店の中には、非常用の懐中電灯を持ったマスターがいた。開店前だからかヘアスタイルもセットされていないし、私服姿なので、普段よりも若く健康的な印象を受ける。

「透夏さんですか。停電が起こったみたいで」
「街中の電気が止まっています。沢木のせいで」
「……沢木のせいって、どういうこと」

 後方から、マスターの返答を遮って、到着したばかりの花波の声が聞こえた。

「フェイクニュースを利用して、人為的に大停電を引き起こしたんだ」
「そんなこと可能なの?」
「僕も半信半疑だったけど」

 沢木はライブ配信を予告したあと、犀川のツイートを引用リツイートする形で、「これ面白い。みんなでやろう。ありったけの光を!」と投稿していた。犀川の方は「反対派の企画には私たちも全力で乗っかるのが正解だと思う。反対派の楽園の先に、私たちのゴールが待ってる」という内容だった。企画とは今日拡散されていた話題だ。日本中で一斉に光をつけて、この夏一番明るい瞬間を生み出すというもの。これは岡田兄弟のツイートが起点となっている。

「さらに、岡田兄弟のアイデアの成り立ちに、午後から突如広まり始めたフェイクニュースが絡んでいる」
「あっ、私も見た。電力が無料になるってやつでしょ」

 極夜は九月以降も続くため、電力の供給の限界を調査する目的で、今日の夕方の時間帯だけ試験的に電気料金が無料になる。サンプルとなる一部の人にしか電力会社から通知されていないが、実際は誰もが無料の対象だから、積極的に電気を利用するのがお得(利用しないと損をする)である、という情報だ。

 個人的には見た瞬間に嘘だと思い、一笑に付してしまった。しかし、フェイクニュースは恐ろしい。全員が信じなくてもいいのである。何割かの人が信じさえすれば、効果を発揮する。

 要するに損得の話なのだが、デマが伝播するにつれて、「みんなで調査に協力しよう」という文脈に置換された。これにより、人々の罪悪感がなくなる。そこに、岡田兄弟が行動を促すきっかけを投下した。どうせタダなのだから、面白く電気を使おう、と。流言が火種だとすると、彼らの提案したイベントは着火剤だ。

「順序としては、フェイクニュースが流れる。そこに反対派が便乗する。反対派の企画がバズったから、今度は推進派がその状況を利用する。つまり、『供給の限界を超えて電気を使用し、停電を起こそう』と煽動したんだ。結果的に、犀川と沢木のツイートは爆発的に拡散されて、シンパは大量の電気を使った」
「たまたま連鎖したの?」
「いや、これは人間の情報網というインフラを巧妙に使ったテロリズムだ。そもそも極夜は常に電気の需給バランスが需要の方に傾いている。昼も電気をつけっぱなしなんだから、当然だ。そこに沢木は目をつけた。フェイクニュースを流し、反対派へ送り込んだスパイに一斉点灯の企画を提案させる。岡田兄弟が乗れば御の字だし、乗らなければ反対派の別のインフルエンサーに話を持ちかける予定だったのかも知れない。いずれにしても、兄弟は乗った」
「そんなに都合よく転がるものなのかな」
「……というのが沢木側の視点。真相はさらに別のところにあるんだ。だけど、ごめん。それはいずれ明らかになるから、今は先にもっと大事な相談をしたい」
「小鈴さんのこと、なにか分かったの?」
「沢木から電話がかかってきた」

 僕はさっきのやり取りを手短に共有した。小鈴の状態や、犀川と僕の関係についても。花波は話を聞きながら、怒りに震えていた。
 そして、現在の最優先事項は沢木の居場所を特定することだと話した。

「とにかく情報を集める必要がある。通信環境はまだ生きてるから、花波には沢木と犀川を中心に推進派幹部の動向を調べて欲しい。マスターは停電に関する情報を。僕はタニコーに連絡してみる」
「確かに、彼の発信力は役立つかも。でも、そんな友好な関係じゃないでしょ?」
「うん。今日も一度物別れに終わってる。だけど、諦めないで相談してみるよ」

 そう言って、僕は店の外に移動する。花波やマスターに話を聞かれるのが恥ずかしかった。街は停電のせいでざわめいているので、電話の声もかき消されるだろう。

 大規模停電が起こっていても、携帯電話はつながった。携帯キャリアが保有する予備用電源が使われているのだろう。タニコーはすぐに電話を取った。状況が状況だけに、不機嫌な声だった。

