アパートに戻る頃には停電が復旧していた。

 警察が来たあと、僕たちは簡易な聴取を受け、日が変わる頃にマスターのワゴン車に乗った。花波は実家の前で降ろしてもらい、小鈴と僕は池袋のアパートまで送ってもらった。

 風呂場で血と汗を洗い流してから部屋に戻ると、先にシャワーを浴びた小鈴がベッドに座っていた。

「今日は一緒に寝よう。一度もないよね」
「うん、寝てないからね」
「寝てない?」
「八月十二日から一回も寝てないんだ。というか、寝ようとしても眠れない」

 心配されるのが嫌だから、これまでは話題にするのを避けていた。今ならいいか、と思ったのだ。

「そんなに起きてたら、死んじゃうんじゃ……」
「普通はね。極夜が実在する世界だから、バグってるんじゃないか。でも、今日は眠れそうだ」
「こっち来て」

 小鈴と一緒にベッドに横になった。体は触れていないが、ほぼゼロ距離なので、彼女を感じる。甘い香りが鼻孔をくすぐり、彼女を抱きしめたいと思う。

 小鈴の手が僕の頭に触れた。怪我をした箇所を優しく撫でてくれている。心が落ち着き、目を閉じていると、意識が夢の中へ溶けてしまいそうだ。

 眠る前に、彼女に伝えておきたいことがあった。

「沢木を見ていて思ったんだけど、因果応報ってあると思うんだ。沢木は犀川や僕、他にも色んな人を傷つけて生きてきた。だから、最後は犀川や僕に足をすくわれた。そのサイクルは善悪に関係なく同じで、小鈴の場合は僕の命を助けてくれたから、未来の自分や友人たちの命を救うチャンスが得られたんじゃないかな」

 小鈴がタイムリープした意味について、帰りの車の中でずっと考えていた。これが一番しっくり来た答えだった。

「ありがとう。わたしも前向きに考えるようにするね」
「おやすみ」
「うん。手を繋いでもいい?」
「いいよ」

 彼女の手を握ると、僕は深い眠りに落ちた。

 久々の睡眠は心地よく、目を覚ましたのは昼前だった。

 小鈴はすでに起床していて、昼食の支度をしていた。初めてのシチュエーションにそわそわしながらも、僕は「おはよう」と言ったきり、口を出さずに料理の完成を待った。

「お待たせ。ちょっとだけ近くのスーパーで食材買い足しちゃった」

 テーブルにビーフシチュー・オムライスが置かれた。見た目も香りも食欲をそそられる。一口、食べてみる。オムライスの卵は口の中でとろけ、ビーフシチューもコクがある。僕の料理よりもはるかに美味しい。

「失礼を承知で言うけど……料理、下手じゃなかったんだな」
「なにそれ! めちゃくちゃ失礼。なんでそんな風に思ってたわけ?」
「いや、いつも僕が料理してたし、苦手なのかなって」
「透夏も料理が好きそうだし、自分の家じゃないから、任せてただけだよ」
「そうだったのか。すごい美味しくて、びっくりした」
「当たり前でしょ。わたし手先が器用だし、中学生の頃から毎日お父さんの分の料理も作ってるんだから」
「言われてみれば。でも、急にどうして」
「それは……なんというか、今日は作ってあげたいと思ったの」

 小鈴は照れながら、オムライスを頬張った。

 午後、僕は病院に行った。小鈴は精神的な衰弱はあったものの、肉体的なダメージは一つもなかった。僕の推測では、犀川が彼女に手を出すことを許さなかったのだと思う。一方、僕の方は一日経過して胸の脇あたりの痛みが増していた。また、頭も打ったので、念のため診察を受けたかった。

 残された時間が迫っているので、一分一秒も無駄にはできない。病院の待ち時間で、僕は最大の謎を解き明かすために知恵を絞っていた。昨晩の事件を乗り越えた今なら、どんな困難もなんとかなる気がしたのだ。

 ある仮説を立ててみた。

 彼女が七年後の未来にワープした理由を「近い未来の自分と友人たちの命を助けるため」とする。次に、七年後の未来で「ある条件」をクリアすると、過去に戻れる。最後に、七年後の未来でクリアした条件により、近い未来の事故を回避する。

 非常にシンプルだが、この図式ならたった一つの謎、すなわち小鈴がなぜか隠し続けている「友達との旅行がなくなる条件」さえ明らかになれば、すべてが解決する。

 そして、この問題については、あとちょっとで突き止めることができそうだ。以前、秋田で条件を予想したとき、小鈴の反応が怪しかった。ハズレと言うまでに若干の間があったし、「惜しかった?」という質問に対して「言わない」と返したのである。大幅に間違っているなら、言葉を濁す必要もない。つまり、「恋」絡みの条件なのだ。そうなると、回答のバリエーションはそれほど多くない。一回間違える度に罰ゲームがあるのはいただけないが、四、五回繰り返せば、正しい答えにたどり着けそうだ。

 待合室で、極夜に関する話題を多く耳にした。停電事件の影響は大きく、一様に否定的な内容ばかりだった。魔法が解けてしまったのだ。極夜は健康に悪い、極夜はエコじゃない、極夜は風紀・治安を乱す、極夜が夏以降も続いたら不安、極夜が世界中を覆い尽くしたらどうなる……。いずれも真っ当な意見や感想だ。いつかこんな日が来るとは思っていたが、夢から覚めた人々の認識のリカバリーは想像以上に早い。このままでは、近日中に極夜への不満、不安が爆発し、社会が混乱するに違いない。

 診察と検査を終えて、帰宅した頃には夕方になっていた。結局、肋骨にひびが入っているだけで、心配していた頭部の怪我も問題なかった。運動を控えるように言われたが、もとより運動習慣はない。

