の顔には少しの緊張が見える。それでも足取りは昨日の何倍もしっかりしていて、私が手を繋いで引っ張る必要はなさそうだ。
「伊織君は……?」
「かなり早く出たみたい。学校のどこかに潜んでるよ」
「そっか、やっぱりすごいね伊織君は。それに桜君が声をかけてくれた男子たちも昨日皆優しくしてくれたし、詩織だって被害者なのに私のこといっぱい考えてくれて、皆には感謝してもしきれないくらい」
「もうすぐだよ、もうすぐ終わる。そしたらチョコの作り方教えてね。一緒に作ってちゃんと気持ち伝えよう。助けてくれた人皆に作って渡そうよ」
「そ、そうだね。でも詩織はほぼ成功が決まってるようなものだけど私は……」
「大丈夫だよ。美月は可愛くて一生懸命で一途でいつも周りの人のことを考えてくれているくらい優しくてとっても可愛いから。私が好きな人のことはきっと伊織も好きになる」
「うん、ありがと……伊織君、どこにいるんだろうね。寒くないかな」
美月の底なしの優しさを伊織はきっと受け入れてくれるはずだ。それがうまくいくためにも今日は私が美月を守らなければならない。
それは私一人の力では難しいけれど、校門で待ってくれていた蘭々や小畑さんがいれば力強い。秋野さんや大石さんは電車通学なのでタイミングが合わないらしく四人で教室に向かうことにした。
いつの間にかスマホに伊織からメッセージが届いていた。時間は七時三十分頃、私が家を出てすぐだったようだ。
【美月さんの下駄箱に変な手紙が入ってたから回収しておいた 見てた限りは誰も不審な動きはしてなかったから多分昨日帰った後に入れられたんだと思う そっちは頼んだぞ】
いじめている側からするとせっかくおもちゃが帰ってきたのに教室では男子に守られていて手出しができないから面白くないのだろう。今日も絶対に何かする。確信できる。
昇降口、下駄箱で靴を履き替えた。ここを重点的に監視すると言っていたからどこからか見ているはずだけれど伊織の姿は全く見えない。
私たちに気づかれるくらいなら加害者たちにも気づかれて犯行を思い留まらせてしまうので、見えない方が都合が良いのだがとんでもないところに隠れているのではないかと心配になる。
しかし伊織は今日はここにいないはずの人間。伊織を信じて私たちは普通に生活をする他ない。
「あ、え、えっと秋山君、おはよう」
下駄箱から教室に向かおうとしていた私たちの前に一人の男子生徒が腕を組みながら立っていた。美月がおっかなびっくり挨拶をした秋山君は一年二組の生徒で、真人君から声をかけられていた四人のうちの一人だったはずだ。
その四人は秋野さんのリクエストだったが確か秋山君は星野君が彼女持ちだから代わりに選ばれた言い方は悪いが補欠みたいな人だったと記憶している。
本当に失礼なことだけれど私は彼らのことをほとんど知らないのでそんな印象しかない。数学の合同授業では同じクラスにいたはずだけれど当然一度も話したことはない。
桜高校はサッカー部も強豪で体格の良い人がそろっているから、伊織よりも小柄で色白で細身の秋山君は言われなければサッカー部とは気づけないくらいに可愛らしい容姿をしている。
そんな秋山君は律儀な性格のようで真人君に頼まれたからにはしっかりと美月を守るべくここで待っていたとのこと。
「よし、行こうぜ」
秋山君を先頭に教室に向けて歩き出す。意外なことに秋山君は美月に積極的に話しかけていて、美月も一生懸命応答している。
時折美月が笑顔を見せている辺り話はうまいのかもしれない。蘭々なら詳しく知っているかもしれないと思い、秋山君について聞いてみた。
「んー真人君とは違う意味で女子の憧れ的な感じ。私、小中も一緒なんだけどずっとサッカー続けてるのに全然日焼けしなくて羨ましいんだよね。ご飯もめちゃくちゃ食べてるのに細くて、髪も長くてサラサラで綺麗でしょ。シャンプーで洗うくらいで特にケアとかしてないんだって。そういう意味で憧れてる子は多いよ。あ、これ本人には内緒ね。なかなか男らしくなれないって気にしてるから」
「おい、蘭々。聞こえてんぞ」
「あ、聞こえてた? ごめーん、カカオ」
「おい、そのあだ名で呼ぶなって」
蘭々はいたずらっぽく笑って誤魔化す。秋山君の下の名前は高雄らしいが、小学校のときにバレンタインで女子からたくさんチョコをもらっていたらカカオというあだ名がいつの間にか付けられていたそうだ。
男子からそう呼ばれるのは気にしていなかったようだけれど女子から呼ばれるのは恥ずかしがっている、と蘭々がこっそり教えてくれた。
小学校から一緒だとこんな軽口を叩ける関係になれるのかと感心してしまう。私も中学校でも真人君と同じだったらこんな風に話せていたのかと考えてみたがすぐに無駄なことだと思い、考えるのをやめた。
これは蘭々が明るい性格だから作ることができた関係で、私が真似できるものではない。
こんなことを考えたのは真人君がいないからだ。一昨日以来たったの二日であるけれどまともに会話をできていない。たったそれだけなのに恋しくて、今何をしているのか気になって仕方がない。
今日は開会式と練習だと言っていたはずだから、今頃は開会式が始まっているだろうか、それとも練習か、移動中か。私たちのことを気にして練習に身が入らなかったりしていないだろうか。
学校にいない、ただそれだけで私はこんなにも心を乱されてしまうのかと改めて自分の中の真人君の存在の大きさを実感した。
秋山君が周りを威嚇しながら歩みを進めてくれたので嫌な視線を感じたりひそひそ話をされることもなく、一年二組の教室までたどり着くことができた。
教室に入ろうとしたところで秋山君は突然足を止めた。すぐ後ろにいた美月が秋山君の背中にぶつかったが秋山君は微動だにせず背中で美月を受け止めた。さすがはサッカー部と言ったところで体幹はしっかりとしている。
「ちょっとカカオ、いきなり止まらないでよ」
秋山君に反応はなく、教室の一点を見つめているようだ。そのあだ名で呼ぶなという反応が返ってくると思っていた蘭々も私も小畑さんも不自然さを感じて秋山君の視線の先に自分の視線を移した。
美月の席の周りに男子生徒が何人か集まっていて机の天板を何かでこすっているように見える。さらに男子生徒の一人が数人の女子生徒と口論をしているようだ。その声は出入口にいる私たちにまで聞こえてくる。
「お前らだろ、こんなことするの。いい加減にしろよな」
「はあ? 違うし、何言ってんの? あたしらが教室に来たときにはもうなってたって言ったじゃん。ねえ?」
「そうだよ、うちらがやるわけない。他のクラスの人でしょ。萩原さんって敵多いし」
「お前らの今までの行動見てたらお前らがやったとしか思えない。正直に言って萩原さんに謝れよ」
「今までの行動って、萩原さんと遊んでたあれのこと? あれはただの遊びだし、ていうか男子も皆見て見ぬふりしてたじゃん。あれが悪いことだって言うならみんな同罪だよね?」
「だよね。てか昨日から男子皆でいきなりかばい出してどうしたの? きもいんだけど」
「え、もしかして萩原さんのこと狙ってんの? やば、モテモテじゃん」
「星野も必死に机拭いちゃってさ、あんた彼女いるのに大丈夫なの? 浮気だ浮気」
美月の机には粉のようなものが撒かれていて、男子たちはそれをティッシュなどで拭き取っているようだった。おそらくはチョークの粉だ。
当然、嫌がらせのために朝早くに誰かが撒いたに違いないが、誰がやったかという確証は得られていないようだ。
口論していた男子生徒は相手の勢いに押されて何も言えなくなってしまっていて、相手の女子生徒たちは勝ち誇ったようにその男子生徒と、美月の机を拭いている男子生徒たちを見ている。
心配そうに見つめる他の男子生徒。にやにやと笑っている明るめの女子生徒たち。おとなしめの女子生徒たちはきっとどこか別の場所に逃げている。
やっぱりこの教室は美月にとって地獄なのだ。助けてくれる人ができたとて、教室内の半分近くの人間が加害者で、自分に対して悪意を持っている。こんなところに美月を置いておくことなんてできない。
「蘭々、萩原さんをどこか別の場所へ……」
秋山君は小さな体を精いっぱい大きく見せて、背中に隠れた美月が教室内の光景を見ないように、教室から美月の姿が見えないように壁となった。