「こんなタイミングですみません。小鈴が沢木勇吾にさらわれたんです」
「……詳しく話してくれ」

 僕は沢木の忌々しい発言にも触れながら、一時間前の出来事を克明に伝えた。タニコーが沢木に対して強い憎悪を抱くように。

「沢木はこのあと二十二時に、生放送をします。そこに小鈴を出演させるつもりなんです」
「いかれてるな」
「だから……」
「俺に協力しろ、ということか。沢木を見つけるために」
「お願いできますか」
「今日、言ったよな。俺はライバルと手を組むのは性に合わないって」
「それは分かってます。だけど、お互いが単独で行動しても、小鈴を救えないかも知れない。そもそも彼女がいなければ、僕たちのライバル関係は成立しないんです。今は敵じゃないんですよ」
「詭弁だな」
「僕からすれば、意地を張っているようにしか見えない。沢木は簡単に小鈴を蹂躙しますよ。僕たちが七年間、追い求めてきた人を」
「七年間か……。長かったよな」
「途方もなく。だから、沢木なんかに彼女を奪われるのは耐え難い」
「同感だ」
「意見が一致しましたね」
「君は意外と芯が強いな。少し時間をくれ。また連絡する」

 明言はしなかったが、タニコーは理解してくれたようだった。

 五分後、彼のXの投稿を発見して、胸が熱くなった。恥を忍んで、世の中に発信してくれたのだ。誰にでもできることじゃない。彼の小鈴への愛情をひしひしと感じた。

Koji Tanimura @koji_rakujitsu・30秒
沢木勇吾の居場所を知っている人はDMを送って欲しい
大切な人を守るために

 まさに僕がお願いしたい内容だった。彼の影響力なら、有益な情報を得られる可能性は十分にある。またたく間に、凄まじい数のリポストが行われ、彼の要請はネット上を駆けめぐった。

 店内に戻ると、花波が携帯を片手に、涙目で言った。

「今、見た。説得できたんだね」
「小鈴のために、身を削ってくれた。情報を掴んだら、シェアしてくれると思う」

 タニコーからの連絡を待つ間、二人がそれぞれ調べたことを教えてくれた。

 沢木と犀川の二人については全く収穫がなかった。些細なことでも発信しないように、取り決めているのだろう。他の幹部のSNSも同様だった。

 推進派のメンバーや、思想に共鳴している人たちは停電を喜び、騒動を楽しんでいるが、無自覚に沢木の計画へ加担しているだけにすぎない。無邪気な集団だ。

 停電の範囲は東京だけでなく首都圏に及んでいた。医療機関、交通機関など各種インフラへの影響も避けられそうにない。根本的な復旧には時間がかかりそうだった。

 二十時十分、タニコーから電話が来た。

「大量に連絡が来たから、処理に手間取った。いたずらも多かったけど、別々の人から、同じ情報があった。どっちも以前から俺のXをフォローしてるし、捨てアカウントじゃない。それぞれが繋がってる感じもしないから、賭けるに値すると判断した」
「助かります。そこまで丁寧に調べてくれて」
「今日の夕方、東京と千葉の境で見かけたらしい。小鈴の地元の近くだよな」
「……はい。沢木の、そして僕の。思い当たるところがあります」

 僕は彼に例の中学校の場所を教えて、電話を切った。間違いない。沢木はあのプールで動画の配信を行うはずだ。小鈴との共演において最もふさわしい、象徴的な舞台。そうでなければ、千葉にいる理由が見つからない。

 以前、沢木から小鈴とどこで知り合ったのか質問されたことがあった。あのときは適当にはぐらかしたが、あらためて彼女を脅して聞き出したのだろう。

「沢木たちは千葉にいる。小鈴と僕が出会った中学校だ」
「早く行こう。でも、電車が停電で動いてないかも」
「少し待っていてください。急いで車を取ってきます」

 マスターは颯爽と店を飛び出した。信号も消えていたので、交通網が麻痺している可能性も否めない。車での移動が難しいケースに備えて、家に戻り、自転車を持ってきた。

 僕とマスターはほぼ同時にヌーベルバーグに到着した。幸いなことに、自転車を運びやすいワゴン車だ。

 花波が助手席に、僕は後部座席に座った。配信のスタートまで、あと一時間半。移動中、僕は白井亮に一件のメッセージを送った。沢木の連絡先を教えてくれた、小中学校時代のたった一人の友人だ。彼は簡潔に「了解」と返信をくれた。

