お母さんが土曜日に仕事があるときはお父さんがお昼ご飯を作る。お父さんは炒飯に異常な自信とこだわりを持っている、というか炒飯くらいしか作ることができないので今日も炒飯だろう。

 いつもは部活でいない伊織が今日は珍しく帰ってきているためきっといつもの二倍の量は作るはずなので、手伝いついでに付け合わせにサラダくらいは作ってみようかなどといつもは考えないようなことを考えてみた。

 伊織は高校生とはいえアスリートなので栄養バランスには気をつけているみたいだし、お父さんの作る炒飯は肉類は結構入れるけれど野菜はネギがほんの少し入っているくらいなので野菜は足りていない。

 伊織には色々お世話になったし、今もきっと美月にメッセージでも送って謝っているところなのでお礼や労いをこめてたまにはこういうのも良いだろうと思う。

 制服から部屋着に着替えて台所に行くとお父さんが具材を刻んでいるところだった。

「お、詩織、もしかして手伝ってくれるのか? 詩織ももう高校生だもんな、料理にも興味を持つ年頃だよな。お父さんが色々教えてやるぞ。はっ、もしかして例のバスケ部の彼氏に料理を作ってあげるつもりか?そ、それはまだ早いと思うぞ。そんなことのためにお父さんの技術は伝授できないからな」

「そんなんじゃないよ。炒飯だけじゃ飽きるしサラダでも作ろうと思っただけ。そもそも彼氏じゃないし」

 勝手に勘違いして盛り上がっているお父さんを適当にあしらって冷蔵庫から適当に野菜を見繕う。

 レタスは適当にちぎって並べるとしてあとはきゅうりとトマトと、サラダチキンなんてものもあった。

 サラダを作ると言っても私は料理が得意なわけではないので切って盛り付けるだけになってしまうし、一人ひとり別の皿に盛り付けてドレッシングはお好みにして味付けはしない。私の料理の知識と技術ではこれくらいが限界だ。

 料理部の美月ならもっと色々作れるのかななんて考えたが、料理部は実質お菓子作り部と化していると聞いていたので美月の料理スキルに関しては今度聞いてみたいと思う。

「おい詩織、包丁なんて使うのか。待っていればお父さんがやるぞ」

 中華鍋を振るい具材やお米を炒めているお父さんが隣で包丁を用意し始めた私を横目に見て心配そうに声をかけた。

「大丈夫だよ。そんなに複雑な切り方しないし」

「そ、そうか。落ち着いてな、ゆっくりだぞ。包丁を持たない手は猫の手だぞ」

 きゅうりを切るだけでこの慌てよう。私が一人で一食作るなどと言い出したときにはどうなってしまうのだろうか。

 炒飯もサラダも完成して、伊織を呼ぶため部屋のドアをノックしようとしたとき、部屋の中からかすかに声が聞こえてきた。どうやら伊織は誰かと電話をしているらしいがよく聞こえないので、しゃがんでドアに耳をくっつけてかすかな声を聞き取る。

「そうなんだ。まあ詩織も似たようなもんだし、別にそんなに恥ずかしいことじゃ……え? うん、まあ、大会が遠くなると部活休みの日も増えるし、いいよ」

 誰と何の話をしているのだろうか。私のことも話題に出ているみたいで、真人君たちのようなバスケ部の人と話すにしては口調が穏やかすぎるような気がする。

 私と伊織がなかなか降りてこないことを心配したお父さんが様子を見に来たが、ドアに耳をくっつける私の姿を見て同じようにしゃがんで耳をくっつけて聞き耳を立てた。

「……ああそれは詩織のを借りればいいんじゃない? 練習だし、あんまり乗ってないから綺麗だし。詩織にも伝えておく……じゃあそろそろ……うん、ありがとう。また、学校で」

 私のを借りる? 乗ってない? 学校で? 余計に混乱してきて訳が分からない。

 そのときドアが内側に開いた。ドアに耳をくっつけるばかりか体重もかけていた私の体は伊織の部屋に倒れこんでしまった。意外と体幹が強いらしいお父さんは元の姿勢のまま倒れる私を目で追っていた。

「詩織、大丈夫か? 怪我してないか?」

「う、うん」 

「何してんだよ、二人して……」

 無様に倒れる私とあたふたしているお父さんを呆れた目で伊織が見下ろす。伊織はまだ着替えずにジャージのままだ。

「すまん伊織、つい。お昼に呼びに来たんだ……」

「ああ、分かった。行くよ」

 伊織は倒れている私の手を取って引っ張り上げてから部屋を出る。私とお父さんも後ろに続く。私は伊織の手を引いてお父さんには聞こえないように耳元で尋ねた。

「伊織、さっきの電話って……美月?」

「ああ」

「着替えてないってことはもしかして部屋に入ってからずっと電話してたとか?」

「いや……まあ、そうだな。大きい声を出したことを謝ったら気にしてないって言ってくれて、その後に何故か雑談する流れになって……」

 美月、頑張ったんだ。伊織と話すだけですぐに照れたり、有頂天になっていたのに伊織が部屋に入ってから今まで約二十分、こんなに会話が続いたことは初めてのはずだ。

「最後の方だけ聞こえちゃったんだけど、何か約束みたいなことした?それに私も関係してるような……」

「聞こえちゃったじゃなくて聞いてたんだろ……まあ、昼飯終わったら話すよ」

 私の切った不格好なきゅうりやトマトをほんの少しだけ笑いながらすべて平らげ、私の三倍ほどの量の炒飯を食べ尽くし、伊織は自分の部屋に戻って行った。お父さんによる電話の相手についての質問を避けるためだろう。

「お父さんごめん、片付けお願い」

 少し寂しそうなお父さんに申し訳なく思いつつも私も伊織の後を追い、開けっ放しになっているドアから伊織の部屋に入った。私が部屋に入ると伊織は開口一番、本題を話した。

「いつかは決まってないけど部活も学校もが休みの日、美月さんの自転車の練習に付き合うことになった。美月さんは自転車持ってないらしいから詩織のやつを借りる。ついでに詩織も一緒に来て練習しろよな」

「え? 何それ? なんでそんなことになったの?」

「別に、雑談してたらいつも二キロくらい歩いて登校してるって聞いたから、自転車の方が楽じゃない? って言ったら自転車乗れないって言うから、詩織も似たようなもんだよって返して、そしたら乗り方教えてくれない? って聞かれたからいいよって答えただけだよ」

「答えただけだよって、いいの?」

「何が?」

「いや、伊織がいいなら私もいいんだけどさ……」

 飄々と話す伊織に私は困惑する。自転車の乗り方を教えて欲しいなんてお願いをする美月も美月だが二つ返事で了承する伊織も伊織だ。なんだかもうカップルみたいな、そこまでいかなくともとても仲の良い関係のような気がする。

 もちろん私にとっては願ったり叶ったりな展開ではあるけれど、展開が速すぎてついていけない。

「美月さんの家の近くにちょうどいい公園があるらしくて、うちからはちょっと遠いから自転車で行こうと思うんだけど、詩織も自転車は少しくらいは乗れるよな?」

「ば、馬鹿にしないで。私が自転車に乗らないのは心配性なお父さんのためだから。乗れるから、むしろ伊織なんていらなくて私一人で美月に教えられるくらいだから」

「そうなんだ。じゃあ俺いらないな。お前と美月さんなら土日空きまくってそうだからいつでも行けるな」

 にやにやと私を馬鹿にしたような視線を向ける伊織。大人になって、優しくなったと思ったけれど、こうやってたまに子供の頃のように意地悪になる。 

「そうは言ってないでしょ。伊織がいないとお父さんが心配するし、もしも私や美月が怪我したりしたら伊織に運んでもらわないといけないし、一緒に来て」

「はいはい、父さんに自転車通学許してもらえるくらいに頑張ろうな。じゃ、俺これからランニング行ってくるから」

 私の抗議を聞き流して伊織は部屋を出る。今頃真人君以外のバスケ部の人たちはカラオケに行っているはずだったけれど、伊織も大概ストイックだ。

 聞きたいことがあって玄関までついて行った。

「なんだよ。見送り?」

「伊織は、その、美月のことどう思ってる?」

 伊織が一瞬だけ目を見開いたような気がした。でもすぐに無表情になって私に背を向けて外への扉を開けた。

「詩織と仲が良いなって思う。これからも仲良くしろよ……行ってきます」

「うん。行ってらっしゃい」
 部屋に戻って美月に連絡しようと思ったが、スマホを持ったところで思いとどまった。きっと美月はたくさん勇気を出して伊織にお願いしたのだ。私に連絡してこないということは今頃その余韻を噛みしめているはずだ。その邪魔はしたくない。

 伊織に美月の写真を撮らせたけれど、美月にも伊織の写真を撮らせれば良かったと少しだけ後悔した。

 なんとなくベッドに横になって今度は真人君に連絡しようかと思った。今日は結局まともに会話できていないことに今頃気づいたからだ。声が聞きたかったが今頃真人君は一人で練習していると思うと電話をするのは気が引けた。

 ならばメッセージを送っておこうと思ったけれどなかなか手が動かない。

 一歩どころか何歩も前進した美月を知ってしまったし、佐々木さんのこともただの私の思い込みで何の心配もないことも分かったので私ももう少し前に進みたい。そう考えると逆にどんなメッセージを送ったら良いか分からなくなった。

 今まで無難なものしか送っていなかったのだと痛感する。

【今日は本当にお疲れさま シュートを一回も外さなくてすごくカッコ良かったです】

 無難だ。いや、カッコ良かったというのは少し進歩だろうか。もう少しハッちゃけた方が良いか、でも普段の私のままの方が良いだろうなどと考えて自分で打ち込んだ未送信のメッセージを見つめていると、ふと思い出した。

