貴方が好きだから、それが自分だから、でもそれを認めてくれる世界じゃないから。今、絶望の淵を歩いていた自分は、足を踏み外した。

「なんか朝からバタバタしてんね。」
「まぁた、近くの踏み切りで人身事故あったらしいよ。」
「またかぁ。」
 先生達はホームルームも放ったらかしで、学校中を走り回っていた。海と山に囲まれた、所謂ド田舎の高校。そこに鍵谷碧(かぎやあお)はいた。もうとっくに遅刻になる時間だが、恋人がまだ来てない。恋人の名前は初佳澪(はつかれい)。クラス委員長を務める優等生なのだが、遅刻とは珍しい。
「ごめんねぇ!皆聞いて!」
 汗だくの担任が入ってきた。息を切らした声を張り上げた。
「今日はもう急遽下校!明日も休みになりました!さようなら!!」
 そう言ったと思えば担任は勢いよく教室を駆け出した。電車組は再開まで学校待機、歩きやチャリ組はとっとと帰ることとなった。
 幸い碧はチャリ通だ。例の踏み切りの横を通るが、下校に支障はない。丘の上にある高校からブレーキなしで坂を駆け下りる。海風と夏特有の清々しい風が気持ちいい。帰りがけ澪の家に寄っていこうとしていた。

 そんな時だった。
「れいぃぃぃぃ!!」
 嘆く声、踏み切りからだ。なんだか背筋が冷えた。チャリを道の横に止めて、近寄ってみる。その踏み切りは今朝人身事故があったところだ。
 規制線とブルーシートで上手く見えない。風が吹いて、一瞬隙間が開いた時、見えた。よく手入れされた鼠色の髪……

 それは、自分が手を取った、恋人の髪だった。

 記憶は高1まで遡った。
 特に知り合いでもなかった。特に小中が同じだった訳でもない。片や成績上位の優等生で、相手はそれなりの成績で青春を楽しんでいた。所謂、ぼっち陰キャの澪とチャラチャラしてる碧では、あまりにも壁があった。
 2人の壁が壊れたのは、その夏だ。合コンという名目で男女4人ずつで海に行った時に、いたのだ。真面目なキャラなのに来るんだ、と思ったのが碧の第一印象。それにしてもイメージと違った。傷みひとつない綺麗なストレートのアイスグレーの髪。いつもは重い前髪にメガネでいかにも「真面目」な感じだが、全くの別人だ。前髪はセンターパートで、切れ長の空色の瞳が輝いていた。すらっと高い背丈に、程よく絞られた肉付き。あ、腹に縦筋入ってる……と澪をまじまじと見ては変態ぶりを晒していた。
 ふと、目が合ってしまった。
「なんか用?」
口パクでそう言った気がする。ドキッとして、急に顔が熱くなって、ドギマギと動揺した。澪は目線そのままに笑ってた。
 そのことが頭に残ったまま、海水浴を楽しむ……ことも出来ずなんとなく澪を目で追っていた。澪はなかなか運動はできるようで、仲間とビーチバレーを楽しんでいた。皆が昼食やら飲み物やら買いに行っている間、澪と碧は2人でいた。
「君さ……ずっと僕のこと見てるよね。碧、だっけ?」
「え、!あぁ、こうゆう場にいると思ってなかったからさ!」
 澪の声は、少し低めのクールな声だった。
「へぇ、意外?」
「ま、まぁね。」
「そう。まぁ学校では真面目ぶってるだけだよ。」
 澪が身を寄せた。肩と肩がぶつかって、碧の耳のすぐ近くに澪の顔がある。
「『真面目ぶってる』って、皆には秘密ね?」
「わ、わかった!」
 いい子、と言って碧の頭を撫でた。澪の隣は調子狂う、でも心地よいと思ってしまった。

