今夜の計画を小鈴に相談したのは昼前のことだ。コーヒーを飲みながら、さり気なく話題にした。彼女も同じことを考えていたようで、すんなりと同意が得られた。

 僕はもう一つの提案をした。

「夜まで、時間空いてる?」
「空っぽだよ」
「デートに行かないか」
「……誘ってくれるの、待ってた」

 小鈴は目を逸らして、はにかんだ。その仕草は妙に愛おしく、僕の心を惹きつけた。

 彼女は楽しそうに、以前古着屋で購入した服を着たり、メイクをしたりして、おめかししていた。

 デートと言っても、特別なことをするわけではなかった。上野に出て、ランチを食べてから、美術館へ行った。そのあとは公園を散歩したり、カフェで話をしたり、のんびりと過ごした。とはいえ、今までとは全く別の景色だった。なぜなら、移動中に手を繋いでいたからだ。たったそれだけの違いで、なんでもない日常はかけがえのない時間へと変貌した。

 夕食は家で一緒に食べて、それから出発の準備をした。二十二時前にアパートを出て、中学校に到着したのは二十三時過ぎだった。
 再び足を運んだのは、言うまでもなく過去への帰還を試みるためだ。一昨日の記憶が自然とよみがえるが、お互いに口に出さなかった。

 小鈴は持ってきた制服に着替えた。服装は重要な因子じゃない気もするが、験担ぎも兼ねているのか、小鈴はこだわっていた。

「準備できたよ」
「心の準備もできた?」
「そっちはまだかも。初めて会った夜みたいに、座って話したいな」
「僕もそう思ってた」

 小鈴は七年前と同じく、プールのそばで三角座りをした。僕は片膝を立てて座った。ほんの少し風が吹いていて、心地よい。夏の終わりを感じる空気だ。

「実はまだいくつか不安が残ってるんだ」
「一つずつ解消しよう」
「十二歳の透夏との向き合い方をどうすればいいか悩んでる。透夏は強いから、沢木に負けないでいじめを乗り越えると思う。そう信じてる。でも、いじめられてることを知ってて見放すのはやっぱり嫌。干渉しても、許してくれる?」
「小鈴に助けてもらったら、僕は本当の意味で沢木を克服できないよ」
「自分に厳しいんだね」
「良くも悪くも、あの経験が今の僕の骨格になってるから。とはいえ、気を揉むだろうし、折衷案として、ちょっとだけ力を貸してもらおうかな」
「ありがとう。任せて」
「過去に戻ったら、僕に伝えて欲しい。『七年後に、また会おう』と」
「それだけでいいの?」
「それだけで、僕は生きられる。絶対に」
「頼もしいね。一つ、不安が消えた」
「あとは?」
「昨日の続き。今、横にいる好きな人への気持ちのやり場が分からない。きっと次の夏になっても、何年経っても、ずっと胸の中に残ってる」
「無理に忘れようとしなくていいんじゃないかな。時を隔てても、この記憶や気持ちを共有していれば、僕たちは繋がってる。……あと、昨日言えなかったこと、ここに来たらすっと言葉が降ってきた。今の僕たちは不完全な関係なんだ。まだ、運命を乗り越えていない。小鈴が七年前に帰って、時間の壁を二人で乗り越えられたとき、初めてお互いを完璧に信頼して、理解し合えるんじゃないかと思う。そういう状態を知らないまま、君との恋愛を続けたら、僕は後悔する」
「もっと透夏を好きになれるってこと?」
「そんな気がしてる。僕ももっと君を好きになれるはず。だから、今の関係が保てないのは決して悲観すべきことじゃなくて、きっとステップアップになるよ」
「プラトニックだね。わたしもそういう考え方は好きなんだけど……でも、過去の透夏はその過程を知らないから、わたしの一方的な片想いになったりしないかなぁ」

 遠回しな言い方だったが、小鈴の真意は手に取るように分かった。彼女は年齢の離れた僕との恋愛に不安を抱いている。もしかしたら一緒になれないかも知れない、自分のことを好きでいてくれるのだろうか、と考えているのだ。