 美月は真人君に伊織の件で協力をお願いしていたはずなので途中経過を報告しておく必要があるだろう。

【美月は実は自転車に乗れないんだけど、今度伊織に乗り方を教えてもらう約束をしました 私も付き添います】

 これでいい。美月の頑張りと伊織の今後の予定を私の自転車の腕前を隠しながら伝えられたはずだ。結局無難なメッセージにしかなっていないことは気にせず、前のメッセージと連続で真人君に送信した。

 練習中なので返信は遅くなるだろうと思っていたが、思いのほか早く来た。

【ありがとう。詩織さんが見ててくれたおかげだと思う。次の大会は詩織さんがいないけど頑張ります。】

 連続でもう一通届く。

【萩原さんすごく頑張ってるね。俺も協力する約束だし二月の大会で旅館に泊まるから夜に伊織に好きなタイプとか聞いてみるよ。詩織さんも練習頑張って。】

 男子もやっぱり皆でお泊りの夜は一つの部屋に集まって恋バナとかするのだろうか。

 中学の修学旅行の夜のホテルの部屋では恋バナ大会が行われたが私は端っこで適当に相槌を打っているだけだった思い出が蘇った。参加していたかもはっきりしなかった私でもなんとなくその雰囲気は覚えている。

 すでに彼氏がいる人が醸し出す無言の優越感と余裕、好きな人が被らないように牽制し合う目線と被っていると察したら先に言ってしまおうという駆け引き。嫉妬、応援、崇拝、色々な感情が渦巻き、昼間に楽しんだテーマパークの絶叫マシンよりもスリリングな空間が出来上がっていた。

 何故かクラスの女子全員が私のいる部屋に集まっていたので逃げ出すことも出来ず、消灯時間になって先生が見回りに来るまでぴりぴりとした一触即発の恐怖の時間を過ごした。

 旅行が終わると旅行前は仲良しだった人たちが険悪になっていたり、そのとき言っていた人とは違う人を好きになっていたり、あの時間はいったいなんのためだったのかと頭を抱えた。

 まあ男子ならそんなことは起こらないだろう。

 好きな人が被っても正々堂々勝負する宣言をしたり、告白する決意をしたり、それを応援する応援団が結成されたり、普段大人しくて目立たない人が熱い思いをぶちまけたり、ちょっとだけエッチな話をしたり、そんな感じだと漫画には描いてあった。

 そして私のことも話題になるかもしれないと思うと少しだけ照れくさい。今日の試合の後に写真を撮っているところはバスケ部の人たちには見られていたし、伊織があえて初詣の時間をずらしたことを考えると初詣の件もバスケ部の人たちは知っている可能性が高い。

 真人君が私との関係をどう話すのか、帰ってきたら伊織に確認しないわけにはいかない。

 思い出から帰ってきて、メッセージの方は相変わらず無難な返信をした。

【ありがとう。真人君も練習頑張って。】

 送信してから気づいた。何故真人君は私も練習頑張ってと書いたのか。文脈的に一つしか考えられない。慌てて追加でメッセージを送信した。

【私は自転車乗れるから二人を見守ります】
【本当だよ】 

 これで大丈夫だろう。

【うん。俺もこれから練習再開します。】

 真人君のメッセージの【うん】にはどんな意味が込められているのか。どうせ伊織が余計なことまで教えたに違いないので今度仕返しをしなければ。

 真人君とのやり取りを終えると、練習を頑張る真人君や伊織に影響されて私も頑張ろうという気持ちになった。私が毎日コツコツと勉強を頑張ることができているのも真人君のおかげに他ならない。

 彼の存在が私のモチベーションになっていて、今の私は希望に満ち溢れている。心が晴れやかで、エネルギーに満ちている感覚すら覚える。

 翌日の朝、目が覚めるといつもよりも空気が冷たい気がした。

 自室のカーテンを開け、窓も開けて地面を見るとそこそこに雪が積もっているようで、私はため息をついた。

 小学四年生くらいまでは雪が積もると大はしゃぎして、うちのそれほど大きくない庭を伊織と一緒に走り回り、雪だるまを作ったり、雪合戦をして伊織に雪玉を顔面にぶつけられたりしていた。

 思えば私はぶつけられるばかりで全然伊織にぶつけることはできなかった。あの頃から運動神経の差が顕著だったのだと悲しくなったが、同時にあの頃は雪が降るとそれだけで嬉しかったことを思い出した。

 だが小学校高学年くらいからは歩きづらくなって面倒だなとしか思わなくなってしまった。

 私は男子である伊織と、伊織は女子である私とべったりしていることが恥ずかしいと感じるようになって伊織から少しだけ距離を置いたときに、無邪気な心も一緒にどこかに置いてきてしまった気がする。

 そんな無邪気な心をいまだに持っていると思われる伊織は、玄関の扉を開けたときにぎりぎり当たらないくらいの場所に、握りこぶし大の雪玉を二つ重ねただけの雪だるまを作ってから登校したようだ。

 どんな顔をして作っていたのだろうと思うと自然と笑みがこぼれて、せっかくなので私も伊織が作ったものの隣に少しだけ小さめの雪だるまを作って並べることにした。

 積もった雪を手ですくい取り、球状に固めていくと手の圧力や温度で溶けた雪が水となって手袋から染みてくる。冷たいけれどどこか懐かしい感覚で楽しくなった。

 一体作り終え、少しだけ無邪気な心を取り戻した私は伊織のものよりも二回りくらい大きな雪だるまを私の伊織と反対側の隣に、私が最初に作ったものよりもほんの少しだけ小さな雪だるまを伊織の私とは反対側の隣に作って並べた。

 手袋はびちゃびちゃになってしまったけれど不思議と嫌な気分はせず、私は手袋を外して学校に向けて歩き出した。

 雪は積もっているものの陽は出ているし気温もそこまで低くはないようだ。予報でも今日は暖かくなると言っていた。私の席は窓際で陽が当たるし、こういうときのために持ち歩いている洗濯ばさみで机の横に引っ掛けておけば手袋は乾くだろう。

 私と美月は通学路が被っているけれど朝は一緒に行く約束はしていない。仲良くなった当初は時間を合わせて一緒に行っていたがお互いに朝は忙しくて待たせたり待たされたりしていたのでいつしか約束をしないようになった。

 それでも三日に二回くらいの割合で同じタイミングになるのだが今日はいないようだ。美月に昨日の伊織との電話の件を聞くのは学校に着いてからになりそうだ。

 教室では佐々木さんと話ができるだろうか。今のクラスなんてさっさと終わって早く二年生のクラスになりたいと思っていたけれど、もう少しだけ、佐々木さんともう少しだけ仲良くなるまではこのままでいいかなと思うようになった。

「あ、忘れてた」

 いつもの癖で前髪を下ろして目を隠してしまっていたが、今日からはヘアピンで留めて目を出すことにしたのだった。佐々木さんは遠くのものや小さいものを見るときにちゃんと眼鏡をかけるだろうか。

 昨日は聞く暇がなかった真人君は、目を出した私になんと言ってくれるだろうか。

 積もった雪のせいで歩きづらい通学路ではあったけれど、私の足取りはいつもよりもずっと軽い。
 教室に入り、まだ佐々木さんが来ていないことを確認してから自分の机の横、窓側に手袋を、反対側に鞄をかけて朝のうちに美月の話を聞きに行くために教室を出ようとすると、六人ほどの女子生徒に囲まれた。

 同じクラスの人はおらず皆知らない人だ。私に一番近いところにいた人が不機嫌そうな声で私に尋ねる。

「真人君と初詣に行った女の子が春咲さんだって噂になってるんだけど、本当?」

 青天の霹靂とはまさにこのこと。

 どうしてそんな噂になっている?唯一真実にたどり着いた佐々木さんは誰にも言わないと言っていた。嘘だった?そんな訳がない。伊織が信じていいと言った人だし、私も実際に話して感じた。

 佐々木さんはまっすぐで楽しくて優しい人だ。嘘をついて私を貶めるはずがない。

 あと知っていそうなのは男子バスケ部の一年生だが、言いふらすならもっと早く言うだろうし、そもそも真人君や伊織が怒りそうなことをするとは思えない。

 なら誰がこんな噂と言う名の真実を流している?

「どうなの? なんで黙ってるの?」

 言葉がまとまらない。この状況を打破する言葉が頭に浮かばない。

「ていうか何? 付き合ってるとか?」

 付き合ってない。気持ちを伝える勇気はまだない。

「どうやって誘ったの? 参考にしたいから教えて欲しいんだけど」

 真人君が誘ってくれた。教えることなんてない。

「ぶっちゃけ春咲さんって、地味だし、真人君と釣り合わないよね」

 地味なのは分かってるし、釣り合わないというのもうすうす感じていた。それでも好きになった。

「だよね。春咲さんってガリ勉だし、真人君も一緒にいたら嫌になりそう」

 勉強は頑張っているつもりだけれど勉強しかしていないわけではないし、真人君は勉強を頑張っている私を尊敬していると言ってくれた。嫌になるわけがない。

「仮に付き合えてもバスケ優先で構ってもらえなさそう」

「分かる。バスケより優先したいとは思わないよね」

 それで構わない。私はバスケの次で良い。むしろなんであなたたちは真人君のことが好きなくせに真人君がどれだけバスケに本気か知らないんだ。

「もう近づくのやめておきなよ。真人君の迷惑になっちゃうよ」

 心が痛めつけられている感覚がする。好き勝手に決めつけて人の気持ちなんて考えない言葉。こんな状況に陥ったのは生まれて初めてで、複数人に詰められるのはこんなにつらいものなのかと、理解できてしまう。