「美月、保健室に行こう」
その光景は見えてなくても聞こえた言葉で美月は起きた出来事を察しているのか、せっかく昨日少しだけ明るくなった表情が暗く逆戻りしてしまった。
蘭々たちと一緒に美月を連れて一年二組の教室を後にする際にふと振り返ると、秋山君が悲しげな表情でこちらを見ていた。彼なりに頑張ってくれたのだろう。その表情からは無力感や後悔が見て取れた。
でも彼の、彼らの頑張りも虚しく美月はきっと二度とあの教室に入ることはない。
美月の目から零れ落ちた涙がそれを物語っている。
保健室の白雪先生は今日はベッドではなくパーテーションで隠された保健室の奥の空間に私たちを通してくれた。椅子が数個とそこそこの大きさのテーブルが一つあるだけの空間はまるで自習用のスペースのようにも思えた。
「教室にいたくないならここにいていいよ。授業は欠課になっちゃうけど学校は出席扱いになるから。昨日堀ちゃんに確認してもらったら、残り全部保健室で過ごしても進級できるって」
そう言って美月を椅子に座らせると、白雪先生は普段から使用されている出入り口近くのスペースに戻り、私たち三人に経緯を説明させた。
話を聞いた白雪先生は大きくため息をついた。
「はあ……嫌になっちゃうよね、いじめとか。大学でいじめのこと勉強したけど、身に着いたのはいじめられた子のケアの方法だけで、根本的にいじめをなくす方法とかそもそもなぜいじめが起きるのかは分からなかったんだよね。いじめを起こさない教室の環境作りとか偉そうに講釈垂れていた教授たちも、はっきりとした答えはくれなかった。子供とのコミュニケーションが大事とか言って逃げてたけど、それって結局現場がなんとかするしかないってことなんだよね。あんたらが何十年も研究して分からないことを現場に押し付けんなって感じだよ」
白雪先生は愚痴を言うように私たちに言葉を漏らした。その勢いは止まらない。
「まあ論理的に考えたらいじめなんてする意味ないんだから、いじめの原因は非論理的なところにあるわけで、そんなの考えたって分かるわけがないよね。堀ちゃんもクラスの生徒に話を聞いたりして頑張ってるみたいだけど、怪しい子たちが口裏合わせてうまく誤魔化してるし、いじめの現場を見ていないから決定的な証拠を掴めていないって言うし、他のクラスの子も絡んでそうだから難しいって。時間がかかればかかるほど被害者の苦しみは大きくなるっていうのが分かってるから早く解決したいんだけど、なんかうちの学校の先生たちこの件に関しては及び腰なんだよね。決定的な証拠がないって言っても怪しい子は分かってるんだから聞き取り調査とかもっとやればいいのに、なんかきな臭いっていうか強い部活の部員の子が加害者にいるかもしれないから大事にしたくないんじゃないかって思うんだよね。うちの学校って部活優先の傾向が強すぎるから、運動部の顧問の先生の発言力とか強すぎるんだよね……あ、やば、君らに話すような内容じゃなかったね、忘れて」
白雪先生は飄々とした態度で言った。結構な爆弾発言だったようにも思えるけれどまったく焦っていない辺り気にしていないようだ。
白雪姫というあだ名のイメージとは乖離がすさまじいが、本音を開けっぴろげに話してくれるその姿に親しみやすさを覚える。
「それって、先生たちを頼っても解決しないかもってこと?」
蘭々が尋ねた。白雪先生は「うーん」と唸りながら腕を組み、考え込んだ。
「そんなわけないって教員としては言わないといけないんだろうけどね、本音を言うと解決しないわけではないけど、時間はかかると思う。積極的に解決しようとする先生と消極的な先生の両方がいるからね。なんていうか一枚岩になれてない感じがする。なんのために教員やってんだかって人もいるし……まあ私はここに来た子を休ませることくらいしかできないから偉そうなことは言えないんだけどね」
「難しいんだね、先生も」
「まあね、生徒に同情されてるようだと他の先生に怒られそうだけど。保健室にいると色んな子の悩みとかが舞い込んでくる割に私ができることって少ないし、どうしても受け身になっちゃうからもどかしいことが多いんだよね……ま、とりあえず美月はしばらくここに置いておくから、時間あるときは様子を見に来てあげて」
白雪先生に言われて自分の教室に戻った私たちだったが、私は朝のホームルームが終わると体調が悪いと嘘をついて保健室へと戻った。白雪先生はまるで分っていたかのように私を出迎えて、何も聞かずに美月がいる奥のスペースに通してくれた。
「二人で大人しく自習してるんだよ。分かんないところがあっても私に聞かないで、休み時間に職員室に行くこと。高校の勉強なんて覚えてないから」
美月は「詩織まで授業さぼることないのに」なんて言っているが私は美月を一人にしたくなかった。たとえ教室の人間が美月の存在を拒んでも私だけはそばにいたい。美月を支える、それが私の役割。だから伊織、早く加害者を捕まえて。
一時間目の授業の間、私たちは白雪先生に言われた通り大人しく自習をしていたが当然のように捗らない。心の片隅には何か黒いものが常にあって、私の集中をかき乱す。美月も同じかそれ以上に集中できていないことはすぐに分かった。
二時間目の授業ではもう勉強することは諦めて話をすることにした。楽しい話、やっぱり約二週間後に控えたバレンタインの話が良い。美月も割と乗り気で話してくれている。
「色々お世話になった人たちにも作って渡したいなって思ってるんだけど、どうかな?」
「そうだね、佐々木さんたちにちゃんとお礼しなきゃだもんね。桜君にも渡さなきゃ。詩織も伊織君にあげるよね?」
「え、う、うん、毎年適当に安いやつあげてたけど今年はちゃんとしたやつあげようかな」
「そうしなよ。それでどこで作る? 私の家でも大丈夫だけど詩織の家の方が良い?」
「ごめん、それは絶対無理。お父さんに見られたら面倒くさいことになる。美月の家でお願い」
誰にあげるんだとか、自分にもくれるのかとかそわそわしながら覗き込んできたりしてやりづらくなることが容易に想像できる。一応お父さんにも作ってあげるつもりだけれど、その過程を見られるのは絶対に嫌だ。
「あーそういえば詩織のお父さん詩織のこと大好きすぎるんだもんね。じゃあ私の家で作ろっか。いつにする? 作りたいものでいつ作った方が良いとか変わるけど」
「え? そうなの? 全部前日で良いと思ってた」
「まあ、前日で問題はないんだけど。クッキーとかのバターを使ってるやつは三日くらい前が良いとか聞くし、生クリームとかフルーツを使ったやつは傷みやすいから前日の方が良いし、市販のチョコをとかして固めたやつも三日くらい前でも大丈夫だと思う。詩織はどんなの作りたい?」
「えっとなるべく難しくないのが良いかな。私経験ないし」
「じゃあ溶かして固めるだけにしようか。型とチョコを買ってきて、十二日が祝日だからそこでどうかな?」
「うん、そこが良いかも。エプロンとか用意しておかないと、中学で使ったやつどこにあったかな……」
「エプロン……あ、忘れてた」
「エプロンがどうかした?」
「部活で使うからって調理室のロッカーに置きっぱなしだったの。週一しか使ってなかったけどそろそろ洗濯しに持って帰ろうかなって思ってたんだ。最近部活に出てないからすっかり忘れてた。今日の帰りに持って帰らなきゃ」
「部活かぁ、私なんて最近どころか三学期になってから一回も行ってないや」
「文芸部だよね? 行かなくて大丈夫なの?」
「うん。行っても基本的に本を読むだけだし、たまに図書室の本の整理とかしてて、それをやるときだけ顧問の先生から声がかかるんだけど三学期は一回も声かかってないから」
「あんまり活動してないんだ。じゃあいっそ詩織も料理部入っちゃう? 一年生私しかいないけど先輩は皆優しい人しかいないし、料理部と言ってもお菓子しか作ってないけど」
「それもありかも……」
教室には戻れそうにないけれど部活には顔を出せるようだ。この保健室以外にも学校の中に美月の居場所があるのだと思うと自分のことのように安心する。
「おーい、お嬢さんたち。甘くて楽しい話も良いけどお勉強してね。保健室で遊ばせてたなんて知れたら私が怒られちゃうから」
