旭幸之輔には、常に視線が集まる。
一方的に向けられる有象無象の視線など気に留めることもなく、今日も幸之輔は黙々と帰路を辿る。日常茶飯事にいちいち反応していては、生活に支障が生じるためだ。
幸之輔は国内有数の大企業・旭出版の跡取り息子であり、眉目秀麗かつ成績優秀という物語から出て来たような青年だった。
そんな幸之輔が周囲からの注目を浴びないわけもなく、とりわけ同世代の女性からの人気は非常に高かった。
「あ、旭くん! これ、読んでください!」
他校の女生徒が幸之輔を待ち伏せし、両手で手紙を差し出してきた。
今時のメイク、今時の制服の着方をした可愛らしい少女であった。だがそんな古典的で捻りのない方法では、過去に何百回も告白されてきた幸之輔に届くはずもない。
「悪いが、俺はその手紙を読まないし、受け取るつもりもない」
幼少期から持て囃され、何をやっても優秀であった幸之輔は、劣等感や嫉妬という感情とは無縁だった。
ゆえに、幸之輔の欠点は人の心が理解できないことだった。
最寄り駅から自宅までの間に、中央公園という名の適度な広さの公園がある。午前中は老人や主婦たちの井戸端会議場、午後は子どもたちの遊び場、そして夜は不良少年たちのたまり場になっている公園だ。
幸之輔は中央公園に足を踏み入れた。今日も彼女はいるのかと公園内を窺うと、黒い長髪を風に揺らしながら、本を読んでいるその人の姿を発見した。
幸之輔の視線に気づいた女は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。今日も来てくれたのですね」
「まあな。そろそろ着物では暑くなってきたのでは?」
「ご心配なく。まだ問題なく着られますよ」
幸之輔は彼女の隣に座った。一ヶ月前から同じ時間にこの公園のベンチに座っている彼女とは、帰宅途中に話しかけられたことが縁でこうして会話をする仲になった。
昨年まで海外で暮らしていたという彼女だが、生まれも育ちも日本の女性よりも美しく流暢な日本語を話した。彼女の話は興味深いものが多く、また他の女と違い、幸之輔に好意を持って話しかけてきているようには見えないところも、幸之輔が彼女との会話を拒まない理由になっていた。
海外で生きていた反動なのか、普段着が着物という古風な女だった。真っ直ぐで癖のない髪の毛を靡かせる彼女は、まず美人といって差し支えない容姿をしている。
日本人に見えるが瞳の色は灰色であるため、どこか現実離れした印象を受ける。年齢は聞いたことがないが幸之輔は自分と同じか少し上あたりだと踏んでいた。
彼女は自身のことを「エイミー」と名乗っていた。
本名なのかはわからないが、幸之輔はどうでもいいと思っていた。
「日本では来月、梅雨というものが来るのでしょう? ただでさえ湿度の高い日本の雨期、とても興味深いです」
「君は真っ直ぐな髪をしているから問題ないとは思うが、日本の女性は大体湿気で髪の毛がうねるため梅雨は嫌われている。俺は雨は嫌いではないが、この通り、生まれてから今まで毛髪が真っ直ぐになった試しがないのでね。苦労はしている」
幸之輔が栗色の自分の癖毛を摘むと、エイミーはくすりと笑った。
「素敵な髪型ですよ」
「世辞はいらん。だが、悪い気はしない」
「ふふっ……ところで、今日は貴方に頼み事があるのです」
脈絡もなく突然そう切り出して、エイミーは立ち上がった。
ベンチに腰掛けている姿しか見たことがなかったが、彼女は背が高く、細身の体は姿勢が美しかった。外国育ちというが、まさに大和撫子という言葉が似合うと思った。
「旭幸之輔。貴方に、世の中に存在する物語の改変をしていただきたいのです」
エイミーの唇からは、突拍子もない願いが発せられた。
「……少々理解するのが難解だが、君が日本語を正しく使えていないから、といった認識で正しいか?」
「百聞は一見にしかず、とは日本の諺ですよね。これを」
エイミーは鞄から一冊の文庫本を取り出し、幸之輔に渡した。それは新潮文庫から出版された、いくつかの童話が収録された本だった。中でも有名なのはタイトルにもなっている、
