僕は走ってアパートに帰った。バックパックから鍵を取り出すとき、額から頬を伝って汗が滴り落ちた。

 家の中に彼女はいなかった。部屋を見回すと、ハンガーに吊るしたままの制服が目に入る。小鈴はどこに出かけたのだろうか。携帯で「落日」のライブ情報を調べる。彼女が行きそうな場所を考えて、最初にそれが浮かんだ。しかし、今日は公演の予定がなかった。落ち着いて考えたら、月曜日だから当たり前だ。そもそもライブがあったとしても、いきなりチケットを手に入れられるわけがない。

 にわかに不安がよぎる。時計の針は二十二時二十五分を指している。僕は二十二時過ぎに帰ると彼女に言ってから、家を出た。予期せぬ出来事があったと考える方が自然だ。実はもう沢木に見つかってしまったのかも知れない。

 こんなことになるなら、携帯を渡しておくべきだった。連絡手段がないというのがこれほど不便なこととは思わなかった。思い当たる場所を地道に探すしかない。

 まずは有力候補のヌーベルバーグに立ち寄ったが、小鈴は不在だった。今日は一度も来ていないらしい。マスターも沢木の件は知っていて、彼女を心配していた。お客さんからめぼしい情報が得られたら電話してくれることになり、連絡先を交換した。

 店を出てから、Xを確認する。ざっと投稿をチェックするが、その後の情報更新はないようだった。

 小鈴は一体どこに行ったのか。中学校のプール? いや、元の時代に帰る方法が明らかになっていないのに、再挑戦する意味がない。千葉の実家? 父親を見かけたときの反応を考えると、選択肢から外して問題ないだろう。

 じゃあ、どこなんだ。……頭が働かない。僕は根拠もなく池袋の街をさまよっていた。週初めの夜なので、繁華街でも人はそう多くない。それなのに、曲がり角で運悪く、強面の男性にぶつかる。

 罵声を浴びると同時に、太い腕で胸部を勢いよく殴られて、壁に頭を強打した。体の力が抜けて、僕は壁にもたれかかりながら座り込んだ。男は再び暴言を吐いて、去っていった。

 不注意だったのは僕の方だ。冴えない自分にうんざりした。この街の中で焦っているのは僕だけだ。

 人生で一度も殴り合いの喧嘩をしたことがない僕にとって、肉体的な痛み以上に、精神的な苦しみが後を引いた。

 十回くらいため息をついて、なんとか平常心を取り戻す。よろめきながら立ち上がり、僕はまた歩き始めた。

 しばらくすると、この前、小鈴と散歩をした道に出た。無意識に同じルートをたどり、一緒に食事をした店に行き着く。……そうだ、ここで「落日」の曲が流れて、僕たちはタニコーの話をした。それから、彼女の様子がおかしくなったのだ。

 段々と思考がクリアになってくる。小鈴はタニコーと会うために、彼を探すために外に出たんじゃないだろうか。だけど、正攻法で近づくのが不可能な相手だ。それなら、どうする。例えば、かつて彼が住んでいた場所に行ってみる、とか。売れないバンドマンなら学生の頃から同じアパートに住んでいるケースがないとも言えないが、人気アーティストの彼に限ってはまずありえない。

 彼に会えないなら、その次に考えることは。僕が同じ立場なら、多分、思い出の場所に行く。小鈴とタニコーにとって、それはどこなのだろう。

 路上からガラス越しに店内を見る。僕たちが座っていた席を眺め、飲食店での会話を思い返す。

 二人は同じ大学に通っていた。そうか、小鈴はきっと……。

 僕は急いで駅に向かい、西武池袋線に乗った。ドアの前に立つ。たった三駅なのに、やけに長く感じる。窓に映る自分の顔は酷く疲れていて、座席でいびきをかきながら眠る中年のサラリーマンよりずっと情けなく見えた。

 江古田駅で下車し、北口の商店街を抜けると、大学のキャンパスに到着する。

 予想通り、小鈴は大学にいた。北棟の階段にぽつんと座り、物思いにふけっているようだった。僕は彼女の横に腰を下ろした。

「心配して、探し回った」
「ごめん。黙って外に出て」
「別にいいよ、無事なら。今、自分が大変な状況だって知ってる?」

 小鈴は首を横に振った。

「よりによって、小鈴が殴った男は絶大な影響力を持つ有名人だったんだ。そして、そいつは自分を殴った女性に一目惚れして、君を探し出そうとしている。莫大な数のファン、フォロワーを使って」
「そんな人に好かれても、全然嬉しくない」
「そうだろうな、君が好きなのはタニコーなんだから」
「……気づいてたんだ」
「ああ、だからこの場所も推理できた」
「タニコーは初恋の人なんだ。次の日、二人で遊ぶ予定だったの」
「プールに飛び込んだ、次の日?」
「うん。わたしは心の中で勝手にデートって呼んで、楽しみにしてた。向こうからしたら、もちろんそんな意識はなかったと思うけど」
「次の日がだいぶ遠のいてしまったな」
「タニコーともね。この時代のあの人はわたしなんかじゃ手の届かない存在になってた。本屋さんでこれを買ったんだ」

 彼女はタニコーのロングインタビューが掲載されている音楽雑誌を持っていた。

「すごいよね、こんな特集まで組まれて。ちょっと前まで今のタニコーに会いたいなと思ってたけど、遠くにいる人だって理解したら、そのことすら恥ずかしくなった」
「小鈴らしくない弱気な発言だな」
「落ち込んでるからね」

 どのような返事をすべきか迷い、僕は沈黙を生み出してしまった。疲弊した脳を無理やり回転させ、それらしい台詞を絞り出す。

「元気が出るまで、待つことにする」
「優しいじゃん。いつもの透夏ならもっとクールなことを言いそうなのに」
「疲れたのと、ホッとしているのとで、頭がボーッとしているんだ」
「そっか、ありがとう。わたしを探してくれて。そう言えば、ここどうしたの?」

 彼女は僕の肩のあたりに触れた。服を少し前に引っ張って確認すると、生地が破れていた。

「池袋で人にぶつかったんだ。相手に殴られたときに、壁で擦ったんだと思う」
「ぶつかったくらいで、どうして殴られたの?」
「不注意だったからじゃないか、僕が。急いでて、周りが見えてなかったし。心配だったんだ、小鈴が沢木に見つかったんじゃないかと思って」
「わたしなんかのために、そんな……」

 僕は彼女の言葉を遮った。

「仕方ないだろ、初恋の相手なんだから」

 自分でもどうしてそんなことを言ったのか、分からなかった。彼女がタニコーを好きなことは知っているのに。気持ちを伝えたところで、なんの意味もないことは百も承知なのに。

「……初恋?」
「ずっと好きだった。七年間、あの日から」

 我ながら雑な告白で、格好悪いと思った。恥ずかしさから、彼女の方を見ることができなかった。

「ごめん、気づかなくて」

 自分が惨めになるから、謝らないで欲しかった。僕は階段に手をついて、立ち上がった。

「もう帰ろう。そろそろ日付も変わる」

 そう言って、話を終わりにした。