この2年もの間に友達が2人も死んだ経験をした高校生はそういないと思う。私は自己治癒のための期間が欲しかったけど、高校の単位がそれを許してくれなかった。

 まず、中学3年生の時、親友の綾香(あやか)が死んだ。
 ――交通事故だった。昨日まで話していた親友が簡単に死ぬなんて信じられなかった。あと1ヶ月で入試だった。だから、悲しむ暇なんてあまり作らずに勉強を続けた。
 親友と一緒に入学すると約束していた高校に私は合格して、心にぽっかりと穴が空いたまま、今の高校に入学した。
 
 だけど、高校に進学して、もうひとり親友ができた。それが花菜(はな)だ。花菜との距離はあっという間に縮まり、私の傷ついてた心はあっという間に癒やされつつあることを感じた。クラスでは相変わらず、地味なほうだったけど、花菜といるときだけは、自分でも驚くくらい、明るく過ごせた。それだけ、花菜との相性は抜群だったし、何を言っても、何をしていても、楽しすぎた。
 
 花菜はギターがものすごく上手かった。だから、私は自然に花菜と一緒に軽音部に入ってベースを始めた。
 他愛のない花菜とのやり取りが楽しかった。

 だけど、花菜も死んだ。
 ――自殺だった。

 花菜との最後のやり取りは「詩音(しおん)、また明日ね」だった。

 その事実を知って、私は二週間学校を休んだ。長い時間、休んだつもりだったけど、気持ちは全然、癒えることはなくて、泣いてばかりだった。
 だけど、私の傷ついた心に対して、単位は冷たくて、待ってくれなかった。だから、仕方なく私は、ベッドに閉じこもっていたい気持ちを無視して、傷ついた心が癒えないまま、ほぼ、すべてを失ってしまったと言ってもいいくらいの状態で、我慢して、学校に通い続けた。
 私は頑張って花菜がいなくなって、つまらない学校生活を単位のためだけに過ごした。

 そうやって我慢して、やり過ごそうとしていたある日、私は声を失った。
 私が失声症になったのはそんな理由だった。




 2年生になり、今のクラスで私の声をしっかりと聞いたことがあるのは、1年生のときにクラスが一緒だった3人だけで、あまり仲がよくなかった女子二人と、男子の瑞希(みずき)だけだった。だから、私はこのクラスでは最初から、声が出ない人だって認識されていて、声が出ないイコール、つまらない人、またはとっつきにくい人だと思われているのか、腫れ物のように扱われている。

 1年生の時、花菜が死ぬ前までは、私はごく普通にクラスに馴染んでそれなりに学校生活を過ごしていた。花菜は冬休みに死んだ。冬休みを終え、最初の登校日に花菜は来なかった。
 そのまま、花菜と連絡が取れないまま、次の日を迎えた。その日、朝のホームルームで担任が唐突に花菜が退学になったことを告げた。
 クラスは騒然とした。前の日に学校の近くの駅で人身事故があり、それが花菜じゃないかと噂が立っていた。

 だから、花菜は自殺したのが隠されているんじゃないと言われている。真相は未だにわからない。ただ、花菜との連絡はできなくなり、花菜の電話番号に電話しても、ただ、虚しく機械的な解約のアナウンスが流れただけだった。

 花菜がいなくなる1ヶ月前くらいから、バンドの練習をしているとき、花菜は時折、気持ち悪いと言って、トイレに行っていた。きっと、その時から何かがおかしかったのかもしれない。
 私はそのとき、こんなことになるなんて思ってなかった。だから、花菜がなにか精神的に追い詰められていることに気づいてあげられなかったのかもしれない。
 
 だから、花菜は本当に自殺したと私は思っている。
 私はその事実を信じることができなかった。3日前に花菜とLINEでやり取りをしていたから、そんなことあるわけがないと思った。

 だって、週末にミルクティー飲みに行くって約束してたのに――。
 急すぎるよ、そんなの。
 自殺する素振りもなかったのに、と私は花菜が突然、私の前からいなくなった現実を受け入れられなかった。

 花菜がいない学校生活は私はなにもできなかった。入っていた軽音部も辞めて、クラスの中で誰かに話しかけられても、うまく会話をすることすらできなくなっていた。私から自然体が、たぶん消えてしまったんだと思う。

 だから、私は家に帰ってから、無心でベースをかき鳴らした。花菜と組んでいたバンドは簡単に空中分解した。低音が腹に響く。花菜のパンチがきいて、キレのいいギターソロをもう聴くことができないのかと思うと自然に涙が溢れてきて、胸の奥から暗闇が私を覆い尽くすような感覚がして、ベースを鳴らすのを止めた。
 
 その一週間後、私の声はほとんど出なくなった。




 2


 現代文の授業は退屈に過ぎていく。小太りのアラサー国語教師の塚原が夏目漱石のこころを解説している。

 ――こう言う時、窓際の席に当たってよかったと思う。
 窓越しに見えるグラウンドでは他のクラスがリレーをやっているのが見えた。空は突き抜けるほど青く、遠くに見える海岸線の先には、海が太陽で輝いているのが見えた。前から二列目のこの席になって、もうすぐ一ヶ月が経つ。

「Kは死んだ」
 前の席に座っている博(ひろ)がそう朗読し終わった。
 博はサッカー部でいつも調子に乗っているヤツだ。だから、休み時間、同じクラスのサッカー部が虫みたいに博の前へ集まる。博からはいつもワックスの油とリンゴを混ぜた香りがしている。

「あれ、次は?」と塚原はそう言って私を見ているのがわかった。

 一瞬でクラスが静まるのがわかった。動きを止め、一斉に私を見ている視線を感じる。
 私は声を出そうと咳払いをしたけど、「う、」と小さくて枯れた声しか出なかった。

 ――私だって、こんなんじゃなかったのに。なんなら、大勢の前で歌えたのに。
 ――伝えたくても塚原に伝えられないのがもどかしい。
 ――小さい声なら絞り出して、なんとか出せるのに。胃がキリッと締め付けられるような感覚に襲われた。

「つかっちゃん。いつも忘れんだから。声出せないんだから、ダメだよ。いじめちゃ」と教室の後ろの入口側から瑞希の大きな声が聞こえた。 
「あ、悪い。そうだった」
「そうだったじゃねーよ」
 瑞希は明らかに不機嫌そうな声でそう言っているのが後ろから聞こえた。
「じゃあ、次の人、読んで」
 塚原が瑞希を無視し、悪気がなさそうな単調な声でそう言った。そのあとすぐ、私の後ろに座っている女子のか細い声が聞こえ始めた。







 ようやく昼休みになり、私はいつものように屋上に出て、日陰に座り、出入り口の壁に寄りかかった。屋上から見える海は教室より少しだけ見える高さが変わっただけで、雄大で大きく、不気味に青かった。
 階段へ続く四角い出入り口のおかげでできている影の下で、いつものように朝、ローソンで買ったサンドイッチを食べ始めた。クラスの中でお昼ご飯を食べるのが苦痛だから、晴れた日は屋上に行って、食べることにしている。
 コンクリートの床に座りながら、熱くなったコンクリートで無駄に夏を感じる。雲一つない空から、太陽はジリジリとしていて、すぐに額は汗ばみ始めた。今日も屋上は誰もいない。

 ――当たり前だ。こんな暑い日にこんなところでご飯を食べようと誰も思わないだろう。みんなクーラーの下だ。
 ――きっと。

 惨めな気持ちが胸を締め付ける感覚がする。
 ――なんで、私、こんなことになったんだろう。って考えながら、さっきの塚原のそっけない態度や、クラス中からの冷たい視線を思い出した。

「バカだよな。塚原」
 ビクッと身体が反応して、手に持っている食べかけのサンドイッチを落としそうになった。そっと左側を向くと瑞希が立っていた。

「あちぃ」
 瑞希はそう言って、ワイシャツの裾をズボンから出した。そして、自分の胸ぐらを右手で掴み、ワイシャツを仰ぎながら、私の方へ歩き、そして、当たり前かのように私の隣に座った。さっきのお礼言わないと思って、私は声を出すために大きく咳払いをして、歌い始めのときみたいに息をすっと吸いこんだ。
 
「……あ……りがとう。……さっき」
 何も喉に突っかかっていないのに、何かが詰まっているような、いつもの嫌な声になった。そして、あり得ないほど小さい声量しか出なかった。

「ううん。全然。――あ、ごめん、サンドイッチ食べていいよ」
 瑞希は本当に気にしている素振りなんてなさそうに、そう答えて、左手に持っていたパンが入った袋を開けて、食べ始めた。相変わらず、優しいなって思ったし、あの頃は本当に何も考えずに、楽しいこと言うことできてたなって思うと、つらくなった。
 瑞希が手に持っているパンの袋にはマヨネーズパンと書いてあった。私も左手に持ったままだった食べかけのサンドイッチを一口食べた。

「なあ。そんな顔するなよ。詩音」
「……したくてし……てるわ……じゃない」
「こっちが悲しくなるだろ。――全く」
 瑞希は私のかすれて小さな声に合わせているかのように小さい声でそう言った。
「……めん」
 『ご』の音がでなかった。だけど、それでも十分伝わってるよねと思いながら、最後の一口になったサンドイッチを口の中に放り込んだ。そして、空いた左手で水が入ったペットボトルを持ち、右手でキャップを開け、一口飲んだ。

「こんなに暗い、お前を見たくないんだよ。俺は」
「……ほってお……てよ」
「ほっておけるわけないだろ。あんなに明るかったのに」
「……昔から、こ……な感……だよ。……私は」
「嘘つくなって」
 瑞希はため息を吐いた。そして、マヨネーズパンをまた一口食べた。

「はぁ。もうすぐ、夏休みなのにさ、そんな暗い顔するなよ。――去年はさ」
「もう……い……」
「――なんでもできそうな気がしたな。三人で」
 瑞希はそう言ったあと、マヨネーズパンを食べきった。







「詩音。声でなくなって何ヶ月経った?」
 夕方、駅前のスタバは静かで、電球色の明かりとオレンジ色の夕日が店内で混ざり合っていた。大好きなコーヒーの香りはテンションが上がるけど、気持ちは下を向いたままだった。

「はんと……」
 私はそう言ったあと、フラペチーノを一口、飲んだ。相変わらず、声はかすれて小声になり、たった4文字しか話していないのに、最後の『し』の音はほとんど消えていた。

「そっか。――辛いな」
 そう言って、瑞希はフラペチーノが入ったプラスチックのカップを手に取り、ストローを咥えた。

 誰かとこうやってカフェに入ったのも半年ぶりだ――。
 花菜が死んでから、私は学校に行くことができなくなった。1月は学校に行かないで、その間、誰とも話さなかった。フラペチーノを注文するとき、瑞希がまとめて注文してくれたから、私は声を発することなく、少しだけ気になっていたフラペチーノを飲むことができた。声が出なくなってから、やりたくてもできなかったことを、瑞希は簡単に叶えてくれた。

 2月になり、単位が厳しくて、このままだと留年すると担任から伝えられ、私は仕方なく学校に行くことにした。そして、久々にクラスでみんなに会ったとき、みんなが、私の声が出なくなったことにようやく気がついた。

「花菜が死んでからさ、こうやって話す機会、なんでもっと早く作らなかったんだろうって、最近、ずっと後悔してたんだ」
『へえ』と私は言おうとしたけど、それは言葉にならず、抜けた空気みたいなの音になった。

「――ごめん。悪かった。詩音に手を差し出すことができなくて」
「……違う……でしょ」と私はそう言ったあと、スマホをバッグから取り出し、LINEを起動した。

『関係ないよ これは私の問題だから、瑞希には関係ない 花菜が死んでみんな悲しいのは一緒だから だけど、私は未だにそのことを乗り越えることができていないだけだから』と私は打ち込み、瑞希に送信した。私はテーブルに置いてある自分のスマホを右手の人指し指でさしながら、「み……て」と瑞希に言った。
 瑞希はオッケーと言い、バッグからスマホを取り出し、スマホを見てくれた。

「なあ、詩音。みんな一緒じゃねぇよ。ひとりで抱え込むなよ」
「……も、う。いい」
 瑞希に謝られることも、声が出なくて、まともに話せないことも、なにもかも嫌になったから、もう、ここでふたりで話していても意味がないと思った。だから、私は立ち上がり、iPhoneをバッグに入れた。そして、飲みかけのフラペチーノが入ったカップと、バッグを持ち歩き始めた。

「待てよ。詩音。――おい」
 後ろで瑞希の弱々しい声が聞こえるけど、私はそれを無視して、出口に向かった。







「待てよ。詩音」
 ――しつこい、ほっておいてよ。
 目立つから、駅前の広場でこんなふうに追いかけてきてほしくないんだけど。

 だから、仕方なく立ち止まり、後ろを振り向いた。瑞希は私の前で立ち止まると同時に私に抱きついてきた。私の頭はあっという間に瑞希の首元に吸い寄せられた。
 瑞希はぎゅっと両手で私の背中を締め付けている。力が強くて、息が上手く肺に入らない――。

「――い……たい」
 私の声は息が抜けるだけのかすかな声量しかでなかった。
「――悪い」
 私の耳元で瑞希が囁いたあと、そっと私を離した。

 意味がわからない。
 ――そんなに私って可哀想なの? 
 ――こんなに。
 と思っているうちに鼻の奥が詰まる感覚を一気に感じ、そのあとすぐ、両目から涙が流れ始めた。止まる気配もなく、ただ、意味がわからない涙がたくさん流れる。

「――行こう」
 瑞希が私の左手を繋ぎ、ゆっくり歩き始めた。







 私は泣いたまま、瑞希に手を引かれ続けている。駅の自由通路を抜けて、反対側の出口から駅を出た。すれ違う何十人の人たちから視線を感じた。
 ――こういうとき、変な目で見るのは大人になっても変わらないんだと思った。

 駅の出口を出て、すぐ、海まで続く片側二車線の道を歩き続け、15分くらいで海に着いた。海では今日も何人ものサーファーが黒のウェットスーツを着て、サーフボードに捕まり、波に漂っている。私と瑞希は砂浜が一望できる2階建ての小さな展望台に登り、展望台のベンチに座った。
 海は教室から見たように変わらずキラキラとしていて、穏やかに見えた。

「――落ち着いた?」
 そう聞かれたから、私は頷いたそして、「……はげ……し……もり?」と私の声はところどころ途切れてしまった。
「はげ?」
 瑞希は言ったあと、弱く笑った。

「……違う」
 私は否定したあと、はげという言葉だけが頭の中に残り、思わず笑ってしまった。

「笑えるじゃん」
「…いやだ。……こんな……で笑いた……ない」
「仕方ないだろ。笑えるんだからさ」
 瑞希は右手を私の左手の上に重ねて、握った。
 
「なあ、俺が言いたかったのは、ひとりじゃないってことだよ」
「……一回、……バンド組……だくら……で……彼氏面しな……でよ」
「――俺はただ、三人でバンドやってたかっただけなんだよ」
 瑞希がそう言ったあと、弱い風が吹いた。風の所為で髪が唇に何度もあたった。

「なあ、明日か明後日、飯食いに行かない? 夏休み前最後の連休だし」
「……い……けど、おも……ろくな……かも」
「詩音は俺の隣にいてくれるだけでいいから、行こうぜ」
 思わず、瑞希を見ると、瑞希は微笑んでくれた。



 結局、行きに繋いだ手は、帰りはお互いに放して、お互いに黙ったまま、海から駅まで戻っている。すっかり、日が沈んでしまった住宅街は深いオレンジと、青色が混じった色をしていて、それがかただ、寂しかった。
 
「なあ」
「……に?」
「あのときの夢とか、急になくなっちゃって、俺の中でも心の整理ができてなかったんだ。それで臆病になって、声が出せるのに、肝心なこととか、そういうこと、詩音に言えなくて、悪かった」
「あや……で」
「ただ、詩音にごめんって伝えたい日なんだよ。今日は」
 私はそれに対して、何も答えないことにした。悪いのは瑞希じゃない。すべては声が出なくなった私が悪いし、花菜の近くにいたのに気付けなかった私が悪いんだ。
 それに夢はもう消えてしまったのはお互いさまでしょ。だから、そんな悲しい顔しないでほしい。そう思いながら、歩いていると、住宅街を抜け、駅前にたどり着いた。



 家に帰り、ご飯を食べ、自分の部屋のベッドに潜り込んだ。そして、去年、スリコで買ったお気に入りの白いヘッドホンを頭につけて、iPhoneと同期した。
 そして、ラジオアプリを立ち上げて、お気に入りから、『ファンロックアドベンチャー』をタップして聴き始めた。ベースを弾くことと、もうひとつやめられないことで、毎週金曜日にこれを聴くのが習慣になっている。
 
『六本木スタジオからお送りしているファンロックアドベンチャー。今夜のゲストはリセイさんです』
『はじめまして、リセイです』
 リセイって誰だろう――。私はヒットチャートの情報も、ほぼ見なくなっていたから、この女の人のことを知らなかった。
『いやー、若い! フレッシュだねぇ』
 ロハス北川は今週もハワイアンカフェの社長をやっていそうなくらい、低くて響く声、そして、明るいトーンでそんなことを言っている。
『はい、今年、高校生になりました』
 えっ。
『そうなんです。リセイちゃんはこないだまで、中学生だったんです。いやー、本当に衝撃的デビューで、”ジュゴンになりたい”はなんと、TikTokで1000万再生されたとのことで、本当に今、ホットなアーティストなんです。そんなリセイちゃんがファンアドに来てくれましたー。なんか、一言いってみて』
『ふふっ。え、どうしよう。イェイ、イェイ』
『ははは、可愛らしいイェイもらっちゃいましたー。ということで、さっそく聴いていただきましょうリセ――』

 思わず、そこで私は停止ボタンを押した。もう聴くのがつらかった――。
 私が声を失っている間に、私よりも年下の女の子がデビューしたことが、単純に衝撃だったし、声が出ない私は一体、今、何をやっているんだろうって、ものすごく虚しくなった。
 三人でデビューしようって言っていた夢はなんだったんだろう。あれは遊びだったのかな。いや、花菜がいなくなってから、その夢は簡単に消えてしまったんだ。

 悔しい、悔しい、悔しい――。

 ヘッドホンを外して、ベッドに叩きつけたあと、両手で髪をわしゃわしゃにしても気持ちはなにも晴れなかった。

 







「なあ、本当に花菜って死んだのかな」
 突然、瑞希はそれまでの雑談とは違う話題を出した。私は右手に持っているフォークを持ったまま、瑞希の表情をじっと見た。

 結局、私は瑞希にLINEで誘われるがまま、土曜日になった今日も瑞希と会い、お昼ご飯を食べている。声が出なくて話せない私は、一体、何をしているのだろうと思った。こんな私と居て瑞希は楽しいのかな。そんなことを考えながら、私は瑞希の一方的な話に頷きながら、パスタを食べていると、瑞希は急に変なことをいい始めて、私はまた動揺してしまった。

 去年の今頃はこの店で、花菜と二人でこうやってパスタを食べていた。その更に一年前は綾香と一緒にファミレスで受験勉強をしていた。そのときは私も普通に話すことができて、ゲラゲラとしょうもない話ばかりをして盛り上がった。だけど、その二人はもういない。
 
「――一応、ただの退学ってことになってるじゃん。先生は教えてくれなかったけど」
 瑞希はそう話を続けた。私は視線を自分の皿に下げ、巻き付きが中途半端になったパスタの残りをフォークで巻き付けた。そして、口に含んだあと、フォークをおき、水を一口飲んだ。

「花菜が死んだことになってるのって噂だろ。所詮。花菜が学校に来なくなった日に人身事故があっただろ。それがJKだったから、花菜が飛び込み自殺したんじゃないかって言われてるじゃん」
「……そ……だね」
「しかも、最初、花菜が来なくなったとき、先生はさ、花菜は入院してしばらく休むことになったって言ったよな」
 同意を求められたから、私は仕方なく、ゆっくりと頷いた。

「だけど、それがいつの間にうやむやにされて、退学することになったとだけ言われたじゃん。それで、理由聞いても、花菜の親から言わないようにしてくれって言われてるの一点張りで何も言ってくれなかったしさ。一言も花菜は死んだって先生は言ってないんだよ」
 私は聞いているだけなのが、我慢できずにiPhoneを取り出し、LINEの画面を起動した。

『だけど、連絡先だって全部、突然消えたじゃん。LINEも電話番号も』
 そう打ち込み、画面を瑞希に見せた。

「そうそう。消えたよな。――死んだから全て花菜の親によって、花菜の連絡先が消されたって考えるのが普通だろうけど、花菜が生きてて、俺たちの連絡を自ら断ったって考えることもできるよな」
『考えすぎ』
「うーん。もし花菜が死んだなら、仲が良かった友達。つまり、俺らくらいは葬式に参列できそうなもんじゃないの?」
『家族葬だったのかもしれないよ』
「それだったら、墓参りくらいさせてくれたっていいじゃん」
『所詮、私達は親からしたら他人だし、親がわざわざ私達にそこまで配慮してくれないんじゃない?』
「そんなに冷たい人なのかな。花菜の親は。――だから、本当は花菜は死んでないんじゃないかって俺は思うんだ」と瑞希が言ったあと、しばらくの沈黙が自然に生まれた。
 店内はボサノバ風のBGMと至るところのテーブルで話しているざわめきがしていた。時折、おばさんたちの大きな笑い声が響いた。私はその間にパスタを全部食べ終え、紙ナプキンで口を拭った。
 
「それにすぐに死んだなら、3学期中は花菜の席に菊の花くらい飾るだろ。普通。しかも死んだことをクラスに伝えるだろ。それがなかったじゃん。結局、花菜のことはうやむやになって、2年生になったら花菜は退学してることになってた」
「い……きて……る……かな。……花菜」
「花菜を探しに行こうよ。二人で」
 瑞希はそう言ったあと、ニコッとした表情をした。








 路線バスは時間通りに出発した。バスには数人しか乗っていなかったから、私と瑞希はバスの右後ろ側の二人がけのシートに座った。結局、声が出ないから、私から話すことなんてできないから、私は窓枠に頬杖をつき、外をぼんやりと眺めることにした。空には入道雲がもくもくと高く上がっていて、青と白のコントラストが明確になっていた。わずかに反射してガラスに映っている瑞希はスマホをいじっていて、スマホの画面には地図が映し出されていた。
 瑞希はただ、気心しれた仲間だけど、こんな距離感で男の子と座るのは初めてだった。左肩にわずかに触れる瑞希の肩は固く、しっかりとした筋肉がついているのが、軽く触れているだけでわかった。

 ――顔が熱い。
 きっと赤くなってるかもしれない。

「この辺かな」
 瑞希がスマホを見せてきた。私は瑞希からスマホを受け取り、地図に表示されたピンとストリートビューを確認した。ストリートビューで表示されたマンションは花菜のマンションだった。
「す……ごい」
「まあな。地図見るの得意だから。俺」
 そんなのはどうでもいいんだけど、と思いながら、私は瑞希にスマホを返した。

 花菜の家には1年生の夏休みのときに一度だけ行ったことがあった。そのとき、私と花菜は駅で待ち合わせをして、今乗っているバスに乗り、花菜の家まで行った。
 花菜の部屋にはリッケンバッカーの赤いエレキギターが置いてあった。リッケンバッカーはしっかりと磨き上げられていて、ボディーの赤色が深く見えた。花菜のおじさんが昔使っていたのを中学校のときにもらったって言っていた。学校に持ってきているギターは安物だけど、軽音部の卒業ライブにはこれ持っていこうかなとも言っていた。
 バスはショッピングセンターの前を通過し、どんどん駅から遠ざかっていく。

「なあ。もし、花菜が生きてたらどうする?」
「……ぶん……殴る」
「ウケる」
 瑞希は鼻から息を抜くように笑ってくれた。



 バスを降りると、バスはすぐに発車していった。二車線の道路の向かい側には、精密機械を作っている白い工場があった。その場所は特徴的だったから、覚えていた。その工場はやけに白くて、ガラス張りだから、やけに眩しく感じる。会社の正門の前には警備員のおじさんが暇そうに立っていた。
 会社の向かい側には住宅街が広がっていて、見覚えのある景色だった。バス停の横には誰が座るのかわからない木で出来た小さなベンチが車道ギリギリに置かれている。花菜の家から帰る時、花菜がバス停まで送ってくれて、そこのベンチ座ってよって、なぜか言われて、嫌だよ、車道近いしって言いながら、ふざけあい、ベンチの譲り合いをふたりでしたのを思い出した。

 私は左手を前に出し、指さした。そして、瑞希の顔を見た。
「オッケー。行こう」そう言って、瑞希は私の右手を握ぎった。
「え」と私は言ったつもりだけど、声は出ず、すーっと息が抜けた音がした。瑞希は私の反応には気にも止めていないようだった。
 そのまま、瑞希は歩き始め、私は瑞希に引っ張られるように歩き始めた。



「ここだ」と言って、瑞希は私の右手を離した。
 私はこのマンションに見覚えがあったから、ゆっくり頷いた。目の前には一年前に見たことがあるマンションのエントラスの前だった。ちょうど、10階以上あるマンションの影で日陰になっている。私は歩き始め、3つ目の一番奥にある玄関まで向かった。

 玄関を入ると少しひんやりとしていて、鉄筋コンクリートのツンとした匂いがした。ズラリと並んでいるアルミで出来たポストから、花菜の名字を見つけた。私はこれから先、何をするのかわからなくなった。振り向き、瑞希を見ると、瑞希はインターフォンに花菜の実家の部屋番号を入れていた。

「ま……」
「なに? どうした?」
 私はカバンからスマホを取り出して、LINEを起動した。
『やめてよ』と打ち込み、瑞希に見せた。
「え、なんで。直接、聞いたほうが早いだろ?」
『花菜の親に会ってどうするの?』
「話すんだよ。そして、聞くんだよ。花菜さんはどこですか? って」と瑞希がそう言ったあと、インターフォンの呼び出しボタンを押そうとしたから、私はとっさに瑞希の右腕をつかんだ。

「なんだよ――」
 瑞希がそう言ったあと、私に掴まれた右腕をおろした。






「『あなたたちに話すことは何もありません』ってどういうことだよ」
 瑞希がそう言ったけど、私は瑞希のことを無視して、通り過ぎる車をただ、ぼんやりと眺めていた。

 私たちは仕方なく、近くにあったマクドナルドに入り、窓際のカウンター席に二人で横並びに座っている。瑞希は大きくため息を吐いたあと、アイスコーヒーが入っている紙コップを右手に持ち、ストローを咥えて、飲みはじめた。
 窓に面したカウンターテーブルの上、私と瑞希の間にトレーが置いてあり、数枚の紙ナプキンの上に、Lサイズ分のポテトがトレーの中心に広げてある。私も右手で紙コップを手に持ち、ストローを咥えてオレンジジュースを吸った。
 吸った瞬間、酸味と甘味が口の中を支配した。マックの中は水槽みたいによく冷やされていて、私は余計に冷たさを感じ、おもわず身震いした。