 京葉道路は渋滞が発生していたので、一般道を通った。途中までは順調だったが、荒川の手前で三つ前の車両が交通事故を起こした。

「迂回してもなんとか間に合うとは思うんですが、仮にもう一回事故に遭遇すると、絶望的ですね」
「ここからは自転車で行きます」
「その方が安全そうです。追いかけます」

 僕はクロスバイクに乗り換えて、全速力で橋を渡る。千葉に入るためには、新中川と江戸川を越える必要がある。配信開始の間際には到着できる見込みだ。

 ペダルを漕ぎながら、今日の沢木の行動を整理する。まず、沢木(というか、手下も含めた彼ら)は僕のアパートを見張り、小鈴が一人で出てくるのを待った。おそらく小鈴は僕とタニコーの会話を聞くために、外に出たのだと思う。彼女を無理やり車に押し込んでから、そのまま千葉へと向かった。そして、ホテルか沢木の実家を根城にして、小鈴を拘束した。僕と電話したあと、沢木は外に出たりしたが、基本的には近場にいて、停電を待った。停電の発生時刻は予測不可能なので、先に千葉へ移動しておくのが妥当だ。

 停電は依然として復旧せず、街は闇の中に溺れていた。一部、明かりが灯っているのは、自家発電や蓄電池などの設備がある病院や施設だ。

 目的地に近づいてきたので、気持ちが焦ったのかも知れない。ただでさえ暗闇で危ないというのに、僕は必要以上にスピードを出していた。そのため、曲がり角でマウンテンバイクと衝突した。

 相手は若く体格のいい男性で、奇跡的に無傷だった。その点はよかったのだが、僕の方は二人分の怪我をした。勢いのあまり激しく吹っ飛び、コンクリートに頭と体を強打したのである。腕や膝、額からも大量に流血していたが、意識が朦朧として痛みを感じなかった。ただ、さっぱり力が入らない。

 一番の問題は自転車の故障だ。前輪がひしゃげてしまい、乗り物としての機能を失っていた。中学校まではもう少し距離がある。負傷したこの足で歩いたら、配信が終わってしまう。

 それでも立ち止まっていたら、小鈴を助けることはできない。僕は壁を支えにしながら、一歩一歩前進した。

 時間の感覚も失っていた。五分以上は歩いただろうか。僕はよろめき、道路に倒れ込んだ。同時に、後方から強い光を浴びた。その瞬間だけは頭が回り、車に轢かれて死ぬのだろうと思った。

 しかし、車は僕の背後で急ブレーキをかけて止まった。ドアを閉める音が聞こえて、それから、馴染みのある声がする。

「こんなところでなにやってるんだ。ていうか、ボロボロじゃないか」

 タニコーの顔を見て、僕は安堵した。

「乗せてください。まだ間に合う」

 彼の肩を借りて立ち上がり、BMWに乗車した。

 車は夜の街を駆け抜け、あっという間に中学校に到着した。わずかな時間だったが、呼吸を整えることができた。

 僕たちは裏手から校内に入り、プールへ進んだ。じわじわとアドレナリンが出てきて、意識も肉体もさっきより随分とマシになった。

 二十二時三分。予定の時刻は過ぎていたが、まだ配信は始まっていなかった。プールサイドに、三人の人影を発見する。最小限の人数に絞ったようだ。彼らの脇には撮影補助のためと思われるライトが置かれていた。

 犀川がカメラを持ち、沢木と小鈴が被写体として並んでいた。小鈴の表情には生気がなく、なんとか立っているように見えた。

 沢木がスタートの合図を出すと同時に、僕は力いっぱい叫んだ。

「やめろ!」

 タニコーと一緒に彼らに近づくと、沢木は僕であることに気づいて、高笑いをした。

「よく来たな、おい。しかも人気アーティストまで同伴で」
「配信を始めたら、お前らの謀略をすべてぶちまける。大停電のからくりも全部」
「……スタートを三十分遅らせろ」