 それと同時に私はイラついていた。今までの私ならここで心が折れて意味もなく謝ったり、逃げ出したりしていたかもしれない。

 でも私は真人君の言葉や優しさで、伊織と美月の応援で、佐々木さんの正々堂々勝負するという宣言のおかげで、少しだけ強くなってしまっていた。

 頭に血が上って、勝手なことを言うのをやめさせるために今まで隠していた事実を自ら明かしてしまった。

「初詣、真人君と一緒にいたのは私。真人君が誘ってくれたの」

 下品に笑って私を囲んでいた女子たちが固まった。

 言ってやった。言ってしまった。もう言わなかった時間には戻ることはできない。

 私に対して不満げな視線を向ける女子たちを無視して私は教室を出た。

 美月のもとに向かおうとすると佐々木さんと鉢合わせした。佐々木さんは私の顔を見るや否や前髪を止めているヘアピンに触れて笑顔になり、自分の鞄から眼鏡を取り出してかけて見せた。

 これからは気軽にかけていくという宣言だと思い、私も笑顔になった。

 しかし佐々木さんはすぐに神妙な面持ちになる。

「春咲さん……あの、噂が……私」

「佐々木さんは話してないって分かるよ。でもどうしてバレたんだろ」

「あの子……」

 佐々木さんはすぐ隣の二組の出入り口まで移動して一人の女子生徒に視線をやった。短い髪に私より少し高い身長、それくらいしか特徴は覚えていなかったけれど顔を見ればすぐに思い出す。

 あの子だ。先週の金曜日、最後まで私を見ていた子だ。週末に色々ありすぎてすっかり忘れてしまっていた。

「女バレの杉野さん。先週の火曜日に初詣で真人君が女の子と一緒にいたっていう噂を広めた子。多分あの子がそのときにいた子が春咲さんだって気づいて、今の噂を広めたんだと思う」

 友達と談笑している杉野さんを見ていると目が合った。杉野さんが周りの友達に声をかけると私を見る視線が増えた。そしてまた杉野さんたちは談笑を再開する。

「大丈夫? さっきちょっとだけ見えたけど囲まれてなかった?」

「うん、噂は本当かって聞かれただけ。本当のこと言っちゃったけど平気だよ」

 不安はある。私一人に対してさっきのように複数人で問い詰めてくるようなことをする人たちがいることに少しだけ恐怖を感じていた。それでも「なんかあったら私に言ってよ」と言ってくれた佐々木さんのおかげで平常心を保つことができた。

 佐々木さんは一組の教室に入り、私は二組の前の廊下で美月を探した。美月はまだ登校しておらず、廊下にいると様々なところから興味や嫉妬の視線が飛んでくるため私はいづらくなって一組の教室に避難した。

 先ほど私を囲んでいた人たちはすでにいない。このクラスにおいて佐々木さんの力は強大であり、出入り口付近で親し気に話していただけで、廊下で感じたような視線やひそひそ話は全くなかった。

 まさかこの教室が安息の地になるとは先週までは考えもしなかった。

【噂の件、認めたって本当か?】

 伊織からメッセージが届いた。私が認めたことがもう三組まで届いているのかと思うとぞっとする。

【ごめん 皆に聞かれて誤魔化しきれなくなって言っちゃった】

【ほぼばれてたんだからしょうがないけど、大丈夫か?】

【何が?】

【色々、気持ちとか】

【大丈夫 教室には佐々木さんがいるし 美月も真人君も伊織もいるから怖くない】

【ならいいけど、何かあったら言えよ】

【ありがと】

【真人には俺から言っとく、真人も色々聞かれて大変そうだから】 

 怖くない。私には味方がいるから大丈夫。そう言い聞かせて午前中を過ごした。

 授業の合間の休み時間に一組の教室を覗く人がいるとつい私のことを見ているのではないかと思ってしまい、そのたびに心がざわつく。

 実際にトイレや移動教室のために教室を出ると視線を感じるしひそひそと私を揶揄したり侮蔑するような声も聞こえる。私への嫉妬、私の容姿や性格への批判、そんな言葉たちは教室の外に出たわずかな時間でも聞き飽きるほどに聞いた。

 何も考えたくなくなって怒りや悲しみよりも虚無が心を満たした。

 昼休みはいつも美月と食堂でお昼ご飯を食べていたけれど、人目につくのは嫌だったので一組の教室で食べることにした。

「なんか女子は皆詩織と桜君の話題ばっかりだし、男子も伊織君や桜君にちょっかい出しに行ってる人もいるみたい。詩織、ほんとに大丈夫?」

 教室に余っている椅子を持ってきて私の机のそばに座った瞬間、美月は私を心配してくれた。 

 その綺麗で純粋な瞳に私は嬉しくなる。元気が出る。

「でも一組はなんか平和だよね」

「佐々木さんがいるからだと思う。休み時間とかちょくちょく声かけてくれて、やっぱり佐々木さんて強い。それに美月がいるし、真人君も伊織もいるから大丈夫。それより美月のこと聞かせてよ。自転車の乗り方教えてもらうことになった経緯とか」

 せっかくの美月と落ち着いて話ができる時間。毎週月曜日はお菓子作り部もとい料理部の活動日なので帰りは別々になる。私のつまらない話で時間を消費したくないし余計な心配をかけたくない。

 美月は「えへへ」と照れ笑いをしながら話してくれた。

「伊織君からどこまで聞いてる?」

「伊織が大声出したこと謝ってその後雑談してたら自転車の話になってその流れで美月がお願いしてってところまでは……」

「うん、だいたいその通り。伊織君と電話したのなんて初めてだったからなんとか長く話したくて、部活のこととか詩織のこととかいっぱい話して。ごめんね?勝手に」

「ううん。私も真人君と話すときは伊織のことよく話題に出すし全然いいよ」

「うん、じゃあこれからもいっぱいお世話になるね。それでね、話題が尽きないように好きな本とか音楽とか使ってる文房具とか得意な教科とか苦手な教科とか何時ごろ寝るのとかとにかく色んなことを話して、その中で通学手段の話をして自転車の話になって」

 美月はそのときのことを思い出しているのか、クリっとした大きな目を少しだけ細めて教室の天井より少し低い虚空を見つめた。思い出しただけで頬がほんのり赤くなっていて、まさしく恋する乙女の顔だ。

「伊織君って優しいの。どんな話題にもしっかり答えてくれて、私にも同じことを聞いてくれて、どうでもいい面白くもない話題なのに嫌な感じを出さずに会話を続けてくれて、私嬉しくて、ついお願いしちゃった。ほんとに衝動的に言っちゃって自分でもびっくりしちゃった。さすがに無理だよねって思ったら伊織君オッケーしてくれて、いきなり二人きりなんて緊張して無理って思ったから詩織も巻き込んじゃった。ごめんね?」

「いいよ、私は見守ってるから。この機会にもっと伊織と仲良くなって彼女になっちゃってよ」

「ええ? そんな、まだ心の準備が……」

「だって伊織の彼女なんて将来的に私も関わらないといけなくなるから、美月だったら楽……嬉しい。私、美月と家族になりたい」

「詩織……それ、すごくいい。私、詩織のお姉ちゃんになれるように頑張る」

「うん、頑張って美月お姉ちゃん」

「やあん、もう一回言って?」

「お姉ちゃん」

「ふ、ぐふふ……」

 恋する乙女の顔だった美月は妄想する変態みたいな顔になった。ギリギリよだれは垂れていないのでセーフ。美月お姉ちゃんのこういうところは可愛いけれどちょっと心配だ。

 真面目な話からくだらない話まで美月と話をする楽しい時間は昼休み終了のチャイムとともに終了を告げられ、私は現実に戻される。

 将来の楽しい想像はいくらでもできるがそんなことをしても現実は何も変わっていないのだ。午後の授業は移動教室がなく、私は教室を出ることなく一日の授業を終えた。

 部活に行く美月を見送って私は一人で昇降口に向かう。真人君からも騒動になっていることへの謝罪と心配のメッセージが来ていたが心配しないように返信して昇降口に到着した。


  

 
 下駄箱についている小さな扉から水が垂れてきているのが見えた。確かに朝は積もる雪の道を歩いてきたから履いてきたブーツには雪がたくさんついていたが、下駄箱に入れる前にきちんと落としたはずだから垂れるほどの水になるとは考えにくい。

 他の人の下駄箱は特に同じような現象は見られない。

心臓の鼓動が聞こえる。この音は良い音ではない。嫌な予感がするとき、不快な思いがするときに聞こえる音だ。

 周りに人がいないのを確認してから下駄箱の扉を開けると周りよりも冷たい空気を感じる。

 私の心の中の何かが変わった瞬間だった。

 中には溶けかかった小さな雪だるまが二体。ご丁寧にブーツの中にも一体ずつ。計四体の雪だるまが私の下駄箱の中に詰め込まれていた。

 やっぱりこういうときに感じるのは怒りや悲しみじゃなくて虚無なんだ。

 何も考えられなくなる。何も考えたくなくなる。いじめが苦で不登校になったり自殺したりする人のニュースを見ていつも思っていた。早く誰かに相談すればよかったのに、と。

 できなかったんだ。何もしたくなくなって、相談すらできなくなってただただ心が壊れていくのを待つしかなかったんだ。すでにこの現実を咀嚼して理解するだけで疲労していて、真人君や美月、伊織に相談するなんて気力は湧かず、先生に報告する気にもなれない。

 一人で空っぽの心を抱えたまま立ち尽くして、何か行動をしなければと思うまでにはかなりの時間を要した。

 とりあえずこのくだらない溶けかけの雪だるまたちを外に投げ捨て、他には何も入っていないかブーツの中を確認した。何も入っていないがぐっしょりと濡れていてこのまま履いて帰ったら足が冷えて霜焼けになりそうだ。

 仕方なしにブーツを下駄箱に戻して校舎の中に戻ると、行きかう女子生徒が皆加害者のように見えた。

 犯人は朝に私を取り囲んだ六人のうちの誰かまたは全員の可能性もあるけれど、噂はほぼ全校に行き渡っているようなので、その中に本気で私に悪意を持った人がいてその人がやった可能性もある。

 放課後は美月と一言話してからすぐに昇降口に来たのでこんなことをやっている隙はなかったはずだから、きっと昼休みにでもわざわざ昇降口に来て行ったのだろう。よほどの悪意を持っているとしか思えない。

