《着いたよ。今、どこにいる?》
月曜日。文化祭の代休を活用して初デートしようと、渡部くんはさっそく誘いをくれた。二つ返事で承諾し、今は駅前のバス停で待ち合わせをしている。
《俺も今着いた》
メッセージの受信と同時に、渡部くんがこちらに向かって走ってくるのが見えた。ストライプの半袖シャツがよく似合っている。
「待たせちゃったね」
「ううん。ちょうどだよ」
バスに乗って向かったのは水族館だ。平日なのでほとんど人がいない。イルカショーを見て、ペンギンの餌やりを見て、屋内の展示に戻る。
「水族館なんて何年振りだろ。小学校の頃に家族で来て、それっきりかも」
「俺は三つ下の弟が魚好きでさ。中学に上がるころまで毎年何回も来てて、飽きてた時期もあったよ」
「そんなに頻繁に来てたんだ」
「うん。で、あのトンネル水槽からずっと動かないの。他のところ見て回って、また戻ってきてじーっと眺めてる、みたいな。さすがに弟も中学生になってからは落ち着いたけど、今は父さんと一緒に釣りに行ってる」
「へえ、本当に魚が好きなんだね」
「おかげで俺も詳しくなっちゃった」
順路に沿ってゆっくり回る。色とりどりの鮮やかな魚たちが泳ぐ水槽や、大きな魚がゆっくりと揺蕩う水槽。深海を再現した暗い水槽。そして、大小さまざまな魚たちが一緒に過ごしているトンネル大水槽。
横も上も、好きなように魚たちが行き来する。ひらひらと泳ぐエイや、集団になっていっせいに移動しているイワシ。その隙間を縫って泳ぐ何十種類もの魚たち。
「海の中にいるみたい」
「確かに」
まるで、海の深いところに潜って空を見上げたみたいだ。天井からはきらきらと光が差し込んで、このままもっと深いところに沈んでいきそうになる。
「この水槽に夢中になる気持ち、ちょっとわかるかも。仲間になれたみたいで楽しかったんじゃないかな」
「仲間か。確かにそんな感じするね」
青い世界に意識を沈ませる。この世界のしがらみから逃げるように、深く。
アクリルの先に行けたら、どんなにいいだろう。
「あ……ごめん。だいぶ浸っちゃってたな」
「いいよ。楽しそうだったから」
慈しむような柔らかい笑みが向けられて、どきりと胸が鳴る。
本当に彼は、わたしのことを大事に思ってくれているんだと感じる。それが嘘じゃないといやでも信じさせられるほど、痛いくらいに。
その気持ちに見合うものを、わたしは渡部くんに返すことができるのだろうか。
ひと通り見て回るとお昼を少し過ぎていた。最後に水族館の売店を見て行こうという渡部くんの誘いに乗って店内に入ると、幼少期の記憶にはない洒落たグッズがたくさん並んでいた。
「昔はもっと、いかにもお土産って感じのキーホルダーみたいなグッズばっかりだったけど……この箸置きとか、おしゃれでかわいいね」
「ヘアクリップとか食器もこんなに種類があるんだ。せっかくだから何か買おうかな」
「もし嫌じゃなければ、お揃いにしない?」
そう言って彼が手に取ったペアのマグカップは、大人っぽいシックな色あいのものだった。青っぽいグレーとくすみピンクの色違いにイルカのシルエットが入っている。値段も手頃だ。
「これじゃなくてもいいんだけど。初デートの記念にどうかなって。ベタすぎるかな」
「ううん。鞄につけたりして周りに見えるのはちょっとあれだけど。マグカップだったら家でいつも使うし、これがいいな」
「ほんと? ありがとう。じゃあこれにしよう」
半分ずつお金を出して、ひとつずつ分けて包んでもらう。ペアで梱包されていた外箱は渡部くんがもらってくれることになった。
冷房の効いた店内から外に出ると、むわっとした熱気が全身を襲ってきた。9月になって10日ほど経つけれど、まだ真夏と言っていいほど暑さは引かない。水族館のすぐ横は海で、海水浴の期間はもう終わっているもののまだ波打ち際で遊んでいる人がちらほらいる。
そういえば結局海にもプールにも行かなかったなあ、とふと思い出していると、渡部くんが砂浜に降りる階段に向かって歩き出した。
「海、行こうよ」
「え、でも」
「水に入らなければ大丈夫だよ。ね」
先に階段を降りはじめた渡部くんが、わたしにむかって手を差し出してきた。流れに乗せられるままにその手をとる。気温のせいだけじゃない熱さが指先から伝わってきて、動揺して転びそうになる。
砂浜に降りると、ざざ、という波の音がよく聞こえるようになった。天気がいいので海の向こうにある島までよく見える。砂浜を行き来する波の曲線を眺めて、お互いに何も話さずにただ時間がすぎていく。
今、何を考えているんだろう。
渡部くんは、わたしとふたりで遊んで楽しいと思ってくれているだろうか。あれこれと気をつかわせてしまっているのではないだろうか。
思考回路がネガティブに引っ張られそうになった時、ふふ、と隣から笑う吐息が聞こえた。
「なんにも話さなくても一緒にいられるって、なんかいいなあ」
「そう? 何か話したほうがいいのかなって思ってたんだけど」
「全然。 ただ一緒にいるだけで満たされてるよ、俺は。いつかそれだけじゃ足りなくなっちゃうんだろうけど」
人は欲張りになっていく生き物だからね。
静かにそう言って、渡部くんはまた黙って遠くを眺めていた。
欲しいものが手に入ったら、もっともっと欲しくなる。
誰かから想いを寄せられる心地よさだけじゃいつか足りなくなってしまう時が、わたしにもくるのだろうか。彼の何もかもを独り占めして、手放したくないと強く思う時が。
まだ、心のどこかで疑っている自分がいる。
言葉に紡ぐ「好き」なんて嘘でも言えるのだと。もちろん、いまだに渡部くんがわたしを騙しているのではと思っているわけじゃない。信じられないのは自分のことだ。
わたしがこの間口にした「好き」は本物だったのだろうか。
他人を疑い続ける過程で、自分の言葉にすら信頼をおけなくなった。本心からの言葉を言えているのか、ここで言うべきと選択しただけのセリフを読み上げているのか、わからない。
さっき買ったマグカップも、本当に自分が欲しいと思ったのか。お揃いにしていいと思ったのも事実なのか。そうしたほうがいいから言っただけだったりしないか。
「柳井さん?」
呼びかけられてはっとした。一度考え出すとそのループから抜けられなくなるのは、わたしの悪い癖だ。
「お腹もすいたし、そろそろ行こうか」
「そうだね」
今はいったん、考えるのをやめることにしよう。せっかくのデートなのだから、今のこの瞬間はとりあえず楽しむほうがいいはずだ。