彼女の友人の家は住宅街にある一軒家だった。立派な造りで、裕福そうに見える。

「凛は大学に入ってから知り合った友人。いい子だから、いきなりわたしが現れても、受け入れてくれるはず。それじゃ、行くよ」

 小鈴はインターホンを押した。家の人の反応があるまで、随分と長く感じた。スピーカーから聞こえてきたのは弱々しい女性の声だった。

「お待たせしました」
「突然、すみません。わたし、凛ちゃんの大学の友人で、望月(もちづき)っていうんですけど、久々に会おうとしても連絡が取れなくて、家まで来ちゃいました。今、凛ちゃんはいますか?」
「ふざけているんですか」
「え? それはどういう」
「……ご存知ないんですか、娘が亡くなったこと」
「凛が……どうして」
「大学一年生の九月に、事故で。ごめんなさい、もうこれ以上は」
「あの、もう少しだけ聞きたいことが」

 そこで通話が切れた。小鈴も僕も、もう一度インターホンを押す勇気はなかった。

 小鈴はかなり動揺していたので、近くのカフェに入り、アイスコーヒーを頼んだ。しばらくの間、彼女は無言だった。

「最後に彼女と連絡を取ったのは?」
「あの日の日中もLINEでやり取りしてた」
「そうだったのか。まさか亡くなっているなんて」
「辛すぎる。……あっ、でも……そうか。元の世界に戻れたら、わたしが事故から守ってあげればいいんだ」
「すごい突飛な発想だけど、確かに戻れたら、不可能じゃないかも。それなら、事故の原因を調べておいた方がよさそうだ」
「でも、もう一回戻って、お母さんに話を聞くのは難しいなぁ。亡くなった娘のことを根掘り葉掘り聞かれたら、辛いと思うし。ていうか、なにが原因か分からなくても、夏休みの間、凛をわたしの家とかで軟禁しておけば解決するんじゃない?」
「いくらなんでも強引すぎるし、無計画だ。ちょっと調べてみよう」

 友人のフルネームを聞いて、「事故」というキーワードと組み合わせて検索してみる。すると、新聞のニュースサイトの記事が一番上に来た。その見出しを僕は口に出して読む。

「ソウル市内で交通事故。日本人大学生ら三名が死亡」
「ソウル?」
「旅行中の日本人大学生グループが暴走した乗用車にはねられて、亡くなったらしい。名前も出てる。ほら」

 僕は携帯の画面を小鈴に見せる。すると、彼女の顔が一気に青ざめた。

「全員、わたしの友達。わたしも一緒に韓国旅行へ行く予定だった」
「嘘だろ……。それじゃあ、小鈴も」
「わたしも死んでたかも知れない」

 恐ろしい事実だった。さすがに、小鈴も参っているようだった。タイムリープしてから半日で、情報量があまりに多い。

 僕の家に戻ると、小鈴はパソコンを使いたいと言った。事故について調べるためだろう。彼女は三時間ほど画面にかじりついたままだった。

 夜になり―と言っても、ずっと夜みたいなものだが、二十時になり、僕は夕飯の支度をした。

「パスタ作ったけど、食べる?」
「ありがとう。ネット見るのやめるね。一緒に食べよう」

 小さいソファに並んで座り、カルボナーラを食べる。ふと、プールサイドでの距離感を思い出す。

「美味しい。料理、上手だね」
「口に合うようで安心した。今日は疲れたと思うから、ゆっくり休んで。僕はまたカフェに行くから、この家を使っていいよ」
「透夏は優しいんだね。だけど、今日はもう一つ行きたい場所があるの」

 僕は頭に浮かんだ場所をそのまま言ってみた。

「中学校のプール?」
「よく分かったね。日付が変わるくらいに忍び込んでみようと思う」
「それなら、一緒に行くよ」
「ありがとう。心強い」

 彼女の考えていることは容易に想像できた。もう一度プールに飛び込んで、元の時代に戻れるか検証したいのだ。あのプールしか手がかりがないのだから、当然のことだろう。

 万が一、その方法でタイムリープできるとしたら、彼女と一緒にいられる時間はあと数時間ということになる。そう考えると、胸が苦しくなる感じがした。

 食事をしながら、僕たちは今晩の計画について話した。中学校は僕や小鈴の実家の近く、東京寄りの千葉のとある駅にある。仮にそこから終電で池袋に帰る場合、二十三時半頃に中学校を出る必要があるので、プールに侵入するのは二十三時。深夜帯の方が安心だが、夏休みなのでその時間に教師がいる確率は低いし、十分に実行可能と思われた。

 僕はその方針がよいかと考えていたが、小鈴は違った。七年前に帰るつもりで挑むから、終電という「逃げ」を用意したくない、と主張したのだ。不本意だったが、僕は彼女の意見に従うことにした。