 僕は切り札を使うことにした。彼女と僕をめぐる物語の最大の謎、つまりはタイムリープと極夜が発生した理由についての仮説だ。

「ずっと言えなかったんだけど、今だから打ち明ける。小鈴がプールに飛び込んだ瞬間、僕は祈ったんだ。大人への階段を一足飛びして、十九歳になりたいと。この人と同じ年になって、恋愛をして、恋人になれたら……。そんな風に願った。もしかすると、七年前の夏と今年の夏を繋いだのは、僕の願いだったのかも知れない」
「透夏がタイムリープの原因……?」
「うん。さらに言えば、その願いの対価として、夏の光と僕の睡眠が奪われた。そう考えると、極夜も説明がつく」

 最初は驚きの表情を浮かべた小鈴だったが、僕の顔をまじまじと見ると、急に吹き出した。

「気を張ってたのが、いい意味でほぐれた。わたしは信じるよ、『透夏の願い』説。突拍子もないけど、なんかすごくいい。この世界に馴染んでる」
「ありがとう。この話ができて、僕もすっきりした。それで……肝心なのはここからなんだけど、願いが成就したからこそ、分かったことがあるんだ。僕は七歳年上の小鈴を同年代の君以上に愛せる自信がある。何歳だろうが関係なくて、小鈴という存在を愛してる。君が二十六歳になったとき、もし気持ちが変わってなかったら、十九歳の僕と付き合って欲しい」
「……分かった」

 小鈴の瞼に涙が溢れた。そして、彼女は泣き顔を隠すように、反対側を向いた。

「だから、これは二十六歳の小鈴には内緒にしておいてほしいんだけど……」

 僕は小鈴を抱き寄せて、唇を重ねた。彼女も僕を受け入れてくれた。繊細なキスだったが、彼女の中に自分が溶けていく感覚があった。同時に、彼女のすべてが僕の中に満ちていく。真夜中のプールサイドで、僕たちはお互いの一部となった。

「これで運命が変わったと思う」
「胸を張って、旅行中止を宣言してくる」
「行こうか」

 僕は立ち上がり、小鈴の手を取った。彼女は僕を支えにして身を起こし、その勢いで体を預けた。柔らかく美しい髪から、とろけるような香りがする。彼女は僕の胸板に額を当てたまま、呟いた。

「あの日、プールにいた本当の理由、話してなかった」
「気まぐれじゃなかったの?」
「昔、いじめられてた話は知ってると思うけど、そのとき、一度このプールに無理やり落とされたことがあるの。制服のままで。すごく嫌な経験で、今でもたまに夢に出てくる。ちょうど前の夜にも、その夢を見たの。……自分を変えたいと思った。だから、トラウマを克服するために、制服でプールに飛び込もうと考えたの」

 その次の日、小鈴はタニコーと遊ぶ約束をしていた。きっと、彼にアプローチする決戦の日と考えていたのだろう。自分を縛る嫌な記憶から逃れるため、自信をつけるため、彼女は勇気を出してプールと対峙していたのだ。

「一緒に飛ぼう。怖くないように」
「濡れちゃうよ」
「小鈴の不安をすべて拭い去りたい」

 僕たちはプールの縁まで進み、手を繋いで後ろ向きに並んだ。極夜を抱きながら、この夏に別れを告げたかった。

「罰ゲーム、一回残ってるよね」
「そう言えば、昨日間違えたから」
「わたしの言うこと、ちゃんと聞いてね」
「約束する」
「再会の場所は、ヌーベルバーグで」

 最後の言葉を待っていたかのように、風が吹いた。彼女の髪が揺れて、はらりと空中に舞った。それを合図に、僕たちは体を傾け、背中からプールにダイブした。

 水面に体が触れたとき、握りしめていた彼女の手の感触が消えた。水中で彼女がいなくなったことを確認した。

 僕は一人でプールに浮かんでいた。極夜が目の前に広がっていた。あいにく三日月で、夜空を彩る光は心もとない。

 一つだけ、小鈴に言い残したことがある。彼女のおかげで自分の名前が少し好きになれたから、気づいたこと。

 夏を透過させる。僕の名前の意味だ。

 二つの夏を隔てる時間を透かして、繋げた。透夏という名前に秘められた力が作用した結果、不思議な夏のひとときが生まれたのではないか。そんな気がした。

 多分、小鈴にこの話をするのは、二人が再会したときだろう。

 それがいつになろうと、僕は構わない。