寝不足がたたり、翌日は寝坊することになった。幸いなことに土曜日で休みだったので、まだ覚醒しきらない頭を揺らしながら着替え、リビングに降りる。家族は朝食を済ませてしまっていたようで、わたしのぶんは冷蔵庫にあると教えてくれた。

ぼんやりとしながら完食し、食べ終えた皿を洗って歯磨きをしながら、どこか出かけようかと考える。用事などないが、久しぶりに天気がいいのでもったいない気がした。それに、少しでも気分転換できればいい。部屋にずっといたら、何をしていても頭の中が晴れないだろう。

「お母さん、本屋に行ってくるね」
「あら、出かけるの? じゃあついでに頼まれてくれない?」

身支度を整えて玄関に向かおうとすると、お母さんに止められた。買い物リストを手渡される。

「あとで行こうかと思ったんだけど、香帆が出かけるなら頼んじゃう。自転車で行くんでしょ」
「うん。了解、じゃあ行ってきます」

リストを財布に入れて外に出る。だいぶひんやりとして冬が近づいている予感はあるものの、高く晴れた空の色は心地いい青だ。
自転車のスタンドを蹴り上げて走り出す。頬に当たる風も気持ちいい。10分ほどして本屋に到着し、自転車を降りた。店内は週末のせいか、そこそこ賑わっている。漫画本の棚など、小学生の集団が群がってはしゃいでいる状態だ。あまり静かに本を吟味できる感じではなさそうだなとげんなりしつつも、ひとまず店内を一周してから文庫本のコーナーに向かった。

好きな作家の新刊を手に取り、他にもいい本がないかと何冊も手にとっては中をめくる。活字の本はやっぱり紙で読みたいので、月に一度は本屋に行って新作を探すのが習慣だ。――けれど、今日はどうも集中できない。書かれている文字列が、文章として頭に入ってこない。

ふと、背中に誰かが強くぶつかった衝撃があった。いた、と思わず声が出る。苛立ちながら振り向くと、ぶつかってきたらしい人物と目があった。――そして、息を呑む。

「……千尋」
「あ、香帆じゃん。ひさしぶりー」

髪が伸びて化粧もしているようだけれど、間違いなく千尋だった。若林くんと付き合うことになったと、まったく悪びれる様子もなく得意気に言い放ったあの日を思い出す。
硬直したわたしとは対照的に、彼女は軽い口調で元気だったー? などと話しかけてきた。

「卒業してから全然見かけないからさあ、どうしてんのかなと思ってたの。高校どこだっけ?」
「……よく話しかけられるね」
「は? 何?」

喉から出た低い声は、わたしのものではないようだった。へらへらと笑っていた彼女はそれを意に介さず、相変わらずわたしを見下すような目をしている。
ずっと言ってやりたかった言葉がある。本当は、最初にわたしを騙してきた男子たちにも言いたかった言葉だ。

「わたしは一生、あんたたちから受けた仕打ちを忘れないし、許せないと思う。馬鹿にするのも大概にして。人から嘲笑われて生きていくなんてごめんだから」
「……何、今更キレてんの」
「今だから言ってるの。あの時のわたしは言えなかったから」
「ばっかじゃないの? 被害者ぶっちゃって、うざいわ、やっぱ。そんなんだから遊ばれんのよ」
「……どういう意味」
「おめでたいね。何の理由もない気まぐれでターゲットになったと思ってたわけ? そんなわけないでしょ」

頭がくらくらする。一瞬で沸騰した血液が頭にのぼったのに、それが急速に冷えていく感覚。
わたしがあんな目に遭わされたのは、わたしのせい?

