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     風立ちぬ・あとがき

「俺は今日速やかに帰宅したいんだが? なぜわざわざ徒歩で君を送っていく必要がある?」

「大した距離ではないのだからいいじゃないですか。少し、貴方に訊きたいことがあるのです」

 三島晃と解散した幸之輔は、エイミーを家まで送るべく車を回そうとしたのだが、彼女は嫌がった。

「面倒な真似を……ならばさっさと話したまえ」

「では、単刀直入に。亜矢子さんに改変の打診を断られたこと、貴方はどう思っているのですか?」

「……改変後どう影響を受けたのか、その姿を見たかったゆえに残念だと思っている。だが改変をしたとしても、『白雪姫』は彼女にとって大切な物語だ。人生観が変わるとは言い切れないだろう。そういう可能性も考慮するに値するあたり、ぜひ試してみたかった」

「貴方が改変に影響を受けそうな人を探して接触することについて、わたしは口出しをするつもりはありませんでした。しかし一つだけ言わせてください」

 都会の夜、月光と街のネオン両方に照らされながら、エイミーは口を開いた。

「やり方が少々雑なのではないでしょうか? 今回はたまたま、三島晃自身が納得できる方向に影響を受けましたが、影響を受ける人間のことを考慮すれば、物語でも人の生死を簡単に変えることは避けるべきだと契約時に忠告したはずですが?」

「失念していたわけではない。三島晃のことを考えて、最善の改変をしただけだ」

「屁理屈を述べる男ではないと思っていましたが、思い違いだったようですね。今の貴方は何か焦っているように見えます」

「そんな話がしたかったのか? くだらない」

「……違うと言ったら?」

 エイミーは灰色の大きな瞳を駆使して、幸之輔の目をじっと見つめた。

「……結果的に三島晃は今、限られた時間のすべてを彼女のために充てようと決意した。それが幸せかどうかは本人たちでなければわからないが、俺は悪い助言をしたとは思わないがね」

「そうですね。貴方はそうやっていつも強引に、冷徹に、誰かに影響を与えてきた男です。あまりにも身勝手なその振る舞いは、過去のわたしを思い出します」

 無視して歩を進めた幸之輔だったが、エイミーがついて来なかったため、仕方なく立ち止まって振り向いた。

「俺とお前を一緒にするな」

「いいえ。肉親を救済したいという念を抱いているという点において、わたしと貴方は実はとてもよく似ているのですよ」

 年齢も本名も正体不明であるエイミーが、自分自身の過去を口にするのは初めてのことだった。

「そう言われても俺には、お前の肉親をどうにかしてやる理由も手段もない」

「仰る通りです。それでも、救ったとは言い難いですが、わたしが見てきた貴方は少なくとも塚本新一、小川陽路、三島晃の三人の人生を変えた。それこそが、わたしが貴方を求めた理由になるのです」

「俺はあくまで、寧々を救うために行動してきただけだ」

「それで構いません。貴方の妹を救いたいと思う気持ちは、わたしも一緒ですから」

 今夜のエイミーは、どこかおかしい。幸之輔は彼女が伝えようとしていることの意図がまるで掴めなかった。

「どうして君が寧々を救いたいと思う? 君にとって、寧々は会ったこともない他人だろう?」

「冷たい人ですね。知り合いの身内の不幸を望む人間の方が稀ですよ」

 エイミーにしては、常識的で台本のような回答だった。

 もう少し問い詰めて彼女の内面を探ってみようとも思ったが、今日のうちに寧々に三島晃の件を報告したいと思っていた幸之輔は、長くなりそうなこの話は後回しにしようと考えた。

「ところでエイミー、今回の代償は降りてきたのか?」

「いいえ、まだです。ですが……もし、わたしが……」

 エイミーは珍しく言い淀んだ。

「……いえ、なんでもありません。それより貴方は、代償を気にする前に三島先生のように一途に愛せる女性を見つける努力をしたらどうです? 思春期男子のくせに、なんて可愛げのない」

「可愛げのない、という点では君も同様だろう。少しは若い女性らしく、肌を露出するとか、無邪気な笑顔を見せるとか、流行ものに目をつけるとかしたらどうなんだ?」

「あら、そんなことでいいなら容易ですけど」

「ほう、言ったな。では明日はギャル姿でも見せてもらおうか」

「貴方の性的嗜好に付き合ってあげる義理は、一つもないのですが」

「待て。別に俺は、ギャルを性的対象として見ているわけではないぞ。俺はどちらかと言えば清楚な……」

 そこまで言いかけて、エイミーがしたり顔をしていることに気がついた。

「……なんでもない。さあ、帰るぞ。俺は今日中に寧々に報告をしたいんだ」

「かしこまりました。貴方の性的嗜好が妹さんに向かわないよう、祈るばかりです」

 減らず口を叩いてばかりのエイミーに背を向けて歩き出すと、いつものように彼女は黙って後をついてきた。

 大通りに出ると、大して上手くもないストリートミュージシャンが声を枯らしてギターを弾いていた。耳障りな歌にも数人が足を止めるのだなと思いつつ通り過ぎると、彼から少し離れた場所に、若い女が店主をしている小さな露店があった。

「見てください。これ、素敵だと思いませんか?」

 露店前でエイミーは立ち止まり、一つのイヤリングに視線を送っていた。

「そうか? 女性のアクセサリーにしては安価に見える。それに君には、いささか派手すぎるように思うがね」

 店主の前で「安っぽい」などと言えば、当然怪訝な顔をされる。気まずい空気を意にも介さず淡々と商品を見る幸之輔に、エイミーは大きく溜息を吐いた。

「肯定する気持ちがなくとも、ここは『そうだね』と返すのが常識ですよ? それに、このくだりは普通『買ってやろうか』と続く流れだと思いますけどね。これだから顔だけの男って、付き合ってから振られやすいんですよ。もっとも、恋人でもない殿方からプレゼントを貰っても困るだけですけど」

「君こそ、光り物を見てはしゃぐだなんて、キャラが崩壊しているではないか。それと、俺を馬鹿にするだけの発言は胸の内に留めておくだけにしておけ。相手をするのも面倒だ」

 すっかりいつも通りに戻ったエイミーにうんざりしながら、幸之輔は再び歩を進めた。

 都心は夜でも人で賑わい、華やかな光の中では治安の悪さが見え隠れしている。

 ネオンの明るさにエイミーの輪郭が滲んで、彼女がここに存在しているのが幻のような錯覚を覚えつつ、ふたりは光と闇の間を縫いながら、確かな足跡を残すように靴音を鳴らした。

「結局家まで歩いて送らせるとはね。大した身分だよ君は」

「いいじゃないですか。それでは、おやすみなさい」

 そう言って、エイミーはマンションの中に姿を消した。

 これがエイミーとの別れになるなんて、幸之輔は考えてもみなかった。