天球に映し出される映像に囲まれたのは、晃と、幸之輔と、エイミーの三人だけだった。
店員や他の客の姿は見えず、どこか別の世界にいる気分だった。
言葉を失った晃の目の前、巨大なスクリーンに映し出されたのは、現代よりもう少し古い日本の映像だった。
ふたりの男女が頻繁に出てきて、舞台は病院が多い。女が絵を描いているシーンもある。実写映画にしてはあまりによくできているが、晃はそれが小説『風立ちぬ』を映像化したものだということに気がついた。
だんだんとやつれていく節子に、小説を書き始める主人公。映像は晃の記憶にある小説の順序通りに物語を進めていた。
物語が節子を亡くした主人公がひとり長野にいる、第四章の『死のかげの谷』に入ったとき、晃の背後から新しく映像が飛び出して来た。
そして『死のかげの谷』の映像の横に、飛び出して来た映像が並んだ。
その映像にも主人公と節子が映っていたが、ふたりはどこかの崖の上に立ち、手を握り合って顔を見合わせていた。見たことのない展開に晃は首を傾げた。それからふたりは意を決したように崖の淵に近づき、晃が声を上げるより先に、海の中に飛び込んでしまったのだった。
この悲劇とも取れる映像が『死のかげの谷』の映像に重なって上書きされたとき、晃を取り囲う空間は再び光となり幸之輔の持つ文庫本の中に収束され、気がつけば晃は何事もなかったかのように賑わう店内にいたのだった。
「……信じられないものを見た、といった心境ですか?」
まだ呆けている晃に、幸之輔は静かに問いかけた。
「……正直、自分の身に何が起きたのかまだ把握できていない」
幸之輔は平然と万年筆を胸ポケットに仕舞い、
「第四章をご確認ください」
そう言って、手に持っていた文庫本を晃に手渡した。
言われた通りに晃はページを捲り、二重線が引かれている本文の横にある、幸之輔が連ねた文字を読んでいった。
『私は節子をサナトリウムから連れ出すことを決意した』
『深海を前に、来世でまた巡り合おう、今度は子を産み、育てようと約束を交わしながら、私はお前の手を取った』
『節子の温もりを感じながら落下したのだった』
ここまで読んでようやく、晃は一つの可能性を想像するに至った。
「これは……俺が見た映像を文章化したもの……?」
「逆です。俺が書いた文章が映像化されたのですよ。そして堀辰雄が著した『風立ちぬ』は、俺が書いた物語に上書きされました。世界中どの本屋に行っても、どの資料を見ても、物語の結末はふたりの死で〆られているでしょう」
『風立ちぬ』の新しい結末を見た晃は、体に力が入らなかった。
不思議な体験をしたこともあるだろうが、理由はそれだけではない。
節子に寄り添い続けた主人公の考えに共感し、最期にふたりが選択した未来が、頭の中にすんなりと入り込んできたからだ。
――これが、本に影響を受けるということなのか。
晃は感動にも似た感情を抱いた。
「……俺は、亜矢子のために医者になったんだ。それは目的として語れば称えられ、辞める理由にすれば無責任だと叩かれる。……だけど、後ろ指を差されたとしても、俺の評価はどうでもいいんだよな。亜矢子が、幸せだと感じてくれるなら……」
晃は幸之輔の瞳を正面から見据えた。
「……決めたよ。俺、医者を辞める。最期まで、できるだけ長く彼女のそばにいるよ」
決意と覚悟を持って自身の選択を口にしたとき、晃は胸の中のつかえが取れたような、清清しい気持ちになっていた。
「……実は、寧々の付き添いで病院に行った際に、亜矢子さんと会ったんです。好きな物語を望むように改変することで、治らない病気を抱えている人の心境がどう変化するのか気になったもので、交渉を試みました」
「なんだって? 亜矢子からは聞いていないぞ」
「まあ、結果として亜矢子さんには断られましたからね。貴方に話す必要性を感じなかったのでは?」
晃が以前に幸之輔と話したと言ったときには、亜矢子は羨ましがっているように見えた。あの表情が演技だとは思えないため、人手不足で晃が忙しくなった時期に幸之輔は接触したのだろうか?
