昼前にアパートへ戻ると、小鈴はすぐにベッドに寝転がった。僕は最低限の家事を済ませてから、彼女を起こさないようにそっと家を出た。テーブルの上に、一万円札と走り書きのメモを置いた。「僕の留守中は困ると思うから、貸しておく」というメッセージを残して。

 午後からアルバイトのシフトが入っていた。勤務先は池袋の書店だ。大学に入学し、一人暮らしを始めてから週三くらいで働いている。家賃程度しか稼げないが、高校生の頃のバイトの貯金があるので、今は十分だ。残高が減ったら、本格的に仕事の量を増やそうと考えている。

 閉店の二十二時まで勤務し、それからいつものカフェに向かった。普段は長い夜の退屈しのぎが目的だが、今日は友人と会うためだった。「二十二時過ぎにカフェで」と約束していたが、退勤後に余計な時間を食ったので、完全に遅刻だ。

 想定より二十分ほど遅れて到着し、ドアを開けると、店内は閑散としていた。

 カフェの開店時間はマスターの気まぐれで、早いときでも二十一時以降だ。そのため、来客の傾向はクラブとかに似ていて、日付が変わる前は本番ではない。二十二時台は日頃から客が少ない時間帯だ。

 寂しい店内の中に、先客が二人いた。しかも、どちらも僕の知り合いだ。

「「遅かったね」」
 と二重で声がする。一人は約束の相手、棚岡(たなおか)花波(かなみ)だ。

「ごめん、だいぶ遅れた。店を出ようとしたら、店長に話しかけられて」

 まず花波に謝罪してから、もう一人を見る。

「で、なんで小鈴がここにいるんだ」
「なんで、と言われても。起きたら透夏がいなかったから。家で待ってるのも暇だし、なんとなくここにいたら来るかなぁって」
「勘が鋭いな。悪いけど、今日は友達と約束してたから、もう少し待ってもらうことになる」

 僕と小鈴が話していると、花波がカットインした。

「あの、ちょっといいですか……。『起きたら透夏がいなかった』ってどういうことですか」

 不機嫌そうな顔の花波に対して、小鈴はクールな表情で僕の方を見る。

「この子、透夏の彼女?」

 たったこれだけのやり取りで、気まずい空気が出来上がっていた。まずは、それぞれの関係について、早急に説明する必要がある。それも、花波に対しては割と丁寧に。

「高校の同級生で、友人の花波だ。彼女じゃないよ」
「ふーん、怪しいなぁ」
「ちょっと黙っててくれ。色々とこじれる」

 小鈴を軽くあしらい、花波を見る。

「これから小鈴の紹介をするけど、最後まで落ち着いて聞いて欲しい。いい加減な話をしているように感じるかも知れないけど、決して嘘じゃないんだ」

 僕は八月十二日の出会いから今に至るまでの出来事を詳細に話した。真夜中の中学校にいた理由は伏せつつも、プールでのエピソードもちゃんと説明した。変に端折ると、かえって勘違いを生みそうに思ったからだ。

 しかし、残念ながら、花波は疑いの目を僕に向けていた。

「今の話を要約すると、この店で出会った彼女をお持ち帰りして、次の日は夜のプールでイチャイチャ、今日も彼女を家に連れ込んでいた……ということ?」

 僕は深いため息をついた。想像以上に、悪い反応だ。

「常識的に考えれば、信じられないと思う。だけど、真実なんだ。彼女は七年前の夏からやってきた」
「百歩譲って、彼女が未来人なら信じられたのかもね。未来予測とか、この時代に生きているもう一人の彼女を探し出すとか、説得する方法のバリエーションもあるし。でも、過去から来ました、は反則。だって、証明できないもん」
「確かに、小鈴のケースは地味だ。七年というのも微妙に短いし」
「あれ、なんかわたしのタイムリープ、ディスられてる?」

 小鈴はコーヒーカップを片手にとぼけた顔をする。ふと、マスターの姿が視界に入り、彼に助けを求めることを思いつく。

「すみません、援護射撃してもらえませんか」
「……実はさっきから考えていたんですが、難しいものですね。濡れた制服姿でこの店に現れた小鈴さんを見ている自分は……あの不思議な光景を目撃したので、非現実的なことも事実としてある程度受容できますが、そうじゃない彼女にはなかなか」
「そう言われてみると、確かに。冷静に考えたら、いきなり信じてもらうのは無理筋ですね。……花波、ごめん」
「別に、私は小鈴さんと透夏がどういう関係でも構わないし、さっきの話は信じられないけど、それでも問題ないんじゃないかな」
「ありがとう。ということで、小鈴。僕と花波は話すことがあるから、茶々を入れずに待っていて欲しい」
「へー、どんな話? すっごい気になる」