「せっかくここまで来たのに」
 瑞希はそう言ったあと、右手に持っている紙コップをテーブルに置き、スマホを取り出して、スマホをいじり始めた。手に持っていた紙コップをテーブルに置き、左側にいる瑞希を無視して、右手で頬杖をつく。窓の外の道路は何台もの車が忙しく通り過ぎていった。

 さっき、インターフォン越しで花菜の母親らしき人と話をしたことを思い出す。冷たく、歓迎されていないような声だった。
「あー。やってらんな。――だけど、死んだなら、死んだって言いそうだよな。さっきの感じだと。――普通、死んでたら、家に上がらせてもらえて、花菜の仏壇に拝ませてくれるよな」
 瑞希は懲りずに独り言のように話し続けた。インターフォン越しで、『花菜さんは生きてますか』と瑞希が聞くと、『あなたたちに話すことは何もありません』と言われてインターフォンが切れた――。

「なあ、詩音。やっぱ、死んでるにしては、おかしくないか」
 瑞希は私が話せないからか、勝手に熱暴走してバグったスマホみたいに話し続けている。私は花菜のことを考えている。もし、生きているなら、どうして何も言わないで私たちの前から消えたのだろう。

「おいって」
 右肩をトントンとされた。右側を見ようと首を右に回した時、頬に何かが食い込むのを感じた。そのあと、瑞希が声を出して笑った。私も思わず、口角が上がってしまった。



 私たちはまたバスに乗り、駅前に帰ってきた。いつの間にか空は青からオレンジに変わっていた。入道雲が立ち込めていて、むっとするぐらい湿度も高くなってきた。このまま、今日は終わってしまえばいいと思った。だけど、瑞希はそうさせなかった。瑞希は私の手を繋いだ。そのまま駅に入り、反対側の海まで続く出入り口まで向かった。私は諦めて、瑞希に手を引かれたまま、瑞希の横を歩くことにした。
 また駅を出て、私たちは海に向かって歩き始めた。




10


 砂浜は土曜日の夕方だからか、割と多くの人たちがいた。レジャーシートをひき、座って海を眺めている家族やカップルばかりだった。海には何人ものサーファーがじっと波を待っていて、時折、波に乗ってサーフボードの上に乗っている人が見えた。
 普通、海に来たら、こんなテンションじゃないはずだし、声出して笑い合ったり、ふざけあったりするんだと思う。だけど、私と瑞希は黙ったまま、手を繋いで砂浜の上を黙々と歩いているだけだった。

 しばらく、こうやって砂浜の上を歩いたあと、瑞希がそろそろ座ろうかと言ったから、私はうん、と頷いた。私と瑞希は砂浜を離れ、舗装されている道に出た。
 アルミでできたモニュメントの横を通り過ぎると、ビーチと路地の間にある細長い広場に着いた。路地の向かい側にはテラスがついているカフェがあり、テラス席では何人かの人が酒を飲んでいるのが見えた。砂浜にはビーチハウスが立ち並んでいて、炭火の香りがした。
 広場にある木でできたベンチに私と瑞希は座った。海を見るとすでに太陽は3分の1くらい海に沈んでいて、オレンジの光がより眩しく感じた。

「なあ。詩音。――俺さ、詩音と花菜のバンドに入って救われたんだよ」
「……別に……うちらのところ……じゃなく…っても…よかった……じゃな……の」
「いや、この3ピースだったからよかったんだよ。マジで。――怪我したあと、男友達の中にいるの辛かったんだよ」
 波の大きな音がした。そのあとすぐに後ろで車が通った音もした。

「ドラムはちっちゃい時からずっとやってたから、楽しかったけどさ。急にサッカーできなくなっちゃったから、あの時、めちゃくちゃしんどかった」
 瑞希のプレーは見たことない。だけど、一年なのにスタメンで出ているのは学年中の噂になっているのは知っている。しかも、うちの学校のサッカー部は強くて、全国大会にもよく行ってるから、あまり、しっかりとは理解してないけど、結構すごいことなんだと思う。私は自分の心拍が少しだけ上がったのを感じた。
 私はとっさに右手を瑞希の左手の甲に重ねた。左手を重ねてすぐ、瑞希は私の方をじっと見てきた。瞳の奥に吸い込まれそうな感覚がした。

「だから、バンドの県大会で優勝できたとき、サッカーのこと完全に忘れちゃってたな。――それが、たった一ヶ月後に終わっちゃうなんてさ」
「今頃……ぜ……こく大会……行けてた……かもね」
「花菜もエントリーする気、満々だったからな。新曲書くって、ノリノリだったのにさ。――はぁ。なんで、もう7月なんだろうな」
 瑞希はわかりやすくため息を吐いた。
 
「……足、……よく……なった?」 
「医者が言うには、もう、リハビリもほぼ終わったし、運動してもいいとは言われてる」
「そ……なんだ」
「だけど、無理だろうな。――もう」と瑞希は、あー、と言って、左足をさすった。
 そして、そのあとすぐに、瑞希は私の右手を握った。手を繋いだまま、しばらく海を眺めていた。いつの間にか、夕日は海に完全に沈み切り、夜が始まろうとしていた。




11


 駅に向かっている。大人だったら、このままもう一度、このあとご飯に行くのかなと、ふと思った。帰り道も瑞希と手を繋いだままだった。まだ、瑞希とは曖昧な関係のままだけど、なぜかわからないけど、手を繋ぐことがもう、自然な感じがした。
 これが恋なのかわからない。いろんな事情が入り組んでいて、頭の中がぐちゃぐちゃで、整理できない。もし、これが恋だとしたら、素直に瑞希がサッカーしているところを見たいと思うのかもしれない。
 ユニフォーム姿で、人工芝のピッチの上を駆け回っている瑞希を一瞬、想像しようとしてみたけど、今の私じゃ、上手くいかなかった。

「なあ。うまく話せないって辛いことだよな。きっと。――ずっと俺ばかり話して、悪かったな」
「そ……んな。私の……ことなんて……気にしな……で」
 そう瑞希に返すと、瑞希はまた、すっとため息を吐いた。
「詩音。歌声聴きたいよ。久しぶりに」
「治す……ど…りょく……する」
「ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。――ただ、単純に聴きたいなって思っただけなんだよ。――ごめん」
 瑞希がそう言ったあと、さっきと同じような沈黙がまた流れ出した。

 たぶん、もしかしたら、二度と歌うこともできなくなるのかもしれない。声だって、このままで一生、治らなくて、言いたいこともまともに言えないのかもしれない。
 そして、いつまでも諦めた淡い夢ばかり後悔して、年下の人がステージで輝くのを指をくわえて見ているだけなのかもしれない。

 すでにこの沈黙は今日だけで数え切れないほどあった。きっと瑞希は一日中、すごく退屈だったんじゃないかと思った。これも全部、声が出ない私が全部悪いんだと思うと、急に胸がずっしり濡れたみたいに黒くて重い感覚がした。

 私は思わず、歩みを止め、立ち止まった。
 瑞希は数歩、歩いたあと私の右手に引っ張られるように止まった。私はうつむき、左手の親指と人差し指で目頭を押さえた。指はすぐに濡れて、吐いた息が熱くなっているのを感じた。

「――詩音?」
 瑞希はようやく私のことに気づいたみたいだ。――遅いよ。

「ご……めん」
「詩音。ごめん。俺が悪かった」
「ち……がう」
「いや、俺が無神経だった」
「ち……が……って!」
 大きな声を出したつもりだった。だけど、その声は強い空気が抜けた音と、ヒューズが飛んだアンプみたいな、かすれた音になった。瑞希は私の手を引き、路地との交差点の隅に移動した。私と瑞希の目の前を通り過ぎた何人かの人はこちらを見ながら、目の前を通り過ぎていった。きっと、別れる直前のカップルだと思われてるんだと私は思った。

 一向に私の涙は止まらない。
 ――なんでだろう。

 最近、こんなことなかったのに――。一番最後に思いっきり泣いたのは、中学3年生の冬、綾香が死んだときだった。そのときは自分の部屋のベッドの中で静かに泣いた。その次の日は、気を紛らすために受験勉強をした。そして、綾香と行くはずだったこの高校に受かった。
 この高校に通い始めて、よかったことはバンドで県大会に優勝したことくらいだ。

 私は瑞希と繋いでいた手を離し、黄色のポーチバッグから、ティッシュを取り出した。そして、鼻をかんで、バッグの中に使ったティッシュを入れた。
 瑞希は私の背中をさすってくれている。きっと、瑞希は戸惑っているに違いない。なんで、こんなところで、こんなタイミングで私は大泣きしているのだろう。惨めに感じると余計、涙が出てきた。

「か……えろ」そう返すと、瑞希は寂しそうに微笑んでくれた。




12


 両目はまだ熱を持っていて、腫れぼったく感じる。私が泣いている間に、辺りはすっかり暗くなってしまった。瑞希に手を引かれて、駅に着いた。瑞希はエスカレーターへはいかず、エレベーターの入口の方へ行った。瑞希がエレベーターの上りボタンを押した。

「なあ、詩音。――ずっと我慢してたんだな。きっと」
 私は何も反応を返さず、ただ、エレベーターが来ることに意識を向けた。そうしないと、また泣き出しちゃいそうな気がした。
 我慢なんてしてない。
 ――ただ、つらいだけだよ。と心の中で私はそう呟いた。

「――今日は俺に付き合ってくれてありがとう。無理させて悪かった」
「あや……まらな……で」
「悪い」
「だ……から」
「あ、謝ったこと謝るよ。悪い」と瑞希が言った直後、エレベーターの扉が開いた。
 エレベーターには杖をついたおばあさんが一人で乗っていた。おばあさんはゆっくりとした歩幅でエレベーターを降りた。




13

 エレベーターに乗り、改札階のボタンを押し、そして、閉じるボタンを押した。重そうな白い扉が閉まり、私と瑞希、ふたりきりの世界になった。エレベーターの空調は、冷たい風を真上から流していて、いつものように、エレベーターはゆっくりと昇っていく。
 帰ったら、またベースでキリンジとか、SHISHAMOとか、そのあたりを黙々と弾いてみようかな――。

 がたん。と音が鳴り、エレベーターが少しだけ縦に揺れて、電気が消えて薄暗くなった。
 ――え、なに。

 扉の窓は半分上からはフロアが見えていて、半分下はコンクリートの壁だった。明かりは上半分の窓から差し込む光しかなかった。
 私は隣に立っている瑞希を見た。瑞希はきょとんとした表情で私を見つめていた。急に怖くなって、私は思わず瑞希の右腕に抱きついた。身体がブルブルと震えている。
 瑞希の腕は筋肉質でかたく感じた。元々、かたいのかもしれないけど、今、瑞希はきっと無意識に腕に力が入っているのかもと思った。電気がついた。とっさに私は掴んでいた瑞希の右腕から離れた。
 そのあと、瑞希はふっと声を出して、弱く笑った。なんで笑うのって思ったけど、私もなぜか、おかしくなって少しだけ笑った。
 
「なあ。二人っきりだぜ。何する?」
 瑞希はそう言って、ニヤッとした表情をした。
 私は眉にシワをよせる表情を作り、右手の人差し指でボタンを指さした。

「そんなのわかってるよ」
 瑞希はそう言ったあと、開くボタンや、閉じるボタン、各階のボタンを一通り押した。ガチャガチャ何度もすべてのボタンを一通り押したけど、何も変わらなかった。

 ――このまま、閉じ込められるのかもと思うと、急に息が詰まるような感覚がした。
 息を吸っているのに吸った気になれない。

 私は何度も右腕を振り、非常通話ボタンを指さした。
 「人使い荒いな」そう言って、瑞希は非常通話ボタンを押し始めた。

 ――なんで、瑞希はこんなに冷静なんだろう。
 瑞希がしばらく非常通話ボタンを押し続けていると、外で警報がなっている音がし始め、電話の呼び出し音がなり始めた。

「――繋がらないな。こんなに時間かかるのかな」
「……だい……じょ……ぶだよね。……わた…たち」
「ダメだったら、ここで一生缶詰になろう」と瑞希が言った直後、急に呼び出し音が切れた。
 
『こちら、管理会社です。非常通知受けて、通話しています。どうしましたか?』とスピーカーから女性のオペレーターの声が聞こえた。
「閉じ込められました」
『ご不便おかけして申し訳ございません』とオペレーターは続けた。

 ――ご不便? 
 私はこの状況が不便なのかどうかわからなくなった。そのあと、瑞希はオペレーターに名前や、乗っている人数、具合が悪くないかなど一通り聞かれた質問に答えた。30分後に修理の人が到着すると言われ、外との通話は切れた。

「――切れたよ」
 瑞希はため息を吐いた。私は急に力が抜け、そのまま、床に座った。両足を投げ出し、後ろに両手をついて、天井を眺めた。床は少しひんやりとしていて少し気持ちよく感じる。

「なあ。たまに思うんだよ。もし、あの時、怪我していればどうなっていたんだろうって。――もし、あのワンプレーを上手く避けれたらこんなことにならなかったんだろうなって」
 瑞希はそう言いながら、私の隣に座った。瑞希は私と同じように足を投げ出し、両手を後ろにつき、天井を眺めるような体勢になった。
 
「……いま……は?」
 私は瑞希の方を見て、そう聞いてみた。
「おんなじ気分。あの時、エレベーターなんか乗らなきゃよかった」と瑞希はそう言ったあと、また笑った。

「ふふっ」
 私は思わず瑞希につられて笑った。
 横にいる瑞希の方を見た。瑞希はなぜか驚いた顔になっている。

 ――え。
 笑ったことが気に触ったのかな。それとも――。


「詩音。今、お前――」
「えっ?」
「ほら、やっぱり」
 瑞希は驚いた表情のまま、ずっと私のことを見つめている。瑞希の瞳はキラキラしていて、このまま見つめられると吸い込まれそうな気がした。
「――声、出してみろよ。もう一回」
 そう言われて、私は、はっとした。

「ホントだ」
 ――かすれてない。

「――声」
 私の声――。

「出てるよ。詩音!」
 瑞希はそう言った直後、瑞希に思いっきり抱きつかれた。
「本当だ。私――話せてる」
「ああ。マジかよ。詩音」
 私は力が抜けて、瑞希に寄りかかり、瑞希の肩に顔を埋うずめた。力の抜けた私を瑞希はしっかりと支えてくれているのがわかる。胸がぐっと痛むような感覚が急にしたあと、すぐに両目から涙があふれる感覚がした。
「――久々に聞いたよ。詩音の声」
 瑞希は私の耳元で囁いたあと、私の頭を撫でてくれた。




14


 駅前のファミレスは夕食時でバタバタしていた。私と瑞希はドリンクバーだけ頼んで、窓側の席に座っている。窓の外では多くの人が駅に向かって歩いているのが見えた。すっかり、日は沈んでしまい、夜が始まっている。

「やっぱり、俺、詩音のこと、好きだわ。付き合って」
 瑞希が急に真剣な声でそう言った。私は、はっとした。
 
 今、告白された? もしかして。
「――ごめん」
 私は咄嗟とっさに謝った。
「えっ」
 瑞希は驚いた表情のまま、私を見つづけていた。

「――今はまだ、心の整理がいろいろ出来てないから無理。――声治ったばかりだし、いろいろ頭の中、ぐちゃぐちゃしてる」
「――そっか。そうだよな」
 瑞希は息を吐いたあと、右手でグラスを持った。グラスの中にはコーラが入っていて、炭酸の泡がグラスの縁でプチプチしているのが見えた。

「ごめん。だけど、瑞希のこと嫌いとかじゃないよ。――今日、いろいろありすぎたから。瑞希だって、私を好きになったの一時的なものかもよ」
「いや、俺はずっと詩音のこと、気にしてたよ。――今更って思われるかもしれないけど、ずっと気がかりだった」
 瑞希はグラスを口に持っていき、コーラを一口飲んで、グラスをテーブルに置いた。
「それって、同情?」
「違うよ」
「じゃあ、なんでもっと早く、二人で話す時間作ってくれなかったの?」
 自分でもなんでこんなこと言ってしまったのか、わからないけど、思わずそう聞いてしまった。そして、すぐに自分で気がついた。私はずっと寂しかったのかもしれない――。

「――それは、そっとしといた方がいいと思ったからだよ」
 瑞希はため息を吐いた。
 ――まただ。またため息をつかれた。
 瑞希はそのまま右手で頬杖をつき、窓の外を眺め始めた。

「ねえ」
「なに?」
「私、寂しかったのかもしれない」
「花菜がいなくなったからか?」
「ううん。あ、それもあるけど、――誰とも、話せなくなって、寂しかっただと思う。エレベーターにずっと閉じ込められてるみたいに」
「そっか。それ、わかりやすいかも。さっき閉じ込められたから」
「――だから、もっと、早く、瑞希と話したかった」
「ごめん。――俺が悪かった」
 瑞希は私の方を見ずにそう言った。せっかく話せるようになったのに、瑞希のごめんを聞いて、一方的に瑞希のこと責めすぎたかもって、少し後悔した。
 ――甘えすぎたのかも。

 こんな私なのに、優しく一緒に居てくれている瑞希のことを、これ以上、責めたらダメだ。
 ――今は、切り替えよう。

「ねえ。なんだっけ。エレベーターとかで閉じ込められたら、恋しちゃうやつ」
「えーっと。吊り橋効果?」
「そう、それ。今の私たち、きっとそれだよ。――だから、それが覚めたとき、また考えよう」
「――わかった。疲れたな。今日」と瑞希はぶっきらぼうにそう言った。
 いろいろ私って最悪だ。って、私は思った。





15


 私の机の上に私と瑞希が手を繋いでいる写真が置いてあった。窓側を陣取っている里佳(りか)、成美(なみ)、桃果(ももか)の方を見ると明らかに私を見て笑っていた。

 ――あいつらか。
 だけど、私は別にそれ以上の感情はなぜか、わかなかった。私は手元に視線を戻し、写真をまじまじと見た。
 私が泣いたあと駅前まで歩いているところだ。その5分後くらいに、私と瑞希は40分くらいエレベーターに閉じ込められることになる。

「ねえ」
 前の方から里佳の声がした。顔をあげると、里佳が目の前に立っていた。その後ろには成美と桃果も立っていた。三人とも気持ち悪いくらいニヤニヤしている。

「土曜日、楽しかった?」
 里佳はニヤニヤした顔でそう言った。私は黙ったまま、何も答えないことにした。

「無視かよ。あ、ごめん、てか、声でないんだったね。忘れてたー。話せないのに瑞希に手だすとか、まじでヤリ手だね」
 ――ムカつく。まだ付き合ってないのに。
「あ、ごめんね、そんなこと言うつもりなかったんだ。悪いこと言ったね、ブス」
「里佳、ウケる」
 成美がそう言うと、三人は耳がキーンとするくらい大きな声で笑った。写真を持っている両手にすごい力が入った。気づいたら、手はプルプルと震えていた。
「あんたさ、瑞希と釣り合ってないから、これ以上はやめたら? これ以上、付き合ったら大変なことになるよ?」と里佳はそう言って、ニヤッとした表情をした。

「止めといたほうがいいよ。里佳、マジだから」
 成美が楽しそうな顔をしてそう言ったあと、朝のホームルームが始まるチャイムが鳴った。それと合わせて、教室に瑞希が滑り込んでくるのが見えた。

「あぶねぇ」
 瑞希が自分の席に向かっていた。みんな瑞希のことを見ているけど、瑞希はきっとその理由にまだ気づいていないだと思う。バカ瑞希――。
「じゃあねー」
 桃果がそう言ったあと、三人はそれぞれ自分の席に戻っていった。




16


 昼休みになり、いつものように昼ご飯を食べるために屋上まで上がった。いつもの日陰に座ると、床のコンクリートからジリジリと熱を感じた。手に持っていたビニール袋からコンビニで買ったサンドイッチを取り出し、包装を開け、サンドイッチを食べ始めた。
 朝のこと以外は、ここまでは何も起きなかった。ただ、瑞希の様子はいつもと違った。いつもは休み時間になると教室のなかで何人かの一軍男子と話しているのに、今日は特に仲のいい博と二人で休み時間になるたびにどこかへ行っていた。
 何度もサンドイッチを噛むときゅうりがごりごりと口のなかで音を立てた。

「あちぃ」
 声がしたほうを見ると瑞希が立っていた。そして、瑞希はこないだと同じように私の隣に座った。私は瑞希を無視してサンドイッチを食べ続けた。呑気なその感じを見ただけでも、腹が立ってきた。

「声はどう?」と聞かれたから、私はうん、と頷いた。
「いや、声だせよ」
「――癖で頷いちゃった」
「お、よかった。本当に治ってるじゃん」
 瑞希はそう言ったあと、よいしょと言って、だるそうに私の隣に座った。

「なあ、詩音。声出せるようになったのに今日もクラスでは黙り続けるのか?」
「――だって、そういうキャラでしょ」
「いや、キャラとかじゃねぇよ。声が出せなかったのは仕方なかっただろ。お前はもっと、素直じゃなくて、へそ曲がりで、それでいて可愛いくて優しいから、ギャップがあるキャラだろ。ったく」
 瑞希はそう言いながら、手に持っていたマヨネーズパンの袋をあけた。こんなの褒められてるんだか、けなされてるんだかよくわからないじゃん。

「だけど、今は話せなくて、かわいそうで不気味なヤツだと思われているんだよ。私。だから、今、いきなりキャラ変したら、みんなびっくりして、引いちゃうでしょ」
「お前、相変わらず思い込み激しいよな」
「私の勝手でしょ」
 瑞希の無神経さにイライラしながら、私はサンドイッチを一口、食べた。
 
「なあ、付き合ってよ。もういいだろ?」
「私と付き合ってどうするの?」
「どうするって、そりゃあ――」
 瑞希はマヨネーズパンを食べ始めた。今日も快晴だから、海が輝いていた。穏やかな昼だ。私の憂鬱さは胸に残ったままで、このまま面倒なことになる未来をどうすればいいのか、わからなかった。

「たくさん、楽しい思い出作りたい」
「――なかなか良いこと言うね」
 思いがけず、素直な返事だったから、その差で急に照れくさくなった。だけど、よく考えたら、あの写真の所為で私は変なことに巻き込まれそうになっていることを思い出して、その照れは私のなかですぐに消えてしまった。

「急にそう言われると、なんか、照れるな」
 瑞希は、手に持っていたペットボトルの蓋をあけて、水を飲みはじめた。ペットボトルはついさっきまで、自販機のなかにあったのか、涼しそうに濡れていた。

「ねえ」
「なんだよ」
「私、今日からいじめ受けてるんだけど」
「え、なにそれ」
「え、知らないの?」
「え、だから、なにそれ」
 瑞希は本当に何もわかってなさそうだった。私はベストのポケットから、私と瑞希が手を繋いでいる写真を出して、瑞希に渡した。

「お、マジか。仲良さそうだな。俺たち」
「そうじゃないでしょ。撮られたんだよ。――朝、里佳に別れろって言われたんだけど」
「あー、あいつらか。なんだ」
「え、いつもツルるんでて、仲良しでしょ?」
 私はサンドイッチをもう一口食べた。なんかよくわからないけど、ムシャクシャする。
 
「別に仲良くはないよ。ツルんでるだけだし。なんか、今日、毎時間のように博に連れ出されてるなと思ったらこんなことか」
「こんなことか。じゃないよ。私、やばいんだけど」
「悪い」
 瑞希は悪気が無さそうな声でそう返事した。瑞希のその素っ気なさに私は腹が立った。

「ねえ。私の上靴に、がびょう入れられたり、私の机の上に菊の花飾ってあったら、なんとかしてくれるの?」
「え、なんで。俺、まだ、彼氏じゃないのに?」
 瑞希を睨むと、瑞希はニヤニヤとした表情をしていた。本当に何なんだよ、こいつ。

「は? 最低。話にならない」
「嘘だよ。ごめん。冗談」
「は? マジでふざけないでくれる? わりとムカついてるんだけど」
「ごめん。――マジな話、なんとかするよ。心当たりはあるから」
「心当たり?」
「あぁ、こうなった理由」
「へえ」
 私がそう言い終わると、しばらく、お互いに黙ったままパンを食べ進めた。
 私のサンドイッチは怒りであっという間になくなった。
 そういえば、普通に話しているけど、誰かと口喧嘩すること自体久しぶりだった。こうやって腹を立てても、相手に訴える手段もなかった。なのに、今、こうやって、瑞希に腹を立てて言えることが不思議だった。そう考えていたら、さっきイライラしたことも少し収まっていることに気がついた。

「なあ、詩音」
 瑞希はそう言って、私の右手を握ってきた。瑞希を見ると、なにか言いたげな表情をしていた。





17


 バチンときれいな音が教室中に響き渡った。私の平手は瑞希の頬にしっかりと当たった。右手がじーんと少ししびれて痒くなり始めていた。
 教室中が一気に静まり返った。

「俺が悪かったよ。詩音。許してくれ」
 私は瑞希が一体、何に対して、謝っているのかわからなくて、思わず笑いそうになったけど、それをぐっと我慢した。そのあと私は瑞希のことを無視するふりをして、首を二回横に振り自分の席へと歩き始めた。そのあと、一軍男子が一斉に笑いはじめた。

「瑞希。ドンマイ! 派手にふられてやんの」
 博が心から楽しんでいるような声でそう言っているのが聞こえた。
「瑞希。非リアの世界へお帰り! ぎゃはは」と博に続いて一軍男子の誰かが茶々をいれた。
 私は自分の席にむかいながら、里佳たちのほうを見た。里佳と成美、桃果は驚いた表情をして私を見ていた。





18


「いや、マジでいてぇよ。鼓膜破れるかと思った」
「ごめん」
 私は奥にある噴水を眺めながらそう返した。公園の広場にはいろんな人たちが歩いていた。木陰にある磨かれた石のベンチは少しだけひんやりとしていた。時折、風が吹き、葉が擦れる音がした。
 学校が終わってから、昼休みに瑞希に言われた通り、ここの公園で瑞希と待ち合わせた。二十分後に瑞希がここに来た。瑞希は両手にコーラの缶を持っていた。

「これで大丈夫でしょ」
「――ありがとう」
「乾杯しようぜ」
 瑞希はそう言って、コーラを渡してくれた。私はプルリングを引っ張り、コーラを開けた。開けた瞬間、爽やかな音がした。瑞希が私の手元に缶を寄せてきたから、私は右手で持っている缶をそのまま、瑞希の缶にそっと当てた。
 コーラを口に含むと、一瞬で口の中がフレーバーに包まれた。コーラを飲み込んだあと、私はため息をついた。

