下駄箱についている小さな扉から水が垂れてきているのが見えた。確かに朝は積もる雪の道を歩いてきたから履いてきたブーツには雪がたくさんついていたが、下駄箱に入れる前にきちんと落としたはずだから垂れるほどの水になるとは考えにくい。

 他の人の下駄箱は特に同じような現象は見られない。

心臓の鼓動が聞こえる。この音は良い音ではない。嫌な予感がするとき、不快な思いがするときに聞こえる音だ。

 周りに人がいないのを確認してから下駄箱の扉を開けると周りよりも冷たい空気を感じる。

 私の心の中の何かが変わった瞬間だった。

 中には溶けかかった小さな雪だるまが二体。ご丁寧にブーツの中にも一体ずつ。計四体の雪だるまが私の下駄箱の中に詰め込まれていた。

 やっぱりこういうときに感じるのは怒りや悲しみじゃなくて虚無なんだ。

 何も考えられなくなる。何も考えたくなくなる。いじめが苦で不登校になったり自殺したりする人のニュースを見ていつも思っていた。早く誰かに相談すればよかったのに、と。

 できなかったんだ。何もしたくなくなって、相談すらできなくなってただただ心が壊れていくのを待つしかなかったんだ。すでにこの現実を咀嚼して理解するだけで疲労していて、真人君や美月、伊織に相談するなんて気力は湧かず、先生に報告する気にもなれない。

 一人で空っぽの心を抱えたまま立ち尽くして、何か行動をしなければと思うまでにはかなりの時間を要した。

 とりあえずこのくだらない溶けかけの雪だるまたちを外に投げ捨て、他には何も入っていないかブーツの中を確認した。何も入っていないがぐっしょりと濡れていてこのまま履いて帰ったら足が冷えて霜焼けになりそうだ。

 仕方なしにブーツを下駄箱に戻して校舎の中に戻ると、行きかう女子生徒が皆加害者のように見えた。

 犯人は朝に私を取り囲んだ六人のうちの誰かまたは全員の可能性もあるけれど、噂はほぼ全校に行き渡っているようなので、その中に本気で私に悪意を持った人がいてその人がやった可能性もある。

 放課後は美月と一言話してからすぐに昇降口に来たのでこんなことをやっている隙はなかったはずだから、きっと昼休みにでもわざわざ昇降口に来て行ったのだろう。よほどの悪意を持っているとしか思えない。

 どうしたものかと昇降口でぼーっとしていると外で体育をするときに履くための靴を教室に置きっぱなしにしていたことを思い出した。雪はまだ積もってはいるが朝に比べれば溶けているし雪かきもされているので普通の靴でも帰り道は大丈夫そうだ。

 教室に戻るための道中でもすれ違う人たちに何かされるのではないかという疑心暗鬼になってしまい、私は目を出すために前髪を留めていたヘアピンを外し、うつむきながら歩いた。

 桜高校は一学年八クラスあって一つのフロアに一組から八組までが並んでおり、四組と五組の間に階段があって二つに分かれる。一階に職員室など色々な部屋があり、一年生のフロアは四階だ。

 四階まで階段を昇りきったところで五組側の方から歩いてくる裸眼の佐々木さんと鉢合わせした。その顔に安心感を覚えたがそれは一瞬だった。佐々木さんの後ろにはいつも一緒にいる大石さんや他のクラスの二人もいたからだ。

 彼女たちが私をどう思っているのか分からず身構えてしまう。

「あれ、春咲さん帰んなかった? どうしたん?」

「あ、ちょっと教室に忘れ物しちゃって……」

「そう、てか前髪どうした? ヘアピンは?」

「え、えっと、ど、どこかに引っ掛けたときに外れて落としちゃって、雪の中に落ちちゃったからどこにあるか分からなかくて……」

「まじ?怪我とかしてない? 一緒に探そうか?」

「あ、ありがとう。でも大丈夫。今日はもう帰るだけだし、家にいっぱいあるから」

「そう? ならいいんだけど……」

 佐々木さんの後ろで大石さんたちがクスクスと笑っているのが見えた。私の陰口を言っていると思って反射的に三人から目を背けた。彼女らが私の敵であるならば、私はせっかく仲良くなれそうな佐々木さんと仲良くなることができなくなる。