パーテーションの向こうから顔を出した白雪先生にやんわりと注意をされてしまった。言葉こそ注意している内容だけれどその声色は怒っているようには聞こえない。むしろ楽しそうに話をする美月を見て安心しているようにも見える。
それは私も同じことで、美月が笑ってくれるなら授業をさぼったかいがあったというものだ。
次の休み時間には蘭々と大石さん、その次の休み時間には秋野さんと小畑さんが様子を見に来てくれた。彼女たちなりに今朝の犯人を聞いてみたそうだが、発見には至っていないとのことだ。
そして伊織が加害者を捕まえたという話も、伊織自体が見つかったという話も聞こえていないらしい。
一年二組の教室内は男女間でピリついていると秋野さんが帰り際に美月に聞こえないように教えてくれた。これまで見て見ぬふりをしていたという後ろめたさもあって今朝の出来事は先生たちに報告されていないようだ。
昼休みは白雪先生も交えて保健室でお弁当を食べた。他の先生は職員室で周りに人がたくさんいる中で食べられるけど白雪先生はいつもお昼は一人なので寂しかったとのことだ。
私たちと同じような二段重ねのお弁当箱の中には色合いも綺麗で栄養バランスも良さそうなまさしく理想的と言えるお弁当が詰められている。
「先生もお弁当なんですね。自分で作ってるんですか?」
「まあねー今はこっちの方が安上がりだし」
人見知りの美月が自分から話しかけるくらいには白雪先生は話しかけやすい雰囲気を持っている。
以前感じた話さなければならない雰囲気は今はなく、あれは任意で発動できるものだったのではないかと思い始めている。誰にでも話しかける蘭々とはまた違った方向でコミュニケーション能力が高い。
「今はってことは昔は違ったんですか?」
「大学生で初めて一人暮らししたときはね。気合入れて凝ったもの作ろうとして材料費高くついたり、段取り悪かったりで時間ばっかりかかっちゃって、適当にコンビニで買って弁当作ってた時間バイトした方がトータルでプラスになったんじゃないかって思うほどだったなぁ。今となっては夕飯の残りつめたり逆に多めにおかず作って夕飯に回したり、料理にも慣れて段取りもある程度うまくなったから結構節約できるんだよ。二人も大学進学希望でしょ? 一人暮らしするなら気をつけなよ」
「一人暮らしか……」
絶対にしたいという訳ではないけれど少しだけ興味がある。家のことをすべて自分でやらなければならないのは大変そうだけれど、時間をすべて自由に使えるというのは魅力的だ。
お父さんの目を気にせずに出かけられるし、お風呂上りに下着も付けずにだらしない格好で部屋の中を歩いても何も言われない。寂しいときは友達を呼べる……呼べる友達はできるだろうか。
「一人暮らしって楽しいですか?」
美月も一人暮らしには興味があるようでワクワクしたような表情で先生に尋ねた。
「そうだねー大学時代から数えて一人暮らしは七年目だけど、最初の一、二年めちゃくちゃ楽しかったよ。遅くまで起きてても怒られないし、休みの日は予定がなければいつまでも寝ていられたし、好きなときに食べて好きなときにお風呂に入って、友達も呼び放題で、彼氏も……あ、ごめん、ちょっと嫌なこと思い出したからこの辺でこの話は終わりね」
「え、先生彼氏いたんですか? もっとその話聞きたいです」
久々に美月の恋愛脳が炸裂し、お行儀悪くテーブルの上に身を乗り出して食い気味で白雪先生に質問する。白雪先生は一瞬ぎょっとしてよろけたが何とか態勢を整えて美月を落ち着かせて質問に答えてくれた。
この場所でなら美月はいつもの美月でいることができるようだ。
「んーあんまり未成年にするような話じゃないんだけど、まあいいか。大学二年生のある日、私の家に私の彼氏と友達の女の子とその子の彼氏が集まったの。皆二十歳になった記念にお酒飲んでたんだけど私お酒強くなくて寝ちゃってたんだよ。友達の彼氏が次の日朝早くからバイトだからって途中で帰ったところまでは覚えてたんだけど、それで目が覚めたら……」
「覚めたら……?」
「何があったんですか?」
「……この先は未成年NGね。未成年OKな表現で言うと私の彼氏と友達は浮気してたって話。一夜にして彼氏も友達も失って、それ以来彼氏は作ってないし、お酒も飲まないようにしてる。二人とも浮気するような奴と付き合っちゃだめよ」
「はい」
「良い男を見つけたらしっかり手綱を握ってもう自分以外考えられないようにしちゃいなさい」
「はい」
「良い返事。美月は見込みあるね。弟子にしてあげる」
「良いんですか?」
「ええ、私の経験からなんでも教えてあげる。これでも昔は結構モテたんだから、付き合うところまでならいくらでもアドバイスしてあげられる。その後の交際については責任持てないけどね」
「はい、美里師匠」
「うむ、よろしい。詩織はどうする? 弟子入りするかい?」
「詩織は大丈夫です。もうほぼ付き合ってるも同然なのでアドバイスは必要ありません」
「ああ例の彼、桜真人か。彼は良いね、生徒の人気はもちろん教員からの信頼も厚い。顔も良いし高身長でバスケも超高校級、勉強もそれなりにできるしなにより誠実な性格で浮気をしなさそうなところが良い。詩織、絶対手放しちゃだめだよ」
私の肩に手を置きながら白雪先生は目を潤ませた。過去の浮気された経験は相当心に来るものだったのかという思いと、白雪先生ってこんなに変……面白い人だったのかという思いが交錯して私は苦笑いを返すことしかできなかった。
大学とか将来とか真人君の話をしたからかどうしてもこの先のこと思い浮かべてしまう。
真人君は私のことが好きだと言ってくれて、私も真人君のことが好きで、バレンタインの日に告白するつもりでいる。美月の言う通りきっとOKをもらえてお付き合いすることになれると信じている。
でもその先のことは何も分からない。真人君の夢はバスケのプロ選手でありアメリカでプレーすること。つまりアメリカでプロになりたいと思っている。
私はその辺の事情には詳しくないけれど、少し調べた限りではアメリカのプロバスケ選手は大卒が多いらしく、もしかしたら真人君は大学からアメリカに行くかもしれない。
アメリカに行くなんて私には到底できることではなく、そうなったら私たちの関係は自然と消滅してしまうかもしれない。手放すつもりがなくても手の届かないところに行ってしまう気がする。
「詩織? どうしたの? ぼーっとして」
真人君と離れ離れになることを想像したらつい意識がどこかに行ってしまっていた。
「あれか、真人はきっとすごい選手になって手の届かないところに行ってしまうんだろうなって思ってたな?」
さすがは美月の師匠、鋭い。やっぱり私も弟子にしてもらった方が良いかもしれない。
「まあ遠距離でも絶対に上手くやれるっていう信頼関係を作って、必ず迎えに来るんだって思わせるくらいの存在になればいいんじゃない? 卒業まであと二年もあるんだから頑張りなよ」
さすがは美月の師匠。まるで実体験というか自分の後悔というか、実感のこもったアドバイスは私の心にしっかりと入ってきた。
白雪先生の言う通り、あと二年もある。四月からは同じクラスだし、もっともっと真人君と仲良くなって、将来のことを話せるくらいの関係になれば良い。
再び白雪先生の恋愛遍歴が語り出されようとしたところで私はトイレに行くために退室した。本当は先生の話を聞きたかったけれど生理現象には勝てない。
いつも使っているトイレは一年生のフロアの四階にあるが今は保健室のある一階にいるので当然一階のトイレを使用する。
別に厳密に決まっているわけではないが自分の学年のフロアのトイレを使うことが暗黙のルールとなっているので一階のトイレはほとんど人がいない。
四階の女子トイレはいつも誰かがいて噂話をしたり禁止されている化粧をしたりトイレの電源を使ってヘアアイロンをかけていたりとカオスな空間だったけれど、ここはとてつもなく平和な空間だった。
同じ学校、同じ構造のトイレのはずなのに別世界に来たみたいで、ずっと保健室暮らしも良いなと思ってしまう。
快適なトイレに満足しながら廊下に出て、なんとなくいつもとは違った一階の風景を見渡すと校舎の端っこ、突き当りに大きめの部屋があるのが見えた。調理室だ。