「ねえ。博は知ってたの? もしかして」
「もちろん。俺のマブダチだからね」
「さすがだね」
「あぁ。みんないいリアクションだった」
 瑞希は満足げな声色でそう言って、コーラを飲んだ。
「ねえ」
「なに。詩音」
「殴ったらすっきりした」
「おいおい。ドSだな」
「なんか、いろいろ、どうでもよくなった」
「どうでもってなにが?」
「昔のこと」
「ふーん。そっか」
「素っ気ないね」
「ねえ。心当たりあるって、お昼、言ってたでしょ。あれってなに?」
 瑞希に聞くと瑞希は黙ったままだった。

「ねえ」
 私はもう一度、瑞希に催促した。

「あ、悪い。それ、勘違いだったわ」
「は? なにそれ」
「よくあるじゃん。記憶違いとか、憶測がいきすぎたやつ」
「隠さないでよ」
「隠してないって。気にするな。――それより、花菜だよ」
「――もう、いいんじゃない。花菜。私、花菜が生きてたとしても」
「よくない」
 瑞希はきっぱりとした声を出した。鳥がどこかから羽ばたいた音がした。きっと、後ろにある木のどこかから飛びだったのだろう。そのあと、また、風がぶわーっと吹いて、私の前髪が少し乱れた。

「なあ。俺たちは、前に進むんじゃなかったのか」
「――そうだけど、花菜はいなくなったじゃん」
「花菜なしじゃ、前に進めないんだよ。俺たちは」
「だったらどうするの?」
「花菜が生きているなら、探し続ける。それだけのことだよ」
 瑞希はそう言ったあと、コーラを口につけて思いっきり上を向いた。



19

「おーい!」
 誰かが大きな声で、誰かが呼んでいる。声の方を見ると、サッカーコートがあり、奥のゴール前に3人くらいの人がいた。呼んでいる人は、たぶん、その中のひとりだ。
「なんだ。あいつらか」
 瑞希はそう言って、手を振った。

「知り合い?」
「あぁ、村雨だわ。ライバルだったやつ」
 瑞希はそう言って、私の手を繋いだまま、サッカーコートに近づいていった。サッカーコートはしっかりとした人工芝がひかれている。きっとこの人たちが借りているのだろう。
 サッカーコートに入ると、3人組は同じ高校生だった。まだ表情があどけないけど、体格はしっかりしていた。瑞希と同じように体つきはとてもよかった。ユニフォームには別の高校の名前が入っていた。

「やっぱ、そうじゃん。森岡じゃん」と3人組の中のひとりが瑞希の名字を呼んだ。
「お前ら、自主練?」
「あぁ。再来週から全国大会だけど、今日、オフだから自主練」
「おぉ。やるじゃん。今年もうちの学校とやったんだっけ?」
「やったけど、弱かったわ。今年」と真ん中に立っていて、一番長身の人がそう言った。
「武隈さん抜けてから、弱いんだ。うち」
「いや、お前が一番の原因だろ。復帰しないのか?」
「今はなんも考えてない」
 瑞希はきっぱりとそう言い切った。
 
「なあ、マッチアップやらね?」
「いや、やめとくよ。俺、足洗ってるからさ」
「頼むよ。――お前とやりたいんだ。俺が今、どれだけ上達して、お前より実力がついたか」
 村雨はニヤニヤしながらそう言った。なんでこの人、ニヤニヤしてるんだろう。

「ずいぶん、上から目線だな」
「俺は毎日、練習してる。だけど、お前はしてない。ちょっと前まで敵かなわなかった相手に勝ったら、俺の努力は本物だったってことになるだろ」 
「――わかった」
 瑞希はそう言って、持っていたバッグを私に渡してきた。



20

「――スニーカーで大丈夫なの?」
「あいつらなんて、スパイクなくたって、大丈夫。全然、余裕」
「え、危ないよ。やめときなよ」
「やめるわけないだろ。――ムカつく」
 瑞希はそう言いながら、両足を念入りにストレッチしている。私はプラスチックの青いベンチに座り、制服のままの瑞希を眺めていた。
「それに、体育のサッカーでスパイクなんか使わないだろ。だから、このコンバースで余裕」
 瑞希は左足を上げて、私に足元を見せびらかすような仕草をした。ハイカットの赤のコンバースで妙に目立って見えた。

「あいつ、あのムカつくヤツ。村雨は一高のへなちょこミッドフィルダー。中学の時からずっとあんな調子で俺を見かけたらちょっかい出してくるんだ」
「――こっちは怪我で引退しているんだよ」
「いいよ。引退もなにも関係ない。――引退した俺がアイツのことけちょんけちょんにして、調子乗ってる根性、叩き直してやる」
 瑞希は、バッグから水を取り出して、ぐびっと音を立てて飲んだ。
 
「ここで怪我しても私、担げないからね」
「そのときは救急車、呼んで」
 瑞希はそう言い残して、小走りでピッチへ向かった。




21

 瑞希と村雨がセンターラインに立った。そのあと、何かを話したあとじゃんけんをした。瑞希がパーを出して、村雨に勝った。

「詩音ー。二本勝負だってー。応援してちょ!」
 瑞希は右腕を前に突き出して、ピースサインをした。たぶん、ピースじゃなくて、二本勝負であることを指立て示しただけかもしれない。――ややこしい男だ。
 
 ゴール前には村雨の仲間のゴールキーパーが立っていた。
 瑞希の向かいに村雨が立っていた。二人の間にボールがあり、最初に瑞希がボールを弱く蹴り、村雨にボールを渡した。村雨はすぐに慣れた仕草で瑞希にボールを返した。
 そのあと、すぐに瑞希はボールを右側に蹴り出すと二人の動きは急に俊敏になった。瑞希はボールをまたぎ、両足で不規則なリズムを取って、素早く身体を振っている。遠くから見ていても、瑞希がどっちの方向にボールを蹴るのかよくわからないくらい、何度もステップをしている。
 村雨も瑞希の予測できない軽いリズムのステップに瞬時に身体を反応させて、左右小刻みに身体を振って、瑞希をゴール側に行かせないようにしていた。村雨が左側に一瞬重心が乗りすぎたのがわかった。そうわかったのとほぼ同時に瑞希は右側へボールを外へ出し、思いっきり走り始めた。
 村雨も体勢を左側に崩しながら、瑞希を追うように走り始めた。そして、上手く抜けたボールに瑞希が追いついたあと、ドンと大きな音がした。
 ボールは一気に早くなり、気がついたら、キーパーが左側に飛んでいた。

 ボールはゴールの左上の枠にあたり、ゴールに入った。

「いえーい!」
 瑞希は私の方に駆け寄ってきた。瑞希は私に両手を前に出した。
「すごい!」
 私は瑞希にハイタッチした。ガッツポーズをしながら、瑞希は駆け足でそのままピッチに戻っていった。村雨はゴール手前の白線のところで、寝転がって頭を抱えていた。



22

 村雨が蹴ったボールはふわっと浮いて、ゴールに入った。かがんだキーパーの真上をボールがきれいに通り抜けていったゴールだった。瑞希は村雨のシュート直前で、スライディングをするように、足を地面ギリギリのところに出して、ボールに触ろうとしたけど、届かなかったように見えた。
 結局、瑞希は村雨に二本のシュートを決められた。
 
「森岡瑞希。県内ナンバーワンミッドフィルダーだった男って、今はこんなもんなんだ」
 村雨が大きな声があたりに響いた。瑞希はピッチに座り込んだまま、肩で息をしていた。
「俺は、お前に負けないように毎日、練習してきたんだ。なのに、お前はさ、去年の全国総体で怪我したあとから、何もやらなかったのかよ」
「――なんも、やってなかったわけじゃねーよ。――ただ、サッカーはやらなかっただけだ」
 瑞希が言ったあと、村雨は瑞希の前まで行き、かがんだあと、瑞希の胸ぐらをつかんだ。

 ――え、ちょっと。
 私は思わず、二人の方へ駆け寄った。ゴール脇でマッチアップの様子を見ていた村雨の仲間と、ゴールキーパーも駆け寄っているのが見えた。
「お前、もう一回、サッカーやれよ。怪我はもう大丈夫なんだろ。なに、ビビってるんだよ」
 村雨は瑞希の胸ぐらをつかんだままで、村雨の低い声が響き渡った。
「――ビビってねーよ。別に」
 瑞希はそっぽを向いたままぼそっとそう言った。
「じゃあ、やれ。11月の選手権予選で待ってるからな」
 村雨は小さな声で、ぼそっとそう言ったあと、瑞希から手を離した。



23

 私と瑞希は黙ったまま、駅に向かって歩いている。
 まるで、先週の土曜日に巻き戻ったみたいに二人とも黙ったままだった。

「ねえ」
「なんだよ。ダサかっただろ。俺」
「カッコよかったよ」
「どこがだよ」
「動きが」
「だせぇよ。――あいつ、確かに上手くなってたな」
「そうなんだ」
「うん。フェイント読めなくなってた」と瑞希はポツリとそう言った。

「それに少しだけ頭がよくなってた」
「頭?」
「あぁ。サッカーの勘。――相手を見る勘がよくなってた」
「一年間、動いてなかったようには見えなかったよ」
「詩音に言われたって、嬉しくないよ」
「――ごめん」
 そのまま、会話が終わり、気まずいまま、瑞希と私は駅で別れた。



24

 今日も屋上は暑い。私はいつもの日陰に座り、朝、コンビニで買ったサンドイッチを開けた。今日は平和だった。上靴にがびょうは入っていなかったし、菊の花が机に飾られていることも、机が荒らされることもなかった。そして、里佳たちにも話しかけられなかった。
 きっと、関心が移ったんだ。あいつらは単細胞な頭だから、風と一緒で気分も移り変わりやすいんだ。
 ――きっと。
 ため息をふっと吐いた。

 瑞希は今日、学校に来なかった。担任は体調不良って言ってた。そしたら、一軍男子は瑞希は振られたから傷心してまーす。って言って、クラスが湧いていた。
 私は一時間目が始まる前に瑞希にLINEを送ったけど、まだ、返事が来てなかった。私はベストのボケットに入れていたiPhoneを取り出し、LINEを起動した。
 そして、瑞希とのトークを開いて、『学校サボるな』って私が送ったメッセージが未読のままなのを確認した。
 ――バカ、瑞希。
 私は急に寂しくなって、立ち上がって、辺りを見渡してみたけど、太陽で白く反射しているコンクリートと、白い柵しかなかった。その奥には、空に浮かぶマシュマロみたいな雲と、遠くの海、そして、学校の周りに広がる住宅街が、私が今、一人きりだってことを冷たく突き出しているみたいに思えた。



 今日もあっけなく、学校が終わった。これで夏休みまであと3日になった。私はすぐにiPhoneを取り出して、通知を確認したけど、瑞希からのメッセージはなかった。私は軽音部を辞めてから、学校が終わったら誰よりも早く帰るようにしている。だから、今日もさっさと準備を済ませて、すぐに教室を出た。

 ――バカ瑞希。
 急に寂しくなったけど、その寂しさを言いあえる人なんて、誰もいなかった。




25

「話したんだよ。昨日」
 瑞希がそう言ったあと、私は信じられなくて、何も言えなかった。今日の屋上は寂しくなかった。瑞希とこうして昼食を食べるのは4回目だけど、すでに瑞希がいないと昨日みたいな寂しさがこみ上げてくるんだろうなって思った。

「ばったり会ったんだよ。病院で」と瑞希は続けてそう言った。
「どういうこと?」
「どうもこうもないよ。だから、ちょっとだけ、二人っきりで話した」
 瑞希はマヨネーズパンを一口食べた。

「――へぇ」
 私は自分でも驚くくらい平坦な声で返事をしたあと、サンドイッチを一口食べた。

「なんだよ。もっと、いいリアクションしてくれるかと思ったのに」
「できるわけないでしょ。――なんで病院なんかにいたの?」
「足の検査しに行ったから」
「違う。瑞希じゃなくて、花菜!」
 私は呆れながら、コンクリートの床に置いていたペットボトルの蓋を左手だけで開けた。そして、水を飲んで一呼吸整えた。

「1ヶ月検診だって」
「え、もしかして」
「ああ、おこちゃまも一緒にいたよ。まだほやほやの」
「――どういうこと」
「生まれたんだって。先月、花菜の子供が」と瑞希はそう言うと、ため息を吐いた。

「なんで、言ってくれなかったんだろうな。俺たちに」
「え、――ちょっと待って」
「なに?」
「もしかして、私たちと大会出てるとき、すでにお腹の中にいたってことだよね。それ」
「あ、そっか。昨日、そこまで気づかなかった」
「――私たち、4人でバンドやってたんだ」
「らしいよ」
 瑞希はそう言ったあと、鼻で弱く笑った。

「ねえ、男の子? 女の子?」
「女の子らしいよ。ピンクのつなぎ着てた」
「へえ」
 私は思わず、上を向いた。雲はゆっくりと青い空を流れていた。昨日よりも暑くて、日陰でも日に焼けそうな気がした。

「誰だよ。花菜が自殺したって言ったやつ」
 瑞希はポツリとそう言った。
「まじで。私、鵜呑みにしちゃったよ」
「俺も。――てか、昨日、花菜に泣かれてさ。大変だったんだよ」
「花菜、泣いてたんだ」
「めっちゃ、謝られた。病院のカフェの中で」
「だよね」
「別にそんな事情あるなら、仕方ないじゃん。ただ、言ってくれよって、俺が言ったら、もう、わんわん泣いちゃってさ。どうしようみたいな」
 瑞希の話を聞いて、私は思わず弱く笑ってしまった。

 ――死んでないなら、いいよ。って思った。




26

「やばいねこの曲」
「ドラムの音が立ってる」
 瑞希はそう言って私に微笑んだ。試聴機のヘッドホンのLRを外側にひっくり返して、瑞希と二人で新曲を聴いている。学校帰りに駅直結の商業施設に寄った。ヴィレバンを先に一通り見たあと、タワレコに寄って、新譜とピックアップコーナーを適当に見ていた。
 CDと一緒に陳列されているA4のパネルを読むと、今、聴いているこのバンドは、このアルバムでメジャーデビューらしい。80年代のハードロックみたいなテイストの曲で、一般ウケはしなさそうだけど、フェスで毎年のように演奏されて、伝説的な感じになりそうな曲だった。

「うまいな」
 瑞希はまたボソっとした声でそう言った。
「うん。今、始まったギターソロいいね。ビブラートかけまくってるんじゃん」
「古臭いけど、新しい感じだね」
「うん、真似できないね」
「ああ、最高」
 瑞希がそう言ったとき、ちょうど曲が終わった。私は左手で当てていたヘッドホンを耳から離した。瑞希も同じようにヘッドホンを耳から離した。

「なんかさ、私たちもこんなことしてたんだね」
「あぁ。なんかもう、ずいぶん前のことのように思えるな」
 瑞希はヘッドホンを試聴機の横にある棒にかけた。

「――もう一回やりたいな」
「――そんなの無理に決まってるよ」
「だけど、花菜は生きてるし、やろうと思えば、またやれそうじゃない?」
「子育て忙しすぎて、きっと無理でしょ」
「だよな。――そろそろ買いに行くか」
 私は瑞希の右手を繋いで、下りエスカレーターの方へ歩き始めた。



 ギターを抱えたテディベアを見つけた。棚に飾られているテディベアを私はそっと両手で持ち上げた。右側を向くと、瑞希は向かい側の棚に飾られている猫のぬいぐるみを見ていた。

「瑞希。これ、可愛くない?」
「お、いいね。めっちゃいいじゃん。ギター抱えてるし」
「いいよね。これ。おっきくなったら、ギターに興味持ってくれるかもしれないよね」
「それは期待しすぎだな」
「え、そこはノッてよ」と私はそう言ったあと、瑞希も私も笑った。
 瑞希と割り勘で、そのテディベアを買ったあと、商業施設を出て、駅前のスタバに入った。たぶん、ここ一年のなかで一番穏やかなんじゃないかってくらい、私の気持ちは、すっきりとしていた。私と瑞希はフラペチーノを受け取ったあと、店の真ん中くらいにあるカウンター席に横並びになって座った。

「ねえ。里佳たちにバレたら、また、ビンタしなくちゃね」
「もう、勘弁してくれ」
 瑞希はプラスチックのコップを手に取り、ストローを咥えて、フラペチーノを飲み始めた。



27

 終業式が終わり、瑞希と二人で、駅前のファミレスに行った。窓側のボックス席に着き、私と瑞希は向い合せで座った。とりあえず、ドリンクバーを頼み、二人でドリンクバーに行って、飲み物を取ってきた。
 瑞希はアイスコーヒーを持ってきて、私はコーラを取ってきた。テーブルに置いた2つのプラスチックグラスが同じ色をしていて、ぱっと見た感じだと、コーヒーかコーラかわからなかった。

「遅れるって」
 瑞希はスマホを操作しながらそう言った。私は右手で頬杖をつき、ガラス越しに外の景色を眺めていた。外は雨が降っていて、アスファルトが黒くなっていた。ビニール傘をさしている人が駅の方に向かって歩いていた。

「緊張するんだけど」
「いいな。緊張できて。俺、緊張する間もなかったよ」
「そっか」
「不意の再会」と瑞希はそう言ったあと、グラスを手に取り、アイスコーヒーを飲んだ。

「詩音」
 ――誰かから呼ばれた。声の方を向くと花菜が立っていた。花菜は白のプリントTシャツに黒のスキニーデニムを履いていた。そして、肩から、黄色のポーチをかけている。右手には畳んでコンパクトになった赤い折りたたみ傘を持っていた。
 しばらく私は花菜を見たまま、何も言葉を発さなかった。花菜も通路に立ったまま私を見ていた。花菜は少し崩れたボブヘアをしていた。耳上くらいからブラウンが抜けて、黒髪になっていた。

「――花菜。生きてたんだ」
「ごめんね。詩音」
「いいから、座れよ。ほら」
 瑞希は座っていた位置から窓側にずれて、自分の隣に座るように促した。



 まだ、妙にふわふわする。花菜がドリンクバーに取りに行っている間、私と瑞希は無言のままだった。声が出なかったときみたいに喉の奥が締まる感覚がしたから、怖くなって咳払いをすると、ちゃんと声が出て、ほっとした。グラスに手を取り、コーラを飲むと、炭酸が口の中でしっかりと弾けた。
 花菜が戻ってきた。花菜はお茶をテーブルに置き、瑞希の隣に座った。

「詩音。ごめんね。――こんなことになって」
「ううん。生きててよかった。死んだのかと思ってた」
「――死んだって噂立ってたんだ。――当たり前か」
「うん。鵜呑みにしちゃってたよ。私も瑞希も」
 私は嬉しいはずなのに、なんで、こんなにナーバスになっているんだろう。雨の所為せいにしたいけど、明らかにそうじゃないから、自分に嫌気がさした。私は右手の親指と人差指で右の頰にかかる髪をいじった。髪の毛同士が擦れ合う音がした。

「――怒って当然だよね」
 花菜はグラスを手に取り、お茶を一口飲み始めた。

 何やってるんだろう。私。
 ――なんで、こんなにイライラするのかよくわからない。私は息を吐いた。息を吐くのと合わせて、なぜか両目も熱くなった。気づくと、テーブルに涙が落ちて、涙の円ができていた。

「おいおい。マジかよ」
 瑞希は、バッグから何かを探し始めた。花菜は黙ったままだった。

「ほら、ティッシュ。使って」
 瑞希は、私の手元にポケットティッシュを差し出してきた。私小さく頷いたあと、ティッシュを一枚取り出して、目元にティッシュを当てた。

「俺、こうなると思って、買っておいたんだ」
「相変わらず、マメな男だね。瑞希は」と花菜は瑞希にそう言った。
「――ごめん。花菜。私、なんか、わからない。今」
「そっか。私、きっと、詩音にひどいことしたよね。もちろん、瑞希にもだけど」
「なあ、花菜。――1週間前まで声でなかったんだよ。詩音」と瑞希は私が言いたかったことを簡単に伝えてくれた。
 
「え、どういうこと?」
「――半年くらい、声でなくなった」
 私はいったん、顔を上げて花菜の方を見た。そして、ティッシュをもう一枚取り出して、鼻をかんだ。

「花菜が急にいなくなって、私、おかしくなっちゃったんだ」
「――ごめん」と花菜は静かにそう言った。
「ううん。こっちがごめん。――花菜の所為じゃないよ。私の中でバランスが崩れたの」
 私はそう言ったあと、息をしっかりと吐いた。両方の肺が一気にしぼみ、急に胸がキリキリするような感覚がした。

「こないだ治ったばっかりなんだよ。それまで、声かすれてて、全然話せなかったんだ」
 瑞希はそう言ったあと、アイスコーヒーを手に取り、一口飲んだ。

「ごめん。絶対、私の所為だよね」
「違うよ。花菜は悪くないの。――花菜が居なくならなくても、結局、声は出せなくなってた気がする。いろいろしんどかったから」
「――ごめんね。詩音。ごめん」
 花菜はそう話している途中で鳴き声になった。花菜も泣き始めて、瑞希はまたバッグから、新しいポケットティッシュを取り出し、花菜に渡した。
「相変わらず、マメだね」と花菜はそう言って、瑞希からティッシュを受け取った。そして、ティッシュを一枚取り出し、目に当てた。
「こうなると思ったんだ。俺」
 瑞希は得意げにそう言って、ふっと笑った。

「これ、出産祝い。二人から」
 私は横に置いていた紙袋を渡した。
「ありがとう。――嬉しい」
「今度、もう少し大きくなったら、花菜の子供に会わせてよ」
 私は少し照れくさくなって、思わずコーラを手に取り、飲んだ。

「いいよ。もう少ししたら、一緒に連れて来れると思うから、連れてくるね」
 私と花菜はしばらく、泣き続けているうちに、にわか雨が止むようにお互いに泣き止んだ。目はまだ腫れぼったく感じるけど、なぜかすっきりした。

「――本当は黙って、学校辞めたくなかったよ。私だって」と花菜は小さな声でそう言った。
「なら、どうして俺たちに言わなかったんだよ」
「親にそうしろって言われたんだよ。だから、そうするしかなかった」
「本当は妊娠がわかった段階ですぐに退学しろって、言われたんだけど、それだけは嫌だって言って、大会に出たの」
「――あの頃、体調悪かったのって、もしかして、つわりだったの?」
 そう花菜に聞くと、花菜はうんと、ゆっくり頷いた。

「親にスマホ没収されて、解約とLINEのアカウント削除させられた。あと、他のSNSも全アカウント削除させられたから、連絡取りたかったのに取れなかった」
「徹底的だな、花菜の親」
「うん。今は子育てにかなり協力してくれてるけど、あの時は関係最悪だったから、そうするしかなかった」
 花菜はそう言って、小さくため息を吐いた。

「――これからどうするの?」
「どうするもなにも、今は育てなきゃならないから、必死に今やれることやるだけだよ。――落ち着いたら、子供、食わせるために働かないといけないし」
「もしかして――」
「瑞希は察しがいいなぁ。そうだよ。シングルになっちゃった。私。――どうしようって感じだよね」
 花菜はまた、ため息を吐いたあと、右手で頭をかきむしった。こんなつもりじゃなかったって、心の声が聞こえた気がするくらい、つらそうな、かきむしり方だった。

「ダメ男すぎるね」
「詩音ちゃん。お口が悪いですわよ」
 花菜はそう言って、弱く笑った。

「だから――。今更だけど、私、もうバンドできない。ごめんなさい」
 花菜がそう言うと、なぜか一気に現実感が漂った気がした。瑞希を見るとと瑞希は頬杖をついて、外の景色を眺め始めていた。
「ちょっと、シラケないでよ」と花菜続けてそう言った。

「別にシラケてないよ。――ただ、まだ続けたかったなって思っただけ」
 瑞希はそう言ったあと、コーヒーを一口飲んだ。
「私も。――もしかしたら、私たち、メジャーデビューできちゃったりしてなんて、大会で優勝したとき、ふと思ってたけど、それはもう幻だよね」
「――みんなの夢壊して、ごめん」と花菜がそう言ったあと、テーブルに置いてあった花菜のiPhoneのバイブレーションが響いた。

 花菜はiPhoneを持ち、何かを打ち込んだあと、
「ごめん。そろそろ時間だから、帰るね」と言った。
「あ、待って。LINE教えて」
 私はそう言いながら慌てて、自分のバッグからiPhoneを取り出した。

「もちろん」
 花菜はそう言って、寂しそうに微笑んでくれた。




28

 花菜がいなくなったファミレスは瑞希とのデートになった。窓から見える街は相変わらず、雨で濡れていて、世界はグレー一色に見えた。

「なあ。花菜、大人になってたな」
「そうだね。私たちより、ずっと先行ってる感じだったね」
「――大変だったんだろうな」
「そうだね」
 私は余っていたコーラをすべて飲んだ。コーラは気が抜けていた。

「――俺、甘かったわ」
「甘かった?」
「あぁ。花菜は生きてたし、もう一回、できると思ってたよ」
「私もだよ。もしかしたらって思ってた自分がバカみたい」
「あぁ。おんなじ気分だよ。俺も」
 瑞希は大きなため息を吐いた。そして、右手で頬杖をつき、左上を見て何かを考えているようだった。瑞希が今、考えていることを、そのまま手を伸ばせば、掴めそうな気がした。 
 
「俺って、何もかも中途半端だわ。サッカーも中途半端だし、バンドもこのまま終わりそうだし。――俺、」
「悔しんでしょ」
「先に言うなよ」
「見え見えなんだよ。瑞希が言いたいこと。だって私だって」
「悔しんだろ」
 瑞希はそう言って、左手でピースサインをした。

「ちょっと。ドヤんないでよ」
 瑞希はドヤ顔で右手で頬杖を付きながらピースサインを続けていたから、余計に腹が立って、私は右手で瑞希の左腕を叩いた。

「痛ったー。ゴール決めたときくらい気持ちよかったのに」
「――そんなにサッカーやりたいなら、やればいいじゃん」
「――だよな」
 瑞希はピースサインはやめたけど、頬杖をついたまま浮かない表情をしていた。だから、私は今日、言おうと思っていたことを言ってみることにした。

「――次の大会でゴール決めたら付き合ってもいいよ」
「え?」
 瑞希は頬杖をついたまま、驚いた表情をしていた。

「聞こえてなかったの? ――付き合ってもいいよ」
「マジで」
「あ、だけど、ちゃんと約束は守ってね。ゴール決めたらだから」
「俺のポジション的にアシストも入れてほしいな」
「は? 男に二言はかっこ悪いよ」
「いや、こっちから言ったわけじゃねーのに」
「ほら、約束」
 私は、右手の小指を瑞希の方に差し出した。

「お前は相変わらず、素直じゃないな。今、彼女になってくれたほうが頑張れるのに」
「こういうのは目標があるから頑張れるんでしょ。ほら、早くして」
「わかったよ。決めてやる」
 瑞希はそう言ったあと、頬杖を止めた。そして、私の方に右手の小指を差し出してきたから、私も小指を差し出し、それを結んだ。