 しかし、その笑いは私ではなく佐々木さんに向けられていたようだ。

「うける。まじで蘭々が春咲さんとしゃべってる」

「ねー、ずっと見てるだけだったのに、ついに一歩前進したよねー」 

「知ってる? 春咲さん、蘭々ってね……」

「ちょ、真海、ストップ! それは駄目!」

 ニコニコしながら私に近づくマリンという名前がぴったり似合う健康的に日焼けした肌を持つ大石さんを大慌てで制する佐々木さん。いつも堂々として自信たっぷりな振る舞いをする佐々木さんがこんなに慌てふためいている姿は珍しい。

 二学期の中間テストで赤点を取ったけれど問題のミスで全員に二点追加された結果赤点を免れたとき以来だ。

「えーでもずっと仲良くなりたいって言ってたんだからこのチャンス逃すわけにはいかないでしょ」

 仲良くなりたい? 佐々木さんが私と? しかもずっと言っていた? いったいどういうことだろうか。

 真人君のことがあったから私と佐々木さんは関わることになって、伊織たちのおかげで少し仲良くなれたはずだが、それ以前は接点なんてなかったはずだ。

「どういうこと?」

 私の質問に心愛と呼ばれていた人が答えてくれた。身長は私と同じくらいでうっすら茶色い髪は美月と同じくらいの長さだが癖っ毛なのか少しだけくるっと巻いてあって、垂れ気味の大きな目ともちもちしたほっぺたが可愛らしい。

 ついでに自己紹介をしてくれて秋野さんというらしい。愛楽と呼ばれている人は小畑さんというようだ。小畑さんは身長が高くて細くて顔が小さくてスタイルだけなら佐々木さん以上に優れていてショートカットの髪が似合っている。

 佐々木さんがアイドルなら小畑さんはモデルだろう。大石さんと小畑さんは顔を真っ赤にした佐々木さんをなだめている。

「蘭々はねー四月か五月くらいから春咲さんのこと可愛いー、好きーって言ってたんだよー。それでずーっと見てたんだけど、蘭々ってばー、男の子にはどんな人相手でもガンガン話しかけに行けるくせにー、春咲さんみたいに大人しい系の女の子には全然距離詰められなくてー、おかしいよねー」

 つい佐々木さんの顔を見てしまった。少し涙目になりながら頬を赤く染めて私を見つめている。そして諦めたように口を開いた。

「心愛、私自分で話すよ」

「んー、了解」

 佐々木さんは眼鏡をかけてから真剣な表情で私と向き合った。じっと見つめても私に不快に思われないようにだろうか。

「心愛の言ったことはだいたい本当。体育のときに初めて春咲さんの素顔を見てから、可愛いって思って、真面目なところとか落ち着きがあるところとか好きだなって思ってずっと見てた。でも私普通に男の子が好きだし、女の子が恋愛対象とかそういうのじゃないから、友情以上恋愛未満的な……だから、春咲さんともっと仲良くなりたいし、もし春咲さんが真人君と付き合うことになったら、悔しいし、羨ましいし、つらいけど、応援する。好きな人が好きな人のものになるって変な感覚だけど……」

 佐々木さんの冷たい視線はただじっと見つめているだけだった。佐々木さんからの冷たい視線はずっと感じていた。佐々木さんは私のことが気になって見つめていただけだったのだ。

