無事に文化祭が終わり、正門に飾られていた文化祭の看板が撤去された。教室内も綺麗に片付けて掃除をし、備品を返却すると、すっかりいつもの光景だ。

「あっという間だったな」
「ほんとに。でも楽しかったな」

口々にみんながそう言いながら帰っていく。わたしはそれを見送りながら、教室の最終チェックをしていた。返却もれがないか、清掃はきちんと終わっているかをリストで確認しながら、教室内をぐるりとまわる。全てにチェックが入ったリストを生徒会室に提出して、玄関に向かう。靴を履き替えていると、後ろから呼び止められた。

「柳井さん。今、帰り?」
「うん。渡部くんも終わったの?」

アクセサリーは外しているものの、髪型にまだほんのりチャラ男成分が残った渡部くんがにっこり笑って頷いた。

「2組のお化け屋敷、大人気だったね」
「頑張ったかいがあったよ。4組も大盛況だったでしょ。チーズハットグ、おいしかった」
「火傷して作ったかいがあるね」

そう言って、渡部くんは自分の腕を差し出してきた。ぽつぽつと、油はねの赤い痕ができている。

「痛くないの?」
「全然。一つひとつは小さいし、一応冷やしてはおいたからさ。いやあ、なかなか大層な仕事だった」

自転車とってくるね、と言って駆け足で駐輪場へ向かう彼の背中をぼんやりと眺める。一緒に帰るのは確定事項になったようだ。
ごく当たりまえのように、自転車を押しながら隣に彼が並ぶ。帰宅する生徒の波から逃れるように、彼は駅と反対へと進路を変えた。最初に一緒に帰った日と同じだ。

「少し、時間をもらっていい?」
「もうとっくにそのつもりだったんでしょう」

見上げると、どこか緊張した横顔。わたしの言葉に何も反応せず、日が落ちはじめた街をゆっくり歩く。歩幅を合わせて同じ景色をしばらくの間、ただ黙って見つめていた。

土曜日の街を、いくつもの車やバスが流れていく。曖昧な夕焼けの色に染まった雲が、ゆっくりと東のほうへ揺蕩う。綺麗だな、と思った。

「……これで、最後にするね」
「え?」

交差点の赤信号で足を止めて、おもむろに渡部くんは話しはじめた。視線を上げると、わたしをまっすぐに見つめているその瞳とぶつかる。どっ、と心臓の拍動が乱れた。

「柳井さん、君のことが好きだよ。俺と付き合ってほしい」

3回目の告白だった。明確な答えを何も示さずに逃げているわたしを、捕まえては正面からぶつかってくる渡部くんが眩しくて、それが怖くてつらくなる。

「……どうして?」
「え?」
「どうして、そんなにわたしに好きって言ってくれるの?」

気がつくと、問い返していた。面食らったように、渡部くんの動きが停止する。

「今まで、ちゃんと話したこともなかったのに……渡部くんはけっこう有名人だから知っていたけど。いったいいつわたしのことを知って、好きになったの? 何がきっかけなの?」

それを聞かないと、怖くて返事なんてできない。いつまでも彼の言葉を信じることができない自分がおかしいことなんてわかっている。でも、不安で、怖くて仕方ない。
嘘だらけのわたしを好きになるなんて。

「自覚ないの? 柳井さんも、じゅうぶん有名人だよ。いつもにこにこしてて誰とでも分け隔てなく関わって、面倒事も率先して引き受けてくれるスーパーウーマン、って」
「……なに、それ」
「俺は、初めてその話を聞いたとき、周りにとって都合のいい人物像じゃないかって思ったんだ」