29

 ファミレスを出て、いつもの公園まで歩いてきた。雨は上がって、ジメジメとしている。すっかり日は沈んでいて、公園の白い街灯が寂しく見えた。
 瑞希と手を繋いだまま、広いグラウンドがある場所まで来た。グランドには錆びたサッカーゴールがひとつだけ置いてあった。夜風は少しだけ冷たくて、気持ちがよかった。
 グラウンドの隅にサッカーボールが置いたままになっていた。瑞希はボールに呼び寄せられるかのように、ヨロヨロとボールのところまで歩いていった。私は瑞希に手を引かれたまま一緒に連れて行かれた。瑞希が私の手を離した。だから、私はその場で立ち止まり、瑞希を眺めることにした。

「見てろよ」
 瑞希はボールを蹴り上げ、リフティングを始めた。右足で器用に何度もボールにタッチしていた。小刻みに一定のリズムでボールから鈍くて、軽い音がしている。

「すごいね」
「だろ。俺、すごいから」
 瑞希はそう言った直後、ボールから鈍くて大きな音がした。ボールは空高く飛んで、頂点を迎えてすぐ、ボールが落ちてきた。瑞希は落ちてきたボールに額を向けて、ヘディングした。
 ボールがサッカーゴールの近くまで飛んでいき、ゴールの手前で止まった。

「こんなのはできるんだよ。余裕で」
 瑞希はそう言いながら、小走りでボールの方へ向かった。そして、ボールをドリブルして、私の方へ戻ってきた。

「それで、右で蹴るのは余裕なんだよ」
 瑞希はゴールの方へ、身体を向けた瞬間、ボールからドンという音がした。ボールは左のほうに飛び始め、右側に弧を描いた。そして、あっという間にボールはゴールに入った。

「ナイスシュート」
 そう言うと瑞希はこっちを見ず、右手を上げた。そのままゴールまで歩いていき、ゴールネットに引っかかったいるボールを手で取り出した。
 そして、地面にボールを置き、またドリブルで私の方に来た。

「だけど、左はというと」
 瑞希はそう言ったあと、ゴールの方へ身体を向けた。ドンという音がしたけど、さっきよりは弱く感じた。ボールはゴールの右側を大きくそれてコロコロと地面を転がっていった。
 瑞希はしばらくボールが転がっていった方を見たままだった。まるで、最初から私なんていないんじゃないかって思えるほど、長い間、瑞希はそうしていた。

 ――瑞希は、もしかして。

「なあ。見ただろ。――こんなヘナちょこキックじゃ、今までみたいに動けなんだよ。復帰しても」
 瑞希はそう言って、私の方を振り向いた。
 
「――怪我の影響?」
「いや、足は治ってる。こないだ、サッカーしてもいいか病院にもう一回検査しに行ったんだ。そしたら、怪我はもう治ってて、復帰しても大丈夫って言われた」
「――なら、どうして」
「ここが弱いんだよ」
 瑞希はそう言って、右手で胸を何度も叩いた。

「もしかして、――イップス?」
「その通り。イップス」
「え、だけど、この前、ライバルと1対1で戦ったとき、シュート決めてたじゃん」
「あれは、右足でシュートしてた。だけど、すぐに村雨にバレて、こてんぱんにされた。――俺のほうが上手いはずなのに」
 瑞希は神経質そうな声でそう言った。私は思わず、瑞希の方へ駆け寄りたくなった。

 「なんでできないんだよ!」
 瑞希低く大きな声が公園中に響いた。私は結局、立ち止まったままになってしまった。私が駆け寄ったら、瑞希のプライドがズタズタになりそうな気がして、動けなかった。
 急に虫の音が大きくなったような気がした。虫が鳴いているから、今も時間が流れているということをギリギリ感じ取ることができた。

「――怪我が怖いの?」
「あぁ。――そんな気、全くしないんだけどな。だけど、左足でシュート打とうとすると、怪我のことが瞬間的に頭の中で引っかかって、へなちょこシュートになるんだ」
「――そうなんだ」
「だから、サッカー辞めたんだよ。最初は復帰しようとして、怪我明けから練習してたんだけど、全然ダメで。――それで辞めた」

「だけど、俺はこんな状態でもなんとか復帰してやる。頭使って、どうにかしてチームを引っ張ってやる」
「――ゴール決めてね」
 私がそう言うと、瑞希は私の方に近づいてきて、右手を上に出していた。
 だから私も右手を上げると、瑞希は私にハイタッチをした。



30

 次の日、花菜からLINEのメッセージが来た。ギターを担いだテディベアと寝転がっている花菜の子供が写った写真が送られてきた。

『ありがとう。最高に嬉しい』
 そう書かれたメッセージを見て、おもわずニヤけてしまい、自分でも自然に広角が上がっているのを感じた。



31

 夏休みは、人と会うことはなかった。瑞希は次の日から、部活に戻り、練習を始めたし、花菜とはLINEでたまに連絡を取って、花菜の手が空いた時に通話をした。私はずっと、自分の部屋の中にひきこもり、ベースを弾いていた。JUDY AND MARYや、THE YELLOW MONKEY、チャットモンチー、 フジファブリック、クリープハイプ。
 とにかく、思いつく限り、好きなバンドの曲のあらゆるフレーズを何度も何度も無心で練習した。この練習が報われるわけがないことなんてわかっていた。
 だけど、私は何かをしてないとバラバラになりそうな気がした。だから、ベースに集中した。日々、指の皮は剥がれて、固くなるを繰り返し、指が強くなった。
 そうして、夏休みが終わり、二学期が始まった。
 


32

「あちぃ」
 瑞希はいつものように私の隣に座った。
「焼けたね」
「いや、戻ったって言ってくれよ」
 瑞希はそう言って微笑んだ。9月になっても屋上は暑かった。だけど、少しだけ秋の気配を感じさせるような冷たい風が時折吹いた。

「夏休み中、私、誰からもデートに誘われなかったんだけど」
「俺たち、まだ付き合ってないだろ?」
「そういうこと言ってるんじゃない」
「じゃあ、なんだよ」
「――練習、やってるんだなって」
「詩音、お前、もうちょっと素直に言えよ。頑張ってるんだね。感激したとかさ」
 瑞希はそう言ったあと、手に持っていたマヨネーズパンを開けた。
 
「大会、いつなの?」
「11月の中くらいから」
「そうなんだ」
「あと二ヶ月ちょっとだから、今、めっちゃ追い込みかけてる」
「そうなんだ」
「だけど、全然、体力戻んなくて、ゼイゼイしてるよ。毎日」
「そんなんで90分走れるの?」
「お前、それを言うなよ。キツいな」
「――頑張ってるんだね」
「そう、その言葉が聞きたかった」
「がんばれー」
 私は棒読みでそう言って、サンドイッチを一口食べた。

「花菜、元気にやってるかな」
「元気みたいだよ。たまにLINEでやり取りしてるよ」
「えー、いいなぁ。俺も花菜と話したいな」
「話しなよ。三人のグループラインで」
 私は半分呆れながら、サンドイッチをまた一口食べた。

「それよりも、俺はサッカーに集中しないといけないな」
「そうだね。よくわかってるんじゃん」
「よくわかってるも何も、今の俺にはそれしかないからな」
「――へぇ」
「詩音、相変わらず無愛想だな。ま、そこがかわいいんだけど」
「――ちょっと、口説かないで」
 私はムキになって、サンドイッチの残りをすべて口に入れた。 

「あーあ。照れちゃって。かわいいな」
 瑞希は茶化すようにそう言って、マヨネーズパンを食べた。
  
「うるさい!」
 私は左手で瑞希の背中を思いっきり叩いた。





33

 秋がどんどん深まっていく。瑞希とのやり取りは昼休みに屋上でご飯を食べることと、たまにLINEで通話するくらいだった。
 たまに花菜からもメッセージが届いて、花菜が大丈夫なときに少しだけ通話もした。
 瑞希も花菜も目の前のことに必死そうだった。二人ともやるべきことを日々こなしているのが少し寂しく感じた。だんだん夏は遠ざかり、風は冷たくなってきた。
 制服はブレザーを羽織るようになっても、私だけは何も変われないまま、取り残されているような気持ちになった。
 その間も、私はひたすらベースをなにかに取り憑かれたかのように練習し続けた。別に誰にも披露することもないベースラインはたまに虚しく感じた。



34

「さみぃ」
 瑞希はそう言って、私の隣に座った。屋上には時折強い風が吹き、身震いするほど寒く感じた。瑞希はいつものように私の隣に座り、マヨネーズパンが入っている袋を開けた。

「あと何日?」
「4日切ったよ」
「初戦で敗退しないでね」
「敗退しそうになったら、ゴール狙い続けるわ」
「なにそれ、意味わかんない」
 私がそう言うと瑞希は笑った。そして、マヨネーズパンを一口食べた。

「約束、忘れたって言わせないからな」
「ゴールしたらだよ」
「お、ちゃんと覚えてるんじゃん。約束」
 瑞希はそう言ったあと、もう一口マヨネーズパンを食べた。
「やっぱり、2ヶ月ちょっとじゃ、ブランク埋まらなかったわ」
「へえ」
「お前さ、人が落ち込んでるときも相変わらず無愛想だよな。もっと、こう、いい感じに励ましてくれよ」
「だって、仕方ないじゃん。ブランクあるのは本当のことなんだから」
「そんな、図星なこと言うなよ。ったく」
 瑞希はそう言って、水を飲んだ。
 
「――ねえ。左足で蹴れるようになった?」
「――10回に1回くらいかな。――諦めることにした」
「――そうなんだ」
「あぁ。だけど、いい方法思いついたんだ」
「なにするの?」
「左が得意なフリをする」
 思わず瑞希を見ると、瑞希は得意げな顔をしていた。

「え、どういうこと?」
「俺はシュートの場面と、フライパス。えーっと、遠くの味方にボールを飛ばして渡すパスのときが上手く行かないことがわかったんだ」
「それでどうするの?」
「だから、重要な場面のとき以外はすべて左で対応する。パスを受けるときとか、パスするときとか、そういうのは左でやって、重要な場面では元々、得意な右を使う」
「村雨以外にはうまくいきそうだね」
「ああ、だから、バレたら即終了の作戦」
 瑞希がそう言っている最中に、私はサンドイッチを食べ終えた。

「だから、フェイントのかけ方も全部、左の人みたいにした」
「へえ」
「もっと感心しろよ」
「だって、サッカーわからないから、凄さがよくわからないよ」
「ま、見てればわかるよ」
 瑞希はパンを持っていない右手を突き出してピースサインをした。だから、私は瑞希の腕を右手で弱く叩いた。



35

 雑貨屋のアクセサリーコーナーは電球の光で反射してキラキラしていた。店内には私とおなじ女子高生が何人もいた。そのほとんどは2人組で、楽しそうにしていた。
 一人ぼっちはだいぶ慣れたつもりだったけど、本当は誰かと一緒に見たかった。――特に花菜か綾香と一緒に見たい気持ちになった。
 ハートの形や、小さくてキラキラするストーンが入ったネックレスが並んでいる。どれも500円くらいで高くても1000円くらいのネックレスがほとんどだった。
 私はネックレスとアクセサリーをいれる小さい布の袋を手に取り、レジに向かった。
 


 駅を出るとすっかり日が沈んでいた。LINEで教室で待ってると瑞希にメッセージを送った。外は少しだけ冷たさを感じるような寒さになっていた。駅直結の商業施設のベンチで持ってきていたグレーのパーカーをブレザーの内側に羽織っておいてよかったと思った。
 18時前の駅前はどこかへ帰る人たちで混んでいた。LEDの薄暗い街灯が心細く感じた。



36

 学校の前に着いた。校門を通り、玄関の方まで向かった。校門と玄関の間の通路はいくつかの弱々しい街灯で照らされていたけど、ものすごく暗かった。
 明るくなっている左手見ると照明で明るいグラウンドの中でサッカー部が練習をしていた。残っているのはサッカー部だけみたいで、緑色の蛍光色をしたゼッケンをつけているチームとゼッケンをつけていないチームがボールの取り合いをやっているように見えた。
 瑞希はゼッケンをつけて、相手からボールを取ろうとしていた。瑞希は私のことなんか気づかないでサッカーに集中しているように見えた。瑞希の表情は真剣で、赤いバンダナを付けて、オールバックにしている髪が揺れていた。




37

 教室に入ると、教室は真っ暗だった。だから、入口の横にある電気をつけて、窓側の一番奥の席に座った。昼間の汗臭さが残っていてすっぱい匂いがした。
 バッグから、小さい紙袋を取り出した。止めてあるセロテープを剥がし、中身を机の上に出した。金色のネックレスと布袋がするりと袋から出てきた。安そうな金メッキがキラキラと輝いている。
 白い布袋の紐を緩めて、袋を開け、ネックレスを入れた。布袋には黒で『THIS IS THE LAST GAME』と書かれていた。それが終わると私のやることはなくなってしまった。



38

 教室の扉がレールの上を走る音がした。音の方を見ると瑞希が立っていた。
「おまたせ」
「遅い」
「仕方ないだろ。試合前なんだし」
 瑞希はそう言いながら、私の方まで歩いてきた。黒板の上にある時計はすでに19時を過ぎていた。
 重そうなエナメルバッグを瑞希が机に置くと金具があたった鈍い音がした。そして、瑞希は椅子を引き、私の前の席に座った。

「どうしても渡したいと思ったの」
 私はそう言ったあと、手に持っていた白い布袋を渡した。
 
「ありがとう。――ラストゲームって」
 瑞希はそう言って、笑った。
「たまたま、それしかなかったの。深い意味ないから」
「そうなんだ。――開けてもいい?」と瑞希に聞かれたから、私はうん、と頷いた。

 瑞希は袋を開けて、ネックレスを取り出した。すると瑞希はすげぇ。といって、ネックレスを右手で持ち、眺めていた。
「左足、祈願」
 そう言ったあと、照れくさくなって、右手で頬杖をつき、窓のほうを向いた。

「だから、左足の足形なんだ」
「そう。そういうこと」
 私は頬杖を止めて、瑞希の目をまっすぐ見た。

「――これ、持ってたらきっと、試合で左足どうしても使わないといけないときでも上手くいくよ。きっと」
「ありがとう。マネージャーが作ってくれたお守りと一緒にポケットに入れておく」
「あ、いま、余計なこと言った」
 イラッとした。――せっかく買ってきたのに。
 
「いや、お守り枠だからさ」
「――そのお守り見せてよ」
「いいよ」
 瑞希はそう言ったあと、バッグからお守りを取り出して、私の席の机の上に置いた。お守りは青のフェルトで作られていて、黄色の刺繍で『かつぞ!』って書いてあった。刺繍はすでに、ほつれ始めていて、お世辞にも上手だとは思えなかった。

「マネージャーの二人が作ってくれたんだって。みんなの分。毎回、大会前に作ってくれるんだ」
「そうなんだ。――だっさ」
「おいおい、そんなこと言うなよ。せっかく頑張って作ってくれてるんだから」
「ねえ、毎回の恒例だからって、そんな作らされてる感あるお守りと、私が渡したネックレス、一緒にしないでほしい。――私のほうが数百倍、気持ちこもってると思うから」
「ごめん、悪かった」
「じゃあ、一緒にしないでね。――私のだけ持っていって」
「それは――」
「じゃあ、もっと喜んだ顔してよ!」
 私の声は思った以上に教室中響いた。瑞希は驚いた表情をしている。私はなんで、いま、こんなにイライラしているのか、自分でもわからなくなった。

「ごめん。――嬉しいよ。――ちょっと疲れてただけだから」
 瑞希は静かな声でそう返した。私はまだ、イライラが収まらず、黙ったまま、また右手で頬杖をついた。

 ――もっと喜んでくると思ってた私がバカだった。

「――無神経すぎだな、俺」
 瑞希が言ったけど、私はそれを無視した。瑞希はため息を吐き、私を左手を両手で握った。

「――無神経すぎるよ」
「悪かった。今、サッカーのことで頭いっぱいなんだよ」
 瑞希はそう言ったあと、小さくため息を吐いた。

「今年のチーム、俺がいたとしても本当に勝てるかどうか微妙なチームなんだ。だから、チームのことばかり考えてた」
「ちょっとくらい、私のこと思ってくれてたっていいでしょ」
「――ごめん」
「いいよね。私はバンドなくなってから、なにもやることなくなって、悶々とした日々、過ごしてたのに。――瑞希と花菜はやるべきこと見つけて、しっかりやっててさ」
 私はそう言いながら、だんだん自分が嫌になってきた。

 ――こんなつもりじゃないのに。
 私は瑞希の手を振り払って、机に突っ伏した。突っ伏してすぐに涙が溢れてきた。
 頭にそっと熱を感じた。
 瑞希がなにかを察して、私の頭を撫でてくれている。
 だけど、瑞希。そうじゃないんだよ。私は。

 ――私は自分にイライラしてるんだよ。ごめん。
 花菜は子育てをしていて、瑞希はサッカーをしていて、新しく動き始めたけど、私にはまだ新しいことが見つからないんだよ――。
 そんなこと、今、ものすごく頑張っている瑞希になんか、言えないから私は黙ることにした。

 左手で、瑞希の手を振り払うとしばらく静寂になった。



39

 瑞希とこうして二人で歩くのは久しぶりに感じた。駅までの道は真っ暗で、少し怖い。
 私が声出せなかったときのように黙ったまま、二人で手を繋いで歩いている。空には白くて遠い満月に薄い雲がかかっていた。瑞希と繋いでいる左手だけが暖かく感じた。

「ごめん。――試合前なのに」
 私は思いきって瑞希に謝った。
「いいよ。悪かった」と瑞希は小さな声でそう返してくれた。

「だけど、こうやって久々に詩音と二人でいると、わからないけど、安心する」
「――私も」
「自分のことで精一杯になりすぎてたわ。俺」
「違うの。――私がワケわかんないこと言っただけだよ。ごめんね。大事なときなのに」
 冷たい風が吹いて、身震いをした。

「――お守り、詩音のだけ持っていくよ」
「ごめん。気にしないで」
「いや、詩音の言う通りなんだよ。マネージャーの二人は頑張ってくれてるんだけど、詩音からもらったネックレスのほうが100倍、気持ちがこもってると思う」
 瑞希はそう言ったあと微笑んだ。

「あーあ、これでゴール決めないと詩音にぶっ飛ばされるな」
「ゴール決めてね」
「できる限りな」
「ここは絶対って言うところでしょ」
 私がそう言ったあと、二人で弱く笑いあった。




40

 競技場のスタンド席はガラガラだった。誰かの親だと思われる、おじさんとおばさんばかりだった。私は前から4列目の席に座った。一番右側と、左側にはそれぞれのサッカー部の集団が何列か四角く、固まって座っていた。ベンチに入れなかった部員はスタンドで応援するって瑞希から聞いたことがあった。たぶん、その人たちだ。

 プラスチックの青いシートは冷えていて固かった。私はバッグからブランケットを取り出して、膝にかけて、グランドの様子を見た。決勝戦だからか、両方のチームがピリついているのが遠くからでもわかった。左右のベンチでそれぞれのチームがミーティングをやっている様に見えた。
 朝、瑞希に『いい加減、ゴール決めろ』ってメッセージを送ったら、『決勝にのこのこやってきた村雨を絶望させる』というメッセージと、ふざけた顔の猫がピースサインしているスタンプだけ送られてきた。

 本当は花菜と一緒に瑞希の試合見に行くはずだったけど、子供が熱をだして、行けないわと朝、メッセージがあった。
 瑞希はまだ、ゴールしてないらしい。それは本人からも聞いたし、大会のWebページで結果を確認してもゴールした記録に瑞希の名前はなかった。だた、1回戦と準決勝でゴールをアシストをしたことになっていた。
 息を吐くと、ブルブルと身体がなぜか震えた。私はさっき自販機で買ったホットココアが入ったペットボトルをバッグから取りだし、手を暖めることにした。



 ようやく試合が始まるみたいだ。ピッチのセンターラインに選手が整列していた。瑞希は練習のときのように赤いバンダナをつけて、オールバックにしていた。
 瑞希が言っていた通り、相手は一高だった。村雨とゴールキーパーはすぐにわかった。ゴールキーパーの隣に村雨が立っている。お互いに礼をしたあと、それぞれの場所へ走っていった。
 瑞希を目で追ったけど、瑞希はベンチのほうに下がっていった。



41

 電光掲示板のスコアボードは2対0になっていた。村雨の高校が2点入れて、前半が終わった。
 そのうち、1点は村雨がゴールを決めて、もう1点は村雨のパスからゴールが決まった。たぶん、このゴールは村雨のアシストになっているのだろう。
 サッカーって、なかなか点数がとれないスポーツだった気がする。3点取られると試合が負けるって前に瑞希が言っていたことを思い出した。

 私は一旦、スタンドに荷物を置いたまま、1階ロビーに降りた。自販機の横にあるゴミ箱に飲みきったココアのペットボトルを捨てた。
 そして、自販機で新しいホットココアを買って、それを両手に当てた。自販機の向かいはトイレの入口で何人かの人がトイレに入っていくのが見えた。何人かユニフォーム姿の人もいた。きっと、選手もトイレを使っているのだろう。
 
「ココア飲んでるの?」
 右側から誰かの声がした。右を振り向くと瑞希がニヤニヤしながら立っていた。

「まだ、汗もかいてないじゃん」
「当たり前だろ。ベンチスタートなんだから」と瑞希はそう言って笑った。
「ここにいて大丈夫なの?」
「ああ、トイレ行くって言って、抜け出してきた」
「そんなことできるんだ」
「だって人間だもの」
 瑞希は左手をハーフパンツのポケットに突っ込んだ。そして、左足のポケットから、この前渡した白いぬの袋を取りだし、左手を私の前に突き出した。
 
「左足、祈願、効いてるぜ」
「私の呪い、最強だからね」
「おい、呪いっていうなよ。願いだろ。願い」
「ゴール決める呪いかけてるからね」
「おー、怖い怖い」瑞希は笑いながら、そう返した。

「ねえ。――頑張ってね」と私はそう言ったあと、右手を顔の横くらいに上げた。
「――ありがとう」
 瑞希はそう言って、私にハイタッチをした。パチンと乾いた音がしっかりとした。

「森岡、早く出てこないと試合おわっちまうぞ」
 後ろから誰かの声がした。

「おー。村雨じゃないか。前半MVPの」
 瑞希はそう言って、ニヤニヤとした表情をしていた。私は振り向き、村雨のほうを見ると、村雨は私に右手を軽くあげて挨拶した。私は会釈をした。

「試合中にイチャついてる様じゃ、俺を止めることはできないかもな。あ、だけど、控えだから、出てこない可能性もあるのか。あー、残念だなぁ」
「悪いな。村雨。俺は秘密兵器だから、これからなんだよ」
「まあいいや。あとでな」と村雨はそう言ってトイレに入ろうとした。

「あ、村雨」
 瑞希が呼ぶと村雨が振り向いた。

「こないだの借り、100倍にして返すから」
 瑞希が低い声で言うと、村雨はニヤリと笑って、右手をあげながら、トイレへ入っていった。

「格好つけやがって。あいつ」
「今の瑞希なら余裕でしょ?」
「詩音。わかってるねぇ。その通りだよ。――あんなヤツに負けねぇからな。見てろよ」
 瑞希はそう言って、歩き始めた。

「瑞希!」と私が呼ぶと瑞希が振り向いた。
「見てるからね」
 続けてそう言うと、瑞希は右手で拳を作って、腕をあげた。



42


 後半が始まろうとしている。選手が自分のポジションについているのがわかった。瑞希が言うとおり、瑞希は後半からの出場だった。瑞希は味方側から見て、2列目の真ん中にいた。瑞希の前には3人の味方がいて、瑞希の列には瑞希を合わせて3人の選手がいた。そして、瑞希の後ろの列には4人の選手がいて、その後ろにゴールキーパーが立っていた。

 村雨は瑞希と同じような位置で相手側のチームにいた。
 笛の合図で、味方がボールを蹴り始めた。うちの学校は最初から、相手ゴールのほうへ攻め上がっていた。

 奥の選手が中心になってボールを運んでいるようだ。何度も、短い距離で、同じ相手同士でパスを繰り返していた。
 相手はボールを持っている選手の前に必ず、立っていて、ボールを持っている選手は左右に身体を小刻みに揺らして、相手に進む先をわからせないようにしているみたいだった。

 だけど、遠くから見てるからかもしれないけど、味方のそのフェイントは瑞希より全然、キレがよくないように思えた。
 そのうち、村雨もボールに持っている選手の前に立ちはだかり、相手は二人でボールを奪おうとしてるように見えた。

 瑞希を見ると、瑞希はボール持っている選手よりも前に出て、手を挙げながら走っている。

「あっ」
 私は思わず声が出てしまった。

 ボールを持っていた味方が倒れたかと思ったら、村雨があっという間にドリブルでこちらのゴールへ向かっている。

「ディフェンス!」
 味方ベンチの方から声がした。慌てた様子で味方選手たちが、自分達のゴールの方へ向かっている。だけど、村雨に追い付けない様子だった。
 村雨の前にいる味方は残り二人だけだった。その二人も村雨のフェイントに簡単に引っ掛かり、村雨は一人だけ、抜けた状態になった。
 ゴールキーパーが前に両手をだして、中腰で構えている。

 ――このままだと、シュート打たれる。

 ボンと鈍い音がした。一瞬、ボールがどこに行ったのかよくわからなかった。だけど、キーパーはそのままの体勢のままだった。
 村雨が両膝りょうひざに手をついて、落ち込んでいるように見えた。村雨の横を見ると、瑞希が立っていた。
 そして、笛がなり、プレーが止まった。



 ボールはどうやら、味方ゴールの奥に飛んでったみたいだ。
 なにが起きたのか、よくわからなかったけど、相手のコーナーキックになったから、村雨が持っていたボールを瑞希が思いっきり蹴り飛ばして、村雨のシュートを邪魔をしたんだと思った。
 だけど、あんな距離、いつのまに走ってたんだろう。瑞希が瞬間移動したみたいに思えた。

 相手のコーナーキックからは試合はあまり動かないままだった。味方ボールになったかと思ったら、パスの途中で相手にボールを取られたり、相手に囲まれてボールを奪われたりした。

 それは相手も同じで、しばらくシュートが出ない緊迫した様子でゲームが進んだ。だから、瑞希にボールが渡る前に相手にボールが取られているのがほとんどだった。
 味方からのパスが瑞希に繋がり、瑞希が次の味方にパスをしても、すぐにボールが相手に取られていた。



 ボールが瑞希に渡った。瑞希はセンターラインより数歩、敵側のところでボールを受けた。ちょうど、村雨と瑞希が向き合っている。こないだの1対1のときみたいだ――。

 瑞希は小刻みにボールを足もとで転がして、村雨にフェイントをかけている。全て左足でボールを少しだけ後ろに転がし、不規則なリズムを取っているように見える。左右に身体を動かし、一瞬だけ、右に重心が思いっきりかかったように見えた。村雨は瑞希が右に身体を傾けたのと合わせて、右側に一歩踏み出した。