 夕飯も小鈴が作ってくれた。昼間とは打って変わって和食だったが、こちらも毎日食べたいくらい絶品だった。

 僕は例の旅行の条件について、彼女に話をする頃合いを見計らっていた。僕が食器を洗っている間に彼女は風呂に入り、僕もそのあとに入浴した。髪を乾かしたあと、帰り道に買ってきたアイスを食べる流れになり、そこでやっといい感じの間が生まれた。

「あのさ」「あのね」

 声がかぶり、お互いに顔がほころぶ。

「先に話して」
「ありがとう。こっちに来る前にプールで話したときから気になってたんだけど、透夏ってどうして自分の名前が好きじゃないの?」
「ああ、そう言えばそんな会話したな。まだ覚えてる。大した理由じゃないよ。夏以外の季節では肩身が狭いし、女の子の名前っぽいから。当時は、自分がもっと勇敢で強ければ、沢木に屈服しないで済むのにと思ってたから、『男らしくない』という点に敏感だったんだろうね」
「なるほど、納得した。ちなみに、今はもう好きなの?」
「うーん、普通かな」
「それじゃあ、今日から好きになって。わたしも好きだから、君の名前」
「前向きに考えてみる」
「それでね、透夏が病院に行ってる間に、パソコンを借りて、透夏の名前について調べてたんだけど、そのとき同じような名前のイベントを見つけたの」
「そんなのがあるんだ。全然知らなかった」
「奈良の燈花会って言ってね、『ともしび』に『はな』で『とうか』なんだけど、たくさんのろうそくを奈良公園の敷地に並べるんだ」
「いつやってるの?」
「八月の上旬から中旬。だから、今年はもう終わってるんだけど、お家で一緒にやりたくて、ろうそくを買ってきました!」

 彼女はショッパーからろうそくやプラスティックの筒を取り出した。筒の中に水を入れて、そこにろうそくを浮かべる。火を灯して、電気を消せば、準備が終わる。

 柔らかい光がほんのりと僕たちを照らす。小鈴はぼんやりと炎の煌めきを眺めていた。僕はろうそくを見るふりをして、彼女に見入っていた。

「綺麗だね」
「うん」
「名前の響き、少しは好きになった?」
「あっ、そのためにやってくれたんだ」
「まあね。自分の名前は親がくれた宝物なんだから、大切にしなきゃ」
「ありがとう。好きになれそうだ、僕の名前」

 彼女は満足そうに笑った。そして、僕の目をじっと見つめた。

「いい雰囲気だから、センチメンタルな話をするね。本音を言うと、もっとここでの時間を過ごしたい。せっかく仲良くなれたのに、離れ離れになるのは悲しい。十九歳の、わたしと同じ年の透夏といっぱい思い出を作りたかった。だけど、色んな人に迷惑をかけるのは嫌だから、もし方法が分かったら、わたしは元の時代に帰ると思う。そこまでは気持ちの整理ができた。ただ、一つだけ、どうしても断ち切れない感情が存在するの」
「……なに?」
「この世界の透夏への恋愛感情。……だって、今の二人の関係性はここだけのものだから」
「確かに、七年前に帰れば、関係性は変化する。僕は子供で、小鈴は七歳年上だ。また七年が経てば、僕は今の僕になるけど、君は二十六歳。どんな仕事をしてるんだろうな」
「嫌じゃないの?」
「僕だって、今の小鈴と会えなくなるのは辛い。頭の中の半分は、このままの生活が続けばいいのにと思ってる。でも、もう半分は、やっぱり過去へ戻る方がいいと考えてる。一応弁解しておくと、このまま極夜が続いたら世界が終わるかも知れないけど、それは別に本質的な理由じゃない。一介の美大生の僕には問題が大きすぎるし、証明もできないし、本当のところはよく分からない。ハナから非現実的なことが起こっているんだから、何事もなく世界が続いても変じゃない。だから、もっと違う理由なんだ。さっきの話……この世界の君と僕の恋愛感情をどう発散、清算するか。その答えにも繋がりそうなんだけど、今はまだ上手く言語化できてない」
「わたしも考えてみる。それだけが心残りになりそうだから」

 そう言うと、小鈴はパッと明るい表情に変えた。

「透夏はなにを話そうとしてたの?」
「前に秋田で話した、友達と旅行に行く条件のことだけど、もう一度チャレンジしたい」
「いいよ。分かったの?」
「確証はないけどね。旅行に行かない条件……夏が終わるまでに、仲間内の誰かが片想いの相手とのデートに成功する」
「惜しいけど、違う。確かに、わたし含めて四人のメンバーはみんな奥手なんだけど、デートは流石にクリアできるかな。もうちょっと難易度の高い設定」
「『彼氏を作る』で駄目だったから、ハードルを下げたんだけど、上げるべきだったのか。じゃあもうあれか、キスするとか」
「あっ、なんか投げやり」
「ごめん」
「正解……」
「えっ? 当たってた?」
「うん。夏休みに入る前、四人とも片想いをしてる相手がいて、ちゃんと行動を起こすために、目標を立てたの。それで、一人でも成功したらその子のためにお祝いパーティーを開く、みんな残念な結果に終わったら傷を舐め合いつつ旅行で忘れちゃおう、というわけ」

 小鈴が片思いしていた人はもちろんタニコーだ。彼といい関係になり、キスをする。それが旅行を中止する条件だった。

「一応、正確な条件を聞いてもいい?」
「八月の終わりまでに、好きな人とキスをする」
「……それなら」

 僕は八月最後の日に、一か八かの勝負に出ることを決心した。