 終電の総武線に乗り、僕たちは目的地に向かった。

 時間も時間なので、あたりは静まり返っていた。裏手のフェンスをよじ登り、侵入に成功する。久々に訪れたが、校内の雰囲気は少しも変わっていなかった。

 プールに到着すると、僕はバックパックから小鈴の制服を取り出した。タイムリープのファクターかも知れないと彼女が言うので、持参したのである。

「後ろ向いてて」

 と言って、彼女はその場で着替え始めた。

「自分が物陰に隠れてもいいんじゃないか」
「それだと、なんかムードが出ないじゃん。やっぱこういうのは大胆にやらなきゃ、絵にならないし」
「変なこだわりだな」

 着替えのかすかな音が無音の空間に響く。無意識に耳を傾けて、頭の中で彼女の下着姿を想像してしまう自分の卑しさを呪った。

 肩を叩かれて、後ろを振り向く。制服姿の小鈴は「お待たせ」と囁き、僕に畳んだTシャツとジーンズを渡した。

「それをわたしだと思って、大事にしてね」

 腕の中の衣服はまだ彼女の温もりを保っているように感じた。それを知覚していることが恥ずかしく、僕は「リサイクルに回しておくよ」と悪態をついて、バックパックの上に置いた。

 小鈴はプールサイドに立ち、こちらを振り向いた。

「無事に戻れたら、小さい透夏に会いに行っていいよね」
「いいけど、それよりも自分と友人たちの事故を止めることに専念して欲しい」
「分かった。怖いけど、ポジティブに考えれば、旅行の計画を中止すればいいだけだし、どうにかなるよ」
「小鈴ならなんとかできそうだ。さよなら」
「さよなら、ねぇ。こういうときは『またね』とかでお別れする方がいいと思うよ。再会のニュアンスがあると悲しくないし」
「一理ある。それじゃ、また」
「うん、またね!」

 小鈴は水面の方にくるりと向き直り、両腕を天に上げた。そして、美しい跳躍で水の中に飛び込んだ。

 しかし、そのあとは以前と違っていた。そのまま消えることなく、じたばたと体を動かし、彼女は浮き上がってきた。その上、水分を吸収した制服が邪魔をして、溺れかけていた。

 僕はその滑稽な姿に笑いそうになりながら、手を伸ばして、彼女を助けた。

「はぁ、はぁ。制服で泳ぐの、無理……。死ぬかと思った」
「ふっ、ははは」
「ちょっと、人が死にそうなときに、なんで笑ってんの」
「思ったより早い再会だったから。さよならの方がよかったんじゃない?」
「意地悪」

 膨れた小鈴は可愛らしかった。彼女をプールサイドに引き上げてから、僕はスポーツタオルを取り出した。

「念のために持ってきておいてよかった。使って」
「大丈夫。もう一回、挑戦してみる」

 そう言って、小鈴は再度プールの縁に立った。さっきとは違い、特に別れの挨拶もなく、機械的にダイブした。

 なんとなく予想していたが、二回目も失敗に終わった。時間を巻き戻したみたいに、溺れかけている彼女をまた助けた。

「泳ぐの苦手なの?」
「うん、カナヅチだから。水着ならギリ溺れないくらいなんだけど」
「それなら、どうして制服で泳ぐなんて無謀なことを。いずれにしても、今日はもう終わりにしよう。単純に同じことをしても駄目みたいだ。何度やっても、きっと同じ結果になる」
「そうみたい。体力的にも三回目はしんどくて無理」

 陸に上がった彼女は、さっき受け取らなかったタオルを僕の手から奪い、顔や頭を拭いた。僕は預かった上下セットを返し、物陰で着替えてくるように言った。彼女はしおらしく、僕から見えない位置まで移動して、着替えを済ませた。

 すでに終電はないので、朝までどこで過ごすか悩ましかった。お互いに実家は近いけど、この時間では帰れない。小鈴の体に染みついたプールの匂いのせいで嫌な顔をされるだろうが、ファミレスとかカラオケとかだろうか。

「どこでもいいから、お風呂に入りたい」
「それなら、ネットカフェにでも行くか」
「ネカフェはシャワーしかないじゃん」
「二十四時間営業の銭湯なんて、この辺にあるのかな」

 検索するためにスマホを取り出そうとすると、急に小鈴が体を押しつけてきた。胸の感触が右腕に伝わった。彼女の大きな目が僕を見つめる。

「……ホテルにでも行く?」
「いや、それはちょっと」

 僕は露骨に動揺し、彼女から目を逸らした。それが彼女の計略とは知らずに。

「ふっふっふ、赤くなってる。ちょろいなぁ。同じ年のように見えても、所詮、七歳年下。今、完全にドキッとしてた」
「してない、断じて。ていうか、なんでこんなこと」
「さっきの意地悪のお返し」

 小鈴は子供のように舌を出した。