 学校になると一切の関係がなくなった。合コンメンバーと話してる様子もない。「真面目ぶってる」澪は好きになれなかった。放課後、教室に残って勉強してる澪に声をかけてみた。
「僕に用?」
あの時よりも一段冷たい声だった。
「別にぃ?独り楽しい?」
「特別楽しいわけじゃないよ。勉強も特に好きなわけじゃない。ただ、僕の家病院やってるから、親には『医者になれ』って言われて勉強してるだけ。」
 あの、海での、キラキラ輝いている澪は、いなかった。碧はあの夏の澪が……
「好き……」
「……は?」
碧はハッとした。思ってたことが声に出てしまった。
「あ!えっと!海が好きって話!ごめんねぇ、思い出しててさ!」
 キョトンとした顔を明るく歪ませた。
「あははは!嘘下手すぎ。まぁ、ラッキーかな。」
「え、?」
「ねぇ?ホントの事、言って?」
澪はメガネを外して、前髪を荒くかきあげて分けた。澄んだ空が碧を見つめた。
「自分は……あのキラキラした……澪が好き……みたいです……///」
恥ずかしすぎて走って教室を出たい気分だった。心臓が飛び出しそうなほど跳ねて、顔が熱っぽく赤くなった。
「チャラいなぁ、って思ってたけど、案外初だね。かわいぃ。僕も好きだよ。」
「……ふぇ?えぇぇぇぇぇ!」
「声が大きい。しー……」
 澪の細い人差し指が碧の唇に当たる。緊張して変に唇を噛んでしまった。
「こらこら、噛んじゃダメ。」
「え、」
 緩んだ、隙だった。触れるだけのキスだった。澪はほんとに「真面目ぶってる」だけのタラシだ。そんな恋人の手を取った。放課後、夕日が差し込む教室で2人きり。碧は澪となら愛し合えると思った。それは澪も同じだった。馬鹿だった。

「僕も好きだよ。」

 そう、リピートされた。


「澪ぃぃ!!」
 規制線を乗り越えて見に行こうとした。まだ信じきれていないのだ。いやだ……嫌だ……嫌だ、嫌だ嫌だ!澪だなんて信じたくない。でもあの髪が、恋人だって主張するのだ。無論、力ずくで止められてしまった。
「鍵谷さん……?」
「あ、……澪の……」
 名前を呼んだのは澪の母親だった。何度か顔を合わせたことがある。自我が強い人で、「自己絶対主義」な感じだった。
「あの……!事故って!澪じゃないんですよね……?澪、家にいますよね……?お願いです!そうって言って!」
 気づいた時には左下を向いていた。ジーンと頬が痛む。叩かれた、澪の母親に。
「あんたのせいで……あんたのせいで澪は死んだのよ!!あんたみたいな馬鹿とつるんだせいで!」
 呆然とした。何もお構い無しにセミが泣く。
 澪が……自殺した。あの人身事故は澪が起こしたのだ。だから先生たちもあんなに慌ただしくしてて、休校にまでなったのだ。

 母親は警察と一緒にどこかに行ってしまった。碧はただ立ち尽くした。何時間何分何秒経ったか分からない。そんなに経ってないかもしれないし、もっと経っているかもしれない。今はそんなことどうでもよかった。
「澪ぃ……」
 碧は規制線の前で、ブルーシートの外で、立ち尽くすことしか出来なかった。
「君、大丈夫?」
「…………」
 大丈夫なわけないだろう、そう言う気力もない。ただ一つだけ、使えない頭を働かせて言った。
「……中に……入れてください……澪の……恋人なんです……」
 震えて上手く出ない声をその警官は拾ってくれた。
「……特別だよ。」
 その警官は規制線を上げた。棒になって覚束無い(おぼつかない)足で越えた。ブルーシートの向こうには遺体があった。車体にぶつかった身体はめちゃくちゃで、関節がありえない方向に曲がっていた。制服のシャツも見たことないほど紅く濡れていた。でも、恋人の顔と髪はおかしい程に綺麗に残ってた。頬は冷たく、柔らかい唇も青紫色だった。死んでいる証明だった。
 遺体の向こうの踏み切りには粉々に千切れたお揃いのキーホルダー。お互い買いあって、プレゼントしたやつだ。お前も散ったのか、と投げかけた。返事は無い。哀しい程に、恋人に取り憑かれたかった。それが存在証明な気がしたからだ。
 ビー玉が割れることはあっても、割れたビー玉が戻ることはないように……生きてる人が死ぬことがあっても、死んだ人が生きることはない。