「店の中で話すのもなんだし、外に出ない?」

噛みつこうとした牙を抜かれてしまい、わたしは手に持っていた本を棚に戻して店の外に出た。駐車場の車止めのアーチに腰掛けた千尋が、ふうと息をつく。立ったままその様子を見下ろしていると、彼女は嫌味を込めた角度でわたしを見上げてきた。

「あんた、自分が嫌われていたことに気づいてなかったの?」
「……へえ、そうだったんだ。確かに友達は多くなかったけど。あんなことをされるほど嫌がられるようなこと、何かした?」

心臓がうるさい。ぺらぺらの虚勢は、千尋の甲高い笑い声に破られた。

「馬鹿みたい。あの時言ったでしょ、わたしもずっと俊佑のことが好きだったって。あんたから初めて、若林くんのことが好きなんだって聞かされた時のわたしの気持ち、考えたことある? 腹が立ってしょうがなかった。だから嫌がらせしてやろうと思ったの」
「……じゃあ、嫌ってたのは千尋だけじゃない」
「残念。あんたのことをなんとも思っていなかった人たちにちょっと適当なことを吹き込んだら、まんまと信じてたのよ。友達の好きな人を奪おうとする悪女だとか、大人しいふりして男子に媚び売ってるとかって話してたら、あっさり広まったもの。それだけあんたなんてどうでもよくて、誰からも信用されてなかったってことよ」
「だからそれも全部、千尋が仕組んだ話なわけでしょ。だったら今井くんからの嘘告白も、若林くんのひどい言葉も、全部千尋が裏で手綱を引いてたってこと?」

ただ、好きだった人を不愉快な形でたまたま掻っ攫われただけかと思っていた。千尋と若林くんが付き合ったことと嘘告白に明確な繋がりがあったなんて――それを仕掛けたのが千尋だったなんて、想像すらしなかった。

「ご名答。欲しいものを手に入れるためならなんだってするの、わたしは。もじもじしてラッキーを待ってるだけなんて、そんな悠長なことはできない。手に入れちゃえばそれでいいの」
「……今でも付き合ってるの」
「別れたわよ、とっくにね」

つまんなかったわ、と、千尋は味のしなくなったガムを吐き捨てるように言った。

「わたしが嘘の噂を流していたことを知って、俊佑も今井くんも怒っちゃってさ。そんな女と付き合えないって、今じゃ絶縁状態。連絡先もブロックされたしね」
「……結局、そうなるんじゃない。嘘で手に入れたものなんて」
「ま、それはそうかもね。ただわたしは、間違いなくあんたのことは嫌いだったわ。おとなしい優等生、目立たないけどいつも笑っていて、友達は多くなくても、誰からも嫌われないいい子。鬱陶しくて仕方なかった。あんたへの嫌がらせが始まって、笑えなくなっていくのを見てスカッとしたのは本当だし」

千尋はそう言いながら、唇の片端だけを上げて笑った。棘を纏ったようなさっきまでの視線は影を潜めている。

「……嘘じゃ、幸せになんかなれないよ」
「そうかもね」

帰る、と言って、かつて友達だった彼女は立ち上がった。その目はどこか遠くを見ていて、わたしのことなどもう眼中にはないようだ。

「じゃあね」
「……うん」

振り向かずに去っていくその背中を見送って、彼女が腰掛けていた車止めに体重を預けた。自分で放った言葉がブーメランのように戻ってきて、わたしの胸に突き刺さっている。

嘘で手に入れたものなんて、すぐに消えてしまう。
嘘なんかじゃ、幸せになれない。

今のわたしが言えたことではない。千尋の話を聞いて咄嗟に口をついて出たその言葉が痛い。
何もかも失くしてしまいそうになっているのに、まだ嘘や偽りから抜け出せないのは、わたしだ。

もう一度店内に戻る気力はもうなかった。力の入らない足で自転車のスタンドを上げて、のろのろと跨る。来がけに感じていた冷たい風の心地よさはもう感じなかった。ただ頬に冷たく刺さるそれを振り払うように、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。体じゅうのあちこちに変な負荷がかかって、おつかいのために訪れたスーパーで自転車を降りる頃には息が上がっていた。