なんとなく、本当になんとなく、そちらの方に歩き出した。
美月が調理室のロッカーにエプロンを置きっぱなしにしてしまっていると聞いたからだろうか、当然鍵を持っていないので取ってきてあげることもできないのに、なんとなく調理室の部屋の中を覗いてみたくなった。
調理室は校舎側に扉が一つと外に繋がる扉が一つあり、部屋の構造的に校舎側の扉についたガラス窓から中の全容は見えない。
虫の知らせとでも言うのだろうか、なんとなく来たはずなのに胸の中がざわついて、つい扉に手をかけると、中から誰かの声が聞こえたような気がした。
調理室のようないわゆる特別教室は授業や部活で使用しないときは必ず鍵がかかっているものだけれど、引き戸となっている調理室の扉はほんの少し力を入れただけでガラガラと音を立てながら開いた。
鍵のかけ忘れか、それとも誰かがいるのか。家庭科の先生が授業の準備をしている可能性もあるが、どうしても嫌な予感がして、その予感から逃げ出すことができなくて、私は調理室の中に足を踏み入れた。
廊下からは見えない死角となっている場所に鍵のかからないロッカーが置いてあった。
そこには女子生徒が四人いて、邪悪でいやらしく、気持ちの悪い笑みを浮かべていた。私と目が合うとその笑みが消えた。そのうちの二人が手の中に小さくて丸っこいものを持っていてるのが見える。
一人は二組の人だったと思うが名前は覚えていない。もう一人は私のクラスの後藤雅さん、いつかトイレで私の悪口を言っていた人で、あとの二人は見たこともない人だった。
見下したような四人の視線が私に突き刺さる。その悪意の波動に怖気づいてしまいそうになるが何とか踏みとどまった。
しばらく向き合って、知らない二人が持っているのは卵だと分かった。よく見ると床に殻や卵白が落ちている。
「な、何をしているの?」
ちっぽけな勇気を精一杯振り絞って尋ねた。卵を持った一人が手の中で卵を弄り回しながら悪びれもせず、開き直ったように答えた。
「同じクラスの料理部の子が調理室の卵の消費期限がやばいって言ってたから処理してあげようと思って」
そう言いながらロッカーの中に卵を投げ入れた。ビチャッという音がして、中で割れたことが分かる。ロッカーの上には卵のパックがあってまだ数個残っている。
「そのロッカーは……どうしてこんなこと」
「理由なんて別にないよ。この子には何してもいいんでしょ? 一年生の間ではそういう扱いになってるって聞いたけど」
そんな訳がない。美月をいじめている人たちが勝手に言ってるだけで、そんな扱いをして良い人間がいるわけがない。
口ぶりからしてこの人は二年生、美月とはなんの関わりもないはずなのになんでこんなことをしているんだ。なんで笑いながら平気な顔でこんなひどいことをできるんだ。
こんな風に言い返す勇気はどんなに振り絞っても出てこなかった。結局私は皆がついていてくれないと何もできない。目の前で美月に嫌がらせをしている人がいるというのに何もできない。弱い人間だ。
「ていうかあんた誰? 何しに来たの?」
「あーあれじゃん、一年の桜君の彼女疑惑があった子。てか雅同じクラスでしょ?
なんでなんも反応しないの?」
「えー? こんな子知りませーん」
「うわ、雅ったら薄情」
何が面白いのか四人はぎゃはぎゃはと下品に笑い出した。私の理解が及ばないところで楽しんでいる四人が得体の知れない存在に思えてくる。
白雪先生が言っていた、いじめの原因は非論理的なところにあるという言葉を思い出した。彼女らの行動やその理由は分からなくて当然なのだ。
「ねえ、そこどいて。私ら帰るから。誰かに言ったら……分かるよね?」
お決まりのようなセリフを吐く二年生の一人。何も言い返せなくて頭の中が真っ白になってしまった私にできることはその場から動かず、彼女たちをここから立ち去れないようにすることだけだった。
伊織はきっと昇降口を見張っているからここには来ない。もしかしたら私がトイレから戻ってこないことを心配して白雪先生が探しに来てくれるかもしれない。開けっ放しの扉を見て他の先生が様子を見に来るかもしれない。それを信じて私は耐えるしかない。
その場を動こうとしない私を見て彼女たちは苛立つ。「どけよ」「邪魔、消えて」と口調も悪くなり、その悪意に私は飲み込まれてしまいそうになる。それでも私は両手を広げて立ちふさがった。
「嫌だ。いじめをするような人を行かせたりしない」
「別にいじめとかじゃないし」
「あなたたちが決めることじゃない」
行かせないため言葉をなんとか絞り出して、言い返した。
「邪魔だって言ってる……じゃん」
二年生の一人が手に持った卵を私に向けて投げつけてきた。私の顔の横を通り過ぎて後ろにあったガラス窓に当たり、割れた卵がべったりとガラスにこびりついた。
「へたくそー。ちゃんと狙いなよー」
「分かってるよ」
そう言いながら第二投の準備をしている。
「どかないと当たっちゃうよ」
言葉と同時に投じられた第二投は私の顔をめがけて飛んでくる。
当たる。そう思ってとっさに顔を背けると同時に右手で覆った。
ガラスやロッカーにぶつかったときよりも鈍い音がした。私の手にも顔にもあたった感触はない。
反射的に閉じていた目を開くと、私の眼前には大きな手があって、視界の片隅に大きな体があった。
「なんで……?」
そこにはいないはずの人がいた。
真人君がその左手を割れた卵で汚しながら私と彼女たちの間に立った。
「真人、詩織」
伊織が調理室の中に駆け込んでくる。
「悪い、遅くなった。無事か?」
「詩織さんは……でも萩原さんの方は間に合わなかった」
「ま、あとで謝るしかないな。でも、やっと捕まえた。もう逃がさない」
伊織は真人君よりも前に出て彼女たちににじり寄る。真人君の影から見える彼女たちは、私一人を相手にしていたときとは打って変わって動揺の色が隠せなくなっている。
近づく伊織に対して後ずさりし、視線をキョロキョロとさせて逃げ道を探しているようだ。
「今までのこと、全部お前らか?」
こんなに落ち着いていながらも、怒りに満ちた伊織の声は初めて聞いた。大声で怒鳴るよりも的確に相手に恐怖心を植え付ける。
「ち、違う。私らだけじゃない。他にももっと……」
「そうだよ、他の子たちもやってるんだから私たちだけ責めないでよ」
「謝るからさ、ね、いいでしょ?」
「私ら部活あるしこういうのばれたらやばいんだって。ね、あんたたちもバスケ部なら分かるでしょ?」
この期に及んで言い訳を重ねている彼女らを許す道理は微塵もなくなった。きっと伊織も同じ気持ちだ。
「責めてなんかないし、謝る必要もない。でも、見逃すつもりもない。お前らみたいな人間は部活なんてやる資格はない。自分たちがやったことを全部話して、知ってる限りの他の加害者も全部吐いて、それ相応の処分を受けて、二度と詩織や美月の前に顔を見せるなよ」
いつの間にか全員調理室の端っこに追い詰められて、もう伊織に何も言い返せなくなっていた。逃げ場を失った四人は必死に打開策を探っている。そして外へと通じる出入口を見つけた。
「逃げよ、写真とか撮られてないしこいつらの証言だけじゃ証拠にならないよ」
部活がどうこう言っていた二年生が他の三人に声をかけたときだった。四人が目指そうとした出入り口の扉の鍵が外から開けられ、扉が開き、ゆっくりと人が入ってきた。
入ってきたのは藤田先生。四月からおそらく私たちの担任になる、今は一年三組で伊織の担任の先生だ。
藤田先生は無言のまま調理室の中を見渡す。怯えた顔で逃げようとしている四人、静かに怒っている伊織、私の前に立って状況を見つめている真人君、真人君の後ろから覗き見ている私、投げつけられた卵がべったりとついた私の後方のガラス窓、そして扉のないロッカー。
「あれをやったのは君たちか?」
先生はロッカーと四人を交互に見ながら尋ねた。彼女たちはじっと先生を見つめたまま動きもせず、言葉も発しない。
「はいかいいえで答えるだけだ。あのロッカーの惨状は君たちがやったのか?」
彼女たちはまだ何も言わない。痺れを切らした先生は呆れた顔で私の方を見た。
「春咲……ああ、詩織。すまないが生徒指導室にいる先生を呼んできてくれ」
「あ、はい」
生徒指導室には四人の先生がいて、何人連れて行けば良かったか分からなかったので全員来てもらうことにした。