「宮沢賢治が著した、『注文の多い料理店』か」
「内容はご存じで?」
「ああ。ふたりの青年が食事をするつもりで山中の店に足を踏み入れるが、実は食事をされるのは自分たちであった、という間抜けな話だろう? 化け物共もこんな間抜けを食したら馬鹿がうつるから食わずに正解だったな、と思った記憶がある」
「さすがですね、物語の要点を捉え違えています」
「……おい、馬鹿にしてないか?」
「まさか。感心しているのですよ?」
今までのたおやかなエイミーからは想像もできない発言があった気がしたが、とりあえず流しておくことにした。
「この万年筆を使えば、貴方は『注文の多い料理店』の内容を改変することができます」
エイミーが手にしていたのは、黒色の本体とキャップリングに金が施された、少し古い型の万年筆だった。
「君の話は突飛だな。この物語はすでに完成し、出版されている。改変とはどういう意味だ?」
「文字通りですよ。登場人物を変えることなく、貴方の手で別の結末にすることが可能なのです」
当たり前のように話すエイミーの視線に流され、幸之輔は手に持っている一冊の文庫本に目を落とした。
エイミーは常識のある女だと思っていたが、化けの皮が剥がれたようだ。変わった真似をして幸之輔の気を引こうとしているのだろう。それがわかったからには明日から彼女と話すことはない。
「おかしなことを言うな。俺はそろそろ帰らせてもらうぞ」
「書き込む媒体は物語が書いてさえあれば、原本でなくとも出版物でなくても問題ありません。さあ、この万年筆で物語を書き換えてみてください。その瞬間、貴方の知っている『注文の多い料理店』は、そこで終わりを告げるでしょう」
「人の話を聞かないとは、礼儀がなってないな」
エイミーが引かないため幸之輔は溜息を吐きつつ、一度だけ付き合ってやることにした。
エイミーの言うことが嘘なら、彼女と会うことを避ける理由になる。まるで信じていない幸之輔は万年筆を受け取り、いかにも適当に結末部分を変えた。
原作ではふたりの青年は化け物に食べられる直前に助かるのだが、幸之輔は食われる結末に変えたのだ。
「さあ、書き換えてやったぞ。何が起こるというのだ?」
幸之輔が万年筆のキャップを閉じた瞬間、エイミーが不敵な笑みを浮かべるのを目にした。
瞬間、幸之輔が手に持つ文庫本の中から溢れんばかりの光が飛び出してきた。それはあっという間に幸之輔とエイミーのいる空間を包み込み、公園にいるという事実はそのままに、夕方の茜空を大スクリーンにしてふたりを一つの別世界へ招待したのだった。
その世界の中ではまるで映画のように、映像が浮かび上がっていた。
最初に幸之輔の目の前に広がったのは、西洋風の一軒家だった。
次にふたりの青年が何者かの要求に応えていく姿が映し出され、その後は彼らが恐怖に怯え震える映像と、二匹の犬が格闘する映像が浮かび上がった。幸之輔はここまで見て、これは宮沢賢治著の『注文の多い料理店』を映像化したものなのだと悟った。
しかしその後、幸之輔の背後からは物語とは関係のない映像が飛び出してきた。彼らは抵抗むなしく、化け物にあっさりと食われてしまったのだ。それはまさに、幸之輔が結末部分を変えた『注文の多い料理店』の内容であった。
口を開けて見ていると、幸之輔が書いた部分の映像が、原作にある逃げ帰った青年たちが恐怖で老人のようになってしまった映像に重なって光り、上書きされていった。
序盤から終盤まで、一つの映画のように空に映し出された『注文の多い料理店』は再び光となって、文庫本の中に収束されていった。
幸之輔が見たのは、自分が知っている宮沢賢治が著した『注文の多い料理店』と、自身で結末部分を変えた『注文の多い料理店』両方の映像であった。
言葉を失った幸之輔に、エイミーはタブレットを手渡した。
「さあ、青空文庫で『注文の多い料理店』の内容を、ご確認ください」
まだ夢の中にいるような感覚で該当のページを確認し、愕然とした。幸之輔が適当に書き換えた結末が当たり前のように記載されていたからだ。
