替えのTシャツを着て、池袋に帰り、シャワーを浴びた。それから、僕はなんとなくヌーベルバーグに向かっていた。

 深夜一時。不眠症の僕にとって、まだまだ夜は長い。もしかすると、もう治っているのかも知れないが、いずれにしても今日は眠れない。

 マスターはいつも通り淡々と仕事をこなし、店内には落ち着いた雰囲気が流れていた。僕はカウンター席に座った。意識したわけではないが、この世界で初めて小鈴に出会ったときと同じ席だ。

「一昨日はありがとうございました」
「怪我は大丈夫でしたか?」
「ええ、なんとか。肋骨にひびが入ったくらいで」
「お大事にしてください。ところで、あの日の記憶、ちゃんと覚えてますか?」
「もちろん。どうしてですか?」
「……停電のあと、沢木勇吾に捕まった女の子を助けたことは覚えているんですが、なぜか彼女の顔も名前も薄っすらとしか思い出せないんです。まどろみの中にいたように、記憶が曇っていて」

 小鈴が過去に帰ったことで、歴史が変わったみたいだ。現時点における世界の認識として、タイムトラベラーの彼女はおそらく元々いなかったことになっている。しかし、透明の存在だとしても、彼女と過ごした時間は確かに実在していた。だからこそ、マスターの頭の中でも混乱が生じているのだ。小鈴との思い出を彼と気軽に話せないのは悲しいことだが、それでも、僕の記憶から彼女が消えなくてよかった。最後を見届けた僕の脳裏には、ちゃんと彼女のすべてが刻み込まれている。顔も、名前も、声も、仕草も、感触も、会話も、思い出も、約束も、なにもかも。

 無意識のうちに、僕は泣いていた。彼女への想いをせき止めることができずに、心が決壊したのだ。体の奥から、とめどなく涙が溢れ出た。マスターはなにも言わずに、僕を見守ってくれた。

「彼女が元にいた場所に帰ったからです」

 不可解とも言える僕の言葉に、彼は理解を示してくれた。

「それなら、よかった」
「おぼろげな記憶でも、彼女のことを忘れないであげてください」
「分かりました。妹にも伝えておきます。彼女はあの女の子のこと、僕よりもしっかり覚えていて、気にしていたから」
「妹……?」
「うっかりしてました。隠していて、すみません。花波は妹なんです」

 ヌーベルバーグは僕が夜中に散歩していて偶然見つけた店だ。だから、そんな繋がりがあるなんて、想像したこともなかった。

 考えてみれば、普段、遅くなったときに帰る兄弟のマンションはマスターの家だったのか。それに、停電の日、営業時間よりだいぶ前のこの店にマスターがいた理由も、花波に呼び出されたからということなら、腑に落ちる。

「驚きました。秘密を知ったついでに、もう一つ聞いてもいいですか。以前、マスターに恋愛の相談をしたことがあったんです。そのとき、恋愛に関して、自分は問題を抱えているって言ってましたよね。あれ、ずっと気になってたんです」
「……俗に言う、シスコンというやつです。妹が一番ゆえに、他の女性をまともに愛せない病。花波にまで協力してもらって透夏さんに関係を隠してたのも、自分が兄だと教えたら、お客さんとして見れなくなると思ったからです。多分、二人の会話を気にして、仕事に集中できないので」
「筋金入りですね。変な男が近寄らないように、親友として僕も注意しておきますね」
「よろしくお願いします」
「間違ってるかも知れないんですけど、もしかして、この店の名前、花波から取ってますか?」

 ヌーベルバーグ。フランス語で「新しい波」という意味だ。当然、フランス映画の潮流の「ヌーベルバーグ」から採用していると思っていた。しかし、彼の妹に対する心理を知って、別の可能性に気づいた。「新しい」店を出すときに、花波の「波」の字を使って縁起を担いだのではないか。

「鋭いですね。妹には内緒にしてもらえますか。多分、というか、絶対に嫌がられるので」
「なんか、マスターに親しみを覚えました」

 僕は笑いながら、コーヒーを口に含んだ。

 夜空がずっと続いた夏がもうすぐ終わる。三週間、真夜中にとどまっていたようなものだ。数時間後には久しぶりに、太陽の光が見られるはずだ。

 からん、とドアのベルが鳴った。誰かが入ってくる。恐る恐る、入り口に視線を向けた。足元が目に入る。彼女は見覚えのある真っ赤なスニーカーを履いていた。

 僕はあのときのように、ポケットからハンカチを取り出した。今度はずぶ濡れじゃないはずだけど、七年ぶりに十九歳の僕と再会した大切な人が、涙を拭くのに使うと思ったから。

 これがこの夏に僕が経験した、長い長い目覚めない夜のすべてだ。(了)