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 初練習を終えた俺と楓ちゃんは、徒歩で帰途に就いていた。俺たちの周囲には、日本中のどこにでも見られそうな住宅街が広がっている。どこかの家の夕食なのか、カレーの良い匂いがしていた。
「そんでねー、今あたしの中ではロドリが来てんの。スペイン、こないだのワールドカップではびみょーな感じだったけど、でもでもロドリの凄さは変わんないよ。なんてったってあの人、ポジション、アンカーなのにプレミアで七点取ってるからね!」
 楓ちゃんは熱を込めた口調で、お気に入りの選手への愛を語る。
「うんうん、ロドリは俺も好きだよ。ところで楓ちゃんってポジションどこなの? というか小学生だから八人制だよね。将来的にはどこをしたいとかあったりするの?」
 俺が疑問を口にすると、楓ちゃんは「よく聞いてくれたね」って感じでにまーっと笑った。
「ポジションというか、憧れの選手はイニエスタだね! ウイングでもインサイドハーフでもアンカーでも、どこでもこなせる感じがやっぱ憧れちゃうよね!」
「イニエスタか。そういえば今日もダブルタッチを何回か使ってたよね」
 静かに返答した俺は、考えを巡らせる。
 やっぱり、「超絶姉妹」の片割れにして日本女子サッカー界の至宝は、他の奴とはどっか違うよね。(ひが)みっぽくなるから、言葉にはしないけど。
 公園を出てからずっと弾んでいた会話が、途切れた。話題を提供すべく黙考していると、「……あのさー」と楓ちゃんが、JSに似つかわしくない不安げな声で沈黙を破った。
 俺は、「ん? どうしたの?」と、軽い調子で聞き返した。目を伏せた楓ちゃんは、とぼとぼと歩き続けている。
「お姉ちゃん、学校で嫌われたりしてない? あたし、妹としてけっこー心配なの」
 楓ちゃんは歯切れが悪い。俺は少し考えてから、シリアスに返事をした。
「うーむ、まだ入学したばっかだし、俺、中学は別だし、正直わからないなぁ。何でそう思うの?」
「お姉ちゃん、悪口が多いの。いや、あたしにはめちゃくちゃ優しいんだけどね? 前のミニ・ゲームでも星芝さんに向かって、『楓との才能の差に潰されちゃえ』とか、キッツいことをゆってたでしょ? あんなことばっかりしてたらみんなに嫌われないかなーって、あたしガキンチョなりに恐れてんのよね」
 楓ちゃんの嘆きの言葉に、俺は思案を巡らせる。
「水池未奈の毒舌は、(たち)の悪い攻撃だ」という意見は否定できない。だけど、悪口雑言を乗り越えた先にこないだのミニ・ゲーム後のような言葉があるなら、俺は未奈ちゃんの味方でいられる。
 それに自覚してないかもしれないけど、未奈ちゃんの口撃は男子への期待の裏返しだ。振り分け試験の「声が出てない」の鼓舞が、良い例である。
 だから俺は、「楓ちゃん、いや、未来の義妹よ」と、暖かく包み込むようなトーンで言葉を紡ぎ始める。
「ギマイ? あたしが? それってお姉ちゃんとけっこ……。まあいいや。なに? 星芝さん」
「未奈ちゃんを嫌いな人は、少なくないと思う。だけど未奈ちゃんには、俺みたいに、深い絆で繋がった味方もたくさんいる。だからなーんも心配する必要はないよ」
 俺の返答を聞いた楓ちゃんは、きょとんとした顔になった。俺は大らかな笑みとともに、楓ちゃんの瞳を覗き込む。春の夜の柔らかい夜気が、俺の身体を優しく包んでいた。
「……って星芝さん。よく見たら顔のここ」立ち止まった楓ちゃんは真面目な感じで、自らの右頬をとんとんと叩いた。
 俺はさっと同じ場所に手を当てると、ぬるっとした感触がした。すぐに掌を見ると、少し血が付いていた。
「うわー、顔切っちゃってるね。すっごい痛そう」
 可愛らしい顔を歪めて、楓ちゃんが呟いた。
「何回かスライディングしたから、その時かもな。そんでもこのぐらい、フットボーラーには日常茶飯事だよ。心配するにゃー当たらないぜ」
 人差し指をフリフリしつつ、俺はおどけてみせた。
「いやいや、ダメだよ。油断大敵火がボウボウだよ。あたしんち近いし、そこでちゃんと治療しよ。ね?」
 申し訳なさそうな視線に困っていると、楓ちゃんはぎゅっと俺の手を掴み、てくてくと歩き始めた。ちょっと迷った俺だったが、やっぱり従いていく事にした。