「賢治が残した『注文の多い料理店』を覚えているのは、世界中でただふたり。改変の場に立ち会った、わたしと貴方だけです。世の中の皆様が知る『注文の多い料理店』は、貴方が書き換えたものだけになったのです」
「……信じられないが、事実として受け入れざるを得ない。こんな非科学的で非現実的な出来事があるなんてな。俺はまだまだ不勉強だということか」
「『注文の多い料理店』を選んだのは、たまたまです。貴方に信じてもらえるならば、詩集でも随筆でもなんでもよかったので」
公園はすっかり元通りになっている。幸之輔はエイミーにタブレットと文庫本を返した。そのとき触れた彼女の手は温かくて、これは夢ではないのだなと思った。
「……しかしこの行為は、作者への冒涜になるのでは?」
「仰る通りです。ですから、わたしたちが著者の手によって完成された物語を改変すると、代償という名目で罰則が生じます。その内容に合わせて、受ける代償は様々なものがあります」
「となると、宮沢賢治の作品を改変した俺は、代償を受けることになるのだな。そういったリスクは実行前に言うのが常識ではないか?」
「いいえ、安心してください。処罰を受けるのは貴方ではなく、万年筆の所有者であるわたしになります」
「……待て。それなら物語の改変も、君が自分でやればいいのではないか?」
「……わたしには『ある物語』を改変したいという個人的な事情がありますが、それができない理由もあります。今のわたしは貴方が、わたしの言うとおり動いてくれるか否かが知りたいのです。……さあ、返事をください、旭幸之輔」
灰色の双眸が幸之輔を正面から見据えた。彼女の陰謀に乗せられている感は否めないが、歴史を変えることに興味がないといえば嘘になる。
それに、代償を受けるのは自分ではないというのは魅力的だ。ノーリスクハイリターンの実験など、世の中にはほとんど存在しない。
幸之輔の中で、疑心よりも興味を占める割合が広がっていった。
「……興味深い。手を貸してやろう」
「ありがとうございます。助かります」
エイミーが返事をした瞬間、彼女の体が何重にもなってぶれたように見えた。疲れ目かと思い目を擦ると、近くにいた野良猫がエイミーに襲い掛かり、彼女の白い手に思いっきり噛みついた。
咄嗟のことでやや反応が遅れたものの、幸之輔はまだエイミーに襲いかかろうと凶暴化している猫を追い払ってやった。
「おい、大丈夫か?」
「……どうやら今回の改変の代償は、『猫の恨みを買いやすい』みたいです」
「なに? 今のが代償になるのか?」
「ええ。わたしの体がぶれるのは、代償が降りてきたときですから。明記されてはいませんが、賢治が著した作中内の化け物は山猫と言われています。貴方の改変によって人間が山猫に食べられるという物語にしたために、どうやらわたしは猫に嫌われる体質となってしまったようですね」
「……わりと、しょぼいな」
「代償は内容に合わせて様々なものがあると、先に申し上げましたでしょう? 身近にある小さいものから、規模の大きな予想外のものまで何が起こるのかはわからないのです。今回はわたしが猫に近寄らないよう努力すれば回避できる問題ですから、大したことない代償ですね」
「……だが、偶然ではなかったというのか」
エイミーの白い肌から赤い血が滴るのを見て不快に思った幸之輔は、ポケットからハンカチを取り出して彼女の手に巻いてやった。
「ようやくルールが理解できてきた。ただ、俺が君の願いをきいてやる代わりに、俺の条件も一つ呑んでもらおうと思う」
エイミーの見定めるかのような視線に対抗して、幸之輔は口の端を吊り上げた。
「俺は『人がどんな物語を読んで、その人生にどう影響を受けたか』を知ることに興味がある。だから改変はあくまで俺の都合で、俺のやりたいように行う。それでいいな?」
「はい、構いません。わたしが改変したい『ある物語』だけは指示をさせていただきますが、まだその時期ではありませんので。……それより、貴方は他人に興味がなさそうなのに、他人の性格形成の過程に重きを置くのですね。何か理由があるのですか? ……たとえば、ご家族に何か問題を生じている方がいらっしゃるとか」
幸之輔にしては珍しく、目を丸くした。