 どうしたものかと昇降口でぼーっとしていると外で体育をするときに履くための靴を教室に置きっぱなしにしていたことを思い出した。雪はまだ積もってはいるが朝に比べれば溶けているし雪かきもされているので普通の靴でも帰り道は大丈夫そうだ。

 教室に戻るための道中でもすれ違う人たちに何かされるのではないかという疑心暗鬼になってしまい、私は目を出すために前髪を留めていたヘアピンを外し、うつむきながら歩いた。

 桜高校は一学年八クラスあって一つのフロアに一組から八組までが並んでおり、四組と五組の間に階段があって二つに分かれる。一階に職員室など色々な部屋があり、一年生のフロアは四階だ。

 四階まで階段を昇りきったところで五組側の方から歩いてくる裸眼の佐々木さんと鉢合わせした。その顔に安心感を覚えたがそれは一瞬だった。佐々木さんの後ろにはいつも一緒にいる大石さんや他のクラスの二人もいたからだ。

 彼女たちが私をどう思っているのか分からず身構えてしまう。

「あれ、春咲さん帰んなかった? どうしたん?」

「あ、ちょっと教室に忘れ物しちゃって……」

「そう、てか前髪どうした? ヘアピンは?」

「え、えっと、ど、どこかに引っ掛けたときに外れて落としちゃって、雪の中に落ちちゃったからどこにあるか分からなかくて……」

「まじ?怪我とかしてない? 一緒に探そうか?」

「あ、ありがとう。でも大丈夫。今日はもう帰るだけだし、家にいっぱいあるから」

「そう? ならいいんだけど……」

 佐々木さんの後ろで大石さんたちがクスクスと笑っているのが見えた。私の陰口を言っていると思って反射的に三人から目を背けた。彼女らが私の敵であるならば、私はせっかく仲良くなれそうな佐々木さんと仲良くなることができなくなる。

 しかし、その笑いは私ではなく佐々木さんに向けられていたようだ。

「うける。まじで蘭々が春咲さんとしゃべってる」

「ねー、ずっと見てるだけだったのに、ついに一歩前進したよねー」 

「知ってる? 春咲さん、蘭々ってね……」

「ちょ、真海、ストップ! それは駄目!」

 ニコニコしながら私に近づくマリンという名前がぴったり似合う健康的に日焼けした肌を持つ大石さんを大慌てで制する佐々木さん。いつも堂々として自信たっぷりな振る舞いをする佐々木さんがこんなに慌てふためいている姿は珍しい。

 二学期の中間テストで赤点を取ったけれど問題のミスで全員に二点追加された結果赤点を免れたとき以来だ。

「えーでもずっと仲良くなりたいって言ってたんだからこのチャンス逃すわけにはいかないでしょ」

 仲良くなりたい? 佐々木さんが私と? しかもずっと言っていた? いったいどういうことだろうか。

 真人君のことがあったから私と佐々木さんは関わることになって、伊織たちのおかげで少し仲良くなれたはずだが、それ以前は接点なんてなかったはずだ。

「どういうこと?」

 私の質問に心愛と呼ばれていた人が答えてくれた。身長は私と同じくらいでうっすら茶色い髪は美月と同じくらいの長さだが癖っ毛なのか少しだけくるっと巻いてあって、垂れ気味の大きな目ともちもちしたほっぺたが可愛らしい。

 ついでに自己紹介をしてくれて秋野さんというらしい。愛楽と呼ばれている人は小畑さんというようだ。小畑さんは身長が高くて細くて顔が小さくてスタイルだけなら佐々木さん以上に優れていてショートカットの髪が似合っている。

 佐々木さんがアイドルなら小畑さんはモデルだろう。大石さんと小畑さんは顔を真っ赤にした佐々木さんをなだめている。

「蘭々はねー四月か五月くらいから春咲さんのこと可愛いー、好きーって言ってたんだよー。それでずーっと見てたんだけど、蘭々ってばー、男の子にはどんな人相手でもガンガン話しかけに行けるくせにー、春咲さんみたいに大人しい系の女の子には全然距離詰められなくてー、おかしいよねー」

 つい佐々木さんの顔を見てしまった。少し涙目になりながら頬を赤く染めて私を見つめている。そして諦めたように口を開いた。

「心愛、私自分で話すよ」

「んー、了解」

 佐々木さんは眼鏡をかけてから真剣な表情で私と向き合った。じっと見つめても私に不快に思われないようにだろうか。

「心愛の言ったことはだいたい本当。体育のときに初めて春咲さんの素顔を見てから、可愛いって思って、真面目なところとか落ち着きがあるところとか好きだなって思ってずっと見てた。でも私普通に男の子が好きだし、女の子が恋愛対象とかそういうのじゃないから、友情以上恋愛未満的な……だから、春咲さんともっと仲良くなりたいし、もし春咲さんが真人君と付き合うことになったら、悔しいし、羨ましいし、つらいけど、応援する。好きな人が好きな人のものになるって変な感覚だけど……」

 佐々木さんの冷たい視線はただじっと見つめているだけだった。佐々木さんからの冷たい視線はずっと感じていた。佐々木さんは私のことが気になって見つめていただけだったのだ。

「そんなの……初めて聞いたよ……」

「そりゃ私ら四人だけの秘密だったし……ごめん忘れて、変だよねこんなの」

「そんなことないよ。私も美月のこと普通の友達以上に好きだし」

 相手が誰であれ、他人から好かれるのは悪い気はしない。私はそういうのを気持ち悪いとは思わない。むしろ自分の気持ちを正直に話すことができる佐々木さんをすごいと思う。

 こんなときでなければもっと佐々木さんと話をしたいと思う。何とか受け答えはできていたと思うが私の心には大きな石、いや雪玉がのしかかっていていつも以上に素直に感情を表に出せない。

「……何かあった? 顔、いつもより暗い気がする」

 佐々木さんがそんな私の些細な違いに気づく。さすがいつも見ていただけはある。

「……大丈夫だよ」

 これは大丈夫な人の言い方ではないなと自分でも感じるほどに弱々しい返事だ。美月に話したら嬉々として食いついてきそうな話題なのに、楽しくなれない。

「やっぱり噂のこと? 皆好き勝手言ってるもんね」

 小畑さんが言うと、四人とも私のことを心配そうに見つめた。その視線から敵意は感じない。ほんの少しだけ気が楽になって目に涙が浮かぶのをグッとこらえた。

「うちらは蘭々から布教されて春咲さんの良いところいっぱい知ってるからさ。真面目で頭良くて目立たないけど可愛くて優しくてって。だから真人君が春咲さんを選ぶなら仕方ないかなって思う。羨ましいし、嫉妬もちょっとするけどね」

 大石さんが優しい声色で言ってくれた。

「だよねー、春咲さんが大人しいからって好き勝手言うのは違うかなーって思う」

 秋野さんはそう言いながら私の頬を人差し指で突っついてにこにこ笑った。

「ほっぺ柔らかー」

 おどけながら秋野さんは私の目から垂れて頬に伝っていた涙の粒を他の三人に分からないようにぬぐってくれた。私がお礼を言う前に小さくウインクして私から離れていく。

「何やってんの? 心愛。まあ、噂とか皆そのうち飽きるし、私がいる前では春咲さんの悪口なんて言わせないから。でも二人が付き合うまでは私、真人君にアタックしまくるから。それで真人君が私になびいても恨まないでね」

「えー蘭々ずるーい。私もアタックするー」

「そうだよ、うちらだって真人君のこと好きだし」

「蘭々って真人君のことに関してはあたしらのこと眼中にないよね」

「だって皆土日のバスケ部の試合見に来なかったじゃん。私と春咲さんは見に行って応援したんだよ。あ、そういえば自慢するの忘れてた。ほら、真人君とのツーショット写真。まあ春咲さんも撮ってたけど」

 そう言ってスマホの画面を見せびらかす佐々木さん。大石さんがそのスマホを奪い取って三人が食い入るように画面を見つめてあれこれ騒ぎ出す。

「……本当に平気?」

「……うん」

 平気じゃない。でも心配をかけたくない。今までとは違う意味で佐々木さんの視線から逃げ出したい。

「……傷ついてない?」

「……うん」

 傷ついている。今までに負ったことがないような痛みを、傷を、心に受けている。

「……何かあったら言ってよ?」

「うん、ありがとう」

「絶対言ってね? 一人で抱え込んじゃだめだよ? ……それじゃあ。私たち帰るね」
 
 佐々木さんは大石さんからスマホを奪い返し、私に手を振って階段を降りて行った。他の三人も同じようにして降りて行く。

 皆良い人だった。ずっと誤解していたけれど、優しくてちゃんと人の気持ちとかを考えていて、きっと相談すれば助けてくれたはずだ。犯人を特定してやっつけてくれたかもしれない。

 傷ついて困っているはずなのに、こういうときは誰かに相談するべきだと頭では分かっているはずなのに勇気が出ない。

 迷惑をかけたくない。自分がこんな状況に陥っていることを知られるのが恥ずかしい。楽しそうにしている人たちに水を差したくない。そんな思いばかりで私は何もできなかった。助けを求める手を伸ばす気力さえなくなっていた。
 教室には誰もいなかった。ロッカーにしまっていた運動靴を取ってからなんとなく自分の机に目を向けると机の中に紙が入っているのが見えた。

 私はいつも空っぽにして帰るようにしているはずなので、本当に忘れ物でもしてしまったのかと思い机の中に入っていた紙を手に取った。

 A4のルーズリーフを半分に折りたたんだだけのそれは見覚えのないものだった。そのまま捨ててしまえば傷つかなくて済むのに、それでも私はそれを開いてしまった。

 色々な人の文字が書かれたそれはまるで寄せ書きのような、歴史の授業で習った傘連番状のような、縦書きの文字が紙の中心に向かって円形に並んでいた。

【調子に乗るな】【ブス】【近寄るな】【勘違い野郎】などなど、小学生のような悪口が約二十個ほど。私や真人君を特定できる言葉が入っていない辺り、悪知恵は働くようだ。

 こんな小学生みたいなものに私は涙を流していた。せっかく秋野さんがぬぐってくれたのに頬には涙の線が出来上がっている。

 とどめは二文字だった。【死ね】という文字を見るともう涙が止まらなくなった。

 私は何か間違ったことをしたのだろうか。ただ真人君に初詣に誘われて、一緒に行っただけではないか。ただ皆と同じように真人君のことを好きになっただけではないか。なんでこんな言葉を書かれなければならないのだろうか。

