八月十四日もバイトが入っていたので、僕は一日中外出していた。夜に帰宅すると、小鈴はヘッドホンを装着して、パソコンの前に座っていた。「落日」のライブ映像がディスプレイに映し出されている。

 彼女は僕に気づいて、後ろを振り返る。

「おかえり。PCを借りてた」
「YouTube?」
「うん。タニコーのバンドが気になって」

 僕が家を出たときと、ほとんど部屋の状態が同じだった。食事をした形跡もない。ひもすがら動画を見ていたのだろう。

 その夜、小鈴は珍しく口数が少なかった。女心に無頓着な僕でも、彼女にとってタニコーが特別な存在であることは察知できた。

 次の日も、午後からバイトだった。帰りの時間を小鈴に伝えたとき、得体の知れない胸騒ぎがした。気味が悪かったが、僕はその正体について考えることなく、外に出た。

 勤務中もなぜか心が落ち着かなかった。高校生の頃も地元の本屋でアルバイトをしていたから、普段は仕事でミスすることなんてないのに、今日は二度もつまらない失敗をした。

 バイトが終わると、花波から大量のLINEが来ていた。不在着信も三件。

沢木(さわき)勇吾(ゆうご)のYouTube見た?(15:12)
―小鈴さんじゃないよね(15:12)
―やっぱりそうだと思う。見てみて(15:15)
―不在着信(15:30)
―沢木勇吾がXで小鈴さんを探してる(20:03)
―小鈴さんは一緒にいるの(20:45)
―不在着信(20:47)
―何度もごめん、バイトかな。終わったら連絡して(20:48)
―不在着信(22:01)

 僕はすぐさま花波に連絡する。彼女も僕からの電話を待っていたのだろう、ワンコールで出た。

「ごめん、バイトでまだなにも見てない。なにが起こったんだ」
「ということは、小鈴さんは今、透夏と一緒にいるわけじゃないんだ。……YouTuberの沢木勇吾は知ってるよね」
「もちろん。有名人だ」
「昨晩から沢木のYouTubeがバズってることは?」
「それは知らない」
「じゃあ、まとめて話すから聞いて」

 沢木勇吾は格闘家として一線で活躍しながら、YouTuberとしてもトップクラスの人気を誇る時代の寵児だ。今風のあっさりとした男子とは真逆で、端正でワイルドな見た目とギラギラした雰囲気が、女性だけでなく同性の心も掴んでいる。

 事の起こりは沢木が昨晩アップロードした動画が急速に話題になったことから始まる。

 八月十二日の深夜二時前、彼は運命の女性に出会った。彼女はびしょ濡れの制服を着て、池袋の街なかにいた。沢木と連れの男たちが面白がって話しかけると、彼女は沢木の顔面に強烈な右ストレートを打ち込んだ。同時に、彼は恋に落ちたのである。謎の美少女はそのまま逃げ去ってしまい、二日経っても、彼女のことが頭から離れない。そんな内容だった。

 謎めいたエピソードが大受けし、動画はまたたく間に再生回数を伸ばした。そこで、沢木は次の行動に移した。今日の十八時頃から、X(Twitter)で一目惚れの相手を探す仲間を募り始めたのである。彼は運命の人の容姿を事細かく投稿し、ファンたちの悪乗りを誘発した。

 二十時半、池袋での写真をアップしたポストが拡散された。アカウントの持ち主は沢木の「祭り」に加担したわけではなく、思いがけず写真の中に小鈴が写り込んだのだった。制服こそ着ていないものの、その他の要素はぴったり合致していた。それに気づいた沢木のフォロワーが「探してるのはこの子じゃないですか?」と彼にリプライを飛ばし、特定に至ったのである。

 花波が二十時四十五分に送ってきた「小鈴さん大丈夫? 一緒にいるの」というメッセージはこの流れを受けてのことだった。

「写真は何時にポストされてたんだっけ?」
「えっと、二十時十五分。投稿が拡散されたのは三十分頃だから、その間にどこかに移動してると思う。ポストがバズったあとに、野次馬たちが大々的に池袋を捜索するみたいな動きがあったんだけど、いまだに目撃情報はないから」
「ありがとう。僕はひとまず家に帰ってみる」
「力になれることがあったら相談して。今は自宅だけど、必要なら都内に行くから」
「進展があったら、すぐ連絡する」

 僕は花波の厚意に感謝し、電話を切った。

 昼間の胸騒ぎの正体はこれだったのか。本来、小鈴はこの世界にいない人物だ。そんな彼女がネット上で有名になり、不特定多数の人々から注目される立場になってしまった。

 僕は恐ろしかった。ただでさえ夏から光が失われてしまったのに、もし彼女が沢木と遭遇してしまったら、ギリギリのところで保たれているこの世界の秩序が崩壊してしまうのではないかと思った。