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月曜日。漠然とした憂鬱を抱えながら登校して教室までの階段を上がっていると、後ろから聞き慣れた声が響いてきた。
「なあ、今日の数学、抜き打ちテストやるって噂だよ」
「マジかよ。諒太、相変わらず情報が早いな」
「ってことは、うちのクラスも今日の5限あたりやりそうだな」
渡部くんと内山くんたちの声だった。気づかれる前にさっさと行こうと足を早めたけれど、江川くんの声に呼び止められる。
「柳井さんじゃん。おはよ」
「あ……おはよう」
「ねえ、2組はもう数学のテストあった?」
無邪気に話しかけてくる江川くんの斜め後ろにいる渡部くんの表情が目に入る。柔和な表情を装っているけれど、明らかに作り笑顔だ。
内山くんたちも、渡部くんとわたしが付き合っていることは知っているはず。だからこそこうして話しかけてくれたのだろうけれど、今はそれが仇となって変な空気が漂いつつある。
「昨日あったよ。けっこう難しかったから、教科書をしっかりさらっておいたほうがいいと思う」
「お、助かるわ」
早く行って勉強しておこうぜ、と階段を駆け上がっていく江川くんと須藤くん。それを追いかける内山くんに続いて、渡部くんもわたしの横をすり抜けていこうとする。咄嗟にわたしは彼の制服の裾を引いた。
「あ……あの」
「……どうしたの」
いつもより低い声。怒っているというよりは、どんな顔をしたらいいのかわからないというような困惑が滲んだような音階だった。
「今日、少し時間……もらえないかな」
「いいよ。部活があるから終わるまで待ってもらうことになるけど、いい?」
「うん。待ってる」
意を決して顔を上げる。彼の瞳の中で揺らいだ光が綺麗だと思った。
「わかった」
短く返事をして、渡部くんは走って行ってしまった。彼らの賑やかな声が聞こえなくなってから、ふうと息を吐く。無意識に呼吸を止めていたようで、酸欠になりかけた頭がくらくらした。
放課後まではやたらと長く感じた。終礼が終わり、クラスメイトたちがそれぞれに教室を後にしていく。渡部くんが所属するバドミントン部の活動が終わるのは6時半、それまでは図書館で時間を潰そうとわたしも立ち上がる。廊下はもう静かに落ち着いていた。
ひんやりとした渡り廊下を通って図書館に向かう。3年生が受験勉強のために自習コーナーを埋め尽くしているほかはあまり生徒がいない。何を読むともなしに本棚の間をぐるぐると回った。
渡部くんに、何から話そうか。
中学のころに負ったトラウマは、仕組まれた絶望だったこと。どれだけ言葉を尽くそうとしてもきっと分かり合えない人がいるとわかったこと。――それでも今、わたしは、渡部くんと言葉を交わしたいし、渡部くんがわたしにかけてくれた言葉の全てを大事にしたいと思っていること。痛くてたまらなかったけれど、全部事実で、ごまかしようのない現実で、わたしが向き合わなければならないことだった。
認めなくちゃいけない。
わたしはずるくて、愚かで、嘘つきな人間だってこと。
ちゃんと自分の言葉で伝えたい。
あの言葉はわたしにとって必要なものだったって。渡部くんだって、喧嘩みたいになってしまって平気だったわけがない。それでも言ってくれたのは、わたしにとって必要だとわかっていたからだ。今言わなければいけないと判断した、渡部くんの優しさ。
秋の夜は訪れが早い。窓の外はとうに真っ暗になっていた。
もう少ししたら部活が終わる連絡が来るだろうと、図書館を出る。ここでスマホを鳴らしたら、先輩たちの大顰蹙をかうことになる。
階段を降りていくと、数人の女子が賑やかに話す声が聞こえた。どこかの部活が早めに終わったのだろうか。その横をすり抜けようとすると、あ、と声をかけられた。
「香帆」
「……美優。理沙と、華恵も」
わたしを呼び止めたのは華恵だった。わたしと美優、理沙を交互に真剣な目で見つめる彼女は、唇を横一文字に引いてから息を吸いこんだ。
「なんか、久しぶりだね」
「そう、だね」
「……いつまでもこんな空気のままってわけにはいかないし、少し話そう。2人もいいでしょ」