「……エイミー、君はどこでそれを知った?」
「その質問は正しくありません。どこで知ったというより、初めから知っていましたよ。願望を持った貴方ならわたしの願いをきいてくれると信じて、公園で待ち構えていましたから」
「……参ったね。どうやら俺は、間抜けなピエロだったようだ」
「ピエロだなんてとんでもない。貴方はわたしの思い通りに動いてくれる、とても優秀なマリオネットですよ」
今まで猫を被っていたのにも程がある。優雅な微笑みの中に、彼女の本心が垣間見えた。完敗だなと思った幸之輔は観念して、胸のうちを語った。
「……“あいつ”の考え方を根本から変えられる物語がこの世に生まれたならば、それはあいつの支えとなり、現状を打破出来るかもしれない。そのために、この万年筆は最大限利用させて貰う」
「珍しいですね。貴方が自分の力だけではなく、何かに縋るような考え方をするなんて」
「うるさい。俺は縋ってなどいない、利用するだけだ」
「旭幸之輔といえども、その方には滅法弱いのですね」
エイミーはくすりと笑い、怪我をしていない方の手を差し出した。
「契約の前に一つ、忠告をさせていただきます。今回のように、登場人物の生死を変える改変は極力避けた方がよろしいかと存じます。どんな物語にも、影響を受ける人間は少なからず存在するので。彼らに与える影響を考慮してください」
「ああ、わかった」
エイミーに差し出された手を幸之輔は無愛想に握り返し、交渉成立の証を示した。
「何はともあれ、契約成立ですね」
「そうだな。ところで……」
夕陽のせいで逆光になり表情が見えない彼女に、幸之輔は疑問を投げかけた。
「エイミー、君は一体何者なんだ?」
「……答えを言うのは簡単ですが、貴方が自力で解くのもまた、一興なのではないでしょうか?」
「……成程、一理あるな」
エイミーは質問に答えることはなかった。
こうして、旭幸之輔とエイミーは契約を結んだ。
ふたりの不平等で不誠実な関係が互いにどんな影響を及ぼしていくのか、今の幸之輔には予想できるはずもなかった。
一方的に向けられる有象無象の視線など気に留めることもなく、今日も幸之輔は黙々と帰路を辿る。日常茶飯事にいちいち反応していては、生活に支障が生じるためだ。
幸之輔は国内有数の大企業・旭出版の跡取り息子であり、眉目秀麗かつ成績優秀という物語から出て来たような青年だった。
そんな幸之輔が周囲からの注目を浴びないわけもなく、とりわけ同世代の女性からの人気は非常に高かった。
「あ、旭くん! これ、読んでください!」
他校の女生徒が幸之輔を待ち伏せし、両手で手紙を差し出してきた。
今時のメイク、今時の制服の着方をした可愛らしい少女であった。だがそんな古典的で捻りのない方法では、過去に何百回も告白されてきた幸之輔に届くはずもない。
「悪いが、俺はその手紙を読まないし、受け取るつもりもない」
幼少期から持て囃され、何をやっても優秀であった幸之輔は、劣等感や嫉妬という感情とは無縁だった。
ゆえに、幸之輔の欠点は人の心が理解できないことだった。
最寄り駅から自宅までの間に、中央公園という名の適度な広さの公園がある。午前中は老人や主婦たちの井戸端会議場、午後は子どもたちの遊び場、そして夜は不良少年たちのたまり場になっている公園だ。
幸之輔は中央公園に足を踏み入れた。今日も彼女はいるのかと公園内を窺うと、黒い長髪を風に揺らしながら、本を読んでいるその人の姿を発見した。
幸之輔の視線に気づいた女は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。今日も来てくれたのですね」
「まあな。そろそろ着物では暑くなってきたのでは?」
「ご心配なく。まだ問題なく着られますよ」
幸之輔は彼女の隣に座った。一ヶ月前から同じ時間にこの公園のベンチに座っている彼女とは、帰宅途中に話しかけられたことが縁でこうして会話をする仲になった。