 もう澪は帰ってこない。

 碧はお通夜にも葬式にも出れなかった。澪の母親が拒否したのだ。澪の父親は母親を説得してくれたが、揺らぐことはなかった。
 澪の遺体は葬式後、火葬される。火葬前、澪の父親は内緒で中に入れてくれた。
「澪……」
 綺麗に化粧してもらって、良かったね。ずっと大好きだよ。そう最期くらい笑顔で送ってあげたかった。でも、やっぱり、碧は、馬鹿だ。
「なんで……なんでだよぉ……置いてかないで……ずっと2人で……なんで……澪ぃ……」
 棺桶の中には薔薇を入れた。

 そのまま静かに会場を後にした、かった。
「鍵谷さん!ちょっと待って。」
 知らない男の人の声だった。振り返ると、鼠色の髪が目についた。
「あの、俺、澪の兄で界(かい)って言います。これ、澪から預かってて。」
 手渡したのは封筒、中にはレコーダーと手紙が入っている。
「遺書って母さんが持ってるんだけど。あれは偽物で書いたんだって。それが本物で、鍵谷さんに渡して欲しいって。」
 レコーダーに本物の証拠が残ってるという。
「鍵谷さんに1番に読んで欲しい、らしい。俺は読んでないけど、鍵谷さんの後ならいいっていわれてるから。何が書いてあるか分からないけど、読んだら連絡欲しい。」
 連絡先を交換して、界とは別れた。

 自分の部屋の机に向かって、手紙を広げた。少し達筆なHBの澪の字だ。

『これを読んでるってことは、碧か兄貴か。火葬はもう終わったでしょう。この遺書は碧宛に書くよ。まず初めに、何も言わずにごめん。きっと碧を凄い傷つけたと思う。でも、これしか手が無かったんだ。』
 涙は出なかった。今だけは澪がすぐそこにいる、そう思ったのだ。
『僕は母さんの言いなりになりたくなかった。医者になれ、友達は選べ、って。「碧とつるむな」とも言ってきた。そんなこと出来るわけないのに……僕は母親に勝てないって思ったんだ。どうしても「母親のせいで子供が死んだ」「子供殺しの母親」っていうレッテルを貼りたかったんだ。偽物の遺書には「碧に浮気された」って書いた。良心がすごく痛むけど、どうしても偽装しないと、この遺書も簡単に見つかると思ったんだ。母さんのことだ、自分に不都合だと思ったら何がなんでも隠蔽すると思ったんだ。お願い、僕の代わりに復讐して。』
『そして最後に、』
もう1枚の手紙はほんの数文しかなかった。でも1番のお願いだと思った。そんなのズルい。なんて狡い(ずるい)恋人なんだ。
「お願いなんて……断れるわけないじゃん。」
 碧は全てを飲み込んだ。

 9月2日、「碧が浮気した」という噂は広がっていた。その日の朝には碧の机に白百合の花瓶も置いてあった。全てを仕掛けたのは碧本人である。友達皆に協力を煽り、地域で碧が村八分になるように噂を広めるよう言ったのだ。「澪の母親が言ってたらしいんだけどね、碧が浮気したから澪自殺したんだって」と。読みは的中した。澪の母親は自分が話題になってるのが嬉しいようだ。彼女も波に乗って噂を広めてくれた。広まれば広まるほどいい。