結果的にその判断は正しく、四人の女子生徒たちは口裏合わせをしたり、都合の良いように話を合わせたりしないようにそれぞれ別室に連れて行かれ、一人ひとり話を聞かれることになった。
調理室には戻ってきた私と、藤田先生、伊織、そしてここにいないはずだった真人君が残った。
「申し訳ない、こんなに時間がかかってしまって」
藤田先生が私たち三人に頭を下げた。
「いえ、先生が来てくれなかったら逃げられて誤魔化されていたかもしれませんし、こっちこそ俺らのこと信じてくれてありがとうございました」
「大会に行ったふりをして学校に潜んでるなんて何考えてるんだと思ったけどな。しかも二人も。冬澤《ふゆさわ》監督もよく許可したもんだ」
「監督はバスケよりこういうのに厳しいので。やることやってからじゃないと大会に連れて行ってもらえないんです」
「しかし、伊織はともかく桜はどこにいたんだ? その身体じゃ目立って仕方がないだろう」
「えっと、基本校舎の外から見張ってて、授業中や昼休みは部室で裏垢見張ってました」
「裏垢か。そのおかげでここが分かったんだもんな。スマホ回収の際にダミーを提出する生徒がいるのには気づいていたが証拠が残るような使い方をする奴がいるとは思わなかったよ」
三人は事情を共有している様子。私だけ何も知らなくて置いてけぼりで少し寂しい。
「あ、あの伊織はともかく、なんで真人君と藤田先生もここにいるんですか?」
「君らに嫌がらせをしている生徒がいるってことは知っていたから授業がないときにはよく校舎内を巡回をしていたんだ。怪しい動きをしている奴を見つけたと思ったら伊織だった。それで事情を聞いたんだ」
伊織はバツが悪そうに苦笑いしている。「誰にも見つからないつもりだったんだけどなぁ」なんて呟く姿は先ほどまでの怒りが消えて、いつもの優しい伊織に戻っている。
「真人君はどうして?」
「前に詩織さんにはバスケ優先で良いって言われたり、伊織にも行けって言われたけどやっぱり放っておけなくて。自分の手で詩織さんを守りたかった。一昨日は皆と一緒に大会に行くつもりだったけど、昨日考えが変わって監督に許可貰った。伊織が俺がいるって分かったら詩織さんが探しちゃうから黙っとけって言うから言えなくて……萩原さんには申し訳ないけど、詩織さんは間に合って良かったよ」
「そうだったんだ……ありがとう、助けてくれて」
「どういたしまして。約束したからね、守るって」
そうやって優しく微笑む真人君に対してつい気持ちが漏れ出しそうになってしまうけれど、もうちょっと待ちなさいと自分の心を抑えつける。
今日は開会式と練習だけとはいえ大事な大会に遅れてまで私を守ろうとしてくれて、ピンチに駆け付けてきてくれて、それがさも当たり前のことのように振る舞って、私はもう何度目か分からないくらいまた真人君のことが好きになる。
一人で恋愛に更けている私を置いてけぼりにして三人は卵が投げ込まれていたロッカーを見ていた。
ロッカーと呼んでいるが実際は板で区切られただけの棚のため扉なんてついておらず【美月】と書かれたシールが貼ってある区画に大量の卵が投げ入れられていて殻も卵黄も卵白もぐちゃぐちゃになって、綺麗に畳んである茶色のエプロンを汚していた。もう少し早く来ていればと後悔してももう遅い。
「もっと早く来てればな……」
伊織も同じ気持ちのようで落ち込んでいるように見える。
「さ、ここは後で先生たちで掃除するから部屋から出ようか。君たちからも詳しく話を聞かないといけないからな」
証拠としてこの場は少しだけそのままにしたいとのことで私たち三人は藤田先生と一緒に空き教室へと移動することとなった。
「先生、話をするなら五組の秋野さんも呼んでくれませんか?」
移動途中に伊織が突然言った。何故秋野さんだけなのだろうか、皆呼べばいいのに。
「ん? まあ後で話は聞くつもりだったけど、どうしてだ?」
「スマホが回収されているはずの時間に呟いている人がいるのに気づいたり、さっきの二年生の裏垢とか他にも色んな人の裏垢特定してくれたのが秋野さんなんです。そっち方面の話は俺らより詳しいと思うので」
「なるほど……それならなおさら後にした方が良いな。ゆっくり話を聞きたい」
少し意外だった。秋野さんは蘭々たち四人組の中で一番ふわふわしているというか掴みどころがない感じだったので、裏垢を特定するような特技があるなんて思いもしなかった。
「これから先、どうなるんですか?」
先ほどの四人や他に明らかになるであろう加害者の処分、それが決まるまでの取り調べや、私や美月への聞き取りなど知りたいことはたくさんあった。
どんな流れで、どれくらいの時間がかかって最終的に決着がつくのか、それによって私や美月のこれからの学校生活も変わってくる。
藤田先生はうーんと唸りながら歩き続け、理科準備室というプレートがかけられた小さめの部屋に入り、私たちも入って椅子に座るように指示をした。
理科に関する書籍や実験器具などが雑多に置かれた部屋の中から椅子を見つけ出して四人で部屋の中央辺りに集まった。
「さて、さっきの質問だけど」
藤田先生がそう切り出して今後のことが説明された。
処分については職員会議を経て決定されるがいじめの加害者となればほぼ確実に退学となること。関係者が多そうなので調査にはかなりの時間を要しそうであること。
私や美月、伊織たちへの聞き取りも何回も行われるだろうということ。この件の全てに決着がつくのがいつになるかは想像もつかないこと。
「加害者は全員明らかになるんでしょうか?」
美月にあんな仕打ちをしておいて平気で学校生活を続けている人間がいるような事態にはなって欲しくない。願わくは加害者が一人残らず退学になって欲しい。
「学校でも専門の業者にお願いしてSNSのアカウントの特定を進めているからね。君たちへの誹謗中傷とかいじめに関わったことが分かるような書き込みがあれば見つかっていくだろう。それにこういう事態になるとすでに加害者として確定した人間はたいてい仲間を売るんだ。あいつもやったのに自分だけ処分を受けるのは許せないって思うんだろうな。だからさっきの四人から芋づる式に明らかになっていくはず。もちろん最初は否定するだろうから君たちの証言とか色々な証拠と照らし合わせないといけないけどな」
「漏れは出てしまいますよね?」
伊織が尋ねる。
「そうだな。一人残らず全員明らかにするのは難しいかもしれない」
「詩織や美月さんは、自分をいじめた人間がこの学校のどこかにいるかもしれないと思ってこれからの学校生活を過ごさなきゃならないってことですよね?」
「……そうなってしまうかもな」
「そんなのおかしい。なんで被害者が我慢しないといけないんですか……あ、すみません、先生が悪いわけじゃないのに」
「優しいな伊織は」
加害者を全員明らかにして欲しいのは私も同じ意見だけれど、それが現実的には難しいことも分かっている。いじめの加害者が原則退学処分である以上、完全に黒でなければ処分対象にはならず、グレーまでは無罪放免になってしまうかもしれない。
それでも前にバスケ部のマネージャーだった日夏さんが言っていたように、本来裁かれるべきところを偶然見逃された人たちはきっと肩身の狭い思いをしながら学校生活を送っていくのだろうと思うと、それならそれで良いかなと妥協しようと思う。
とりあえず誰が見ても明らかな加害者には退学してもらえば後はどうでも良くて、そんなことよりも伊織が私や美月のために憤慨してくれていることが嬉しい。
その後は今までの出来事を藤田先生に説明して五時間目の授業が終わりを告げるチャイムと同時に私たちの話も終了した。
「今日はここまでにしよう。また話を聞くこともあると思うから、そのときはよろしくな。伊織と桜は気をつけて行って来いよ」
「はい、ありがとうございました」
理科準備室を出ると藤田先生は職員室に戻って行った。真人君と伊織はもう学校を出るというのでその前に保健室に寄って行くようにお願いをして私は美月のいる保健室に戻った。二人は部室に置いてある荷物を取ってから来るとのことだ。
保健室に入ると入り口の正面の席に座っている白雪先生が出迎えてくれた。