昨年まで海外で暮らしていたという彼女だが、生まれも育ちも日本の女性よりも美しく流暢な日本語を話した。彼女の話は興味深いものが多く、また他の女と違い、幸之輔に好意を持って話しかけてきているようには見えないところも、幸之輔が彼女との会話を拒まない理由になっていた。
海外で生きていた反動なのか、普段着が着物という古風な女だった。真っ直ぐで癖のない髪の毛を靡かせる彼女は、まず美人といって差し支えない容姿をしている。
日本人に見えるが瞳の色は灰色であるため、どこか現実離れした印象を受ける。年齢は聞いたことがないが幸之輔は自分と同じか少し上あたりだと踏んでいた。
彼女は自身のことを「エイミー」と名乗っていた。
本名なのかはわからないが、幸之輔はどうでもいいと思っていた。
「日本では来月、梅雨というものが来るのでしょう? ただでさえ湿度の高い日本の雨期、とても興味深いです」
「君は真っ直ぐな髪をしているから問題ないとは思うが、日本の女性は大体湿気で髪の毛がうねるため梅雨は嫌われている。俺は雨は嫌いではないが、この通り、生まれてから今まで毛髪が真っ直ぐになった試しがないのでね。苦労はしている」
幸之輔が栗色の自分の癖毛を摘むと、エイミーはくすりと笑った。
「素敵な髪型ですよ」
「世辞はいらん。だが、悪い気はしない」
「ふふっ……ところで、今日は貴方に頼み事があるのです」
脈絡もなく突然そう切り出して、エイミーは立ち上がった。
ベンチに腰掛けている姿しか見たことがなかったが、彼女は背が高く、細身の体は姿勢が美しかった。外国育ちというが、まさに大和撫子という言葉が似合うと思った。
「旭幸之輔。貴方に、世の中に存在する物語の改変をしていただきたいのです」
エイミーの唇からは、突拍子もない願いが発せられた。
「……少々理解するのが難解だが、君が日本語を正しく使えていないから、といった認識で正しいか?」
「百聞は一見にしかず、とは日本の諺ですよね。これを」
エイミーは鞄から一冊の文庫本を取り出し、幸之輔に渡した。それは新潮文庫から出版された、いくつかの童話が収録された本だった。中でも有名なのはタイトルにもなっている、
「宮沢賢治が著した、『注文の多い料理店』か」
「内容はご存じで?」
「ああ。ふたりの青年が食事をするつもりで山中の店に足を踏み入れるが、実は食事をされるのは自分たちであった、という間抜けな話だろう? 化け物共もこんな間抜けを食したら馬鹿がうつるから食わずに正解だったな、と思った記憶がある」
「さすがですね、物語の要点を捉え違えています」
「……おい、馬鹿にしてないか?」
「まさか。感心しているのですよ?」
今までのたおやかなエイミーからは想像もできない発言があった気がしたが、とりあえず流しておくことにした。
「この万年筆を使えば、貴方は『注文の多い料理店』の内容を改変することができます」
エイミーが手にしていたのは、黒色の本体とキャップリングに金が施された、少し古い型の万年筆だった。
「君の話は突飛だな。この物語はすでに完成し、出版されている。改変とはどういう意味だ?」
「文字通りですよ。登場人物を変えることなく、貴方の手で別の結末にすることが可能なのです」
当たり前のように話すエイミーの視線に流され、幸之輔は手に持っている一冊の文庫本に目を落とした。
エイミーは常識のある女だと思っていたが、化けの皮が剥がれたようだ。変わった真似をして幸之輔の気を引こうとしているのだろう。それがわかったからには明日から彼女と話すことはない。
「おかしなことを言うな。俺はそろそろ帰らせてもらうぞ」
「書き込む媒体は物語が書いてさえあれば、原本でなくとも出版物でなくても問題ありません。さあ、この万年筆で物語を書き換えてみてください。その瞬間、貴方の知っている『注文の多い料理店』は、そこで終わりを告げるでしょう」
「人の話を聞かないとは、礼儀がなってないな」
エイミーが引かないため幸之輔は溜息を吐きつつ、一度だけ付き合ってやることにした。
エイミーの言うことが嘘なら、彼女と会うことを避ける理由になる。まるで信じていない幸之輔は万年筆を受け取り、いかにも適当に結末部分を変えた。
原作ではふたりの青年は化け物に食べられる直前に助かるのだが、幸之輔は食われる結末に変えたのだ。
