再び白雪先生の恋愛遍歴が語り出されようとしたところで私はトイレに行くために退室した。本当は先生の話を聞きたかったけれど生理現象には勝てない。

 いつも使っているトイレは一年生のフロアの四階にあるが今は保健室のある一階にいるので当然一階のトイレを使用する。

 別に厳密に決まっているわけではないが自分の学年のフロアのトイレを使うことが暗黙のルールとなっているので一階のトイレはほとんど人がいない。

 四階の女子トイレはいつも誰かがいて噂話をしたり禁止されている化粧をしたりトイレの電源を使ってヘアアイロンをかけていたりとカオスな空間だったけれど、ここはとてつもなく平和な空間だった。

 同じ学校、同じ構造のトイレのはずなのに別世界に来たみたいで、ずっと保健室暮らしも良いなと思ってしまう。

 快適なトイレに満足しながら廊下に出て、なんとなくいつもとは違った一階の風景を見渡すと校舎の端っこ、突き当りに大きめの部屋があるのが見えた。調理室だ。

 なんとなく、本当になんとなく、そちらの方に歩き出した。

 美月が調理室のロッカーにエプロンを置きっぱなしにしてしまっていると聞いたからだろうか、当然鍵を持っていないので取ってきてあげることもできないのに、なんとなく調理室の部屋の中を覗いてみたくなった。

 調理室は校舎側に扉が一つと外に繋がる扉が一つあり、部屋の構造的に校舎側の扉についたガラス窓から中の全容は見えない。

 虫の知らせとでも言うのだろうか、なんとなく来たはずなのに胸の中がざわついて、つい扉に手をかけると、中から誰かの声が聞こえたような気がした。

 調理室のようないわゆる特別教室は授業や部活で使用しないときは必ず鍵がかかっているものだけれど、引き戸となっている調理室の扉はほんの少し力を入れただけでガラガラと音を立てながら開いた。

 鍵のかけ忘れか、それとも誰かがいるのか。家庭科の先生が授業の準備をしている可能性もあるが、どうしても嫌な予感がして、その予感から逃げ出すことができなくて、私は調理室の中に足を踏み入れた。

 廊下からは見えない死角となっている場所に鍵のかからないロッカーが置いてあった。

 そこには女子生徒が四人いて、邪悪でいやらしく、気持ちの悪い笑みを浮かべていた。私と目が合うとその笑みが消えた。そのうちの二人が手の中に小さくて丸っこいものを持っていてるのが見える。

 一人は二組の人だったと思うが名前は覚えていない。もう一人は私のクラスの後藤雅さん、いつかトイレで私の悪口を言っていた人で、あとの二人は見たこともない人だった。

 見下したような四人の視線が私に突き刺さる。その悪意の波動に怖気づいてしまいそうになるが何とか踏みとどまった。

 しばらく向き合って、知らない二人が持っているのは卵だと分かった。よく見ると床に殻や卵白が落ちている。

「な、何をしているの?」

 ちっぽけな勇気を精一杯振り絞って尋ねた。卵を持った一人が手の中で卵を弄り回しながら悪びれもせず、開き直ったように答えた。

「同じクラスの料理部の子が調理室の卵の消費期限がやばいって言ってたから処理してあげようと思って」

 そう言いながらロッカーの中に卵を投げ入れた。ビチャッという音がして、中で割れたことが分かる。ロッカーの上には卵のパックがあってまだ数個残っている。

「そのロッカーは……どうしてこんなこと」

「理由なんて別にないよ。この子には何してもいいんでしょ? 一年生の間ではそういう扱いになってるって聞いたけど」

 そんな訳がない。美月をいじめている人たちが勝手に言ってるだけで、そんな扱いをして良い人間がいるわけがない。

 口ぶりからしてこの人は二年生、美月とはなんの関わりもないはずなのになんでこんなことをしているんだ。なんで笑いながら平気な顔でこんなひどいことをできるんだ。

 こんな風に言い返す勇気はどんなに振り絞っても出てこなかった。結局私は皆がついていてくれないと何もできない。目の前で美月に嫌がらせをしている人がいるというのに何もできない。弱い人間だ。

「ていうかあんた誰? 何しに来たの?」

「あーあれじゃん、一年の桜君の彼女疑惑があった子。てか雅同じクラスでしょ?   
 なんでなんも反応しないの?」

「えー? こんな子知りませーん」

「うわ、雅ったら薄情」

 何が面白いのか四人はぎゃはぎゃはと下品に笑い出した。私の理解が及ばないところで楽しんでいる四人が得体の知れない存在に思えてくる。

 白雪先生が言っていた、いじめの原因は非論理的なところにあるという言葉を思い出した。彼女らの行動やその理由は分からなくて当然なのだ。

「ねえ、そこどいて。私ら帰るから。誰かに言ったら……分かるよね?」 

 お決まりのようなセリフを吐く二年生の一人。何も言い返せなくて頭の中が真っ白になってしまった私にできることはその場から動かず、彼女たちをここから立ち去れないようにすることだけだった。

 伊織はきっと昇降口を見張っているからここには来ない。もしかしたら私がトイレから戻ってこないことを心配して白雪先生が探しに来てくれるかもしれない。開けっ放しの扉を見て他の先生が様子を見に来るかもしれない。それを信じて私は耐えるしかない。

 その場を動こうとしない私を見て彼女たちは苛立つ。「どけよ」「邪魔、消えて」と口調も悪くなり、その悪意に私は飲み込まれてしまいそうになる。それでも私は両手を広げて立ちふさがった。

「嫌だ。いじめをするような人を行かせたりしない」

「別にいじめとかじゃないし」

「あなたたちが決めることじゃない」

 行かせないため言葉をなんとか絞り出して、言い返した。

「邪魔だって言ってる……じゃん」

 二年生の一人が手に持った卵を私に向けて投げつけてきた。私の顔の横を通り過ぎて後ろにあったガラス窓に当たり、割れた卵がべったりとガラスにこびりついた。

「へたくそー。ちゃんと狙いなよー」

「分かってるよ」

 そう言いながら第二投の準備をしている。

「どかないと当たっちゃうよ」

 言葉と同時に投じられた第二投は私の顔をめがけて飛んでくる。

 当たる。そう思ってとっさに顔を背けると同時に右手で覆った。 

 ガラスやロッカーにぶつかったときよりも鈍い音がした。私の手にも顔にもあたった感触はない。

 反射的に閉じていた目を開くと、私の眼前には大きな手があって、視界の片隅に大きな体があった。