「お疲れ様。ずいぶんと長いトイレだったね。お腹の調子は大丈夫?」
「え? あ、いやそういうわけじゃ……」
「はは、ごめんごめん、冗談だよ。藤田先生から連絡貰って、簡単にだけど何があったかは知ってるよ。伊織や真人を出し抜いて一番乗りだなんてすごいじゃない」
「でも、私だけじゃ何もできなかったです。皆が来てくれなかったらどうなっていたか……」
「いやいや、詩織がいなかったら逃げられていたかもしれないんだから立派なもんだよ。ほら、美月のところに行ってあげな」
「はい」
美月は先ほどまでと同じくパーテーションで区切られた保健室の奥のスペースに置かれた椅子に座っていた。私を見るなり勢いよく立ち上がって私に駆け寄り、その勢いのまま強く私を抱きしめた。
一昨日泊まったときに使わせてもらったシャンプーの香りが鼻をくすぐって美月と一緒に寝た夜のことを思い出す。不安ながらも前に進もうとしたあの日は一昨日のことなのにとても昔のことのように感じられた。
「ありがとう、詩織。本当に……」
涙ぐみながら言葉を紡ぐ美月を私も抱きしめ返した。暖かくて柔らかくて可愛らしい美月を守ることが出来たと思うと、その達成感や喜びで私も泣きそうになる。
「うん、美月のこと守れて良かった……でもごめん、エプロン汚されちゃった。一足遅くて」
「全然良いよ。中一から使ってるから二年生になったら新しいの買おうかなって思ってたの。買うのがちょっと早くなるだけだから。そうだ、今度一緒に買いに行ってくれる?」
「もちろん。あ、でも伊織もすごく気にしてたから伊織と行ったら? 絶対オッケーしてくれると思う」
「えー? そうかなー? 一緒に行ってくれるかなー?」
抱きしめ合ってるから美月の表情は見えないけれど、声が弾んでいるので嬉しそうにふにゃけた顔をしているに違いない。いつもの美月が戻ってきたように感じる。
「大会が終わったら休みもあるだろうし誘ってみなよ」
「うん、そうする」
「今日の伊織、美月にも見てもらいたかったな。勢い良く調理室に駆け込んできて、落ち着いていたけどすごく怒ってて、美月を傷つける奴は絶対許さないぞーって感じで、今まで見たことないくらい迫力があった」
「ほんとに? 美月を傷つける奴は……はさすがに盛ってない?詩織のことも言うでしょ、伊織君なら」
「うーん、まあそうだったかな。でも美月が傷つけられたことに怒ってたのは本当だよ」
「そっか、それなら嬉しいな」
「おーい、お嬢さんたち。仲が良いのは結構だけど男どもが困ってるよ」
私と美月の蜜月な時間は白雪先生の一声で終わりを迎える。伊織が来たことに気づいた美月は大急ぎで私から離れ、少し潤んでいた目をハンカチで拭いて髪を整え始めた。
あまりの変わり身の早さに少しだけ伊織に嫉妬してしまうが私の前だと自然体でいられるのだと思うとそれはそれでありだと思う。
「ほんとに仲良いよな、お前ら」
「羨ましいでしょ?」
「……別に」
「もっと素直になれば良いのに」
私と伊織がそんなやり取りをしている間に美月の身だしなみが整い、美月は伊織と真人君の正面に立った。
「伊織君、桜君。本当にありがとう。こんなに安心した気持ちになれたのはすごく久しぶり。二人のおかげ。大会もあるのに、私のせいでいっぱい迷惑かけちゃって、ごめんなさい」
そう言って頭を下げた美月に対し、伊織が手を伸ばした。
そうだ。抱きしめろ。せめて頭を撫でろ。無理でも肩に手を置くくらいして「頭を上げて」って言え。キスしろ。
そんな私の思いも虚しく、伊織は伸ばした手を引っ込めた。意気地のない兄で困る。
真人君もそんな伊織のことを苦笑いをして見ている。仕方のない奴だという顔をして真人君が美月に声をかけた。
「萩原さん、頭上げてよ。目の前でつらい思いをしていたり、誰かに嫌がらせをされている人がいたら助けるのは当たり前のことだからさ、俺も伊織も迷惑だなんて思わないよ。むしろ俺の方こそごめん。そもそもの発端は俺が何も考えずに詩織さんを誘ったことだから。もっとよく考えて動いていればこんなことにはならなかったはず」
伊織がまごまごしているから真人君に全部言葉を持っていかれてしまった。真人君のこういうところはぜひとも伊織に見習ってもらいたい。
「そんなこと……桜君のせいじゃないよ。私や詩織に嫌がらせした人が悪いんだから」
「そっか、じゃあお互い謝るのはなしにしようか」
「そうだね。それが良い」
「いや、謝らないといけないことが一つある」
美月と真人君の間でまとまりかけていた話を伊織が遮った。汚名返上なるか。
美月は伊織の目を見て言葉を待っている。さっきまで真人君を見ていた目とは明らかに違って真剣で、情熱を秘めていて、期待している。
「調理室に置いてあった美月さんのエプロン、汚されちゃったんだ。俺がもう少し早く駆けつけていれば止められたのに……ごめん」
「それは良いよ。もともと買い替える予定だったから気にしないで」
「そっか、でも……」
俺と一緒に買いに行こうって言え……さすがに無理があるか。
「大丈夫だよ。伊織君が謝るようなことじゃない」
美月も誘ってみるって言っていたのに何を遠慮しているんだ。自転車の練習に誘ったときの勢いはどこに行ったんだ。なかなか進展しない他人の恋愛というのはこんなにもやきもきするものなのか。
「まあ伊織が転んだせいで調理室に着くのが少し遅くなっちゃったからね。責任取って伊織が弁償するべきだと思う」
こんなときでも真人君は察しが良い。いたずらっぽく笑って伊織に責任を押し付ける。
「は? 転んでないし、何言ってんだよ」
察しの悪い兄で困る。ここは私も助け船を出すしかない。
「エプロンがないと美月が部活できなくてかわいそう。伊織がもっと急いでいればなー」
「それは、申し訳ないけど俺なりに急いでたし……」
「運動のときの栄養補給にちょうどいいお菓子を作ってみることになってたらしくて、伊織を実験台に推してたんだけどそれもなしになっちゃうなー」
「残念だね。伊織の代わりに俺がその役目をもらっちゃおうかな。俺が買ってくるよ」
真人君が乗ってきた。伊織を追い詰めてエプロンを買いに行かせるという意図を完全に理解してくれているようだ。
「確かに伊織より真人君の方がセンス良さそうだし。その方が良いかも」
伊織が素早く私の方を見た。その目は鋭く、どうやら真人君の方がセンスが良さそうという言葉は納得がいかない様子。昔と比べて大人っぽくなったと思っていたけれど、こういうところで張り合う子供っぽさもまだ残っていたようだ。
「いや俺の方がセンス良いし。真人になんか任せたら着ていて恥ずかしいデザインのやつ選んで来るぞ」
「それはひどい言いようだな。伊織なら萩原さんに似合う良い感じのやつ選べるってこと?」
「当たり前だろ。真人と比べたら百倍ましなやつ選べる」
「じゃあ伊織が買いに行く?」
「ああ、行ってやるよ」
意外と単純な兄で助かる。あとはもう一押しだ。
「でも正直伊織のセンスも心配だから、美月も一緒に行ってその場で選んでもらいなよ。勝手に買ってきて変なのだったら美月がかわいそう。ね、美月もその方が良いでしょ?」
お膳立てはできた。あとは美月が頑張る番だ。私と真人君の後押しを得て美月は勇気を振り絞る。その姿は本当に一生懸命でまさしく青春と言ったところ。
「あ、あのね。お金は自分で出すから、一緒に選んでもらえたら嬉しい、です。その、助けてくれたお礼もしたいし、そのついでに……ど、どうかな? 日程は伊織君の都合に合わせるから」
目が潤んで、口をキュッと結んで、そんな顔で見つめられたら断れるわけがないくらいの懇願の表情は抱きしめたくなるくらいに可愛らしい。
こんな顔をさせておいて断るようなら私は今後一切伊織と口を利かない。
「うん、分かった。近いうちに連絡するよ。大会の後は部活の休みも増えるから」
このときの嬉しそうな美月の表情はそれはもう世界一可愛くて、世界一幸せそうで、見ている私まで嬉しくなる。動画を撮っておけばよかったと後悔したがなんとか脳内に保存できた。
そして伊織の都合が良いときというのは部活が休みのときということで、真人君も休みなわけだ。それはつまり私と真人君も遊びに行くチャンス。真人君を見ると真人君も私を見ていて、微笑みながら無言で頷いてくれた。