「さあ、書き換えてやったぞ。何が起こるというのだ?」
幸之輔が万年筆のキャップを閉じた瞬間、エイミーが不敵な笑みを浮かべるのを目にした。
瞬間、幸之輔が手に持つ文庫本の中から溢れんばかりの光が飛び出してきた。それはあっという間に幸之輔とエイミーのいる空間を包み込み、公園にいるという事実はそのままに、夕方の茜空を大スクリーンにしてふたりを一つの別世界へ招待したのだった。
その世界の中ではまるで映画のように、映像が浮かび上がっていた。
最初に幸之輔の目の前に広がったのは、西洋風の一軒家だった。
次にふたりの青年が何者かの要求に応えていく姿が映し出され、その後は彼らが恐怖に怯え震える映像と、二匹の犬が格闘する映像が浮かび上がった。幸之輔はここまで見て、これは宮沢賢治著の『注文の多い料理店』を映像化したものなのだと悟った。
しかしその後、幸之輔の背後からは物語とは関係のない映像が飛び出してきた。彼らは抵抗むなしく、化け物にあっさりと食われてしまったのだ。それはまさに、幸之輔が結末部分を変えた『注文の多い料理店』の内容であった。
口を開けて見ていると、幸之輔が書いた部分の映像が、原作にある逃げ帰った青年たちが恐怖で老人のようになってしまった映像に重なって光り、上書きされていった。
序盤から終盤まで、一つの映画のように空に映し出された『注文の多い料理店』は再び光となって、文庫本の中に収束されていった。
幸之輔が見たのは、自分が知っている宮沢賢治が著した『注文の多い料理店』と、自身で結末部分を変えた『注文の多い料理店』両方の映像であった。
言葉を失った幸之輔に、エイミーはタブレットを手渡した。
「さあ、青空文庫で『注文の多い料理店』の内容を、ご確認ください」
まだ夢の中にいるような感覚で該当のページを確認し、愕然とした。幸之輔が適当に書き換えた結末が当たり前のように記載されていたからだ。
「賢治が残した『注文の多い料理店』を覚えているのは、世界中でただふたり。改変の場に立ち会った、わたしと貴方だけです。世の中の皆様が知る『注文の多い料理店』は、貴方が書き換えたものだけになったのです」
「……信じられないが、事実として受け入れざるを得ない。こんな非科学的で非現実的な出来事があるなんてな。俺はまだまだ不勉強だということか」
「『注文の多い料理店』を選んだのは、たまたまです。貴方に信じてもらえるならば、詩集でも随筆でもなんでもよかったので」
公園はすっかり元通りになっている。幸之輔はエイミーにタブレットと文庫本を返した。そのとき触れた彼女の手は温かくて、これは夢ではないのだなと思った。
「……しかしこの行為は、作者への冒涜になるのでは?」
「仰る通りです。ですから、わたしたちが著者の手によって完成された物語を改変すると、代償という名目で罰則が生じます。その内容に合わせて、受ける代償は様々なものがあります」
「となると、宮沢賢治の作品を改変した俺は、代償を受けることになるのだな。そういったリスクは実行前に言うのが常識ではないか?」
「いいえ、安心してください。処罰を受けるのは貴方ではなく、万年筆の所有者であるわたしになります」
「……待て。それなら物語の改変も、君が自分でやればいいのではないか?」
「……わたしには『ある物語』を改変したいという個人的な事情がありますが、それができない理由もあります。今のわたしは貴方が、わたしの言うとおり動いてくれるか否かが知りたいのです。……さあ、返事をください、旭幸之輔」
灰色の双眸が幸之輔を正面から見据えた。彼女の陰謀に乗せられている感は否めないが、歴史を変えることに興味がないといえば嘘になる。
それに、代償を受けるのは自分ではないというのは魅力的だ。ノーリスクハイリターンの実験など、世の中にはほとんど存在しない。
幸之輔の中で、疑心よりも興味を占める割合が広がっていった。
「……興味深い。手を貸してやろう」
「ありがとうございます。助かります」