……いや、今はそれよりも気になることがある。
「亜矢子はどうして、旭くんの打診を断ったのだろう? あまりにも君が非情かつ薄情なやつだから、嫌になったのだろうか?」
「悪気なく彼を蔑む言い回し、勉強になります」
「君は黙っていろエイミー。……先生、彼女のことを愛している貴方なら、大体は予想がつくのでは?」
幸之輔の言う通り、晃にはおおよその見当はついている。
亜矢子はきっと、最期まで自分を貫き通すのだろう。
「……そうだな。そんな彼女を、俺は心の底から愛している」
「これも殉死の一つですよ。三島晃の一つの人生は終わったのです。これからはできるだけ彼女のそばにいてあげてください」
「言われなくても、そうするつもりだよ。手段はどうあれ、決断を後押ししてくれたことには礼を言わせてもらう」
「礼を言う必要はありませんよ。俺としても、興味深いデータがとれましたからね」
そう言って満足そうに微笑む幸之輔を見て、思わず顔が引きつった。彼が親切だったのは良心ではなく、自身の利益になるからに過ぎなかったのだ。
妹にだけ異様な愛を注ぎ、徹底的に計算高く、感情に左右されることのない男、旭幸之輔。
この短い時間で知り得た彼の情報は、彼に幻想を抱く看護師たちのためにも胸にしまっておこうと決めた。
「さあ、テーブルの上にある料理は大分冷めてしまいましたが、どうぞ召し上がってください。もちろん、俺の奢りですから」
「自分で稼いだわけでもないのに、偉そうな口を叩きますね」
「俺が会社を手伝って得た収入から支払うのだから、文句を言われる筋合いはないだろう?」
またしても罵り合いの応酬を始めるふたりを見て、晃は苦笑した。
それにしても、幸之輔に毒を吐くこのエイミーという少女は一体何者なのだろう? 少しだけ気にかかったが、晃がその答えを知ることはない。
彼らの刺々しいやり取りを横目に、晃はせっかくなので料理を頂こうとフォークを手に取った。
奇しくも、目の前の皿に乗っていたのは林檎のストルゥーデルだった。
店員や他の客の姿は見えず、どこか別の世界にいる気分だった。
言葉を失った晃の目の前、巨大なスクリーンに映し出されたのは、現代よりもう少し古い日本の映像だった。
ふたりの男女が頻繁に出てきて、舞台は病院が多い。女が絵を描いているシーンもある。実写映画にしてはあまりによくできているが、晃はそれが小説『風立ちぬ』を映像化したものだということに気がついた。
だんだんとやつれていく節子に、小説を書き始める主人公。映像は晃の記憶にある小説の順序通りに物語を進めていた。
物語が節子を亡くした主人公がひとり長野にいる、第四章の『死のかげの谷』に入ったとき、晃の背後から新しく映像が飛び出して来た。
そして『死のかげの谷』の映像の横に、飛び出して来た映像が並んだ。
その映像にも主人公と節子が映っていたが、ふたりはどこかの崖の上に立ち、手を握り合って顔を見合わせていた。見たことのない展開に晃は首を傾げた。それからふたりは意を決したように崖の淵に近づき、晃が声を上げるより先に、海の中に飛び込んでしまったのだった。
この悲劇とも取れる映像が『死のかげの谷』の映像に重なって上書きされたとき、晃を取り囲う空間は再び光となり幸之輔の持つ文庫本の中に収束され、気がつけば晃は何事もなかったかのように賑わう店内にいたのだった。
「……信じられないものを見た、といった心境ですか?」
まだ呆けている晃に、幸之輔は静かに問いかけた。
「……正直、自分の身に何が起きたのかまだ把握できていない」
幸之輔は平然と万年筆を胸ポケットに仕舞い、
「第四章をご確認ください」
そう言って、手に持っていた文庫本を晃に手渡した。
言われた通りに晃はページを捲り、二重線が引かれている本文の横にある、幸之輔が連ねた文字を読んでいった。
『私は節子をサナトリウムから連れ出すことを決意した』
『深海を前に、来世でまた巡り合おう、今度は子を産み、育てようと約束を交わしながら、私はお前の手を取った』