この察しの良さは本当に伊織に見習ってほしい。
「じゃあそろそろ行くよ。あんまり遅くなるわけにはいかないし」
「あ、伊織ちょっと待って。お父さんから預かってるものがあるの」
鞄にしまっていた二万円入りの封筒を伊織に手渡すと伊織は訝しそうに中身を透かして見ようとした。
「何これ……万札じゃん」
「うん。新幹線代に使えって。真人君も使ってよ」
「え、いや、さすがにお金は悪いよ」
「大丈夫だよ。私を助けてくれたって言えばお父さんは許してくれるよ。バスか電車で行くつもりだったんでしょ? 疲れて試合で活躍できなくなったら嫌だから新幹線で楽して欲しい」
「……じゃあ今回はお言葉に甘えようかな。いつか何かの形で必ず返すよ」
「うん。楽しみにしてるね」
「それじゃ、行ってきます」
優しく微笑んでいた真人君の表情がキリっと真剣なものに変わった。これから戦いに行く人の顔、こっちの顔も私は大好きだ。
真人君が背負うバスケ部でお揃いの鞄には私があげた必勝祈願のお守りがぶら下がっている。
今回の大会は遠くて現地には行けないし、ネット配信もないらしく見ることはできないけれど、あのお守りで私の存在を感じてくれたら嬉しいことこの上ない。保健室を出る真人君の背中とお守りに真人君の活躍と桜高校の勝利を祈って、二人を見送った。
放課後には調理室での出来事がすでに噂になっていた。私が四人をしばき倒したとか、伊織が鍵のかかった外の扉を無理やりこじ開けて入ってきたとか尾ひれがついたというより根も葉もない噂にもなっているそうだ。
しかしそれはあくまでこの件に関わっていない人たちの間で面白おかしくささやかれているだけで「関わっていた人は戦々恐々だよー」といつもの四人で保健室を訪れた秋野さんが教えてくれた。六人で昇降口に向かって歩く最中に私は秋野さんに気になることを尋ねた。
「秋野さん、伊織が言ってたけど裏垢を特定したって……いったいどうやったの?」
秋野さんはいつものふわふわした調子で答える。
「んーそれはねー、誰のか分かってるアカウントに書き込まれた内容とー裏垢の内容を見比べてー書き込む時間とか内容の傾向で判断する感じー」
「そんなことで分かるの? すごい」
「分かりやすい人だけだよー。本垢と裏垢で人が違うみたいな書き込みしてたらさすがに分かんない。でもSNSで悪口とか言う人はかなりの頻度で書き込んでるからヒントがいっぱいあって結構分かりやすかったー」
「へー、心愛にそんな特技があったなんて初耳」
蘭々が感心したように言った。大石さんも小畑さんも知らなかったらしく皆驚いている。
「ちなみにM君大好きbotとSちゃん大好きbotなんてアカウントの中の人も知ってるよー」
「何それ? botって何?」
「んーとねー本当はプログラムで自動で書き込んだり動いたりするものなんだけどーこのアカウントは手動で書き込まれてるかなー。不定期にM君のカッコ良かったところとかーSちゃんの可愛かったところが書き込まれるのー。Sちゃんbotは最近動きが激しくなったねー」
「へえ、好きな人の良いところを書き込んでるんだ。裏垢って悪口とか危ないことばっかりだと思ってた」
「まあ人前でできないようなことするためのアカウントだからねー。あれ? 蘭々どうしたの―? 顔真っ赤だし、汗かいてるよー? 保健室戻るー?」
そういえば秋野さんがbotの話をした辺りから蘭々の様子が少しおかしい。焦っているというか挙動不審というか表情や動きがぎこちなくて普段の自信に満ちた姿勢とは大違いだ。
「い、いや、大丈夫。なんでもないよ、気にしないで」
「そおー? ならいいけどー、蘭々も裏垢には気をつけようねー」
「そ、そうだね。誰が見てるか分かんないし、気をつけようね。あ、詩織は見ない方が良いよ。結構刺激強いから」
「う、うん」
M君、Sちゃん。botの話で様子がおかしくなった蘭々。蘭々に対して裏垢に気をつけようと言ったbotの中の人を知っているという秋野さん。私には見ないように言う蘭々。なるほど全部理解した。
いったいどんなことを書き込んでいたのか、蘭々の目の前で見るのはかわいそうなので家に帰ってから見ることにしよう。
昇降口に着いた私たち、正確には美月を待っていたのは一年二組の女子生徒数人だった。今朝、男子と口論をしていた人も混ざっている。問題は解決に向けて前進してはいるけれど、まだまだ終わったわけではないということを思い出させる。
「萩原さん、今までひどいことしたり言ったりしてごめんなさい」
今朝男子と口論していた女子が先頭に出て今朝の態度とは大違いで頭を下げ、美月に謝罪をした。周りの面々も一緒に頭を下げ謝罪の言葉を述べ始める。今までの行為を反省し、許しを請おうとしている。
なんて勝手な人たちなのだろうか。今まで好き勝手やっていたくせに、あの四人が見つかって自分たちの行為も明らかになりそうだから、あらかじめ美月に許してもらうことで罪や処分を軽くしようという魂胆が見え見えだ。
「本当にごめんなさい。やっぱりクラスの仲間にこんなことするのはおかしいって思って、めちゃくちゃ後悔してるし反省してる。これからは仲良くしたいなって思ってて……」
よく漫画や小説などでよく反吐が出るという表現を見たことがある。不愉快になったり嫌悪感を持つようなときに用いるそうだけれど、実際にはどんな感覚なのだろうとずっと疑問だった。
今この状況はまさしく反吐が出るという表現がぴったりな状況であり、不謹慎にも感動してしまった。
美月は彼女らと目を合わせることすらしたくないようでうつむきながら蘭々の後ろに隠れていた。もう無理だろう。彼女らと美月が仲良くなんてできるはずがない。許すはずもない。目撃者もたくさんいる以上彼女らがいじめの加害者という罪から逃れる手段はない。待っているのは退学処分だ。
「あの、萩原さん?」
「話したくないってさ。行こっ」
こういうときに蘭々の強さは心強い。私たちは蘭々に連れられて、彼女たちの視線や声を無視して帰路についた。必死に美月に声をかけようとしていたけれどその声は届かない。彼女たちと顔を合わせるのはこれで最後になるかもしれない。
私は何の感情も抱かなかった。
自業自得。そんな言葉がよく似合う。
帰宅してお父さんに全てを話した。
お父さんは驚いたり怒ったり悲しんだり色々な感情を露わにしていたけれど、最後に伊織と真人君が助けてくれたからもう大丈夫と言うと納得して「よく頑張ったな」と言いながら頭を撫でてくれた。
普段は面倒くさくてうっとうしく感じることもあるけれど、このときばかりはお父さんの優しさに甘えようと思い大人しく撫でられることにした。
日曜日の夜十一時を少し過ぎた頃、もう少しで寝ようかと思っていたところでスマホに真人君からメッセージが届いた。
明日の決勝戦に進出したということは今日の夕方に連絡を受けていたので何事かと思ったけれど、今から電話してもいいかという内容だった。
金曜日に別れてから文字のやり取りしかしていなかったので妙にワクワクしてしまい、返信代わりにこちらから電話をかけた。
周りに誰かいたらどうしようと後悔したときにはすでに真人君が電話に出ていた。
「もしもし真人君? いきなりごめんね、周りに誰かいなかった?」
「大丈夫だよ。今は一人で旅館のロビーにいるから。こちらこそこんな夜遅くにごめん。一応伊織がまだこの時間なら寝てないだろって言ってたんだけど大丈夫だった?」
「うん、全然大丈夫。真人君こそ明日決勝戦でしょ? 眠らなくて大丈夫?」
「うん、というかなんか眠れなくて」
「何かあったの?」
「……ちょっと調子が悪くて。あ、体調じゃなくてバスケの方ね。シュート外しまくったし、パスのミスもたくさんあった。ディフェンスも簡単に抜かれることが多かったし、皆のおかげで試合は勝てたけど俺個人の結果だけ見たら最悪だった。自分の思い描くプレーが全然できなかったんだ」
真人君は基本的に穏やかで優しくて謙虚だ。でもバスケのことに関しては実力に裏打ちされた自信に満ちていて、弱気な発言を聞いたことはほとんどない。それなのに今日の真人君は様子がおかしい。
「ごめんね、最近バスケ以外のことで忙しくさせちゃったから。移動も大変だったでしょ?」