「見てて、澪。やるから。」
 その日は早かった。その日、それは9月末にある「収穫祭」の日だ。9月末とはいえまだまだ夏で、汗をかく。蝉ですらまだ鳴いている。収穫祭では地域の人がある程度1箇所に集まる。それを狙った。馬鹿な頭を沢山使って考えたのだ。
 碧は今、澪の家の前にいる。インターホンを鳴らして、母親が出てくるのを待つ。
「澪は会わせないから。この浮気者!」
 態々出てきてくれて、ありがたい。
「遺書の件で来ました。」
「はい?!何を言って!」
「これを読んでください。」
 碧は母親に本物の遺書を手渡した。どんどん青白くなる顔、反面遺書をビリビリに破いた。
「これでないも同然よ!馬鹿ね、あははは!」
「もちろんそれはコピーです。原本は家に。」
「チッ……!でも、あれが本物だなんて証拠は」
「もちろん、ありますよ。」
 私はかけっぱなしだった電話に話しかける。
「よろしく、パパ。」
 それを合図に町内放送がかかる。
『地域の皆さん、こんにちは。初佳澪です。』
「澪の……声……?!」
『今、母親が持っている遺書は偽物です。「碧が浮気した」というのも偽装するための嘘です。それして今碧が持っている遺書こそ本物です。……僕は母親に殺されたんだ。なりたくもない職業を押し付けられて、挙句の果てには友達を選べとも言われました。あの母親は異常だ!僕は……自由に生きたかっただけだ……』
 何度聴いても痛々しい声だ。ボイスメッセージが終わると町内放送も閉じた。碧の父親は町内会の会長で、放送機材を借りるなど造作もなかった。
 恋人の自殺の事実、原因は母親。きっとほとんどの町民の耳に入っただろう。収穫祭で纏まった人並みに爆音で流したのだから。
「自殺の原因、鍵谷さん家の子じゃなくて、初佳さん家のお母さんだって。」
「あんなに広めてたのに、原因が本人じゃねぇ……可哀想に……」
 そうだ、もっと言え。どんどん孤立してしまえ。死んでしまえとも思ってしまった。

 家に帰った途端、涙が止まらなくなった。すべてが終わったのだ。澪の母親は孤立を極めるはずだ。いつかこの街にもいられなくなるだろう。
 盛大な仇討ちだった。でも、泣いても泣いても、慰めてくれる恋人はもういない。どれだけ頑張っても褒めてはくれない。
 ラムネのビー玉はあっても、ビー玉のラムネがないように……
「……っうわぁぁぁん!」
 やっと……終わりにできるのだ。

「碧、ほんとにお願い聞くの?」
「もちろん。だって澪の、最後のお願いだから。」
 収穫祭の次の日、放課後に学校を回った。自習で残った教室。澪との初めては空き教室で、先生に見つからないかドキドキしながら、でもすごく幸せだった。
 澪、自分は澪といるから自分でいられるんだよ。その放課後、海風が吹く踏み切りに来ていた。
「澪、来たよ。お願い聞くんだから、お迎えくらい来てよね。」
 あ、来てる。碧の直感がそう言った。お揃いのキーホルダーを見つめる。遮断機が鳴り始め、後ろから電車のクラクションが聞こえる。
「澪……?」
 目の前に澪が見えた。澪は碧を指差していた。

 最期は生臭い血の匂いを感じた。

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「ここは……」
 無事に死んだか。雲の上、というのが答えだろうな。
「碧……ほんとにお願い聞いてくれたんだね。」
 後ろから愛する声が聞こえた。
「当たり前。恋人のお願いだからね。」
 澪は泣いていた。走って近づいて、碧を強く抱き締めた。
「ごめん…ごめんね……僕、恋人失格だ……碧のこと……すごい傷つけて……!辛い思いさせて……!挙句の果てには……『追いかけて欲しい』なんて……」
 そう。あの2枚目の手紙にはこう書いてあった。

『そして最後に、全部終わったら透き通った世界で2人愛し合いませんか?』
 お願いというより、お誘いだ。碧には誘いを断る理由はなかった。

「何言ってるの。全部自分で決めたんだよ。仇討ちも追いかけたのも。澪のこと愛してるって証拠だから!」
「っ……!碧……ありがとう……!僕も……愛してる。」
 お互い見つめ合うと。永遠を誓うように熱い口吻を交わした。

 これは、ある二人の夏の悲劇の逆襲である。