『節子の温もりを感じながら落下したのだった』
ここまで読んでようやく、晃は一つの可能性を想像するに至った。
「これは……俺が見た映像を文章化したもの……?」
「逆です。俺が書いた文章が映像化されたのですよ。そして堀辰雄が著した『風立ちぬ』は、俺が書いた物語に上書きされました。世界中どの本屋に行っても、どの資料を見ても、物語の結末はふたりの死で〆られているでしょう」
『風立ちぬ』の新しい結末を見た晃は、体に力が入らなかった。
不思議な体験をしたこともあるだろうが、理由はそれだけではない。
節子に寄り添い続けた主人公の考えに共感し、最期にふたりが選択した未来が、頭の中にすんなりと入り込んできたからだ。
――これが、本に影響を受けるということなのか。
晃は感動にも似た感情を抱いた。
「……俺は、亜矢子のために医者になったんだ。それは目的として語れば称えられ、辞める理由にすれば無責任だと叩かれる。……だけど、後ろ指を差されたとしても、俺の評価はどうでもいいんだよな。亜矢子が、幸せだと感じてくれるなら……」
晃は幸之輔の瞳を正面から見据えた。
「……決めたよ。俺、医者を辞める。最期まで、できるだけ長く彼女のそばにいるよ」
決意と覚悟を持って自身の選択を口にしたとき、晃は胸の中のつかえが取れたような、清清しい気持ちになっていた。
「……実は、寧々の付き添いで病院に行った際に、亜矢子さんと会ったんです。好きな物語を望むように改変することで、治らない病気を抱えている人の心境がどう変化するのか気になったもので、交渉を試みました」
「なんだって? 亜矢子からは聞いていないぞ」
「まあ、結果として亜矢子さんには断られましたからね。貴方に話す必要性を感じなかったのでは?」
晃が以前に幸之輔と話したと言ったときには、亜矢子は羨ましがっているように見えた。あの表情が演技だとは思えないため、人手不足で晃が忙しくなった時期に幸之輔は接触したのだろうか?
……いや、今はそれよりも気になることがある。
「亜矢子はどうして、旭くんの打診を断ったのだろう? あまりにも君が非情かつ薄情なやつだから、嫌になったのだろうか?」
「悪気なく彼を蔑む言い回し、勉強になります」
「君は黙っていろエイミー。……先生、彼女のことを愛している貴方なら、大体は予想がつくのでは?」
幸之輔の言う通り、晃にはおおよその見当はついている。
亜矢子はきっと、最期まで自分を貫き通すのだろう。
「……そうだな。そんな彼女を、俺は心の底から愛している」
「これも殉死の一つですよ。三島晃の一つの人生は終わったのです。これからはできるだけ彼女のそばにいてあげてください」
「言われなくても、そうするつもりだよ。手段はどうあれ、決断を後押ししてくれたことには礼を言わせてもらう」
「礼を言う必要はありませんよ。俺としても、興味深いデータがとれましたからね」
そう言って満足そうに微笑む幸之輔を見て、思わず顔が引きつった。彼が親切だったのは良心ではなく、自身の利益になるからに過ぎなかったのだ。
妹にだけ異様な愛を注ぎ、徹底的に計算高く、感情に左右されることのない男、旭幸之輔。
この短い時間で知り得た彼の情報は、彼に幻想を抱く看護師たちのためにも胸にしまっておこうと決めた。
「さあ、テーブルの上にある料理は大分冷めてしまいましたが、どうぞ召し上がってください。もちろん、俺の奢りですから」
「自分で稼いだわけでもないのに、偉そうな口を叩きますね」
「俺が会社を手伝って得た収入から支払うのだから、文句を言われる筋合いはないだろう?」
またしても罵り合いの応酬を始めるふたりを見て、晃は苦笑した。
それにしても、幸之輔に毒を吐くこのエイミーという少女は一体何者なのだろう? 少しだけ気にかかったが、晃がその答えを知ることはない。
彼らの刺々しいやり取りを横目に、晃はせっかくなので料理を頂こうとフォークを手に取った。
奇しくも、目の前の皿に乗っていたのは林檎のストルゥーデルだった。