 その瞬間、瑞希は右側に重心を傾けたまま、左足で左側に軽く蹴り、そのまま左方向に走り始めた。村雨は瑞希の方を見たまま、体勢を崩して転んでいた。きっと、右足が滑って、そのまま転んでしまったのだろう。

 瑞希はあっという間に、ゴール手前の線まで来た。そして、他の相手に全くマークされていない状態になっていた。

 「行けー!」

 私は思わず声を上げてしまった。

 瑞希に私の声が届いたかわからない。

 瑞希は敵のゴールの方を見たまま、ボールを右後ろに出した。ボールが転がった先に味方の足元にピッタリとボールがパスされて、その直後、鈍くて大きな音がした。




43

 残り時間は8分くらいらしい。電光掲示板は2対1になっている。笛が鳴り、相手がキックオフした。
 さっきのゴールのあと、一瞬、スタンドが静まり返った。たぶんだけど、瑞希のパスが凄かったんだと思う。あの状態で前を向いたまま、後ろにパスできるなんて、何がどうなっているのか、よくわからなかった。そして、相手の選手たちも今、何が起こったという戸惑っている雰囲気が漂っていた。

 まだ、会場全体がそんなふわっとした雰囲気がまだ残ったままだった。
 キックオフから、相手がボールを持ったままだった。相手はパスを回しながら、ゆっくり攻めているように見える。味方も瑞希もボールを取りに行こうとしているけど、なかなか、相手からボールを奪うことができなかった。

 そうして、ジリジリと味方ゴール手前まで相手はボールを持っていった。奥の方から、真ん中にボールがふわっと飛んだ。そして、ボールの落下点はおそらく、ゴール前だ。落下点に合わせるように村雨や敵の選手が手を広げて、場所を取ろうとしていた。
 ボールは村雨のところに落ちた。村雨はジャンプして、ゴール目掛けて頭でボールを弾いた。一瞬、終わったと思った。だけど、様子が違った。味方のキーパーが飛びついて、ボールがキーパーの左手に弾かれて、ボールはゴール後ろの線を超えていった。




 もう、何本目のコーナーキックかわからない。前半から、相手のコーナーキックの方が多い気がする。だけど、コーナーキックではまだゴールされていない。素人目で見ても、うちの学校は圧倒的に相手に押されているそんな印象に思えた。

 ――もう、あまり時間がない。電光掲示板の時計は残り3分になっていた。まだ、発表されていないアディショナルタイム次第で、あと一回、チャンスがあるかないかかもしれない。

 相手の選手が、手前側の角からボールを蹴り上げた。ボールはさっきと同じようにゴールの手前にふわっと上がった。味方も相手も飛んでくるボールに合わせて、身体をぶつけ合いながら、自分の場所取りをしていた。

 ボールは相手選手に弾かれたあと、味方が大きく相手のゴールの方へボールを蹴り上げた。ボールが飛んでいる先にはコーナーキックの間、一人だけセンターライン近くで待っていた味方がいた。8番の背番号が頼もしく見えた。

「カウンター! カウンター!」
 味方ベンチの方から大きな声がした。
 8番の人がボールをもらってすぐ、簡単に二人の相手に囲まれた。後ろしかスペースがないけど、8番の人は足もとで必死にボールを細かく転がし、相手を抜こうとしている。だけど、すごく厳しいように見えた。
 相手ゴールに向かって走っている味方選手の一人が手を上げた。8番の人は瞬間的にその選手の前にボールをパスした。相手ゴールの方を見ると、相手はキーパー合わせて2人しかいなかった。ボールをもらった味方の人はゴール目掛けて走っている。

 それを止めようと、相手の一人が、必死になって前を通させないような動きをしている。相手の選手は身長がすごく高くて、両手を広げて、左右に身体を振っている姿はすごく大きく見えた。
 ボールを持っている味方の人は長身の相手を抜けないでいた。そのうちにどんどん、後ろから10人くらいの相手と味方がごっちゃになって走ってきていた。ボールを持っている味方選手は結局、相手を抜くことができず、8番の人に一旦、ボールを戻した。

 8番の人にパスは繋がったけど、8番の人には二人相手にマークされたままだった。これ以上、奥の方へ行くと、ボールが横の線を超えてしまいそうだ。
 8番の人は一度、味方ゴールの方に向かってボールを蹴った。そして、何歩かドリブルしたあと、体勢を整えて、ボールを前の方へ思いっきり蹴った。



 ボールが高く飛んでいる。ボールの落下点を目で先に見ると、そこには瑞希がいた。周りに相手は誰もいなかった。
 瑞希の先にはゴールがあり、相手キーパーしかいない。
 瑞希はボールを身体で受け取った。その直後、鈍くて大きな音がした。相手キーパーが左側に飛びついた。だけど、ボールは弧を描いて、ゴールの右端に吸い込まれていった。

 「おーーー!」
 フィールドから一気に大きな声がした。それに合わせたように、笛が鳴った。




44

 イチョウ並木の下を瑞希と二人で歩いている。公園の中をこうしてのんびり歩くのは久しぶりな気がする。あと2日で11月も終わろうとしていた。

「座ろうぜ」
 瑞希は近くのベンチを指さした。ベンチの前には芝が広がっていて、親子でサッカーをしていたり、レジャーシートを広げて座っている人たちがいた。
 私はふと、昨日の試合の電光掲示板を思い出した。オレンジ色の文字で表示されていたスコアボードだ。私と瑞希は木のベンチに座った。青空は突き抜けるくらい高くて、丸く感じた。太陽の熱は感じるけど、夏のような強さはすっかり消えていた。
 たまに吹く冷たい風が冷たくて、私は身震いした。

「大丈夫? 寒い?」
「大丈夫。このくらいなら」
「そっか。昨日も寒かっただろ。スタンド」
「ちょっとね。――試合中寒くなかったの?」
「試合中は寒くないけど、終わったらめっちゃ寒いよ」
「ウケる」
 私はそう言って弱く笑った。

「あー。マジであれ、オフサイドだったのかな」
「一瞬、決まったかと思った」
「俺も」
 瑞希は上を向いて左手で前髪をかき上げた。

 電光掲示板のスコアは2対1のまま変わらなかった。瑞希がシュートしたボールはしっかりとゴールに入った。瑞希がシュートを決めた瞬間、瑞希は仲間からもみくちゃにされていた。
 だけど、それは一瞬だった。

「――強かった?」
「いや、強くなかったよ。あんなの。――俺が前半出てなかったのが痛かったな。俺がフル出場してたら、ハットトリック決めてたのに」
「ハットトリックってなに?」
「一人で3点ゴールするってこと」
「へえ」
 私は自分でもびっくりするくらいそっけない声で返事をした。

「もっと、慰なぐさめてくれよ」
「ドンマイ」
「軽いなぁ」
「てかさ、オフサイドってなに?」
「あー、簡単に言うと、前に出すぎたってことだよ」
「出すぎるとダメなの?」
「あぁ。1人で待ち伏せするのはダメなんだよ。2人以上で攻めなくちゃならない」
「え、そしたら、あの状況って瑞希が待ち伏せしてたことになったの?」
「そう、そういうこと。行けるかなと思ったんだけどな」
 瑞希はそう言って、両手を思いっきり上へ伸ばした。そして、両手をゆっくり膝におろした。

「――私が見た感じ、ゴールだったよ」
「俺が見た感じもゴールだった。――負けたけど」
「それに村雨のこと、何回も抜いてたし」
「そうそう、村雨な。あいつ、ハーフタイムであんなこと言ってたのに、大したことなかった」
「――どうして、勝てたの?」
「簡単だよ。あいつの固定概念を使ったんだ」
「固定概念?」
「そう。あいつ、この前、俺とサシで戦った時に俺が左足使えないことに気づいてただろ? 絶対、俺は右で来ると思い込んでるんだよ。だから、俺は左に行った。それだけ。――やっぱ、あいつサッカーIQ低いわー」
 瑞希がそう言ったあと、強い風が吹いた。木々が揺れて、紅葉した葉が舞っている。

「――すごいね」
「だろ?」
「ねえ、シュートしたとき、どっちの足で蹴ったの?」
「――どっちだと思う?」
「右?」
「ううん」
 瑞希はそう言ったあと、右手で胸を指差した。瑞希の胸には足形のネックレスがキラキラ輝いていた。

「――ありがとう。このネックレスのおかげで打てたよ」
「マネージャーのお守りじゃなくて?」
「おいおい。意地悪いな。人がせっかくありがとうって言ってるのに」
「――効いたでしょ。私のネックレス」
「あぁ。後半始まる前、ポケットで握ったんだ。そしたら、胸が熱くなった。――俺はやれるって」
 瑞希は胸につけているネックレスを右手で握り、そして、すぐに離した。

「詩音のおかげだよ。全部。そもそも詩音がいなかったらサッカーに戻ってなかったかもしれない。このまま、一人でモヤモヤして、踏み出さなかったと思う」
「――かっこよかったよ。瑞希」
「ありがとう」
 私の頭を撫でてきた。触れられた瞬間、ドキッとしたけど、そのまま抵抗せず、猫みたいに撫でられることにした。

「なあ。ゴールできなかったけど、付き合いたい」
「――いいよ。私の中ではゴール決めてるから」
 私は両手で瑞希の左手を握った。




45

 瑞希が彼氏になってから、もうすぐ一週間が経とうとしている。
 私は相変わらず学校では無口を貫き、声がでないフリをしている。
 今週末で屋上が冬季閉鎖されるから、ここでお昼を食べるのは今年度が最後になっちゃう。明日から、どうしようと考えても、結局、代わりの場所なんて思いつかなかった。

「さみぃ」
 瑞希がいつも通り私の隣に座った。

「明日から、どうしよう」
「どうしようって、なにが?」
 瑞希はそう言いながら、マヨネーズパンが入った袋を開けた。

「明日から、冬季閉鎖でしょ。屋上」
「おー、やばいね」
「やばいねじゃないよ。――私のお昼食べる場所ないんだけど」
 ため息をついたあと、私はサンドイッチを一口、食べた。

「残念だな。詩音。諦めろ」
「ひどーい」
 そう返すと瑞希はケラケラと笑った。
 
 いつまでこんなことしてるんだろうってたまに思うこともあるけど、このクラスでスクールカースト下位の私がいきなり声を出して、話し始めたら、きっとネタにされるのはわかっている。だから、いろんなことを考えたら、すべてが面倒に感じたから、このままにしていた。

「なんか、俺、大会終わってから、気が抜けちゃってヤバいわ」
「じゃあ、その虚無感を私と二人で居ることで振り払ってよ」
「なにそれ。メンヘラみたいだな」
「うるさいなぁ。こっちだって我慢してるんだから、デートしろって言ってるの」
 私はあっかんべーをした。

「あー、怖い怖い」
 瑞希は私をあしらうようにそう返して、笑ってくれた。
 
「そういえば、さっき、花菜からLINE来てたな」
「え、気づかなかった。なんて来てたの?」
「悪い、俺も通知しか見てないんだ」
 瑞希はそう言いながら、ブレザーのポケットから、スマホを取り出した。

 私も左手でブレザーのポケットからiPhoneを取り出した。電源ボタンを押して待ち受け画面を確認すると花菜からメッセージが来てる通知が表示されていた。通知をタップするとLINEが起動した。

『二人とも今週末空いてる? 話したいことがある』




46


「1年間だけ、やってもいいって」
「――マジで」と瑞希がそう言った。
「うん。マジなやつ。――もう一回、夢見てみたい。三人で」
 花菜は不安そうな表情をしている。私はどう言葉を返せばいいのかよくわからなくて、花菜をまじまじと見てしまった。こないだと同じファミレスの中はガヤガヤとしているけど、この席だけ真空されたみたいに静かに感じた。

「――自分勝手なことばかり言ってごめんね」
「何言ってるんだよ。花菜。勝手じゃないよ。な、詩音」
「――うん。ただ、びっくりしただけだよ」
 私はコーラを一口飲んだ。そして、一つ息を吐いてから、iPhoneをバッグから取り出した。
「ねえ、メモってた歌詞、何個もあるんだけど、曲つけてくれない?」
「いいよ。――見せて」
 iPhoneを操作して、書いた歌詞を花菜のLINEに転送した。花菜を見ると、微笑みながら涙ぐんでいた。そんな花菜を見ていると、私も少しだけうるっとした感覚が両目にした。瑞希を見ると瑞希は誇らしげな表情をしていた。

「それでね。さっそくだけど、三人で未発見フェスに応募しない? 応募締め切りも5月でまだ時間あるし」
 私と瑞希は思わずお互いに顔を見合わせてしまった。未発見フェスは10代のメンバーで集まったバンドしか出場できない大会で、この大会で優勝すると、レコード会社と契約できて、デビューが確約される。

「マジで。行けるかな。俺たち」
「瑞希、なに弱気になってるのさ」と花菜がそう言って、隣に座っている瑞希の肩を叩いた。
「痛ったー」
「私のわがままばかりだけど、マジで狙いにいこう」
 花菜は右手の親指を立ててグーサインを出したから、本当にバンドを再開することができるんだと思い、気持ちがふわふわしそうだった。




 瑞希はサッカー部の打ち上げがあるからと言って、先に店を出て行った。花菜と二人きりになった。――きっと1年ぶりだ。

「ねえ。瑞希いなくなったしさ、甘いもの食べようよ。ファミレスだけど」と花菜はいたずらをする子供みたいな表情でそう言った。
「いいね。まだ大丈夫なの?」
「うん、あと1時間くらい大丈夫」と花菜はそう言って、微笑んだ。


 声がでなくなったときの話とか、花菜の子育ての話とか、瑞希と付き合い始めたことを話しているうちに、店員がプリンアラモードを二つ持ってきてくれた。ホールのスタッフの人は女の子で、たぶん私たちと同い歳くらいに見えた。

「子育てって大変そうだよね」
「そうだね。最初の頃は寝れないし、慣れてないから大変だったけど、なんとかなってるよ」
「そうなんだ」
「うん。――生まれる前は親とはもう、最悪の関係だったんだけど、実際、孫を見たら、可愛くなったみたいで、段々と関係が戻ってきた気がする。だから、こうして、外に出れるようにもなったの」
「そっか。――大変だったね」
「ううん。仕方ないよ。こうなったのは」
 花菜は、スプーンでプリンアラモードを一口分すくって、それを食べた。

「だけど、なんでバンドすること許してくれたの?」
「おじさんが親を説得してくれたんだ」
「おじさんって、リッケンバッカーくれた人?」
「そうそう。よく覚えてるね。お父さんのお兄ちゃんなんだけど、そのおじさんがやらせてみたらどうだって、こんな状況だけど、もし、それで食っていけるようになったら、その方がいいじゃんって」
「おじさん、すごいね」
 私はそう言ったあと、プリンアラモードのさくらんぼを右手でつまみ、口に含んだ。

「うん。――昔から、少し変わってて、昔、インディーズでCD出してたことあったんだって。自分のバンドで。で、結局、バンド解散しちゃったから、今は普通のサラリーマンやってるけど」
「だから、赤いリッケンバッカーくれたんだ」
「そう、そういうこと」
 花菜は穏やかな表情をしていた。だけど、話しながら確実にプリンアラモードは減っていた。

「――昔から、おじさんが私の理解者なんだよね。その代わり、1年やってダメだったら、その時また考えたらいいって。メジャーデビューできれば、子供養うことなんて簡単にできるって」
「おじさん、すごいね。――怒られそう」
「うん。親にめっちゃ怒られてた。私と一緒に」
 花菜はそう言って笑った。私もおかしくなり、思わず笑ってしまった。

「ちょっとプレッシャーだね」
「ごめん、重く受け止めなくていいからね。――ただ、そのくらいの覚悟で私はやるって決めただけだよ」
「――わかった。私もやってみる」
「うん。――ありがとう。私のわがままに付き合ってくれて」
「違うよ。私も瑞希も県大会優勝してから、なんとなく思ってたんだよ。もしかしたらって」
「――ありがとう。あー、やばい。また泣きそう」

 花菜は笑いながら、両手をおでこに当てて顔を隠した。

 本当に花菜と一緒にいるとなんでこんなに楽しいんだろう。ずっとこうして花菜と話していたいけど、もうすぐ魔法が解けるようにこんな時間も終わってしまう。そう思うと、少しだけセンチメンタルな気持ちになった。忘れるためにプリンアラモードを何度も口に運び、甘さで憂鬱さを紛らわそうとしたけど、上手くいかなかった。

「ねえ、詩音」
「なに?」
「詩音といるとなんでかわからないけど、楽しいね」
「――ありがとう。私もだよ」
「私、こんなに楽しい気持ちになったの久しぶりかも」
「私もだよ。――声出せなくなってから、私、楽しいと思ったことほとんどなかったんだ」
「そっか。――大変だったね」
 花菜は最後の一口をスプーンですくい、それを口に含んでプリンアラモードを食べきった。

「だけど、こうやって過ごせるようになって嬉しい」
「私もだよ。詩音。――私、マジで、デビューすること考えてるから」
「うん。絶対しようね」
 右手の小指を花菜に差し出すと、花菜は右手の小指で私の指を結んでくれた。 




47

「詩音、すごい上手くなってる。どうしたの!?」
 花菜は驚いた声で褒めてくれたから、すごく嬉しくなった。久しぶりに貸しスタジオで練習をしている。花菜の地元にあるボロボロの公民館の中にあるスタジオは解散前から使っていた。ドラムセットと、古いアンプがあるから、学校の部室が先輩たちが使ってて、練習できないけど、どうしても合わせたいときによく使っていた。

「ずっと、練習してたんだ。二人とも頑張ってる間」
「すげぇよ。詩音。――全然、別人だよ」
 瑞希はそう言ったあと、ハイハットをバシンと叩いた。もともと、声が出ないときから、ずっとベースはし続けた。そうしないと自分が空中分解しそうだったから、ただ、毎日、黙々と好きな曲を耳コピして、ベースを弾いていた。きっと、そのときの自分の顔は、ものすごく暗い表情をして引いていたんだと思う。だから、声が戻ってからも、その習慣は変わらず、ずっと練習していた。
 瑞希がサッカーの練習をしている間や、花菜が子育てをしている間に、私の指はどんどん、旋律をしっかりと弾くことができるようになり、じっくり考えなくても、指が先に動くようになっていた。


「すごいいい感じだったね」
 花菜は興奮した声でそう言った。花菜の肩には赤いリッケンバッカーが下がっている。
「なんか前より、進化してない? 花菜は上手いのは相変わらずだけど、詩音の覚醒、ヤバすぎだろ」
「すごいでしょ」
 私は急に照れくさくなったから、クリープハイプのおやすみ泣き声、さよなら歌姫のイントロを速弾きで鳴らした。


 そのあと、三人で久々に自分たちの曲をやることにし、県大会で優勝したときの『Thanks happy Peach』を弾いた。

 今まではボーカルで歌うことに必死で、ベースがなかなか安定しないことが多かった。コードを追って、主旋律を歌っているときは、基本に忠実であまり面白みもない弾き方をしていた。だけど、今日はなぜかできそうな気がしたから、本当は歌っている途中でもやりたかったアレンジを少し入れてみたら、できちゃった。
 アレンジの最中、瑞希がドラムを維持しながら、うしろで「やべぇ」って声をあげてた。

「アレンジどうだった?」
 曲が終わったあと、私はすぐに花菜に聞いた。
「やばすぎる。いつの間に高速で弾けるようになったの。すごいよ! ラスサビ前のアレンジめちゃくちゃよかった」
「あそこよすぎでしょ。ラスサビのあと、やばかった」
 二人からそんなに褒められると思わなくて、少し顔が熱くなった。毎日、無意味だと思っていた練習が褒められる日が来るとは思わなかった。

「なんかさ、こんなに詩音弾けるようになったなら、間奏ごとにギターと合わせた感じで高速弾き入れたくなっちゃった」
「いいね。それ。――花菜についていけるか不安だけど」
「大丈夫でしょ。今、話してる間に思いついただんけど、こんな感じどう?」
 花菜がさっきよりも攻撃的なフレーズをかき鳴らした。かなりの高速弾きをしている。高音が細かく鳴り響り、そのたびに花菜の左手の指が一本一本しなやかに動く。
 しっかりとしたビブラートでリフが終わった。左の中指で弦を大きく上下させていた。

「すごい、メタルっぽくなりそう」
 私は率直な感想を思わず口にしてしまった。
「いや、メタルにはしないよ。あくまでもPOPSロックだからね」
「俺も暴れたくなる感じのリフだったな」
「瑞希も暴れたらメタルになっちゃうから、しっかりやっててね」
「わかってるよ。ちょっと指くわえただけだよ。俺は」と瑞希はすねたような声でそう言った。
 私はベースで花菜が弾いた音をつかむために、ために弦をかき鳴らした。コードに合わせて音が細かく上下させたみた。

「こんな感じ?」
「うん、いいね。近いと思う」
 花菜はそう言って微笑んだ。そのあと、ワン、ツーと続けて花菜が言ったから、私は慌てて、ベースを構え、花菜の演奏に合わせて、さっきと同じように弾き始めた。

 うまい具合に花菜のギターときれいな和音になった。
 ――すごく気持ちいい。

 花菜がビブラートをかけているところは花菜に譲り、コードで裏拍のリズムを取った。

「やばい。しびれた」
 瑞希はそう言って、またドラムをかき鳴らした。

「やばかったね。超ー気持ちよかった」
「ね、最高だね」
 私がそう言うと、花菜は微笑んだ。




「あ、そうだ。バンド名変えない?」
 5度目のテイクが終わったあと、花菜は思いついたことを今、そのまま口に出しているようにそう言った。

「今までのままで良くね?」
 私も思ったことを瑞希はすぐに返した。

「なんかさ、省略されるくらい長いバンド名のほうがいいのかなと思って。今はハニーフラワーでハニフラだけど、もっと長い感じがいいかなって。それになんか名前が素人くさい気がする」
「うーん」
 瑞希はそう言いながら、適当な8ビートをかき鳴らした。そのあとすぐにこういった。

「思いつかん」
「ぎゃはは、瑞希、なんだよそれ。仰々しい効果音つけるなよ」と
 花菜がそう言ったあと、私と花菜はゲラゲラ笑った。

「最近のバンドの名前って、接続詞使ってるの多よね。なんちゃら`の`なんちゃらみたいに」と私はそう言ったあと、バッグからペットボトルを取り出して、キャップを開けた。そして、冷たい水を口に流し込んだ。

「そうそう。わかってるねぇ。詩音ちゃん。これね、いろんなバンドの人がインタビューで答えてるんだけど、ネットの検索対策みたいなんだよね」
「検索で引っかかりやすくするってことか?」
 瑞希がそう言うと、花菜はザッツライト!と言って、右手の親指を立て、ドラムの方に右腕を伸ばした。

「あとさ、日本語にしたほうが覚えられやすいらしいよ」
「へえ。我々は猫であるとか?」
「詩音、それだと、検索で夏目漱石に負けちゃうよ」
「そっかー。難しいね」
「そしたら、花菜はなにかバンド名の案はあるのか?」
 今度はタムを使って、瑞希がドラムロールを始めた。ダダダダダダーーーン、とタムを連打した音のあと、シンバルの甲高い音がした。
 シンバルの音に合わせて、花菜は右に一回転するジャンプをし、着地した。
 
「ありまっせーーーん!」
 花菜は元気よくそう答えたあと、三人で爆笑した。




48

 イオンモールの中にあるカフェで花菜と待ち合わせている。
 カフェの中は混んでいて、カウンター席に通された。冬休みの初日、私は花菜と会うことにした。
 iPhoneを取り出し、花菜にLINEをしようと思ったとき、うしろから花菜の声がした。花菜の方を見ると、花菜は抱っこ紐で子供を抱いていた。
 
「こんにちは」
 私は甘い声をできるだけ出してみたけど、花菜の子供はそっぽを向いたままだった。私と花菜はその様子を見て、笑いあった。
「かわいいー」
「うん。今ちょっと眠くて機嫌悪いんだもんねー。イチカ」
 花菜はイチカちゃんのぷくっとしたほっぺを右手の人差し指で優しそうに触った。抱っこ紐でイチカちゃんは花菜に抱かれながら、時折、足とバタつかせていた。
 花菜は前にイチカちゃんを抱き、後ろにはリュックを背負っていた。花菜は慣れた手付きで、リュックを下ろし、椅子を引いて、座った。花菜の実家の近所にあるイオンモールは平日だけど、少しだけ混んでいた。

「今日はせっかくだから、イチカ連れてきちゃった」
「最高なんだけど」
「私もバンドメンバーでしたー」
 花菜はイチカちゃんの右腕を持って、小刻みにイチカちゃんの手を振った。イチカちゃんはくしゃみをひとつして、鼻水を垂らした。

「あー、はいはい」
 花菜はそう言って、リュックから、ガーゼを取り出し、イチカちゃんの鼻を拭った。




 二人でiPhoneをカウンターに置き、LINEで思いついたバンド名をひたすら書きなぐった。
「はぁ。こんなに難しいっけ。バンド名決めるの」
 私はそう言ったあと、ため息を吐いた。
「ガチで考えたことなかったから、難しいんじゃない?」
 花菜はうーん。と言って、上を向いた。イチカちゃんはすやすや花菜の胸で眠っていた。

「ねえ、本当にフラワー使うの?」
 花菜は少し恥ずかしそうな声でそう聞いてきた。

「うん、元々のバンド名にフラワー入ってたから、入れようよ」
「そっか。今更だけど、私の名前入ってて、恥ずかしいなって」
「大丈夫、大丈夫。ぜんぜんいいじゃん」
「そうかなぁ」
 花菜は納得のいかないような声でそう言った。 
 
「そしたらさ、今のところ、使えそうなの決めよう」
「オッケー」と私はそう言って、iPhoneに思いついた単語を打ち込んだ。

『フラワー』
『突撃と凹凸(おうとつ)』
『ドリンクホルダー』
『H A O(ハオ)』
『ピーチマシーン』
『青と世界線』
『XとYZ』
『雨の待ち合わせ』
『フラワートークマシーン』
『春サーティンサマー』
 私と花菜、ほぼ、半々で出し合った。

「HAO、いいね」
「花菜、詩音、瑞希の頭文字」
「えー、自分の名前入ってるから却下」
「詩音、ずるいよー」
 花菜はそう言ったあと、二人でゲラゲラ笑った。

「なんで、マシーンばっかり並んでるの?」
「なんか、ロックぽくてかっこいいかなって」
「ウケる」
 私がそう言ったあと、また二人でゲラゲラ笑った。名前を考えているだけなのに、なんでこんなに笑いが止まらないんだろう。それだけ、今までやりたかった最高にノリがあう親友と話すことが、本当に楽しく感じた。