「それは関係ないよ。詩織さんや萩原さんを助けるために行動しようって決めたのは俺自身だし、あのくらいの移動でプレーに悪影響が出るようじゃこれから先、選手としてやっていけないから……ごめん、余計な気遣いさせちゃって。こんな弱気じゃいけないよね。ほんとにごめん、こんな夜遅くに、どうしても詩織さんの声が聞きたくなったんだ」
「いいよ。私の声で良かったらいくらでも聞かせてあげる。弱気なこととか、不安なこととかなんでも言って。私じゃ技術的なことは解決できないけど、せめて気持ちが楽になるまで話は聞けるから」
私への嫌がらせが始まった日の夜、不安で仕方がなかったときに私は真人君の声が聞きたくなった。
そのときはスマホに手を伸ばす気力すらなくて電話を掛けられなかったけれど、真人君も不安なときに私の声が聞きたくなったというのならこれ以上に嬉しいことはない。
「ありがとう……それじゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
「うん、なんでも言って?」
「俺、高校バスケ界では結構な注目選手でさ、チームの中でも先輩差し置いてエースとか言われて、大会でも俺を見に来てくれる人もたくさんいて悪い気はしなかった。それに見合うくらいの選手になろうって思って、それなりに努力して結果も出してきた」
「うん、私も注目してる」
「でも、昨日と今日は自分の思うようなプレーが出来なくて、試合が終わった後に観戦していた人の声が聞こえたんだ。今日の桜真人たいしたことなかったなって。それは事実だったから怒ったりは傷ついたりはしなかったけど、ふと思ったんだ。皆が俺のことを褒めてくれたり、注目してくれるのは俺がバスケがそれなりに上手いからなんだよなって。俺からバスケを取ったら何が残るんだろうって。今はいくらでもバスケに力を入れられる環境や体や時間があるけどいつか終わりが来る。永遠にバスケをすることはできない。バスケのない俺に価値はあるのかなって思って、怖くなった。不安で眠れなくなったんだ」
真人君はバスケ以外のことではあまり自信がない。得意の加点法による評価も自分自身のこととなるとバスケ以外の評価はできていない。それならば私が評価してあげるしかない。
「真人君はバスケだけじゃないよ。いつも優しくて、穏やかで、気が利いて、察しが良くて、何事にも一生懸命で、いつも笑顔を絶やさなくて、顔も振る舞いもカッコいい。バスケ抜きにしても皆から好かれる存在だよ」
もちろん私からも、という言葉は飲み込んだ。初詣で引いたおみくじに書いてあった通り、気持ちを伝えるのはタイミングを見極めてバレンタインにする予定だ。それまで言ってはならない。
「何より、私のことを守ってくれた。バスケ抜きでも真人君は百点満点の人だと思う。バスケを加えたら限界を超えて二百点くらいになってるだけだよ」
「満点だなんて言いすぎだよ……でも、ありがとう。詩織さんにそういう風に言ってもらえるとすごく嬉しい」
「私も嬉しい」
「え? どうして?」
「私、真人君のこと完璧な人だと思ってたから。なんでもできて弱音なんか吐かないんだろうなって勝手に思ってた。そんな真人君でも不安になることもあって、そんなときに私の声が聞きたいだなんて思ってくれたことがすごく嬉しい。私も嫌がらせされて不安だったとき、真人君の声が聞きたいって思ってたから」
真人君の返答はなく、電話越しにはかすかに息を飲む音が聞こえる。しばらく間を置いてほんの少しだけ上ずった真人君の声が聞こえた。
「ねえ詩織さん。もう少しわがままを言ってもいいかな?」
「うん、いいよ」
いつもより少しだけ弱気な真人君に私は初めて庇護欲のようなものを覚えた。守ってもらってばかりだったけれど、今日は守ってあげたくなる。
電話の先にいるのは、高校バスケ界のスターで学校一の人気者という肩書きは関係ない、ただの同い年の男の子だ。
「もう少し話がしたいんだ。明日学校だけど、駄目かな?」
「まだあんまり眠くないから大丈夫だよ」
「良かった。ねえ詩織さん、そっちの天気はどう?」
窓に取り付けているカーテンを開けて、窓も開けてみた。雪は降っていないがさすがに二月の夜だけあって冷たい空気が入り込んでくるけれど、真人君と話して少し火照った頬に当たって気持ちが良い。
外は月明かりと街灯の光のおかげでほのかに明るい。下弦の月と呼ばれる半月と三日月の間くらいのお月様を見ていると真人君が天気を尋ねた意図が少し分かった気がする。きっと真人君は空を見上げながら電話している。
「月が綺麗に見えるよ。真人君も見える?」
「うん。旅館の周りに建物とか光を出すものが少ないからかなり綺麗に見える。不思議だよね。離れていても同じものを見ることができるって。スマホとか使えばなんでも共有することはできるんだけど、直接自分たちの目で見て、同じ光を浴びているんだと思うと嬉しくなる。同じ世界にいるんだっていう実感が湧くんだ」
確かにスマホで写真を共有するときとは違う感覚だ。今まさに私と真人君は同じ月を見ている。
私たちの感覚ではとても離れた場所にいるけれど、月からすれば私と真人君の距離なんてたいしたことはなくて、人間が二人寄り添ってこちらを見ているように見えるかもしれない。
「詩織さんが見ていてくれると不思議なことにシュートが全部入るんだ。だから、今こうして詩織さんの存在を近くに感じられれば明日は全部と言わずとも結構上手くいってくれるんじゃないかって思ってる」
「うん、私はずっとそばにいるよ。私の気持ちはお守りに込めておいたから。真人君なら大丈夫」
「ありがとう。明日は試合中以外はずっと握りしめておくよ。そうしたらかなり効果ありそう」
「それは嬉しいけど、皆から変だと思われないかな?」
「大丈夫。俺の気持ちはバスケ部員全員が知ってるから」
「そ、そっか」
真人君の気持ち。それは私のことを好きだということ。不意打ち的に思い出させられて顔や胸の辺りが急激に熱くなりそうになったが、外の冷たい空気のおかげでそれは免れた。
さすがに寒くなってきたので窓を閉めながらふと思った。真人君は私のことを好きだと言ってくれるけれど、私の気持ちを教えてとは言わない。そして付き合って欲しいとも言わない。
ただ照れくさいだけなのか、私の言動からもう気持ちを察しているから聞く必要がないのか、こんな夜中に電話をしたりするほどの仲で実質付き合っているようなものだからわざわざ言わないのか。
いずれにしてもバレンタインの日に私が気持ちを伝えれば私たちに関係ははっきりするはずなのでこのことに関しては今は何も聞かないでおいた。
「明日、頑張れそうだよ。詩織さんに電話して良かった。詩織さんと話していたら不安な気持ちが落ち着いたよ」
今日は何度目だろうか。真人君に名前を呼ばれるたびに心が温かくなる。真人君の優しい声はそんな魔力を秘めている。
そしてその声はこの会話を終わらせようという雰囲気を醸し出していた。時間を考えたら当然のことだけれど私はまだ話を続けたかった。
どんな話でも良い。くだらない話でもとりとめのない話でも何でも良いから真人君とのこの時間を終わらせたくなかった。
何か話題を探して頭をまわし、部屋を見渡し、窓越しに外を見た。窓を閉めて視線の角度が変わった関係で月は見づらくなっていたけれど、その存在は確認できた。
綺麗な月。美しい月。美月のことを思い出す。
「真人君、あの、お泊まりのとき男の子ってどんな話をするの?」
「え? そうだなあ、軽く試合の振り返りをしたり、好きな漫画とか音楽とかの話をしたり、風呂上りには筋肉を自慢したりする奴もいる。あ、これは皆じゃないから勘違いしないでね。それから女の子には聞かせられないような話もたまにするし、恋愛の話もするよ。試合のために来てるからさすがに徹夜したりはしないけどね」
「じゃあ、伊織の好きなタイプとか……」
「もちろん聞いたよ。約束だったからね。学校に行ったら萩原さんに直接教えてあげようと思ってたけど、詩織さんには聞いてもらった方が良いかもね」
「うん、教えて教えて」
私は息を飲んだ。自分のことではないのに自分のことのようにドキドキしている。息が荒くなっているような気がして、深呼吸を数回して真人君の声を待った。