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 その日、男子Cでの最後の自主練を終えた俺は一人、一戸建ての立ち並ぶ、ひっそりとした住宅街を歩いていた。午後九時も近いので、外に出ている人の姿も見当たらない。
 寮の門前で一度、立ち止まるが、思い直して、隣接する公園に向かい始める。
 明日のBへの合流は午後練からだったから、もうちょっと身体を動かしておきたかった。練習着のままだったし、ちょうどボールも持ってたしね。
 公園を囲む柵の切れ目に足を踏み入れた俺は、園内を見渡した。
 近くには、ペンキが剥げかけのブランコや鉄棒、雲梯があった。その向こうには、数人でのパス回しくらいならできそうな広さの土のグラウンドが広がっている。
 グラウンドの手前まで来たところで、向こう側の柵の辺りで向かい合う一組の男女の存在に気付いた。制服を着た皇樹と、長袖のジャージの未奈ちゃんだった。想定してなかった事態に、俺は動きを止める。
「黙ってないで答えろよ! 思い出したみたいに中に切り込んだと思ったら、ガキの頃のままのおもちゃみたいな右足でシュート! 身の丈に合わねえワンマン・プレーばっかしやがってよ! 何様のつもりだっつの! お前一人のために試合をしてるんじゃねえんだよ!」
 全身から怒りを噴出させる皇樹の迫力に、空気が震えたようにまで感じる。斜め下に視線を遣って唇を引き結ぶ未奈ちゃんは、それでも何か、言い返したげに見えた。
 無言の時が続く。覗きは良くないと思い直した俺は、声を発するべく息を吸い込んだ。
 しかし、苦々しげに顔を歪めた皇樹が言葉を続け、踏み出すタイミングを失う。
「もうはっきりさせとこうぜ。お前は今日、何であんな自己中プレーに走ったんだよ? クロスの供給源っつー、女子サッカー界が期待するてめえの役割を放っぽり出してさ」
 皇樹の口調は、哀れむようでも責めるようでもあった。少しの間を置き、決定的な言葉を放つ。
「なあ。未奈にとって、俺って、サッカーって、何なんだよ?」
 皇樹の詰問に未奈ちゃんは、ゆるゆると顔を上げ、縋るように皇樹を見つめた、今にも泣き出しそうな表情である。
「……私は。……自分の力だけで、点を取れる選手になって。……女子サッカーの絶対的なトップになって。あんたにも、追い付いて。それで……。あんた……と」
 絞り出すような台詞が、最後まで辿り着かずに消えていく。刺すような視線を未奈に向ける皇樹は、微動だにしない。またしても静寂。
「桔平。そこにいるんだろ? こっち、来いよ」
 言葉を切った皇樹は、俺に一瞥すらくれない。妙に優しい口振りに、俺は背筋に冷たいものを感じる。
「──いや、あの。盗み聞きするつもりじゃなかったんだよ。なんでか身体が動かなくて。……って、こんなの、言い訳でしかないよな。ごめん」
 本気で謝った俺は俯いて、皇樹の叱責を受ける心の準備をする。
 しかし俺に微笑を向けた皇樹は、普段以上の温厚さで話し始めた。
「謝る必要、全然ねえよ。お前は興味本位で出歯亀する奴じゃないって。
 あそうだ。B昇格おめでとう! ハーフタイムでも言ったけど、今日のお前は凄かったぜ! いやそりゃ実力的には正直まだまだだけどさ。雰囲気っつうか、サッカーへの取り組み方っていうか。……うまく言えないけどそんな感じだ。とにかくお前は凄い! 俺が保証する!」
 一転朗らかな台詞に、「おう、サンキュな」と圧倒されつつも俺は答えた。
「それとさ、ボール持ってんだろ? わりいけどちょっと貸してくんねえか?」
 戸惑う俺は、「ああ、ボール」と答えた。口がほとんど動かず、間違いなく自分にしか聞こえない声量だった。
 バッグからボールを取り出して、皇樹に放る。「サンキュ」と、軽快に呟いた皇樹は、ボールを足で止めて未奈ちゃんに向き直った。
「未奈。俺と、一対一だ。お前が、オフェンス」
 未奈ちゃんは皇樹の感情のない平たい声に、わずかに目を見開いた。
「今からお前に、現実を教えてやる。その上でちゃんと考えろ。これから自分がどこを目指して、どう生きていくのかを、な」
 未奈ちゃんの心に染み込ませるように告げた皇樹は、未奈ちゃんに向かって軽くボールを蹴った。
 項垂れる未奈ちゃんだったが、トラップをして上げた顔からは覚悟が感じられないでもなかった。ただどうしても、悲愴さが先に立っている様子だった。
 ちょんと蹴り出して、左、右、左。リズミカルなシザース。
 ふいに右足でボールを左に遣って、追い越した右足で内から外に跨ぐ。だが皇樹は動じない。
 構わず未奈ちゃんは、左足で斜め前に出す。狙いは皇樹の右方の突破。
 しかし皇樹の反応は早い。大きく一歩、踏み込んで、未奈ちゃんとボールの間に身体を入れた。皇樹の完勝。
 グラウンドの端へと、ボールがころころ転がっていく。しかし誰も追い掛けようとしない。
 振り向いた皇樹は、無色透明な真顔で未奈ちゃんをまっすぐに見つめる。
「わかっただろ。お前は一生、俺には勝てない。その事実を胸に刻んで、自分の人生の選択をしていけよ」
 動きを止めた未奈ちゃんは、柵の下に止まったボールから視線を動かさない。深い衝撃に打ちのめされている様子だった。
 数秒の沈黙の後、皇樹は近くに置いた鞄に向かって歩き始めた。