「そんなの……初めて聞いたよ……」

「そりゃ私ら四人だけの秘密だったし……ごめん忘れて、変だよねこんなの」

「そんなことないよ。私も美月のこと普通の友達以上に好きだし」

 相手が誰であれ、他人から好かれるのは悪い気はしない。私はそういうのを気持ち悪いとは思わない。むしろ自分の気持ちを正直に話すことができる佐々木さんをすごいと思う。

 こんなときでなければもっと佐々木さんと話をしたいと思う。何とか受け答えはできていたと思うが私の心には大きな石、いや雪玉がのしかかっていていつも以上に素直に感情を表に出せない。

「……何かあった? 顔、いつもより暗い気がする」

 佐々木さんがそんな私の些細な違いに気づく。さすがいつも見ていただけはある。

「……大丈夫だよ」

 これは大丈夫な人の言い方ではないなと自分でも感じるほどに弱々しい返事だ。美月に話したら嬉々として食いついてきそうな話題なのに、楽しくなれない。

「やっぱり噂のこと? 皆好き勝手言ってるもんね」

 小畑さんが言うと、四人とも私のことを心配そうに見つめた。その視線から敵意は感じない。ほんの少しだけ気が楽になって目に涙が浮かぶのをグッとこらえた。

「うちらは蘭々から布教されて春咲さんの良いところいっぱい知ってるからさ。真面目で頭良くて目立たないけど可愛くて優しくてって。だから真人君が春咲さんを選ぶなら仕方ないかなって思う。羨ましいし、嫉妬もちょっとするけどね」

 大石さんが優しい声色で言ってくれた。

「だよねー、春咲さんが大人しいからって好き勝手言うのは違うかなーって思う」

 秋野さんはそう言いながら私の頬を人差し指で突っついてにこにこ笑った。

「ほっぺ柔らかー」

 おどけながら秋野さんは私の目から垂れて頬に伝っていた涙の粒を他の三人に分からないようにぬぐってくれた。私がお礼を言う前に小さくウインクして私から離れていく。

「何やってんの? 心愛。まあ、噂とか皆そのうち飽きるし、私がいる前では春咲さんの悪口なんて言わせないから。でも二人が付き合うまでは私、真人君にアタックしまくるから。それで真人君が私になびいても恨まないでね」

「えー蘭々ずるーい。私もアタックするー」

「そうだよ、うちらだって真人君のこと好きだし」

「蘭々って真人君のことに関してはあたしらのこと眼中にないよね」

「だって皆土日のバスケ部の試合見に来なかったじゃん。私と春咲さんは見に行って応援したんだよ。あ、そういえば自慢するの忘れてた。ほら、真人君とのツーショット写真。まあ春咲さんも撮ってたけど」

 そう言ってスマホの画面を見せびらかす佐々木さん。大石さんがそのスマホを奪い取って三人が食い入るように画面を見つめてあれこれ騒ぎ出す。

「……本当に平気?」

「……うん」

 平気じゃない。でも心配をかけたくない。今までとは違う意味で佐々木さんの視線から逃げ出したい。

「……傷ついてない?」

「……うん」

 傷ついている。今までに負ったことがないような痛みを、傷を、心に受けている。

「……何かあったら言ってよ?」

「うん、ありがとう」

「絶対言ってね? 一人で抱え込んじゃだめだよ? ……それじゃあ。私たち帰るね」
 
 佐々木さんは大石さんからスマホを奪い返し、私に手を振って階段を降りて行った。他の三人も同じようにして降りて行く。

 皆良い人だった。ずっと誤解していたけれど、優しくてちゃんと人の気持ちとかを考えていて、きっと相談すれば助けてくれたはずだ。犯人を特定してやっつけてくれたかもしれない。

 傷ついて困っているはずなのに、こういうときは誰かに相談するべきだと頭では分かっているはずなのに勇気が出ない。

 迷惑をかけたくない。自分がこんな状況に陥っていることを知られるのが恥ずかしい。楽しそうにしている人たちに水を差したくない。そんな思いばかりで私は何もできなかった。助けを求める手を伸ばす気力さえなくなっていた。