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 四本目は静かな立ち上がりだった。男子Cのプレーは慎重なものになっており、女子Aは、いつものコーチングの声が蘇り始めていた。俺の電撃移籍で、双方とも気持ちがリセットされた印象である。
 数分が経過し、男子の35番が、コートの中央でパスを受けた。
 釜本さんを密着マークする俺の傍ではあおいちゃんが、後方の佐々とボールとの間でしきりに視線を往復させている。細めた目からは、佐々のオフサイド・トラップ破りへの不安がひしひしと伝わってきていた。
 俺はあおいちゃんの恐慌を和らげるべく、早口かつソフトに指示を飛ばす。
「そんな頻繁に首を振る必要ないよ! 人間の視野は、左右に百八十度以上あるんだからさ! 佐々が引いてきてる時は、ボールと佐々、両方、視界に入れられるはず!」
 あおいちゃんは、「う、うん。了解です」と、自信なさげに答えて、視線の往復の頻度を減らした。
 35番が右足を振り被った。瞬時にアイ・コンタクトを交わした俺たちは、すっと一歩、前に出た。
 オフサイド・ラインにまで戻ってきていた佐々だったが、あおいちゃんの急な動きに対応できない。ボールを受けるも線審の旗が上がった。待ち伏せ禁止、オフサイドである。
 後ろにいるマーカーに目を遣り過ぎず、意思疎通をしっかりしたらこんなもんだ。
 それに佐々は、まったく経験が足りてないからね。警戒のあまり、パニックになるほうがよっぽど怖いんだよ。
 俺は手をパンパンと叩いて、コート中に聞こえる音量であおいちゃんを勇気付ける。
「あおいちゃん、ナイス判断! 冴えてる冴えてる! 永久凍土並に冴え渡ってるよ!」
「うん、ありがとう。とっても助かったよ。永久凍土とかはよくわからないけどねー」
 あおいちゃんから、拍子抜けしたようなお礼の言葉が来た。お顔も落ち着いた笑顔で、俺は胸を撫で下ろす。
 前の選手からも、「あおいー、サンキュー」「綺麗、綺麗」のように、次々と賞賛の声が聞こえ始めた。嬉しそうなあおいちゃんは、花が咲くように微笑んで、肩まで挙げた右手を小さく振った。
 うん、やっぱり美しいよね。スポーツ女子たちの連帯感って。退部を賭けてまで、チームを移った甲斐があったよ。