 自分へのいじめが始まったのだと自覚するとぶつけようのない怒りや悲しみが湧いてきた。手や唇が震えて、落ちる涙で悪口が書かれたルーズリーフをふやけさせていき、やがて簡単に破けるようになった。

 言葉が書かれた紙が破けても、その言葉たちはすでに私の心に傷をつけてしまっている。この傷は一生消えない。椅子に座って、紙の全てがふやけてぼろぼろに破けてしまうまで私は泣き続けた。

 ひとしきり泣き終えると少しだけ気が楽になり、ゴミはゴミ箱に捨てて家に帰ることにした。

 早く帰らないとお母さんやお父さんが仕事を終えて帰ってきてしまう。濡れたブーツをそのまま置いておけないのでドライヤーで乾かさないといけないが、その姿を見られるわけにはいかない。

 私はまだ大丈夫。死ねと言われても死にたいとは思わない。

 真人君ともっと仲良くなって、いっぱい試合を応援に行って、たまに一緒に遊びに行って、いつか彼女にしてもらいたい。ずっとそばにいたい。

 美月の恋を成就させて生涯の友達になる。お姉ちゃんになってもらう。勉強で競い合って高め合って高校受験のリベンジを一緒に果たさなければならない。一緒に自転車の練習もしないといけない。バレンタインはチョコの作り方を教えてもらわないといけない。

 伊織には色んなことをお返ししないといけない。感謝も仕返しも両方だ。そして真人君と同じコートに立って試合をしているところを見届けないといけない。

 佐々木さんとももっといっぱい話したい。彼女は私の知らない世界、知ろうとしなかった世界を見せてくれる気がする。あの強さを少しでも分けてもらいたい。

 まだまだやりたいことはたくさんある。だから私は大丈夫。きっと明日には嫌なことなんて忘れて元気でやっていける。

 日中の日差しのおかげで道路に積もった雪のほとんどは解け、日陰に残っているくらいまでになっている。おかげで運動靴でも特に不便することなく歩くことができた。

 私が朝に作った雪だるまたちは陽が一番あたる時間帯にちょうど日陰になっていたのかほとんど形を変えずに残っていた。私はそれを蹴飛ばして、踏みつけて、跡形もなく消し去って家の中に入った。

 濡れたブーツをドライヤーである程度乾かして、丸めた新聞紙を詰めた。ドライヤーを使うほどだと何かあったのかと怪しまれそうなラインだが新聞紙を詰めるくらいならよくあることだと思ってもらえるだろう。

 ドライヤーでブーツを乾かしているとき、なんで私はこんなことをしているのだろうと虚しくなって悲しくなったが、ここには敵はいないんだと思ってなんとか心を落ち着かせた。

 お母さんが帰ってきてもお父さんが帰ってきても平常心を作り、いつも通り接することができた。伊織が帰ってくるとすぐに夕食となる。早めに食べ終え、何か言いたげな伊織の視線を感じながら自分の部屋に戻った。

 勉強するからと言って部屋には入ってこないように釘を刺したが、伊織はお構いなしに、ノックもなしに私の部屋に入ってくる。

「入るぞ」

「……もう入ってる」

 ベッドに横たわり小さくなっていた私を見て伊織はため息をつきながらベッドに腰かけた。勢い良く腰掛けるものだから反動で私の身体が小さく飛び跳ねたが文句を言う気力もない。

「今日の真人全然駄目だった。シュート入んないし、ドリブルミスるし、パスも取り損ねるし、あれじゃあただの木偶の坊。あんな集中してない真人、初めて見た」

「たまにはそういうときもあるんだよ」

「真人から連絡は?」

「……まだ、ない」

「だろうな、あいつも何ができるのか悩んでた。そもそも自分が誘ったのが原因なのに、自分が詩織をかばうようなことをしたら火に油じゃないかって。でも詩織のことが心配で、嫌な思いをしているんじゃないか泣いたりしてないかって心配してた。今も自分に何ができるか必死に考えてる。とりあえず今日の詩織のことは俺に任せろって言ってきた」

 伊織は私の頭の上に右手を乗せ、優しく撫でた。表情は見えないけれどきっと優しい顔をしているはずだ。

「ごめんな」

「なんで伊織が謝るの?」

「……十一月の大会、泊まりがけだったろ? そのときバスケ部の一年で恋バナをして、真人が詩織のことが好きだってことを打ち明けたんだ」

 真人君は私のことが好き。こんなに嬉しいことはないはずなのに喜べない。もうとっくに私の心は機能を停止してしまっていた。

「真人なら良いかなって思って俺は応援することにした。というか他のバスケ部の連中は詩織のことをあんまり知らないからほぼ俺だけが手伝った。初詣に誘うのだって真人が終業式の日までうじうじしてたから急いで手紙書かせたんだ。詩織の性格からして無視するだろうとも思ったから校門で待ち構えてた」

「……そのおかげで真人君と仲良くなれたから、感謝してる」

「そのせいで詩織は今つらい思いをしてる。だから、ごめん。もっと綿密に計画を立てて、誰にもばれないようにやるべきだった。真人がうちの学校でどんな存在なのか考えが足らなかった」

「別に私つらくないよ。ちょっと陰口言われるくらい、昔からあったし。それでも平気だったの知ってるでしょ?」

「……確かに、お前昔から怪我したときくらいしか泣かなかったもんな。強いもんな。でも、本当か? ちょっと陰口言われるくらいで済んでるか? ほんとに平気か? 誰もいないところで泣いてないか?」

「大丈夫だよ」

「じゃあ何でそんな格好してるんだ? 寝るには早いだろ? ほんとは何かされたんじゃないか? 陰口以外にももっと直接何か……」

 佐々木さんは騙せても、お母さんやお父さんは誤魔化せても、伊織は騙せない、誤魔化せない。伊織は親友よりも恋人よりも両親よりも特別な存在。

 二卵性だから遺伝子的には兄妹とあまり変わらないらしいが、お母さんのお腹の中から一緒にいたのだから普通の兄妹とは比べ物にならないほどに長く親密な時間を過ごしている。

 私は最近伊織の考えが分からなくなったと感じることもあるけれど、伊織には私の些細な変化までお見通しだ。

「つらいなら辞めちまうか?」

 一昨日と同じ言葉だ。真人君と関わることを辞める。こうなった原因が取り除かれればやがて収まる。私はつらい思いをしなくて済む。

 でも、私は真人君ともっと仲良くなりたい。思いを伝えて恋人になりたい。私のどこを好きになったのか聞きたい。私が真人君のどこを好きなのか伝えたい。

「大丈夫。なんともないよ」

 伊織は本気で私のことを心配してくれている。だから私が伊織につらいなんて言ったら私を救うために本当に私と真人君を関わらせないようにしてしまう。優しい真人君はそれを受け入れてしまう。

 たとえ伊織には見抜かれようと気にしない、なんでもないということにしなければならない。

「ほら、私勉強するから出てって。真人君にも大丈夫だから心配しないでってメッセージ送っとくから。美月にも送っとくし」

 私は起き上がってベッドから降り、伊織を部屋から追い出して扉を閉めた。

「……無理だけはするなよ。俺も真人も美月さんも、その気になればバスケ部の連中だって詩織の味方だからな」

 扉越しに言葉を残した伊織が自分の部屋に入って行く気配を感じ、私は再びベッドに横になって真人君と美月にメッセージを送ってスマホの電源を切ってしまった。

 今日はもう何もする気が起きない。お風呂に呼びに来られても困るので仕方なしに起き上がって今日はシャワーだけで良いとお母さんに伝えて、シャワーを終えるとそのまま寝てしまうことにした。

 ベッドの中は現実から最も逃れられる場所だと思ったがそんなことはなかった。私の脳内で今日の出来事が勝手に何度も何度も繰り返し再生されて、心を蝕んでいった。

 不安で心が押し潰されそうになる。真人君の声が聞きたい。優しく包み込んでくれるようなあの声を聞いたらきっと不安は和らぐはずだ。でも、今の私にはスマホに手を伸ばすだけの気力すら残っていなかった。

 床に就いたのは午後九時前、朝起きたのは午前六時半。でも全然眠りに就けず、涙を流していた。最後に時間を確認したのは午前二時だったはずだ。

 寝起きは最悪だった。いつもの私は寝て起きれば気分もすっきりして嫌なことなんて忘れることができたのに今回ばかりはそうはいかない。足や腰が重い。ベッドから出たくない。

 どんなに寒くてもいつもはちゃんと出られていたのに、今回ばかりは得体の知れない何かが私の身体をベッドに縛り付けている。

「行かなきゃ」

 行きたくない。初めてそう思った。

 中学で仲の良い友達がいないときでもそんなこと思ったことがなかったのに、高校生に成りたてで美月と出会ってなかったときも思ったことはなかったのに、楽しいことがなくても、学校には毎日通うものだという常識と理性が私の身体を動かしてくれていたのに、今は本能が体を動かさない。

 私には味方がたくさんいる。次、何かされたらちゃんと皆に相談しよう。次こそは勇気を出して相談しよう。そう思い込んで無理やり体を動かした。

 顔を洗って、寝癖を整えて、制服に着替えて、朝食は食べずに軽く歯だけ磨いて、化粧も複雑な髪のセットもしない私の朝の準備はこれで終わりだ。私より出発が遅いお母さんやお父さんの前では平静を装うことに成功し、家を出た。
 今日は朝から快晴だが気温は低く、昨日の雪が解けて道路が一部凍結しているかもしれない。うちの小さな庭の駐輪スペースには私のほとんど乗っていない自転車の隣に伊織が毎日乗っている自転車が停められていた。