 沢木は犀川に指示を出してから、僕を睨みつけた。

「いい加減にしろよ。お前ら二人なんて、この場で殴り殺せるんだぞ。消えろ」

 僕が言い返そうとすると、タニコーが先に割り込んだ。

「物騒だな。そんなことより、さっさと小鈴を返せ。そのあとに、配信でもなんでもやればいいだろう」

 沢木は恐ろしい剣幕でタニコーに詰め寄ろうとした。
 そのとき、別の方角から声が響いた。

「谷村幸治に同意する。その女なんてどうでもいいだろう。沢木勇吾、お前は俺たちと対峙する義務がある」

 姿を現したのは、岡田兄弟だった。声の主は兄の公教で、彼はさらに続けた。

「そっちの方が配信も盛り上がるんじゃないか? 格闘技の実績で無敗のお前が、俺たちに完膚なきまでに敗北する姿を視聴者は望んでるはずだ」
「あのさぁ、ひ弱な東大生さん。俺はさ、勝ち負けに対する熱量が一般人とは桁違いなんだよ。俺が負ける……? ありえないだろ」
「じゃあ、早速一つ、負けを与えてやる。どうして俺たちがこの場所にいると思う?」
「GPSでも仕掛けたんじゃないのか」
「違うな。もっと単純な答えだ」
「……お前か、犀川」

 沢木に視線を向けられた犀川は、蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。

「そういうことだ。彼女がスパイだった」

 と、公教が代弁する。沢木は彼の方を見ずに、犀川へ圧力をかける。

「お前自身の口で話せ。いつからだ」
「あなたが推進派に乗り込んできたときから。悪魔に屈するくらいなら、思想なんていともたやすく捨てられる」

 彼女の唇は小刻みに震えていた。またもや公教が助け舟を出した。

「自分が全体を掌握し、コントロールしていると思ってたんじゃないのか。反対派の活動を利用して日本中にパニックを起こし、お前はさぞご満悦だったと思うが、実際は俺たちの手のひらの上で踊ってたんだよ。停電のシナリオは俺たち兄弟が考えて、犀川からお前に提案させた。まさか推進派の提唱者自らが裏切るなんて思わないよな」

 停電に至るプロセスの中で偶然に委ねられていた部分、反対派が一斉点灯の企画を盛り上げることさえも出来レースで、最初から決まっていたということになる。ある意味、大停電は両派の共同作業で引き起こされたのだ。その絵を描いていたのは沢木ではなく、岡田兄弟だった。

 ここまでは僕も推理していた。しかし、実を言えば、犀川の正体は見抜けなかった。沢木に助言したスパイは別の幹部の誰かだと考えていた。沢木を裏切るのが怖いと言った彼女を信じていたからだ。

「それでお前らになんのメリットがある。俺の負けということにはならない」

 沢木は冷淡な顔で言った。余裕がなくなり、雰囲気が変わった。逆境に強い男だ。コーナーに追い詰められると、相手の油断を狙ってカウンターを打ち込むタイプ。普段は粗暴な一面が目立っているが、内側に潜む冷酷さこそが彼の最も危険な要素であり、本質だ。いじめを受けていたときもそうだった。

 敵の変化を察知したのか、弟の陽が口を開いた。 

「俺から話そう。今回の停電の原因がフェイクニュースに端を発していることはすぐに明らかになるだろう。その後の反対派、推進派それぞれの活動が影響したことも。この仕組みのポイントは責任が分散していることだ。悪ノリは社会的に咎められるが、それだけ。刑事罰が科されるのはフェイクニュースを流した人間だ。だから、お前はトカゲの尻尾切りをすればいいと思っている」
「当たり前だ。その手筈も整っている」
「だが、もしこれが一連の計画であるという証拠が見つかったら、話は別だ。」
「そんなことをしたら、お前らの仲間になった犀川も道連れになるぞ」
「ふふっ。頭が悪いな。道連れになるんじゃない。彼女がお前を道連れにするんだよ。他人を甘く見てるから、彼女の気概を見誤ったんだ」
「なるほど」
「世間から見れば、今回の騒動の首謀者は沢木、犀川という二人の推進派の幹部ということになる。当然、推進派は凋落するだろう。それはすなわち反対派の勝利を意味する」
「自分たちの手は汚さず、犀川一人に泥をかぶせて」
「勘違いされたら困る。彼女自身が望んだことだ」
「……お前、医大生なんだっけ?」
「それがどうした」
「俺と戦うなら、お医者さんになる勉強じゃなくて、もうちょっと社会の勉強をしないとな。推進派はただの道具で消滅しようが関係ないし、俺は逮捕されても無傷だ。元々半分アウトローな人間なんだよ、こっちは。捕まっても、それをネタにする。で、這い上がったら、お前ら兄弟、犀川を締めに行くよ。中途半端な覚悟で俺を敵に回したのが間違いだったな。俺とやるときは息の根を止めるつもりで来い」