わたしが抱いた感想をそのまま言葉にされて、開きかけた口が動きを止めた。息を呑んで、彼の言葉の続きを待つ。

「自分に優しくしてくれる人。自分がやりたくないことを引き受けてくれる人。そりゃ感謝もしてるんだろうけど、高校生活のおいしいとこどりをしたいだけの人たちの身勝手な発言だなとしか思えなかった。だからそんなふうに言われている張本人のことをもっと知りたいと思ったんだ。選択科目が一緒の時とか、時々盗み見してた」
「……気づかなかった」
「こっそり見てたからね。確かにいつも優しげな表情で、いろんな人と話してて、きっと優しい子なんだろうなとは思ったけど――ごめん、ちょっと失礼なことを言うかもしれない」
「いいよ。率直な話が聞きたい」
「……笑顔が、違うなって思って」
「違う?」

聞き返してみたけれど、渡部くんが言いたいことはわかっている。
わたしの笑顔が本心からのものじゃないことを、彼はもう悟っているのだ。

「固いっていうか、ぎこちないっていうか。確かに笑ってるんだけど、本人の心が追いついてないような感じがして……そんなことなかったら、ほんとに申し訳ないんだけど」
「大丈夫だよ。間違ってない」

え、と息を呑むのは渡部くんの番だった。仮面を本物と偽るのはもう無理だ。いっそ話してしまったほうが楽になれる。それで幻滅されたって、どうでも構わない。
――嘘。本当は、それでも好きって言ってほしい。

「笑ってる自分が、本心なのか愛想なのか、もうわからないんだ。だからずっと笑ってる」
「……でも、今日、俺が2組に顔を出した時は本心だったよね?」
「あれは、看板がおかしくて――」
「あの時の笑顔みたいに、もっともっと君の本当の表情を見たいって思うんだ」

おこがましいかもしれないけど、と小さく付け足した渡部くんの指先がぎゅっと握られた。わずかにその拳が震えているのが見えて、胸の奥が苦しくなる。

「笑顔だけじゃなくて、もっと。いろんな感情が君の中で弾ける瞬間を、共有させてほしくてたまらないんだ」
「だけど、わたし……渡部くんにそう言ってもらえるような人間じゃないよ」
「どうして?」
「誰のことも信じられなくて、ずっとずっと疑って生きてるから」

本当は渡部くんの告白だって嬉しかった。信じたい気持ちだってあった。
素直に受け止められない自分に、誰かから好かれるような価値なんて本当にあるのだろうか。

「……それでもいいよ」
「渡部くんの告白すら、3回言われてやっと向き合えるようになったのに、それでもいいって言えるの」
「いい。むしろ、そんなふうに苦しんでいる柳井さんを放ってなんておけない。俺を柳井さんのそばに置いておいてよ。いつだってなんだって受け止めるから」
「なんで、そんなに……そんなふうに言い切れるの」
「今この瞬間に思っていること、言わなきゃ気持ちが死んじゃうでしょ。柳井さんも思っていることがあるなら言って。泣いても怒ってもいいから」

その言葉で、下瞼が決壊した。好き、と掠れた声はまるで自分のものじゃないみたいだった。

「渡部くんが好きって言ってくれて嬉しかった。そばにいてほしいって思うの。これが好きって気持ち、だよね」
「柳井さんがそう思うなら、それが正解だよ」

人が、車が行き来する街中で、馬鹿みたいにしゃくり上げた。声を出して泣いたのはいつぶりだろう。ずっと押し殺していた、言葉になれなかった感情がとめどなく溢れ出す。
泣きじゃくる顔を隠すように、渡部くんがわたしを抱き寄せた。背中をとんとんとあやすリズムで優しく叩かれて、だんだんとわたしの呼吸も落ち着いてきた。

「……ごめんね」
「いいって。俺、嬉しくてしょうがないから。でも今日は遅いし、さすがに帰ろうか」
「そうだね」

かすかに空の向こうに残った夕焼けの色を見送りながら、再び歩き出す。空の星がよく見えるようになった頃、駅に到着する。じゃあね、と小さく手を振って別れて駅の階段を上る。スマホがメッセージの着信を知らせるために震えたので取り出すと、渡部くんの名前が表示されていた。

《気をつけて帰ってね》

渡部くんもね、と返信して、改札へ向かう。心なしか、昨日までよりも足取りが軽く感じられた。