「ねえ、混ぜてみる? 例えば、こんな感じで」
 花菜はiPhoneに何かを打ち込んだ。そして、すぐに渡しのiPhoneの画面に表示された。

『春雨の凹凸』
「なにこれ」
 私がそう言うと、二人で吹き出してしばらくの間、笑った。


 結局、まともなことが思いつかないまま、時間が過ぎていった。

「そろそろ、イチカ起きちゃうから、真面目に考えないと」
「そうだね。時間ないね」
 私は息を吐いた。右手で頬杖を付いてみたけど、なにも思い浮かばなかった。そういえば、花菜はイチカちゃんを抱いたままだったことを思い出して、私はすぐに頬杖を付くのをやめた。
 体勢を元に戻したとき、バーカウンターの先に無数のボトルがあるのが見えた。

「――ジャックダニエル」
「え? ジャックダニエル?」
「うん、あの黒いラベルのお酒」
「あー、ジャックダニエル」

 花菜は気の抜けたような返事をした。そのお酒の瓶は空瓶だった。透明のガラスに黒くて四角いラベルが貼ってある。ラベルには『JAKC DANIELS』と書いてあった。
 バーカウンターの棚にある無数の瓶の中から、なぜかそれだけが妙に目立っているように感じた。

「ジャックダニエル――。ドリンク?」
「文法逆じゃないかな」
 花菜はそう言ったあと、何かをiPhoneに打ち込み始めた。

『フラワー ドリンク ジャックダニエル』

「フラドリになるかな。略すと」
「うーん、ジャックダニエルの要素ほしいよね。――フラジャック?」
「うーん。ドリ。――ドリエルは?」
「お、いいね! アリエルみたいな感じで人っぽい」
「でしょ」
 私は誇らしい気持ちになって、思わず手元のオレンジジュースを一口飲んだ。花菜がiPhoneで何かをしている。

「あ、ドリンキングになるんだ」
「ingつけないとダメなの?」
「うん。グーグル翻訳ではそうらしいよ。だから、こうだね」

『フラワー ドリンキング ジャックダニエル』
 花菜からメッセージが送られてきた。
 
「いいね。ドリエル」
「最高。さすが、詩音。ねえ、ちょっと挨拶してみてよ」
「――こんばんは。フラワー ドリンキング ジャックダニエルです」
「いいねぇ」
「あ、そうだ。自分たちでドリエルって言っちゃおうよ」
「詩音、いいね。それ」
「――こんばんは。フラワー ドリンキング ジャックダニエル。ドリエルです」
「おー、めっちゃいい。それ。それでいこう」

 花菜は右手でピースサインをして微笑んだ。




49


 年が明けて、あと3日で学校が始まろうとしているときに花菜からLINEで曲が送られてきた。私は真っ暗な自分の部屋のベッドの上でゴロゴロしながらiPhoneをいじっていた。もうすぐ寝落ちしそうになっていた。
 うとうとしたまま、ファイルをダウンロードして聴くと、私が送った歌詞にしっかりとした曲が付いていた。花菜から送られてくるデモ音源はMac bookのガレージバンドで打ちこみされたものだ。
 音楽を聴いているうちに花菜からコードと歌詞が交互に挟まった文章が送られてきた。
 打ち込みで作られた曲に花菜のボーカルとギターが入っている。ベースとドラムは適当だ。

 私と瑞希はいつもこの音源から、自分のパートを作り上げている。

『ありがとう。めっちゃいい』
 メッセージを送ったあと、ベッドの横にiPhoneを置いて、そのまま寝ることにした。




50

「さみぃ」
 瑞希は入口横にあるエアコンのスイッチを押していた。いつものスタジオは冷え切っていた。午前中の一番最初の枠だから、まだ誰も使っていない。部屋に入って、すぐに花菜が、テーブルの前に集まってと言った。私と瑞希は花菜の方にすっと集まった。

「実はさ、TikTok始めたんだ」と花菜がそう言ってiPhoneをテーブルの上に乗せた。iPhoneの画面にはTikTokのプロフィール画面が表示されていた。『hana@作曲中』というアカウント名が入っていて、いくつかの動画が上がっていた。
 
「マジで、早く言ってくれよ」
 瑞希が笑ってそういった。
「動画って、全部音楽関係?」
「当たり前でしょ。私が踊った動画アップしたって、需要ないよ」
 花菜は笑いながら、一つの動画をタップした。動画が再生されると、県大会で優勝したときにやった曲が流れた。画面にはiPhone版のガレージバンドが映し出されていた。ギターとベース、ドラム、マイクの4つのアイコンが並んでいて、マークの隣にはそれぞれの音程と波形が横棒で表示されていた。

「え、ハートの数やばい」
 私は画面の右側を指さしてそう言った。
「でしょ。昨日、バズった」と花菜は誇らしげにそう言った。

「でさ、本当は私なんかの声じゃなくて、詩音に歌ってほしいんだよね」
「なるほど。私バージョンの動画もあげるの?」
「さすが、察しがいいね。詩音ちゃーん」
 花菜はニヤニヤしてなにか企んでるようなあどけない表情でそう言った。

「どうせだったら、生演奏でやっても良さそうだよな」
「お、それ言おうと思ってたの。実はバンドやってますって感じにしたくて」
「ってことで、今日はこいつで録音しまーす」と言って、花菜はギターケースの中から、黒い機械を取り出した。

「すげぇ。オーディオインタフェイスじゃん」
 瑞希は驚いた表情をしていた。

「実は買っちゃいましたー。アマゾンで」
「これで学校いかなくてもレコーディングできるじゃん」
 私がそう言うと花菜は右手の親指を立てて、私の方に腕を突き出した。
 
「あ、出産一時金とか、そういうお金には手つけてないからね」
「親に買ってもらったの?」
「ううん、実はね。――おじさんが買ってくれたの」
「めっちゃ神だな。花菜のおじさん」
「うん。私の唯一の理解者だからね」と花菜は瑞希の方を見て、微笑みながらそう言った。
 
「私、オーディオインターフェイスってよくわからないんだけど」
「あー、詩音は機械疎いからねぇ。オーディオインターフェイスにドラム用のマイクと、ボーカルのマイク、そして、ギターとベースをいっぺんに線でくっつけちゃって、それを私のiPhoneに送ってくれる画期的な機械のことだよ」
「とりあえず、シールドケーブル繋げてちゃって、試してみよう」
 そう言って、花菜はケースからギターを取り出した。



 ギター、ベース、ドラム、ボーカルの音量のバランスを取るのがちょっと大変だった。特にドラムのバランスを取るのが難しくて、スタジオにある安くて古そうなマイクの位置を何度も調整し直した。
「よっしゃ、ようやっといけそうだな」
 バスドラムをボンボンボンボンと4ビート分、鳴り始めた。瑞希のリズムの狂いがないドラムはやっぱり、安定していて、

「じゃあ、撮るよー。詩音、iPhone貸して」
「え、どうして?」
「どうしてって、私のiPhoneは録音で使ってるから、動画は詩音のiPhoneで撮って、あとで音と動画、合体させるの」と花菜はそう言って、私の方に両手を出してきた。
「えー、どうしようかな」
「ほら、早く出さないとこうするぞ」と花菜はそう言ったあと、両手を突き出して、私の脇をくすぐってきた。私はぎゃははと一人だけ大爆笑をしたあと、大人しく花菜にiPhoneを手渡した。



51

「1、2、3、4」
 瑞希がそう言った直後にハイハットの甲高い音と、バスドラムの低い音、そして、スネアのぴしっとした音が8ビートを作った。
 私と花菜が同時に音をかき鳴らし、曲が始まった。

 ピーチの甘酸っぱさのように
 憂鬱を忘れるために
 桃色のワンピースで外に出よう

 永遠に見つからないタイムカプセルのように
 そっと耳を塞ぎたい気分だから
 桃を食べよう。ゆっくり砂浜で
 
 Thanks happy Peach
 くだらない冗談を言い合って
 世界をペンキでピンクに染めよう
 プールに飛び込んだピンククジラを
 みんなで祝福して
 スパークリングでお祝いしよう

 ピーチの甘酸っぱさを感じ
 憂鬱を忘れてよう
 グチュグチュの白を吸おう

 永久に今がつづくタイムリープのように
 空想は桃色の恋心みたいね
 桃を食べよう。ゆっくり砂浜で
 
 Thanks happy Peach
 クリームソーダをかき回して
 流氷みたいなアイスで白に染めてしまおう
 空に戻ったペンギンの群れを
 見ながら飲み込んで
 炭酸をゆっくり味わおう
 
 Thanks happy Peach
 サンクス!ハッピーピーチ!




52

 教室の扉を開けると、異様な雰囲気を感じた。
 夏のときと同じだ。窓側、奥の席を陣取って立っている里佳と目が合った。里佳の隣にいる桃果と成美は失笑している。

 ――みんなから見られている。
 なんだよ。木曜日までは大人しかったのに――。
 最悪な金曜日だ。
 
「お、スターが来た。動画撮っておこう」
 博が能天気な声をだして、私にスマホを向けた。きっともう動画を撮られ始めているのだろう。ダメだ、逃げ出したい。瞬間的にもう、今日は最悪な日になることがわかり、本当に嫌になった。
 私は真ん中の列の一番うしろの席に座った。コートはまだ脱がないで、スクバを机の上に置いた。座ったあと、すぐに里佳と桃果、成美がやってきた。

「あんた、しゃべれるんじゃん。病気じゃなかったんだね」
 里佳は、右手で私の方にスマホの画面を突き出した。

『Thanks happy Peach』
 と私の声が流れていた。すごい能天気すぎる。画面右側のハートを数を見ると2000を超えていた。

「しかも、瑞希と、もうひとり誰、あのイキったプリン。演奏する前に髪カラーしたほうがいいよ」
 里佳がそういうと三人は下品に笑った。私は無視して、リュックサックから、教科書を一通りだして、机の中にしまった。

「もしもーし。お得意の無視ですかー」
 成美が私を覗き込みながらそう言ってきた。
「歌は歌えるのに、無視するんだ」
 桃果が呆れたような声でそう言った。確かに、呆れられて当たり前かもしれない。だって、ある程度の期間、嘘をついていたことは変わらないんだから。

「でさ、結局、あんたしゃべれるの?」
 里佳が性格悪さが見染み出ている声でそう言った。私は黙ったまま、スクバを開けて、ノートを取り出した。その瞬間、ズッと鈍い音がして、私の目の前にある机がはずみで斜めにずれた。

「おい、無視かよ!」
 里佳が私の机を蹴った。は? 何やってるの。って、私は冷めながらそう思った。

「マジで、何もいわねーな。こいつ。きっしょ」
 成美が捨てるようにそう言ったあと、
「ねえ、桃果いいこと思いついたんだけど」
 桃果はそう言って、自分の席に戻っていった。

「なんだっけ、この歌。ハッピー、ピーチだっけ。詩音ちゃんぶりっ子だねぇ。学校では、話せないふりして、みんなに嘘ついて、こんなに地味で陰キャさんなのに。TikTokなんかやるんだ」
 里佳がそう言うと、成美がバカみたいに爆笑していた。すっと小さく息を吐いたあと、右側に視線を向けると、桃果がニヤニヤしながら、私の席に戻ってきていて、左手には水が入ったペットボトルを持っていた。

「こうやれば、さすがに声、出すんじゃない?」
 桃果が私の机の前にたどり着くと、ペットボトルのキャップを開けた。そして、床にキャップを捨て、カランと間抜けな音がした。 
 私は桃果に左肩を抑えられた。私が振り払おうとすると、里佳にも私の右肩を抑えられ、身動きができない状態になった。桃果の後ろで成美が爆笑している。

「冬だから、キンキンに冷えてるよ。召し上がれ」
 私の目線にあったペットボトルが上に消えた。そのあとすぐ、うなじが冷たく感じ、一気に身体が震えだした。

 ――瑞希と今日、スタバ行くって約束したのに。
 私はそんなどうでもいいことを考えていた。三人のけたたまし笑い声が聞こえる。早く500ミリリットルのしょぼい滝行なんて終わってしまえばいい。

 ――そして、世界も滅んでしまえばいい。

「おい!」
 低い声がしたあと、バタバタし始めた。目を開けたいけど、肩を抑えられていて、まぶたについた水を拭うことができない。

「瑞希。なんでこいつ、話せないふりしてるの?」
 ようやく水が流れなくなった。そして、強い力で抑えられていた肩は開放され、私はようやく、目を拭ったあと、状況を見ることができた。
 
「は? なに言ってるの?」
「TikTokでこいつが歌ってる動画、バズってたんだけど」
「あー。俺たちのバンドのことね。褒めてくれよ。上手いだろ」
「そんなの、どうでもいいんだけど。こいつ、歌、歌えるのに、なんでクラスでまだ特別扱い受けてるワケ? 意味わからないんだけど」
 里佳が冷たい声でそう言った。
「それは――」
 瑞希は困ったような声を出した。

「それは私が悪かった。ごめんなさい」
 私の声でクラスは一瞬静まりかえった。みんなが私に注目している。

「ごめんじゃ、すまないでしょ。クラス全員に嘘ついてたんだから」と成美が沈黙を破った。
「いや、それは違うな。俺には嘘つかなかったな。詩音は」
 どう考えても、瑞希が見当違いなことを言って、場が一瞬しらけてしまったように感じた。
「ま、謝ったことだし、今日はこの辺で」
 瑞希はそう言うと、私の右手を繋いだ。私は自然に立ち上がり、リュックサックも手に取った。そして、手を繋いだまま、歩き始めた。

「こんな嘘つき女とバンドしてるなんて、どうかしてるわ」
 里佳に反応して、瑞希は立ち止まった。
「こんな女達とバンドしてないで、サッカーの練習したほうがいいんじゃない? なんで、瑞希がこんな奴らとバンドしてるのか意味わからない」
「は?」
「さっさとこんなお遊びバンドなんか辞めて、少しは学校のエースらしくしたら」と続けざまに里佳はそう言ってニヤけた表情をしていた。

「それに、アンタ、結局その女と付き合ってるんじゃん。手なんか繋いでさ。せっかくの私からの告白、断っといて、それかよ」
「悪いか?」
「怪我してから、頭おかしいんだよ。瑞希は!」
 里佳は急に絶叫した。いったい、この女は何を言っているのかよくわからない。

「おかしくねぇよ」
「こんな最低な女がいるバンドなんかやめちまえ」
「バカにするな」
「は?」
「バンドのことバカにするんじゃね!」
 瑞希はクラス中が振動するくらいの大きな声で怒鳴った。

 またクラスがしーんとしたあと、私は瑞希に手を引かれてゆっくりとクラスを出た。




53

「寒い」
 身体はブルブル震えている。本当に冷たい水だった。しかも、廊下は冷え切っているから、このまま凍っちゃうんじゃないかってくらい寒かった。廊下にいる何人かの他のクラスの人たちにジロジロ見られている冷たい視線も感じる。
 それはそうだよね、不自然に濡れた私が瑞希と手を繋いだまま、スクバ持って、そのまま歩いているんだから。

「あいつら、どうかしてるだろ」
「――黙ってた、私が悪かったのかも」
「そんなこと、どうでもいいよ。声失ってのは事実なんだから。――まず、保健室だな」
 身震いが止まらないまま、私は瑞希に右手が強く握られるのを感じた。



54

「あー、学校さぼっちまったー」
 午前中のスタバは比較的空いていて、しっかりと暖房が入っていて暖かかった。
 結局、保健室でドライヤーを借りて、髪とコートを乾かして帰ることにした。
 本当に最悪の金曜日だ。
 来週からの学校がすでに憂鬱だ。

 だけど、そんなことすら、どうでもよくなりそうなくらい、今は瑞希と二人でまったりしている。

「おいって」
 瑞希が催促した。

「――つらいんだけど」
「俺だってつらいよ」
「なんなの。あいつ。瑞希にいつ告白してたの?」
「あー、悪い、黙ってるつもりはなかったんだけど、俺、あいつからの告白、断ったんだよね」
「それ、いつの話?」
 私は自分でも驚くくらい冷たい声ででそう言った。

「えーっと、俺が初めて詩音と屋上で昼飯食べた日の朝、ちょっとしたホラーがあったんだ」
「ホラー?」
「これから怖い話するから、ビビるなよ」
 瑞希はニヤニヤしながら、マグカップに入ったコーヒーを一口飲んだ。いや、こっちは真面目にイライラしてるのに、そんなテンションで来るなよ。腹立つ。

「その日の朝、俺の下駄箱の中に手紙が入ってた」
「――その手紙のシール、ハートだったんでしょ」
「お、さすが詩音。あたりー。ピンクの封筒の表面には俺の名前。裏には里佳の名前が書いてあった」
「ほう」
「そんな不機嫌になるなよ。付き合う前の話だしさ」
「あ、無神経だわ。それ」
 私は瑞希の相変わらずの無神経さにムカついた。イライラしながら、スプーンでココアの上にたっぷり乗ったホイップクリームをすくい、口の中に入れた。

「このままだったら、ただのモテ自慢だよ」
「それがさ、文面がこれだったんだよ」
 瑞希はスマホを取り出し、スマホを操作した。そのあと、小さな丸テーブルの上にスマホを置いた。スマホの画面にはハートがいっぱい散りばめられた便箋にこう書かれていた。

『私、瑞希のことが気になりすぎて、
 私のお家での友達、
 ハムスターのコザブロウ
(コータンって呼んでます)
 に相談しても
 らちがあきませんでした。

 なので、桃果と成美に相談した結果、
 こうすべきということになりました♡

 今日の放課後、
 理科室側の校舎裏で待っています。
 
 うじうじして、
 ハムスターにハムハムしてたlisaより』

 私は笑いが止まらなくなってしばらくの間、お腹が痛かった。瑞希も一緒になって笑っていた。

「それでどうしたの? 校舎裏行ったの?」
「詩音とスタバ行った」
 瑞希はそう言って、またお腹を抱えながら笑い始めた。私もおかしくなって、またお腹が痛くなるまで笑った。

「てか、人から貰った手紙みせるとか、最低なんだけど」
「え、もう詩音も同罪だからな。これ。二人だけの秘密だから」
「やだよ。こんな秘密、共有したくない」
 さっきから、私たちの笑い声がお店中に響いているような気がする。抑えながら声を潜めて笑っているつもりだけど、それでも、抑えきれない笑い声が少しだけ響いた。

「でさ、まだ、この話、続くんだよ」
「じゃあ、続けていいよ。むしろ気になるし」
「それで、無視しただろ。手紙もらったのが金曜日で、次の日は詩音とデートして、エレベーターに閉じ込められて、詩音の声が出た」
「その時、写真撮られて、月曜日、私が里佳からいじめられそうになると」
「そう。その月曜日な。俺、やばいと思って、登校するのわざと時間ギリギリにしたんだ。そして、休み時間、博を連れ出して逃げることにしたんだ」
「そうなんだ」
「あぁ。だから、詩音がいじめられてるなんて微塵も知らなかった」
「それで、ビンタしてもらって、なんとか、詩音への攻撃は収まったけど、あれで終わりじゃなかったんだよ」
「どういうこと?」
「あの日、公園で合流しただろ? たぶん、俺、あのとき20分くらい遅れてきただろ」
「そうだ。退屈だったし、暑かった」
「それは今はいいんだけどさ、大変だったんだよ。あの日。――里佳にキスされた」
「は?」

 私は右手が届く距離だったら、反射的に瑞希にビンタしていたと思う。それくらいめちゃくちゃ腹が立った。いや、もう、今朝のことで感情はまだぐちゃぐちゃなままで、それに情報過多で、私はもう、何に対して、腹が立っているのか、自分でもわからなくなってきた。
 それに、瑞希はこの話、面白い話になるとか言っているけど、まだ、話の続きの中で面白くなる要素がない気がする。だから、私は今の気持ちをそのまま言うことにした。

「あのさ、こういう話、無神経すぎるんだけど」
「怒るなよ。――あのときはまだ付き合ってなかっただろ」
「――付き合ってなくても傷つくよ」
「悪い。――だけど、続けるからな。話」
 瑞希はそう言ったあと、マグカップを手に取り、コーヒーを飲んだ。

「里佳と桃果と成美の三バカに校舎裏に連れて行かれたんだよ。無理やり」
「へぇ」
「それで、三人に囲まれて、里佳がいきなりキスしてきたんだよ。それをスマホで撮られた」
「そのあと、里佳に告白されて『馬みたいに走る君が好き』って言われたんだよ。アイツどんなセンスだよ」
 本当はシビアな話をしてるのかもしれない。だけど、余計な情報が多すぎて、結局、私は笑ってしまった。そして、私と瑞希は、私が笑ったのをきっかけに、また気がするまで笑った。



「俺、そのとき、吹き出しちゃってさ。――結果、里佳とは険悪な雰囲気になっちゃった」
「吹き出さなかったら、告白受け入れてた?」
 そう聞くと、瑞希は首を振った。
「俺は最初から詩音のことが好きだった。だから、どんな告白だったとしても、最初から断ってたよ」
「嬉しいけど、なんでこんなに複雑な気持ちなんだろう」
「大丈夫、面白い話だから、気にしなくていいよ」
 もう、気になってるのかどうかも自分でもよくわからなかった。ただ、里佳が急に私に敵意を剥き出しにして、粘着していた理由がわかったから、それだけで十分な気がした。

「あー、なんでアイツ、絶望的なセンスなんだろう。こんなこと言われて、好きになってくれるってマジで思ってたのかな」
「マジで思ってるって考えたら、また笑えてくるね」
「そうだな。――だから、こういうこともあって、俺と詩音のこと、目の敵にしてきたのかもしれない。――悪かった。ごめん」
「――いいよ。別に瑞希悪くないし」
 私はそう言ったあと、ココアを一口飲んだ。

「あ、ひげ出来てる」
 瑞希は右手の人差し指で私を指した。私は慌てて、紙ナプキンで口を拭った。




55

「今日は一日かけて、こないだ作った曲、肉付けしよう」
 花菜は持ってきたMacBookを開いた。今日は奮発してスタジオを一日中部屋を借りることになったから、8時間もここにいることになる。

「花菜、8時間もここに居て大丈夫なの?」
「うん。今日は親に土下座してきたから、大丈夫」と花菜はそう言って、笑った。
「あ、そうだ、いい忘れてたけど、詩音からもらったもう一つの曲もいい感じになったから、あとで聴いてもらってもいい?」
「やったー。楽しみ」
 私はそう言ったあと、右手の親指を立ててグーサインを花菜に送った。



 結局、午前中の3時間で曲合わせするまで行かなかった。花菜がギターでこうしたいってパートから作っていき、ベースとドラムを交互に調整した。
5分くらいの曲のコード進行を微妙に調整したり、印象的なフレーズをどのタイミングでいれるかとか、そういう細かくて、答えのないことをずっと三人で考えた。
 Bメロのからサビに行く所の雰囲気が、煮詰まったちゃったから、公民館の近くにあるマックでご飯を食べることにした。



56

「なにそれ。大丈夫だった? 詩音」と花菜は真剣に心配してくれていそうな表情でそう言った。
「めっちゃ、寒かった」
「だよね。そいつやばいね。――名前なんだっけ?」
「リーダーは里佳。水をかけたのは桃果。コバンザメのブスは成美」
「ふーん。そいつらってそんなに目立ってたっけ? 私、全然、記憶ないんだけど」
「そういえば、博が言ってたんだけど、去年も男に手出して、フラれてたらしいぜ」
「いや、その情報いらないから」
 私はスパッとそう言って、ポテトを食べた。

「え、もしかして、瑞希と詩音、付き合ってるのバレたってこと?」
 花菜はニヤニヤしながら、そう言ったあと、左手に持ったままのチーズバーガーを一口食べた。
「それもあるけど、これのこと恨まれたらしくて」
 瑞希はスマホを取り出して、昨日、私に見せてくれた里佳の手紙を花菜に見せた。花菜は思った通り、大爆笑して、一気に呼吸困難になっていた。息できねぇって言いながら、しばらくゲラゲラ笑っていた。私と瑞希も昨日、満足するくらい笑ったのに、花菜と一緒になって笑った。

「ハムハムってやばいね。ハムゥ」
 花菜はそう言って、チーズバーガーを食べきった。
「ハムゥってなんだよ」
「うじ、うじ、ハムゥ、ハムゥ」
 花菜は嬉しそうに節を付けて、歌った。
「マジで笑い事じゃないんだって。私、明後日から学校いけないよ」
「俺も行けないなぁ」と瑞希がヘラヘラしながらそう言った。
 
「ちょっと。誰の所為でこうなったと思ってるの?」
「悪い、モテ男はつらいわ」
「ハムハム」
 花菜が瑞希に茶々を入れたから、私はそれを見て、また笑い続けた。





57

君のこと見つめてた
ずっと前から
内気で気弱だったあの頃の私

初めて私の声が届いたあの日
あなたに手が届いたと思ったんだ
二人の心がひとつになったよね

いつしか、同じ空を見上げて
同じ風を感じ羽ばたいて

君に会う夢を見たんだ
なんて幸せな瞬間
思い出の欠片消えないように
もう、あなたはいないから

君のこと考えていた
ずっと前から
内に閉じこもったままだったあの頃の私

初めて君と手を繋いだあの日
あなたに近づいたと思ったんだ
二人の心はだけど、すれ違った。

揺れる木々を見て、風に怯える
同じ風を感じ羽ばたいて

君に会う夢を見たんだ
なんて幸せな瞬間
シャボン玉みたいに消えないで
もう、あなたはいないから

君に会う夢を見たんだ
なぜか切ない瞬間
昨日まで飛べたのになぜか飛べないよ
もう、あなたはいないから

 
  
 花菜はMacBookのトラックパッドを操作して、「鳥かご少女の憂鬱」の再生を止めた。床に置いているMacBookの前に三人で座って、黙って完成したテイクを聴いていた。
 思ったより微妙に感じた。三人がしばらくの間、沈黙したままだったから、きっと花菜も瑞希も同じことを思っているのかもしれない。
 
「うーん、なんかフックが足りない気がする」
 花菜は、持ったままのギターでEからEマイナーをかき鳴らし、沈黙を破った。
「フックねぇ」
 私は花菜が言っているのは音のことなのか、歌詞のことなのかどちらかわからない。
「――音は大丈夫そうだよな。詩音には悪いけど」と瑞希は申し訳なさそうな声でそう言った。
「うーん。私は音も少し足りないと思ったから、もうっちょい、自分のギター遊ばせてみるわ」
 花菜はギターをいじって何かを考えているように見えた。適当に音階を上げてみたり、左指をスライドさせて、ギュインとした音を何度も立てた。

「――覚えやすい言葉が少ないよね」
「そうだな。『もう、あなたはいないから』だけだよな。印象的な言葉」
「わかった。ちょっと待ってもらっていい?」
 私は自分のバッグの方まで行き、バッグの中からiPhoneを取り出した。そして、バンドのグループラインの画面を開いた。



