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 物語を読み終わった幸之輔は、大きな溜息を吐いた。

 書いたことが現実になるなんて、ありがちで独創性のないアイデアだ。だが、百歩譲ってそれはまだ許せる。

 それよりも、あまりにも暗くて救いのない展開に、何を楽しんで読む物語なのかまるでわからないことに気持ち悪さを覚えた。

「読後に憂鬱な気分になる物語とは……寧々は一体、何を思ってこの話を書いたのだろうか」

 作者の人柄や思想と物語の内容が似通うとは限らないし、フィクションだからこそ書けるものを書く作者もたくさんいる。しかし、逆に一致している可能性だって否定はできない。

 暴力や殺人等のわかりやすい悪がないのが救いだが、この作品が後者だとしたら、寧々の精神状態は良いものとは言えないのかもしれない。

 幸之輔はこの物語を分析することで、寧々の心を探ろうと試みた。

「もう一度読み直してみるか……大体、このシャーリーとかいう女は何がしたいんだ? キャラ造形の甘さも目立つな」

 冷静に読み解いていこうとしている自分がいると同時に、何度も読み返すことで不思議とこの物語に愛着が湧いてきた。

 ――この稚拙な物語に惹かれる理由は、なんだ? 

 胸を打つ部分はどこなのかと物語の中を行き来して探った結果、幸之輔は一つの可能性に行き着いた。

 それは物語の最後、メグミが失って初めて後悔する結末である。

 幸之輔は人生で後悔したことなどなかった。

 もう戻れない過去の出来事をいつまでも悔いていることは、無意味であると考えていたからだ。

 しかし今、寧々の書いた物語を通して『後悔』の感情を自覚した。

 もっと早く、『風立ちぬ』を改変した際の代償を、予測できていたならば。

 そもそも、結末を心中にしなければ。

 そしてもう少し、エイミーのことを知ろうとしていたら――

 考えようとしてこなかったことが、次々と脳裏に浮かんでくる。

「……認めざるを得ないか。まさか俺が、こんな気持ちを抱く日が来るとはな……」

 幸之輔は、自分がエイミーを失って寂しい、もう一度会いたいという感情を抱いているのだと結論付けた。

「さて、そうなると……先にエイミーに再会することを考えることにしよう。彼女の助言があれば、寧々の心情を解読する正確さが上がるだろうからな」

 捻くれた照れ隠しを口にしつつ、幸之輔はエイミーと過ごした日々を振り返っていった。

 彼女との会話や行動の中に、何か引っかかった点はなかっただろうか?

 塚本新一とマンション内で『羅生門』の改変をしたとき。

 小川陽路と学校のグラウンドで『泣いた赤鬼』の改変をしたとき。

 三島晃と飲食店内で『風立ちぬ』の改変をしたとき。

 当時の幸之輔にとっては実験に過ぎなかった改変でも、三人にはそれぞれ人生を変えるようなドラマがあったことだろう。そう思えば、一つひとつの改変は意味のある大きな事件だったに違いない。

 素直に認めよう。そんな改変のすべてを一緒に見届けたエイミーは、大切な相棒だ。

 なんでもいい、思いだせ。彼女の行動、言動、表情を――!

――まあ、気にならさないでください。小川さんとわたしは知り合いではありません。かつて中学陸上競技界で有名な方だったので、突然の邂逅にわたしが勝手に驚いた……ただそれだけのことですから。

「……待てよ。あの言葉は……」

 エイミーが過去のことを話したことなんて、数える程しかない。その中でも、幸之輔が知る人間と彼女の知る人間が共通したのは、小川陽路だけだ。

 では、どうして小川陽路なのか? 彼女は洛央高校の二年生で、スポーツ科に在籍する陸上部のマネージャーで……。

 幸之輔の脳内に、電撃が走った。

 陸上部だった寧々は、小川陽路の存在を知っていた。だが中学陸上競技の世界で有名だったとはいえ、今は引退している陽路のことを、帰国子女のエイミーが知っているなんて可能性は極めて低いはずである。

「……寧々の知っている人物を、エイミーも知っているということか?」

 寧々とエイミーの共通点なんて、女であることしか思いつかない。

 しかし共通点を探そうとするからわからないのであって、ふたりの関係性を頭から疑えば話は変わってくる。

 寧々が物語を書く上で作り出したキャラクターである、メグミという少女。

 彼女が現実世界に現れた姿がエイミーなのだとしたら、ある仮説が立てられる。

 幸之輔が『風立ちぬ』を改変した後、エイミーに降りた代償はなんだったのか。幸之輔が知る前に彼女は消えてしまったが、幸之輔は今までその代償が「エイミーの命を奪うこと」だと予想していた。

 もしそれが間違いで、本当の代償が「大切なものをなくすこと」だとしたら? 

 もしエイミーが大切に想っているのが、作者である寧々の意思だとしたら?

 もし寧々が物書きになることを目指していて、その夢を大切にしているとしたら?

 寧々が筆を折ったことで、エイミーが消失したという説明がつくのだ。

「……そうか、そういうことだったのか……」

 幸之輔は呟き、ノートをそっと指先でなぞった。

 寧々が書き連ねた文字からは、彼女の救援信号が出ていたのだ。

 主人公であるメグミは姉を敬い、憧れると同時に嫉妬していた。いなくなればいいと暗く残酷な願いを抱きながら、それが現実になれば涙する。

 このどうしようもない矛盾こそが、幸之輔にしか救えない、寧々の叫びに違いない。

 エイミーとの再会を望んだことで、寧々の願いまで知ることになるとは想定外だった。今までのように寧々のことばかりを考えていたならば、この真実にたどり着くことはできなかっただろう。

 出会った頃にエイミーが口にしていた、改変を望む『ある物語』とは、この『魔法の万年筆』のことなのだろう。幸之輔は胸ポケットからエイミーから渡された万年筆を取り出し、キャップを開けたが、

「……俺が君の物語を書き換えることは、簡単かもしれない。だが……」

 筆先をノートにつける前に手を止め、万年筆に目をやった。

「俺の妹を救いたい気持ちは自分も一緒だと、君は言っていたね。ならば、もう少しだけ待っているといい。俺は寧々を救い、同時に君も救ってみせよう」