 つるつるの地面を考慮してさすがの伊織も徒歩で学校に向かったようだ。門扉を開けて家の敷地外に出ると門塀に寄りかかってスマホを見つめる伊織がいた。

 私に気づきスマホを鞄にしまう。

「おはよう」

「お、おはよう。朝練は?」

「今日はない」

 二週間後には大会があるはずなのにそんなわけない。でもそれを指摘する気にはならなかった。私たちはまるでいつもそうしていたかのように並んで歩き出す。

「美月さん、昨日の夜から熱が出て今日は休むってよ。インフルかもな、最近流行ってるし」

「なんで伊織が知ってるの? 私も知らないのに」

「詩織にメッセージ送っても既読がつかないし電話も繋がらないからって俺に連絡くれたんだよ。真人も同じようなこと言ってたし、電源でも切ってたのか?」

「あ、そうだった。ごめん」

 慌ててスマホの電源を付けると確かに美月や真人君からメッセージが届いている。

「おい、お前どんくさいんだから歩きスマホとかやめろよな。転んで怪我して歩けなくなっても置いてくぞ」

 伊織の指摘はもっともだったので大人しく立ち止まってメッセージを確認した。美月からの私を心配するメッセージ。朝には熱が出て学校に行けなくなったことも送られてきている。真人君からは浅慮だったことへの謝罪とこれからのこと。

「真人はなんだって?」

「自分のせいでこんなことになってごめんって。あと、放課後話がしたいって。伊織は何か聞いてないの?」

「……詩織と直接話がしたいってことは聞いてたけど、内容までは聞いてない」

 学校で真人君と話をする機会はほとんどなかった。いつもメッセージや電話ばかりで面と向かって話すことは実はあまりしたことがない。

 だから話ができることは嬉しいはずなのに真人君が私のことを好きだと知って心躍るはずなのに、再び歩き出した私の足取りは重い。学校に近づくにつれてその足取りは重くなっていく。

 もしも伊織が一緒じゃなかったら、家に引き返していたかもしれない。伊織は私の足取りに合わせてゆっくりと歩いてくれた。

 学校に着いて、昇降口に向かう。さっと上履きに履き替える伊織とは対照的に、私は自分の下駄箱の前で少しだけ躊躇してしまった。だがこのまま立っているわけにもいかない。恐る恐る下駄箱の小さな扉を開け、中を確認する。

 上履きが入っているだけでおかしなところはない。上履きも特に変わりない。安心して小さく息を吐き、上履きに履き替え、伊織と並んで教室に向かって歩き出す。たくさんの視線を感じながらも何事もなく教室までたどり着くことができた。

 一年一組の教室は今の学校の中で唯一の安息の地。佐々木さんは私よりも早く来ていて大石さんと秋野さんと小畑さんもいて話をしていたが私を見るや否や抱き着いてきた。伊織はそれを見て自分の教室へと向かったようだ。

「わっどうしたの? 佐々木さん」

「い、いや、なんとなくこうしたくて」

 佐々木さんはいつも香水のような強い香りがしていたけれど今日はシャンプーの良い香りがかすかにするだけだ。そして長く綺麗な髪の内側に染められていた茶色もなくなっていて綺麗な黒髪になっている。

「蘭々、もう隠さなくなってんじゃん」

「女同士なのをいいことに何しでかすか分からないから気をつけてね春咲さん」

 大石さんと小畑さんが佐々木さんをいじる。軽口を言い合える関係なんだと思うけれどそんな軽い口調とは裏腹に佐々木さんは私を強く抱きしめる。

「佐々木さん?」

「ずっとこうしてみたかったってのも少しはあるんだけど……やっぱり色々心配で、大丈夫かなって。今日顔を見れてよかった」

 そう言って佐々木さんはヘアピンで留める気にもならなかった私の前髪を分けて目を露出させ、私と見つめ合う。佐々木さんはヘアピンを取り出して私の前髪を留めてくれた。

 きっとこれは佐々木さんなりのエール。佐々木さんの顔は眼鏡をかけているだけでなく、いつもと少し印象が違う気がした。

「ねー、春咲さんってSNSとかやってるー?」

「え、うーん、一応アカウントはあるけど全然いじってない。めんどくさくて通知とかも来ないようにしてるし」

「そっかー、使わなくて平気ならそれがいいよねー」

 唐突に秋野さんが尋ねた。何かSNSで嫌なことでもあったのだろうか。

「じゃーそろそろ教室戻るねー」

 もうすぐ朝のホームルームが始まる時間となって秋野さんと小畑さんは自分の教室へ、私たちも自分の席へと着いた。

 授業の合間の休み時間毎に伊織は一組の教室まで様子を見に来た。ふらっと現れては私の様子に変わりないことを確認するとふらっといなくなる。

 しかし四時間目の後の昼休みは事情が違った。授業が終わり今日は美月が休みだからお昼ご飯をどうしようかと考えていると、伊織が教室に入ってきて私の手首を掴んで教室から連れ出した。

 伊織が私を連れてきたのはバスケ部用の体育館の中にある男子バスケ部の部室だった。意外と言っては失礼かもしれないが男子の運動部の部室にしてはかなり綺麗だし、嫌な臭いもしない。漫画では大抵臭くてごちゃごちゃしていてとてもじゃないがご飯を食べる環境ではなかったはず。

 私が驚いていると伊織が「三年の女子マネージャーの先輩に厳しく教えられたんだ」と苦笑いしながら理由を教えてくれた。大勢の男子を統制できている辺りものすごく優秀な人なのではないかと思う。

 部室には長椅子が二つあったがそのうち一つに隣り合って座り、お互い一言もしゃべらずに、お母さんが作ってくれたおかずは同じだけど量が二倍くらい違うお弁当を食べた。

 量が二倍違うのに食べ終わるのは伊織の方が早いのは、私に食欲がなかったからだ。私は結局食べきれず、残りは伊織が平らげた。

 そのとき、部室の扉が開き、一人の女子生徒が入ってきた。伊織よりも少し大きいくらいの身長にボリュームのあるポニーテールで、大きい、と言うのが第一印象だった。

「あら、伊織と……ああ妹ちゃんか。残念、スキャンダルだと思ったのに」

「あ、日夏(ひなつ)先輩。こんちは」
 日夏と呼ばれた女子生徒は心底残念そうに眉を下げながらため息をつきながら、部室を見渡して指差し確認を始めた。

「ビブスもちゃんと畳まれてる、脱ぎっぱなしの着替え無し、ゴミ無し、匂いもお弁当の匂い以外特に無し、その他諸々良し。うん、合格」

 私は満足そうに笑顔を浮かべる日夏さんに聞こえないように小声で伊織に尋ねた。

「何やってるの? あの人。もしかしてあの人が三年のマネージャー?」

「ああ、掃除とか整理整頓に厳しくて、引退したのにほぼ毎日部室に抜き打ち検査をしに来るんだ……あの人も真人とお前の事情は知ってるし、そもそも三年の元キャプテンと付き合ってるからお前に嫉妬とかしない、安心しろ」

 日夏さんはもう一度部室を見回した後、私たちが座っていない方の長椅子に座り私たちと向き合った。日夏さんが動くたびに豪快にポニーテールが動いてつい視線を奪われる。

「昼休みにご苦労様です」

「火曜日は塾があるから放課後来てる暇ないからね。それに千紗(ちさ)が伊織から昼休みに部室の鍵を貸して欲しいって頼まれたって言ってたから。女の子でも連れ込むつもりかー? って思ってね。まさか妹ちゃんを連れ込んで仲良くお弁当食べてるとは思わなかった。どういう風の吹き回し? ……まあ、だいたい想像つくけど」

「想像通りだと思いますよ。あ、詩織、この人は三年生でマネージャーだった日夏(ひかり)さん。俺たちに掃除とか整理整頓とかをきび……優しく教えてくれて、いつもサポートしてくれた……美人で有能な先輩。特進クラスにいて国立大学目指して今も受験勉強を頑張ってる……勉強もできるし、マネージャーとしても優秀だし、掃除、洗濯、料理も上手だし完璧な人」

 日夏さんが伊織に目線を向けるたびに伊織が日夏さんを褒め称える。大会などではサポートに回ることがほとんどの伊織は日夏さんと関わることも多かっただろうし、どんな関係だったのかは想像がついた。

 でも伊織の言葉は嘘ではなさそうで、国立大学を目指していて今も勉強を続けているということは、バスケ部なんて忙しそうな部活を十二月末くらいまで続けながら、一昨日と一昨昨日の共通テストも受験していることになる。

 それだけで私は日夏さんを尊敬してしまう。佐々木さんとはまた違う強さを持った人だと思う。

「すごいです……」

 つい言葉が漏れた。日夏さんはその言葉を聞き逃さず、私に笑みをくれた。

「ワンチャン推薦で行けないかなーって思ったんだけどね、残念ながらまだ勉強を続ける羽目になっちゃった。ちなみに伊織、アタシが目指してるのは国立じゃなくて公立ね。ていうか県立」

「何が違うんですか?」

「伊織はそんなことも知らないのか。あのね運営してるところが……まあ今はそんなこといいや。それよりせっかく渦中の妹ちゃんに会えたんだ。アタシの昔話でも聞いてもらおうかな」

「え?」

「あ、ちょっと面倒だなって思ったでしょ。でも聞いて損はないと思うよ妹ちゃん。あなたと真人の噂は三年のフロアまで到達していて、まあ、ほとんどの人があなたのことを知らないから悪口陰口はそんなにないけど。それでも真人は学校全体の人気者だから嫉妬してる子は少なからずいる。アタシも似たような状況になったことがあるんだ」