 沢木の迫力に気圧されたのか、陽は一度深呼吸をした。自分のペースを守るための工夫だろう。

「さっきも言っただろう。他人の覚悟を見誤るな、と」

 あくまで強気な発言だった。僕はふと以前ヌーベルバーグで彼が言っていた言葉を思い出す。

―もう仕込みは終わっている。……自滅させるんだ

 要はまだ切り札を隠し持っている。とはいえ、感覚的に、次で最後の応酬になる予感がした。

「すでにいくつかの週刊誌の記者、ライターを囲っている。彼らに諸悪の根源がお前だと情報を流す。犀川彩葉に生贄になってもらって。お前が彼女にした性暴力の事実を明らかにすれば、彼女がマインド・コントロールされていたという風潮は簡単に作り出せる。いくらお前がアウトローだとしても、社会は性暴力加害者を認めない。格闘家にしても、YouTuberにしても、人気稼業への再起は不可能だ。永遠に暗い世界で生きるんだな」

 彼は勝ち誇ったように言った。沢木は次の一手を考えているのか、沈黙していた。そろそろ潮時だ、と僕は思った。

「それはどうかな。沢木が痛い目に遭うべきなのは言うまでもないけど、あなた達兄弟も十分に悪人だし、勝者を気取られても困る」
「脇役がしゃしゃり出てくるな」

 と、公教が怒鳴った。僕は彼を無視して陽に話しかける。

「沢木よりも先にニュースになるのは反対派のリーダー、岡田兄弟だ。昨日の夜、僕は偶然あなた達と同じカフェにいた。そこで、会話を盗み聞きし、同時に携帯でその様子を録音させてもらった。僕の父はテレビ局の報道記者だ。その音声データとともに、今回の停電の顛末を推理した内容を彼に送った。そしたら、さっき返信があったんだ。どうやら父は僕を信じてくれたようで、スクープとして出すことを約束してくれた。前代未聞の停電事件はインテリの双子の手によって計画されたものとして世の中に出回る」
「昨日話したことならよく覚えている。あの程度の内容で証拠だと言ったら、お前の父親が恥をかくだけだ」

 陽の反論は織り込み済みだった。

「分かってる。だから、さっきのやり取りも全部、記録させてもらった。で、今、データの送信が完了した。ちなみに、保険のために、父だけじゃなくて、僕の友人にも送ってる。仮にテレビ局とか政治家とかに強いパイプがあって、報道を強制的に止められたとしても、そのときは僕の友人が音声を編集して、情報を拡散してくれる。沢木もあなた達も、悪いけど犀川も、全員が敗北したんだよ」

 僕はさっと全体を見回す。陽と公教の顔から降参の意思が読み取れた。犀川も同様だ。しかし、沢木だけはまだ戦いの舞台から降りていなかった。

 沢木は小鈴の背後に回り、片手で力任せに抱き寄せた。いまだ放心状態の小鈴は抵抗することもできずに、されるがままだった。彼女の細い首元に、沢木の筋肉質の腕が絡み、今にも呼吸が止まりそうだ。

「それなら、世界中が完全に闇に包まれるまで、この女を連れて逃げるまでだ。世界を破滅させる女との逃避行。そこの馬鹿兄弟はずっと勘違いしているが、最初から後先なんて考えちゃいない。スリルを感じる、楽しむ、俺の目的はそれだけだ」

 吹っ切れた沢木は狂気に満ちていた。

 突然、タニコーが僕の背中をつついた。沢木から見えないように、サインを送っているのだ。彼は小さな声で「行くぞ」と言った。

 僕たちは同時に飛び出して、小鈴を救出しようとした。沢木に腕力でかなわないのは明白だが、片手が塞がっている状態なので二人でかかればどうにかなるかも知れないし、他に手立てもなかった。