58

君のこと見つめていた
《鳥かご少女の憂鬱》
内気で気弱だったあの頃の私

《水玉のワンピースを
丁寧に褒めてくれたあの日》
二人の心がひとつになったよね

いつしか、同じ空を見上げて
同じ風を感じ羽ばたいて

君に会う夢を見たんだ
なんて幸せな瞬間
思い出の欠片消えないように
もう、あなたはいないから

君のこと考えていた
《鳥かご少女の憂鬱》
内に閉じこもったままだったあの頃の私

《雨の交差点で喧嘩して
濡れた私を抱きしめたあの日》
二人の心は埋まらず、すれ違った

揺れる木々を見て、風に怯える
同じ風を感じ羽ばたいて

君に会う夢を見たんだ
なんて幸せな瞬間
シャボン玉みたいに消えないで
もう、あなたはいないから

君に会う夢を見たんだ
なぜか切ない瞬間
昨日まで飛べたのになぜか飛べないよ
もう、あなたはいないから


 ボーカルだけ、書き直した歌詞で撮り直した。また、三人でMacBookの前に座って、じっくり聴いた。

「いいね。さっきより、垢抜けた気がする。あ、雨の交差点のところから、一番とギターの雰囲気変えられそうかも。ベースは一番と同じにして、最初はジャカジャカして、最後ビブラートかけてみるわ」
「おーいいね。花菜。感傷に浸る感じにするってことだろ?」
「そうそう! 瑞希わかってるねぇ。こんな感じかな」
 花菜はそうって、ギターを弾き始めた。
 私はギターに合わせて『雨の交差点で喧嘩して』と歌い始めた。

 ――確かにいい感じになってる気がする。

「あ、だけど、このやり方だと、詩音にも変えてもらわないとダメか」
「え、どういうこと?」
「8ビートの区切りを3、3、2にしたいんだよね。1、2、3で一コードにするの。3でE、3でG#m、2でC#mって感じで」
 花菜はギターを弾きながら、そう言ったから、私はギターを持ち、言われたコードで何度か練習した。いいよと花菜に言うと、花菜は私のベースに合わせて、ギターを弾いた。

「いい感じ」
 私がそう言うと、花菜はにっこりと笑った。




59

 憂鬱のまま、教室の扉を開けた。
 一瞬、何人かの視線を感じたけど、そのあとはいつものような雰囲気に戻った。ただ、奥の窓側で里佳と桃果、成美の強い視線を感じた。私は自分の席まで歩み始めた。里佳と目が合う。里佳の目はなぜか敵意に満ちているように思えた。昨日はバカにしたような目だったのに、今日の目はなにか違う――。

 リュックを机に置き、席に座った。コートを脱ぎ、椅子にかけた。ここまでは普通だ。不気味すぎるくらい普通だ。
 なにかあるんじゃないかと思って、私はとっさに机の収納を両手でさわったけど、特に何もなかった。

 一旦、弱く息を吐いた。
 だけど、なにも起きなかった。



 朝から、結局何も起きないまま、学校は終わった。瑞希はいつも通り、博とじゃれあっていたし、里佳は私にちょっかいを出さなかった。ホームルームが終わって、すぐにコートを着た。教科書をリュックをの中に入れた。

「帰るぞ」
 瑞希に声をかけられて、身体がビクッとした。教室で瑞希に声をかけられることは今までほとんど、なかったから、慣れていない。
「ほら、早く。置いていくぞ」と瑞希はそう言って、歩き始めた。
「待って」

 私は慌てて、リュックを持ち、瑞希の後ろをついていった。 




60

「え、そんなことになってたの?」
 私はスタバの中なのに思わず大きな声を出してしまった。

「あぁ。アイツ、やるよな」
 瑞希は微笑んだあと、マグカップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。窓側のカウンター席で二人並んで座っている。窓からの冷気で寒く感じた。瑞希はコーヒーを飲み終えて、マグカップをカウンターに置くと、鈍い音がした。

 世界って、思ったより単純なんだって、ふと思った。
 今日は夜から雪が降るらしい。だけど、窓越しにみる街は晴れていて、そんな気配は一ミリも感じなかった。

「博ってすごいね。里佳とグルかと思ってた」
「俺のマブダチだから、博も里佳たちのこと嫌ってるみたいだよ」
「で、その動画のデータ、瑞希はもらってないの?」
「いや、もらってないよ。そんなの見たって腹立って、寝れなくなるだけだから」
「私のことなのに、腹立ってくれるの?」
「バカ。当たり前だろ」
 瑞希はそう言って、もう一口コーヒーを飲んだ。
 博は私が水をかけられている動画を里佳と桃果、成美に見せて、これ以上、私と瑞希に手を出したら、動画をSNSで拡散するって言ったらしい。

「さすがにあんな動画、拡散されたら退学だよな」
「そうだね。――結局、担任はなんにもしてくれなかったからね」
 私はそう言って、ココアを一口飲んだ。口いっぱいに甘みが広がった。

 結局、あの日、私と瑞希が早退した日は保健室で担任に事情を説明したあと、帰ることにした。博が言うには担任は里佳たちには何も聞かなかったらしい。

 面倒なことは黙殺される。
 ――だから、自分たちで解決するしかないと思ってた。
 だけど、博がそれを手助けしてくれた。

「なあ、そんなことよりもさ。話したいことがあるんだよ」
「――なに?」と私がそう返すと、瑞希は真剣な表情になった。

「やっぱり、サッカー辞めるわ。悪い」
 瑞希は私をじっと見つめていた。復帰して、このままサッカーも続けると思っていたから、私は急にそんなこと言われたから、思わず、そのまま聞き返してしまった。
「え、なんで。――両立できないの?」
「本当なら、そうしようと思ってた。――だけど、あやふやなままでいると両方とも中途半端になる気がしたんだ」
 瑞希は真っ直ぐな目で私を見つめていた。もう決めたことだからって顔をしているように思えた。

「そもそも、未発見フェスと夏の大会が被るんだよ。――お遊びでバンドやるなら全然大丈夫だけど、俺らはもうそうじゃない。だから、辞めることにした」
「そうなんだ」
 私はそれ以上、なんでと言わなかった。しばらくの間、お互いに何も言わない時間が流れた。私はココアを飲みながら、外の景色を眺めた。目の前を通った女の人はキャメルのコートの上にマフラーをつけて、寒そうに身体を縮こませながら歩いていた。
 太陽がだんだんと弱くなっている。黄色くて弱い日差しが店内にわずかに差していた。

「詩音、相変わらず、冷たいやつだな」
「――こういうとき、なんて声かければいいのかわからない。――サッカー辞めないでとは言いたくないし」
 瑞希は声を出して、ふっと笑った。

「ちょっと、笑わないでよ」
 私はそう言って、瑞希の左手の甲を右手で弱く叩いた。
 
「不器用だなって思っただけだよ」
「だって、本当にわからないんだもん」
「俺、サッカーにはもう未練ないよ。――別にプロ目指してるわけでもないしさ。たまたま、サッカーが楽しく感じたから、やってただけだし」
 瑞希はそう言ったあとコーヒーをまた一口飲んだ。

「――嘘つき」
「え?」
「本当は一瞬、目指そうかと思ってたんでしょ。サッカーのプロも」
「――ほんの一瞬な。自分で言うのはかっこ悪いけど、結構、俺、スカウトに声かけられたりしてたんだ。わざわざ、俺のこと見に来たって言ってくるスカウトもいた」
「へえ。それなのに辞めちゃうんだ」
 私がそう言ったあと、また長い沈黙が流れた。たぶん、瑞希は私に怒っているわけではなさそうに思えた。きっと心の整理をしているんじゃないかなって私は思った。

「――予定調和って嫌いなんだよな。俺。別に集団行動も得意ではないしさ。あれだよ。もし、俺がJリーガーになったとして、先輩方と一緒にサッカーできるかって考えたら、俺、あんまりイメージわかないんだよね」
「へえ」
「――たぶん、人間関係でやってられなくなるし、俺よりも上の次元の人達のなかで、サッカーを極めるイメージがわかないんだよ」
 瑞希はもう一口コーヒーを飲んだあと、ふっと息を吐いた。

「それに、プロで怪我なんて付き物だから、今の状態じゃ、イップス克服するのも無理かもしれない」
「――え、治ってたんじゃないの?」
 あの試合のあとから、瑞希からサッカーのことを聞いていなかったことに、私は今更気づいた。
 
「あの試合のとき、左足でシュート撃てたのは、あのネックレスのおかげだったんだよ。きっと。あのあと、治ったかと思ってずっと、ここまで練習続けてきたけど、治ってなかった」
「そっか――」
「だけど、あのとき、撃てたのは詩音のおかげだよ。――ありがとう。だから、いま、こうして諦める決心もついたんだ」
 瑞希が私の方を向き、私の目をじっと見ている。
 
「あと、TikTokでバンドがバズったから、デビューするのなんて夢かもって思ってたのが、いけるって方に確信できたのも大きかった」
「そうなんだ」
「もう、俺たちは、少し前とは違うんだよ」
 確かにそうかもしれないって思った。すでにこの間のTikTokの動画は200万再生を越えていた。拡散されやすいSNSだって言われているのは知っていたけど、まさか、こんなに多くの人に私たちの曲を聴いてもらえると思ってもみなかった。瑞希が言った通り、本当に私たちは、少し前とは違うのかもしれないなって、あらためて、ふと思った。

「あぁ。もっと喜べよ。俺もマジでやるから」
「私もだよ。花菜は当たり前のようにマジだし、決心も強いよ」
「知ってるよ。――俺たち、今、大事な1年を過ごすことになるんだから、デカいことやってやろうぜ」
 瑞希はそう言いながら、左手で、私の右手を握った。




61

 6月になった。3年生になったとか、あと1年で卒業だとか、進路はどうするだとか、私にとっては、そんなのどうでもよくなっていた。先月未発見フェスに送った曲はすでに1次予選を突破していて、今日、結果が発表される。
 私たちはいつものファミレスに集まって、12時に発表予定の結果を見ることにした。結果はホームページで発表される。この2次予選を突破すると渋谷で3次予選の演奏をすることになる。そして、3次予選を突破すれば、次は東京でファイナルに進出して、演奏することになる。

「あー、緊張する」
 瑞希が肩を縮こませながら、左手で口を覆っていた。

「瑞希がこんなに緊張するなんて、情けないねぇ」
 花菜はいつもの調子で瑞希をおちょくった。
「うちのメンバーのなかでは瑞希が一番、こういう大舞台経験してるのにね」
「うるさいなぁ。サッカーとは違うんだよ。緊張の感じが。こっちは結果が発表されるまで心臓に悪くて、緊張するわー」
 瑞希はため息を吐いたあと、プラスチックのカップに入っているアイスコーヒーを一口飲んだ。

「ねえ。私たち、十分やったよね。1年生の時と比べ物にならないくらい成長してると思う」
「そうだね、本当に詩音の言う通りだと思うよ。――私たち、本当に頑張ったと思う」
「だよな。せめて渋谷でワンステージくらいはやりたいな」
「瑞希。なに言ってるの。私たちはファイナルまで残るんだよ。そして、優勝して、有名になるんだよ!」
 花菜は右手でボンとテーブルを軽く叩いた。

「悪い。そうだった。優勝。優勝」
 瑞希はもう一口コーヒーを飲んだ。iPhoneには11:58と表示されている。
 ――あと2分がもどかしい。

「ねえ。渋谷は一曲だけだよね。何にする?」
「私はThanks happy Peachやりたいな。詩音は?」
「私も、盛り上がるのやりたい。――最後かもしれないし」
「だから何言ってるの! 詩音も。私たちはファイナルまで行って、作った3曲披露して、優勝するんだよ!」
 花菜はまた右手でボンとテーブルを軽く叩いた。
 
「ごめんそうだった。優勝。優勝」
 私がそうやってぼそぼそ唱えていたら、12時になった。
「よっしゃ。アクセスしてみようぜ」
 瑞希はそう言って、自分のスマホを操作し始めた。私と、花菜も自分のiPhoneを操作し始めた。




62

 ふう。とほっぺたを膨らませて、息を吐いた。何度、同じことをしても心細い。県大会のときもそうだった。私は元々、小心者だから、こんなところは場違いなのかもしれない。前の組のバンドが終わった。下手の舞台袖は真夏なのにすごく寒く感じた。別に空調がいいわけじゃない。私が緊張で冷え切っているだけだ。
 隣にいる瑞希も緊張しているように見えた。時折、ジャンプして「よっしゃ」と小声で言っていた。花菜だけはマイペースでいつもみたいにニコニコしていた。

 緊張すると、それぞれの人間性が出るって本当だと思う。すでにTikTokの動画は1000万回も再生されていて、おかげで、私たちの認知度は、ほかのバンドより大きい気がする。私たちがファイナルに出ることを動画で報告したら、三次予選のチケットが一気に売れちゃったらしい。
 動画がバズってから、初めて人前で歌うから、そんなに人気になっている実感はまだない。そんなことを考えると余計に緊張しちゃう気がする。
 だから、私はすっと息を吐いたあと、そのすべてを忘れてしまうことにした。
 ――もう、私はやるしかないんだ。
 私はPOPスターなんだから。

「よし、二人とも集まって」
 花菜がそう言ったから、私と瑞希は2歩分くらい花菜の前に寄った。急に右肩に手の感触がした、向かいにいる瑞希をみると瑞希の肩にも手が乗っていた。私と瑞希は慌てて、それぞれの相手に手をかけると円陣ができた。

「やってやるぞ」
 花菜が小声でそう言った。そのあと、三人で無言で、下の方に重心をかけ、無言で気合を入れた。




63

「こうかな」
 花菜はそう言って、曲名が書かれた付箋をいくつかテープルから、剥がし、それらをテーブルの右側にまた貼り付けた。テーブルには4曲が並んだ。予選で使った『Thanks happy Peach』はそのまま使うことになるから、元々、テーブルの右側に置かれたままだった。

『恋とレモネード』
『感傷ハニーガール』
『ハイライトハーバー』
『鳥かご少女の憂鬱』
 決勝まで2週間を切った。10曲作ったうちから、残りの2曲を選ぶ。まだ、頭の中に3次予選の声援の余韻が残ったままだった。あの日、集まった人たちの多くは、本当に私たち目当てだったみたいで、私たちの一つ前のバンドが登場したときよりも、明らかに盛り上がっていた。
 
 だから、私もスイッチが自然と入り、気分は完全に売れたPOPスターになりきった。歌い終わり、楽屋に戻るまでの間、私の両足はまだガタガタと震え続けていた。というより、ステージが終わったあとのほうが、逆流したみたいに緊張していた。だから、ようやっとの思いで、楽屋にたどり着くと、私はスイッチが切れたように力が抜けてしまい、床に崩れしまった。

「ラッシュアワーラブストーリーはナシか」
 瑞希は悔しそうな声でそう言った。この曲の作詞は瑞希がやった。

「私としてはThanks happy Peachと合せ技をしたいなって思ってるの」
「合せ技?」
 私は花菜にそう聞いた。
「うん。Thanks happy Peachの一番後ろのコードと合う曲がこの4曲かなって思った」
「私の気持ち的には感傷ハニーガールでもっと盛り上げて、終わりたいな」
「そしたら、全部アップテンポな曲にしちゃう? これにハイライトハーバーとか入れちゃって」
 瑞希がそう言ったあと、うーんと花菜は考え込んでしまった。

「なんかさ、うるさく思われるのも嫌だよね。私たち、しっとりした曲も持ってるのにさ」
「そうだよね。花菜の言う通りかも」と私はそのまま花菜の意見もそうかもと思った。

「そしたら、こういうのはどうだ」
 瑞希は付箋をいじって、並べ替えをした。

『鳥かご少女の憂鬱』
『Thanks happy Peach』
『ハイライトハーバー』

「うーん、明るいのがPeachしかないのも寂しいよね」と花菜はそう言って、ハイライトハーバーを外した。

「鳥かごはOKってこと?」と私が聞くと、うんと花菜は頷いた。音楽的センスは花菜が抜群に優れているから、セットリスト考えるときは花菜の言うことを聞いたほうがいい。
 セットリストを作るのが一番楽しい。今までは4曲のうち、2曲選ぶとかしかやったことがなかった。だけど、そのときでもあーでもない、こーでもないってやり取りするのがすごく楽しく感じた。

「あ、せっかくだから、桃からレモンにつなげるのいいかも」
 花菜はそう言って『恋とレモネード』を『Thanks happy Peach』の下に貼った。

『鳥かご少女の憂鬱』
『Thanks happy Peach』
『恋とレモネード』

 付箋はこの順番で貼られた。
  
「いいかも。一回、データで聴いてみたい」
 私がそう言うと、花菜はオッケーと言って、MacBookを操作して、鳥かご少女の憂鬱を流した。




64

 前の組のバンドが終わった。また今日も両手が冷えている。何度もグーパーグーパーと両手を開いたり閉じたりした。
「ここまで来て手遊びかよ」
「違う。冷えてるの」
 私は眉間のシワを寄せて、瑞希の方を見た。瑞希は笑っていた。

「笑ってないで温めてよ」
 瑞希は両手を使って私の左手をぎゅっと包んだ。
「大丈夫。これで余裕」と言って、瑞希はニヤッとした表情をした。首には足形のネックレスが付いていて、ステージの袖で、薄暗い中でも、キラッとしていた。

「ちょっと、演奏前にいちゃつかないで」
 花菜は笑って、私の背中をぼんと叩いてきた。叩かれた瞬間、ぼふって息が漏れるくらいの衝撃だった。

「痛ったー」
「これで大丈夫」
 花菜はいつものように右手でピースサインをした。
 
「二人とも集まって」
 花菜がそう言ったから、私と瑞希は2歩分くらい花菜の前に寄った。右肩に手の感触がした、自然にそれぞれが相手の肩に手をかけると円陣が簡単にできた。

「ここまで来たら、優勝じゃ」と花菜が小声でそう言った。そのあと、三人で無言で、下の方に重心をかけ、無言で気合を入れた。




65

『続いての未発見はコイツらだ!』
『フラワー ドリンキング ジャックダニエル!』
 スタッフの人にいってらっしゃい、頑張って。と言われ、私たちはステージの方へ歩き始めた。
 瑞希を見ると瑞希は両肩をぐるんぐるん回しながら歩いていた。花菜は腰に両手をあて、前ならえの一番前の人のポーズをしていた。

 袖を抜けて、一気に光が私に当たるのがわかる。
 太陽のように眩しいサスペンションライトの白さで青い残像が焼き付いた。
 歓声がする。拍手だけじゃない。ドリエルーって声もする。
 
 ――もう、私の舞台だ、私はスターなんだ。
 POPスターになりきろう。

 もうすでに瑞希と、花菜は定位置についていて、顔を見合わせる相手はいない。
 ライトの熱でステージが熱い。私はスタッフから、ベースを渡され、それを肩にかけた。花菜と瑞希はすでにチューニングを始めている。
 私も慌ててチューニングを始めたあと、マイクスタンドの前に立った。


「こんにちは! フラワー ドリンキング ジャックダニエル。略してドリエルです!」
 そうマイクに告げると、瑞希が私に合わせて、ドラムを叩いた。そのあとすぐに歓声が上がった。薄暗い中でお客さんの顔がはっきり見える。手を上げてくれている人が多くてびっくりした。
 ふう。とほっぺたを膨らませて、息を吐いた。出来の良い3曲になったはずだ。

 ――私はスターだから大丈夫。
  
「えー。今日はギターの花菜、ドラムの瑞希、そして、ボーカル兼ベースの詩音がホットな曲持ってきました。ぜひ、最後まで楽しんでくださーーーい!」
 私がそう言い終わると、瑞希がカウントを始めた。――ちょっと、早いって。私は慌てて、左手でベースを握り、1つ目の音を弾いた。腹にしっかりとした低音が響いた。

 ――本当は、曲名言うつもりはずだったのに。

「鳥かご少女の憂鬱!」
 なんとか、ベースのリフを弾きながら、私は叫んだ。
 


 
 君のこと見つめていた
 鳥かご少女の憂鬱
 内気で気弱だったあの頃の私

 水玉のワンピースを
 丁寧に褒めてくれたあの日
 二人の心がひとつになったよね

 いつしか、同じ空を見上げて
 同じ風を感じ羽ばたいて

 君に会う夢を見たんだ
 なんて幸せな瞬間
 思い出の欠片消えないように
 もう、あなたはいないから

 君のこと考えていた
 鳥かご少女の憂鬱
 内に閉じこもったままだったあの頃の私

 雨の交差点で喧嘩して
 濡れた私を抱きしめたあの日
 二人の心は埋まらず、すれ違った

 揺れる木々を見て、風に怯える
 同じ風を感じ羽ばたいて

 君に会う夢を見たんだ
 なんて幸せな瞬間
 シャボン玉みたいに消えないで
 もう、あなたはいないから

 君に会う夢を見たんだ
 なぜか切ない瞬間
 昨日まで飛べたのになぜか飛べないよ
 もう、あなたはいないから




 瑞希のハイハットがシャカシャカ響いている。

「ありがとう!」
 私がマイクの前でそう言ったあと、ものすごい声援と拍手が会場に響いた。私は右側を向き、花菜と、瑞希の目を見た。二人とも笑っていた。花菜が首を前に振り、合図が送られた。そして、最後の音をかき鳴らして、『鳥かご少女の憂鬱』は終わった。

 私は再び、前を向き、両手でマイクを握った。

「えー。ご存知の通り」
 私が言うと、会場から笑い声が上がった。私もおかしくなって笑うと、会場全体に私の笑い声が響いた。
「次の2曲でラストになります」
 横をみると花菜も両手を叩いて笑っていた。瑞希が適当にドラムをつけてくれた。

「――実は、私、詩音は半年くらい声が出なかったときがありました。病院に行っても、治るまでに時間がかかると言われ、歌を歌うどころか、会話もまともにできないときがありました」
 私の突然のカミングアウトなのに会場はドン引きしないでくれた。むしろ、拍手を送ってくれて嬉しくなった。

『頑張ったねー』と客席から男の人が叫んでくれた。あ、そっか。私、自分が思っている以上に頑張っていたのかもって、ふと思い、そして、一瞬、胸から何かがこみ上げそうになった。本当に優しすぎるじゃん。
 ただ、まだ取り乱すところじゃないのはわかっているから、それをぐっとこらえるためにすっと、息を吐いた。

「ありがとう」
 ゆっくり、そう言うと、客席は笑ってくれた。それに照れくさくなって、思わず、私は左手で鼻をさわっている間に、客席はまた更に笑ってくれた。

「花菜や瑞希のおかげでここまで来ることができました。かすれた声のときに私を支えてくれたのは瑞希でした。声が戻って、ここまで連れてきてくれたのは花菜でした。そんな二人はかけがえのない最高のパートナーです」
 また、歓声と拍手を客席が送ってくれた。本当に私たちって、まだデビューもしてないアマチュアなのかな。ふと、そう思うくらい、観客はあたたかく感じ、そして、本当に多くの人たちが私たちのことを応援してくれてたんだって思った。

 悲しみ続けて、声が出せなくなった私はもういない。
 瑞希がいつか言った通り、もう私たちは、少し前とは違うんだ――。

「ドリエルが再起した原点的な曲、Thanks happy Peachと、そんなときのことを書いた、恋とレモネード。二曲続けて聴いてください!」 

「1,2、3、4!」
 瑞希のカウントがすぐに始まった。

 ――ちょっと間、開けてよ。
 私はまた、慌てて、ベースをかき鳴らした。
 

 
 ピーチの甘酸っぱさのように
 憂鬱を忘れるために
 桃色のワンピースで外に出よう

 永遠に見つからないタイムカプセルのように
 そっと耳を塞ぎたい気分だから
 桃を食べよう。ゆっくり砂浜で
 
 Thanks happy Peach
 くだらない冗談を言い合って
 世界をペンキでピンクに染めよう
 プールに飛び込んだピンククジラを
 みんなで祝福して
 スパークリングでお祝いしよう

 ピーチの甘酸っぱさを感じ
 憂鬱を忘れてよう
 グチュグチュの白を吸おう

 永久に今がつづくタイムリープのように
 空想は桃色の恋心みたいね
 桃を食べよう。ゆっくり砂浜で
 
 Thanks happy Peach
 クリームソーダをかき回して
 流氷みたいなアイスで白に染めてしまおう
 空に戻ったペンギンの群れを
 見ながら飲み込んで
 炭酸をゆっくり味わおう
 
 Thanks happy Peach
 サンクス!ハッピーピーチ!
 


 ベースはEコードを抑えたまま、リズムを取る。私のベースだけが会場に鳴り響いている。
 花菜のギターソロが始まった。練習した通り、花菜のソロに合わせて、リズムを作る。8ビートを3、3、2で細かくコードを区切る。
 タッピングを慎重にやり、一定のリズムを維持するように心がける。ドラムがない間、私がこの曲のリズムを作る。
 最後まで来た。私は予定通り、ベースをかき鳴らすのをやめた。そして、花菜のビブラートが効いた、高音のギターソロが会場中に響き渡った。
 ギターが鳴り止むと一斉に会場から拍手と声援が送られた。会場が沸いている。熱くなる感じを私は初めて感じている。

 そして、頃合いを見計らって、瑞希のドラムが始まった。私と花菜はAコードから始まる『恋とレモネード』のイントロを弾き始めた。


 
 レモンを絞ってレモネードを作りましょう
 すべてを忘れよう
 君が声を失ってもう半年が過ぎた
    
 なぜだろう
 生活に彩りは消えた
 胸に耳をあてて、本当は君の声を聞きたい

 声を失った君とダンスをして
 いろんな事情を忘れてしまおう
 心の隙間、己の闇、
 レモネードに溶かして
 生まれたての君と新たな道を進め!

 どうして
 君は声を失ったんだろう
 向こう岸に、いる君を取り戻したい
 
 恋を失った君とロマンスして
 憂鬱な未来を忘れてしまおう
 凍った心、忘れた興奮、
 レモネードに溶かして
 生まれた君と運命を歩め!

 声を失った君はある日突然
 誰よりも熱く「好き」と言った
 溶けた魔法、ハッピーエンド、
 レモネードに溶かして
 取り戻した君と永遠に突き進め! 