 日夏さんは昔のことを懐かしみながらも、明るく語り出した。彼女にとってそれはもうすでに乗り越えたことのようだ。

「アタシ、バスケ部のマネージャーがやりたくてこの学校に入ったんだ。うちは男子も女子も強くてどっちでも良かったしどちらかと言うと最初は女バスの方にしようかなって思ってた。でも、見つけちゃったの。背が高くて顔が整ってて爽やかで優しい、完璧な男。天海大悟(あまみだいご)。先月までバスケ部のキャプテンをしていて、一年生のときの六月十一日からアタシの彼氏。大悟に一目惚れして男バスのマネージャーやることにした」

 ちなみに桜高校男子バスケ部の女子マネージャーは一学年二名までと決まっていて、毎年希望者多数のため入部テストがあるらしいと伊織が補足してくれた。

 一次試験がバスケの基本的な知識を問う筆記テストと、監督立会いの下で先輩マネージャーたちとの面接、それをクリアした者が二次試験の一週間の体験入部に進める。

 日夏さんはバスケの選手としての経験があり、伊織の言う通り掃除とか洗濯も得意で、兄一人弟二人の男所帯で男子との接し方なども慣れていたため余裕で合格したそうだ。

「大悟は人気者でね、それこそ今の真人と同じくらい……客観的に見たら真人の方が規模はでかいかな、アタシにとっては大悟が一番だけど。大悟は一年のときからベンチ入りしてて、アタシはインターハイの県予選の開催前日に泊まっていた旅館で告白して付き合うことになった。部員皆で祝福してくれた」

 伊織が言うにはバスケ部の監督は恋愛に寛容、というか積極的に恋愛をしろと言っているらしい。バスケしかない人生にしないためだとか。

「部内では良い感じだったんだけど、大会終わってオフの日に手を繋いで遊びに行ってるのを同じ学年の人に見られちゃって、あっという間に噂になっちゃった。色々言われたよー、ブスとか泥棒野郎とか調子乗ってるとか、男目当てでバスケ部入ったとか、あ、これは言われてもしょうがないか。あはは」

 日夏さんは自嘲気味に笑う。最後のはともかく、私が言われたり書かれた言葉と同じだ。

「他に、何かされたりしたんですか?」

「んーとね、呪いのお手紙をいっぱい貰ったかな。SNSの裏垢使ってアタシの悪口大会開かれてたし、上履きは学校の色んなところ旅してたし、弁当箱開けられて外に放置されてたこともあった。虫とか鳥とか集まってきてたなぁ。あとはね……」

「あの、それでどうしたんですか? 今はそんなことされてないんですよね?どうやって……」

「二週間、何もできなかった。さっさと大悟とか先生とかに相談すればいいのになんでか分からなくて言えなくて、つらいの隠して我慢して部活だけが安息の地だった。でも、アタシの様子がおかしいことにバスケ部の皆は気づいていて、優しくしてくれて救われてた。最後に、大悟が私の上履きを隠そうとした人たちを現行犯で捕まえてくれて、生徒指導の先生に引き渡して、余罪がどんどん出てきてその人たち皆退学になった。アタシ、手紙は全部取ってあったしSNSもスクショ撮ってたから特定できた人は皆退学処分。うちの学校っていじめの加害者は加害者であることが確定したら即退学なんだよ。それでいじめは収まった。まあ手紙やSNSとかその他諸々運良く特定されずにもうすぐ卒業できそうな人もいると思うけど、肩身の狭い思いをしながら過ごしてきたんだろうなって思うと少しは溜飲が下がるかな」

 日夏さんは一度私を見て微笑んだ。

「結局こういうのって周りが気づいて助けてやらないといけないのかもね。本人は言いたくても言えないもんなんだよ。少し強引でも行動した方が良い。大悟だって仮病で練習サボって昇降口で張り込んでたって言うし」

 話し終えた日夏さんは私と伊織を交互に見て立ち上がった。もうすぐ昼休みが終わる時間だ。

「さ、戻ろうか。鍵はアタシが千紗に返しといてあげる」

「あ、すみません。ありがとうございます」

「こんな感じで良かった? 伊織」

「なんのことですか?」

「アタシが三年生になってから塾に通い始めて火曜日は部活に出てなかったのは知ってたよね。だから昼休みに部室に来ること、先週の火曜日の昼休みに体育館で自主練してたから見てたよね。こんな偶然装わなくても言ってくれればいくらでも話したのに」

「……受験生にお願いなんてできませんよ。でも先輩なら詩織に会ったらきっと助けになってくれるって思ってました。すみません、利用したみたいで」

「別にいいよ。伊織が可愛い妹ちゃんのためならどんな手段でも使うシスコンお兄ちゃんだってことはアタシ含めてバスケ部みんな知ってるし」

「ちょ、日夏先輩、それは勘弁してくださいよ」

 後輩として先輩に弄ばれている伊織は新鮮で面白い。ほんの少しだけれど、ごくわずかだけれど私の心が元気になった気がする。

「ありがとうございます、日夏さん」

「いやいや、たいしたことしてないよ。昔話をしただけだし」

「いお……お兄ちゃんもありがとね」

「……ああ」

「あー、伊織ったらお兄ちゃんって呼ばれて照れてる。おもしろ」

 伊織は少し顔を赤くしてうつむいている。

 しばらく笑顔で伊織の顔を突っついていじっていた日夏さんの顔が急に真剣な表情になった。

「伊織、この先のことは……?」

 伊織も照れを捨てて真剣な表情で答える。

「もっとしっかり考えるべきだったと反省してます。自分が未熟なことも痛感してます。でも、なんとかして丸く収めますよ」

「修羅の道だよ、それは……」

「自分で始めたことなので」

「親友も妹もなんて贅沢だね……」

「先輩、詩織もいるのでその辺で……」

「ああ、悪いね、もうあんまり話す機会がないからつい」  

 何の話だろうか。親友は真人君で妹は私のことだろう。修羅の道とか私にあまり聞かせたくないみたいだし、伊織が手伝ったから私と真人君の関係ができたわけだし、もしかして伊織はこの件を解決するために何か大きなやろうとしているのだろうか。

「伊織……無理はしないでね?」

 伊織は「ああ」と言って頷くだけで、詳しくは教えてくれなかった。
 校舎に戻って日夏さんと別れ、教室に向かう前に私がトイレに行きたいと言うと伊織がついて行って入り口で待ってると言い出した。過保護なところはお父さんに似ないで欲しいと思いつつも、今はその気遣いが嬉しかった。

 用を足して個室から出ようとしたとき、聞いたことがある声が聞こえた。

「ねぇ春咲さんのことどう思う?」

「あー(みやび)も不満ある系?」

星梨愛(せりあ)もでしょ? ぶっちゃけ釣り合わないよね、あんな地味な子。真人君てあんな子が好みだったんだって、ちょっと引いたわ」

「分かる。他のクラスの人たちが色々言ってるの結構スカッとしてるし。うちのクラスだとなんでか知らないけど蘭々が味方に付いてるから何も言えないからさ」

「それなー意味不明だよね、蘭々、めっちゃ真人君のこと好きってアピッてたのに。日曜の夜に情報回ってきたとき蘭々が何してくれるかめっちゃ期待してたんだけどなぁ」

「何もしないどころか今日の朝なんて春咲さんに抱き着いてたし、なんのアピールだったんだろ」

「え、それ見てない。写真ない?」

「ごめん、ないわ。てか雅も何か呟いた?」

「あーあれね。言いたいことはあったけどやめといた。特定されたら退学になりそうだし」

「だよねー私も。ある意味蘭々のおかげだよね。蘭々が教室で目を光らせてるから私ら何もできずに傍観者になってるっていうか」

「ま、退学のリスクなしで見てるだけの方が賢いよね」

「ねえ雅、なんかされてるの見たらどうする? 助ける?」

「助けるわけないでしょ、見て見ぬふり。正直春咲さんがいじめられてるのなんか気分良いし」

「確かに。てか恵まれすぎだよね、真人君が彼氏で伊織君が双子のお兄ちゃんとか。運良すぎでしょ。今日も朝伊織君と一緒に来てたし」

「ね、昼休みも伊織君に連れられてどっか行ったし。バスケ部の部室で真人君と会ったりしてたんじゃない?」

「それある。そういうことするから嫌われんのにね。そういや今日いつもの子いなかったよね」

「あー二組の何ちゃんだっけ? ガリ勉陰キャコンビの片割れ。あの二人が学年一位と二位なんて終わってるよねうちの学校」

「いや、終わってるのはうちらの学力だわ。勉強とかマジ意味分からんし。てかなんでうちの学校来たんだろうね。勉強したいなら進学校行けばよかったのに」

「落ちたんじゃないの? 陰キャだし面接で弾かれたんでしょ」

「うわ、ありえる。受かってればこんなことにならなかったのにね」

 雅と呼ばれた方は後藤さん、星梨愛と呼ばれた方は前川さん。二人とも一年一組の私のクラスメイトで二人は昼休み終了五分前を教えるチャイムが鳴るとトイレから出て行ったようだ。

 一年一組の教室は安息の地だった。でもそれは佐々木さんの存在によって強引に作られたもので、本当は他のクラスと変わらず私に対して悪意を持っている人もいたのだ。

 教室に戻りたくなくなってこのまま放課後までここで過ごしてしまおうかと思ったが、伊織が待っていることを思い出して仕方なしにトイレを出た。

 大丈夫だ。優しくしてくれる伊織に私はちゃんと救われている。

 何食わぬ顔で自分たちの席についておしゃべりをしている後藤さんと前川さんを見ないようにして私も自分の席に着いた。

 教室の中には私と佐々木さんと大石さんを除いて女子が十五人いる。この中の何人が私に悪意を持っているのかと考えると、動悸がして、涙が出そうになって、午後の授業はそれを耐えるので精一杯だった。