押し切るように早口になった華恵に頷いて、近くの空き教室に入る。ばらばらに適当な席に座って、さらにしばらく沈黙が続いた。
「……あの」
思い切って口火を切る。わたしから話さなければいけない。先に傷つけたのはわたしだ。
床を見つめていた3人の視線がわたしに向いたことに怯みそうになって、ぎゅっと拳を握りしめた。
「ごめんなさい。理沙にも、美優にも嫌なことを言って」
「……別に、言われたことはもういいよ」
そう言ったのは理沙だった。
「サプライズについての発言そのものにはもう怒ってない。確かに言われた時にはなんでそこまで、とは思ったけど。今の心境としては、美優と一緒。この前話したんでしょ。ちゃんと理由を言ってくれなかったって聞いた。美優もわたしも、言われたことより言ってくれないことに怒ってるし、寂しいなと思ってる」
「うん。……ごめん。ちゃんと話すから、聞いてほしい」
過去のこと、そこから繋がる今のこと。
全部話したあと、教室の中はまたしんと静まり返った。
「……要約すると、香帆はずっとわたしたちのことを信用できないでいたってことだよね」
「そう、なるね。……その、ひどい話をしているって自覚はあるの。どうせなんて思わずにみんなの気持ちをちゃんと受け止めたいって気持ちはあるんだけど、どうしても心のどこかで、信じたらまた裏切られるかもしれない、いなくなってしまうかもしれないっていう考えを拭い去れないままでいた。いつか壊れるなら、そのつもりで覚悟していたほうがいいって。……その結果、嫌な思いをさせて、不愉快にさせてしまったんだから、どうしようもないけど」
「本当だよ」
「ごめん――もう付き合えないと思うなら、それでも」
言葉は途中で遮られた。美優がわたしに抱きついて、ぎゅうときつく腕を回してくる。
「み、ゆう」
「そんなわけない。もっと早く打ち明けてほしかった。簡単に言えないことだってわかってるけど、それでも――だってわたしたち、友達でしょ」
「そうだよ。自分だけそんな身の引き方をしようなんて、やめて」
「理沙……」
華恵といっしょに歩み寄ってきた彼女も、わたしに抱きつく。そこにそっと手を添えた華恵が、わたしを優しく見つめた。
「信じられない気持ちがあっても、信じたいと思ってくれたんでしょ。たとえこれまで香帆がわたしたちを信用できないでいたとしても、今まで仲良くしてきたことは変わらないし、わたしたちはその時間は本物だと思ってるよ」
「でも……こんな、普通じゃないわたしとなんて」
「普通かどうかじゃない。今までのわたしたちと香帆の関係がどうだったかが大事でしょ。人間関係の平均なんて、今は要らない物差しだから」
耳元で美優が声を上げた。彼女の頬が濡れている。泣かせてしまったのだとわかって、また情けない気持ちになる。
「わたしたちは香帆のことが好きだし、友達だと思ってる。香帆もわたしたちと一緒にいたいって思うなら、それだけでいい。信じる気持ちが少しでも大きくなって、香帆が心のそこからわたしたちと一緒にいてよかったって思えるように、そばにいるから」
「美優……」
ぼろぼろと涙が溢れた。わたしなんかが泣いていい場面ではないはずなのに、抱きしめられるその温度があまりにもあたたかくて、心地よくて、胸がぎゅうと詰まって苦しくなる。でもそれは、つらい感覚ではなかった。手放したくない温もりに対する執着のようなその痛みと一緒に、3人の背中に手を回した。
「ありがとう。こんなわたしと一緒にいてくれて、許してくれてありがとう。本当はずっと向き合いたかった。怖くて、怖いと思うことすら許されないって思っていたから見ないふりをして、偽りがばれなければいいって思ってた。でも、本当はみんなとずっと一緒にいたくて、失いたくない。わたし自身が、本当にそう思ってるの」
「友達だよ。簡単なことで離れるなんてありえない。大事な友達だよ。どんなに遠くに行ったって、心は絶対離れないよ」
叫ぶように理沙が声を上げた。
信じたい。きっと、信じられる。わたしの心は、確実に少しずつ、変わることができているはずだ。