佐分さんの第一印象はというと、これといってない。
 強いて言うならば、電話で聞いた声と実物に、何となくギャップがあったことぐらいだ。
 いつから、彼に惹かれたのすら、よくは覚えていない。
 それなのに、佐分さんはあまりにも長い間、私の心に住み着いてしまった。
 出ていって!もう会えないくせに!
 どんなに言い聞かせても、かりそめの恋人が出来ても、佐分さんのことを一瞬でも思い出さない日はなかった。


 私たちの出会いは、三重県内にあるメンタルクリニックでのこと。
 壊れかけの心を抱いて、効果があるかどうかもわからぬまま、グループセラピーに参加していた私。
 それなのに、いつからか楽しいと感じるようになった。
 あまりにも単純な話だが、それはきっと、佐分さんに惹かれ始めていたから。
 最初に彼を意識し始めたのは、たぶん同い年だと知った時だろう。
「えっ…佐分さん、24歳なんですか!?」
「そうですよ。麻倉さんも同い年でしたよね」
「見えない…」
「あはは、昔から老けてるって言われますよ」
「ぞうじゃなくて、落ち着いてるなぁ…って」
「ありがとう。褒め言葉だと受け取っておきます」
 佐分さんは、いつだって優しかった。
 冷静に考えたら、それは単に仕事だからなのに。
 しかし、私が情緒不安定になると、釣られて不機嫌になるような、過去の男たちとは正反対の佐分さんに惹かれるのも無理はない。
 この人は、まだ若いのにダメな私のことも受け入れてくれる…そんな勝手な思い込みをしてしまった。
 グループセラピーというだけに、患者さんは他にも数人居たのだが、佐分さんも、やはり同い年ということもあって話しやすいと感じたのか、他の患者さん以上に近い距離で接してきた。
「あれ?髪型変えた?似合ってる」
「なんだか最近、凄くキラキラしてるよ」
 些細な変化も褒めてくれて、その度に嬉しくて…。
 私は私で、愚かにも下手な駆け引きもした。
 誰より早く病院に着いて、他の患者さんが来るまでの束の間、二人きりで話したかと思ったら、今度は無断で休んでみたり。
 前に一度、体調不良で休んだ時に、佐分さんが電話をくれたことに味をしめたのだ。
「麻倉さん。2回連続で休んだけど、体調よくないの?」
「うん、ちょっとね」
 実際は、特に変わりはなかったくせに、そんなことを言った。
「佐分さんが電話くれるとは思わなかったな」
 そんなもの、業務の一環だということを、私はきちんと理解していなかった。
 しかし、佐分さんだって悪いと思う。
「そりゃあ、麻倉さんのことが心配だから…」
 もし、もっとビジネスライクな言い方をされていたら、きっと私は佐分さんに惹かれたりしなかった。
 もともと、佐分さんは好みの顔というわけでもなければ、ましてや私はかなりの面食いである。
 それが、元々は好みの顔でもないのに、顔も声も全部好きになるなんてことが本当にあるのだと初めて知った。
 どこまであざといのかと自分でも呆れるが、セラピーでは、輪になって手を繋ぐことがあるので、佐分さんの隣りに居たら手を繋ぐこともできる。
 こんなの、ただの気持ち悪い女かもしれない。
 しかし、そう判っていても、あざとい言動をやめられなかった。
 そんな時、同じグループセラピーの中年女性が、
「私、佐分さんに告白しようと思うの」
 何故か私に向かってそう言った。
「いいんじゃないですか?独身同士なんだし」
 私は、気のない態度で返した。
「そう思う?私、佐分さんより15歳年上だけど、歳なんて関係ないよね!」
「頑張ってくださいね」
 内心、流石に15も年上の女性であれば、最初からライバルになんてならないと思っていたのもあるだろう。
 もし、彼女が美人で年齢も近かったなら、焦ったかもしれないが。
 案の定、翌週には呆気なく振られた旨を報告された。
「佐分さんって、ああ見えてかなり残酷なのよ!私が『立場上、付き合えないのはわかったけど、好意を持たれたことは嬉しかった?』って尋ねたら、ポーカーフェイスで『いいえ、全然』なんて言うの。やっぱり、佐分さんより、蒲池先生のほうがいいかなぁ。前に振られてるけどね」
 要は、彼女は病院という狭い世界の中で、若い独身の医師やスタッフに、次々恋心を抱いていただけらしい。
 それよりもっと愚かしいのは、私だ。
 自分が同じように告白していたら、佐分さんは断らないだろうと思っていたのだから。
 告白となるとまだハードルが高いので、共通の趣味であるミニシアターに誘おうと思っていた頃、突然、佐分さんの姿を見ることがなくなった。
 さり気なく、他のスタッフに尋ねてみたところ、
「ああ、佐分さんなら辞めたよ」
「え…?」
 そんなこと、何一つ聞いていなかった。
 もっとも、私に言わなければいけないようなことでもないのだが。
 もう会えないの…?
 結局は何も始まらないまま終わってしまったなんて。
 今はまだこんなに切ないけれど、いつか忘れられるはず…。
 そう信じて、新しい仕事も始めた。


 私の新しいバイト先は、人気のコーヒースタンドだった。
 慣れるまでの間は、お店が暇な時間帯に勤務させてもらうことに。
 お客さんの顔を見るのが苦手だし、接客はあまり向いていないかも…。
 そう思いつつも、何とか仕事に慣れ始めたある日のこと。
 目の前のお客さんの顔を見上げた瞬間、私は暫く思考停止状態になった。
 きっと、間抜けな顔で目の前のお客さんを見つめていたと思う。
 財布の中を見ていたお客さんも顔を上げると、あの頃と変わらない笑顔を向けてくれた。
「久しぶり。ここで働いてたんだね」
「ええ…。佐分さん、この近くの人だったの?」
「いや、たまたま近くを通っただけだよ。今は地元を離れてるから。麻倉さん、ここで頑張ってるんだね」
 話したいことならば、いくらでもある。それなのに、何故かうまく言葉が出てこない。
 もう、患者とスタッフという壁もなくなったのだから、アプローチしても構わないはず。
 ただ、自分からアプローチというものをしたことがなかったから、どうするべきか戸惑っていたら、佐分さんの後ろには次のお客さんも並んでいた。
 佐分さんは、後ろのお客さんに軽く謝ると、
「じゃあ、頑張ってね」
 そう言って店を出て行った。
「またのご来店、お待ちしています…!」
 その言葉は、マニュアルでも何でもなく、私の本音だった。


 しかし、その後、佐分さんは一度も店に現れることはなかった。
 今は地元を離れていると言ったが、何処へ行ったのだろう?
 何一つ、尋ねることが出来なかった。
 暫くして、私はまた体調不良が悪くなり、コーヒースタンドを辞めた。
 何もしないよりはマシだと、お金にならない内職をして日々を過ごした。
 ただ漫然と静養していたら、佐分さんのことを考えてしまうと思ったのだ。
 しかし、内職のような単純作業では、仕事をしながらでも考えてしまう。
 こんなことは初めてだった。
 私は、恋愛において、とても高飛車なところがある。
 自分が何もしなくても、相手から告白されて付き合い始めるので、好き放題言うだけ言って、思うようにならなければ別れたら済むだけのことだった。
 24年生きてきて、片想いなど一度もしたことがなかったから、ただ戸惑い苦しむだけ…。
 恋がこんなに苦しいものとは知らなかった。