 放課後はまた伊織にどこかに連れて行かれた。部活のことはもう聞かない。

 昇降口、下駄箱の前まで来ると伊織は靴を履き替え、外に出るよう促した。私はまた、下駄箱の前に立ち、扉を開くのを躊躇する。昨日の記憶が思い出されて胸がざわついて深呼吸をして気持ちを強く持ってからでないと開けない。

 私が意を決して下駄箱の扉を開こうとしたとき、伊織が私の身体を優しく押しのけた。そして私の下駄箱の扉を開き、中から一枚の紙を取り出して一瞥するとそれをぐしゃぐしゃに丸めて自分の鞄に入れてしまった。

 無表情で、ハエや蚊を殺してティッシュで丸めるときみたいに怒りや嫌悪を表に出すこともなく、さも当たり前のような行動だった。

「朝もそうしてたよな。昨日も下駄箱で何かあったのか?」

 いつにも増して伊織の表情や声色は優しくなっていて、私はもう泣くことしかできなかった。名前の付けられない感情が溢れて来て、人前では泣かないように無意識のうちに作っていた私の心の堤防は決壊した。

 止めたくても止まらない。涙が枯れるまで泣き続けることしかできない。その場にしゃがみこんで人目もはばからず泣き続けた。伊織はハンカチを差し出して、頭や背中を撫で続けてくれた。

「詩織、我慢するな。全部言ってくれていいんだ。心配かけていいんだ。迷惑なことなんてないんだ。お前が隠れて苦しんでいるのが俺には分かる。その方が俺はつらい」

「……うん」

 言おうと思っても言えなかったことが、心の堤防の決壊とともに言えるようになった。

 私は昨日と今日の出来事を話しながら、伊織が連れて行こうとしている目的地まで歩いた。伊織は静かに私の話を聞いてくれた。

「詩織はやっぱり強いな」

 すべて聞き終えて伊織が言った。

「……強かったら泣いてないよ」

「日夏先輩のことどう思った? ああ、過去の話じゃなくてさっき会った印象な」

「……ハキハキしていて、しっかり者で、たくさんの男子を仕切ってそうで強い人だなって思った」

「だいたいあってる。そんな強い人でも二週間も誰にも言い出せなかったんだ。いや、大悟さんが自分で考えて動いて解決させたから、そもそも相談できてない。でも詩織はたった二日で打ち明けてくれた。誰かを頼るのだって、その人自身の強さだよ」

 私は伊織に救われている。伊織の言葉のおかげでかろうじて歩みを留めずにいることができている。

 伊織が足を止めたのはあのときと同じ場所。学校の敷地の端っこにひっそりと一本だけ立っている離れ桜だ。今のこの状況の全てのきっかけの場所。花も葉もとっくに無くなっていて、寂しくなった桜の木の下に制服姿の真人君が立っていた。

「真人が何か詩織に言いたいことがあるっていうことは聞いてる。でも何を話すのかは聞いてない。たとえどんな話だろうと、俺は詩織の味方だから。行ってこい」

 伊織が私の背中を優しく押した。
 なるべく涙をぬぐって真人君に近づくと、ベンチに座るように促してくれたのでその通りにした。真人君も隣に座る。少し離れたところで校舎の壁に寄りかかりながら伊織が見守ってくれている。この場所はまず誰にも見つからないはずだ。

「寒いでしょ? これ使って」

 防寒着はしっかり着ているけれどさっきまで泣いていたので少し寒そうにしている私に真人君は使い捨てのカイロを渡してくれた。真人君が今まで握っていたもので、温度以上の温かみを感じる。

「でも真人君は……」

「大丈夫。いっぱい持ってるから」

 そう言って真人君は制服のズボンのポケットから新しいカイロを二つ取り出した。一つは自分で使って、もう一つは私にくれた。その優しさに、カイロがいらないくらいに心が温かくなる。

 少しの間二人でカイロをいじってから、真人君はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「小学五年生のとき、皆の輪から離れて一人でいた詩織さんを見つけた。最初はあの子いつも一人でいるなってしか思わなかったけど、一緒にバスケをやってた伊織の双子の妹だって知ってからはなんとなく気になるようになった。いつも本を読んでいるなとか、すごく真面目に勉強しているんだなとか、教室の花の世話とか掃除とか丁寧だなとか、そのときは何の感情もなくただ伊織の妹だから見てるだけだった」

 真人君が私との距離を詰めた。身長の高い真人君は足が長いけれど座高も当然高く、肩は触れ合わないが腕は触れ合った。私は頑張って背筋を伸ばしてみた。真人君も浅く座り直して少し姿勢を悪くしてギリギリ肩が触れ合うようにしてくれた。

「小学生の頃から前髪で目を隠していたから顔の印象が分かりづらかったけど、体育のとき、今みたいに前髪を留めて目を出している姿を見て可愛いなって思った。クラスの他の男子たちは詩織さんに見向きもせずに明るくて元気の良い女子たちに興味を持っていて、俺だけが詩織さんの可愛さに気づいたんだって思って嬉しかった」

 伊織がいなくなっていた。いや、近くにはいるけれど気を遣って私たちから見えないところに移動したのだろう。

「クラスでいじめが起きたとき、他の女子が皆彼女をいじめていたのに普通に接する姿とか、彼女を救うために先生に相談する姿を見て、優しいんだな、カッコいいなって思った。俺も何かしなくちゃとは思っていたけど、勇気が出なくて何もできなかったから、すごいなって思って憧れた。憧れて好きになった。父さんの言いつけもあったけど、詩織さんみたいにつらい思いをしてる人を助けられる人になりたいと思って頑張った。詩織さんの気を引きたくていっぱい話しかけた。詩織さんは微妙な反応しかしてくれなかったから、あんまり俺に興味ないかなって思ってそのまま卒業しちゃった」

「それは……そのときは照れくさかっただけ。私もそのとき真人君に憧れてた。今と同じで優しくて真面目で大人っぽかった」

「そういう俺になれたのはあのときの詩織さんがいたからだよ。詩織さんのおかげで俺はバスケ以外のことも頑張れた」

「私も同じだよ。真人君のおかげで私は本気で勉強頑張ろうって思えた。自分や他人のこと加点法で見て、ポジティブになろうって思えた……こっちはなかなかできてないけど」

 私たちはお互いがお互いに良い影響を与えていた。それが分かって顔を見合わせると照れくさくて嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。

「中学生になるとありがたいことに身長も伸びて、顔もそれなりになったみたいで、それなりに人気者になって女子から告白とかたくさんされるようになった。でも、詩織さんのことが忘れられなくて、気持ちを知りたくて、それがはっきりするまでは新しい恋なんてできないって思って全部断った。同じ地区なのになかなか対戦する機会がなくて試合で伊織と再会したのは中三のときの最後の大会だった。進路の話をして、それとなく詩織さんのことも聞いたら進学校を目指してるけど家から一番近いから滑り止めは桜高校にするだろうっていう話を聞いて……ごめん。落ちたらいいなって願っちゃった」

「……それは真人君のせいじゃないよ。それに落ちたから真人君と再会できたし、美月とも会えたし、伊織と同じ学校に通えたし、結果的には良かったかも」

「そっか、そう思えてるなら良かった。それで、高校に入って詩織さんを見つけた。俺の気持ちは変わらなかったけど詩織さんは俺のこと覚えていないだろうなって思ってたから声をかけられなかった。誰にも言わずに過ごして、十一月の大会のときに泊まった旅館でバスケ部の皆に話したんだ。俺は小学五年生のときからずっと詩織さんが好きだって。伊織もいたから何かしてくれないかなって希望も込めてた。その後はまあ、今まであったことが起きた」

 真人君は立ち上がって私の正面に移動した。私もつられて立ち上がる。

 真人君は私に向けて頭を下げた。

「浅はかだった。こんな事態になることを想像できてなかった。本当にごめん。俺、昨日色々考えて、もし詩織さんがつらい思いをしてるならもう……」

 それはまるで別れの言葉。私たちは付き合っていないのに、おかしな話だ。私たちはまだこれからなのに、始まる前に終わってしまうなんて。真人君は私のことが好きで、私も真人君のことが好きなのに、終わりにするなんてありえない。

「嫌だ。次の大会が終わったら時間ができるから一緒に遊びに行く約束でしょ? 美月と伊織と一緒に遊びに行くのも考えてるし、二年生になったら同じクラスになるんだよ? それにもっと真人君のバスケが見たい。これからも……ずっと、真人君のことを応援したいし、真人君のそばで頑張りたい。」

「詩織さん、俺は……」

「昼休み、三年生の日夏さんの話を聞いたの。知ってる? 私と同じような状況になってたって」

「……あ、うん。少しだけ、大悟先輩が助けたって」

 顔を上げた真人君に今度は私が頭を下げた。

「お願い真人君。私を助けて。それまでつらくても耐えるから。大丈夫、伊織も美月も佐々木さんも味方でいてくれるから。私は真人君に助けて欲しい。わがままなのは分かってるけど、バスケを優先して構わないから、そうしたらきっと私は……ちゃんと伝えられるから」  

 不思議だ。真人君と面と向かって話すと勇気が出てくる。自然と不安が消えていく。顔を上げて私を見つめる真人君の瞳を見つめると、決意と悲しみと優しさが感じ取れた。

「分かった。必ず俺が助ける。俺が守る。約束する」

 真人君が右手の小指を私に差し出す。約束の指切り。

「よろしくお願いします」

 手袋を外して行った指切りは初めて素肌と素肌が触れ合った瞬間だった。冷たいのに温かくて、きっとこの感触は一生忘れない。

 その後真人君と伊織は二人で家まで送ってくれた。伊織は私たちの二歩くらい後ろを歩いて、制服で自転車を押す真人君と歩くいつもの通学路はいつもと違うのはもちろん、初詣のときとも違う特別な気持ちになれた。

 真人君の部活の話とか、私の勉強の話とか最近読んだ本の話とか、佐々木さんのこととか美月と伊織のこととか、なんてことない会話をだらだらできる時間が嬉しかった。