終電にはギリギリ間に合った。歩いても帰れる距離だが、気まずくてかなわないので、それは避けたかった。電車に揺られている間も、駅からアパートに帰る道も、僕たちはほとんど喋らなかった。

 彼女を家まで送り、僕は再び外に出た。閉ざされた同じ空間にいられるほど、度胸も経験もない。

 逃避先に選んだヌーベルバーグにはちらほらと客がいた。マスターには「小鈴は無事に見つかりました」と一言だけ伝えて、席についた。花波にもLINEを送る。

―(0:55)無事に見つかった。心配かけてごめん

 すぐに既読になり、返事が来る。

―どこにいたの(0:56)
―(0:56)江古田
―(0:56)母校のキャンパス
―無事でよかった(0:56)
―(0:57)また詳しく話すよ

 一方的にやり取りを終わらせて、携帯を裏返しにする。虚空を見つめながら、僕は夜の時間が過ぎていくのをただひたすらに待っていた。

 気づけば、店内には僕の他に、一人客が二人だけになっていた。どちらも三十歳前後の男性で、よく見る顔だ。

 新しい客が入ってきたのは二時半だった。二十代前半の若い男性が二人。この時間からの来店は少なくないが、ペアやグループは珍しい。彼らは席に座ると、コーヒーがサーブされるのを待たずに話し始めた。どうやら真面目な議論をしているようだ。嫌でも声が届くので、暇つぶしに耳を傾けてみた。

「太陽の光を浴びないと人間はおかしくなる。たったそれだけの単純なことに誰も気づいていない」

 眼鏡をかけた坊主頭の方が強い口調で言った。彼の表情から苛立ちが感じられた。もう一人の長髪の方は反対にポーカーフェイスだ。淡々とした語り口で持論を展開する。

「仕方ない。十中八九、政府が報道規制を敷いている。その上で、メディアを上手く利用して、大衆に強い暗示をかけている。極夜は世にも珍しい現象で、積極的に楽しむべきだ、その方がいいと肯定して、民意を操作している」
「それに踊らされる馬鹿たちがどんどん情報を拡散するのが悪い。その最たる存在が『推進派』の連中だ。はっきり言って、奴らは頭がおかしい」

 昨日くらいからSNSやネットニュースでやたら目にする名前だ。暗闇が続くこの状況を現代社会を見つめ直す好機として捉えるムーブメントで、極夜に賛成し「推進」することから推進派と呼ばれている。

 提唱者は社会評論家としても活躍するインフルエンサーの女子大生だ。彼女は「いっそのこと一切の光を消して、闇の中で生活すれば、本当に必要なものとそうでないものが見えてくる」と主張する。随分と飛躍しているし、極端な発想だが、思想の単純さが若者に受け、一瞬にしてバズった。

「推進派の台頭は不愉快だけど、近いうちに、揺り戻しが起こるんじゃないかと思う。原因不明の極夜の影響範囲は日本を起点として海外に拡大し始めている。どう考えても異常な現象なんだから、世界レベルの問題に発展すれば、いつか推進派の魔法は解ける。今度は反対派が跳ねる番だ」

 と、長髪の男は分析する。彼らは正しい認識を持っている。日本人は魔法をかけられているのだ。ただし、政府やマスコミによってではない。それらもまた催眠状態に陥っているのだ。

 原因は小鈴のタイムスリップで間違いない。なぜなら、日本中、世界中の誰一人として異常事態だと騒いでいないのに、普通の若者である彼らと僕だけが気づいているのは不条理だからだ。小鈴の存在によって世界はねじれ、さらに次々と新しいゆがみが彼女を中心に生じているのだろう。

 彼らの話し声が気に障ったのか、立て続けに一人客が帰った。しばらくして、暗闇反対派コンビも店を出る。二人だけになると、マスターが僕に話しかけた。

「小鈴さんとなにかあったんですか?」
「あったと言えばあるし、なんにもないと言えばなんにもないです」
「禅問答みたいですね」
「自分でも頭が整理できていないんです」
「話してみたら、多少は気が楽になるかも知れません」

 深夜のカフェという空間の影響なのか、あるいは彼と僕のほどよい距離感の問題なのか、いずれにしても、僕は話してみる気になった。

「昔、小鈴に命を助けてもらったんです。その直後、彼女はいなくなった。僕は十二歳で、彼女は十九歳。僕にとって、小鈴は初恋の人でした。名前すら知らない、消えてしまった初恋の人が、七年後にあの頃と同じ年齢のままで現れた」

 これまで小鈴に対する感情を自分の外の空気に触れさせたことはなかった。そのため、適切な言葉を選ぶのに時間がかかった。

「間違いなく自分が好きになった人なんだけど、同じじゃない。当時、僕にとって小鈴は圧倒的な存在に見えたんです。だけど、時間を経て同世代になった途端、それは失われてしまった。消えた小鈴のことは今でも好きだと思います。一方で、目の前の小鈴は普通の友人で、恋愛感情は持っていないと自覚していました。それなのに、一瞬その分類が揺らいで、曖昧になったんです。僕は混乱して、自分の気持ちを彼女に伝えてしまった。一方的に」
「後悔しているんですか、伝えたことを」
「整理できていない感情を押しつけたのは、不誠実だと思っています」
「真面目なんですね。そのとき好きだと思ったのなら、その気持ちに偽りはないと思いますよ」
「そうだとしても、僕は最低でした。小鈴には好きな人がいるんです。その相手のことで悩んでいる彼女に、身勝手な理由でノイズを与えてしまった」
「ノイズ?」
「ちょっと前に命を助けた小学生が急に成長して、自分のことを好きとか言ってきたら、気味が悪いし、困るだけです。彼女からすれば、迷惑でしかない」
「そんな風に思いますかね。もし、今の透夏さんが年下の女の子を助けて、七年後にタイムスリップしたとする。その世界で、大人になった彼女が告白してきたら、鬱陶しいと思いますか」
「そりゃ、思わないですけど」
「じゃあ、どうして小鈴さんが迷惑だと断言できるんでしょう?」
「……自信がないからじゃないですか、自分に」
「それなら自信を持てばいいし、難しいなら努力して自信をつけるしかないです」
「結構、体育会系的な発想ですね」
「ははっ、確かにそうですね。ベースが体育会系なんですよ。この仕事の二つ前は、実業団で柔道をやっていたんで」

 マスターの意外なキャリアに僕は薄笑いを浮かべた。スマートで落ち着いた立ち居振る舞いの彼と柔道が全く結びつかなかった。

「予想できなかったです」
「小鈴さんのことも、もっとよく知ろうとすれば、新しい気づきがあるかも知れませんよ」
「情けないことを聞きますけど、次に会ったら、どんな顔して接したらいいんですかね」
「堂々としていればいいんですよ。変に気を使われるより、はるかにマシです」
「冗談抜きで、恋愛カウンセリングをやったら、行列ができると思います」
「ありがとうございます。でも、それこそ不誠実になってしまうんですよ。自分自身が問題を抱えているから」
「どんな問題ですか?」
「それは今度また。透夏さんと小鈴さんの問題が解決したら、話すことにします」

 マスターはお茶を濁し、再び作業に戻った。彼との会話によって、僕の精神はかなり回復していた。なんとか次の日に進むことができそうだ。

 僕はお礼を言って、店を後にした。