「サンキュー! ありがとう! フラワー ドリンキング ジャックダニエルでした!」

 私はマイクに向かって叫んだあと、深いお辞儀をした。
 そして、また多くの人たちの前に立ってみたいと強く思った。




66

 まだ、優勝した余韻は残っている。
 自分のなかで少しだけ熱が冷めたような気がしたのに、花菜のTikTokアカウントはさらにバズって、世間の熱は更に熱されているみたいだった。だけど、その実感はいまいち沸かない。きっとそういうものなのかもしれない。未発見で優勝して、少ししてから動画が今まで以上にバズり始めた。
 前にあげた動画は1200万回再生になり、いくつかの動画は、100万再生を越え始めた。フォロワーも一気に10万人以上になった。

 フェスの優勝者のなかでも、今までにないバズ方だったから、レコード会社のマネージャーからデビューが早くなることが伝えられた。
 そして、アルバムデビューが決まった。9月リリース予定になったから、ものすごく忙しくなった。1年生のときに作った3曲と1月からずっと曲、10曲のなかから、8曲をアルバムに入れることになった。
 こうして、目が回るような高校最後の夏休みが始まった。



 ファースト・アルバム、リリース前のプロモーションとして、テレビの音楽番組にいくつか出演することになった。そして、全国ネットのFMラジオにもゲスト出演することになった。
 マネージャーから送られてくるスケジュールで夏休みがほぼ、終わってしまいそうな勢いだった。
 だから、レコーディングも時間があまり取れないから、プロデューサーの意向で、持ち合わせの10曲すべてをいれることになった。細かい曲の手直しはほとんど、花菜がやっていた。

 忙しすぎて、花菜は親と喧嘩になったらしいけど、花菜のおじさんがなだめてくれたらしい。
 そして、レコーディングは3日で終わった。滅茶苦茶疲れて、帰りの電車の中ではみんな無言になったままだった。



 「夢みたい」
 花菜はそう言った。私と花菜、そして瑞希の三人でタワレコの特設コーナーに並ぶ自分たちのアルバムコーナーを眺めていた。
 
「写真撮ろうぜ」
 瑞希がそう言って、スマホをバッグから取り出した。そして、スマホを操作してカメラを起動して、三人でぎゅうぎゅうになりながら、自撮りした。




67

 【衝撃】フラワー ドリンキング ジャックダニエルのギター。hana(17)まさかのシングルマザー。
 17歳の高校生バンドが衝撃デビューし、世間を熱狂させているが、実はギターのhana(17)は子持ちだった!

 電車の中吊り広告が空調で揺れている。私と瑞希は電車に乗り、気晴らしにデートに行くことにした。だけど、週刊誌の中吊り広告で現実に引き戻され、一気に萎えてしまった。
 週刊誌が発売した直後、私たちの話題が一瞬で炎上した。

 つらすぎる。せっかく、デビューしたのに大人はなんでこんなに汚いんだろう。世界なんて破滅すればいいのにって思った。
 炎上してから、花菜と連絡が取れなくなってしまった。LINEは全部未読スルーされている。

 8月と9月合わせて、テレビに5本出て、ラジオも6本出た。9月1日にリリースしたファースト・アルバムはとんでもない再生数を記録して、初週で3位になった。『Thanks happy Peach』と『恋とレモネード』もランキング入りして、プロデューサーから異例づくしって褒められたけど、実感がわかなかった。

 私はテレビに出るたび、派手な衣装を着させられた。
 『ガールポップの再来』とか、言われるようになり、と地雷系のワンピースを着させられたり、デニムのショートパンツが隠れるくらい丈の長い白Tシャツを着させられたこともあった。

 たった、数ヶ月で私は本当にPOPスターになっていた。



68

「疲れた」
「弱音吐くなよ。――俺もだけどな」
 あと一駅で目的の駅に着く。瑞希とのデートも久しぶりだった。本当は次の曲を作らなくちゃいけない。すでに2件タイアップの話が来ているらしい。ひとつはCMでもうひとつはアニメのオープニングらしい。

「マジで、週刊誌の中吊り広告とか、センス無いわ」
「センスの問題? これ」
「いや、センスじゃないな。倫理感? コンプライアンス?」
「どうでもいい」
「おい、どうでもいいってさ。なんか返してくれよ」
 瑞希は泣き言のようにそう言った。

「なんか、メンタルやられるな。これ」
「一番やられてるのは花菜だよ。――私たちなんて、大したことないよ」
「悪い。そうだよな」
 そろそろ次の駅に着くことを告げる自動放送が流れた。

「花菜と連絡取れなくなって、何日目だっけ?」
 瑞希は気だるそうな声でそう言った。
「たぶん、4日目」
「そっか。――花菜、戻ってくるかな」
「――戻って来なかったら、ぶん殴る」
「だよな」
 瑞希は気のない笑い方をした。




69

 隣町の海は静かに感じた。9月の終わりなのに、何人ものサーファーは海に漂い、波をじっと待っていた。
 駅から、海まで歩いてきた。私と瑞希は手を繋いだまま、黙ったままだった。きっと、私たちはこうしていているのほうがいいのかもしれない。

 最初の頃は声が出せなかったから、こうするしかないと思っていたけど、実は最初からこうしていても居心地がよかったんだ。
 コンクリートでできた階段に座った。座ったコンクリートは少しだけ微温ぬるかった。

「あ、コーラ買ってくるから、ここで待ってて」と瑞希はそう言って、すぐに立ち上がった。
「私も行くよ」
「いいよ。すぐそこだし。待ってて」
「ありがとう」

 瑞希は微笑んだあと、右手で私の頭をそっと撫でた。
 波の音はそっとしていて、海は穏やかに見えた。海は日差しで白く反射していた。声が出せなくなったあのときも瑞希と二人で海を眺めたことを思い出した。
 たった一年くらい前のことなのに、なぜかはるか遠くのことのように思えた。花菜が失踪したことや、綾香が交通事故で死んだことも、全てが昔のことのように思えた。

 そして、声が出せなくなったことも、瑞希と付き合い始めたことも。

 気がついたら、私は泣いていた。
 ――泣くつもりなんてなかったのに。

 思わず声が出る。喉が詰まる感覚が次々と涙を作り、それが無数に頰を伝い始めた。そのあとすぐ、頭のつむじのところに冷たさを感じた。そして、それはすぐに離れた。

「おまたせ」
 瑞希はそう言って、私の隣に座った。
「え、大丈夫?」
 瑞希は私が泣いていることに気づいたみたいだ。止めようと思っても、涙が止まらず、息をするたびにしゃくりあがった。本当に私は、派手に泣いている。
 なんでかわからないけど、涙がどんどんこみ上げてくる。

 瑞希がまた、立ち上がった気配がした。そしてすぐ、後ろから、瑞希に抱きつかれた。
 ゴツゴツして筋肉質の両手が私の鎖骨にあたっている。私は右手の親指と人差指で、目頭にたまった涙を拭った。

「きっと、大丈夫だよ。――俺たち、うまくいくよ」
 瑞希は私の耳元で諭すような声でそう言った。瑞希は私を抱きしめながら、左右に身体を揺すっている。私はそれに合わせて、弱く一緒に揺れた。

「ねえ」
「何?」
「ここまで私のこと支えてくれてありがとう」
「これからもだよ。――ここまでよく頑張ったな。詩音」
「――ありがとう」
 私がそう言ったあと、瑞希はそっと私を離した。



70

『FMシティ東京、六本木スタジオからお送りしているファンロックアドベンチャー。今夜のゲストはフラワー ドリンキング ジャックダニエルの3人です。こんばんは』
『こんばんは』
『いやー、みんな若い。フレッシュだね。ロハス北川はおじさん過ぎて、みんなが眩しすぎるわ』
『いえ、北川さんにお会いできて光栄です』
『あはは。それでは早速、一人ずつ自己紹介をお願いします!』
『はい、ボーカル兼ベースの詩音です』
『ギターの花菜です』
『ドラムの瑞希です』
『みんな、歳いくつだっけ?』
『ここ二人は18で私は17です』
『花菜ちゃん、これ、ラジオなんだから、名前言ってくれないとわからないよ。あはは』
『あ、ごめんなさーい。まだ慣れてなくて』
『あはは、大丈夫大丈夫。みんな高校三年生ってことで、花菜ちゃんだけ、まだ誕生日来てないってことなのかな』
『はい、早生まれなんで、まだ私だけ17なんです』
『あはは、そうなんだ。ということで、フラワー ドリンキング ジャックダニエルは未発見フェスで見事に優勝し、そして、今、TikTokなどで楽曲が1億回再生され、大バズリ中の、大、大、大注目アーティストでございます。というわけで曲、さっそく聴いてもらいましょうか。9月1日リリースのファーストアルバム、happy Peachより、フラワー ドリンキング ジャックダニエルで恋はレモネード』

 私はiPhoneのラジオアプリで自分の声を聴いている。ベッドに寝転がりながら、自分の部屋のなかで、自分の声を聴いていると不思議な感じがした。この番組のオンエア、本当は3人で聴こうねって約束していた。
 23時から始まったこの放送は収録番組で、1週間前に収録したものだった。だから、まだ、週刊誌が発売される前の収録だった。

 北川さんの声は実際に会うと、すごく低くていい声のおじさんだった。
 無精髭が似合っていて、おしゃれなおじさんだなって疲れた頭のままそう思いながら、炎上寸前だった、あの日、私は収録を楽しんだ。


『それじゃあ、さっそくなんだけど、恋のレモネード、いいよねぇ』
『ありがとうございます』
『俺さ、びっくりしちゃったよ。これ、現役の高校生が作ってるの? って。最初、ドリエルのこと教えてくれたのマネージャーの子からだったんだけど、衝撃よ。いや、マジで』
『あはははは』
『そしてね、みんな物怖じしないのよ。今日はおじさんのほうが物怖じしちゃってるな。あはは』
『ありがとうございます』
『でさ、なんでジャックダニエルなの? 麻布十番でボトルキープしてるの?』
『あはは。私が詩音と昼間のカフェで二人で話してたんです。たぶん、そのお店、夜はバー営業するお店で、カウンター席にジャックダニエルの瓶がおいてあったんですよ。それで、いいなって、ね?』
『う、うん』
『初々しいねぇ。そしたら、ドラムのお兄ちゃん抜きでバンドの名前きめちゃったの?』
『そうなんです。ま、事後報告でいっかって感じで』
『あはははは』
『お兄ちゃん、瑞希くんはその時、どう思った?』
『マジか。って思いました』
『あはははは。さて、ここでもう一曲紹介しましょうか。未発見フェスではこの曲が群を抜いて評価よかったって風のうわさで聞いています。えー、Thanks happy Peach。業界ではピーチショックと言われています。これ、さらに衝撃的なのがこの曲作ったとき、高校一年生だったんでしょ?』
『はい、この曲で地元の軽音部の県大会で優勝しました』
『それを持ってきたってことだもんね。これ、2年前にもし、未発見フェス出てたら、もっと早くデビューしてたかもね。それでは、そんな一曲、聴いてもらいしょうか。じゃあ、三人で曲のコールお願いします』
『せーの、フラワー ドドリリンンキング ジャジャックダニエルで、Thanks happy Peach あれ?』
『あははは。息合わなかったねぇ。代わりにおじさんが言ってあげましょう。名前覚えてもらわないといけないからね。フラワー ドリンキング ジャックダニエルでThanks happy Peachです。どうぞ』




71

「――もしもし」
「花菜。――つらいね」
 ラジオの番組が終わったあと、花菜から通話が来た。

「やっぱり、花菜って芸能人、向いてるね。しゃべり上手だったよ」
「ありがとう。おしゃべりで初めて得したって思った」
 花菜の声は小さく、そっとしていた。
「イチカちゃんは大丈夫? 今寝てるの?」
「うん、放送始まる前に上手く寝てくれたら、無事にこうすることできてる」
「そうなんだ」
 私がそう言ったあと、しばらくの間、空気の音だけが流れた。

「ねえ。詩音」
「――なに?」
「私、そんなに悪いことしたのかな」
 花菜の声は涙ぐんでいるように聞こえた。
「――大丈夫。たまたま、目立ちすぎて、上げ足とられてるだけだから」
「――ごめんね。せっかく、上手くいってるのに」
「違うよ。花菜の所為じゃない。そして、イチカちゃんの所為でもない。――冷たくて、悪魔みたいな大人が悪い」
「――ごめん」
 花菜は涙声で静かにそう言った。しばらくの間、耳に当てているiPhoneのスピーカーからは空気の音を拾ったノイズが流れていた。時折、花菜が鼻をすする音が混じった。
 私はただ、じっと待つことにした。
 このまま、時が流れて、少しでも花菜が楽になってくれたら、それだけでいい。
 しばらくの間、マイクが空気の音を拾い続けたノイズが、iPhoneのスピーカーから流れた。



「ねぇ」
 花菜はようやく次の言葉を発した。

「――なに?」
「――私、すごい悔しい」
「――私もだよ。きっと、瑞希もそう思ってるよ」
「本当に悔しい。だからさ、明日、マネージャーに相談してみる」
「え、なにを?」
「私なりに社会に対して反抗すること」
 花菜の声は冷たく怒りに満ちたように聞こえた。私は急に不安になったけど、これ以上、何をするのかとか、そう言うことはあえて聞かないことにした。




72

「あちぃ」
 うしろの方から瑞希の声がする。いつも通り、屋上で私はサンドイッチを食べ始めていた。瑞希は私の隣に座ったあと、いつものマヨネーズパンが入った袋を開けて、食べ始めた。

「そういえば、マネージャーからの周知みた?」
「うん、見たよ。明後日でしょ。ちょうど金曜日だね」
「そうだな。日曜のラジオの放送のあとから、ずっとふわふわしてたから、ちょうどいいやって思っちゃった」
「そっか」
「なんだよ。相変わらず、そっけないな」
 瑞希はそう言って、もう一口、マヨネーズパンを食べた。もう10月の頭なのに、太陽は夏みたいに強く感じた。突き抜けるくらい高い青空は秋の始まりみたいなのに、季節がついていっていないように思えた。

「今朝のホームルームでさ、進路希望表配られただろ?」
「うん。うちのクラスも配られたよ」
 3年になり、私と瑞希は別のクラスになった。だけど、隣同士のクラスだから、廊下でよく瑞希とすれ違うことが多い。

「どうするの?」と私は瑞希に聞いた。
「バカ。俺は『ドラム』って書いてもう出したよ」
 瑞希は右手を前に突き出してグーサインをした。
「ロックだねぇ」
「ロックスターだからな。――詩音は?」
「『ドリエル』って書いた」
「バカだなぁ」
「ロックだねぇって言ってよ」
 私はそう言ったあと、左手で、瑞希の左胸を叩いた。

「いってぇ」
 瑞希がそう言ったあと、遠くでかもめが鳴き声がした。今日も海はキラキラしていて、きれいだった。

「――なぁ」
「なに?」
「このまま、ずっと詩音と一緒にいたいな」
「――私も」
 私がそう言ったあと、瑞希は私の方を見て、優しく微笑んだ。




73

「この度は、お騒がせしていますこと、お詫び申し上げます。申し訳ございません」
 花菜がそう言ったあと、頭を下げた。花菜に合わせて、私も頭を下げた。きっと瑞希も一緒に頭を下げているはずだ。
 レコード会社の会議室で私たちはiPhoneに向かって頭を下げている。とりあえず、騒ぎを起こしてしまった責任、大人として、頭はさげなくちゃならないってマネージャーから言われた。

 は? って思ったけど、きっとこれが大人の世界なのだろう。
 心の中で10秒数えている。とりあえず、10秒は頭を下げて欲しいと、マネージャーに言われたからだ。
 長い10秒だ。会議室の空調のスーっという音がこの部屋を支配している。

 9、10。

 私は頭を上げた。横目で左を見ると瑞希も頭を上げていた。真ん中にいる花菜はまだ、頭を下げたままだった。

 惨めになる。
 ――早く辞めて欲しい。頭を上げて欲しい。
 花菜はようやく頭を上げた。


「わたくし、hanaは週刊誌、ネット等、各種報道がなされている通り、子供がいる状態で活動しています。また、報道されている通り、15歳で出産し、シングルマザーで音楽活動をしています」

 そのあと花菜は一呼吸置いた。スタンドに付けられた私のiPhoneが床に置かれている。動画とコメントを確認するために、画面は演者側に向けられている。iPhoneには今の配信画面が写っていて、花菜が真ん中に左右に私と瑞希が写っていた。画面の中の私と瑞希の位置は反転している。

 「――だけど、15歳で妊娠、出産したことと、17歳でメジャーデビューしたことをいろんな人、不特定多数の人から叩かれるのはすごくつらいです」
 え、と思った。――花菜は予定にない話をしている。
「まず、最初に言いたいのは私は誰かのサンドバックなのでしょうか? 私を叩いて何が楽しいのでしょうか。私はまだまだ、未熟なギタリストですが、言わせてください。私は皆さんに元気を与える曲をたくさん作るためにこの世界を目指しました」

 撮影しているiPhoneの向こう側にいるスタッフが慌てている。マネージャーも一生懸命、両手で☓印を作って、修正するように伝えている。

 ――遅いよ。もう。
 
「実際、アルバムを出すことできて、しかもCD、You Tubeで本当に驚くくらいたくさんの人に私たちの歌を届けることができました」
 花菜はそう言ったあと、いったん、大きく息を吐いた。私は花菜の方を見ると、花菜は私を一度見て、アイコンタクトをした。
 
「あー、ごめんなさい。何言ってるのかわらなくなってきた」
 私と瑞希、スタッフは弱く笑った。

「頑張れ」
 私は思わず口に出してしまった。

「ありがとう――。私が今日一番、伝えたかったことを言います」
 花菜はそう言い切ったあと、いったん、大きく息を吸った。
 
「私は――。シングルマザーになってしまい、母として大切な子供を養い、育てるためにこの世界を目指しました。子供を養うということがかかっているので、必死です。――どんなミュージシャンでも必死だと思いますが、私は私なりに相当な覚悟を決めて、デビューを目指しました。子供が2歳になるまでにデビュー出来なければ、辞めるつもりでした」
 スタッフはすでに花菜を静止するのを諦めたみたいだ。マネージャーは頭を抱えている。
 
「もし、今、デビュー出来ていなければ、きっと、中卒のシングルマザーとして、他の職業で必死に働いていたと思います」
 私は膝に置いたままの両手をギュッと握りしめた。こんなの早く終えて、またステージで演奏がしたい。
 
「私は――。親や親戚に支えられたおかげで、幸運にもこの職業に就くことができました」
 そのあと、長い沈黙が流れた。左に座っている花菜の表情を横目で見ると花菜の頬には涙が流れていた。涙は配信用のライトに照らされ、キラキラしていた。

「――だから! それなりに覚悟を決めてやってますし、私の大切な家族のために仕事をしています。ただ、他の人よりも年齢が少しだけ早かったというだけです」

 私も急になにか胸からこみ上げてくる熱いなにかを感じた。涙が溢れそうだ。
 ――我慢しなくちゃ。
 
「メンバーに黙って、バンドも高校も辞めたことはものすごくつらかったし、――子供ができたけど、ずっと味方になってくれると信じていた彼に裏切られたのもつらかったです」

 ――我慢だ。
 ――私は目を開いたまま、右の頰に涙が流れたのを感じた。
 
「だけど、子供が生まれたら、前向くしかないんです。――私が前を向けたのは、ここにいる二人のおかげです。そして、見放さないで支えてくれた家族、そして、1歳になる我が子のおかげです」

 花菜は、静かに息を吐いた。動画確認用のiPhoneを見ると花菜は口をすぼませていた。
 
「なので、私は今後も活動を継続します。今後とも応援をお願いいたします」
「お願いします」
 私と瑞希は、ほぼ同時に言って、三人でまたカメラに頭を下げた。
 顔を上げて、花菜を見ると、花菜の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。私は花菜に微笑んだ。すると、花菜も微笑んでくれた。

「そして、もう一つ重大発表があります」
 瑞希はそう言ったあと、私の方を見て、微笑んだ。

 え? どういうこと――。

 私は聞いていない段取りに戸惑った。一体何の合図なんだろう。急に両手に力が入って身体がこわばった。

「花菜」
 瑞希が言うと、花菜はオッケーと言った。
「みんな。ありがとう。私はちょっと画面から離れるからね」
 花菜はそう言って、撮影用のスマホに手を振ったあと、私の肩をぽんと右手を置いたあと、カメラの画角から抜けた。

「え、なになに。わからないんだけど」と私がそう言うと花菜と瑞希、スタッフが笑った。動画確認用のiPhoneでコメント欄を見ると『なになに』と視聴者もざわついていた。
 瑞希が椅子を座り直し、私の方を向いた。だから、私も瑞希の方を向いた。瑞希はジャケットのポケットから、何かを取り出した。一瞬、キラッとしたように見えた。

「左手出して」
 瑞希が静かにそう言ったから、私は瑞希に言われた通り、左手を差し出した。
 一回、息を大きく吸って、すーっと吐いた。胸のドキドキがだんだん破裂しそうになってきた。

 左手に瑞希の手の感触がする。薬指にすっと冷たさが指先から付け根までたどり着いた。私はとっさに左手を上にあげるとキラキラ反射する透明な石が入ったシルバーリングが薬指についていた。

「詩音。――詩音以上のパートナーはいません。結婚してください」

 私は思わず、右手で口を塞いだ。
 
 ――急すぎるよ。心の準備もできてないのに。
 だけど、いいよ。ただ、タイミングが早くなっただけでしょ。
 スターらしくていいじゃん。その方が。

 だから、私は何も言わずに小さく頷いた。



74

「お疲れ!」と言って、三人で夜のファミレスで乾杯をした。
 地元に帰ってきたあと、ドリンクバーだけ頼んで打ち上げすることにした。

 いつもの駅前のファミレスは22時を過ぎているのに、少しだけ混んでいた。

「詩音、瑞希、本当にありがとう」
「花菜、よく頑張ったね」
「あぁ、マジでお疲れ」
「ありがとう――」
 花菜がそう言ったあと、急にうつむいた。

「おいおい、また泣くのかよ」
「だって、本当につらかったから。――私の所為で、こんなことになって」
 花菜はそう言ったときには、すでに泣き始めていた。

「だから、大丈夫だって。俺たち、一心同体だから」
「うん。そうだよ。それに花菜は悪くないのによく頑張ったよ」
「――ありがとう」と花菜はそう言って、泣きながら微笑んだ。
 私はバッグから、ティッシュを取り出して、私の隣に座っている花菜に渡した。ありがとうと花菜は言って、ティッシュで目頭を抑えていた。

「あー。もう。最高だな。二人とも」
 花菜は右手で私の右肩をポンと叩いた。私が思わず笑うと、瑞希も続けて笑った。

「花菜だよ。最高なのは。私、感動しちゃった」
「俺も」
「私も」
 花菜がそう言ったから、おかしくて、私は大きな声で笑った。瑞希も花菜も一緒に笑っていた。なんか、この瞬間が最高だなってふと思った。

 iPhoneの通知音がした。花菜のiPhoneも、瑞希のスマホもほぼ、同じタイミングで通知音がした。

「あ、マネージャーからだ」
 瑞希はそう言って、スマホをいじり始めた。
 私もテーブルに置いていたiPhoneを手に取り、メッセージを確認した。

「えー、やばいね」
 花菜は私にiPhoneの画面を見せてきた。画面には芸能ニュースが表示されていた。

『謝罪ライブでまさかのプロポーズ お騒がせ高校生バンド、ドリエルメンバー内婚約成立 ライブ内で祝福の声続々』

「やったぜ」
 瑞希は右手の親指を立ててグーサインをした。

「やったぜじゃないよ」
 私は左指につけたままの婚約指輪をじっくりと眺めた。照明で小さなダイヤモンドがキラキラとしていた。

「おめでとう。詩音。そして、瑞希」
 花菜はそう言って、私に微笑んだ。

「――ありがとう」
 私は照れくさくなった。そして、顔が急に熱くなるのを感じた。




75

「こんばんは! フラワー ドリンキング ジャックダニエル。ドリエルです!私たち含め、青春を卒業するみんなおめでとうーーー」
「1、2、3、4」
 瑞希のカウント後、曲が始まった。何台もカメラがある。ようやっと、テレビスタジオの雰囲気にも慣れてきた。
 ベースでリズムを刻む。右側を見ると、花菜が派手なギターリフを弾きながら、カメラの前でギターを立てて、高音域を速弾きしていた。
 私は花菜のギターにペースを乱されないように慎重にリズムを取る。喉を一度ぎゅっと絞めて、1つ目の音を上手く出せるように集中する。

 1、2、3、4
 心の中でカウントを取ってから、私は歌い始めた。

 

 ひとひらの花びらが私の手のひらに乗った
 もうすぐ、私の青春は終わりを告げる

 寂しいけれど、大人にならなくちゃならないわ
 もうすぐ、私の夢の爆弾を起動させよう

 人生の終点まで駆け抜ける
 もう準備はできたかい?

 チェリーブロッサム
 チェリーブロッサム
 切なくて、悲しいほどに
 ぎゅっとした力を私にぜひください

 ひとつだけ、私の願いを叶えてほしい
 もしも、君が興味があるなら優しくして

 悲しいけれど、時間は無情に進んでいくわ
 もしも、私の夢が叶ったら永遠を誓って

 恋愛の終点まで駆け抜ける
 もろくて儚いハートを守って

 チェリーブロッサム
 チェリーブロッサム
 爽やかで、青くなるほど
 ぎゅっとした愛を私にぜひください

 人生の終点まで駆け抜ける
 もう準備はできたかい?

 チェリーブロッサム
 チェリーブロッサム
 さよなら、私の青春たち
 ぎゅっとした夢を私にぜひください

 
 
「ありがとう! フラワー ドリンキング ジャックダニエルでした!」

 私がマイクにそう告げると、拍手と歓声が返ってきた。
 私は今、自分の声で世界を作り上げている。




76

「卒業おめでとう」
「帰ろ」
「詩音、おめでとうぐらい言ったらどうなんだよ。まったく」

 瑞希は微笑んだあと、私の右手を繋いだ。玄関と校門の間の道は同級生がどんちゃん騒ぎをしている。右の右側にはグラウンド、そして、左側には満開の桜が咲いていて、アスファルトは桜の花びらで淡いピンクになっていた。その中を私たちは、ゆっくりと歩き始めた。 

 ずいぶんと暖かくなったなと思った。
 瑞希とこの街を歩くのはきっと、しばらくはないのかもと思ったら、少しだけ寂しくなった。

 先月は新曲のプロモーションで忙しかった。
 『終点はチェリーブロッサム』で、アイドル着るような制服を着て、テレビで歌った。花菜の騒動は結局、自然に消えた。瑞希のプロポーズのほうが話題になり、テレビでも電話取材を受けた。
 
「なあ」
「なに?」
「記念に駅のエレベーター乗る?」
「嫌だよ。もう、あのときの私たちじゃないんだよ」
「わかったよ。乗んないよ」と瑞希はそう言って笑った。



 瑞希が鍵を開けた。ドアを開けると、まだ慣れない匂いが玄関から流れてきた。
 部屋には二人の家からそれぞれ運ばれたダンボールがそのままになっていた。私と瑞希だけの秘密基地みたいに思えた。1LDKの部屋が引き渡されたのは一週間前だった。

「今日から、一緒だな」
 私は頷いて、部屋を見渡した。ベッドだけが、生活感らしさを保っているように思えた。ベッドの手前にはダンボールが山積みされている。明日には瑞希が印税で買った電子ドラムが運ばれる予定になっている。だから、頑張って片付けないと。

「ねえ」
「なに?」
「本当に私たち、結婚したんだね」
「あぁ。ずっと一緒にいような」
 私が頷こうとしたとき、右の頰が暖かく感じた。瑞希は右手を私の頰に添えたまま、キスをした。時が簡単に止まり、私たちだけの世界になった気がした。

 ――これが日常になるんだ。って私はふと思った。