 僕は小鈴を軽く睨む。これ以上、花波を刺激しないで欲しい……と目で訴えた。

「はいはい。おねーさんは黙ってます」

 今は同じ年齢だろう、と返答しそうになったが、喉のあたりで必死に止めた。僕が大人にならないと、小鈴との掛け合いが永遠に続いてしまう。

 花波の方を向いて、話を仕切り直す。

「前置きが長くなったけど、本題に入ろう。代わりにどこに行く?」

 この異常現象のせいで、僕たちは遊びの計画の練り直しを余儀なくされていた。

 元々は来週から始まるアートフェスに行く予定だった。しかし、突然の極夜の到来により、主催者が展示方法と運営体制の見直しを行うと発表し、開催が延期になったのである。屋外の展示も多いから、妥当な判断だ。

 それで今朝、花波から連絡があり、会って決めることにしたというわけだ。

 ちなみに、アートフェスの開催地は遠方なので、泊まりになる。しかし、僕はもちろん花波も特に気にしていなかった。純粋な友人関係なので、同性の友達と旅行に行く感覚だった。

「例えば、お互いにまだ行っていない美術館とか」

 と花波が提案する。

「それはいいかも。行きたい場所ある?」
「ちょっと時間頂戴。考えてみる」

 二人の会話が始まると、花波の機嫌は持ち直したように見えた。普段は全く気を使わない相手だけに、まるで恋人の顔色を窺うみたいで、奇妙な感覚だった。

 社交的な性格じゃない僕にとって、花波は数少ない親友の一人だ。趣味も似ているし、気が合うので、高校の頃は放課後によくファミレスへ行き、雑談したものだ。

 別々の大学に進学した今は、このカフェで会うことが一番多い。大半はお互いのバイト終わりに合流する。彼女は千葉の実家から都内に通っているが、ここからタクシーで気軽に帰れる距離に社会人の兄弟が住んでいるため、遅い時間になっても問題ないらしい。僕に合わせてもらっているようで申し訳ない気持ちだが、彼女が言うには「私もこのお店が好きだから、いいの」とのことだ。

「ねぇねぇ、今なら話してもいいでしょ。かなみんも考え事してるし」
「か、かなみん?」
「あだ名だよ、いいでしょ。透夏の友達なわけだし、わたしも仲良くなろうと思って。それより、透夏ってアートとか好きなの?」
「まあ、それなりに。花波も僕も、小説とか映画とかアートが好きないわゆる文系って感じで、美術館は高校の頃から色々と一緒に行ったりしてる」
「そうなんだ。楽しそうだなぁ。わたしもこの時代の美術展を見たいかも」
「分かった。僕が連れて行くよ。花波との話とは別に」
「いいじゃん、かなみんと一緒でも」
「いや、やめておこう。ほら、花波の顔を見るんだ。露骨に嫌そうな表情をしている」
「かなみんってば、ひどい。胸が大きいんだから、心も大きくしないと」

 小鈴は何気なく花波のルックスに言及する。彼女の言う通り、花波は異性に好まれそうなプロポーションをしている。身長は小鈴より少し大きいくらいで同じように細身だが、胸のサイズは一回り違う。余談だが、顔も幼い感じでかわいいし、柔らかくパーマのかかった髪を耳の下でツインテールにしているヘアスタイルも似合っている。僕が言うのも変だが、花波は非常にモテる。

「過去から来た小鈴に教えておこう。この時代では、ルッキズムはNGなんだ。そもそも意味がよく分からない発言だけど、何にせよ容姿と性格を紐づけるなんてありえない。君は今の日本社会について、マスターから話を聞いて勉強したらいい」

 僕の無茶振りに、彼は苦笑いした。しかし、すぐに取り直すと、本心とは裏腹にちゃんと小鈴の相手をしてくれた。

 そのおかげで、僕たちは大体の計画を立てることができた。滞在時間は一時間。目的を果たしたので、これ以上、花波と小鈴を同じ空間にいさせるのは避けたい。

 僕が切り出そうとすると、

「まだ終電にも間に合うし、そろそろ私は帰るね」 

 と、花波が言って、解散の流れになった。

 駅まで彼女を見送るために三人で店を出ようとしたとき、小鈴はマスターに質問した。

「このお店、夜中にやってるのが売りなのに、今はずっと夜みたいだから商売上がったりなんじゃない?」

 小鈴の無礼な発言に慣れたのか、少しも表情を変えることなく、彼は返答した。

「すっかりアイデンティティが失われましたね」
「お店にちゃんと名前をつけて、日中も営業しなきゃいけないかもね」
「名前、あるんですよ。実は」
「えっ、どんな?」

 彼は恥ずかしそうに、小声で店の名前を告げた。

「『ヌーベルバーグ』」

 僕たちは同時に、「いいじゃん」と反応した。