「動くな! こいつを殺すぞ。力を加えれば、この女の首をへし折ることもできる。不用意に近づくなよ」

 沢木の脅しにより、僕たちは足を止めた。小鈴を人質に取られていては、なにもできない。唯一とも思える作戦は失敗に終わった。

 膠着状態が一分ほど続いた。沢木は逃げる算段を考えているのだろう。

 背後から、誰かが走ってくる足音が聞こえた。最悪のタイミングで、花波とマスターが到着したのだ。

 事態を把握していない花波は大声で叫んだ。

「小鈴さんを離して!」
「うるさい、黙れ!」

 沢木に凄まれても、彼女はひるまなかった。

「黙らない。小鈴さん、そんな奴に負けないで」
「この女に話しかけても無駄だ。残酷な黒羽のせいでこの有様だからな」
「どういう意味?」
「自分が厄災の鍵だと知ったら、ショックを受けたんだよ」
「あんた、なんにも分かってない。……小鈴さん、聞いて。透夏はあなたのために黙ってたんだよ。不安にさせたくないから。この夏ずっと一緒にいて、そんなことも分からないの」
「……」

 小鈴は彼女と目も合わせずに、黙ったままだった。

「ちゃんと聞いてるの? 私の好きになった人と、しっかり向き合って!」

 花波は怒声を上げた。薄暗くてよく見えないけれど、彼女が泣いていることは確かだった。

 僕はある異変に気づいた。それは花波が生み出したわずかな勝機だった。この状況を打破するためには、こっちから仕掛けるしかない。

「沢木、お前、女性に愛されたことないだろう」
「調子に乗るなよ」
「小鈴を連れて逃避行? 笑わせるな。自分のことを好きでもない人と一緒に逃げ回って、なにが楽しいんだ。愛を知らないお前は、自分が馬鹿にしてる人たちよりもずっとつまらなくて、哀れな人間なんだよ」
「……我ながら反省してるよ。ガキのとき、きっちり自殺に追い込んでおくべきだった」
「お前が反省すべきなのは、僕なら難なく支配できると過信していたことだ。こっちはお前のトラウマなんて、とっくに克服してるんだよ!」

 僕の挑発は沢木の心を乱すことに成功した。そのとき、彼は僕に殴りかかろうとして、小鈴を抱える手を緩めたのである。

 その一瞬を小鈴は見逃さなかった。彼女は初めて沢木に出会ったときと同様に、彼の頬を殴りつけた。唐突な一撃に、沢木は体のバランスを崩した。

 花波の声は届いていたのだ。彼女の想いは友人の魂を震わせ、再生させた。小鈴の目に生気が戻ったのを、僕は見逃さなかった。

 小鈴は僕たちの方に走り出した。沢木も少し遅れて憤怒の形相で追いかける。

 僕の胸の中に、小鈴が飛び込む。反射的に、両腕で彼女を抱きしめる。

 沢木が僕の顔面に向かって、拳を叩き込もうとしたそのとき、彼の体が宙に浮いた。そして、猛烈な勢いでプールサイドに頭を打ちつけた。

 僕たちの前に立っていたのはマスターだった。彼はこちらを振り向いて、微笑んだ。

「以前、実業団で柔道をやってたって、言いましたよね」

 マスターは倒れたままの沢木を一瞥し、つけ加えた。

「体格があまり変わらないから、一本を取れたのは偶然でしたけど。脳震盪を起こしているようなので、救急車と警察を呼びましょう」

 彼の言葉は、長い一日がようやく終わりに向かって進み始めたことを感じさせた。

 花波が小鈴を介抱し、マスターは岡田兄弟と犀川が妙な動きをしないように見張っていた。

 僕は疲れと安心が一気に押し寄せ、倒れ込んでしまいそうだった。

「今のうちに、座って休んでおけよ」

 タニコーに声をかけられ、僕はプールサイドにすとんと腰を下ろした。

「君の勝ちだ。小鈴は君を選んだ」
「まだ決まってないですよ」
「沢木から逃げ出したとき、彼女は君に飛び込んだ。それが証拠だ。自信を持てよ」
「ありがとう……ございます。協力してくれて」
「それと、小鈴を過去に戻すとかいう話。力になりたいんだが、正直、全く心当たりがないんだ。申し訳ない」
「もう少し頑張ってみます」
「成功したら、一緒に祝杯をあげよう」

 僕はプールを見つめながら、頷いた。

 残り二日の間に、またこの場所に来ることになるのだろう。