エイミーが返事をした瞬間、彼女の体が何重にもなってぶれたように見えた。疲れ目かと思い目を擦ると、近くにいた野良猫がエイミーに襲い掛かり、彼女の白い手に思いっきり噛みついた。
咄嗟のことでやや反応が遅れたものの、幸之輔はまだエイミーに襲いかかろうと凶暴化している猫を追い払ってやった。
「おい、大丈夫か?」
「……どうやら今回の改変の代償は、『猫の恨みを買いやすい』みたいです」
「なに? 今のが代償になるのか?」
「ええ。わたしの体がぶれるのは、代償が降りてきたときですから。明記されてはいませんが、賢治が著した作中内の化け物は山猫と言われています。貴方の改変によって人間が山猫に食べられるという物語にしたために、どうやらわたしは猫に嫌われる体質となってしまったようですね」
「……わりと、しょぼいな」
「代償は内容に合わせて様々なものがあると、先に申し上げましたでしょう? 身近にある小さいものから、規模の大きな予想外のものまで何が起こるのかはわからないのです。今回はわたしが猫に近寄らないよう努力すれば回避できる問題ですから、大したことない代償ですね」
「……だが、偶然ではなかったというのか」
エイミーの白い肌から赤い血が滴るのを見て不快に思った幸之輔は、ポケットからハンカチを取り出して彼女の手に巻いてやった。
「ようやくルールが理解できてきた。ただ、俺が君の願いをきいてやる代わりに、俺の条件も一つ呑んでもらおうと思う」
エイミーの見定めるかのような視線に対抗して、幸之輔は口の端を吊り上げた。
「俺は『人がどんな物語を読んで、その人生にどう影響を受けたか』を知ることに興味がある。だから改変はあくまで俺の都合で、俺のやりたいように行う。それでいいな?」
「はい、構いません。わたしが改変したい『ある物語』だけは指示をさせていただきますが、まだその時期ではありませんので。……それより、貴方は他人に興味がなさそうなのに、他人の性格形成の過程に重きを置くのですね。何か理由があるのですか? ……たとえば、ご家族に何か問題を生じている方がいらっしゃるとか」
幸之輔にしては珍しく、目を丸くした。
「……エイミー、君はどこでそれを知った?」
「その質問は正しくありません。どこで知ったというより、初めから知っていましたよ。願望を持った貴方ならわたしの願いをきいてくれると信じて、公園で待ち構えていましたから」
「……参ったね。どうやら俺は、間抜けなピエロだったようだ」
「ピエロだなんてとんでもない。貴方はわたしの思い通りに動いてくれる、とても優秀なマリオネットですよ」
今まで猫を被っていたのにも程がある。優雅な微笑みの中に、彼女の本心が垣間見えた。完敗だなと思った幸之輔は観念して、胸のうちを語った。
「……“あいつ”の考え方を根本から変えられる物語がこの世に生まれたならば、それはあいつの支えとなり、現状を打破出来るかもしれない。そのために、この万年筆は最大限利用させて貰う」
「珍しいですね。貴方が自分の力だけではなく、何かに縋るような考え方をするなんて」
「うるさい。俺は縋ってなどいない、利用するだけだ」
「旭幸之輔といえども、その方には滅法弱いのですね」
エイミーはくすりと笑い、怪我をしていない方の手を差し出した。
「契約の前に一つ、忠告をさせていただきます。今回のように、登場人物の生死を変える改変は極力避けた方がよろしいかと存じます。どんな物語にも、影響を受ける人間は少なからず存在するので。彼らに与える影響を考慮してください」
「ああ、わかった」
エイミーに差し出された手を幸之輔は無愛想に握り返し、交渉成立の証を示した。
「何はともあれ、契約成立ですね」
「そうだな。ところで……」
夕陽のせいで逆光になり表情が見えない彼女に、幸之輔は疑問を投げかけた。
「エイミー、君は一体何者なんだ?」
「……答えを言うのは簡単ですが、貴方が自力で解くのもまた、一興なのではないでしょうか?」
「……成程、一理あるな」
エイミーは質問に答えることはなかった。
こうして、旭幸之輔とエイミーは契約を結んだ。
ふたりの不平等で不誠実な関係が互いにどんな影響を及ぼしていくのか、今の幸之輔には予想できるはずもなかった。